その愛によって、罪のために死んでいた私たちを |
・2013年2月 624号 内容・もくじ
人間は何か大切なもの、宝というべきものを持っている。健康こそ一番の宝だ、という人も多い。また、子宝というように、子供こそは宝、これは昔であったら現在以上に労働力としても必須であったから、子供は宝だ、という気持ちは強かったと思われる。それゆえに、つぎのような歌もある。
「銀も金も玉も何せむに、優れる宝 子にしかめやも」(しろがねも くがねも玉もなにせむに まされる宝 子にしかめやも)―山上憶良(万葉集 )
私たちは、何を宝としているだろうか。未婚の人、結婚しても子供がいない家庭など、子供を宝とすることのできない人々もいるし、また、財産、お金、金塊、自分のスポーツや音楽、技術等々の能力、家族などいろいろなものを人は宝としているだろう。
地上に宝を積む―それは人間のたいていの努力がそのようになされている。子供のときからの勉強やスポーツ活動、各種コンクールの目的、この世の地位やお金、財産、評判、人から認められること等々、みなこの世で一番、あるいは優秀な成績をめざしているのであって、地上の宝を目指しているということになる。
このように、世界全体が、地上の宝を目指しているのをごく当たり前として見聞きしてきたり自分もそのなかで生きてきたなかから見ると、キリストが言われたつぎの言葉は、驚くべきものである。
…あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。(マタイ福音書 6の19~20)
天に宝を貯えるとは、どういうことだろうか。ふだんそのようなことは、テレビや新聞、雑誌などでも聞いたことも見たこともないという場合がほとんどであるから、何か特別な難しいことのように感じるかもしれない。
天とは神のおられるところである。それゆえに、神を見つめてなすこと、思うことは、天に宝を積むことにつながる。
例えば、自分に悪いことをたくらんだ人のために、真実な心で祈る―その人の心から、悪い心が追い出され、代わりに神の愛が注がれるようにとの祈りは、真実に神に心が結びついていて、神をしっかり見つめているのでなければ到底できない。それゆえに、こうした祈りは、天に宝を貯えることになる。
逆に、こうしておいたら、あとでお返しがあるなどと考えてすることは、それまでに天に貯えたいくらかの宝があったとしても、それを壊すことになるだろう。
小さなことでも、人のため、神のためと、本当にそのことを思ってなすことは、天に宝を積むことになる。そういう意味では、誰にでもできることであり、ごく身近にあることだと言えよう。
主イエスが言われたように、まず神の国と神の義を求める心でなすときには、結果がどうであれ、天に宝を積むことになる。
主は、「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。私のうちにとどまっていれば、私もあなた方のうちにとどまっている。そうして豊かに実を結ぶようになる」と言われた。これは、天に宝を積むための道を別の表現で言ったものである。
他方、信じたときからすでに宝は与えられているのである。それはつぎのような言葉からもわかる。
…わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(Ⅱコリント 4の7)
ここで使徒パウロが言っている宝とは、ひと言で言えば、キリストである。言い換えると、キリストが私たちに与えてくださる光であり、命であり、また聖霊である。
それはどんな壊れやすい、また汚れた心を持っていても―だから土の器と言われている―そのような人間の心に神はキリストを住まわせてくださるのである。
私たちが、キリストに向って、主よと祈ることができれば、あるいは、神に向って、天のお父様、と祈ることができれば、それだけですでに私たちにはこの世の最大の宝をいただいているのである。
そのように祈ることは聖霊によってでなければできないからであり(ローマ8の15)、聖霊は最大の宝にほかならない。
その宝をしっかりと持ち続けていくことによって、さらに主イエスが言われたように、日々あらたな宝を天に貯えていきたいと願うものである。
石と木といずれが固いか、強いかと言われればだれでも石が強い、固いと答えるだろう。石で木を傷つけたり、小枝を石でたたきつぶすことはできても、木で石を傷つけたりできないからだ。また、木の枝は手でも折ることができるが、石はまず手で壊したりできないといったように日常の身近な現象によってそのことはだれでも当然のように思っている。
しかし、わが家への山道の登りに昔からの石垣があるが、そこに芽生えたツバキやスギ、あるいはテイカカズラなどの根が次第に高い石垣の中に入り込み、石垣の岩のすき間に入り込み、そこから石垣を壊し、壊れた岩石の中に根が入ってその岩をも壊していくのが見られる。また別の谷川の岸には、クスノキの大きな根が、岩の間に入り込み、岩石を破壊しつつある。
これらの樹木は、芽生えて間もないときには、簡単で手で折ることができるし、枯れたら朽ちていくし、またよく燃えて灰になってしまうから、木は岩石とは比較にならない、弱いもの、 力のないものというようなイメージがある。
けれども、生きた樹木の根が岩石をも砕いていく姿を現実に見るときには、その強固さに驚かされる。木の根など、細いうちは簡単にたたきつぶせる弱い柔らかいものである。それがいかにして、岩を砕いていくような力を生み出すのか、驚くべきことである。
こうした植物の力は、例えば身近な野菜、ダイコン、ニンジンなど根菜類、イモ類などを見てもあの柔らかいダイコンが土のなかに太って土を押し広げていくのは相当な力が必要であるがいかにしてあの柔らかいダイコンが土を押し退けていくのか、それも相当な力がなければあれだけの太さの土を押し広げられないのはすぐに分る。
雑草といわれる草であっても、ときに、舗装した道のすき間から芽を出してくることがあるし、福島の原発事故で高濃度の放射能で汚染された水をとおしていたホースから水漏れがあったのを調べると、塩化ビニール製のホースを、チガヤ(*)というイネ科の植物の芽が、穴をあけていたのが判明した。
(*)ツバナとも言われる。開花前のものは、甘みがあって日本の各地で食用、あるいは子供の遊びのなかで食べられていた。
植物の根は、手でもつぶせるし、いかにも細くて弱々しく見える。しかしそれは、固い大地の中を少しずつ穴を大きくして根を成長させ、さらに太くし、さらには岩をも砕く力をも持っているのである。
このようなことは、人間の生きる世界、精神的な世界にも見られる。
キリストは、弱く捕らえられて無惨にも殺されてしまった。しかし、その弱々しく見えるものが、悪魔的な力をもって迫害を重ねるローマ帝国の国家権力という強固な固い岩盤のようなもののなかに入り込み、徐々にその固さを壊していった。そして広大なローマ帝国の各地にキリストを信じる人たちが根付いていった。
それは本来なら入り込めないような固い大地を柔らかな小さい根が不思議な力で成長していくのに似たことである。
私たちの一人一人の魂にも、固いもの、どうしても壊れないような自我、自分中心という固いものがあるが、そこにキリストの種が落ちるとき、そして聖なる霊によって成長していくときに、徐々にではあるがその固い自我、自分中心という本能のようなものが、砕かれてそこにキリストが住んでくださるようになる。
主イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われた。それはキリストの真理に敵対するようなかたくなな心、固い心を溶かすのは、議論や人間的な怒りあるいは憎しみなどではない。それは草の根が固い大地に少しずつ入り込んでいくような神の愛こそがそうした敵意や真理に対する敵対心を溶かしていくものだからである。
今から3500年以上も昔、アブラハムという一人の人間に注がれた神の国の水が、少しずつ太い流れとなって、エジプトで一つの民族となった。エジプトの王はイスラエル民族を迫害し、抹殺しようとした。
しかしその強固な権力に対して、モーセは、大国エジプトの軍事力などに比べたら、小さく無に等しいように見えた力―しかしそれは神の力だった―だけを受け取ってエジプトの固い敵意をも砕き、そこから民を引き連れて行くことができた。
エジプトを脱した以後も、数々の困難が生じて神の民は滅んでいきそうになったが、荒野の40年という歳月を生き延びて、神の指し示す地に到達し、そこから周囲の世界に浸透し、根を張っていった。
このように、聖書に示された真理は、いかに小さく弱いものに見えても、確実に根を張っていく、どんな強固な政治体制のなかや、迫害のさなかの暗黒の世にも、戦争や病気、災害といった苦しみの中にも、神などいないと思われるような混乱にあってもなお、そこにも根付いていった。
そしてこの真理という根は今後とも、そうした強靱な力を失うことなく、未来に向っても根を延ばし続けていく。
世の終りに至るまで…。
私たちは、例えば、道路で後から車が迫っているとか、山で、崖とは知らずに近づこうとしている人を見たときなど、特別な危機が迫ったり、重大な問題がおこりかねないときには、大声で叫ぶ。
しかし、ふだんは、大声で何かを言うことはほとんどない。
聖書においても、大声で…ということは少ないが、神の熱情をあらわすときに大声が出される。
…主はシオンから、吠えたけり (*)
エルサレムから声をとどろかされる。(アモス書1の2)
… 彼らは主に従って歩む。主はライオンのほえるように声を出される。
主が声を出されると、子らはおののきつつ西から来る。 (ホセア11の10 )
(*)吠えたけり… 叫ぶ(新改訳)、吠える(口語訳)
ここで用いられている原語―吠えたける と訳されているヘブル語(シャーアグ)は、つぎのように、ライオンが吠えるというようなときに用いられる言葉である。
… 見よ。一頭の若いライオンが、ほえたけりながら彼に向かって来た。 (士師記14の5)
