だれでも、キリストと結ばれる人は、新しく創造された者なのです。 |
じ新しい年を迎えて | 信仰の杖 | キリストが来られた目的 |
聖書における詩の力 | 神の栄光と力―詩篇29篇 | 自民党の圧勝の現実 |
編集だより | お知らせ |
私たちは誰でも何か新しいものを求める。古いものが好きだ、という人もそこに永遠に新しい何かを感じるからである。新しい―それは、時間的に新しいということと、時間にかかわりのない新しさを感じさせるものとがある。
前者は、毎日の新聞やテレビなどの新しさであり、インターネットのニュースはその最たるもので30分前の出来事がもう配信される、というほどである。
そうした人々の時間的な新しさへの求めに答えようとしている。 そしてそのようなことは、次々果てし無く新しいことは生じてくる。天気予報や強風、雨や雪などの自然現象、政治、社会的な出来事、事件…そうした新しさを求めていくことはいくら追いかけてもきりのないことで、そこには平安や新たな力を与えられるということはないし、 愛が増えたり、正義への力が増大するとか真実への感覚が鋭くなるなどといったこともない。
むしろ、そうした世の中の数々の現象を追いかけていくだけでは、私たちは、愛や真実などを失っていくことが多い。
そうした出来事はほとんどが、そのような善きものに関することでなく、不正や悪、混乱、あるいはお金の問題であり、またはスポーツのように、誰が一位になったかという強者第一の内容だからである。
そのような時間的新しさとはまったく別の新しさがある。
それは、真理が与える新しさである。変ることのないものは、それゆえに感じ取ることのできる人にとっては、常に新しいものをそこから注ぎだし、あるいは放射し続けていると言えよう。
そのような真理そのものの新しさを目に見えるかたちで実感させるものとして、夜空の星や青空、白い雲や風にそよぐ木々の葉の音などがある。川のほとりに立ってその流れを見つめるとき、何百年も同じような流れであるのに、何かそれは私たちの心に新たなものを語りかけてくる。言葉にならないメッセージを送ってくるのである。
星の輝き、それはまったく千年経っても同じものであるが、それにもかかわらず、心開いて見つめるときにはそこから常に新しいものを感じ取る不思議なものである。
それは自然のさまざまなものがそうした特質を持っている。野草、とくに高い山々に咲く花などは、とりわけそのような趣がある。
そうした時間に関わりない新しさを内に持っている書物がある。それが神の言葉たる聖書である。神こそは永遠に新しく、すべてを創造しまた支えている。万能であり、愛であるゆえに、私たち弱きもの、苦しむ者に、心から求めるときには、新しさを感じ取る力を私たちの内に新たに創造してくださる。
罪を犯して赦しを受けない魂は、古びていく。力を失っていく。私たちはあるべき姿を示されるのに、それに従えない自分というものを思い知らされる。とくに大切な時や場面において適切に語り、なすことができなかったときには、私たちの魂を重く沈める力が働く。そして自分がいかに弱いものであるかを知らされる。
そのようなときにその不十分さ―罪の赦しを受けるときには、という新しい心を与えられないかぎり、私たちの心は古く力なきものとなっていく。
聖書は、単なる本でない。それは万物創造という無限の力を持ったお方の言葉である。力である。また私たちへのメッセージであり、私たちの魂に吹き込む風である。また乾いた心を再生させる水である。
3000年も昔の詩人がそのことを述べている。
憩いのみぎわに伴い
魂を生き返らせてくださる。(詩篇23より)
神は愛である、そして神は全能でありいまも万物を支え新たにさまざまのものを生み出している。春になると新たな芽を出させ、愛は何よりも新しさを実感させる。
古い戒め、古くから言われていることであっても、それは永遠に新しい内容を持っているのは、神の愛を受け、その愛によって見るとき、さまざまのものが新しい意味をもって迫ってくるからである。
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。(ヨハネ 13の34)
愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。
しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。
主イエスが言われた、「あなた方の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」という言葉は、初めて知ったときにはだれもが驚く言葉である。神の愛を受けたときには敵対するものすら、新しい意味をもって迫ってくるということであり、敵対する者たちへの祈りは、友人たちへの愛とは異なる力が要求される。そしてそこで与えられた敵対するような人への愛は、だれも歩いたことのないような道を歩くかのような新しいものを感じさせる。
古い自分ではそのような道を歩くことはできないからである。それは冬の厳しさのなかに咲く花のようなものだ。
自分を大切にしてくれる者を愛することは、一般の動物にも見られる。それゆえそのような愛にとどまる限り、神からの十分な祝福を受けることができない。そのことを主イエスは、つぎのように言われた。
…あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。
兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。
そのようなことは異邦人でもしているではないか。(マタイ5の46〜47)
取税人とか異邦人が出てくるのは、彼等が当時のユダヤ人から汚れているとして見下されていたからであった。そのようにあなた方が見下している人たちでもできる、だれでもできるということを当時の人にとってわかりやすく言われた。
古くて新しい戒め、言い換えると永遠に新しい神の言葉が、「互いに愛し合え」という内容を持っているのである。それは人間的な愛でないことは、この言葉のすぐ前に、「私があなた方を愛したように」と言われていることからも分る。キリストが私たちを愛したその愛は、罪深き者であり、キリストに背を向けているような者に対しても、自らの命を捨ててまで愛されたことであった。
神からの愛が永遠に新しいものであるのは、神ご自身であるから。それゆえに新しさをも感じさせるし、神の力もそこに宿っている。人間の愛でも、それが情熱的なものであれば、たしかに一時的ではあっても、それまで何の関心もなかったようなものでも何か新鮮なものを感じさせ、力を与えるものである。
だから、そのような影のような愛でなく、本当の愛ならばどんなにか私たちに新鮮な心と力を与えられるだろう。40年以上も前、ヒルティの本のなかに、「愛するときには力が与えられる」とあって意外に感じたから今なお記憶にある。ふつうは、真剣に愛したら自分の力を与えることだから、力が抜けていくように感じるのでないかという感じを持っていたからである。たしかにその側面もある。主イエスが、出血の婦人病をわずらっていた女性が、イエスの人間を超えた力を深く信じていたゆえにその服にでも触れたらいやされると信じていた。じっさいそのようにして群衆のなかからイエスに近づきその服に触れたとき、その女性の長い苦しみであった病気がいやされた。そして主イエスは、私から力が出て行った、と言われた。
