見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

(ヨハネによる福音書1の29より)



201312月 第634号 内容・もくじ

リストボタンクリスマス

リストボタンキリストへの道

リストボタン自由と聖霊

リストボタン多数と真理

リストボタン地は主の慈しみで満ちている―詩篇33

リストボタン11月の九州・中国地方での集会

リストボタンお知らせ



リストボタンクリスマス

 
クリスマスとは、その字 Christmas のとおり、キリストへのミサ(mass)すなわち礼拝である。

 この世の誕生祝いのように、キリストにおめでとう、という日ではなく、全世界のあらゆる人々の救いとしてきてくださったキリストを改めて記念し、そのキリストの救いが世界に及ぶようにと祈り願う日である。

 それは羊や馬に囲まれた牧歌的に見える光景とは裏腹に、暗く汚れた家畜小屋に生れたということは、厳しいこの世の現実のただなかに来てくださったことを意味している。 そしてキリストはいまもそのように暗い状況にある私たちのところに来て下さっている。 そのことを感謝し、さらに世界の多くの人たちのところに来てくださいと祈る日である。

 キリストは神と同じ本質を与えられ、イエスとして生れる以前から存在しておられた。そして33年の生涯を終えられ、万民の罪をになって十字架で死なれた。そして死の力に勝利され、復活したあとは、神と等しき存在として天におられ、また地には聖霊というかたちで来てくださって今もその働きをされている。

 それゆえ、クリスマスは、キリストによって改めて罪の赦しを受け、復活の力を与えられ、キリストそのものである聖霊を与えられるように祈りを合わせる日でもある。

 そのことこそ、あらゆる状況にある人にとって、またこの闇に覆われた世界にとっての最もよきことだからである。

 


リストボタンキリストへと導く星

 

 イエスの誕生の記事に、東方の博士たち(*)が、誕生したイエスを礼拝する(**)ために来た。

 このマタイ福音書における記述は、現代の私たちに何を意味しているのだろうか。

 キリストの誕生という歴史上で最も重大な出来事を知らされたのが、ユダヤ人ではなく、誰もどこの人か分からない遠い東方アラビア地方の人、異邦人であった。そのことは、キリストが、異邦人に広く知られるということを指し示すものである。

 そしてこのことは、二千年を通して実現してきた。聖書は不思議な、驚くべき書物である。


*)博士たちと訳されてきた原語は、magos の複数形、マゴイ(magoi)である。これは英語聖書では、現在も多数の訳が、wise men(賢人)と訳している。口語訳、新改訳も「博士たち」と訳している。

 

  博士(はかせ)とは、学問のある人や、その方面の知識・技術に詳しい人のことを言うので、英訳の wise men とほぼ同じ意味でこう訳された。新共同訳では、「占星術の学者」と訳されているが、古代においては、天体のことを研究するのは、真理探求に熱心な人たちで、現在の遊びや迷信でしかない星占いをやっている人とは全く異なる。

**)ここで礼拝する、拝む と訳されている原語(ギリシャ語)は、プロスキュネオー proskuneo)で、この語は、マタイ4章のイエスが受けた誘惑の記事のなかで、 「神である主を拝み」とあり、神を礼拝するというときに用いられている言葉である。

 さらに、ヨハネによる福音書4章のサマリアの女との対話の箇所では、わずか5節ほどの間に、9回もこのプロスキュネオー(礼拝する)が用いられているが、このように短い箇所で繰り返し用いられているのは他に例がない。それほど、著者ヨハネは、イエスが真の礼拝は何であるかを強調しているのを示す目的があったのである。このように、このプロスキュネオーは、神を礼拝する、という時、あるいはそうした礼拝と同様な態度を示す時の用語である。

 
この博士たちは一体何のため、何の益することがあってはるばると砂漠を越えて来たのだろうか。王ならどこにでも次々と生まれる。それらの王には行かず、ただ、ユダという小さい国の王として生まれた赤子に危険を犯して遠い国から長い旅をしてやってきた。

 これは全く不可解なことである。ただ星を見ただけ、それで未知の遠い国まで行く必要はどこにもなかった。彼らは周囲の人たちにも、またユダヤに着いても新しい星を見た、王として生まれた方がいるということを宣伝するためでなく、ただ礼拝するために来た。しかも、高価な宝物を持参していた。彼らの内には何が示されたのか。

 命がけでなければそんな遠い未知の国に行くことはできない。しかも高価な宝物を持参してきた。そして王として生まれたといっても、現在の普通の王の子どもではないと示されていたであろう。もし普通の王子が生まれたのなら、わざわざはるかな遠くから宝物を持ってくる必要もなく、取り巻いている家来たちが祝い、誕生祝いの品物を持ってくるはずだからである。

 この博士たちは、星を見て知らされ、その星によって導かれたということであり、古代において、人々は星は現代のような単に物理的な光を放出しているだけの存在でなく、神のごとき存在だと受け取っていたのであるから、これは神からのしるしをはっきりと知らされたということを意味している。

 そして、神が知らせてくれたので、普通の国の普通の王でなく、礼拝すべき存在神のごときお方だということを示されたのである。それゆえに、東方の博士たちは、万民がキリストを神としてあがめるようになることが示され、それを象徴的に示すような預言的行動をとったということである。そのように、神はこの異邦の人たちを用いたのである。

 キリストへの礼拝が万民に及ぶということの象徴として、預言として神はこの三人の博士たちを起こされた。神と等しいお方だからこそ、礼拝を捧げ、良きものを捧げることが一番の人間の取るべきあり方であり、この博士たちは、後の人々がキリストに対するあり方を象徴的に指し示すことになった。

 そして現代でも、博士たちが見たように、「星を見た人」が起こされてきた。キリスト者たちは、何らかの意味で、そうした星を見たのでありそれは人間であったり、書物であったり、音楽や自然であったりするその星によってキリストへと導かれたのである。

 私にとっては、そうした星は、一冊の小さな書物であり、その本によってキリストへと導かれたのであった。

 誰も予想しなかった東方の人に、キリストへと導く星が輝いたように、これからも、そうした星は輝き続け、新たな人が、キリストへと導かれていくのである。

 


リストボタン自由と聖霊

 

 自由、それはあらゆる人間の求めるものである。動物であっても束縛は好まないのはすぐにわかるし、植物も薄暗いところからより太陽のあたる広いところへと伸びていく。自由を求め、光を求めていくのは、大多数の生物の広くて深い要求である。