…若いライオンはほえたけって餌を求める。(詩篇104の21)
アモスやホセアといった旧約聖書の預言者たちは、このような言葉を用いるほどに、はっきりと神の大いなる声を聞き取ったのである。しかし、一般の人たちには、神の声はまったく聞こえないかすかなものでしかなかった。
預言者とは、一般の人には聞こえない神の声を明確に聞き取った人なのである。それゆえにその確信は揺らぐことがなかった。
預言者たちは神の声を ライオンのような重々しい大きな声として聞き取っていた。
さらに、神の大いなる声は、詩篇のなかにも見られる。
…主のみ声は水の上に響く。栄光の神は雷をとどろかせ、主は大水の上におられる。
主の御声は、力をもって響き …杉の木を砕き…(詩 29の3)
このように、雷鳴のときのすさまじい音のような力強い声をもって神は語りかけておられるのだということを実感していた。
こうしたことは、聖書の最後の書である黙示録にも繰り返しあらわれる。
…また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
天使たちは、 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
(黙示録 5の12)
黙示録の著者は、激しい迫害の時代、どこに神がいるかと思われるような状況にあって、かくも明確な声―しかも万の幾万倍―何億という天使たちの大いなる讃美、叫びを聞いたという。 それは全世界に響きわたるようなものであったろう。
また、預言書として最も重要なものとされるイザヤ書にもつぎのように、預言者が大声で叫ぶことが記されている。
声をあげよ、角笛のように。
私の民に、その背きを
その罪を告げよ。
彼等が、日々私を尋ね求め、
私の道を知ろうと望むように。(イザヤ書58の1~2より)
ここで、言われているのは、人々が罪を犯したまま、その重大性に気付くことなく、日々罪を重ね、滅びへと向っている。そのことを他人事としてでなく、自分の切実な問題であるかのように、力をこめ、魂をこめて叫び、告げよというのである。
このような聖書の示すところに対して、 この世では、いつも大声で言われているのは何であろうか。経済成長、安全保障、消費税や物価、株価といった問題である。
それゆえにこそ、聖書では、それらと4異なることが大声で言われている。
主イエスもそのように記されている箇所がある。
…祭が最も盛大に祝われる終りの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。
「渇いている人はだれでも、私のところに来て飲みなさい。
私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネによる福音書7の37~38)
イエスがこのように、あえて立ち上がって、だれに向けて言ったともはっきり書いていない表現で、大声で言ったというのはこの箇所だけである。それはそこに居合わせた人にだけ言うのなら、そんなに大声でいう必要もない。これは、この最も重要な真理であるゆえに、全人類に、その当時もまたそれ以後のあらゆる人々に向って言われたいわば壮大な声なのであり、宣言なのである。
イエスのところに行きさえすれば、命の水が万人に与えられる―この重要性を時代を越えて通じる永遠の真理だと啓示をうけたヨハネはこのようにしてそれを福音書に記したのであった。
そして、この預言のとおり、以後二千年にわたって、このイエスの大声は響き続けている。
それを聞き取った人、たとえその小さき反響であっも、いまも聞き取りつつ日々を歩んでいる人たちは、世界に満ちているし、これからも限りなく続いていくであろう。
― 聖書の人物はいかにして苦難を超えたか
聖書の根本的なテーマは、いかにしてこの世の苦難、闇から解放されるのか、ということである。それは創世記の最初から、最後の黙示録に至るまで、一貫してこのテーマが記されている。
私たちはだれでも、この地上にあるかぎりさまざまの苦しみ、悲しみに出会う。それをいかにして乗り越えていったのか、私たちはいろいろな方々の経験―証しを聞くことによって励まされ、今後生じるであろう苦しみを越えて行けるという確信をも与えられることがある。その体験の原点にあるのが聖書にあらわれる人物である。
アブラハムは、「信仰の父」と言われ、キリスト教だけにとどまらず、ユダヤ教やイスラム教においても、特に重要な信仰の人である。(*)
(*)イスラム教においては、アブラハムこそは、唯一の神を信じる模範であり、アブラハムの信仰に帰ることを目標としているほどである。
そのアブラハムにおける最初の苦難というのは、神が突然現れて、アブラハムにつぎのように命じたことからはじまる。
「故郷や親族を離れて、私の示す地に行け。私はあなたを祝福し、祝福の源とする。人々はすべてあなたによって祝福に入る」
この言葉を受けて、アブラハムがいかに苦しんだか、それは聖書では語られていない。しかし、まったく知らない土地、しかもそこに行く途中でどんなことが生じるか分からない。いままで慣れ親しんだ郷里や友人、親族たちとの交わりもなくなる。目的の地での祝福を受けるといわれても、そもそもその途中、広大な砂漠地帯を横切っていかねばならない。そんな旅を何の武力も人間の守りもなく、食物の保障もない。目的地にはすでにほかの人々が住んでいるはずだ、そのようなことを考えるとき、神の命令にしたがって生きて行けるのか―という深刻な動揺が生じたはずである。
聖書における人物の苦しみや悲しみは決してその人物だけに生じることでなく、現代に生きる私たちにも同様に生じることである。だからこそ、聖書は生きた書であり、いのちを万世にわたって与え続けているのである。
アブラハムの最初に直面した苦しみとは、二つの道が私たちの前途にあるとき、そのいずれを選ぶかということである。より正しい道というのは何となくわかっていても、それを選ぶのは困難と苦しみが伴うということはよくある。そうした岐路に立つとき、私たちは大きな苦しみに遭遇する。そしてその選び方が間違うときには、生涯にわたって苦しまねばならないことにもなる。
そのようなとき、私たちを導くのが神の言葉に従うということであり、それは未知な世界へと踏み込むことであり、困難は伴うが、そこに永続的な祝福がある。
この二つの道のいずれを選びとるか、それこそは、人生の苦しみの根底にある。
旧約聖書にもすでにこのことは、とくに強調して記されている。
…見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記11の26~28)
そして主イエスもつぎのよく知られた言葉でこのことを告げている。
…だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ福音書6の31~33)
私たちは、まず衣食住といった目に見えるものを求めようとする。しかし、主イエスは、まず第一に求めるべきは、神の国と神の義であると言われた。これはこの世の常識とは全く異なっている。政治にしても、まず経済成長を繰り返し強調している。原子力発電とその事故という今後果てし無く問題が続く難問も、人間社会に対する永続的な危険、今後の人類への影響でなく、まず目先の経済成長を求めるゆえにそのためにはエネルギーが必要だという発想から生まれ、なおも維持していこうとする勢力が多い。
ここにも、原発災害という大きな苦難を招いたのは、まずお金の力に頼ろうとするところがもとにある。今日の日本の、そして今後世界的にこの原子力発電が増加していくときに生じ得る大事故によって、どれほどの犠牲者が永続的に生じるか、誰も予測できない。
戦争が引き起こす計り知れない苦難も、その出発点においては、やはりまず経済問題、言い換えるとお金や支配欲といったものがまず求められたところに原因がある。
このように、聖書が提示している問題は、いつどのような時代にあっても、また故人や社会的な規模においても成り立つものなのである。
約束の地であったが飢饉となり、エジプトへ移動せねばならなかった。そしてアブラハムの弱さから妻を娘だと偽った。そのためにサラはエジプト王に召しだされたが、神の直接の介入によって救いだされた。
ここでも神を信じる人であっても、油断していれば自分中心の行動となり、そこから滅びに向っていくことが示されている。しかし、そこから救いだしたのが神である。一方的に神が関わってくださったからこそ、アブラハムもサラも破滅に陥ることなく、救いだされたのであった。
アブラハムは、老年になってやっと生まれたイサクを神に捧げよ、との神からの言葉に接して、ようやく神から与えられた子供をなぜ捧げなければならないのか、そのような不可解なことをも命じる神への深刻な疑問も生じたであろうが、彼は、その神の言葉にしたがって、息子を神に捧げるべく、決断した。それは私たちにおいては、大切なものが失われる、取り去られるといったときに起こる大きな苦しみ、悲しみからいかにして逃れることができたのかということを示す。いよいよアブラハムがイサクを神に捧げようとしたとき、天からの助けがあって、イサクの代わりの小羊が置かれてあったのがわかった。
ここにも、苦難のとき、大切なものを失おうとするような困難な事態に直面するときにも、信じる者には不思議な助けが起こされることが暗示されている。
じっさい、私自身も、特別な困難のあったとき、思いがけない人が現れてその事態を切り抜けることができたり、それまで敵対していたような人が、大きな助けになってくれたことがあった。
神は無から呼び出すことができる。これは全能の神ゆえに当然のことである。それは言い換えると、助けがない、苦難におしつぶされそうになる、絶望的状況にあっても、神は助けを与えることができる、そのことへの信仰の重要さを示すものである。
