・2013年4月第626号 内容・もくじ
小さきもの
去年の年末のころから、現在まで繰り返し金融、経済―TPP関連の報道がなされている。
円安となり、株価が上昇した、景気が良くなるといったことが毎日報道され、そのために憲法を変え、自衛隊を国防軍にしようとする動きや、原発の問題といった今後の重要な問題ですら陰に隠れるような状況となっている。
円安となれば、自動車産業など大企業は大きく利益が増す。しかし、輸入される原油や食物関係の価格が上がり、一般の庶民に身近な物価は上昇する。
TPP参加によって、やはり大企業は一般的には関税が撤廃されることで利益が増大する。
このように、現在の大きな流れは、富む者にはますます利潤がふくらむが、収入の少ない者にとっては、物価高となり、生活の苦しさが増す可能性が高い。
いずれにしても、小さな規模の農業などは立ち行かなくなると考えられる。農業関連の生産は大幅に減少し、他国からの安い農産物が大量に輸入されるため、今でさえ少ない農業人口がさらに減少し、日本の農家の多くが農業をやめてしまうと考えられている。
TPPによって外国から安価な農産物が入るから安価になる。消費者にとって好都合だという。そうした目先のことを考えて日本のような雨と温度も適度であって多様な農業に向いている風土から農地をつぶし、各地の農業、とくに中小規模農業をなくし、道路や宅地、工場などにしてしまって、将来本当に大丈夫なのか。どんなことよりもまずいったん大きな世界的な問題があったとき、自分の国で食糧を生産できるということは最も重要なことである。
原発事故で電気が原発から造れなくなると外国からの原油や天然ガスなどの輸入に頼ることになり、このことは、国際的な紛争などのときにはただちに国内のエネルギー不足につながる。
相手国の状況のゆえに、食糧が十分に輸入できなくなったらどうするのか。そんなことは起こらないというかもしれない。原発事故も同様だった。大事故など決して起こらないと40年以上も一流の科学技術者、文化人、政治家、産業界、教育界などみなが言い続けてきた。
しかし、現実はそうしたあらゆる人間の判断を越えて大事故は起こってしまった。何が起こるかわからないのがこの世なのである。TPPを推進して国内各地の農業を著しく縮小させてしまってそれで本当によいのか。
自分の国で豊かな太陽のエネルギーや水、そして農地がありながら、それをつぶしていって大規模農業だけにし―それすらも安価な外国の農産物が多量にはいってくればどうなるかわからない―大量の食糧を輸入する、それは実に自然に反する方向だ。
流通が大規模となると、小さな規模の工場や店は立ち行かなくなる。これはTPPといった国際的な規模のものでなくとも、例えば大型スーパーや家電など全国チェーン店は大資本をもとにして全国に展開していくが、そうすることで、各地域の小さな八百屋、魚店、電器店、呉服屋など次々と消滅していった。
そうしたお店と地域の人々との人間の交流もまたなくなっていった。
こうした巨大化は、小さなものに宿るお金で買えないものを失わせていくことになる。
このような万事が大きくなっていくことを支えているのは科学技術である。科学技術の発達によって広い道路が造られていくと、物資の移動も大量となり、大型化を支えることになる。
数千億円をかけ、数々の産業を用いて造られた大型施設で、その巨大化の果てに壊すことも、撤去することもできず、大事故となると害悪となるものを拡散し続けるもの、しかも科学技術の先端の産物、それが原発である。
この原発もまた、周囲の小さき村や町のなかの人間関係を多額のカネが入ったために壊していった。ひとたび大事故が起こると、放射能によって人間の体をも害し、人間関係をも壊し、ふるさとを住めない地として表面的にはきれいでも、放射能を含む大地となって致命的な破壊をしてしまった。
私たちの生活は、衣食住の全般にわたって、科学技術の産物で満ちている。それなくしては、生活がなりゆかない状態である。朝起きてから夜寝るまで、睡眠中も何らかの科学技術の産物によって生活している。
それほど不可欠なものでありながら、科学技術は進展するほど、小さきよきものを壊していくという本質を持っている。自動車道路一つできても、周囲の小川や田畑、高速道路なら山や谷も破壊される。
今では、田舎のかつてはフナやメダカのいた小川はたいていコンクリートの溝となりあの素朴なせせらぎも失われていった。
東京周辺は大都会となり、おびただしいビルが立ち並ぶ。そこには小川のせせらぎや野草の可憐な花がさきほこる野原ははるかな昔の夢のようなものとなった。小さきものは根こそぎ失われていった。
科学技術の進展はとどめることはできない。より便利なもの、より効率的なものを選ぶのは必然のことだからである。そしてさまざまの小さきものは失われていく。
こうした大きな流れのなかにあって、私たちは小さきもののよさをいかにして保ち続けていけるだろうか。
