・2013年2月 624号 内容・もくじ
3月の中旬を迎えて周囲の植物たちは、いっせいに芽吹こうとしている。
枯れたようになった木々から芽吹き、野草たちもいっせいに芽を生き生きと出してくる。 種もまた死んだと同然のような姿であるにもかかわらず、土に蒔くとたちまちいのちを表して芽を出してくる。
復活ということを目に見えるかたちで最もよく感じさせてくれるのは、こうした身近な植物たちである。
ここに神が私たちを取り巻く自然によって復活ということを指し示そうとされているのを感じることができる。
けれども、一般的には、復活など考えられないという人が大多数である。
そうした状況にあっても、じつは、死したものがよみがえる、新たないのちを与えられるということは、どんな人にも心の深いところにおける願いとなっていると言えよう。
死者に手を合わせる日本人の伝統的な仕草も、死者がさまよう霊、幽霊のようなものになるのでなく、少しでもよきものになって欲しいとの願いの表れだからである。
しかし、復活を与える神を信じることをしない日本人の大多数はそれは単に漠然とした願いにとどまったままである。
聖書は、こうした人間の深い願いに答えようとする書である。
聖書はその巻頭に、いかに闇が深くとも、神の言葉によってそこに光が与えられるということからはじまっている。
この聖書の最初の言葉もまた、そうした復活を指し示す象徴的な出来事なのである。
闇に沈む、それは死であり、絶望である。そのような恐ろしい状況を乗り越えること、それはまさに復活と言えるが、それは、ただ人間を超えたところからの光によってのみ有り得る。
聖書はそのような復活が可能であることを一貫して人間に語り続ける書なのだということをこのような書き方で示しているのである。
復活は、人間の力や努力でなそうとするときには不可能なことである。
しかし、もし、私たちが神にのみより頼むとき。それは実容易なこととなり、万人に開かれた道となる。
ただ神とキリストを信じるだけで、神の愛を受け、それによって私たちは復活の力が与えられるのだから。
この単純な道こそ、何千年も続いてきた真理の核心である。
…あなた方は以前は罪のために死んでいたのです。…
しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし、復活させてくださいました。
(エペソ書2の1~6より)
見よ、この人を!
今から60年ほど前には、テレビというものは存在しなかった。テレビが現れてから、絶えず、あらゆる家庭で、画面にあらわれる人物を、この人を見よ!とばかりに注目させられるようになった。
音声だけでなく、映像で見えるということは、それまでのラジオより、はるかに強い力で画面の人物に引き寄せられることになった。
それはしかし、目に見えないものへの軽視を伴うことになった。
そのような大きな変動があったが、過去2000年という長い間、一貫して天の声として響き続けたきたのは、福音書にある次の言葉である。
…見よ、神の小羊を!
この方こそは、世界の罪を取り除くお方なのだ。(ヨハネ1の29)
現在においても、がんと診断されると死が近いと思う人々が多いであろう。がんと死は直結するように以前は思われていた。
しかし、実は、あらゆる人間は、日々、確実に死に至りつつあるのであり、死への病をもっていると言える。
どんな医者も、手術によっても放射線も薬も、その死というがんのようなものを除くことはできない。
人間は生まれたときから、一人の例外なく、いかなる科学技術も権力も、努力も及ばない病にかかっているのと同様である。
そのようななかで、ただ一人のお方が、そうした絶望的状態から脱すること、万人がかかっている死に至る病からの解放を与えてくださったのである。
それゆえに、キリストのさきがけとして現れた洗礼のヨハネは、そのような人をこそ、見よ!と言ったのである。
そしてそれは、そのことを記した使徒ヨハネも同様に、はっきりと神が「この人を見よ!」と語りかけておられるのを聞き取ったゆえに、その福音書にこの短いひと言、しかしきわめて深い意味をもった言葉を書き残したのであった。
全世界の人々の罪を取り除くという途方もないスケールでそれを事実行なうことができるお方、それこそ、キリストである。
キリストこそ、元気にあふれた健康人であっても、また死ぬ間際の人間であっても―そのような人であればいっそうこの言葉があてはまる。
この人を見よ!
この人とは、主イエスである。
私たちはすべて、自分自身の罪さえ一生かかっても、いかなる高度の学問をこなしたとしてもまったく取り除くことができない。
しかし、主イエスは、信じて頼るあらゆる者の罪を、しかも永遠に取り除き続けるというのである。
さらに罪を除いただけでない。そこにあらたに、聖なる霊、天来の風を送り込んでくださるお方である。
この地上世界には、目をみはる美しい光景や高山の花たちもある。 それらの美しさも、神がそれらを見よ!と語りかけているのであり、さらに、その美しさや力や壮大さを創造した神、キリストを見よ、と言われているのである。
主イエスも、野の花を見よ、神がそれらを育て装っておられる、と言われた。
この世では、人間を見よ、と絶えず迫ってくる。 しかし、それらはいかにはかなく、力のない存在であろうか。
聖書において、この人を見よ!と言われているキリストは、いつどんな時であっても、信仰の心によって見ることができるお方である。
いまも、神はさまざまの方法をとおして私たちに向ってたえず語りかけておられる。
「この人(キリスト)を見よ!」と。
「アンクル・トムス・ケビン」 ストー夫人著より
前月号で、「レ・ミゼラブル」と聖書との関連という内容の文を書いた。今月号の編集だよりに引用したように、いろいろな方々からの感想などをいただいたのは、この有名な文学作品が、聖書の内容との関わりを深くもっているからであった。
聖書との深い関わりを持った文学作品としては、ほかに アメリカのストー夫人(*)による「アンクル・トムス・ケビン」という小説が広く知られている。
今回は、「レ・ミゼラブル」とともに関心をもっていただきたいと思い、10年ほど前に書いた文をここに掲載することにした。
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この作品は、アメリカの奴隷解放に大きな影響を及ぼした。この小説は深いキリスト教信仰に基づいており、かつ著者自身が奴隷制の悲惨さをも見て、実際に逃亡奴隷を助けることにも関わったし、何とかしてこの悪の制度を変えねばという、信仰に基づく情熱的な心で書かれている。
それゆえ、この小説は決してたんなる子供向けの物語でなく、社会的な悪に対してキリスト者はいかに対処するべきなのか、国家そのものが悪をなしているときに、その悪い法律に盲従していいのか、というきわめて社会的な、そして困難な問題をも同時に含んでいるのである。ここには、聖書に記されているように「人間に従うよりも、神に従うべきだ」(使徒行伝五・29)という、悪との戦いの精神がにじんでいる。
しかし、残念なことに、日本では、「レ・ミゼラブル」と同様に、子供向けに簡略にした物語としてしかほとんどの人は知らないし、大多数の人は、この物語の完訳版を、読んだことがないと思われる。
この本には、単にアメリカの黒人奴隷の解放に関わる歴史的な重要性があっただけでなく、現代の私たちにとっても、キリスト者のあり方についても心に響く内容が多くみられる。
その中には、その時代においてどうしても必要であったから、神が書かせたのではないかと思われるような雰囲気が流れている。
これは、もともと奴隷制に反対する立場の新聞に連載されたもので、最初から現在のような形で書き始められたのでなく、彼女によると終わりの方の内容から浮かんできたという。
この小説を書くきっかけは、義妹によって、「奴隷制がいかにいまわしい制度であるかを、国中が感じるようなものを何か書いて欲しい」と、熱心に頼まれたことであった。大きな影響を持つようになった書物とか仕事は、しばしば自分からの発意でなく、他人からのうながしや暗示によると言われるが、この小説の場合もそうであった。それは、神が義妹を用いて、ストー夫人にこの小説を書くように導いたと言える。
この小説が出版されるとたちまち世界的に広がり、数多くの版が現れ、海外の訳も出た。出版されてから二十七年ほど経った一八七九年の時点で、イギリスの大英博物館には、アンクル・トムス・ケビンには、絵入り本なども含めて、四十三種類もの版が出版され、十九種類の翻訳が置かれてあったという。
以前に販売されていた、角川文庫とか新潮文庫、旺文社文庫などの入手しやすい完訳本が現在ではなくなっていて、新訳もあるが、かなり高価な本(**)となっているので、一般的ではない。それでこの本の中から印象的な内容を短いコメントを付けて抜粋してみる。なお、英語の原書は現在でも数多く出版されていて、インターネットで簡単に入手できる。日本語訳を持っている人は、比べながら重要箇所を参照することで、ストー夫人の直接の表現に触れることができる。(***)