ヤコブは兄のエサウから殺されそうになって、母の指示どおりに遠く離れた地へと旅立つ。その旅路のある夜に、天に届く階段が現れ、そこを天使が上り下りしていた。しかもその天使は、ヤコブとその子孫が祝福され、私はあなたと共にいるという祝福の言葉を彼に与えた。
このことは、単にヤコブにだけあてはまる昔話ではない。聖書が神の言葉であるのは真理であるからであり、真理とは永遠性と普遍性を持ったものであるからだ。
ヤコブが受けたこの啓示、苦難のときにこそ、天地を結ぶものが現れて私たちの思いを天に届け、また天からは神の国にあるよきものが降りてくるのである。
私たちもまた、苦難で一人耐えていかねばならないとき、このような思いがけない助けが与えられるということを信じることができる。神の助けは人間の予想したような形ではないが、私たちのことをずっと見てくださっているゆえに、神ご自身が見て必要なときに突然そうした助けが与えられる。
闇と混沌にあった世界に、光あれ!と言われると、そこに光が存在を始めた。このことは、私たちのことに関して神が、助けがあるように!とのご意志があるならば、そこに必ず助けが存在するようになる、ということを示している。
これは、民族においても同様であって、イスラエル民族がエジプトで非常な苦難に遭遇したとき、その苦しみが続いたが、神の助けはなかなかこなかった。その苦しみが極みに達したとき、神はまだ赤子であったモーセを特にエジプト王女に育てさせるという、だれも予想できない道によってモーセを起こし、エジプトからのイスラエル民族の救いに用いられた。
ここでも、神は思いがけない方法で介入してくださるのが明らかに示されている。
なぜ、神は、人々が虐待され、過酷をきわめる労働を課せられてもなおなかなか助けの手を差し伸べなかったのか、それは分からない。はっきりしていることは、人間の側でなく、神の御計画にしたがってなされるということである。
モーセが神の力を受けてエジプトから民を解放させた後に、エジプト軍が大挙して追撃してきた。そして前は海で後からは武装した兵たちが襲いかかろうとしていた。このような絶体絶命というようなとき、モーセは、なお神の助けを確信していた。神は、そのような困難が生じないようにはさせなかった。神の守りと御計画に沿ってエジプトから解放されたのだから、ずっと敵など攻撃してこないように守られる。あるいはエジプトの王や高官たちがモーセを追撃していくような心を起こさないように神はなぜそうしなかったのか、どうしてそんな危険な目に遭わせるのか…等々、そのような疑問はいくらでも生まれてきただろう。
しかし、いかに人間が見放されていると感じても、なお神は決して見放してはいない。主イエスが、十字架上で息絶える前に、エリ、エリ、ラマ、サバクタニと叫んだが、そのことも同様である。人間の側からは見放されたと感じてもなお神は見放してはおらず、見守っているのであり、神のときが来るまでそのようになさっているのである。
苦難からの救いとなるのは何か、それはこのような聖書の人物に見られるように、人間の力が尽き果てるときであっても神は見捨てたのではない、必要な助けを必ず与えられるという神への信頼こそが救いへと導くものなのである。
―その聖書との関連について
日本及び、世界の文学作品の中で、その内容において真実な愛―無差別的な愛、すなわち、弱くみにくいものや罪を犯した者、あるいは敵のためにも祈りを注ぐような神の愛―を主題とするようなものは、ごく少ない。
そのような内容のものであれば、だれにも及ぶ神の愛が主題であるゆえに、万人に分かり、その魂に入ってくるものである。
そのような作品のうちに含まれるのが、つぎにあげる「レ・ミゼラブル」(*)である。
2012年12月下旬から全国で上映がはじまった「レ・ミゼラブル」という映画は、予想を越えて多くの人たちに受けいれられている。この「レ・ミゼラブル」は1985年にロンドンでミュージカルとして初演されてから27年間も続けられていて、この間には、世界の43か国、21か国語に訳され、六千万人を越える観客を動員してきたという。
それゆえに、世界でもっとも愛されているミュージカルの最高峰と言われる。それが映画化されたものが現在全国で上映中である。
日本でも、天皇・皇后や首相夫妻とか民主党の元の代表も見たと報道され、毎日新聞でもかなりのスペースを用いて全国版などで取り上げ、東京新聞も、「ミュージカル映画レ・ミゼラブルが、大ヒットを記録している。古典的な名作が原作。あらすじは知っているのに、「涙を抑えることができない」という声が広がる。どこが琴線に触れるのか。探求していくと、現代社会のありようが見えてきた。…」と紹介されている。日本では、去年12月21日に上映がはじまってから、二週間ほどで、観客が137万人にもなったという。
ある仏文学者は、つぎのように言っている。
「19世紀前半のフランスでは産業革命が加速しはじめ、格差社会が生まれた。貧困にあえぎ、犯罪に巻き込まれるレ・ミゼラブル(みじめな人々)」に象徴されるだれかが、見返りを求めない無償の愛によって救わなければならない。現代においては、その「だれか」は、「あなた」でなければならない、というのが、ユーゴーの主張だ。
だれもがグローバルな資本主義の矛盾を感じている現在、ユーゴーの訴えが共感を呼ぶのは当然でしょう」
それに対して、毎日新聞の記者が かなりのスペースを使ったコラム欄で、つぎのようにコメントしている。
…現在の日本においても、矛盾はカネで解決とかいった考え方はもはや通用しない。経済さえ上向けば何をしたっていいはずもない。
「レ・ミゼラブル」の人気は単なるヒットでなく、国民意識の変化の底流に触れていると思う。…
このように、全国紙でかなり大きく取り上げたりすることは、一つの映画の評としては異例のことである。それほどこの映画は注目されているといえる。
ここでは、そうした映画のもとになった原作そのものに一部であるが、触れることで、著者は、何をこの大作によって言おうとしていたのか、キリスト教、聖書との関わりがどのように表現されているのかを少しでもくみ取りたいと思う。
そして、私たちもユーゴーがこの作品を生み出した原動力となった聖書の真理へとよりいっそう近づきその力を与えられたいと願う。
(*)「レ・ミゼラブル」という語は、フランス語で レ(Les)とは、定冠詞の複数形。英語では、定冠詞は the であって、単数でも複数でも同じである。しかし、フランス語では、男性名詞の単数につける定冠詞は Le(ル)、女性名詞の単数では、 La となる。その両者とも、複数になると、レ(Les)となる。フランス語では、語尾の子音は読まない。
ミゼラブル(miserable)とは、形容詞にも名詞にも用いられ、「みじめな、貧しい、不幸な( 人々)」である。なお、英語にも miserable があってほぼ同じような意味である。 それゆえ、英語でいえば、 The miserable people という意味になる
「レ・ミゼラブル」は、いまから百年あまり前に、日本語に訳され、「 ああ、無情」 と題された。(*)
(*)黒岩涙香によって訳され、1902年に『萬朝報』(よろずちょうほう)に連載された。なお、内村鑑三もこの雑誌に、英文欄の主筆として執筆していた。
この本質的な内容は、単に「無情」でない。その意味では、この本が「ああ、無情」と題されてきたのは不適切なことであり、むしろ、さまざまの暗黒や混乱、悲劇―みじめな(ミゼラブル)世界のただなかを、神の愛と正義が貫いて流れているのを示している作品であるといえよう。
一人のキリスト者(ミリエル司教)から与えられた神の愛によって回心し、以後、自分に降りかかるさまざまの困難にもかかわらず、そして警部の悪意が執念深く追いかけてくるにもかかわらず、その警部を憎むこともせず、また危険な下水道の泥沼や暗黒のなかを命がけで、市街戦に倒れた瀕死の若者の命を救ったが、だれにもそのことを告げず…かかわるあらゆる人たちに善きことを注ぎ続けていく…こうした人間の精神こそは、悲惨とは逆の神の愛を受け、導かれている姿に他ならない。
この作品の最初の部分に、一夜の暖かい飲食と宿泊を受けたにもかかわらず、その司教の最も大切にしてきた銀の器を盗み取るという悪事をして恩をあだで返したジャン・バルジャンに対して、ミリエル司教はつぎのように言った。それは深い祈りを込めた祝福の言葉であった。
…平安のうちに行きなさい。
忘れてはいけない。決して忘れてはいけませんぞ。この銀の器は、真実な人間になるために使うのだと、あなたが私に約束したことは。 何も約束した覚えのないジャン・バルジャンは、ただ茫然としていた。
司教はその約束という言葉に強く力を込めたのである。彼は一種のおごそかさをもってまた言った。
「ジャン・バルジャン、あなたはもう悪のものではない。善のものです。私があがなうのはあなたの魂です。私はあなたの魂を、闇の思想や破滅に導く精神から引き出して、そしてその魂を神に捧げます。」(第1部2ー12)
"go in peace…
"Do not forget, never forget, that you have promised to use this money in becoming an honest man."
Jean Valjean, who had no recollection of ever having promised anything, remained speechless. The Bishop had emphasized the words when he uttered them. He resumed with solemnity:
"Jean Valjean, my brother, you no longer belong to evil, but to good. It is your soul that I buy from you; I withdraw it from black thoughts and the spirit of perdition, and I give it to God."