聖書は神の言葉である。神は万能でありすべての問題を越えて道を開くことのできるお方である。その神の言葉は、私たちにそうした小さいものを保つことの重要性と、そうした小さきものから価値あるものをくみ取る道を指し示している。
主イエスが生まれたのは田舎の家畜小屋であったこと、それは、小さきものや無視されるようなものを大切にされる神の御心にかなったことであった。さらに、主が招かれたのは、当時の社会でもまったく権力も富もないような人たちで、主要な3人の弟子はみな漁師たちだった。
主イエスがとくに幸いだとされたのは、名誉やカネもまた権力も関係のない、ただ心の貧しい人たち、それはみずからの小さきことを自覚する人たちであった。そしてそのような人たちにこそ、 神の国が与えられると言われた。
愛するものを失い、また自らの罪に悲しむ小さき魂をも認められ、そこから神を待ち望むときには、神によって慰めを受けると約束もされた。
貧しき人たちが持っていたわずかの大麦のパンと魚を祝福され、数知れない人を満たすものとされた。 (ヨハネ6の9)
ここにも小さきものを認めてそこに祝福を注ぐイエスの愛がある。
「あなた方のうちで最も小さき者こそ、最も大きい者である」と言われた。(ルカ9の48)
そして、病気となり、あるいは障がいをもってこの世から小さきもの、無視されるものとなっても、なお神は、そこから主により頼む者を愛して天の国へと連れて行ってくださる。天におられるキリストと同じような栄光―神ご自身の持つ栄光のような測り知れない恵みを与えてくださると約束しておられる。
…よく聞きなさい。罪人がひとりでも悔い改めるなら、大きいよろこびが、天にある。 (ルカ15の7)
この世がより大きなものへと絶えず進んでいくなかにあって、神は小さきものを大切にしてくださる。
この世の喜びは、給料の増加株価の上昇とかスポーツの優勝、出世など人から認められること等々であるが、神が最も喜ばれるのは、悔い改めて神を仰ぐという単純なこと、小さなことであり、私たちが日々そのことをなすことのできることである。
… 小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。
ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。(ルカ16の10)
私たちは日々、小さなことしかできないが、その小さなことを真実な心をもってするものは、大きなことに忠実なものとみなしてくださる。それゆえに、悔い改めという小さなことが、天において大きな出来事とみなされ、天に喜びがあるとまで言われたのである。
この世はいつも大きなことに目を向けようとする。しかし、聖書は、主イエスは常にこのように小さきものを憐れみ、愛を注いでくださる。巨大化への大きな流れにすべてが呑み込まれていくような現代にあって、聖書の精神に、そしていまも生きてはたらくキリストに結びついて生きるときに、私たちは小さきものに心をとめ、聖なる霊によってその小さきものの中に大いなるものを見いだし、変ることなき祝福を受け継ぐことができる。
聖書は、小さきものへの神の愛、祝福で満ちている書物であり、この世の風潮とはまったく異なる風が吹いている。
…小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12の32)
この世に生きるかぎり、思いがけない苦しみや悲しみに出合うことは避けられない。それは自分自身の過失、罪のゆえであったり、また病気や突然の事故や災害、あるいは周囲の人からの侮辱や差別、敵意による攻撃であるかもしれない。
こうした状況にはその程度の差はあっても、だれでも必ずその生涯において繰り返し出合うことになるだろう。
そのようなとき、私たちは途方にくれる。自分だけではとても負いきれない重荷、先を見ても何ら解決のきざしもなく、場合によってはさらに難しい事態になることも予測される。人に相談しても本当に力にはならない、かえってそれをだれかに話してしまうのではないかと不安になる。
詩篇は全体としてそうした苦しみからの救い、解放ということが全体のテーマとなっている。ほかの聖書の書もそうした目的を持っているが、それがことに苦しみを受けた人自身のはげしい叫び、悲しみの言葉が連ねられているのは、全体的に見て、詩篇が第一と言える。
この詩もそうした苦難からの救いがテーマとなっている。
…主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とさず
恵みの御業によってわたしを助けてください。(2節)
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。
砦の岩、城塞となってお救いください。(3節)