 そしてその自由を獲得するために、権力や身分や民族、障がいなどによる差別、貧富の差別等々の差別撤廃のための戦いは歴史の中で長く続いてきた。

 そして他方、人間はまた、絶えず自由を抑圧しようともしてきた。言論出版の自由を束縛しようとするのは、いつの時代にもある。

 現在の日本の状況も特定秘密保護法が強行採決されたが、それは国益という名のもとに、さまざまの自由を圧迫する道を開く内容を持っている。

 戦前は、治安維持法というのがあって、次々と言論や行動の自由を抑圧することに用いられた。これももともとは、天皇中心の国家体制や私有財産制を否定するような思想を取り締まるためのものとして作られたが、まもなく、その対象は広範囲になった。戦争に反対することが犯罪として逮捕、取り調べを受けるようになり、政府や国策に反対する人たち宗教家、文化人などへと広がり、国民の自由を奪うものとなり、その被害者は数十万人に及んだという。

 今回の特定秘密保護法は、国家の安全を守るためと称して膨大な量の情報を秘密にし、それを調べようとするものに嫌疑をかけていく、そして自由を束縛していこうとする。

 太平洋戦争を始めたときの天皇の言葉(詔勅)には、その戦争の目的が、「東亜(東アジア)永遠の平和を確立し」とされ、平和が目的だと称した。

 だが、その戦争は逆に東アジア全体を巻き込んだ大戦となり、千万~2千万とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになった。

 このように、古代から現代に至るまで、常に人間は自由を圧迫し、一部の者が利益を得ようとしてきた。

 聖書において、この自由はどのように記されているだろうか。

 創世記によれば、人間は最初から、自由を与えられていた。ただしその自由は、神の言葉を守ることが条件となっていた。エデンの園には、何でも自由に食べることもできたが、ただ一つ、園の中央にあるいろいろなことを(神抜きで)知る、という木だけはその実を食べてはならない、と言われていた。それを食べると必ず死ぬと厳しく言われていた。

 それは自由というものは、神の言葉、神のご意志に背くときには、たちまち失われるということを示すものだった。

 このことは現在もすぐにわかることである。例えば、自由だといって他人の迷惑を考えずに騒音をだして走り回れば逮捕されて、不自由になる。自由だとして男女の関係を持っていれば、妊娠や中絶によって、あるいは心の清らかさは破壊され、汚れていく等々、さまざまの問題を生じてそれが縛ることになっていく。

 ウソを言っていたら、信用されなくなり、相手にされなくなる。そこから仕事からも追われて収入もなくなって不自由な生活となる等々。

 自由にも表面的な自由と真正の自由がある。ちょうど、人間的な愛と本当の愛神の愛があり、実質のない希望と、いつまでも続く希望神の愛と永遠の力と結びついた希望、があるのと同じである。

 歴史的にアメリカなどは黒人を奴隷として使い、差別してきたがそれは奴隷解放令によって撤廃された。そして自由が与えられた。それはかつてのように非人間的な奴隷状態からの解放で重要な転換であった。

 しかし、それでもなお、それは真正の自由ではない。というのは、奴隷でない一般の人も、はるか昔から自由でなく、ある種の奴隷状態であるからだ。

 それは、心が権力や金、あるいは地位、また欲望などに結びついているとき、それらに支配される奴隷状態だからである。より深い見方から言えば、そうしたいろいろな欲望を起こさせる罪というものの奴隷である。

 そうした正しくない欲望から解放されるのでなかったら、真正の自由とは言えない。

 そのような自由を与えるのは、革命によって古い政治体制を壊して新しくしても、また法律を新たに作ってもなお、それはできない。

 預言者たちは、罪に縛られた人たちを解放すべく、繰り返し神の言葉に立ち返るようにと語りつづけた。そして一部の預言者は、キリスト以前にすでにその自由を与えられる道を指し示していた。

あらゆる国々の人たちよ、 私を仰ぎ望め、そうすれば救われる。(イザヤ4522

 

 この一言は、実に簡潔にして束縛から真正の自由への道を指し示すものである。

 それをなすのはただ神の力によらねばならない。人間の根源的な本質にかかわるからである。

 このコリントの信徒への手紙においては、「主の霊のおられるところに自由がある」(コリント3の17)と言われている。

 そしてその直前には、「キリストによって魂をまとっている覆いが取り除かれる」(14節)

とある。

 いくらモーセの律法を実行しているといってもそれはできないことであり、「せよ 」という命令は魂をおおっている覆いを取り除くことができないのであり、そこには自由がない。律法が縛っている状態だからである。 罪は人間を縛っている。そして罪から解放するはずの律法もまた新たな覆いをもって人間を縛っている。

 こうした覆いを根本から取り除き、縛っているものからの解放を与え、自由を与えるのが聖霊であり、生きて働くキリストなのである。

 このように、聖霊は自由を与えるとともに、命をも与える。(6節)

 そして、私たちの汚れた壊れやすい存在であるにもかかわらず、私たちをも変革して主と同じ姿になるようにと造り替えていってくださるという。(コリント3の18

 そうしたすべてが、主イエスの次の言葉に込められている。真理とはキリストそのものだからである。

あなた方は真理を知る。そして真理は、あなたがたに自由を得させる。(ヨハネ 832

 こうした主による自由を、神は私たちに目で見えるかたちで示してくださった。

それが、自然の姿である。小鳥たちの自由に空を飛びかける姿、野草の花の美しさ、星々の神秘な輝き、夕日や朝焼けの美しさ等々、そこには何らの束縛がない。自然こそは、神の国の自由を身近に実感できるようにと神から与えられた贈り物なのである。

 


リストボタン多数と真理

 
東京都知事選で、史上最多の得票数434万票ほども獲得した。その人物が、5000万円という大金を無利子、無担保で借用したと称する発言が報道されている。

 しかも、なぜ、5000万円を銀行に預けず、妻の貸金庫を使ったのかという質問に答えて、都知事は、「5000万円という大金を目にして、びっくりし、自宅に置いておくわけにはいかない、これはすぐに貸金庫にしまわなければと思った」と答えた。

 子どもの言い分のようなことを議会での答弁で言うのに驚かされる。

 しかも、このような人物に434万人もの人たちが投票した。これを見てもいかに数による支持というのが当てにならないかがよくわかる。

 そしてこうした人間によって大々的に行動がなされて開催が決まったオリンピックというものも、何かあやしいものが関わっているのではないかの疑いが生じてくる。

 原発にしても、フクシマ事故が起こるまでは、圧倒的な数の人たちが原発の安全を信じてきたし、その危険性を訴える人たちを見下してきた。

 これらに共通しているのは、一部の人たちの大きな利得が関係しているということである。

 数の多数があるからと言って、真理には到達せず、しばしばかえって真理に遠くなる。

 今から2000年前、イエスを処刑せよと叫んだのはやはり圧倒的多数の人たちだった。そしてそれらの多数意見の誤りは、まもなく明らかにされていった。

 自民党も先の選挙で圧倒的多数を獲得した。しかし、予想されたような主張や強行採決をやっていく。自民党に多数を獲得させると当然このようなことが起こることは見え透いていたことだった。ここにも、数の多数が支持したからといって、それが質的にも優れているということは何の関係もないことがはっきりと示されている。