(*)ストー夫人 Harriet Elizabeth Beecher Stowe (1811―96) アメリカの女流小説家。牧師の家庭に生まれる。聖書に基づくキリスト者の立場から『アンクル・トムの小屋』(1852)を書き、奴隷制反対の感情を全米的に盛り上げ、南北戦争の気運を促進した。この小説は一八五二年刊。出版後一年で30万部以上を売り尽くし、十年たらずの間に三百万部が読まれるほどになって、世界的な名声を得た。ケンタッキーなどの農園を背景に、黒人奴隷トムがたどる悲惨な境涯が、トムの深いキリスト教信仰を軸にして語られている。一時はやさしい主人セント・クレアとその娘エバのもとで幸福に暮らすが、二人の死によりふたたび売られて悪魔のような奴隷商人レグリの手に落ち、鞭と責め苦で非業の死を遂げる。この小説に対してなされた、奴隷制を擁護する人たちの激しい攻撃に対し、作者は『アンクル・トムの小屋への手引』を著し、この物語の真実性を例証した。
(**)「新訳 アンクル・トムの小屋」明石書店刊 628ページ 六五〇〇円
(***)例えば、アメリカのSignet Classic シリーズの「Uncle Tom's Cabin」は1966年の初版以来、四十年近く経った現在も発行されていて、700円ほどで購入できる。
アメリカで、黒人奴隷を持っていた人が、会社の倒産によって奴隷を売らねばならなくなった。そのジョージという名の奴隷はやはり黒人奴隷のエリザと結婚していた。自分たちが売られていくことを知った、ジョージはひそかに命がけの脱走を計画する。(○印を付けだ部分は筆者―吉村のコメントである。)
…「何をなさるつもり?ジョージ、悪いことはなさらないでね。あなたが神様を信じ、正しいことをするように努めていれば、神様があなたを救って下さるわ。」
「俺は、おまえのようなクリスチャンじゃないんだよ。エリザ。俺の心は苦しみであふれている。俺は神様なんぞ信じることはできない。なぜ、神様は世の中をこんなふうにしているんだ」
「ジョージ、私たちは信仰を持たなければならないわ。私たちに悪いことが起こっても、神様はできるだけのことをしておられるのだと、信じなければならないって、奥様も言っておられたわ。」………
「エリザ、俺のために祈っておくれ。おそらく、神様はお前の言うことは聞いてくださるだろう。」
「ジョージ、あなたも祈って。そして神様を信じていて下さい。そうすれば、悪いことはしたくならないはずよ。」
○当時の黒人たちにはおよそ神などいないと思われるような理不尽なこと、暗黒の力に支配されているかのような悲惨なことがたくさんあった。しかし、不思議なことに、そうした苦しみと悲しみとそして重い労役のただなかにおいても、愛の神を信じる人がつぎつぎと生まれていった。
ここに現れるエリザという女も同様であった。どんなに苦しみが生じてもなおかつ神の愛と導きを信じ続けていくところに、悪に打ち倒されない力が生まれてくるのであった。
○奴隷トムを所有していたのは、やさしい主人(シェルビー氏)であったが、商売の仕事がうまくいかなくなって、どうしても所有している奴隷を売らねばならなくなったのである。その時にその夫人がつぎのように述べている。
…「こんなふうに、愛するエリザたちを売ってしまわねばならないとは、これは奴隷制度に対する神様ののろいだわ。むごい、あんまり、むごい、ひどいこと。…私たちの国の法律のもとに一人でも奴隷をおいておくことは、罪悪なのです。私はそれをいつも感じていました。子供のときからもそう感じていました。教会に行くようになってからは一層強く感じました。…奴隷制度が正しいものだと考えたことがないこと、奴隷を持つのは気がすすまなかったということはご存じのはずよ。…」(第五章より)
○この物語の主人公である、奴隷トムの特徴はつぎのように述べられている。
… 彼が特にすぐれていたのは、祈りであった。その祈りは、心を動かす率直さと幼な子のような熱心をもってなされ、聖書の言葉が豊かに息づいていた。
彼の生命の中には、聖書の言葉がすっかり消化され、彼自身の一部となり、ひとりでに彼の口から、無意識のうちにしずくのようになって出てきたのであって、そのような祈りはなにものも及ぶところではなかった。
彼の祈りは、聞く人の神へと向かう心に強く働きかけて、彼のまわりの至るところで、共感の祈りを呼び覚まし、トムの祈りの声がまったく消えてしまうほどであった。(第四章より)
○祈りは、人を現す。いつも実際に祈っている人と、ふだんあまり祈っていない人の祈りは自ずから違ってくる。隠れたものは現れるものであって、隠れた祈りを日々続けているときには、その祈りは人前で祈るときにもその霊的な雰囲気が自ずからにじみ出るものである。
祈りをたんに人間的な言葉をつらねて祈るのでなく、御心に従って祈るように聖書では記されている。
それゆえに、私たちの祈りのなかでもみ言葉に自然にうながされるように祈ること、み言葉をそのまま祈ることの重要性を知らされるのである。
主イエスも、すでに祈りを多くしていたはずの弟子たちに、どんな祈りが最も深く、またすべてを包むものであるかを「主の祈り」によって示している。
○親しかった仲間の奴隷が売られることに対して、残された奴隷たちは怒った。そして奴隷を買うために来た商人が、その奴隷に逃げられていらいらしているのを見て、そんな商人などは天罰を受けるのだと言っている場面である。
…「いい気味だ!」クローばあやは憤然として言った。あいつ
は心を改めないなら、いつかひどい目に会うだろう。神様があいつを呼びつけてお裁きになるよ。」
「あいつは、地獄に行くね、きっと」小さいジェークが言った。
「当たり前だよ。あいつはたくさんの、たくさんの、人の心を引き裂いた。…」クローばあやは厳しく言った。
「悪いことをしたやつらは永遠に焼かれるのだろう、きっと。」子供のアンディーが言った。
「それが見られたら嬉しいんだがなあ」と小さいジェークが言った。
その時、一つの声が響いた。
「子供たち!」みんなはぎくりとした。トムであった。彼はそこに来て戸口のところでそうした会話を聞いていたのであった。
「子供たち」と彼は言った。
「あんた方は自分が言っていることの意味がわからないのじゃないか心配だ。子供たち、恐ろしい言葉はいつまでも消えないものだよ。考えただけでも恐ろしいことを言っている。どんな人間に対してでも、幸いを願わなければらないよ。」
「あいつらのために祈ることなんかできるものか。あいつらはとても悪いんだから」
「草や木だってあいつらを非難するだろうよ。」とクローばあやが言った。…
「迫害するもののために祈れ、と聖書には書いてある」とトムは言った。
「あいつらのために祈れって?」クローばあやは言った。「ああ、それはあんまりひどいじゃないか。私にゃできない」
「そう思うのは当たり前だ。クロー、そしてそういう感情は強いもんだ。」トムは言った。
「しかし、神様の恵みはもっと強いんだ。それにあんなことをするような人間の哀れな魂はどんなに気の毒なものか、考えなくちゃならないよ。おまえは自分がそんな人間じゃないことを神様に感謝しなきゃならないよ。そういう気の毒な魂が、どんな目に会わされるかということを考えたら、私は本当に何万回でも売られたほうがましだ。」
○このトムの言葉のように、キリスト教の迫害の時にはいつも敵対する者のためにどうするかが問われていった。そしてキリストの霊に導かれた少数の者たちは、最初の殉教者ステパノのように、いかなる迫害のときでも敵を憎むことなく、その敵のために祈り、幸いをすら祈ったのであった。そしてそうした祈りの心は、ただ生きたキリストだけが与えることのできるものであった。
つぎは、別の場面でのアメリカ上院議員のバード氏夫妻の会話である。夫人のメアリーが言う。
…「この地方に逃げてくる哀れな黒人奴隷たちに飲食物を与えることを禁じる法律が通りそうだというのは本当でしょうか。そんな法律が討議されていると聞いたんですけれど、キリスト者の議員だったらそんな法律は通過させないと思いますわ。…そういう法律はあまりに残酷でキリスト教的じゃないと思いますわ。ねえ、あなた、そんな法律は通過しなかったのでしょうね。」
「ケンタッキー(アメリカ合衆国中央東部の州)から逃げてきた奴隷を助けることを禁じる法律は通過したのだよ。あの向こう見ずな奴隷廃止論者があまりやりすぎたものだから、ケンタッキー州の連中はひどく神経質になって、それをしずめるには何とかしなければならなくなったようなのだ。もうキリスト教的とか、親切とかいってはいられないのだ」
「それで、その法律ってどんな法律ですの? 逃げてきた哀れな奴隷の人たちに一夜の宿を与えることまで、禁じやしないでしょうね。温かい食物や、古い着る物を少しやったり、静かに仕事をやらせることまで禁じるというのじゃないでしょうね。」
「いや、そうなったんだよ。おまえ。…」
バード夫人は穏やかな青い眼と血色のよい顔色と、特別にやさしい声をもったはにかみやの小柄な女性であった。…しかし今、彼女は、顔を赤くしてすばやく立ち上がった。それはいつもの様子とは全く違っていた。そして断固とした態度で夫に歩み寄り、きっぱりと言った。
「ねえ、ジョーン。あなたがそういう法律はキリスト教的であると思っているのか知りたいの。」
「残念ながら、そう考えたのだ」
「ジョーン、あなたは恥ずべきですわ。かわいそうな、家庭も住むところもない人たち!恥ずべき汚らわしい法律ですわ。私は機会があり次第、そんな法律は一人で破ってしまいます。機会が与えられるとよいと思います。女として、そのような人たち、哀れな飢えている人たちに、かわいそうに一生の間、虐待され、圧迫されてきた奴隷であるという理由で、温かい服やベッドを与えてやることができないとしたら、世の中はどんなにか悪くなることでしょう。…
ジョーン、私は政治については何もしりません。でも、私は、私の聖書を読みます。そうすると、飢えた人に食物を与え、着る物のない人には着せてやり、頼りのない人は慰めなければならないということがわかります。私はそういう聖書の教えに従いたいのです。」