「平安のうちに行け(go in peace)」、司教が、ジャン・バルジャンに銀の器を与えて送り出すときに述べたこの言葉は、福音書に記されている主イエスの言葉と同じである。
罪深い汚れた女とされていた人のイエスへの信仰と愛を認められ、その罪を赦されたのちに言ったのがこの言葉であった。(ルカ7の50)
また、12年も婦人病で出血が止まらず―それは宗教的に汚れたとされていたゆえ、他人に触れてはいけないとされ、通常の社会生活もできないようにおとしめられていた女性を救ったあと、主イエスがその女性につげて言った言葉でもあった。(ルカ8の48)
これは、神とともにある魂の平安を祈って歩むようにという祝福の祈りなのである。
このミリエル司教が、ジャン・バルジャンの魂を深くまつわりついていた悪と闇の糸をほぐすために、無償の愛をもってした。その苦しみと悲しみの20年近い歳月の絶望に対するに、キリストの赦しの愛と、彼の魂になかった光とそして朽ちることのない希望を与えたのであった。
そしてこのキリストに由来する愛こそが、ジャン・バルジャンの以後の生涯をずっと貫いて流れることになった。
この「レ・ミゼラブル」の主役は何者か、言うまでもなくジャン・バルジャンである。しかし、著者のユーゴーは、修道院について詳しく述べるその冒頭に、「この本は、無限なものを主役とする一つのドラマである。」と記している。
このことからもわかるように、ジャン・バルジャンを主人公とし、みじめな人々(レ・ミゼラブル)をこの本のタイトルとしつつも、他方では、無限なる存在を主役としていたのである。
無限なものとは神であり、神の愛や正義、その永遠性である。人間のみじめさ、汚れ、罪深さが到る所に存在しているただなかで、神の愛と正義があくまで存在しつづけているということが、ジャン・バルジャンの生き方や彼を執拗に追いかけるが、最後に自らの命を断つジャベル警部の姿によって示されている。
神の愛、あるいは神の正義に意図的に背くときには、そのさばきは自らに降りかかってくる、それがジャベルの自殺ということに表されている。ジャン・バルジャンに象徴される神の愛、それを受けいれようとせずにあくまで、それをふみにじろうとする姿勢は必ずみずからに裁きを招くことになる。
この真理は、トルストイが大作「アンナ・カレーニナ」で描いたものでもある。人間の欲望を中心においた生活は一時的にいかに快楽や楽しみがあろうとも、必ず破滅へと至る。アンナ・カレーニナは最後は、列車に身を投げて命を断つ。
そしてその悲劇と別に、レーヴィンとキティという二人が、次第に神の存在とその愛に目覚めていくということでこの長編は終わっている。ここでも、人間の混乱や腐敗、罪のただなかを神の愛と正義の支配がなされているということが主題となっているのである。
それゆえに、「アンナ・カレーニナ」という大作の本の扉には、「復讐はわれにあり、我これを報いん」(ローマの信徒への手紙12の19)と書かれている。
この聖書箇所の前に、人は、だれに対しても―悪い人であっても敵対する人であっても―心を注いで愛すべきであり、その人がよくなるようにと祈るべきことが記されている。そして、悪しき者への裁き、復讐などは神に任せよ。神が適切なときに最善の仕方で裁きを行なわれる、という意味の言葉であり、トルストイもこの聖書の言葉意味するところを「アンナ・カレーニナ」という大作に溶かし込んだのであった。
「レ・ミゼラブル」においては、この作品の最初に、闇と混沌の渦に呑み込まれていたジャン・バルジャンが、ミリエル司教に与えられていた神の愛によってその闇から脱することを得たことが書かれている。
それは、罪を糾弾して責めることなく、かえって、その罪深さと魂の暗黒に神の光と愛を注ぐことであった。それこそが、人間の魂の根源を方向転換させることである。
私自身も深い闇と混沌にあったが、神の愛によってそこからまったく異なる世界へと導かれたゆえに、このジャン・バルジャンの霊性の転換はけっして人ごととしては感じられない。
神の愛は、その置かれた状況が大きく異なっていても、深い共感をもって受け止めることができるのである。
ほかの何がジャン・バルジャンの暗くゆがんだ人生を真っ直ぐな道へと変えることができただろうか。もし、ミリエル司教の愛、赦しの愛に出会わなかったら、彼はそのまま暗い淵にまっすぐに落ち込んでいったことであろう。
私たちも、神の愛に出会い、罪の赦しをえなかったならば、やはり同様に深い淵へと落ちていく存在なのである。
そこから一人の人間の「天路歴程」がはじまる。
生まれ変わった人間として、彼はそれまでと全く異なる歩みを始める。
しかし、そこに次々と襲いかかるのは、闇の力、しかも正義に擬装した闇の力である。それはジャベルという警部に表されている。
いかに善きことをしても、この警部は変わらぬ冷たい態度を変えることがなく、どこまでもジャン・バルジャンを捕らえ苦しめようとする。その冷たさに対して、ジャン・バルジャンは、あくまで、復讐をしない。このような変化はいつ生じたのか、それは彼が最初にミリエル司教と出会い、手厚い保護を受けたにもかかわらず、銀の燭台を盗むという裏切り行為を働いた。そして警察につかまって連れ戻されて、ふつうなら、司教からてひどくののしられ、すぐさまジャン・バルジャンは二度と出られない監獄へとつながれるはずであった。しかし、司教は、まったく憎むことなく、かえって彼をかばい、赦しを与えた。
悪人のために祈れという主イエスの言葉をそのまま行なった。そしてパウロが言うように、そうすることは、その悪人の頭に、火を積むことになるといったのと同様、ミリエル司教のキリストに結びついた愛と赦し、そして与えてやまない行動は、ジャン・バルジャンのうちに巣くっていた悪を根絶やしにすることになったのであった。
しかし、その司教からの赦しを受けた後、ただちにその魂が変革されたのでなく、なおしばらくは、深い混乱が彼のなかに渦巻いていた。それまで長い年月を生きてきた考え方が、根底から揺さぶられたからである。
彼は、その揺れ動く心を抱えつつ、司教のところから出て、空腹で孤独な旅を続けていたとき、道でたまたま出逢った子供のお金を奪った。
しかし、まもなく自分の内なる声に激しく責められ、子供を追いかけて返そうとするがもはやいなくなっていた。そのとき初めて、この作品のタイトルにもなっている ミゼラブル!という言葉をジャン・バルジャンは叫ぶ。ああ、私はみじめな人間だ! と。(…et il cria: Je suis un miserable!)
この作品のタイトルである「レ・ミゼラブル」とは、悲惨な(みじめな)人々という意味であり、社会的弱者を主として意味していると思われるが、この言葉が最初に出るのはこのように、主人公がみずからの魂のみじめさ、比類のない愛を注いでもらっていながら、なおも悪を犯してしまう自分の罪深さという意味で現れてくる。
自分はなんとみじめな人間なのか! 行なおうと思っている善は行なわず、悪をおこなってしまう!(ローマ7の19、24)と叫んだ使徒パウロの心に通うものがここには描写されている。
このようにして、自分のみじめさを魂の深くに思い知らされ、そこからあらためてミリエル司教の言葉―あなたの魂を銀の燭台によって買い取った―が深い意味をもって響いてきたのであった。
「レ・ミゼラブル」というタイトルは、この作品の舞台になっている社会、そこに生きる人たち全体がみじめな状況に置かれているという当時の社会を高みから見つめるという意味が込められている。
この作品の主人公はジャン・バルジャンであることは誰もが知っている。しかし、この小説の題は「ジャン・バルジャン」でなく、「レ・ミゼラブル」(みじめ人々)であるのはなぜか。
これは、著者のユーゴーが深い社会的関心を持ち、支配者たちの罪ゆえにさまざまの社会的問題が生じ、そのために貧困な人たち、苦しむ人たちが大量に生じていくこと、そしてその下積みになった人たちもまた罪深い生活に巻き込まれ、みじめな状態(ミゼラブル miserable)になっていく、そのことを深く受け止めていたからであった。
そのことを、彼は、イタリアの出版社に対して説明している。
…この本があらゆる人々に読まれるかどうかは分からない。しかし、それはあらゆる人に提供されている。それは、イギリス、スペイン、ドイツ、アイルランド…の人々に向けられ、奴隷制度を持つ国々にも向けられている。
社会的問題は、国境を越えて存在するからである。人間のさまざまの傷、痛手は、世界中に見られ、地図で引いた国境線でとどまるものではない。
人間が、無知や絶望で生きているとき、また女たちが自分自身をパンのために売るとき、また子供たちが学ぶための本を持たず、暖かい家庭を持たないとき、「レ・ミゼラブル」という作品は、そうした人たちの心の扉をたたいて言う、
「開けなさい。私はあなた方のためにここにいる」と。( Wikipediaによる)
このように、ユーゴー自身、この作品によって社会のあらゆるみじめな状態にいる人たちに対して、ここに道がある、と指し示すという目的を持って書いたのがわかる。
この作品は、「ああ、無情」というタイトルで広く知られてきて、こどもの版で多くの人は読んできた。そのため、あれは子供向けの内容なのだ、と勘違いしている人も多く、原典の完訳版を読んだという人は、ごく少ないようである。
完訳版は、私の手許にある1928年版(新潮世界文学全集)のもので、字の詰まったイラストもない本で500頁の大冊が三冊、合計1500頁にもなるという長編であり、歴史的にも最も大きい作品に含まれる。
これは、決して単なる子供向けの作品ではない。そこには当時のフランスの社会的、政治的な状況、歴史のことが詳しく綿密に折り込まれている。本来の物語の筋書きとはあまり関係がないように見える社会的現象などにも詳しく力が注がれている。