 戦前は、権力によって強制的に天皇崇拝、軍人を第一に尊重することなどが教え込まれ、

 圧倒的多数がそのように変えられていった。

 そしてその多数の数の支持を受けた政治家、軍人たちは中国などアジアの人たちをおびただしく殺傷した。ここでも多数が正義とはまったく反することをしていた。

 このように、長い歴史のなかで、さまざまの間違ったことは、多数の賛成によって堂々となされてきた。あたかもそれが正しいことであるかのように。

 しかし、たとえ少数であっても、真理そのものをしっかりと捕らえているものは、残っていく。その典型はキリストである。キリストもまた当時の大多数の人たちから、悪人だ、処刑しろ、と言われ実際に処刑されてしまった。

 真理は少数のものが深く示され、それをしっかりと持ち続けようとする。ごく少数でありながら、真理は脈々と続いていく。

  それは、真理そのものの存在たる神が、その真理を維持しているからである。

 唯一の神が存在して生きて働いておられるその真理は、まずアブラハムというたった一人に啓示され、彼はそれをしっかりと保持して生きた。その真理の声に従うためには、長く親しんだふるさとを捨て、財産への執着も断たねばならなかった。それでも、アブラハムは、周囲の多数の人間の言うことでなく、ただ神の御声に聞いた。

 たった一人であっても、真理をしっかりと魂に受け止める人がいれば、神は祝福をそこに注がれる。

  アブラハムの子孫はあの星のようになる!と 主は言われた。

 人間の権力でなく、お金の力でもなく、身分や血筋にもよることなく、神ご自身が信じる人々を民を星のように増やされる。

 人間も権力によってお金によって数を増やそうとする。そして悪の力や権力、お金の力による数の増大は必ず時至れば消えていく。

 しかし、神は神みずからの祝福の力、その万能の力によって信じる人その信仰によって本当の幸いを受ける人を増やそうとされる。

 アブラハムに対して神は、あなたの子孫を夜空の星のように数えきれない多数とすると言われた。

 主イエスも、種まきのたとえにおいて、種のなかには、30倍、60倍、100倍となるものがあると言われた。

 また、二匹の魚と五つのパンを祝福されると、数知れない人たちが満たされ、さらにそのパンくずも集めると12のかごにいっぱいになったという。ここには、キリスト(神)の祝福にはかぎりがないこと、果てし無く増やされていくということが示されている。

 黙示録にあらわれる天上の世界には、神の王座の周りには、天使たちが、万の数万倍いたと記されている。何億という数えきれぬ天使の存在が言われている。

 このように、神の祝福と導きによっても数は増大していく。

 そして最終的には、無数のあがなわれた人たちあらゆる国民、民族から集まった数えきれない大群衆が白い衣を身につけて大声で、救い勝利は、神とキリストのものと叫んでいたのが記されている。(黙示録7の9~10

 


リストボタン世界は主の慈しみで満ちている詩篇33

 現代の私たちの世界をみるとき、そこが神の愛で満ちているという実感を持っている人がどれほどいるだろうか。新聞やテレビなどで報道される内容からはおよそ、そうした神の愛とはほど遠い現実がある。

 ことに近年は、大震災、原発事故、台風、水害等々、また外国でも紛争は絶えることなく、テロ事件も発生、ということで全地に神の愛があるとは考えたこともないという人が大部分であろう。

 しかし、こうした目にみえる世界の混沌とした状況のただ中に、神は私たちに詩篇を指し示されている。

 旧約聖書の詩篇とは、どこの国にもある古代詩集とは本質的に異なる内容と目的を持っている。それは詩篇を初めて見たとき、今から三〇年以上前にははっきりとは分からなかった。

 しかし、年を経るにつれてこの詩篇というものが、神からの私たちへの直接的なメッセージを深くたたえているのに気付くようになった。用語や訳語への違和感など、また表現の不適切さなどを超えて、その背後にある永遠の神からのメッセージを知るとき、ここにはだれもが本来入っていける神の大きなご意志と憐れみの世界がある。

主に従う人よ、主によって喜び歌え。(*

主を賛美することは正しい人にふさわしい。(**

琴を奏でて主に感謝をささげ

十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。

新しい歌を主に向かってうたい

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

*)「主に従う人」この訳語は新共同訳だけである。原語は、「正しい」を意味する語(サッディーク)が用いられているから、口語訳、新改訳など他の訳もすべて「正しい」と訳されている。英語訳もほとんどが  righteous (正しい)と訳し、ほかの外国語訳も同様。新共同訳で「主に従う人」と訳されたのは、聖書的に正しいとは、表面的に正しいことをしている人でなく、正しいことができなくとも、神の赦しを求め、そして赦しを受けて生きる人であり、それは主に従うことだという意味から、このように訳したのであろう。

**)ここで「正しい人」と訳されている原語は、ヤーシャール でこれは、「真っ直ぐな」という意味であるから、他の訳では「直き者」(口語訳)、「心の真っ直ぐな」(新改訳)、英訳でも upright(真っ直ぐ、公正な)を用いている訳が多数である。


讃美こそは人生の目標

 主に従う人、正しい人(心の直き人)とはだれか、それは神への讃美をもっている人だといわれている。人間は誰でも生まれつき正しい人とか悪人というのはないのであって、誰しも罪深い存在である。しかしそこから神を信じ、神からの赦しと清めを受けて、神に従う人となることができる。そのような人が正しい人、直き人と言われている。

 神を知らないときには、うつろいやすい人間に従うしかない。自分という人間、あるいは周りの人、世の中の人間に従うことになる。新聞、雑誌、テレビなどにあふれている言葉もみんな人間の考えであり、それらに従うことは人間に従うことである。

 しかし、一度私たちが神を知らされて、罪深い者でありながら神からの憐れみを受けて罪赦されるのを実感したとき、私たちはそのあまりの大きな変化によって人間より神に従いたいという自然な心が生じる。そしてそこから神への讃美が生れてくる。神に従う心をもって歩むとき、周りの何の変哲もないと思われた光景や出来事などが一つ一つ神のわざと感じられてくるからである。

 人間の最終的な目標は神への讃美である、それはことに詩篇を読むときに繰り返し現れる内容である。こうした詩篇によって私たちは、日常生活のなかで立ち止まり、私は神への讃美の心を持っているだろうかと考えさせられるのである。