「しかし、おまえが法律に反して奴隷にそんなことをしたら、大きな社会的な災いを引き起こすだろう。」
「神様に従うことは決して社会に災いを引き起こすものではありません。そんなことあり得ないということはわかっています。神様がお命じになることは、いつだって一番安全で間違いのないものなのです。」…
「私、あなたがそういうことをなさるのを見たいわ、ジョーン。本当に。例えば、吹雪の中に、一人の黒人奴隷を追い出すようなことを。」
「残念だがそうする。非常につらい義務だろうが。」
「義務ですって。そんな言葉を使わないで。それは義務などでないことはわかっています。奴隷が逃げるのは、寒さや飢え、恐怖にあまりにも苦しめられ、しかも誰にも助けてもらえない時なんですよ。
法律があろうとなかろうと私はやります。そうすれば神様は私を助けて下さるでしょうよ。」
○この言葉は、ペテロたちが「人に従うよりは神に従うべきである」(使徒言行録5の29)と言ったことを思いださせるものがある。
上院議員のジョーンとメアリ夫妻が、このような議論があった後で、逃げてきた黒人奴隷のエリザが子供とともに、寒さのために衰弱しきってジョーンの家にたどり着いた。追跡してくる奴隷商人たちの手から逃げるために、川を流れる氷の上を命がけで飛び歩いて逃げてきたのであった。
意識不明になっていたが、正気になったとき、バード夫人は言った。
「どこから来たの?」
「ケンタッキーからきました。」と女は答えた。
「いつ?」今度はバード氏が言った。
「今夜」
「どうやって来たのです?」
「氷の上を渡って」
「氷の上を渡って来たって!」
「そうです。神様がお助け下さったから私は氷の上を渡ってくることができました。私を追いかけてくる人たちがすぐ後ろに迫っていたからです。他に方法がなかったのです。やれるとは思いませんでした。ああしなければ、死ぬだけでした。
やってみなければ、神様がどんなに大きな力で助けて下さるか誰にもわからないのです。」
○このエリザの言葉には、作者のストー夫人自身が、逃げてきた奴隷を助けることに関わったこと、そしてその際の困難や危険をも、神の助けを与えられて導かれたという経験が感じられる。実際、ここでエリザに言わせている言葉は、現在でも生じることなのである。
困難や苦しみのとき、どちらを選ぶかという難しい選択をせねばならない状況に置かれたととき、本気で神を信じて、決断したときにだれも予想しないことが生じた、例えば、助けとなる人が現れたり、必要な物や金が与えられたり、状況が変わって危険を逃れたり…ということである。
私自身もそのようなことをいくつか思い出す。こうしたことを経験すると、この不可解な、謎に満ちた世界、偶然と悪が満ちているだけの世界のようであっても、その背後に驚くべき真実な神の御手が働いていることを知らされるのである。
○トムが奴隷として売られて行ったのは、セント・クレア家であった。その家では、愛する娘(エヴァ)が病気がちであった。彼女の病がだんだん重くなってきたある日のことがつぎのように記されている。死を前にして、恐怖とか不安でなく、逆に主の平安を与えられていた魂のすがたがつぎのように心に残る表現で記されている。
…エヴァは心の中で天国が近づいたという静かな喜ばしい予感に確信を持っていた。
夕日のように静かな、しかも秋の明るい静けさのように美しい境地にあって、
彼女の小さな心は安らかであった。
It rested in the heart of Eva,
a calm,sweet,prophetic certainty that heaven was near;
calm as the light of sunset,
sweet as the bright stillness of autumn,
there her little heart reposed,…(アンクル・トムズ・ケビン第二十四章より)
○そしてさらに、このエヴァが自分の行くところは主イエスのもとであるということを言うが、それはつぎのように表現されている。
…私たちの救い主キリストの家へ。
そこはそれは喜ばしく平和なところなのだわ。
そこでは、すべてがとても愛すべきところなの!
To our Saviour's home;
it's so sweet and peaceful there,it is all so loving there!
○このような、深い信仰を持っていたエヴァは、この後まもなく、天のふるさとへと帰っていく。後に残されたのは、愛する娘を失って悲嘆にくれるその家の主人(セント・クレア)であった。しかし彼は娘が深い信仰を持っていたにもかかわらず、どうしても神を信じることができない。
…「トム、私は信じない、信じられない。私はなんでも疑うくせがついてしまっているのだ。聖書を信じたい、しかしだめだ。」
「ご主人様、愛の深い主にお祈りなさいませ。 …主よ、信じます。私の不信を救って下さい …、と。」
「 …私にとっては、エヴァも、天国も、キリストも、何もない。」
「ああ、旦那様、あります!私は知っているのです。本当です。」トムはひざまづいて言った。
「信じて下さい、旦那様、どうか信じて下さい!」
「どうしてキリストがいるっていうことがわかるんだ。トム? お前、見たことなんかないじゃないか。」「私の魂で感じるのです。旦那様、今だって感じています!
ああ、旦那様、私は年取った女房や子供たちから引き離されて売られた時には、悲しみのあまりほんとにもう少しで死んでしまうところでした。何もかも奪われたように思ったからです。
そのとき、恵み深い主が私のそばに立って言われたのです。 …『恐れるな、トム!』 …
主は、哀れな者の魂に光と喜びを与えて下さいます。あらゆるものを平和にして下さいます。 … …私は哀れな人間ですから、自分からこんな考えがでてくるはずはないのです。主から出た考えなのです。」
トムは涙をぽろぽろ流しながら声を詰まらせて話した。
……セント・クレアは頭をトムの肩にもたせかけ、その堅い、忠実な黒い手をしっかりと握った。「トム、お前は私を愛してくれるんだね」と彼は言った。「私はお前のように、心の善い正直な心をもった人間の愛などを受ける値打ちなどないのだよ。」
「旦那様、私よりもずっと旦那様を愛しているお方がいますよ。恵み深いイエス様は、旦那様を愛しておられます。」
「どうしてそれがわかるんだ、トム?」
「私の魂の中でそれを感じるのです。 …『キリストの愛は人知を超えるもの』なのです。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」第二七章より)
奴隷トムの主人であった、セントクレアは「今も、キリストがいるということがどうしてわかるのか?見たことがないではないか。」とトムに問いかけた。これは現在もほとんど誰もが問いかけることである。
キリストは確かにおられる、トムは「魂で感じる」と言っている。これも現代のキリスト者も共感する言葉であるだろう。
信じるとは全くいるかどうかわからないのを、いるとすることである。しかし、キリスト者は単にどちらかわからないのを信じるのでなく、キリストがおられるのを、魂において実感するのであって、そこから本当の力も励ましも感じるようになる。
「アンクル・トムズ・ケビン」という書物は、小さい字で書かれた文庫本で上下2冊、七四〇ページにもなる分量であるが、あちこちにこのようなキリストの心と聖書の精神が見られる。
いかなる書物も、アメリカの歴史において「アンクル・トムズ・ケビン」ほどに直接的で、しかも力ある影響を及ぼしたものはない言われている。奴隷たちの受けた苦しみや弾圧を、生き生きと描いて、この本は特に北部アメリカの人々の奴隷制への反対の感情に火を付け、奴隷解放へと導く大きな力となったと言われる。
作者のストー夫人と同時代のトルストイやヒルティなどもこの作品を高く評価したのであった。
このストー夫人の名作は、ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範として、シラーの「群盗」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。
「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … …
わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 そのあとに、ゲーテ、シラー、カーライルなどの幾冊かの本がつづき、ずっとあとに、たとえばカントやスベンサーがやって来る。」(「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)
書店で販売されている、世に文学作品といわれるものの中で、小説、物語などのたぐいは無数にある。しかしそれらのうちのきわめて多くのものが、たんに罪を描いたり、娯楽のための内容となっていると言えるだろう。すぐれた人間を描く伝記文学にしても、その人間の良い点ばかりを書いて英雄視したりして、現実の人間の罪をもったすがたを正しく描かれていないことが多い。人間を偶像化して描くことはそれ自体が罪なのであって、真理にかなった書物とは言い難い。
どうしてこのようになるのか、それは当然である。真の光、いのちの光というべきキリストを信じず、生きているキリストを実際に感じていないならば、光を指し示す内容を書くことはできないからである。
そのようななかで、このストー夫人の作品は、この世の闇のただなかにおける、神の愛が主題となっている貴重な作品である上に、当時の社会的な大問題に正面から取り組むという広い視野をも同時に持っている内容となった。