しかし、私たちが敵対する人をも愛そう、祈ろうとするとき、それは神に近づかなければできないゆえ、おのずからそのように祈る魂は神に近づき、神からの新たな力を得るのである。
新しい年の力、私たちはどこから得るのか、聖書によれば自分の決心とか他人の考え方でなく、神からの愛を受けよう、そしてその愛を用いようとするときに新たな力が与えられるのだと分る。
歩くのに杖など使ったことがないという人は多いだろう。若いときには4本足、大きくなったら二本足、さらには3本足になるものは何か、それは人間だというクイズをどこかで聞いたことがあるだろう。
老人でなくとも、登山のときに杖があるととても助けとなるのは、ずっと以前からよく体験していた。重い荷物をかつぎ、足が痛くなってきた状態で長距離を歩き通さねばならないということもあったが、そのときに杖があったので、なんとか歩き通せたということもあった。
困難な状態ほど、杖のありがたさが痛感される。
11月下旬に、裏山の小さな谷に落ちて足の怪我があり、歩けない状態となった。そのとき、時間はかなりかかったが何とか家まで帰れたのは、ひとえに近くにあった二本の木(一つは枝分かれして松葉杖状)を杖として片足で少しずつ歩けたからだった。
それ以後、室内でも杖が不可欠、家からは一週間ほどは出られなかった。その後もしばらくは杖は不可欠となった。
歩けない状態でも、杖があれば歩ける、杖にすがって動く―ここから聖書に現れる杖のことを思いだした。
モーセは、羊飼いとしての静かな生活をしていたが、神からの命令を受け取り、どうしても神の言われるような大仕事―イスラエルの民をエジプトから救いだす―ということはできないと拒んだが、さらに神の言葉は迫り、ついにエジプトに向けて出発した。
そのときに与えられたのは、武器や武力で戦う人々たちでなく、「神の杖」を与えられただけであった。(出エジプト記4の20)
その神からの杖によって、モーセは何にも武器も権力もなかったにもかかわらず、数々の奇跡を行なって、エジプト王をおそれさせ、ついにイスラエルの人々は解放されることになった。
エジプトから出発した後にも、危険は去らず、まもなく、エジプトの軍勢が大挙して追跡してきた。
モーセは、後から敵が迫ってきたうえ、前には海が広がっているという絶体絶命の状況において、神は言われた。
…杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けよ。
そうすれば、民は海の中の乾いた所を通ることができる。(出エジプト記14の16)
高く上げた杖は神の力を受け取ることであり、もう一方の手を海に向って差し伸べたのは、神から受け取った力を海に及ぼすことの象徴的行動であった。
そしてその言葉に従ったとき、驚くべきことが起こり、海は分かたれ、人々は通っていくことができた。
さらに、目的地に向う途中で、敵との戦いのとき、モーセは、ただ祈りつつ神の杖だけをもって丘の上に立った。
… モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」(同17の9)
そして、激しい戦いであったが、モーセがその手を上げている間は、イスラエルは優勢であり、手を下ろすと敵が優勢になるという驚くべきことが生じた。
モーセの手が重くなって上げられなくなると、モーセに従った者がその手を支えた。それによって勝利することができた。
ここには、作戦や、兵の数や武力の優劣でなく、ひとえに神の力が注がれるかどうかが決定的なのだということが示されている。
そしてそのために、モーセだけで難しくなると他者が協同してそれも支える―これは現代の私たちにおいては関係のない昔の特殊な話ではない。
それは、祈りの力を指し示している。私たちがサタンとの戦いにおいては、この世の手段でなく、ただ神の力を待ち望むことが根本になければならない。そしてそのことが難しくなるときには、二人三人と共に祈ることによって悪の力にうち勝つことができるということなのである。
私たちにとっての神の杖、それは祈りであり、その祈りが生まれるための母胎である信仰である。
モーセが、与えられていた神の杖、そこに、さまざまの神の力がそこに注がれた。私たちにとっても、信仰の杖、祈りという杖によって神の力が流れてくる。
杖がなかったら、歩けない。そのことを私は年末に身をもって体験させていただいた。老人でつねに杖を持っている人には日常的なことである。
しかし、私にとっては、信仰の杖、祈りという杖の重要性をからだの痛みと不自由をもって学ばせていただいた。
信仰こそ旅路を 導く杖
弱きを強むる 力なれや
心勇ましく 旅を続け行かん
この世の危き 恐るべしや (讃美歌270)
何のために…これは私たちのあらゆる行動や組織―学校や会社、さまざまの団体など―に深くかかわっている。目的なくして人間は生きることはできず、組織や会社も必ず何らかの目的によって造られる。
私たちが今この世に生きているのも、何か目的があってこの世に生まれたのである。
キリストはこの命を与えるために来られた。生物としての命は人間だけでなく、地上の動植物がみな与えられている。人間も母の胎内にいるときにすでに与えられている。この命も神が与えたものである。
キリストが地上に来られたのは、生物としての命を与えるためでなく、永遠の命、神のいのちを与えるために来られた。
しかし、この世では生物としての命が最も大切なものと言われていて、それが常識となっている。
そのような生物としての命より大切なものがある、それが永遠の命である。その命とは神の愛でもある。神の国でもある。
キリストは命の光を与えるために来られた。 死の陰の地に。
この永遠の命を与えられてはじめて、それまで持っていた命は生物としての命であってそれだけでは、人間としては本当に生きてはいなかったと知らされる。そのように感じるほど、この二つの命には、根本的な違いがある。
そのことを、使徒パウロは次のように述べている。
…あなた方は、以前は自分のあやまちと罪のために死んでいた。
…神はその愛によって罪のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし、ともに復活させてくださった。(エペソ書2の1、5〜6より)
元気に活動していて、この世の仕事もいろいろとしている、そんな人間を「死んでいた」などと表現することは、一般的には考えられないことである。ここに、生物としての命と神の命とがいかに異なっているかがはっきりと記されている。
このことは、言い換えると、この世の生物の命としては死んだようになっているとき、病気や老齢、あるいはからだの障がいなどでほとんど動くことはできないとか寝たきりであっても、神のいのちを豊かに受けているときには、真の命を持っている、霊的には豊かに活動しているということになる。
さらに、この世の生物としての命が果てるとき、そこから神の命に復活して、完全な命が始まるのであるから、それほど生物としての命とは対照的であるのもわかる。
政治の場において、国民が第一に関心を持ったのは経済であった。政治家もそのような一般の人々の要求に答えようと、たえず経済を活性化すると繰り返している。経済とは、人間の生物としての命を支えることである。しかし、それがいかに豊かになっても、霊的命は豊かにはならない。人間の心はかえって空虚になることが多い。表情もかえって軽薄になることが多い。