例えば、修道院に関係した記述は、46頁にわたり、その修道女のこと、歴史やスペインなどにおける修道院の問題、そして祈りの意義等々を、「レ・ミゼラブル」本体の内容とは別に詳しく記されている。この内容の一部についてはあとで引用する。
また、下水道の記述は、18頁に渡って詳細に書かれている。この部分には、主人公やそれにかかわる登場人物はだれも現れず、下水道の歴史からいかに莫大な費用がかかっているか、そこがいかに不潔で悪い状態であるか、等々の現状などまったく社会的な記述となっている。
そしてそのような長い下水道の記述を終えたあとで、ようやくジャン・バルジャンが市街戦で瀕死となった青年をかついでそこに逃げ込み、到底通り抜けられないほどの暗黒と汚泥と深みのなかを奇跡的に通り抜けて、その命を助けるという記述が続いている。
このような本来の筋書きとは関係のない内容を大量に、全体の4分の1を越える分量というおどろくべき内容をそうした当時の社会的、政治的な状況の描写にあてているということ自体、これが単なる子供向けに書かれたものでないということを示している。
このことも、原作の完訳版を読まねば分からないことで、社会的、政治的な内容が色濃く含まれていながら、その筋書きは、波瀾万丈、苦難に満ちた人間の歩みを描くもので、惹きつけてやまないものがある。
私は、この大作の子ども向けのものは、小学校の中頃に読んだ記憶があり、その後も何度か読み返したのでよく覚えている。それでわかったつもりになっていて、中学、高校時代にはまったくこの本を再読するとか原作の完訳版を読むという気持ちにはならなかった。
そのため、原作が膨大な内容であることも知らないままであった。
それが、大学1年の夏休みに、島根県の離島、隠岐島群島のなかの知夫里(ちぶり)島に一か月滞在することがあったときに、読む機会が与えられたのであった。(*)
(*)なぜそんな遠いところに一か月もいたのかといえば、その隠岐島出身で、戦前に京都市で教員をしていた方―当時は松江市在住―の息子のAさん(30歳台)が、知夫島に住んでいて、その子供たちの勉強を夏休み中午前中教えてくれたら、一か月の生活費や京都からの往復の交通費も支給するという掲示が、大学で学生向けに公開されていて私はすぐにそれに応募したのであった。
その隠岐島のAさん宅の近くの親族の家の二階を滞在場所として貸していただいたが、そこには、多くの書物があった。そんな離島の漁業や若干の牧畜しかできない火山島にある家にどうしてこんなにたくさんの書物があるのかといぶかったが、その親族はもう一つの島にも住んでおられ、その家にも泊めていただいたことがあったが、大きな邸宅といった家であった。そしてその家の人が大学に入ったばかりの私を、何か特別なお客であるかのように、じつに丁重に迎えてくださったのを思いだす。
ロシアの大作家にして思想家であったトルストイもその芸術論の中で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を、ストー夫人の「アンクル・トムス・キャビン」、ドストエフスキーの「死の家の記録」やディケンズの「ニ都物語」、シラーの「群盗」などとともにあげている。(「芸術とは何か」トルストイ全集 第17巻16 河出書房新社版 110頁)
作者のユーゴーは、家庭生活において次々と困難が押し寄せ、また彼自身の罪ゆえの苦しみもあった。そして政治活動においても、当時の支配者を批判したため、ベルギー、イギリス領の島などに19年もの間、亡命生活を余儀なくされた。
しかし、この亡命生活という不安定な中で、この「レ・ミゼラブル」も書き上げられたのであった。イギリスのバニヤンという作家が、獄中生活のあいだに、「天路歴程」という世界的に愛読されてきたキリスト教の作品を書いたことをも思いださせるものがある。こうした苦難にあるときに、ふだんは書けなかった歴史に残る優れた作品が書かれたのは、新約聖書においても、使徒パウロが獄中にあるときに書いたとされて獄中書簡といわれるエペソ書、ピリピ書、コロサイ書も同様である。
音楽の方面でも、ベートーベンは耳が聞こえなくなってから、第九交響曲など重要な作品を生み出していった。
人間の計画でなく、人間の予定を越えて、神が書かせるということがある。ユーゴーの作品でもこの「レ・ミゼラブル」がとくに大きな影響を与えたが、それはユーゴー自身の罪深さから来る苦しみと、育った家庭の暗さや悲しみ、社会的にも権力者ににらまれて国外に逃げていくという状況など、さまざまの困難の渦中にあったことがその背景にある。
ミリエル司教の高潔さは、ユーゴー自身が決して達することのできない高みであり、それを知っていたゆえに、その憧憬があのような人物を描き出したのであったろう。
神はそのような状況の人間を用いて、歴史に残る大作を書かせたということができる。
神は温厚篤実な生活をしている人をも用いられるが、他方ではこのような荒海に呑まれ、苦闘する人間をとおして大きな波及力をもつ作品を生み出させることがある。
この点は、世界の代表的な大詩人としてのダンテと部分的に共通しているところがある。ダンテも詩人、思想家、政治家であったが、迫害されて国外に逃れ、流浪の生活を送るという困難のなかで、あの神曲という驚くべき作品が書き上げられたのであった。
聖書との関連
ここでこの「レ・ミゼラブル」からごく一部ではあるが、引用をして直接にこの作品にあたってみたい。(一部フランス語の原文や英訳、その箇所も書いてあるのは、少しでも原作の味わいに触れていただきたいと思ったからである。)
はじめに引用するのは、この作品の最初の部分に出てくるミリエル司教の人物を記した場面である。
…巡回中において彼(ミリエル司教)は、きわめて寛大で穏和であって、説教するというよりもむしろ話をするという方が多かった。彼は人のよく理解できないような言葉を不適切として用いなかった。
彼は、このように真実に語り、また慈しみ深き父のように語り、実例がない場合には比喩を用い、言葉少なく、イメージを豊かにして、直接に要点をつくのであった。それはイエス・キリストが、自ら確信し、人を説服させるイエス・キリストの語り方に似ていた。(第1部第1篇3)
…司教の談話は懇切で愉快であった。自分のそばで生涯を送っている二人の年老いた婦人にもよくわかるようなことばを使った。笑う時には幼な子のような笑い方をした。…
彼は、あらゆる人たちと近づきになることを少なからず助けた。彼はそまつな家の中にいても山中においても親しく振舞った。ごくふつうの言葉で、きわめて高遠なことを言うことができた。あらゆる方言を話しながらあらゆる人の心の中にはいり込むことができた。
その上彼は、上流の人々に対してもまた下層の人々に対しても同様の態度を取っていた。
彼は何事についても、周囲の事情を考えずに人を非難することがなかった。彼はいつも言った、「誤ちがどのようにして生じてきたのかを、その筋道を考えてみよう」と。
彼自ら自分を、昔 罪をおかした者と、ほほえみながら言っていただけに、彼には無用の厳格さがなかった。そしてつぎのことを語っていた。
「人は重荷であり、誘惑でもある肉体を持っている。人はそれを担い歩き、そしてそれに引きずられる。」
「人はこの肉体を見張り、抑制すべきである。その肉体に服従するのは、ぎりぎりの場合でなければならない。そのような服従にも罪があるかもしれない。そのような場合は祈りへと導かれるべきである。」
「できるかぎり罪を少なくすることが人の道である。地上のすべてのものは、罪をまぬかれない。」
ミリエル司教は、罪をきびしくとがめて正すことより、神の愛をもって接し、罪をおかしたものがその愛に触れて立ち返るようにというのがその方針であった。
これは、私たちが神をまず愛したのでなく、神が私たちを愛してキリストを送ってくださった、それゆえに愛を知った。その愛ゆえに私たちは罪へと落ち込んでいく力から守られ、互いに愛をもって接することができるようになった(Ⅰヨハネ4の19~21)という聖書の真理に沿ったことだとわかる。
…人はいつでも病人やまたは臨終の人の枕もとにミリエル司教を呼び迎えることができた。彼はそれこそ自分の最大の義務であり、仕事であることを知っていた。
夫を亡くした女や孤児の家では、わざわざ頼む必要はなかった。彼のほうから来てくれたのである。愛する妻を失った男や子供を失った母親のそばに、彼はすわって長い間黙っていた。彼は黙すべき時を知っていたように、また口をきくべき時をも知っていた。
彼は、なんとすばらしい慰めの人であったことだろう! 彼は、単に忘れることによって悲しみや苦しみを消そうとせず、希望によってそれを深め、尊いものにしようとした。
彼は言った。「亡くなった人の方をふり返るその仕方を注意しなければならないのです。滅び朽ちるもののことを考えてはいけません。高いところをじっと見つめてごらんなさい。あなたは、深く愛してきたその死者が、生きた光を持っているのを、高き天のうちに見るようになるでしょう。」
彼は、信仰とは優れたものであることを知っていた。耐え忍んでいる人を示して、絶望している人を教え和げようとつとめた。そして星(*)を見つめる悲しみを示して、墓を見つめる人の悲しみを変えようとつとめた。(1部ー1篇ー4)
(*)日本語訳では、星という言葉は、最後には来ないが、フランス語の原文では、つぎのように etoile (エトワール「星」の意)がこの節の最後に置かれている。英語訳のその少し手前からの引用も添えておく。
・…,et a transformer la douleur qui regarde une fosse en lui montrant la douleur qui regarde une etoile.