ヒルティがどんな作品を書いて欲しいかとの問に、この「アンクル・トムス・ケビン」を第一に上げているのも、この世で最も大切な神の愛についてこの小説が強い印象を与える内容となっているからであり、それはまさに永遠の神の言葉たる聖書そのものの主題にほかならない。
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「アンクル・トムス・ケビン」の中から (その2)
前回にごく一部を紹介したが、何人かの方々から感想などを頂いた。そして私の周囲の人たちも子供向けのものしか読んでいないし、そのためにこの本は子供のための物語だというように思っていたというのが多かった。またずっと以前に読んだが、もう一度読んでみたいという方々もおられた。
それで、今回もこの本の内容の紹介を続けたい。
これは小説である。しかし、すぐれた文学作品は単なる作り話ではない。それは人間の深いところをじっさいに流れる共通の感情を明らかにし、私たちが気付かなかった清らかさや美しさ、あるいは神の愛などをあざやかに浮かび上がらせてくれる特質がある。本来なら眠ったまま、あるいは耕されずにいたであろう、私たちの魂のある部分が耕され、深められ、そして清められるのである。そして固まりかけていた心がよみがえるような思いを与えてくれるものである。
つぎにあげるのは、奴隷のトムが慣れ親しんだ主人のもとから、売られていくときの状況である。
…トムの小屋の窓越しにその二月の朝は、灰色で、ぬか雨が降っていた。打ちしおれた人々の顔には、悲しみに閉ざされた心の影が映っていた。…クローばあやはもう一枚のシャツをテーブルの自分の前にひろげていた。彼女は、…ときどき顔に手をやって、頬に流れる涙を拭いた。
トムはそのそばに聖書を膝の上にひろげて、頬杖をついて、すわっていた。しかし何も口をきかなかった。まだ早かったから、トムの子供たちは小さな粗末なベッドで一緒に寝ていた。
優しい誠実な心を持ったトムは立ち上がって、静かに近寄って子供たちを見た。「これが見納めだ」と彼は言った。
クローばあやは声をあげて泣き出した。
「あきらめなきゃならないなんて、おお、神様、どうしてそんなことができるでしょう?あんたがこれから行くところについて何かわかっていたら。どんなふうに扱われるかわかってたら。奥様は一、二年のうちに買い戻せるようにやってみるとおっしゃる。だけど、ああ、河下へ行って帰って来たものなんかありゃしない。あんたは殺されちゃうだろう。栽培地じゃひどくこき使うって話を聞いたことがあるよ」
「クロー、どこにだって、ここと同じ神様がいらっしゃるよ」
「そうかね」とクローばあやは言った。
「いるとしておこうよ。しかし神様もときどき恐ろしいことをなさるものだ。私にゃ安心できないよ」
「わしは神様の御手の中にいるのだ」とトムは言った。
「何ものも神様がなさる以上のことはできないよ。それが、わしが神様に感謝するただ一つのことなんだよ。それに、売られてミシシッピ川の下流へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではない。おまえたちはここにいれば無事だ。何か起るとしてもわしにだけ起るんだ。
神様がわしをお助け下さるだろう。わしにはわかってる」。
○「神はどこにでもおられる、そうしてどんなに悪がひどいことをしようとも、神はそれらすべての上におられて、最終的には救って下さる」、これが、家族と引き離され、激しい強制労働が待ち受けている南部へと売られていく絶望的な状況にある奴隷トムの唯一の希望であった。これは、使徒パウロが、つぎのように述べていることを思い出させるものがある。
…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いだった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(Ⅱコリント1の8~10)
そして、こうした困難にあっても、「神は必ず助けて下さるということを知っている」と確信している。この確信もパウロの持っていたものであった。それは本当に助けてくださるかどうかわからないが一応信じるというようなものでない。「知っている」のである。信仰は単なる根拠のない希望でなく、一種の知識となる。よく知られた著作家のつぎの文もそのことを述べている。
「だれでも信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の「知識」となる。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために・上 四月四日の項より)
…自分自身の悲しみに耐えて、自分が愛している者を慰めようとする健気(けなげ)な男らしい心!
トムは、こみ上げてくるものをこらえていた。しかし彼は勇気を出して強く語った。
「神様のお恵みのことを考えようよ!」トムは…体を震わせて、そうつけ加えた。
「お恵みだって!」とクローばあやは言った。
「そんなもの私にゃ見えないよ。これは間違ってる!こんなことになるなんて間違っているよ!だんな様は借金のためにあんたを売っちまうようなことをしてはならなかったんだ。だんな様はあんたのおかげで二回以上も助かったんだ。あんたを自由にしなければならないのだ。何年も前にそうすべきだった。今だんな様は困っていなさるのは確かだ。でもそれは違うと思うよ。なんと言われても私の考えを変えることはできないよ。あんたは忠実だった。あんたは自分のことをする前にだんな様のことをして、自分の女房や子供のことよりも、だんな様のことの方を考えた。
それなのにあの人たちは自分の苦しみから逃れるために、心にある愛や心の血を売り飛ばすあの人たちはいまに神様のお裁きを受けるんだ!」
「クロー、もしおまえがわしを愛していてくれるなら、おそらくわしたちが一緒に過す最後の時に、そんなふうに言わないものだ。なあ、クロー、だんな様の悪口は一言だって聞くのはわしは辛いよ。…
天におられる主を仰がなければいけない。主はすべての上におられるんだ。雀一羽も御心なくば、落ちないんだ。」
○神からの恵みのことを考える、そのことは、キリスト者に与えられた特権でもある。聖歌のなかにも、つぎのような歌詞のものがある。
望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(新聖歌一七二番)
苦難のときには災いや苦しみのみが心に浮かんでくる。それらをつぎつぎと数えてしまう。そのような時にこそ、過去に受けた主からの恵みに思いを注ぎ、そこからいまの苦しみや困難からもきっと助け出して下さると信じる心を強められる。
パウロのつぎのような言葉もこうした状況を知った上で言われた言葉だと考えられる。
…そして、いつも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(エペソ書5の20 )
いつも神に感謝せよ、と言われてもいま困難と苦しみのただなかにあるときにはどうして感謝できようか。それができるのは、ここで言われているようにかつての神からの恵みを冷静に思い起こすことによってのみ可能なのである。
奴隷をどうしても売らざるを得なかったシェルビー氏の夫人はそのような悲しむべきことになってしまうのを、どうすることもできなかった。彼女ができることはただ、心からの愛と祈りの心をもって、奴隷たちの前に出ること、そうして将来、買い戻すと約束することであった。つぎはそうした場面である。
…その時男の子の一人が「奥様がいらっしゃるよ」と叫んだ。「奥様だって何もできやしない。何しにいらっしゃるんだか」とクローばあやは言った。シェルビー夫人がはいって来た。クローばあやは明らかに不機嫌な様子で椅子を勧めた。夫人はそういうことは気づかないようだった。彼女は青ざめて、憂わしげだった。
「トム」と彼女は言った。「私…」
そして急に口をつぐみ、黙りこくっている一家の者を見て、椅子に腰を下ろし、ハンカチーフを顔に当てて、涙を流し始めた。
「まあ、奥様、もう何も、何も」
今度はクローの泣く番だった。しばらくの間彼らは皆一緒に泣いていた。
そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙のなかに、虐げられた者の悲しみと怒りはすべて溶け去っていったのであった。
ああ、苦しみにあえぐ人たちを訪ねたことがある人たちよ、あなたは冷たい心で与えた、金で買うことができるどんなものも、真実な同情の心から流した一滴の涙ほどの価値もないことを知っているだろうか。
「トム!」とシェルビー夫人は言った。「私はおまえの役に立つようなものを何も上げることができない。お金を上げたら、取られてしまうだろう。
でも、本当に心から、神様の前で、私はおまえのことは忘れない、お金が自由にできるようになったら、お前の行き先をつきとめて、必ず、すぐにおまえを連れ戻しますからね。その時まで、どうか神様を信じていておくれ!」
○売られていくトムはただ、神にのみ望みを託していた。そして今後の過酷な生活をもそれによって耐えていくことができると信じていた。神は信仰を持つからといって困難や苦しみに会わせないという保証はない。しかしそうしたあらゆる困難からも、必ず共にいて助け出してくださるということを確信していたのであった。