今日の高校生などの表情が深みや豊かさを持ってない者が多い、と言われるがたしかにそのようなことを感じさせるものがある。
ゲームや日常の意味のないことをメールで頻繁にやりとりすることに多大の時間を取っている状態、そして勉強というと真理を身につけるためでなく、自分や親、あるいは教師の欲望を満足させるためであることが多く、それでは精神的には養われない。
学校教育も、社会での職業生活、あるいは芸術や旅行や趣味等々、そうしたものもそれだけでは、永遠の命(神の命)は与えられない。
宇宙を創造し、完全な愛や真実をもっておられる神が持っておられる命、すなわち永遠の命が与えられるためには、キリストを信じることが不可欠になる。
この地上の世界では、太陽がいのちを与えている。太陽の光がなかったら―それは月面で観測されているように、たちまち氷点下200度をも越えるような凍りつく世界となる。
それと似たことが私たちの精神の世界にも言える。
もし、神が霊的な命を与えてくださらなかったら、私たちはたちまち霊的な意味で冷たくなる。信仰を持たない人でも、やさしい人ももちろん数多くいる。それは、とくに唯一の神に対する信仰のない人にも、神は、太陽のように神の霊的な光と力(熱)の一部を注いでおられ、それを人間は無意識に使っているために、愛の影のようなものであっても、人は持っているのである。
イエスは何のために来られたのか、それは罪の赦しのため。罪とは神に逆らう心であり、それを赦してくださって神との間の壁を取り除き、神の光や命がそのまま人間に伝わっていくようにという目的のために地上に来られた。
それは、命の光であり、命の水であり、さらに命の風であるキリストを信じて救い主として受けいれることが必要である。
ヨハネによる福音書では、事実上のその最後のところで、「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神の子であると信じて、命を受けるためである。」(ヨハネ20の31)と記されている。
キリストが来られたのは、神の命、永遠の命を、私たち一人一人が豊かに受けるため、なのである。
神の言葉と詩、それは一般的には、まったく異なるものだと思われている。
前者は、「戒め」というイメージで受け取っている人が多い。だからこそ、神の言葉である聖書は読みたくない。戒めなど聞きたくないという気持ちなのである。
しかし、詩はそうした戒めなどとは全く異なるもの、人間の感情や感動をリズムのある言葉や美しい表現で述べたものだ―というのが多数の人の実感であろう。
そして、詩についても、読む気がしない、わからないという人も多いと思われる。これは、一つには多くの詩―とくに日本の詩が人間に力を与えるのでなく、かえって弱々しい気持ちにさせたり、欲望や喜怒哀楽の感情を単に激しくしたりするだけである場合も多いということも関係している。
詩については、一般的な文学作品と同様、悪しきものが多く、それらは人間の本当の育成には有害であるということは、はやくからヨーロッパにおいては気付かれていた。その代表的な人物がプラトン(*)である。
(*)プラトン(紀元前427〜347年)は、古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子でアリストテレスの師。プラトンの思想は西洋哲学の源流となった。
プラトンは、ギリシャ哲学を最も深いかたちで表現し、のちの世界に深遠な影響を与え、ヨーロッパの哲学は、プラトン哲学の注釈だとまで言われるが、彼もまた、若き日には、詩人をめざしていたと伝えられている。彼は、主著である「国家」においてつぎのように、詩について述べている。
…人間に有害な詩とよい影響を与える詩があるが、大部分はよくない影響をあたえるから、あるべき国家からは排除すべきだ。
ホメロスをはじめ、有名な詩人の詩作は、一般には喜んで受けいれられている。しかし、その詩の内容はしばしば、人間の欲望を刺激し、苦しみ、悲しみの感情に動かされるように仕向ける。
本来は、それらの感情を弱くして枯れさせていかねばならないのに、多くの詩や創作は、そうした人間の弱い、あるいは間違った感情を水をやって育ててしまう。
私たちが、悪いみじめなものでなく、善であり、幸いな者となるためには、そうした欲望や一時的な感情を支配するようにならねばならないのに、かえって、そうした悪しき欲望などが我々を支配するように仕向けていくのだ。…
詩のうちで、あるべき国に受けいれられるべきものは、ただ、神々への賛歌と、よき人たちへの称賛の内容をもったものだけである。…
(世界の大思想1プラトン「国家」第10巻606D〜607A 河出書房版1965年328頁)
プラトンこのように述べて、当時だけでなく、現在に至るまでギリシャの詩の最高峰とされ、世界の4大詩人(*)の一人とも言われるホメロスの詩の弱点あるいはその限界をはやくも見抜いていたのであった。
(*)ダンテ、ゲーテ、シェクスピア、ホメロス
プラトンは、哲学者として史上稀な卓越した洞察力、直感力によって、人間の暗くみじめな部分を拡大して人間の魂に取り入るように表現する詩作の有害性を深く知っていた。
現代の圧倒的多数の文学など、みなこの部類であり、人間の本当の善さを引き出したり、汚れたもの暗いものから離れて清いもの真実なものを求めるように方向付けるような作品はごく少ないと言えるだろう。日本文学の代表的作品と言われる源氏物語など、人間の弱く醜い部分をことさら美的に表現しているのであって、それだけいっそう人間の魂をまどわす力を持っているということになる。あのような作品は、真理への勇気や死に瀕しているような人に何らの力も与えることはない。(*)
また、現代の漱石、森鴎外などもやはり弱き苦しむ魂に新たな力ではなく、かえって懐疑や薄暗がりを広げていくことが多い。
(*)内村鑑三は源氏物語について次のように語っている。
…文学と云ふものは、そんなものであるならば後世の遺物でもなくして、かえって後世の害物です。なるほど源氏物語といふ本は美しい言葉を日本に伝へたかも知れません。
しかし源氏物語が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなく我々を女のように意気地なしにさせた。あの様な文学は、我々の中から根こそぎにしたい。(1897年「内村鑑三全集」第4巻274頁 岩波書店刊
プラトンは、正しく人間に有益で力を与えるのは、神への賛歌であり、優れた善き人への賛歌であるという。これは、聖書の世界が賛歌や詩が徹底して神に捧げられていることに、やや近づいている感を受けるが、聖書の世界は、いかに優れた人間であっても、決して人間を賛美することはない。
その点で、聖書はこうした詩的作品の究極的なよき姿を一貫して示し続けているのであって、ほかの人間が書いた著作、詩作とは本質的に異なっていると言えよう。
日本では、詩というと男性的でないもの、女性的なもので、およそ力や勇気とは関係がないものと思っている人が多い。
しかし、聖書における詩は、そうした女性的なもの、ひまと金のある貴族が歌うといった弱々しいイメージとは根本的に異なる内容なのである。