この詩において、まず自分が心から逃れ場となってくださる神のもとに身を寄せるのだ、という言葉からはじまり、この詩の作者の決意からはじまっている。私たちは、困難のときには、避け所がなくなる。身の置き所がない、という言葉がある。四方から非難、批判、あるいは見下されるようになったとき、耐えがたい思いとなり、どこにいっても魂の安住するところがなくなる。この作者もそうした孤独のただ中での苦しみにあった。
2節にある「身を寄せる」は、避け所とする、難を避ける「より頼む」(口語訳)などと訳されている。
「とこしえに恥に落とさないで下さい」という願いにある、「恥に落とす」という表現の本来の意味は、日本語訳とは異なるニュアンスがある。
私たちが病気や敵対する人間の攻撃によって、生きるか死ぬかという苦しい状況にあるとき、恥に落とさないでください、などとは祈らない。
詩篇のほかの箇所にもしばしば見られるように、「どうか滅ぼさないでください、闇に沈んでしまうようなことがないようにしてください」といった意味に用いられている。
これは敵対する者の攻撃によって苦しめられ、滅びてしまうような状態を指している。「私を見捨てられた者としないでください。」という意味である。
「恵みの御業によって助けて下さい」(2節)
ここで、「恵みの御業」と訳しているのは新共同訳だけであって、ほかの日本語訳はすべて「正義」あるいは「義」「正しい」と訳している。(*)「神の正義の力によって」というふうになる。神は絶対的な正義があるからこそ、悪を裁き、悪の力を追い出して助け出すことができる。
(*)原語のヘブル語は、正義を意味するセダーカーで、口語訳、新改訳、関根正雄訳、文語訳、フランシスコ会聖書研究所訳(義)、バルバロ訳(カトリック)、旧約聖書翻訳委員会訳(岩波書店発行)は、「正義」、現代訳聖書→「正しいことをなさる」、英語訳は数十種類の訳はほとんどすべて righteousness (正義)、ドイツ語訳も Gerechtigkeit(正義)と訳しているが、さらにほかの外国語訳も同様でみな、正義にあたる言葉で訳している。なお英語訳のうち、一つだけ your saving justice (あなたの救いをもたらす正義)と訳しているのがある。(NJB) なお、新共同訳でも、このセダーカーというヘブル語を、ほかの箇所では正義と訳しているところも多い。例えば 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認めた」(創世記15の6) 「主に従って正義を行なうように…」(創世記18の19)等々。
このようにまず神に身を寄せることから始まっている。これは誰にでもできることで三千年も前の人が心から叫んでいることを、今の私たちも同じようにできる。詩篇は、聖書全体のなかでも、とくに信仰を持った人の心の中の状態が良く分かる。
他の箇所は歴史的な記述や、戒め、あるいは預言等々について書かれていて、神からの言葉として記されたものだから、個人の心の動きなどを記すことが目的でない。そして、本来聖書は神の言葉が書かれているのだから、人間の苦しみや叫びなどは書かれていないと思われがちである。
しかし詩篇はそれが神の言葉としておさめられている。神が苦しみを持った人に言わせているのである。そのことによって、ここに救いがあるのだと、神の導きを指し示している。
この詩を作った詩人の背後にも神がいて言わせているのだ。だから全ての人に当てはまる内容なのである。
「砦の岩、城塞となってお救いください。」(3節)と記されているが、現代のキリスト者は「神は岩だ」「神は砦だ」というイメージはほとんど持っていないのではないか。日本人にとっては山々はほとんど緑の草木で覆われ、岩の露出はごく一部でしか見られないし、そのような岩は、どこか冷たい、堅いというイメージがあり、またたまに山などで岩のそそり立つ風景に出合ってもそれはたんに珍しい岩だといった見方にとどまるからである。
詩篇においては、神のことを、「岩、大岩」などといって神に祈ることがしばしばみられる。それらの一部をつぎにあげる。
・主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ…神のほかに彼らの岩はない。(18の3、32)
・神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。(62の3)
・わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない。 (92の16)
このように神を岩と実感して言われている理由は、一つには、聖書の詩が作られた地域は岩がたくさんあり、そして岩こそ一番動かないということで、巨大な岩山を見て、神は岩のような動かないお方だというイメージがあったのである。