そして、自らの力ではどうすることもできない夫の事業の状況のゆえに、夫の手によって所有している奴隷が売られていくことに耐え難い思いをもっていたシェルビー夫人もまた、神に望みを託していた。この物語に現れるキリスト者たちは、奴隷を所有していた立場にいた者も、売られていく奴隷も、そして逃亡奴隷を危険を犯してかくまって、逃がしてやる人たちも、真剣なキリストへの心、信仰を持っていて、その信仰が生きて働いているのが感じられる。
トムの売られていく状況と並行して描かれているのは、やはり売られることに決まった若い女奴隷と子供のことである。この女奴隷はエリザという。彼女がシェルビー氏の家から売られる寸前に命がけで逃げ出して氷の流れる危険な川を渡り、迫り来る追っ手から逃れて、倒れたところを救い出されたことは前回に少し記した。つぎはその助けられた家での出来事である。
…エリザは自分を介抱してくれる、その家の夫人をじっと見つめた。
「奥様」と彼女は突然言った。「奥様はお子さまを亡くしたことがおありでしょうか?」
この問は思いがけなかったし、まだ生々しい彼女の心の傷に深く触れた。それはこの家の一人の愛らしいヘンリーという子供が葬られてから、やっと一ヶ月がたったきりであったからである。
「では、私の気持ちをおわかり下さるでしょう。私は二人の子供をつぎつぎに亡くしました。この子だけが残りました。しかし、この子が売られようとしたのです。もしそんなことになれば私は生きていけないと思いました。それでこの子を連れて夜逃げたのです。追いかけてきた人たちにもう少しで捕まるところでした。私は冷たい水を流れる氷の上を跳んで川をかろうじて渡ったのです。最初に気がついたときに一人の人が私を助けて岸にひきあげてくれたことです。」…
エリザを助けた人の家は、上院議員のバード氏の家であった。彼は逃亡奴隷をきびしく扱うようにという法案を通過させるのに力を入れた人物であるが、その夫人のメアリは奴隷の苦しみに深く感じる人であった。そうしたところにエリザが運ばれてきたのであった。
そしてエリザの苦しみと非常な命がけの逃亡の旅を聞いて、バード氏も心を動かされた。そしてエリザを自分の地位が危なくなるようなことをしてでも、逃がしてやろうとするのであった。
そしてこの死ぬかも知れないと覚悟しつつ、幼い子供とともに逃げていこうとするエリザへの思いやりが生まれてきた。
彼は扉の所で、ちょっと立ち止って、少しためらいながら言った。「メアリ、おまえがどう思うか知らないが、あのタンスには、亡くなったヘンリーのものが、いっぱいはいっていたはずだね」そして彼はそれだけ言うと、扉をしめて出て行った。
妻は彼女の部屋に続いた小さな寝室をあけて、ローソクを手に取り、タンスの上に置いた。それから鍵を取出してそっとタンスの鍵穴にあてて、突然手を止めた。…バード夫人はそうっとタンスをあけた。
そこにはいろいろな形の小さな服やエプロンや、靴下などがはいっていた。爪先がすり切れた一足の小さな靴さえ中からのぞいていた。おもちゃの馬やこまやまりもあった。
それはバード夫人が、愛児が亡くなったとき、涙をながしながら張り裂けるばかりの心で集めた形見の品であった。彼女はタンスのそばに腰を下ろし、頭を抱え、涙が指を伝ってタンスに流れるまで泣いた。
そして突然頭を上げると、急いでなるべくきれいで役に立ちそうな品を選んで、それを集めてひとまとめにした。
「お母さん」とそれを見ていた、彼女の子供が、やさしく彼女の腕に手を触れて言った。
「誰かにおやりになるの?」
「可愛い子供たち」彼女は優しくしかも真剣に言った。
「もしあの可愛いヘンリーが天国から見ているとしたら、私たちがこんなことをするのを喜んでくれますよ。普通の人にこれをあげようとは思いません。でもね、母さんは、私よりももっと苦しみ悲しんでいる一人のお母さんにあげるのですよ。神様がこの品物と一緒にお恵みを下さるように」
自分の悲しみをすべて他の人の喜びへと実らせていく清らかな魂がこの世にあるものである。そういう魂をもっている人のこの世の望み(子供)は、多くの涙とともに土に埋められても、それは種のようにやがて花を咲かせ、芳香を放って、よるべなき人々や悩める人々の心の傷をいやしてくれるものなのである。
今、明かりのそばにすわって、そっと涙を流しながら、頼るもののない放浪者(逃げている奴隷のエリザ)に与えるために自分の亡き子供の形見を揃えている、思いやり深い婦人はそうした人間の一人なのである。 …バード夫人は大急ぎで小さいきれいなトランクにいろいろなものを入れて、それを馬車に乗せるようにと夫に言ってから、エリザを呼びに行った。彼女は子供を抱いて現れた。急いで馬車に乗せると、エリザは馬車から手を差し出した。それにこたえて出されたバード夫人の手と同じように柔らかく、美しい手であった。
エリザは大きな黒い瞳に、はかりしれない真剣な意味をこめてバード夫人を見つめて、なにか言おうとした。彼女の唇が動いた、一、二度言おうと繰り返した、が、声にはならなかった。― そして決して忘れることのできない表情で天を指さして、崩れるように座席に腰をおろして顔を覆った。戸が閉められ、馬車は動き出した。
She fixed her large, dark eyes, full of eanest meaning, on Mrs. Bird's face, and seemed going to speak. Her lips moved,--she tried once or twice but there was no sound,--and pointing upward with a look never to be forgotten, she fell back in the seat, and covered her face. The door was shut, and the carriage drove on.
○エリザはバード夫妻からの特別な愛情を受け、逃げていくことができた。このような追いつめられた弱い女奴隷の心には万感胸に迫るものがあっただろう。そして彼女ができたことはただ、無量の思いをこめて恩人を見つめ、天にいます主を指し示して、神からの祝福を祈って別れることなのであった。
次の小文も別の時期に書いたものである。
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名作のなかから ―アンクル・トムズ・ケビンより
小さな天使
《ある裕福な家庭で、一般の白人よりはるかに奴隷に思いやりのある主人が、黒人奴隷の子供トプシーを持っている。しかし、トプシーは、奴隷であった両親から幼いときから引き離され、愛を受けたことがなく育った。
その子の心はゆがめられてしまい、やさしくしてくれる主人たちのいうことを聞かないで、悪いことばかりする。
その主人の妻は、こんないうことを聞かない子は、足腰が立たなくなるほどのひどいせっかんをしなければいけないと言ったほどだ。
その家にいたのが信仰深いエヴァという少女であった。
そのエヴァは、病気が重くなり死のときが近いという状況にあったが、そのトプシーを自分のベッドに呼んで次のように話しかけた…》
…おまえ、だれかを愛してはいないの。トプシー?
「愛なんてこと、何もしらねえです。」
「でもお前のお父さん、お母さんを愛しているでしょう?」
「そんなものはいねえです。いつか言ったでしょ、お嬢さん。」
「ああそうだったわね。」とエヴァは悲しそうに言った。…
「でも、たとえおまえが黒くっても、愛してもらえるようになるのよ」
「そうは思わねえです。あの方は、あたいに我慢ができねえです。
あたいが黒んぼうだもんだから―あたいに触られるくらいなら、ひきがえるに触られるほうがましだと思ってるんです!
黒んぼうなんか愛してくれる人はいるはずがねえです。
だから黒んぼうは何もできねえです。それでもあたいはかまやしねえ。」
「おお、トプシー、かわいそうに。わたしはお前を愛しているわ!」
とエヴァはぐっと込み上げてくる感情に思わず叫んだ。
そしてその小さな細い白い手をトプシーの肩に置いた。
「わたし、お前を愛しているわ。だってお前にはお父さんもお母さんも、友だちもいないんですものね。―
お前はかわいそうに、みんなから虐待されてきた子供ですものね!
わたし、お前を愛しているのよ。だからおまえもいい子になってちょうだい。
わたし、からだがとても悪いのよ、トプシー、もうあまり長くは生きていられないように思うの。
おまえがそんなにいたずらな子だと、わたしはほんとうに悲しくなるの。
わたしのためと思って、どうかいい子になるようにしてちょうだい。お前と一緒にいられるのも、もうほんの少しの間だけですからね。…
その黒人の子供の、まるい鋭い目は涙でくもった。― 大粒の輝く涙が一滴また一滴とあふれ出て、小さな白い手の上に落ちた。
まさにこの瞬間、真の信仰の光、天上の愛の光がその心の中に射し込んだのである!
彼女はひざの間に頭をたれて、すすり泣きだした。― そして彼女の上に身を傾けている美しいエヴァの姿は、さながら罪人を導く天使の姿に似ていた。
「かわいそうなトプシー! おまえ、イエスさまはだれでも分け隔てなく愛して下さるということを知らないの?
あのかたはわたしを愛して下さると同じように、喜んでおまえを愛して下さるのよ。わたしがおまえを愛するように。
―いいえ、もっともっとおまえを愛して下さるのよ。あの方はわたしよりずっといいかたですもの。おまえがいい子になるよう、お力添えをして下さるわ。
そして最後には、おまえも天国へ言って、永久に天使になれるのよ。それは白人と少しも変わりないわ。そのことをよく考えてちょうだい。トプシー!