・ He sought to counsel and calm the despairing man, by pointing out to him the resigned man, and to transform the grief which gazes upon a grave by showing him the grief which fixes its gaze upon a star.
日本語では、星というような名詞が最後に来るような文を置くことはほとんどなく、たいてい動詞で終わる。しかし、ヨーロッパの言語では多く見られる。
こうした区切りの最後の言葉として、「星」という言葉をおくことは、ダンテの神曲においても、地獄篇、煉獄篇、天国編のそれぞれに、原文のイタリア語では、ステルレ(stelle)―星という言葉を最後に置いているのも意味深い。
それは、ダンテ自身が、つねに星で象徴される無限の高みにあり、いかなる人間的なものによっても汚されない清い光を見つめていたことを示すものであるからだし、それは読者に対してもその星のような存在たる神を見つめるまなざしを持つことがうながされているのである。
ここでも、ミリエル司教の精神的特質を、こうした描写をもって表しているのであり、これは著者のユーゴー自身の精神的なあり方でもあったのを示している。
悲しみにもさまざまの形がある。暗く希望のないところばかりを見つめようとする―墓穴のようなものを見つめている悲しみ、それがたいていの場合である。深い悲しみや苦しみは希望を消してしまうからである。
しかし、そうした苦しみにあってもなお、かなたの星を見つめる―変ることなき希望を見つめること、それは神を仰ぎ見つめようとすることである。
このユーゴーの言葉には、「ああ、幸いだ。悲しむ者は。なぜならその人たちは神によって慰められるからである」(マタイ5の4)という主イエスの言葉を思い起こさせるものがある。
…夕食後には、部屋に入り、書き物をした。彼は文を書くことができ、またいくらか学者だった。彼が残した書き物のなかに、つぎのようなものがあった。
創世記の最初の箇所「はじめに神が天地を創造された。神の霊が水の上に漂っていた。」の翻訳についてである。彼はこの聖句に3種類の古代訳を比較して記している。
アラビアの訳には、「神の風、吹いていた」とあり、フラヴィウスス・ヨセフスの書には、「非常に高いところから、風が地上に吹いた」であり、カルデア語の説明によれば、「神からの風が、水の面に吹いていた」というのである。…(1ー1ー5)
このようなことを特にしるしているのは、この聖書の最初の箇所で、霊が漂っていた(動いていた)という訳より、神からの風が吹いていた、というのが本来の意味ではないかと、このミリエル司教が考えていたというのである。それは、著者のユーゴー自身の気持ちでもあったであろう。
このことは、現在の最新の代表的な英語訳でも、同様に、神からの風と訳しているのがいろいろとあるし(… a wind from God swept over the face of the waters. (NRS) … a divine wind sweeping over the waters. (NJB)など)、日本の関根正雄訳でも神の風が強く吹いていたという意味に訳されている。このような現代においても二種の訳が出ているが、新しい英訳となって「wind」と訳を変えた重要な訳もある。(NRS)
こうした訳語のたいせつな問題について、ユーゴーはすでに強い関心を持っていたゆえに、ミリエル司教の書き物にそのことを残したのだと考えられる。
…司教は、祈祷する場所に、そまつな祭壇を作っていた。それを人々は、より美しいものにするためにと献金を出し合ったが、司教はそれを貧しい人に分かち与えてしまい、こう言った。
「祭壇のうちで、最も美しいものは、不幸な人が、神に慰められ、感謝しているその魂である。」(1ー1ー6)
・The most beautiful of altars is the soul of an unhappy people consoled and thanking God.
・Le plus beau des autels, c'est l'ame d'un malheureux console qui remercie Dieu.
…人は、(神の愛をもって)愛しすぎることがないように、祈り過ぎることもない。
…(ミリエル司教は)眠る前の一、二時間を庭に出てすごすことが日課であり、寒さや雨のためにそれが妨げられるような場合には、彼の一日は完全なものとならなかった。
夜空の星輝く偉観の前に瞑想することは眠りにつくための準備であり、彼にとって一つの習慣となっていた。
夜ふけた頃、彼は静かに庭の道を歩き、そこにただ一人で、考えに沈み、静かに神をあがめ、ひざまずく心地でいた。
暗やみの中で目に見得る星の輝きと目に見えざる神の輝きとに感動し、未知のものから降り注がれる思いに魂を開いていたのである。
そういう時、彼は、夜の花がかおりを送りくる時間に、魂を開いていたのである。星の輝ける夜のただ中にともされた灯火のように、創造された星々が光を放つ中にうっとりと心広がる思いであった。
何かが自分の外に飛び去り、何かが自分のうちに降りて来るのを感じていた。魂の深淵と宇宙の深淵との神秘なる交換であった。
彼は神の偉大とその存在とを思った。永遠の未来という不可思議な神秘を。永久の過去という更になお不可思議な神秘を。おのれの目前にあらゆる方向に深まっているすべての無限なるものを。そして彼はその不可解なものを理解しようとつとめることなく、ただそれを じっと見つめていた。
彼はこわれかけたぶどう棚によせかけてある木のベンチに腰掛けた、そして庭の果樹の小さな細やかな枝をとおして星をながめた。貧しい木立ちにそまつな家が建ち並んだそのわずかの土地は、彼にとっては尊い、そして十分なものであった。
ほとんど暇のない生活であって、少ないわずかな時間を、昼は畑仕事、夜は神への黙想に用いていたこの老人にとって、それ以上何が必要であったであろう。
空を天井とするその狭い宅地は、神を、あるいはその最も美しい御業において、あるいはその最も荘厳な御業において、礼拝するには十分であった。
実際そこにすべてがあった。そしてそれ以外に何を望むべきであるか。歩を運ぶためには小さな庭があり、瞑想するためには無限の天がある。足もとには耕して採取できるものがあり、頭上には研究し瞑想し得るもの。
地上にいくつかの花と、空にあらゆる星。(1の1の13)(*)
(*)(英訳)some flowers on earth, and all the stars in the sky.
(原文) …quelques fleurs sur la terre,et toutes les etoiles dans le ciel.
…この謙遜な魂は、ただ愛した。それがすべてであった。
(英訳)This humble soul loved, and that was all.
(原文)Cett ame humble aimait;voila tout.
彼はうめき苦しむ者、悲しむ者、罪を悔いる者のほうに心を傾けた。世界はかれにとっては、一つの広大な病であるように思われた。彼は世界の至るところに病いの熱を感じ、苦悩の声を聞いた。彼はその謎を哲学的に説明しようとはせず、魂の傷口に包帯をあてようとしたのであった。
この世のすべてに見られる恐るべき、悲惨な光景は、彼のうちに、やさしき心をますます深くするように働いた。憐れみ、慰めるため最も良い方法を見いだし、他人にそれを進めることだけに彼は心を用いた。
金の発掘のために働く人々がいる。ミリエル司教は憐れみの発掘のために働いていた。到る所に苦しみ、悲惨(ミゼールmisere)があるという現実は、彼にとっては、つねに親切をなす機会となるのであった。そのような人々に接して、そこに神の天の蔵から取り出した憐れみを注ぐのであった。
「互いに愛しあいなさい」という聖書の言葉を、彼は完全ないましめとしていたから、それ以上のことは何も言わなかった。… (1ー1ー14)
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このように述べられていて、ここにもユーゴー自身の魂にあったことが投影されている。夜の戸外は何も見えない、することのない時間ではなく、彼にとっては、貴重な時間、神とその創造された自然との霊的な交流のときなのであった。
「…何かが自分の外に飛び去り、何かが自分のうちに降りて来るのを感じていた。 魂の深淵と宇宙の深淵との神秘なる交換であった…」
この表現は、古く旧約聖書の創世記に出てくること―天へと続く階段が見えて、天使が上り下りしていたという記事を思い起こさせる。
これは、一人荒野を越えて遠い親族のところに難を逃れて旅するヤコブに現れ、またそれをヨハネによる福音書において主イエスが、深い意味をそこに与えたものだった。
修道院については、そこで著者は14頁ほどもさいてくわしく述べているが、その冒頭にすでに触れたように、「この本は、無限なものを主役とする一つのドラマである」と述べて、人間だけを見つめて書いているのでなく、無限なもの―神を主役としていることをしめしている。それゆえに、その神に向う祈りを主たる生活とする修道院についても詳しく書くのだというのである。
この修道院の記述の終りのほうにつぎのように書いている。
…瞑想(熟考、観想)することは、耕すことであり、考えることは、行動することである。組み合わされた祈りの手も働いているのである。天に目を向けることも一つの仕事である。…