人間の最も困難な状況に直面したときの必死の祈り、叫び、そこからの救いを与えられた喜びと神の力への確信、宇宙にみなぎる神の正義や真実に関する啓示、人類の歴史を通した神の御計画、自然の現象への深い洞察と背後にある神の力への賛美等々、最も力ある神に向う人間の魂の世界が記され、その背後に万能の神がおられることが随所に示されている。
これほど力に満ち、また雄大な詩作の世界は、ほかには全くない。
ここでは、聖書における詩についてその一端を記したい。
聖書においては、詩は創世記からはじまり、出エジプト記、士師記、サムエル記等々の歴史書から、ヨブ記、詩篇のような純然たる詩の大作や詩集そのもの、さらに預言書の多くの部分というように、重要な書物に多くの詩が含まれている。しかし、キリスト者であっても、預言書と詩とは別のように思っている人も多いようである。
預言書というと、世情に対して厳しい警告をする内容とか、戒めや義務を述べているのではないかと思われていて、つばさのあるような言葉、ゆるやかな流れのようなもの、小鳥のような自由さなどほど遠いと感じている。
しかし、聖書では、最も重厚なあるいは深遠な内容が、しばしば詩のかたちで表現されている。それは、最初のうちは私もわからなかった。
聖書を知って徐々にこのことが実感されてきた。論文のようなあるいは、学問的、哲学的表現によっては、本当に深いものはしばしば表現できないし、伝わらない。
だからこそ、主イエスも多くの教えをたとえを用いて語られたのであった。旧約聖書における信仰の深き人たち、アブラハム、モーセ、ダビデ等々、あるいはイザヤ、エレミヤ、エゼキエル等々の預言者たちも、学問によっての深遠な真理を知ったのでなく、一方的な神からの啓示によって、あるいは語りかけによって知ったのであった。
それゆえ、神からの言葉は、論文とか哲学的表現でなく、詩のかたちをとったわかりやすい言葉で、しかし深い意味、象徴的な意味を持って表現されるというのはこうしたことからもわかる。
イザヤ書など、旧約聖書のなかで最もキリストのことを直接的に預言し、ありありと見るようにはるか500年以上も後に生じる救い主のことを書いている。それほどはっきりと神からの直接的な啓示があり、それをそのまま神の霊にうながされて書き綴ったのである。
キリスト教の作家として最も影響力の大きかったし、現在もその影響が続いているのは、三浦綾子だと言えようが、彼女も、詩の力の大きさについてその作品のなかで述べている。
「詩というものは不思議なものだと思う。
鉄砲や刀では人の心まで変えることはできないが、たった一行の詩が、人の心の奥底にいつまでも生きることができる。」(三浦綾子著「わが青春に出会った本」)
詩の力、それは聖書にもはっきりと表されている。モーセがエジプトから多くの人々を導いて紅海のほとりに立ったとき、後に迫る敵と、前には海という絶体絶命の状況となった。そのとき、神の大なる力が臨んで海に道が現れた。そして滅ぼされる寸前であった人々は救いを得た。
そのときにタンバリンや太鼓をたたいて躍って喜び、助けてくださった神をたたえて歌ったのが、聖書における最初の讃美歌の記述である。そしてその神の力と助けを感謝し、讃美するその歌は、書き記されて三千年を越えて、今日まで詩のかたちで伝わってきた。
感動を言葉にする―詩のかたちに表現することで、その生命力はぐんと強まるということがある。
このとき、モーセと人々が神を賛美して歌ったが、それが全世界に広がった讃美歌の源流となった。
…主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそ戦われるお方、その名は主。(出エジプト記15の1〜3より)
メロディーは伝わってはいない。録音機も楽譜もない古代であったので、メロディーを伝えようとする気持ちそのものより、はるかに言葉を伝えようとする力が働いたのである。メロディーはその力ある言葉をより豊かに表現し、多くの人に伝えるための補助的なものなのである。
長い旧約聖書の時代から、キリスト教の時代を通じて、世界で初めての讃美歌となったその歌詞―その言葉は、救いを受けた人間の喜びと賛美の言葉でありながら、神の言葉として伝えられてきた。
これは詩篇も同様である。
それは人間の深い感動を記すだけでなく、その背後に神の救いの力を人間によって証しさせようとする神のご意志がある。それゆえに、人の言葉でありながら、同時に神の言葉なのである。
何でも源流をたずねることは重要である。キリスト教でも末端の数知れないような教派の主張やそこにいる教会員を知るよりはるかに重要なのは、その源流であるキリストを知ることであり、無数のキリスト教の文書があるがそれらの源流たる聖書をしることがはるかに重要なのと同様である。
聖書における詩は、このように、生きるか死ぬかというぎりぎりのところで生まれたものであり、後の詩もそうした性格を基本的に持っているのである。
一見、そうは見えないような詩も、その内奥には、その視点がある。
例えば、詩篇第2篇は、親しみやすい詩とは言い難いだろう。
それは次のような内容である。
…どうして国々は騒ぎ立つのか
人々は空しく声をあげるのか
なにゆえに地上の王、権力者たちは主に逆らうのか
「我らは、神などという縛るものを切って捨てよう」と。
これがどうして生きるか死ぬかの重要問題と関係があるのかと思われるだろう。これに続くこの詩篇の概略の意味はつぎのようである。
…お前は私の子
私はお前に国々を与える
お前は、鉄の杖で、真理なる神に背く者たちを打ち、
陶器作りがその器を砕くように彼らを砕くのだ。
それゆえ、すべての王たちよ、目覚めよ。
主をおそれ、主に仕えよ。
これは、神がその神の子に力を与え、真理に背き続け、神の力を打ち破ろうとする人たちに対するさばきを下させるというのである。
ここで言われているのは、のちに主イエスが言われたように、神の子に神と同じ力を与え、悪の力を打ち砕くようにするということである。
もし、悪の力がこのように打ち砕かれないのなら、私がどんなに正しいことをしようとしても、逆に私たちが打ち砕かれてしまうということになる。 私たちを攻撃したり憎んだりしてくる闇の力が打ち砕かれないということは、すなわち私たちの信じる神の力が悪の力、サタンに敗北するということであり、そのようなことならば、その神にすがるのもまた敗北が必ずおとずれるということである。
それゆえ、この詩篇で言われているようなことがないなら、私たちの生きる目的は砕かれてしまう。最終的に悪が勝利して、善なるものが砕かれてしまうということが真理なら、私たちの善きことへの努力などいっさいが無意味となる。それらすべての努力も最終的には悪の力によって砕かれ、滅ぼされてしまうのだから。
それゆえに、この詩篇第2篇もまた、私たちの生きるか死ぬかの重要問題をテーマとしているのである。
詩篇の最初の書である第1篇も、やはり生死にかかわる重大問題であるからこそ、全体の詩篇の要約として最初に置かれている。
真理と愛、真実、そして万物を支配されている力のすべての源である神に逆らうということは、真理、愛、正義などに逆らうということであるから、そこには滅びしかない。
この単純な事実を明白に述べて、私たちにとっての生死の決定的な問題は、神を信じ、み言葉を愛し喜ぶことだと言われている。そこから命が与えられ、それに背くものは、命そのものである神に背くのであるから、当然命は与えられないということになるからだ。