おまえだって、アンクル・トムがよく歌うあの輝く天使たちのひとつになれるのよ。」
「ああ、お嬢様、お嬢様!」とその子は言った。「やってみる、あたい、やってみるです。あたい、これまでそんなこと少しも思ったこともなかった。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」(*)下巻 一五〇~一五二頁 ストー夫人著 角川文庫)
・ここには、どんなにかたくなになった心、絶望的なまでにゆがめられてしまった心であっても、もしキリストの愛がそこに触れるならば、変えられるという、作者のストー夫人の確信が現れている。
これは聖書から生まれた確信であり、ストー夫人自身が経験してきたことであるゆえにこのような作品に描き出すことができたのであろう。
制度を変えても、あるいは厳しい処罰によっても、また物質的な豊かさを提供しても、いかなることによっても変ることのないかたくなな心が変えられるのは、ただキリストの愛のみ、その真理は今に至るまで変ることがない。
これは単に小説のことでなく、私たちの一人一人が、実は、このトプシーのように、神の御前ではかたくなで、扉を固く閉じていた者であったのであり、そのところに主がその愛を傾けて下さったゆえに、私たちは神の愛を知ることができたのであった。
南北戦争という悲惨な戦争も引き起こすことになった奴隷差別問題、そのあとで、奴隷解放令が出されたが、このような歴史的な状況から生み出され、神の愛を主題とした文学作品は二度と書かれることはない。
それゆえに、神がストー夫人に働いてこの本に書かせた真理を私たちも深く受け止めたいと願うものである。
―詩篇第30篇
主よ、あなたをあがめます。 あなたは敵を喜ばせることなく (2節)
私を引き上げてくださいました。
わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを
あなたは癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
わたしに命を得させてくださいました。 (4節)
この詩は、「死んで墓に下る」「癒してくださった」「陰府から引き上げ、墓穴に下る」(10、3、4節)とあるように非常に重い病気の苦しみ、死に瀕するような病のなかから癒しを与えられたことが内容となっている。
2節の「敵」ということばは 具体的に人が敵で居た場合もあるが、一方で比喩的に用いられる場合もある。人間の命を攻撃するものはみな敵ということができるので、病気は強力な「敵」ともなり得る。
さらに、あらゆる良きものを滅ぼしてしまう「死」の力こそは最大の敵であるということは、黙示録にもその最後の部分で、悪魔が火の池に投げ込まれたとあるが、死も同じようにその火の池に投げ込まれたと記されていることからもわかる。(黙示録20の10、14)
そして、死という最大の敵を打ち破ったのがキリストの復活である。このように「敵」という言葉は人間だけを意味するものではない。この詩では「病気」がわたしたちの非常に大きな「敵」となってわたしたちを苦しめる、そういう意味でとくに言われている。
この詩では「引き上げてくださった、陰府から引き上げてくださった、墓穴から救い出してくださった」ということが最初から主題になって言われている。
病気の苦しみには、その病気からくる直接的な痛みや苦しみと、その病気ゆえに生じる周囲の人たちとの人間関係のひずみからくる精神的な苦しみがある。その苦しみは、家族との離反―例えばかつてのハンセン病の場合は、家族からも捨てられるということが多かったし、戦前から戦後にかけての時代には結核も家族も寄りつかなくなったり、離別されるということも生じた。
また、じっさいに私が盲学校教員をしていたとき―いまから30数年も昔だが、中年の中途失明の方からその心にあることを打ち明けられたことがある。その人は建築設計の仕事をしていたが、盲人となったとき妻が子供を連れて出てしまった。もう生きる望みがないから、じっさいに家の階段のところで首をつって命を断とうとしたが、できなかった、とその苦しみのうちを言われたことのなかに、深い悲しみを魂の中心にかかえておられるのを感じたことであった。この世における恐ろしい苦しみを人知れず耐えてこられたその方の表情や言葉がいまもなお思いだされる。
このように、病気から失明し、その苦しみのうえに、家族からも捨てられるという精神的に耐えがたい苦しみへと落ち込んでいく場合もある。
この詩で言われているのは、そうした深い病気の苦しみ―体の面でも、その魂の面においても―からの救いということなのである。
重い障がいを持った人の場合は病気そのものは治らず、精神的にもまったく闇の中に居た。けれども、その闇に光が射し込み、精神的な苦しみが癒されたということがある。
このように、ある種の「敵」ー精神も肉体も打ちのめそうとするある大きな力ーによって打ちのめされていたけれども その魂が確かに引き上げられたという経験を多くの苦しみにあった人たちは持っている。
がんで早くに亡くなった人でもその途中で信仰を与えられ、この4節のようにこの詩では、墓穴とか陰府と訳されている滅びの世界から引き上げさせてくださった、命を得させてくださった、という深い感謝と平安を持ってこの世を去っていく方々も数知れずいる。このように、この詩篇で言われている体験は現代に至るまでずっと無数の人が与えられてきたのである。
敵対するものの力に押しつぶされそうになって、耐えがたい苦しみの日々であったが、その苦しみに打ち倒されないで、そこから引き上げられた、という経験こそ、生涯の宝となる。
それは言い換えると、死んだも同然であった者に与えられた命であり、滅びずに生きることができたということであった。4節に「命を得させてくださいました。」とあり、6節でも「命を得させること」が神の御意志である(*)と書かれている。
(*)新共同訳では、「命を得させることを御旨としてくださる」であるが、原文の直訳は、「命は、(神の)善き意志(恵み)の内にある」となる。…in his favour is life. (KJV)と訳されているのはその原文に沿って訳された文である。ギリシャ語訳は、「命は、彼の意志のうちにある」 さらに、… his favor lasts a lifetime; ―彼の恵みは生涯続く(NIV)といった意味にも訳されている。
2節から4節には「わたし」が恐ろしい苦しみにあったこと、そこから必死で助けを求め続けたことが記され、「わたし」という言葉が繰り返されている。
しかし、5~6節からは大きく内容が変わる。それまでは他人に呼びかけるなどの心の余裕はまったくなかった。ただ、神に向って叫ぶだけであった。
しかし、自分が深い闇から、滅びに至る状況から救いだされたことを体験するとき、おのずからその大いなる事実を周囲の人に証ししたいという気持ちになる。かつての自分と同じような苦しみにある人々が何とかしてそのような闇から救いだされてほしいという気持ちになる。それゆえに、この詩にも自分自身の深刻な体験から、次のように、人々への呼びかけとなっているのである。
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい(5節)
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。(6節)
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
6節に「ひととき、お怒りになっても」とある。病気や苦難がふりかかることも「神の怒り」と旧約聖書では表現されることが多かった。しかし、それを人間の怒りのように「裁き」のことも「怒り」というように言われていた。
何らかのことでわたしたちも絶えず足りないことや罪深いこともあるので、そのときに裁かれる。警告も含めて、それも「怒り」と表現したわけである。そのことがあっても、最終的に裁くのが目的ではなくて、それによって目覚めて神に立ち返ることである。神の御心は何とかして人間が命を得るようになることである。
こういうことはずっと旧約聖書から今に至るまで続いている。この詩篇では、命を失わせようとするのが「敵」であり、非常に苦しい重い病気であったと考えられる。「死」というものにみな飲み込まれる。その命を得させようとして「復活」ということが与えられた。この「命を得させる」ことが本当の目的である。
わたしたちは、神を信じて神と霊的な結びつきがないままならば、動物が持っているのと同じような命しか持っていない。それはちょっとした事故や小さい鉄の玉(弾丸)やとがった刃物などで簡単に破壊されてしまう。そういう意味では人間の(動物としての)命は大切だと言っても、極めてもろい。
聖書ではそういうもろいもろい命ではなくて、壊れない命を言っている。それが一般の人々の考え方、新聞やマスコミとは全然ちがうところである。
この世では、思いがけない事故や小さな刃物などいによっても、すぐに失われる命を最高のものだと言っているが、聖書ではそのようには言っていない。そのような動物が持っているようないのちが最高ならば長生きするほどいいことになる。
その命は、わたしたちが病気になってもならなくても事故があってもなくても、確実に一日一日無くなっていっている。ところが無くならない命がある。そういう意味でこの「命を得させること」というのは非常に大きな意味となっている。
新約聖書でもヨハネ福音書で最終的な目的と関連して言われている。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 (20の31)
「神の子」とは、神と同じ本質を持っていることを意味している。神の御性質をすべて持っているという意味で使われる。だからこそ意味がある。人間は神の子だということならば、わざわざ言う必要はない。神さまが創ったのだから、当たり前の話である。そういう意味ではなく、神とひとつになっている。という意味合いで使われている。「神の子メシア」油注がれた者、神のすべての御性質を注がれたお方であると信じて「命を受ける」。
ここで言っているのは永遠の命、滅びない命、事故や病気などで時間によっても無くならない命である。動物的な命は一日一日減っていっている。確実に無くなるものである。どんなに科学技術が発達して、長寿が可能となったとしても、そのときには新たな問題が生じて、長く生きることができなくなる。 それは、もし多数の人間が、百歳を越えて生きるようになれば、食料がたちまち無くなるからである。動物でもある程度異常繁殖したら、餌がなくなり自滅する。死というものがなくなっていくとしたら、その集団の数は、たちまちのうちに途方もない大きい数になる。