旧約聖書においてモーセはきわめて重要な人物である。そのモーセが神の言葉十戒を受けたのは、岩(花崗岩)ばかりのシナイ山であった。草木がほとんど、あるいは全く見られない砂漠地帯においては、岩はいっそう目立つものとなる。しかし、そのような冷たく存在すると見える岩において、詩篇の作者は、そこに永遠不動の神の存在を感じ取ったのであった。
絶えず見えるものによって、見えざる神の御性質をも読みとろうとする詩人の心を私たちも持ちたいと思う。
またこうした岩、大岩をも揺らぐことなき神の本質として深く実感したという背景には、人間の弱さ、動揺の大きさを常に感じていたということが背景にある。
弱さを切実に感じるほど、またいかなるものによっても打ち倒されない神の力を深く感じるのと同じである。
それに比べ、人間は非常に動きやすい。たった一言で心穏やかでなくなり、本当にぐらぐらしている。だからこそ神により頼むのである。このような詩の作者の心に触れることによって、ふだんは気付かない新しいイメージを増やしてくれる。
… 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。(5節)
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。私を贖ってください。(*)(6節)
わたしは空しい偶像に頼る者を憎み
主に、信頼します。
(*)「わたしを贖ってください」とあるが、原語のヘブル語では、贖うという動詞の完了形が用いられており、じっさいに「私をあがなってくださった」と、次のように完了形で訳してある英訳も多い。
Thou hast redeemed me (KJV) …by you have I been redeemed. (NJB)
you have redeemed me, (NRS)
日本語訳も、新改訳、口語訳の双方とも「贖われた」と過去形で訳している。
原文であるヘブライ語では、完了形であっても、この箇所のように「願望」の表現として訳されることがある。
現代では、地位、権力、それらと不可分に結びつく金銭に関することが多いが、この詩では隠れたさまざまの攻撃のことを言っている。迫害の時代は特にそうで、文字通り隠された網でもって、告げ口やスパイをするという形で出てきた。
これは、悪意をもつ人によって気付かないうちに、自分が深い闇に陥れられた経験を思わせる。現代の私たちにとっても、隠された網が至るところにある。周囲の人のなかに悪意ある人があったり、また自分の罪によって人間関係が壊れ、深みに入り込み、どうにも進めなくなる―というようなことはだれにも起こりうることである。
そのようなとき、目に見えない網にとらわれたような状態となる。
そうした人間関係だけでない。苦しい病気もまた見えざる網に取り込まれたようなものであり、やはりどうすることもできない、ということになる場合もある。かつての結核やハンセン病など、とくに恐るべき網に投げ込まれたような状態となり、そこから出て行くこともできなくなり、苦しみと悲しみで生きていけなくなる人々も多かった。
最も多くだれにでもあるのが、みずからの罪によって、苦しみのなかに投げ込まれるということ、言い換えると網に落ち込んだという状況だといえよう。
目には見えないものの力によって閉じ込められたようになったとき、私たちを解放するのは、神の力以外にはない。それゆえに、この詩の作者は言う。
…御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。(6節)
見えざる悪の力によってからめとられた人は、そこからの解放のためにはやはり目に見えない神の力に頼るしかない。そして信仰を与えられているということの大いなる恵みはそのことにある。
私の霊を御手にゆだねる―これはこの詩のようにキリストの時代よりさらに500年以上も古い時代から、苦難のときの最後の手段として、またどんな苦しい状況であっても可能な祈りとして私たちの前にある。
主イエスも、十字架の上で死に至る激しい苦しみのただ中でもこの祈りを祈ることができたのであった。
…イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 (ルカ 23の46)
イエスが詩篇のこの祈りと同じ祈りを、最後の最も苦しいときに祈られた、それは何を意味するだろうか。詩篇というのは、人間世界の最も苦難のときに、さらにいっそう近づいてくるような深い真理を持っているということである。 苦しみが激しくなるほど遠ざかるのが、この世の一般的な詩歌である。
万葉や古今、新古今などの古くからの詩歌集に数多い相聞歌(男女間の恋愛歌)などは、私たちが深い苦しみや悲しみに陥ったときには、まったく力にもならず、何の励ましにもならない。
死にたいと真剣に願うほどの苦しみや愛するものに死なれた、あるいは裏切られたという深い悲しみのときに、こうした日本の古代の詩集、あるいは中国の文選や唐詩選などがどれほど力付けることができただろうか。残念ながらそのような力を持っていないのである。