それらに続く詩篇3、4篇などは、一読すれば、それがまさに生きるか死ぬかという状況のなかで記されているということがわかる。
どこまで増えるのか。
多くの者が私に立ち向かい
苦難から救ってください。
憐れみをもって、祈りを聞いてください! (詩篇第4篇より)
このように、現在の困難から解放してくださる神に向って、身も魂も全力をあげて祈る、訴える、叫ぶという内容である。
そしてそこからしばしば長い苦しみの後にようやく救いを得るという内容が多い。それは、それらの詩をつくった作者の背後に神がおられ、その神が作者にこうした内容を書かせたと言えるのである。
また、旧約聖書の預言者サムエルや、ダビデについて書いた書―サムエル記― の最初のところに、長い間苦しめられたハンナという女性がようやく必死の祈りの果てに 子供を生む。そのときの歌は次のとおりである。
…主によって私の心は喜び
主によって私の力は強められた。…(*)
私は救いを喜び祝う。
弱い者を土くれのなかから立ち上がらせ
貧しい者を芥のなかから高く上げ
栄光の座を継がせてくださる。(サムエル記上2の1、8より)
これは、次のように、イエスの母マリアの歌ともなって、その後も2000年にわたって歌い続けられている。これを見ても分るが、切実な祈りは、讃美の歌に変ることができる。
主はその腕によって力を現し
思い上がる者を打ち散らし
権力ある者をその座から引き降ろし
身分の低い者を高くあげ
このように、苦しみの後に大いなる恵みを与えられたゆえにおのずから讃美となって歌われるということだけでなく、苦しみや悲しみそのものが書き記され、またその苦難のなかからの祈りや叫びが歌となったのが旧約聖書の詩篇である。
聖書の世界を知るまでは、歌と祈りはまったく別物だと思っていた。歌は、さまざまのテレビやラジオ、CD、インターネットなどで洪水のようにあふれている。
しかし、祈りの番組などはまったくといってよいほどない。こうした事実は、通常の歌と祈りはまったく別物だというのが広く一般の人たちの考えにあるからである。
祈りは歌(詩)に、そして主に向っての歌(詩)は、そのまま祈りとなる。
詩、それからつくられた讃美歌について、いかに一つの讃美歌でもそれが人々の魂に入っていくときには、大きな働きをするか、次の引用でもうかがえる。
… 有名なるヘンリー・ビーチヤー(*)が云った言葉に
「私は六十年か七十年の生涯を私のように(牧師として)送ったよりか、むしろジヨン、ウエスレーの書いた、「Jesus Lover of my soul ジーザス ラヴァー オフ マイ ソウル」(わが魂を愛するイエス)(**) の讃美歌一篇を作った方がよい」と申しました。
…この歌を私共は何度も何度も繰り返し歌って見まして、どれだけの心情、どれほどの味わい、どれだけの希望が入っているかという事を知った時には、あるいは、ビーチヤーの云った事 が本当かも知れない。
ビーチヤーの(伝道者としての)大事業も決してあの一つの讃美歌ほどの事業はしていないかも知れません。
それゆえに、もし我々に思想がありますならば、もし我々がその考えを直接に実行する事ができないならばそれを紙に記して我々の思想を後の世に残すという事は大事業ではないかと思っております。… (「内村鑑三全集」第4巻273頁)
(*)ヘンリー・ビーチャー は、アメリカの牧師。ヘンリーの姉が「アンクル・トムの小屋」で有名な、ストー夫人。
(**)この讃美歌は、 アメリカでは、5種類ほどの曲が付けられる有名な讃美歌となった。日本にも取り入れられていて、「わが魂を愛するイエスよ」(讃美歌273)として愛唱されてきた。日本では、戦前の「讃美歌」(1931年刊)ではこのウェスレーの詩に3種類の曲が配されていたが、1954年の「讃美歌」では、二種類となり、讃美歌21、新聖歌では一種類の曲が配されている。この讃美歌の1節、4節をあげておく。
1、 わがたましいを 愛するイエスよ
波はさかまき 風ふきあれて
沈むばかりの この身を守り
天のみなとに みちびきたまえ
4、きみは生命の みなもとなれば
たえず湧きいで 心に溢れ
我をうるおし 渇きをとどめ
とこしえまでも やすきを賜え
詩の持つ力、それを内村鑑三は深く知っていたゆえ、彼は、とくに愛唱する詩を訳して「愛吟」と題して出版したほどであった。
聖書において、最も深い預言というべきは、イザヤ書である。後の時代にキリスト(メシア)が現れるという預言、あるいはキリストを指し示す聖書の箇所は数多くある。旧約聖書は全体がキリストを指し示すともいうことができるほどである。
それらの多数のなかで最も直接的にキリストの十字架のあがないという深い真理を記して、キリストがまさにそのとおりの姿で現れたのを記すのも、イザヤ書である。
そのイザヤ書もまた、そうした真理は、たいてい詩のかたちで書かれている。
究極的な真理は、論理的あるいは一般的な論文といったかたちでなく、詩のかたちで書かれることが多いのである。
聖書の最後の書である黙示録にも、地上はローマ帝国の権力によって多数の迫害が行なわれ殉教する人たちが続いていた。しかし、そのようなただなかで、黙示録の著者は、天上のおどろくべき賛美を聞き取っていた。
…彼等は神の竪琴を手にして、神のしもべモーセと小羊(キリスト)の歌とをうたった。
全能者である神、主よ、
あなたの業は偉大で、
驚くべきもの。…
主よ、だれがあなたの名をたたえずにおられましょうか。
聖なるお方は、あなただけ。
すべての国民が来て、
あなたの前にひれ伏すでしょう。(黙示録15の2〜4より)
このように、黙示録においても、地上に生きるキリスト者たちを励まし支えるために
、神は新しい歌をすでに天にかえったキリスト者たちに与えたのである。
人間のあり方の究極的な姿は、詩篇の最後の部分にもやはり歌として詩のかたちで表現されている。
力強い御業のゆえに 神を賛美せよ。
大いなる御力のゆえに 神を賛美せよ。
琴を奏でて 神を賛美せよ。…
私たちも神がこうした詩のかたちで、人間へのメッセージとして贈られたのであるから、こうした詩を感謝をもって受け取らせていただきたいし、さらにその詩を造った人たちが与えられていたと同じ確信と力を豊かに与えられたいと祈り願うものである。
―神の栄光と力
聖書の詩には、さまざまのものがある。ここにあげる詩篇29篇は、私たちが通常思い描く詩とは大きく異なっている。個人の苦しみや悩みはまったくここには書かれていない。人間の感動、感情―生活の中で、あるいは自然のすがたに接して感じたことを詠むものが詩である。日本の詩は五七調で和歌や俳句、短歌などといわれてきた。
しかし、この詩篇は個人の感情や花鳥風月の身近な変化、自然の紅葉があるとか花の香りが漂うとか雲の流れがあるとか、あるいは人間関係さまざまな愛憎、憎しみ合いとかを詠うのとはまったく違っている。
この詩は、神の啓示を詩的な表現によって記したものだからである。
そして特にこの詩には、自然の世界から、とくに雷鳴や激しい嵐に現された神の力へのほかにはないほどのはっきりとした啓示が記されている。それはこの詩の作者にとっては、神の声として響いたのであった。
それゆえ、ほかのすべての詩にまさって、この詩には「主の御声」という言葉が繰り返されている。この短い詩で、7回もこの言葉が現れる。 それはこの作者が、自然のなかに、重々しく、威厳ある神の声をはっきりと聞き取っていたことを示すものである。