このように、人間が長寿になったら喜ばしいということでなく、人間の命がどんどん長寿となっていくとそれがまさに生きられないという状況を生み出していくのである。このように、単なる長寿ということは、本質的に祝福とはならないものなのである。
ここで言われているのは「命を得させてくださった」ということである。詩篇ではまだはっきりした死後の命ということは記されてていないが、キリストが来られて復活されてから、「永遠の命を得させてくださる神」のことが人々にも示されていった。
キリスト教とは何か、という問いかけはよくなされる。ヨハネ福音書では、永遠の命を与えるものだ、と明確に記されている。そしてその命をいただくために必要なのは、信仰である。
人間の単なる教えではない。一般的には、教えというと、「…せよ」ということと受け取るから、それだけでは窮屈で仕方がない。そのような命を得るためには神と和解する必要がある。命を得るためには、イエスを神と同じお方―神の子だと信じるだけでよい。神と同じ本質のお方だからこそ、万人の罪を赦すことができる。
もし、私たちが永遠の命(神のいのち)を受けたなら、人を憎まないで平和を願うようになる。他者のために祈るようになる。信じて命を得る。単純明快である。神が持っている いのちを受けたら自ずと良きことにもつながる。
万能であり、かつ真実な神のいのちなのでそういう力も当然持っている。わたしたちができないのは、そういう命をまだ十分にいただいてないからよきことも出来ないし、現実の行動においてもしばしば間違ってしまうのである。
わたしたちも罪のゆえに罰を受けたと思うときもあるし、非常に苦しむこともある。そのようなことも、あとから振り返ってみると、その苦しみの意味が示されてくる。
「自分が受けた苦しみによって、自分が罪を犯していたこと、正しいあり方からはずれたことを知らせてくださっているのだ、それゆえにあの苦しみは罰であるとともに、よき道へと転じさせるための警告だったのだ」と。
さらにこの詩の作者は、たとえ悲しみに打ちのめされることがあろうとも、必ず時至ってその悲しみから救いだされ、喜びと感謝の讃美を捧げることができるときが来ると、確信をもって証しをする。
…泣きながら、夜を過ごす人にも
喜びの歌とともに朝を迎えさせてくださる。(6節)
人によっては、苦しみと悲しみの長い夜が続くことがある。それは耐えがたい歳月となる場合もある。神が見捨てたのかと思われるほどになることもある。
しかしそれでもなお、きっとその長いトンネルを越えるときが来る、希望の朝、いやしの朝が来るときがある、ということを私たちに語りかけている。
泣きながら夜を過ごしても、喜びをもって、朝を迎えさせてくださる、そのことを実際に体験したことからこの詩篇は生まれたのであり、そのように救いだすのが神の御心だと人々に呼びかけているのである。
…平穏なときには、私は言った。
「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。(7節)
主よ、あなたが御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥った。(8節)
ここで作者は、ふたたび自分の苦しかった過去を振り返る。
神を信じ、自分の力もしっかりしていると思っていた。
平穏なときには、言っていた 「私は、何が起こってもいつまでも揺らぐことはない」と。
けれども、ひとたび神の助けを感じられないような困難に出逢ったとき、たちまち恐れに取りつかれてしまう有り様であった。(8節)
7節ではふたたび「わたし」と変わっている。ここで、この詩の作者は、かつての動揺していた自分を思い起こしているのである。
平穏なときには意志も強く「わたしはとこしえに揺らぐことはない。」と思っても、「しかし、御顔を隠されるとわたしはたちまち恐怖に陥った。」とある。信仰者であっても、絶えず神の御顔を仰ぐ、神がわたしたちに結びついてくださっているのでなければ 人間というのは本当にもろいものだという実感をこういう形で表している。主が山に立たせてくださったー動かないようにしてくださったから、しっかりしていると思ったけれど神が御顔を隠された途端にこのように恐れる。
これを非常に大きなテーマにしたのがヨブ記である。ヨブは、生き方も正しく、さまざまの豊かさに恵まれていた。こどもたちは信仰が十分ではないと思っても、自分自身の信仰は揺るがないと思って神への信仰に生きていた人だった。
けれども、突然の事故、災害で財産やこどもたちをも失った。それは神が、この詩篇にあるように、その御顔を隠されたのである。それは、非常に苦しい状況であり、罰としか思えない状況だった。
そして、どんなに祈っても答えもない。どうしてこんなことが起こるのか―いくら考えても祈ってもわからない、という状態になった。
すでにキリストを信じて守られていると思っているわたしたちにも、神がその「御顔を隠されたらたちまち恐れになる」ということが生じる。
…主よ、わたしはあなたを呼びます。(9節)
主に憐れみを乞います。
わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
主よ、耳を傾け、憐れんでください。
主よ、わたしの助けとなってください。
9節からは、そういうときにどうしたかが書かれている。10節の「塵」は「土」とも時々訳される。砂漠地帯では小さな土・ゴミが塵のようになって砂嵐のように吹き回ることがたくさんある。日本語の塵とは違う。死んで土になるということである。
私が、土になってしまったら、神に感謝をささげたりできるできようか。という意味で言っている。「塵」と訳されているからといって、ちりとりで取るゴミのようなものではない。
「死んで塵に帰る」という言葉があるが、それは「死んで土に帰る」という意味である。土に帰ったら感謝を捧げられないので、生かしてください。という祈りである。
この詩の作者がしたのは、「憐れんでください。耳を傾けてください。」という単純な祈り、また願いであったが、それを全身全霊をもってしたのであった。
…あなたはわたしの嘆きを踊りに変え(12節)
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。
12節以降はふたたび、苦難から救われたのちの魂の状態を歌う。
…その嘆きを踊りに変え、喜びを帯としてくださった…と言えるほどに、大きく変えてくださった。この感動は非常に大きいから「とこしえに(永遠に)感謝を捧げられるようになりました。」と告白して、この詩を終えている。
神に対して賛美をやめるということはない。「沈黙することのない」というのは、絶えずほめ歌うということであり、絶えず神に感謝と賛美を出来るように変えてくださったということである。
このように、本当に癒されたという深い感動が賛美歌の源泉となっていったが、それはいままでも続いている。 世界中で、このように困難からじっさいに救いだしてくださる神に感謝する賛美は現在も世界のほとんどあらゆる地域において続いている。
この30篇の内容は、病気あるいは命を奪おうとするこの世の大きな力、そこから神によって引き上げられたということであり、その結果、沈黙することのない賛美がずっと続くように、賛美のそのものの魂であるかのように変えられたということである。
神と直結している植物や花などは絶えず賛美しているようなものである。
不満があって怒っている花などはない。神さまの賛美や喜びを、自然の野草などの花々は、人間が存在しはじめる以前、はるかな古代から表している。わたしたちもそのように、心から感謝や賛美を持続的にできるようになるのが目標となる。
それは、人間の心が花ひらいている状態と言える。いつも心がふさいでいる状態は、つぼみが堅いままになっている状態だということになる。
聖書というのは、人間のあるべき最終的なすがたを記している。それを、とくに選ばれた人の体験として記したものが詩篇である。
新聞・雑誌・マスコミなどによっては、このような人間の姿は決して見ることはできず、毎日のようにそれとはまったく逆の悲しむべき事態、犯罪等々が出ている。
聖書の世界にはそういうことすべてを超えた、神によって祝福された魂の姿が出てくる。 この詩にみられるような、絶えることなく賛美する魂の姿などは映画などではあらわすことが困難となる。わたしたちは聖書の中に示された人間の姿を見ないと、究極的な人間の姿はほかの文学や雑誌、マスコミ、テレビ、映画などからでは学ぶことはできない。
この詩は病気の癒しと深く結びついた内容となっている。
病気そのものが人間の健康な体や精神を打ち滅ぼそうとする「敵」、すなわち強力な力であるとしている。
病気にしても人間にしてもいろんな災害、事故や戦争など、わたしたちの命を奪おう、滅ぼそうとするものが昔から現在まで至る所にある。
そういうことに対して神の助けがあれば打ち勝てることを、この作者は体験のなかから証しをしているのである。
絶望や暗闇、苦難と悲しみ、いやされることのない状況、取り返しのつかない罪を犯してしまった…こうした状況は、だれの生涯にも起こり得ることである。現に、いまこうした状態に置かれている人たちは数知れないであろう。そしてこのような状況は、いつの時代になっても存在する。
神によって、その愛と憐れみによって引き上げられない限り、人間は本当のいのちを得ることはできないし、魂の平安を得ることもできない。
この詩は、闇の力によって打ち倒されようとするときに、すくい上げられた魂が、どのように変えられたのか、その記録というべきものなのである。
そしてそれは、現代の私たちにもそれと同様のことが与えられるのだという神からのメッセージが込められている。
(344)私にとってイエスは、私を生かす命、私から反射させたい光、父なる神への道、私が表したい愛、人々と分かち合いたい喜び、私の周囲に蒔きたい平和なのです。 イエスは私のすべてです。
To me,Jesus is the Life I want to live, Light I want to reflect,the Way to the Father,the Love Iwant to express, the Joy I want to share, the Peace I want to sow around me.
Jesus is everything to me.