 もし神への讃美を持っていないのがわかれば、その心の奥には、自分の考えや思いで生きていく姿勢、人間への讃美、あるいは人間的な欲望や願いがあったり、神への不満、不安、将来への絶望など讃美の心を妨げるものがある。

 讃美などできないと思わされたときこそ、静まって、神に目を上げ、詩篇のこころに立ち返っていくとき、再び神は私たちの心に、新しい讃美を与えて下さる。

 主への讃美こそは、正しい人(心のまっすぐな人)にふさわしい。神への讃美こそは、人生の目的であると言われる。それは、自分と神との間に正しい関係がなければ神を心から讃美できない。自分の罪がわからないとき、他者とか運命をのろったり、不平や非難、怒り、傲慢などが心に宿っている。そのようなときには、最大の恵みである罪の赦しもわからず、従って神の愛もわからない。罪という魂の最も深いところでの闇を清め、赦して下さるということで、神の愛は最もはっきりと実感できるからである。

 また、自分の魂の内なる罪が清められると外側の世界もまた違ってみえてくる。人間精神の根底にあることが解決されるとき、外側のいろいろの汚れや混乱、悪なども、その背後にある神を感じて、神の万能のゆえにそれらの背後にある神の御手を感じることができるようになる。それゆえに悪が世の中にはびこっていても、なお、神の御支配を感じて讃美できるようになる。今はみえる世界で悪が支配しているようにみえても、必ず時至れば神が支配される。そうした確固たる希望をいつも持つことによって、神への讃美が生じる。

 このように、罪赦され、周囲の世界の悪にも負けず、神に従う道がずっと続いていることを感じ、じっさい、神に従うことで、人間関係のこと、自分自身のこともいろいろと思いがけないよきことが生じることを経験していく。神を讃美できることは、こうして、罪の赦しや、世界の状況、また現実に生きて働く神を実感するところから初めて生じる。それゆえに、人生の目的は神を讃美することであると言われる。この最も重要なことは、一部でも神の働きを実感するときから始まる。そして人生の晩年になってもなお、神の生きた働きを感じるときには、神をたたえることができる。すでに古代の哲学者、エピクテートス(*)は、つぎのように述べている。

*AD55135年。キリスト教の使徒時代と重なる時代に生きた古代ギリシアのストア哲学者。奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロのもとに売られる。人間の心のあり方について具体的な生活に関係づけて述べられていて、キリスト教に近い考え方も見られる。ヒルティは、主著の「幸福論」の第一巻にエピクテトスの思想のエッセンスが語られている語録を掲載している。

 
「われわれは人と一緒にいるときも、一人のときも、神を讃美したり、称賛したり、その愛を数えるべきではないだろうか。

 畑で作業しているときも、 働いているときも、食べているときも、神への讃美歌を歌うべきではないだろうか。

 多くの人々が盲目になっていて真理のことが分からないのだから、神を讃美することもない。だから誰かがその埋め合わせをして、みんなのために神の讃美歌を歌うべきではないのか。私は神をたたえる、これが私の仕事である。」(エピクテトスの語録・上71 岩波文庫)

多様な讃美

 この詩では、多様な讃美がすすめられている。

「琴を奏でて、主に感謝を捧げ、十弦の琴、新しい歌、美しい調べと共に喜び」などといった言葉が重ねられている。

 心にあふれるものがあるとき、それはおのずと多様な讃美へとうながされる。楽器が弾けるものは多様な楽器をもって、それができない者であっても、声という神から与えられた楽器がある。

 大多数の人は、声を与えられていて、どこにいても讃美をすることができる。

 現代の私たちにとっては、可能な楽器を用い、声をもって讃美し、さまざまのタイプの讃美へとうながしていると言える。こうした多様な讃美へのすすめは、新約聖書にもみられる。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。

 そして、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ三・16

 
ここでいう「詩」というのは、旧約聖書の詩篇を歌う讃美であったと考えられ、讃美とは当時のキリスト者たちによって生み出された新しい讃美であったと考えられる。

 そして「霊の歌」というのは、とくに聖霊が注がれて作られた即興的な讃美ではないかと推測されている。いずれにしても言えることは、このような多様な讃美が最初からキリスト者の間には歌われていたということである。

 
主イエスも最後の夕食のあとで、讃美を歌ってから祈りの場へと赴いたと記されている。これからゲツセマネにて血のような汗を流して必死に祈り、そのあと捕らえられて十字架につくことになるという緊迫したときにあってもなおこのように讃美を歌ったということからしても、讃美というのが現代の我々が考えがちな、心楽しいから歌うなどといったものとは本質的にことなる意味を持っているのがわかる。それは単なる形式とか聖書講話の付け足しなどでなく、それ自体が深い意味を持っているのである。それは祈りであり、困難なときにあって神からの力ある霊を受けることでもあった。

主の慈しみに満ちている世界

主の御言葉は正しく

御業はすべて真実。

主は義と公正を愛し(*

地は主の慈しみに満ちている。

御言葉によって天は造られ

主の口の息吹によって天の万象は造られた。

*)新共同訳では、「恵みの業と裁きを愛し」と訳されているが、「恵みの業」と訳された原語は、セダーカーであり、セデクとともに、「正義」と訳される言葉である。創世記にメルキゼデク という人物が現れるが、メルキとは王の意、ゼデクとはセデクと同じで、それゆえこれは「正義の王」という意味だとしてヘブル書の著者も引用している。(ヘブル書十一・2

 また、「裁き」と訳された原語は、ミシュパートであり、これは、裁きという訳語のほかに、旧約聖書では正義、公正、公平などとも訳されていることが多い。現代の日本語では、「裁きを愛する」というと、人間を罪あるものとして断罪することを愛するというように取られる可能性が高い。なお、関根正雄訳では、「義と公平を愛で給う」と訳されている。英語訳などもたいていは、He loves righteousness and justice  のように訳されていて「神は正義と公正を愛する」という意味に訳している。

 
この詩の作者の讃美のもとになっているのは、神は正義の神であり、悪をそのままに放置しておくことなく、必ず正しく裁かれる、その確信がもとにある。神の言葉がいかに力強いものであるかという実感である。

それがこれらの言葉に現れている。

 私たちがこの詩の作者の信仰で驚かされるのは、全地が神の慈しみ、神の愛で満ちているという表現である。この文章のはじめに書いたように、この世界は不正や混乱で満ちており、詩篇のこのような言葉を現代の人がどれほど深く実感しているだろうか。

 この詩篇が作られたはるかな昔も決して平和で、何も苦痛のない時代であったわけではない。現代のように病院もないから、病気になっても医者もおらず、また国家や部族同士の戦いはいつの時代にもあった。人権などというものも認められておらず、福祉制度もなく、特に女性は夫が戦死または病死や仕事中での事故死などに遇えばたちまち生活もできないほどに困窮することも多かった。そうした苦しみや悲しみのただなかにあってもこの詩の作者は「地は主の慈しみに満ちている!」と感謝しつつ歌うことができた。