人間の声ばかりがはんらんしている現代こそ、このような詩によって私たちは神の力強い御声の世界へと立ち返ることがうながされている。
栄光と力を主に帰せよ
御名の栄光を主に帰せよ。(詩篇29の1〜2より)
まずここに最初にあるのが「神の子らよ、栄光を主に帰せよ。」という言葉で、このことばが繰り返されている。9節にも「神殿のものみなは唱える。『栄光あれ』と。」
このことから分るように、この詩は、私たちの周囲のさまざまの自然の現象に接して、そこに大いなる力と威厳を見て、その絶大な神のわざの根源が神にあることを啓示されたその内容である。
「栄光」という原語(ヘブル語)は、カーボード。これは、カーベードという「重さ、重みがある」をあらわす言葉と関連している。ヘブライ語では、このように、「栄光」という漢字が示すような「光」という内容よりも「重みがある」ということばに由来するのは意外なことである。(*)
(*)例えば次のようにこの言葉(カーベード)は用いられている。
・わたしは口も重く、舌も重いのです」。 (出エジプト記4の10)
・わたしの不義はわたしの頭を越え、重い荷のように重くて負うことができません。 (詩篇38の4)
この詩篇の箇所では、重い(カーベード 形容詞)、重くて(動詞) のように、この重いという言葉が、形容詞と動詞の二つが使われている。
さらに、重いということは数多いということにつながるので、その意味でも用いられている。
・羊や牛などの非常に多くの家畜も …(出エジプト記12の38)
「栄光」ということばは元々中国語である。日本人はどうしても、本来中国語である漢字でそのイメージを持ってしまうが、聖書―旧約聖書はヘブル語で書いてあるのであって、漢字の意味で考えると間違った連想を抱くことも生じ得る。
現代の日本語において、栄光とは何か。「輝かしい誉れ、」普通は何かの賞を獲得し、栄光に輝くとか名誉を指す。
それゆえ、栄光とは人間が持っている、能力や、その業績がすばらしいものであるほど、その人間は栄光に包まれる。
ノーベル賞受賞者、オリンピックなどでの優勝等々である。古代であれば、戦争でめざましい戦果をあげたとか、芸術、スポーツなどでそのような栄光が人間に与えられたであろう。
しかし、聖書では、神の持っている力、力があるからこそ重々しく感じるわけである。人間がそのような力を持っているのでなく、「栄光、力は主にあり。」と出発点において繰り返されている。
聖書に現れる人物においては、人間の栄光でなく、ただ神にのみ栄光があるのを啓示されていたのである。
主の御声は水の上に響く。(3)
栄光の神は雷鳴を響かせる。
主は大水の上にいます。
主の御声は力をもって響き(4)
主の御声には威厳がある。
主の御声は杉の木を砕き (5)
主はレバノンの杉の木を砕く。
主の御声は炎をひらめかせる。 (7)
主の御声は荒れ野を震わせる (8)
主の御声は雌鹿に産みの苦しみをさせ (9)
月満ちぬうちに子を産ませる。
神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
主は洪水の上に御座をおく(10)
とこしえの王として、主は御座に着いておられる。
主は民に力をお与えになる。
主が民を平和をもって祝福される。
作者はどのような形で主の栄光と力を見たのか。このことは3節以降に書かれている。この詩のほかに例のない特徴である「主の声」について、3節に1回、4節に2回、5、7、8、9節に1回 計7回使われているという特別な構成になっている。
この詩を書いた人はそれほど、人間に対してだけでなく、自然の世界に現れる神の声ということに深い感動を持ったといえる。
「水の上に響く」「レバノンの杉」「カデシュの荒れ野」「洪水の上」等々の言葉は、説明がなければこれらの言葉の意味は現代の我々には、ほとんど分からない。
「洪水」というのは現代のわたしたちが思い浮かべるものとは違う。
創世記1章7節を見れば次のように記されている。
「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。」大空の下と大空の上に分けるとはどういうことか。これは雨が降ってくることから、大空の上には巨大な水があると思われていた。大空の下の水は地上の水である。
3節「栄光の神の雷鳴はとどろく。」の「雷鳴」がまさに神の声の象徴として受け取れたのである。
雷鳴のときにはおびただしい水が降ってくる。神はそのような大量の水の上におられると考えられていた。
この時代にはどのように水が降ってくるのかふしぎであった。いまのように気体という概念がなかった。
莫大な水の上で神は支配をされていて、雷の音に象徴されるような力をもって、この地上の世界に語りかけている。
4節「主の御声は力をもって響き、主の御声は輝きをもって響く。」これは稲光をあらわす。
5節「主の御声は杉の木を砕き」実際、落雷すると杉の大木でも焼けてしまう。最近はあまりないが、わが家の近くにも、落雷により松の木の内部が真っ黒に焼けて部分的に空洞になっているものがあった。
6節「レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。」の「レバノン」はレバノン山脈、「シルヨン」はヘルモン山(2800m)のこと。
レバノンやシルヨンにまで響かせるほどの激しい音を出し、大地を揺るがすほどである。
8節「主の御声は荒れ野を震えさせ 、主はカデシュの荒れ野を震えさせる。」(新共同訳は、「もだえさせる」と訳してあるが、原語のフール は、 震える、おののく、という意味でも用いられる。
この語の英語訳はshake(揺すぶる)tremble(震える)と訳される。すごい大きな音・力をもって荒れ野さえ震えさせる。
「子牛のように躍らせる」「荒れ野をもだえさせる」といった表現は、現代の私たちにはなじみにくいが、これは、神の力の絶大なことをこの詩の作者が深く示されたことを表している。
「大地を揺るがす」「荒れ野を震えさせる」ということをこのように詩的な感動を込めて表現している。
9節「主の御声は雌鹿をもだえさせ
月満ちぬうちに子を産ませる。」
など、自然界に実際に目に見える稲光や稲妻の激しい光あるいは音を単なる自然現象の音としてこの詩人は感じたのでなく、また単なる想像でもなく、神からの直接の啓示として、この作者は自然界全体にわたって存在している神の力を知ったのであり、その啓示をこうした詩として記したのである。
全地を揺るがし、2800mもあるような巨大な山をも揺るがす力を示すために神がなさっていることを実感したのである。
このように普通の自然現象を「あの光りはすごい。神秘的だ。」と思うだけでなく、背後の神の力を知らされ、そこからさまざまの危険のあるこの世、弱い私たちが受け取ることができるのだということをも示しているし、それが私たちへの励ましともなっている。
これは直感・啓示の問題である。稲光を見て単に不思議な現象と思う。もしくは背後にある神の全世界・宇宙を揺るがすような支配する力の目に見える現れで、そういう形で神の背後の力を現そうとされている。
目で見て、耳で聞いて、体で感じて神の絶大な力がこの詩を作った人には分かったのである。そういう力をもって人間の世界も歴史をも動かすのだから、神の力は驚くべきものである。