(「MOTHER TERESA IN MY OWN WORDS」 34P GRAMERCY BOOKS )
来信より
○聖書講話CD(出エジプト記)のこと
・CDをさっそく聞いています。細かく話してくださるので、いままですっ飛ばしていた箇所にも目を配り、また聖書は、ていねいに読むものだとわかりました。
私はいままで、真理に到達したいあまり、何でもすっ飛ばして多読気味でしたが、真理に到達した今、 やっと心おきなく安心して聖書を心ゆくまで理解したいと思っています。本当にありがたい聖書講話CDを作ってくださり、感謝にたえません。
しっかりと深く、聖書の真理を理解していこうと思っています。(関東の方)
・聖書はふつうの小説や雑誌、新聞などと違ってさっと読んで終りでなく、筋書きがわかったらわかったのでもなく、わずか数行であっても30分、1時間ほども語るべき内容があるだということは、私も京都で初めて集会に参加し始めたときに知らされたことでした。
しかも、どんなに数多く読んでも、またギリシャ語、ヘブル語等々を用いて理解したとしても、なお、限りなく分かっていないところがあるということ、それは愛や真実、正義といったことには果てしなく奥深いものであり、高みがあるからです。それらを原語で読み、学者の解釈がわかった、その意味が自分でわかったといっても、その愛を実際に持っていなかったら、本当にはわかっていないということになるからです。
○2月号に掲載した「レ・ミゼラブル 」について
・「レ・ミゼラブル」の聖書との関連についての御文、深い感銘を受けました。「ああ無情」は小学校の恩師による紙芝居で非常な感動を覚え、後年、新潮社の訳本でギクギク涙しながら読み耽りました。ジャンと共にミリエル司教の高貴な生き様がいつまでも心に残っています。愛真高校の創立時だったか、図書の寄贈が呼びかけられ、私が送ったのが「レ・ミゼラブル」でした。(九州の方)
・「レ・ミゼラブル」についての原文や英語訳、そして聖書にてらしての消息、本当に良きメッセージをいただきました。
この映画を鑑賞して涙された方に、一人でも多くこうした背景、キリストの愛と赦しにつながっていることを知らしめていけますように祈ります。
「苦難と信仰」も最近私自身テーマにしてみ言葉に学んでいますのでとても聖霊豊かに読ませていただきました。
感謝でした。人間の力が尽き果てたような時であっても神様は必要な助けを必ず与えられることを聖書の事実から知り、祈っていきたいと思います。(関西の方)
・… 集会のときに、「レ・ミゼラブル」を薦められ、それまで買ったままで読んでいなかった「レ・ミゼラブル」(世界文学全集、新潮社)を読み始めました。
著者のユゴーが人物だけを描いているのではなく、当時のパリの様子や革命(戦争)の様子、その時代を生きる人たちの営みや考え方の細かな部分まで、描かれており、ユゴーの筆致の深広さを思わされます。
男の子が遊んで落とした小銭が、ジャン・ヴァルジャンの靴に踏まれていたことを後から気づいたジャンバルジャンの心の中で、善の道に進むべきか悪の道に戻るべきかの強い葛藤が描かれていたところ、また、法廷で正体を明かすことに迷いながら、神の道を歩むことを決める辺りなど、日本文学にはない真理の一貫性(神の意志が働いていること)を見ます。2月号はいつにもまして貴重だと思いました。(関西の方)
・「レ・ミゼラブル」の映画は、ずーっと観なければと思っていました。2月号の「いのちの水」の「レ・ミゼラブル―聖書との関連―」を読ませていただき、上映最終日の昨日やっと観てきました。
ミュージカルそのものの素晴らしさに加えて、聖書の関連も、時代背景もより解らせていただきました。
私は、「レ・ミゼラブル」はダイジェスト版でしかも、中学生の時「ああ無情」と言うタイトルで読んだだけですから、「いのちの水」誌に記されていた聖書との関連につい ては、心して読ませていただきました。(中部地方の方)
・私はレ・ミゼラブルを初めて知る事が出来たのは小学生の時に「ああ無情」少年少女世界文学でした、映画もその時に中学校の映画鑑賞会に参加出来た幸運が有りましたその中学の教員を叔父がしていたので、「見ておけ」の一言で観る事が出来ました。
新潮社版・世界文学を紹介されており大変懐かしく、若きときの書店員として販売したこともありました。
私は現在販売されて居る原作本では福音館の上下巻を勧めて降ります。
もっとこの本を教会員の皆さんに勧めたいと思いその時に「いのちの水」2月号を読んでもらいたいと思い何冊でもいただけないでしょうか。また集会でも紹介したいと思います。 (関東地方の方)
「黎明」について
○「黎明」という絵画を、作者の岡田利彦氏の許可を得て、写真(2L版)にしたものは、以前から「いのちの水」誌や集会だよりに紹介してきました。ある方は、20枚以上申込され、それをさらに友人に送りたいとのことでした。
別の方からは、次のような感想が寄せられました。
・「黎明」の絵の写真は、すぐに額を買ってきて飾っています。主イエス様が、とても小さく描かれているのですが、そこに光があり、その光に引き寄せられるようです。
この絵の送付と共に、「主は、つねに闇のなかに共にいてくださる。私どものところに来て下さいますように」という願いが添えられてあり、思わず、アーメンと口から出ました。
この主イエス様のところにすべての解決があり、救いがあると思います。
主イエス様は、この私とともにいてくださる…なんと素晴らしく、喜びでしょうか。…(関東の方)
・「黎明」の絵には、すぐに引き込まれて、見入ってしまいました。わが身に引き寄せて見ることができました。
弟子たちの乗った船が、私の病院を思わせ、そこに困難ではあっても、かすかなクモの糸のような希望があること、それを描かれているイエスの後ろ姿の遠影に感じることができ、深く息をつきました。 (四国のある病院長の方)
○次は、目の病気で入院、治療を受けた方からの来信です。
…手術とか治療のすべのない動脈、神経の損傷とのことで、ステロイドの点滴や検査などが続き、心身ともに疲れ果てました。 退院後も、目が見えなくて暗黒に置かれ、そのときに自分の罪を見つめ、打ちのめされつつも主を頼み続けた50日余り、その苦闘は長いものでした。それは罪人への鞭と杖でした。
処罰直前にみ赦しを受けた罪人が私でありました。
主は長く待ってくださいました。
まことに、み赦しのうちに人は生かされるということを体験しました。
最終の目の検査のときに、私は今、御手のなかにゆだねられたと直感しました。
視野も欠け、白い霧のようなものが見えますがそのなかにいても、時に、青空が広がるのが見えてすばらしいと感じ、こうして文字が書けるのも日々新たにされている喜びです。
ごくふつうの家庭での暮らしも何というよき賜物! と感じるようになりました。…(関西の方)
・老年は次々にそれまで与えられていたものが失われていくときでもありますが、この方のように、失われていく過程で、それまで何も感じなかったものに対して新たなまなざしが与えられ、感謝できるようになったのがわかります。信仰を持ち続ける者には、失われていくただなかで新たな霊的な賜物が与えられるのだと思われたことです。
○また、去年の8月に出版した、「原子力発電と平和」という本も、現在も折々に希望があります。
最近も、ある関西の教会に属する方はこの本を20冊以上購入して、友人たちに贈呈したとのことでした。そしてその本を読んだ人からの感想がいくつか送られてきました。
次のはその一つです。
・…『原子力発電と平和―キリスト者の視点から』(*)を恵送いただいて とてもうれしく感謝いたしました。
連れ合いに先に読んでもらった後、手にし、今読み終えたところです。とても感動いたしました。
著者が物理学の細部に渡る所から核の問題を見ぬかれて原発技術に警鐘を鳴らされておられる姿は我々の師高木仁三郎氏と同じであります。しかも著者は二つの目に見えない力として原子力と霊を並列されて、キリスト者の視点を明確になさっておられます。そして最後には非暴力の行動にまで言及されて、もう感激 感動です。
我々二人がなぜキリスト者として核に関わり続けるかの点を あます所なくお伝え下さり、さらに深い示唆を与えて下さってます。福島の事故以前に書かれた文章は まさにその事が今現在その通りに起こっている事実を確認出来て 預言者的であると同時に、まったく古くなく新しい息吹きを感じます。 この様なご本が広く読まれる事を強く願う者です。
(この方は、ベラルーシを3回、ウクライナを1回訪問され、以前から原発など核の問題にとくに関わってこられたとのことです。)
(*)「原子力発電と平和」吉村孝雄著 いのちの水社発行 定価500円。
申込は、「いのちの水」誌の奥付の 吉村まで。代金は切手でも可。
お知らせ
○キリスト教四国集会(無教会)の内容や申込書を同封してあります。
申込書が足りない場合は、 左の奥付に記載してある、吉村孝雄までメール、電話、ハガキなどで請求してください。
○「いのちの水」2月号に入力ミスがありましたのでお詫びして訂正します。
22頁 3段右3行 岡田俊彦(1911)→岡田利彦(2011)
19頁1段左10行、2段右2行 「聖書之研究」→「内村鑑三全集」