 それはなぜなのだろうか。それは神から与えられた、新しい心と目で世界を、また現実を見つめていたからである。

 預言者たちが国の滅びと荒廃のただなかで、未来に訪れる救いのときを霊の目でみることができ、黙示録の著者が、迫害の暗黒のなかで、天上の清められた人たちの大いなる讃美の声を聞き取ったように、この詩の作者もまた、通常の人たちには見えないし感じることもない、神の愛が地を満たしているのを実感したということなのである。

 この詩の作者のように、この世界はいかに混乱や悪がはびこっているようにみえても、私たちの魂が、神(キリスト)に深く結びつくほど、地にはよきものが満ちているそのように実感できる状況が指し示されている。

 ヨハネ福音書の冒頭で、次のように言われていることも、こうした「満ちている」という実感を表したものにほかならない。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ一・16

 使徒パウロもこうしたキリスト信仰によって、満ちあふれるものを深く体験したがゆえに、つぎのように述べている。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エペソ三・1819

 これらはすべて、この詩の作者が言っている、「地は主の慈しみで満ちている」ということと共通した実感である。新約時代のヨハネやパウロにおいては、旧約聖書における詩人が感じた以上の豊かさとあふれるものを魂において実感していたのがうかがえる。それが彼等が生涯、キリストを証ししていこうとする原動力にもなっている。

 私たちは日常の変化のない生活が当たり前と思ってしまって、それを超えた世界があるということに気付かずに生きていることが多い。

 そのような動きの取れなくなっている世界に生きる私たちにとってこの詩の作者のように、神に引き上げられて、通常では見ることのできないところを見た人たちの証言は貴重なものであり、それによって私たちもまた引き上げられるのである。

 しかし、こうした特別の霊的な恵みが与えられていなくとも、周囲の身近な自然の姿を見つめることによって私たちは神の慈しみが随所に現れているのを感じることができる。

 最近の夕空に輝く金星の強い光、それらと共に見えはじめる冬の星座の光の数々は私たちへのメッセージが込められており、私たちに語りかけようとして下さっている神の愛を感じさせてくれるし、山野の野草たちは、その花や姿の一つ一つが、その純粋さや創造の多様性をもって、私たちの狭い心を広げ、創造の大きな神の御手へと導こうとする神のお心を感じさせるものである。

神の言の力

 この詩の作者はこの広大無辺の天地宇宙が、神の言葉によって創造されたという確信をもっていた。私たちの通常の受け止め方は、138億年ほど昔に、無から、ビッグバンという大爆発によって突然に、しかも偶然にできたというものである。しかし、その大爆発以前はどうだったのかと問われても、無であったとしか言いようがないのが現代の科学のいうところである。 そして将来はどうなるのかということについても、どこまでも膨張するのか、それとも収縮をはじめていくのかも分からない。

 そのような宇宙といった大きな規模のものでなくとも、身近な木の葉の千差万別の形、あるいはその鋸歯がなぜそのような状態になっているのか、鋸歯などなくとも生きていく上で何も支障はない。またその花の色や形態も実に多様であるが、そうした一つ一つがなぜそのような形態であるのか、バラのトゲ一つとってもその存在の理由は分からない。トゲなどなくても植物は何の支障もなく生きていけるからである。

 物質は万有引力や電気のプラス、マイナスの引力、原子核の陽子と中性子に働く核力等々によってその運動は支えられ、化学物質も成り立っているが、そうした力や法則そのものの存在の理由というようなことは科学では答えられない。

 こうした万事が究極的には分からない、ということに行き着くのが科学であり、ここに大きな限界を持っている。

 究極的にはっきりしたことは何も言えない、ということからは、確たる希望は生まれない。平安も与えられない。そもそもこのような科学上の理論をみずから検証して理解できる人はごく少数の物理学者だけであって、ほかの人はみんなそれを信じているだけなのである。

 こうした科学の力を信じることによっては悩みや苦しみ、絶望といった人間の深い闇には何も力を与えることができない。たった一人との人間関係で複雑にもつれてしまった心、憎しみや怒り、ねたみなどの心はこのような科学上のことではどうすることもできない。

 しかし、聖書に現されている信仰は、万人に開かれており、しかも苦しみや悲しみのただなかにいる人に深い支えと力を与えるものである。

 ここで作者が述べていること、「神の言葉によって天地が創造された」ということは、神の言葉が絶大な力を持っていることを実感している心がそこにある。

 キリスト者の考え方の基本はやはり、聖書の最初に書かれているように、神が天地万物を創造されたということであり、今もその創造の力を維持し続けており、万物を支えておられるということである。

 その万物を創造されたお方であるからこそ、私たちの周囲の悪をも究極的には滅ぼすことができるお方であると信じることができる。

歴史における神

主は大海の水をせき止め

深淵の水を倉に納められた。

全地は主を畏れ

世界に住むものは皆、主におののく。

主が仰せになると、そのように成り

主が命じられると、そのように立つ。

主は国々の計らいを砕き

諸国の民の企てを挫かれる。

主の企てはとこしえに立ち

御心の計らいは代々に続く。(詩篇33の7~11

 私たちが神のわざをみるとき、現在みえる世界のことだけではほんの一部となる。なぜなら神ははるか昔から歴史を動かし、導いておられる神だからである。聖書にはそのために、周囲の暗黒と混乱、またそれと対照的な自然の雄大さや美しさなどをたたえる言葉とともに、過去から現在へと導く神のこともしばしば記されている。

 ここでも、この詩の作者からはるかに昔のことである、モーセによるエジプトからの脱出へと思いをめぐらしている。

 そして時間の流れの中で、すべてが権力者や武力、あるいは偶然的なことで生じていると思われている歴史においても、この作者は天地を創造し、今も支えている神の万能の力がやはり働いていると知っていた。

 私が高校などで学んだ歴史とは全くの暗記物であって、教える教師は何かというと、「これは○○大学の入試に出された」などということを口癖のように言っていたので、さすがにそれにうんざりしてしまったのを思い出す。そこでは目先の有名大学入試に少しでも多く合格させるということだけが至上命令であって、歴史が何なのか、何のために私たちは歴史を学ぶのか、日本人として歴史を知った上で、未来をどのように考えていくのかなどといったことは全く一言も触れることはなかったし、当時の教師はそのようなことを考えたこともないようにみえた。