神のわざに敏感なほど、神の力のある部分を感じたら、その全体が浮かびあがってくるのを感じる。しかし、そうした感覚が与えられていない場合には、いくらたくさんの神のわざを見ても分からない。
イエスの時代でもユダヤ人でなかったカナンの女は、直接会ってもいないのに「イエスは万能の神の子である」と深く信じていた。またハンセン病の人や全盲の人は必死に叫びながら来たのに対し、ほかの人は叫んでも何の足しにもならないと思っていた。
盲人やハンセン病の人たちは、彼等の障がいや病気のゆえに、イエスの近くに行って話を聞くということができなかったと考えられるが、彼等はそのかわり、伝え聞いたわずかなことで、イエスこそは神の子だという確信を持っていた。
この詩の作者においては、じっさいに雷に現れたすさまじい自然現象から神の全領域にわたる大いなる栄光と力を実際にはっきり示されたのがうかがえる。
この詩は、自然界に現れた音を神からの声として受け取り、その「声」をくりかえし強調して、背後にある神の力を示している。
これほど神の力を稲妻・雷から感じ取るというのは、ほかの聖書の箇所には見られない。
この詩の終りに「神は永遠の王である」とある。
言い換えれば、神こそは、いかなることがこの地上や宇宙で生じようとも、それらいっさいを万能の力で御支配されているとの確信である。
自然界では、おびただしい水が雨として天から降ってくる。地上にも大いなる海がある。水の力は巨大であらゆるものを呑み込んだり破壊したりする。
神はそのような莫大な量の天から降ってくる水や広大な水の広がり―海をも支配しているということに、作者は深い啓示を受けている。
永遠の王である神の現れ、こういう目に見える形でも現れるのだと示された。
11節には、そのような大いなる力を持った神だからこそ「どうか主が民に力をお与えになるように。平和をお与えになるように。」と書かれている。
神の比類のない力、万物のうえにある圧倒的な力を啓示され、確信したうえで、神にそのような「平和と力をお与えください」と祈っている。
自然の世界は何らかの形で、つねに神の栄光を現しているので、詩篇にはこうした自然界にあらわされた神の力、栄光をうたったものとして詩編19編がよく知られている。
そこでは「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。」天体(月・星・太陽)と大空(真っ青な大空・雲の浮かぶ大空・夕焼けの燃えるような大空)という空間に焦点を当て、さらに後半では、太陽のもつ比類のない力をとくに取り出している。
そしてそれだけでなく、そのような宇宙にみなぎる神の力によって、神の言葉が送り出されていることが記されている。神の言葉には、そうした宇宙的な力と栄光がかかわっているのだと言おうとしているのである。
驚くべき神のことばの響きが全世界に向かっているのを感じ取っていた。これは、のちにキリストの「福音」が世界に伝えられていくことを預言することばにもなっている。
この詩篇29篇は、神の栄光を物語るものとして、稲光や雷雨 耳をつんざくような激しい音と雨・風 地上の世界に大きな規模を持って生々しい形でわたしたちに現れる自然現象をもとにして、神の力をまざまざと感じ啓示された人の詩である。
わたしたちも日常にであうさまざまな自然を見て、このような詩人の受け止めかたを求める。とくに日本は四季において植物や海・川にいろいろ変化がある。この詩が作られたパレスチナは非常に雨が少ない。この領域一帯が非常に乾燥している。
このようなところでは、夜空の星は非常に澄みきった輝きをみせている。 神の栄光と力を絶えず感じ、感じることによりいっそう「その力をお与えください」と求めることが出来るし、人々に力を与えようとする気持ちが自然に出てくる。
この世は神の力とはまったく違う悪の力が絶えずおびやかしている。人間は悪の力についてはすぐ分かるが、神の力についてはこのように啓示を受けなければ分からない。
ここに、この詩の重要性がある。表面的に見れば、この世界には、飢えで苦しむ人々もあり、戦争もあり、病気もあり どこに神の力や栄光があるのかと思うが、この詩の作者は、身近な自然現象を通して神からの明白な啓示を受け、深く神の力の世界へ導かれていった。わたしたちもそのように導かれたいものである。
今回の総選挙で、自民党が圧勝した。小選挙区では8割ほども議席を獲得してしまった。
このような状況を見て、国民は自民党を圧倒的に支持したというように受け取られる。そして、過去10年連続で、防衛費を減らしてきたにもかかわらず、それを次年度の予算編成で、自民党は千億円も増額するという。これは、毎月10億円を8年以上使っていける巨額である。それらを被災者たちの支援にかかわる事業に使えばどれほど多くのことができるだろうかと思う。
東北大震災の被災者たちが、いまも仮設住宅で不便な生活をつづけ、家、あるいは家族や職業も失われ、福島では原発の処理は今後いつまで続くか展望のない状況であり、その苦しみは変ることなく続いている。
そうしたことの解決に全力を注ぎ、自然エネルギーの開発などにも力を注がねばならない状況にあるにもかかわらず、まずやろうとしていることは、防衛費をそのように増額するというのである。ここにも新政権の本質がうかがえる。
防衛費には、すでに5兆円に近い巨額が投入されているのである。 このようなことは、自民党が勝手にやろうとしていることであって実質的な国民の支持を得たものではありえない。
というのは、今回の総選挙では、たしかに小選挙区では、およそ8割もの議席を取ったが、じっさいにどの党を支持しているかは、比例代表の議席や得票率がはっきりと示している。
比例代表での議席は、わずか31・7%、得票率は27・6%しかない。
支持する政党を自民党と書いたのは、3割足らずなのである。このような状況であるにもかかわらず、選挙制度の問題のゆえに、自民党が圧勝してしまい、原発問題や防衛問題を勝手に方向転換していきつつある。この矛盾、大量の死票が出るということは選挙前から繰り返し言われていたことである。
現実の世界は、このように真実が無視されていく。
しかし、このようなことは、今にはじまったことではない。はるかな昔から、最も真実なお方であったキリストは、生まれたときから抹殺されようとしたし、その最期も、十字架に釘付けられるという残酷な仕方で殺されてしまったことは、そうした現実の理不尽をはっきりと示すものである。
聖書の世界はこうした現実を見据えたうえで、それにもかかわらず、光はその闇のただなかにある、今も輝いているという霊的事実を宣言している。(ヨハネ福音書1の5)
そして、私たちが聖なる霊を注がれるほど、その聖霊がすべてを教えると約束されているように、こうした光をもありありと見ることができるように導かれている。
最後の夕食のとき、イエスが遺言のように残した言葉、「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。私はこの世の(悪の)力に勝利しているのだ」(ヨハネ16の33)は、現代の私たちにも変ることなく、真理の言葉として語り続けられているのである。
来信より
・詩篇119篇の長い詩の最後が、迷い出たら、小羊を探しだしてください、だったということ、はじめて知りました!