思慮の足りない、性急な精神の持ち主は、こう言う。「神秘(神)のそばにじっとしているあんな人たちが何になるのか。何の役に立つのか。何をしているのだ。」
…それに答えて、我々はつぎのように答えよう。
「あの人々の魂のする仕事以上に崇高な仕事はたぶんないだろう。」そしてこう付け加えよう、「たぶんそれ以上に有益な仕事もあるまい。」
決して祈らない人々のために、つねに祈っている人々がどうしてもいなくてはならないのである。(第2部ー2ー8)
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このように、ジャン・バルジャンとコゼットが修道院のなかに逃げ込むという内容を描く際には、ここでも物語の筋書きそのものと直接関係のない修道院の社会的問題、その意義などをみずからの考えを入れ込みながら詳しく述べている。
これは、膨大な内容のごく一部であるが、このようなキリスト教の内容を折り込みながら、かつ社会的問題も語るという独特の手法を用いている。
この「レ・ミゼラブル」が 黒岩涙香によって「ああ、無情」というタイトルで訳されたとき、内村鑑三も黒岩と同じ萬朝報社の一員であった。それゆえに、内村もこの「レ・ミゼラブル」に関心を寄せていたのが予想できる。彼は、そのために当時上映された映画もみているし、ユーゴーの書いた文章にも接していたのがうかがえる。彼が「聖書之研究」誌に書いたものからあげておく。
…四時間を費して、フランスのヴィクトル・ユーゴー作『レ・ミゼラブル』 の映画を見た。悲劇の連続であつて心臓の痛みを感ずる程であつた。… この映画の技術に驚くべきものがある。年ごとに著るしく発達していくのがわかる。この映画を適切に用いるなら、大きく教育に貢献することになるだろう。(「聖書之研究」35巻 109頁)
…ヴィクトル・ユーゴーのような人は、 どうしてあんな悲惨な苦しい状況を書けたかといふに、苦しみ、不満を言うだけでなく、一方にはよくそうした苦難に勝ち得たからだ。(5巻177頁)
…ユーゴーは言った。私は50年間に散文、韻文、歴史、哲学、戯曲等々に、私の思想を発表してきた。しかし、私はまだ、自分のなかにある思想の千分の一も言い尽くすことができていない。(第3巻197頁)
このように、「レ・ミゼラブル」が日本に紹介されて百年を越えていて、その間数知れない人たちにこうした強い関心を引き起こしてきたと思われる。しかし、残念なことに、この物語におけるキリスト教から生まれた内容に深い関心を持たず、興味深い創作物語だというように記憶されていることが多い。
子供向けのものであると、キリスト教のことはごくわずかしか言及されないから、私自身もそうであったが、「レ・ミゼラブル」を読んでもキリスト教や聖書そのものに強い関心を持つようにはなかなかならなかったのである。
「レ・ミゼラブル」の終りの部分で、ジャン・バルジャンの心にどのようなことが生じたかが記されている。
ジャン・バルジャンの状態がひどく悪化し、死が近づいたとき。彼は弱り果てていたが、ベッドから力をふりしぼって立ち上がり、壁のところまで歩いていき、彼を支えようとした医者やマリウスを退け、壁にかかっていた小さな銅の十字架をはずし、また戻ってきて、元気なもののように、自由な動作で腰を下ろした。そしてそのキリストの十字架像を机のうえに置きながら言った。
「実に 偉大な殉教者だ。」…
その後、意識を失いかけたジャン・バルジャンに、司教さまをお呼びしましょうか、との問いかけをした家の住人の老人に対して、「司教さまは、そこにおられる」と、頭の上の一点を指し示した。彼の目は、たしかに司教がそこに立っているのを見たのである。…
これは、ジャン・バルジャンが人生の最後に、心を惹きつけられたのは、十字架のキリストであったのを示している。世界の無数の人たちが、このジャン・バルジャンと同様、いかなる人間、いかなる創作された人物よりはるかに惹きつけられてきたのがキリストであり、その十字架であった。そうした人類の歴史における人間とキリストとの関わりがこうしたかたちで表されているのである。
そして、神の言葉にしたがって生きてきたものは、最後に示されるのが、これから行く天のふるさとであり、これは殉教者であったステパノが、石で撃ち殺されようとしていたとき、天が開けてキリストが神の右に座しているのがありありと見えたと記されていることと通じるものがある。
ジャン・バルジャンは、神の国をまず求めていきようとした者であったゆえ、死は暗黒でなくこのように、光に満ちた世界へ行くのだということを暗示することが与えられたのであった。
この物語の最後の部分に、ジャン・バルジャンが死を迎えようとしているとき、そこに来た青年マリウスと彼と結婚したコゼットの三人がおり、ジャン・バルジャンは、つぎのようにいう。
…テナルディエ(*)一家の者はみな悪者だった。しかし、それは赦してやらなければならない。
コゼット、お前のお母さんの名は、ファンティーヌという。お前は、大きな幸いを得たが、母親は大変な苦しみを受けた。
それは、神が割り当てたものなのだ。神は天にあって、私たちみんなを見ておられ、あの偉大な星々のただ中にあってご自分のなしておられることを知っておられる。
私はもう逝こうとしている。二人とも、つねに愛し合いなさい。この世には、愛し合うということよりほかには本当に重要なことは何もない。
(*)テナルディエ夫妻は、遠くから来たフォンティーヌからあずかったコゼットという少女の養育に必要だと称して、その母親から金をできるだけ奪い取ろうとした。そのために母親は自分の髪の毛や歯、さらには自分自身をも売るほどに身を落としていって非常に苦しみ、最後は死に至った。
このような表現のなかに、キリストが十字架で息を引き取るとき、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23の34)と言われたことの反映を見ることができる。
そして、いかに不幸と見えることであっても、その深い意味を神はすべて御存じであり、それを神の英知に基づいてそれぞれの人に割り当てているのであって、私たちはそうした不可解と見える出来事のなかにあっても、神を信じていくことの必要が言われている。
互いに愛し合え―それはヨハネによる福音書でキリストが繰り返し言われたことであった。そして、ジャン・バルジャンは最期を迎えるがそのときに、「光が見える」と言った。
こうして、地上には闇がいかにあっても、そこから光が射しているのであって、神への信仰を持ち続ける者には、その光とその源の天の国をかいま見ることが許されるということが示されている。
すでに述べたように、著者のユーゴーが、この「レ・ミゼラブル」という著作こそは、この世の圧迫された人たち、苦しみ、悲しむ人々に向けられたものであり、そうした人々に対して、あなた方の心の扉を開け、ここにその悲惨からの解放の道がある、と指し示そうとした。
そしてこの「レ・ミゼラブル」の背後にあるのが、聖書であり、神の言葉である。そしてその神の言葉は、この数千年という長い間を通じて、絶えず、人類に「あなた方の心の扉を開きなさい。私はここにいる。」と語りかけを続けているのである。
・今月号は、「レ・ミゼラブル」について書きました。世界的に有名な作品であり、ミュージカル版も広く親しまれているものですが、原作そのものとキリスト教や聖書との関わりについては、原作に関する紹介や、映画評論などもほとんど触れていないことなので、そのことをとくに書いたものです。
「レ・ミゼラブル」という作品もまた聖書が生み出したものと言えます。それゆえ、この作品にとどまることなく、そこから少しでも聖書、キリスト教の深い内容に触れて欲しいと願っているからですし、また、聖書の波及する力の大きさにも触れていただきたいと思うからです。
聖書―神の言葉こそは、あらゆるよきものの真の源泉であるからです。
来信より
・毎週送っていただいている、集会の録音CD(MP3版)(*)によって、今までよく分からなかった箇所、あいまいに理解していたところが、氷解するように分かってきています。(九州の方)
(*)集会CDとは、毎月の4~5回ある日曜日の主日礼拝と、火曜日夜の夕拝(毎月第1、第3、第4火曜日の夜7時30分から9時までの集会)の全部の内容のデジタル録音を、MP3の型式でCDに録音したものです。聖書講話だけでなく、祈り、讃美、前講、第一日曜日の讃美タイムなども含んでいます。全体の録音時間は、7時間半~10時間ほどあります。これを聞くには、MP3対応の機器が必要です。それには、パソコン、MP3対応のCDラジカセなどがあります。パソコンが操作できない人には、MP3対応 CDラジカセが便利です。ふつうのCDラジカセと同じように使えるからです。MP3対応のCDラジカセは、電器店には置いてないことが多いので、希望者は、私(吉村孝雄)に、申込あれば、お送りできます。(価格は、送料ともで、8千円)
・ 文学にも、心に有害なものを流し出すものが多くあり、日本の詩なども、その影響は人間一人を、空しさや行き場の無さで破滅させるくらいのよくない力があることを、わたしも聖書によって掬いあげられるまで、そこには出口も、未来もないことに気づきながらもどうしようもないものがありました。今回そのことをわかりやすく聖書と対比させて書いてくださって有難かったです。
トルストイなど、キリスト教の精神が根底に流れているものを不思議と避けてきたのは、信仰を持たないとその深意がわからないから、であったのではないか、ヒルティの本も信仰なしに読みかけても本当にはわからないので、読み続けることができなかったのだった、と今思います。
「源氏物語」なども薄暗く、仏教の教えが取り込まれていると言っても、それは単に「恐れ」からくるものにすぎないという程度だということも、聖書と比べなければ、決してわからなかったと思いました。