 そのように歴史など単なる暗記物だとほとんどの生徒たちが見くびっていたし、試験が迫ってきたら集中的に覚えたらいいのだと考えていた。

 しかし、歴史とはそのようなものでなく、はるかに深く重要なものであることが、大学に入学して当時の学生たちと議論し、彼等がたえず口にしていたマルクス・レーニン主義関係の本とか、マルクス主義と対決した河合栄治郎(*)の著作などを読むようになって気付いたのである。歴史というのは、その背後に法則がある、その法則にしたがって動いていくのだといった考え方は初めてのことであって、驚かされたものであった。そしてそのように歴史を見る考え方のもとは聖書にあるということも分かってきた。

*)河合栄治郎(18911944)は、経済学者・思想家。東京帝大教授。理想主義的自由主義の立場からマルクス主義にもファシズムにも反対したが、そのファシズム批判の故に1938年に著書発禁、翌年休職処分となった。矢内原忠雄と同じ経済学部に属していた。軍部、政府、右翼の者たちの攻撃も強まり、言論統制も厳しくされていった時代で、矢内原忠雄が大学から追放された後、河合も大学から追われた。

 聖書でははじめから歴史は極めて重要なものとなっている。アブラハムという個人が神の祝福を受けるとき、その子孫は空の星のようになる、そして子孫は外国に長い間奴隷となって苦しんだあとで、救い出され大きな民族として発展していく、ということが創世記に記されているが、ここにもすでに歴史とは神の御計画そのものであるということが暗示されている。

 歴史は神の導きそのものであり、神の万能が現れるところであり、また時間を通して神のわざが表されるところなのである。

 それゆえ、この詩においても、モーセを遣わして、エジプトにいた民を救い出し、そこから周囲の国々に神の力を証しさせ、将来神のことが世界に知らされていく予告となっていく。

 そしていかに権力や武力があろうとも、またいかに広大な地域を征服しようとも、神がひとたびある国の支配や権力を打ち破ろうとされるとき、必ずそれは成る。

主が仰せになると、そのように成り

主が命じられると、そのように立つ。

主は国々の計らいを砕き

諸国の民の企てを挫かれる。

 これはそのような確信を表している。神への信仰とは、単に個人的な悩みとか願い事を聞いてもらうためだけのものでなく、世界の歴史全体を支配し動かしておられるお方への信頼も含まれているのである。

 
このような社会的、政治的な領域における信仰はよく分からないという人がいるかも知れない。しかし、自分の心の内だけの平安を思っているだけでは、どこか漠然とした暗さが心深くに残る。それは周囲の社会や人々はどうなっていくのだろうという疑問がついてまわるからである。そうした世界全体に関する闇を克服するのが、ここに現れているような信仰なのである。

個人を見つめる神

いかに幸いなことか

主を神とする国

主が相続地(嗣業)として選ばれた民は。

主は天から見渡し

人の子らをひとりひとり御覧になり

御座を置かれた所から

地に住むすべての人に目を留められる。

人の心をすべて造られた主は

彼らの業をことごとく見分けられる。(詩篇331215

 ここで、一五〇篇ある詩全体のタイトルともなっている詩篇第一篇の冒頭にあるのと同じ言葉、「いかに幸いなことか」(原文では、「アシュレー」という一語)が出てくる。

 当時も現代に至るまでも世界のあらゆるところで、様々の神々がいる。しかし、聖書で言われている神、天地創造された神を信じることこそ、あらゆる幸いの原点であることが言われている。

 天地宇宙を創造された神であり、歴史を導くという壮大な神でありながら、そのまなざしは一人一人を見つめて下さっているという。その著しい対照がここにある。

 原文では、この詩篇三三篇の六節から十五節までに、「すべて」という言葉(コル kol)が次のように五回も繰り返し現れる。日本語の聖書では、その言葉が省略されたり、「皆」とか「一人一人」とかいろいろに訳されているので、そのことに気づきにくいが原文ではその繰り返し強調されていることがはっきりと浮かび上がってくる。

・主の息吹によって、すべての星々(万象)が造られた。(六節)

・すべての地は主を恐れ(八節)

・世界に住むものは全て主におののく(八節)

・主は、天から人の子らすべてを見つめ(十三節)

・地に住むすべての人に目を留める(十四節)

・人の心をすべて造られた主は(十五節)

 

 このように何度も「すべて」が繰り返されているのは、この詩の作者がそれほどに神が全世界、宇宙、人間、歴史を総合的に支配なさっているというのを深く実感していたからである。この点において、日本も含めさまざまの民族の神々は、それぞれの土地の神、山の神など、ごく狭い領域の神にとどまっているのと著しく対照的である。そうした神々を信じるということは、この世界の背後に薄暗いもの、不気味なある力を感じていたのを示していると言えよう。

 現代の私たちはどうであろうか。神など信じないという人たちも、会社の力、金の力、権力や政治、大国の力あるいは武力、さらに偶然や悪意、死の力等々、得体の知れない力をいくらでも信じていると言えよう。

 私たちはすべてを、正義と真実な神の支配下にあるものとして、統一的にみつめることがここでも求められている。

真の安全と勝利

王の勝利は兵の数によらず

勇士を救うのも力の強さではない。

馬は勝利をもたらすものとはならず

兵の数によって救われるのでもない。

見よ、主は御目を注がれる

主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

彼らの魂を死から救い

飢えから救い、命を得させてくださる。

 今から二千数百年も昔から、はやくもこのように武力や権力、軍備増強の限界をはっきりと知っていたことに驚かされる。馬とは古代世界にあっては軍事力の象徴的なものであった。

 日本でも、すぐれた騎馬隊は戦さを支える重要な存在であった。一五七五年五月、長篠の戦で武田勝頼の優秀な騎馬隊が、織田・徳川の連合軍に大敗したのは、兵力の差もあったが、決定的な敗因は鉄砲隊の攻撃によるものであった。鉄砲が登場するまでは馬に乗った勇敢な武将たちの戦いが勝利を導く重要な要素となっていたのである。

 この詩の作者は、兵の数や馬の効果的な利用も、勇敢な勇士がいてもそれらは決して勝利につながらないという。このようなことは、現代で言えば、いかに軍隊を強力にして、軍備を最新の強力な破壊力のあるものにしてもだからといって勝利を得ることはできないということになる。

 このような驚くべき発想はどこから生れたのだろうか。

 それは歴史を導き、国々すべてをも背後で支配している神への絶対的な信頼の心であり、信仰であった。そしてそれは頭のなかで漠然と神の力を信じているというのでなく、この詩を作った人のいわば血となり肉となっていて、毎日の生活においてもそうした神への深い信仰に生きていたからであろう。さらにそれに加えて神の霊的な啓示によって、このような真理が示されたのである。

 このような確信は、ほかにも見られる。

戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが

我らは、我らの神、主の御名を呼ぶ。

彼らは力を失って倒れるが

我らは力に満ちて立ち上がる。(詩篇二十・89

 