み言葉を知るまでは、人間の言葉と、闇の海の中で溺れかかっていました。けれど不思議と、ずっとみ言葉が掬い上げてくださっています。
「今日のみ言葉」の写真の白い航跡、久しぶりに目にしました。今朝、朝日を受けて光っていた霜の白さと重なって、天に続く道は、なんと清々しくうつくしいのかと…。(四国の方)
・今日のみ言葉222「迷い出た羊を」を有り難く拝読しました。 詩篇にこのような長い篇があるとは知りませんでした。 176節の聖句に慰めと力をいただきました。又大海原の素晴らしい写真も有難うございます。 素敵な写真です!
「この大海原にできた道も、そうした清められた大路を感じさせるものがあります。
この世に生きる私たちにとっては、生きる道は、曲がりくねっており、随所で落とし穴や危険な箇所があります。しかし、目に見えないところにおいては、こうした真っ直ぐな道が、神の御計画によって敷かれていると思わされるのです。永遠から永遠へと…。 」
詩篇から深い教訓と生きる力をいただき、又解説して下さり、臨場感溢れる素晴らしい写真を添えて下さったことに感謝します。(近畿の方)
・…また、ETVの内村鑑三と新渡戸稲造のDVDをお送りいただきまして感謝です。このDVD、とっても見ごたえがありました。明治に生きたこの2人のキリスト者のことを私は全然わかってなかったですね。
大いに勉強になりましたね。案内人の外国人教員が出された本『なまら内村鑑三なわたし』も早速中古で購入しました。当時の札幌農学校のことを聞くと、本来の「学校」ってとても大切だなあ、と思います。
基督教独立学園、愛真高校、愛農高校に最近興味が湧いてHPを閲覧したり本を読んだりしています。
いつか「ほんとうの学校」に実際に行ってみたいと思う今日この頃です…。(四国の方)
・「いのちの水」誌、そこで説明されているみ言葉が心にひびきます。
天体のことも書いてくださるので、夜空を見上げ、星空を教えていただいて木星の輝きを見ています。「いのちの水」誌には、聖書全体から書かれておりますので、視野が広く、そうそう、と教えられることいっぱいです。
聖書を読み返し、その意味がわかり嬉しいです。
栄光と祝福の意味の説明をありがとうございます。
今朝、牛舎に行く道、南東に明けの明星が輝き、すばらしい景色でした。
太陽が昇るときの空がいっせいに輝き、栄光、栄光、神にあれ、と口ずさんでいます。
牛飼いは年中無休で働きづめですが、自然とともに自然のなかで生活できますので、神様の創造の世界に目をみはるばかりです。(北海道の方、酪農家)
・インターネットのスカイプによる集会をいつもありがとうございます。徳島集会の方々と、お会いしたことはありませんが、スカイプという手段を通して、ともに神様のことを学び、讃美してとても親しい気持ちで、同じ場に参加している思いです。
心が支えられ、力が与えられます。
パソコンでスカイプの呼び出しや集会のときの音声のことなどいつも調整してくださるKさんNさんたちには集会の間もスカイプのことでご自分は十分にみ言葉のお話しが聞けていないのではないかと思うと申し訳ないような気持ちと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。(関東地方の方)
○聖書講話「出エジプト記」全3巻(全48講話)が出来上がりました。出エジプト記の全部の章の講話で、1回の平均録音時間は36分、全体では、約29時間分の録音です。
これは、主日礼拝や県内各地での家庭集会での録音で、不十分なものですが、出エジプト記がどのようなことを現代の私たちに語りかけているのか、ということを常に念頭におくようにして話したものです。
なお、前のお知らせで2巻と書きましたが、3巻に訂正させていただきます。そのため代金も1500円(送料込)となりました。
すでに前回のお知らせを見て代金とともに申込された方々もいます。申し訳ないことですが、差額の500円は切手でお送りください。
ご希望の方は、奥付の吉村まで申込ください。代金は郵便振替、または300円以下の切手でも結構です。
○12月のクリスマス特別集会
聖書講話の内容は、「キリストが来られた目的」で、今月号の「いのちの水」誌にその大体の内容を掲載しています。 クリスマスとイースターの特別集会には、ふだんは参加していない方、何らかの理由で参加できない方も、参加される方があり、また初めての方もいて、特別集会にはふだんと異なる神の国からの風が吹いていると感じます。
一部の県外からの参加者、またインターネットで加わった方々も含めて80名ほどが集うことができ、キリストがこの世界に来られたことを記念し、その目的をあらためて学ぶことができました。
○編集だよりの読者の方のうち、内村鑑三と新渡戸稲造のNHK版組の録画について書かれた方は、無教会に属していない方ですが、ときどき、私たちと関係ある集会に参加されています。この方のように、無教会についてあまり知らなかった方には、参考となると思います。
この「内村鑑三と新渡戸稲造」
の録画 DVD も在庫あります。送料とも200円。
○第40回 四国集会 今年の5月11日(土)〜12日(日)の、徳島市で開催の予定です。