若いころから自分にとって、こういったことは精神が「生きるか死ぬか」くらいの苦しさでありました。そんなこと、人は何でもないように生きているように見え、おとなになってもいつまでもこだわっている自分は少し変なのではないか、この世の中には適合しないのではないのかと思っていましたが、このように聖書を知らされ、このことひとつをとっただけでも大きなこころの救いでもありました。また、不思議であり、驚きでありました。深く感謝です。 (関西の方)
・私は鹿児島出身ですが、2008年12月に鹿児島市の 西郷南州顕彰館で、「西郷隆盛 敬天愛人と聖書展」 があったとのこと、資料を取り寄せてみますと、西郷が、聖書(「漢訳」)を愛読し、この聖書を周りの者に貸したり、旅に持ち歩き、キリスト教を宣べ伝えさえしていたという事実を知り、目を開かれました。
「キリスト教は大地に血を染みこませて後世への記憶とした」とある人に語っているとのことです。
私には西郷は遠い存在でありましたが、少し身近な存在となりました。(関東の人)
○第40回 キリスト教(無教会)四国集会
・日時 2013年5月11日(土)午後1時~12日(日)午後4時
・場所 徳島サンシャイン アネックス 徳島駅から徒歩10分。
・主題 「信・望・愛―弱きを顧みる神」
・内容 聖書講話、集会員による讃美タイム(ギター讃美、デュエット、コーラス、手話讃美) 、キリストがしてくださったことの証し、北田康広の讃美とピアノ演奏、全員による自己紹介、早朝祈祷、感話会(二日目の午後、四国集会で受けた恵みを全員がひと言ずつ言う。ただし 参加者の感話を聞いているだけでもよい。)
・講師 聖書講話 小笠原明(愛媛)、吉村孝雄(徳島)、関根 義夫(埼玉)
・第40回記念 賛美のコンサート 北田康広 ピアノ演奏と賛美。曲目は「人生の海の嵐に」ほか。
キリスト者としての証言 原光子「石巻での津波から救われて」(山形県)、霜尾共造「愛農に生きる」(京都府舞鶴市)他 (一部 未定)
・参加費 1泊3食(11日夕食、12日朝食、昼食) 1万3000円
学生 半額。 部分参加の費用については後日お知らせします。
・申込先 〒773-0015 小松島市中田町字西山91の14 吉村孝雄
電話 050-1163-4962 FAX 0885-32-3017 E-mail…pistis7ty@hotmail.com
・四国集会前日に宿泊される方、また四国集会後も一泊される方のうち希望者は、徳島聖書キリスト集会場において交流会を持つ予定です。(以前に徳島で全国集会や四国集会を開催したときと同様です)
今回は、会場と徳島聖書キリスト集会場とが、1・5キロ程度と近いので便利です。マイクロバスが使えます。
二日目の午後は、二日間で知り合った方々が互いに主にある交流を深めるための時間としてあります。全員が短くとも四国集会の感想(感話)、関連した聖句や讃美などを出し合って、より深く二日間で出されたみ言葉や讃美が心に残り、そうした交流をとおして聖なる霊を与えられることを願っています。
○「別離」岡田 利彦 画(2011年)の紹介。
旧約聖書・ルツ記1章より
今から三千年以上も昔、ユダの地域に飢饉があり、100数十㎞離れた異国、モアブの地へと移住した人がいた。その人は二人の息子と妻を残して死に、さらにその二人の息子も相次いで死んだ。
妻のナオミは、二人の嫁、オルパとルツだけになってしまった。故郷のユダに帰ろうとした時、二人の嫁は義母のナオミに従って行った。しかし、途中の道すがら、彼女は嫁たちに言った。
「あなたたちは、死んだ息子にも私にもよく尽くしてくれた。どうか主がそれを報い、あなた方にも慈しみを注いでくださるように、どうか主が新しい嫁ぎ先を与え、安らかな生活ができるようになりますように。」との祈りをもって別れようとした。
しかし、それでも、二人は声をあげて泣き、「いいえ、あなたとご一緒にあなたの民のもとに帰ります」と言った。
そこでナオミは、「あなた方にとってはユダの地域は外国であり、そこでは結婚もできず、子供も得られない。さらに差別され、生涯が孤独になる、そのような苦しい状況になるのを見るのは私の方がはるかにつらいのです。だから私についてこなくていいから、自分の国に帰りなさい。」
その強いうながしによって嫁の一人のオルパは、涙を流しつつ、しゅうとめに別れの口づけをして、自分の民―モアブの国へと帰って行った。しかし、ルツはすがりついて離れなかった。その真実な心に触れてナオミは心動かされたが、ルツの将来を思い、自分の民のところに帰りなさいとさらに強く勧めた。しかし、ルツは言った。
「あなたの行かれるところに行きます。あなたの民は私の民、
あなたの神は私の神。あなたの亡くなられる所で私も死にたいのです。」
その固い決意を知ってナオミはルツを伴って故郷のベツレヘムへと向った。
ここには、3人の女性の真実な魂の交流がある。それぞれが自分のことを思わず、他者のことを思い、尽くそうとしている。ナオミは自分のことよりも二人の孤独な嫁ことを思い、また自分の民のもとに帰っていったオルパも、愛するしゅうとめとルツとの永久の別れに心に深い痛みを覚えつつ、そして今後の不安を抱えつつ、一人モアブの地へと帰って行った。
こうした別離の悲しみと前途の不安とおそれのなかに、輝いているのはルツの真実と、しゅうとめの信じる神の世界にすべてをゆだねようとするルツの信仰的決断である。それが、前途への希望も生きる力も失っていたしゅうとめのナオミを支えることになった。未知の地への旅立ち、それは唯一の神の御手のうちにゆだねることになったのであり、はるか昔にアブラハムが神を信じて未知の土地へと旅立ったことを思い起こさせる。
それは、荒涼とした砂漠に流れる水であり、そのルツの信仰的決断こそが、のちにダビデをうみ、キリストへと流れていく大いなる命の流れとなっていったのである。(ルツの曾孫がダビデであり、その子孫としてキリストが生まれた。)
いかに現実の世界は厳しくとも、そこに神は驚くべきわざをなされる。荒野に水は流れ、砂漠に花が咲くこと(イザヤ書35章)、小さな無視されるような人々の愛と信仰が、いかに大いなるものにつながっていくか、それがこのルツ記の記述にも表されている。 この画には、そうした3人の愛の交流、別れの悲しみ、そしてその中におけるルツの信仰、そして小さきものを深く顧みてくださる神のまなざしが伝わってくる。
・原画はカラーです。作者の岡田氏の許可を得て、2L版の写真にしたものを希望者にお送りします。一枚百円、送料は何枚でも百円です。
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○現在発売中の吉村孝雄の聖書講話CDシリーズ。(いずれもMP3版、送料込)
1、ヨハネによる福音書 全5巻 二〇〇〇円
2、ルカ福音書 全8巻 二五〇〇円
3、創世記 全3巻 二〇〇〇円
4、出エジプト記 全3巻 一五〇〇円
5、詩篇 全12巻 三五〇〇円
★これらの聖書講話を聞くためには、MP3対応の機器が必要です。パソコンで聞くことができますが、パソコンを持っておられない方、あるいはパソコンは持ち運びが不便なので、室内で自由に持ち運びして聞きたいという方のためには、一般のCDラジカセと同じようなタイプの MP3対応のCDラジカセがあります。これは現在では、ビクター製品のみが購入可能です。
ただし、このMP3対応のCDラジカセは一般の大型電器店でも扱っていないことが多く、その場合はインターネットでないと購入できないのです。そのため、希望者には私(吉村孝雄)の方からお送りしています。価格は、八千円(送料込)。
・当方で取り扱っている賛美CD(北田 康広の演奏、歌のCDです)
1、「人生の海の嵐に」讃美歌、新聖歌などの賛美集CD 北田康広 定価三千円(徳島聖書キリスト集会に注文される場合には、特別価格とすることができます。)
2、「藍色の旋律」
・徳島聖書キリスト集会で作成した賛美CD(集会員が賛美しているCD)
1、「主の尊きみ言葉」 綱野悦子ほか 全30曲
収録賛美
・新聖歌…「ガリラヤの風かおる丘で」、「シャロンの花」、「懐かしき住まい」、「いかに汚れたる」、「罪とがをゆるされ」他
・リビングプレイズ…「主はわが隠れ場」、「心静かに」、「喜びながら出て行こう」
・友よ歌おう…「天の花園」、「ドロローサ―悲しみの道」、「主の御声」、「愛をください」
・プレイズ&ワーシップ…「主を喜ぶことは」、「Shine Jesus Shine シャイン・ジーザス・シャイン」他。
2、「騒がしき世より離れて」鈴木益美・中川陽子 全30曲
収録賛美曲名
・新聖歌から…「騒がしき世より離れて」、「十字架より叫び聞こゆ」、「丘に立てる荒削りの」、「キリストの愛われに迫れり」、「一羽のすずめさえ」、「御国への道あゆむとき」他。
・讃美歌21から…「私の心は神をあがめる」、「ナルドの香油」、「球根の中には」、「救い主イエスこそは」
・リビングプレイズから…「主はぶどうの木」、
・友よ歌おう…「カルバリの道」、「語りませ主よ」他
・プレイズ&ワーシップ…「荒野に水が」 他 。
3、以上のほか、新聖歌、讃美歌21、リビングプレイズ、友よ歌おうなどの讃美集からのいろいろな讃美を集会員が歌っている讃美CDがありますので、さまざまの讃美を知って歌いたい方、希望あればお送りできます。
○今月号に紹介した、ルツ記1章に題材をとった「別離」の絵(岡田利彦 画)を、作者の許可を得て写真(2L版 ―12.7 × 17.8 センチ)にしたものを、希望者にお送りできます。一枚百円。送料は何枚でも百円とします。額入りは650円(送料共)。代金は合計が千円以下の場合、切手(三百円以下のもの)でも可です。