 ここでも、この詩の作者は当時の戦力を誇り、それに頼る姿勢とは全く異なって、神に頼り、神を呼ぶことこそ、勝利の基であり、そして軍備に頼るものが祝福を受けず、最終的には倒れていくことも知っていた。

 このように、信仰の確信は神との深い交わりから本人の平安、そして天地宇宙の創造の神、社会的政治的な問題へとつぎつぎと広がっていく。

 そして最後に現在と未来をみつめるまなざしが置かれる。

我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。

我らの心は喜び

聖なる御名に依り頼む。

主よ、あなたの慈しみが

我らの上にあるように

主を待ち望む我らの上に。

 
私たちは現代の問題に直面してどのような手段もその解決に即効性のある方法などないのを知っている。個々の人間の悩みや苦しみ、悲しみに対してなすすべのないことが多い。

 さまざまな病気の中で、医学もどうすることもできない重症の癌や、エイズなどの重い病気に苦しむ人においては日夜その心身への負担、苦痛はたとえようもないことも多いし、また飢餓や貧困の苦痛、戦争のために家を追われた人たちの苦痛もはかりしれない。

 しかし、また、それらの方々を少しでも援助しようと、それぞれの状況に赴いて苦闘されている人たちも多い。

 そうした中でそのようなところに実際に関わっておられる方々とともに、誰でもが可能な道は、ここにあるように、神を待ち望み、祈りを続けることである。神は真実なお方であるゆえ、真実な祈りはどこかで必ず聞かれるからである。そして神の慈しみが太陽の光や雨がすべての人に及んでいるように、世界の人たち、そのような広いところでなくとも、身近なわずかな人たちのために祈ってその上に注がれるようにと願い続けることができる。そしてそうした祈りの心を持ちつづけるときには、神が聖霊を注いで下さって、闇のただなかにあっても、主にある喜びや平安を与えて下さるということを、この詩は最後に指し示しているのである。

 


リストボタン11月の九州・中国地方での集会

今年の秋も、多くの方々の祈りに支えられて九州、中国地方のいくつかの集会を訪ね、み言葉を語る機会が与えられた。そのことを覚えてくださった方々への報告と感謝を込めて記しておきたい。

 11月6日(水)朝、自宅を出発、四国を横断して西端の佐田岬半島から、大分市に渡り、夜は全盲の梅木龍男ご夫妻宅にての集会。2001年から始まったので、これで13回目となる。いつも参加されている大分集会代表者の渡辺信雄氏ご夫妻は所要で関東地方に行かれて不参加であったが、初参加の方も二人あり、とくに最近結婚して集会に参加しはじめたという方がさらに導かれるようにと祈った。

 翌日、鹿児島に行く途中、「祈りの友」会員の横井久兄を佐賀市の自宅に初めて訪ねていろいろ信仰に関する交流が与えられ、「祈りの友」の歌を賛美し、ともに祈る機会を与えられて感謝だった。その後、鹿児島への途中、えびね高原にて宿泊。

 8日(金)鹿児島市での集会は、夜であったので、えびね高原から霧島連山のうちの韓国岳(からくにだけ 標高 1700メートル)に登り、紅葉の山にて、主の御業に触れ、また頂上付近の人のいないところで、1時間ちかく静まる時間が与えられ、祈りとその後の訪問先での聖書の内容に思いをめぐらせる時間となった。秋の山を歩くことは、その雰囲気と樹木、風景、澄んだ大気等々によって、心身を新たにされる。山もまたみ言葉の世界である。

 鹿児島での集会は、初参加の方もおられ、また今年も東京から親族の救いのためにとくに参加された方もあり、片道160キロほどもある宮崎県西都市からの参加者もあり、そうした遠距離の参加者によっていっそう祝福された集会となった。集会責任者の古川静氏の主にあるお手紙をいただいたことがきっかけとなって、鹿児島を訪れる機会が与えられ、今回で3回目となった。私の妻の大学時代の友人も引き続いて参加され、集会員の方々の祈りによる支えによるところが大きいと感じる。

 翌日は、熊本市のハンセン病療養所の恵楓園を訪ねて、院内の病院に入院中のIさんを訪ねた。だんだん回復されていて、何十年という療養所内での生活にもかかわらず、ベッド上で明るく対応されて、信仰による支えを見る思いであった。

 その後、福岡県南部の「祈りの友」の野口さんご夫妻宅を訪問、み言葉と賛美、そして「祈りの友」の歌などを歌った。ご夫妻とも高齢となっていろいろと体調も悪いところもあるけれども、主に希望をおいておられた。

 翌日1110日の日曜日は、福岡市での集会。天神集会と福岡聖書研究会との合同の集会となり、今回は、九州大学の学生(韓国からの留学生一人を含む)たち4名が参加、また初参加の方もおられた。そして去年のこの福岡市での会に初めて参加された方、二回目の方々も引き続いて礼拝に出ておられるとのことで 感謝であった。

 その会の感話のなかで、学生の一人が、福岡のYMCAの寮にいる学生たちが、キリスト者でないのに、その寮のためによく尽くしているので、どうしたかと尋ねたら、40年も昔に、その寮をつくった人が、その寮のために祈りを真剣に続けられたということを読んで知った。そのため、この寮をまもることの重要性を教えられたということを紹介され、「神学とかより、祈りが大切だと思う。祈りは、40年経って聞かれることもあるのだ」との実感を語られた。

 一時はその寮も維持が難しくなっていた時期があったが、最近ではそれを乗り越えられたという。 学生からそのような祈りの重要性をはっきりと聞くということは今までにほとんど記憶がなかったので、新鮮に感じた。本当に祈りは大切だ。朝の10分でも15分でも静かに祈るかどうか、み言葉に思いを集中するかどうかによって私たちはその一日の霊的状態を相当左右される。

 私が県外の集会に出向くときには、5曲~6曲の賛美を歌うようにしている。賛美は単なる礼拝の付け足しでなく、賛美それ自体が礼拝であり、祈りとなるからである。そして賛美は、初参加の方で、聖書にまだなじめない方でも心に届くことがある。私自身初めて京都の聖書集会に参加したときには、その聖書講義というものがあまりにも大学の講義的であって、得るところがなかったが、そこで歌われた賛美が心に残ったという経験を持っている。

 その後、福岡市の「祈りの友」会員のUさんを施設に訪問。記憶は次第にうすれがちとなっているが、信じることによる心の喜びや平和、祈りは持ち続けておられる。信・望・愛は最後まで残るといわれているのを思い起こした。

 月曜日には、山口県から島根県に向ったが、その途中に秋吉台があり、その高原を歩いて秋の植物の一部に触れることができた。「今日のみ言葉」に付加している「野草と樹木たち」でリンドウを取り上げることができた。長距離の車による移動の連続と集会ばかりでは、からだの具合が悪くなるので、時々状況が許すときには山を歩くことによってよくなり、夜も安眠につながる。み言葉をきちんと語るためにも睡眠不足になってはいけないので、こうした機会は大切なものとなっている。

 島根の「祈りの友」の栗栖さんご夫妻宅を訪ねた。ご夫妻は以前に大きな交通事故に遭われたが、次第に回復され現在では1万歩も歩けるようになっており、主の支えと多くの方々の祈りの支えを感謝しておられた。今回の家庭集会では、親族の方お二人が初めて参加され、み言葉がその方々の心に留まり、イエス様に魂の目が開かれるようにと祈りつつ語らせていただいた。

 その後は、奥出雲の土曜会館での集会。この場所で戦後の混乱期に教育と伝道に力を注いだ加藤歓一郎(19051977)によって信仰を学んだ人たちが現在も信仰を続けておられ、山村においてキリスト教信仰を持ちつつ、農業を営むという困難な道を歩まれた方々である。この加藤によってキリスト者となったこの地の中学教師により信仰を知った那須佳子さんは大阪高槻市で集会を続けておられ、加藤の信仰が形を代えて受け継がれている。

 松江市で教友との交流のあと、鳥取市の集会に向った。去年は病気で参加できなかった方も加わることができ、また今回初参加のご夫妻もおられ、とくに初めての方が今後もみ言葉の学びにより、新たな力を受けて信仰に歩まれるようにと願った。1年に一度の主にある集りであっても、そのときに主がともにいてくださって主にある交流を与えられ、新たな歩みへとうながされるので感謝だった。

 翌日の岡山での集会は香西民雄氏が長く責任をもってこられた集会であるが、香西さんが耳が次第に聞こえなくなって、今回は奥さんが司会をされた。来年には息子さんの信さんが郷里に帰って集会を受け継ぐとのことで、主の祝福が今後とも続き、み言葉が宣べ伝えられるようにと願った。

 主が「収穫は多いが、働き人が少ない。働き人を送りだしてくれるように、祈れ」と言われた。その言葉に従って、私たちはいつもみ言葉のための働き人を起こしてください、すでにそのために働いている人たちにさらなる聖霊とみ言葉を注いでくださいと祈っていきたい。

 その後、四国に渡り、高松市で徳島の集会にも参加されたことのあるMさん母子を尋ねた。娘さんは車いすで体調も十分でなく毎日を自宅で一人過ごしている単調な生活を余儀なくされている。Mさんは現在はどこの教会にも属していないとのことで、徳島聖書キリスト集会の礼拝CD、聖書講話CDによってみ言葉を学んでおられるとのことだった。からだの障害ゆえに、生活が大きく制限される方が、主により支えられるようにと願った。

 さらに高松市でやはり徳島にかつて住んでいたN兄を訪ねた。いろいろと事情もあり、集会にも現在参加できていないが、それでも神様のことは一日も忘れたことがないと言われ、今までの困難なときに、不思議な助けが与えられたことを具体的に聞くことができ、離れたところにいる者にも主が顧みてくださっているのを知らされて感謝だった。

 今回も長い行程を主が支え、また各地の集会の方々、送り出してくれた徳島聖書キリスト集会など、多くの方々の祈りに支えられて各地でみ言葉を語り、無事帰宅することができたのは大きな感謝だった。

 私自身もみ言葉によって力を受けるとともに、1年ぶりに再会した方々によって、主にある交流が与えられ、霊的にも与えられることが多かった。

 私たちができることは小さいことでしかないが、主がそのことを用い、多くの方々の祈りを聞いてくださって、この日本に本当の神がおられ、キリストによる救いを知らされる人たちが増やされ、その人たちの闇に、さらにこの日本に神の光が射すようになりますようにと祈り願いつつ

 人間のその時々の意見や考えでなく、永遠の真理たる神の言葉こそは、あらゆる時代の状況に真に対応できる力を与えるゆえに。

 


リストボタンお知らせ

 

〇クリスマス特別集会(徳島聖書キリスト集会場にて)

・日時12月22日(日)午前10時~午後2時。

・内容こどもと共に、讃美タイム、聖書講話、有志の感話(証し)、交流会など。

・会費500円。(弁当代金)

・申込先中川春美  電話 0883241330  E-mailmanna7@ked.biglobe.ne.jp

〇キャロリング

・日時1224日(火)午後6時半に徳島聖書キリスト集会場に集合。

〇元旦礼拝2014年1月1日(水) 午前6時30分~8時30分

〇第16 冬季聖書集会

・日時2014年1月11日(土)13時受付~14時開会~ 13日(月)13時解散

・テーマ「復活のイエスに会う」

・会場上郷・森の家  横浜市栄区上郷町1499の1 

        電話 045-895-5151

・講師吉村孝雄

・内容

①聖書講話

イザヤ書、エゼキエル書、詩篇など旧約聖書と、福音書や使徒言行録など新約聖書をとおして、イエスに出会うこと、復活について学ぶ。私たち一人一人が復活のイエスと同一である聖霊を与えられることを祈りつつ。

②話し合い(「私の好きな讃美歌、聖句」など)、早朝祈祷、賛美タイム、DVD映画鑑賞、体験を話し合う、感話会など。

・会費一万九千円。大学生 五千円。日帰り参加 千円+食事代。

・持ち物聖書、讃美歌、筆記用具、洗面具、パジャマなど。

・申込締切1225

・申込先土屋

 〒299ー0127 千葉県市原市桜台 1の11の2

電話・FAX  

0436ー66ー5593

 E-mailsamemikemano_tutitya@yahoo.co.jp    

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〇去年は30名余の方々の参加で、会場に近い神奈川、東京、千葉、埼玉などからが多く、静岡、岩手などからも参加者がありました。また、30代前後の若い世代の方々も5~6名参加され、司会など、そうした方々も担当されていました。年頭にあたってみ言葉と祈り、そして賛美で始めることの祝福を思います。

 去年は、水野源三作詞の「粉雪」という賛美を歌っていたら、雪が降り始め、そのまま降り続けてかなりの積雪となったことを思いだします。

 日本は近隣のどの国にもまして、唯一の神を知らない人たちが圧倒的に多いことが、現在、そしてこれからの時代に大きな問題となってくると思われます。これは個人においても、唯一の愛と真実な神、死にもうち勝つ力を与えてくださる神を知っているのと知らないのとは大きな違いが生じるのと同様です。

 主が今回の冬季集会においても、み言葉と聖霊を豊かに注いでくださいますようにと祈り願っています。