それゆえに、日本の詩歌集は世界的にほとんどまったく知られていないし今後もそうした状態は続くであろう。苦難や悲しみに沈むときに見捨てる友は真の友でないように、そうしたときに力となり魂の励ましを与えてくれない文学―小説や詩などは、真理を持っていないということになる。
真理は力、しかも永続的な力を与え、かつ時代や民族を越えるものだからである。
私たちにおいても、このような言葉が、息を引き取るときの最後の言葉でありたいと思う。自分の本質、霊的なものが死によって消滅するとか暗闇に沈んでしまったり、得体のしれないさまよう霊になったりするのでなく―多くの日本人はそのように考えている―愛と真実の神、しかも全能の神の御手にゆだねることができるということは、大いなる恵みであり、私たちの最終的な希望である。
このように詩篇は人間の一時的な苦しみや悩みを言ってるのではなく、常に永遠的真理がそこにあり、主イエスが十字架上でこの祈りをされて、この詩の言葉を成就されたように預言ともなっている。
私たちもこの叫びを同じように自分の心の叫びとして、最終的に言うことができる。
しかしこの詩のように、最期のときだけに言うのではなく、苦しいとき、どうにもならないときに、わたしの霊をあなたにゆだねますから、助けてくださいといつでも誰もが言える祈りでもある。
詩篇が重要である理由の一つは、この詩や、詩篇22篇などのように、主イエスが一番苦しいときのお心と深く一致している部分があるからである。
「霊をゆだねます」と言って息を引き取ったと伝えられている人々の中に、ルターやイギリスの指導者であるジョン・ノックス、宗教改革の前の時代の預言者であった、ヤン・フス(*)など歴史上で大きな働きをした人も含まれている。
フスは真理を言ったがために火刑にあった。
わたしたちも、私たちの心、霊を神にゆだねますからどうか導いてください、どうか答えてください、どうか清めてくださいという気持ちを持ちたい。
(*)ヤン・フス(Jan Hus 1369~1415年)は、チェコの中西部にあたる地方の人、神学者、大学学長ともなった。ルターより百年余り以前の人で、宗教改革者。カトリック教会の権威よりも聖書を重んじ、免罪符に反対し、教会の世俗化を厳しく批判した。カトリック教会はフスの批判を受けいれず、フスは1411年に破門され、火刑に処された。
目にみえない網、悪のなかに落ち込んだと感じたとき、そこから出るためには、神のあがないが不可欠である。そのためにキリストは非常な苦しみを負ってまでして、あがないが可能となるように生きられた。
…慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。
あなたはわたしの苦しみを御覧になり
わたしの魂の悩みを知ってくださいました。(8節)
わたしを敵の手に渡すことなく
わたしの足を広い所に立たせてくださいました。(9節)
ここには、敵対するものから救われた喜びがある。苦しみが大きくまた長く続くほど、そこからの解放は深い喜びとなり、それを広い所に立たせてくださった、と表している。
9節にある「広い所」という言葉は詩篇にはしばしば出てくる。
…力ある敵が攻め寄せるとき、主は私の支えとなり、
わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。(詩篇18の20)
わたしたちは霊的に「広い所」にいたら、人から悪いことを言われても、「主よ、この人の心にも良きものを与えてください。」と静かに祈ることができる。
しかし狭い所にいたら、すぐに怒って憎んだり復讐したりする。
いじめの問題もそうで、いじめはもちろん悪いことだが、いじめに耐えられない心も、そこに心の狭さがある。
何を言われても耐えることができ、かえって悪いことを言う人のために、その心が除かれますようにと祈る心こそが、広い心であり、そのような主にある広さを私たちはだれもが求めているはずである。
人間は自分という実に狭い所にいる。そこに閉じ込められたかのように、そこから自由にはばたくことができない。翼を持っていないのである。
しかし、神は無限の自由を持っているゆえ、その自由さを、大空を自由に動き、生まれてはどこへともなく去りゆき、消えていく雲や風に与えて、人間にその自由さを思い浮かべ、さらに火をもってその悪を滅ぼす強いエネルギーとして表している。
…雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り
さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。(詩篇104の3~4)
この世の道は激しい競争がある。こどものときから、成績やスポーツ、そして入学試験や入社、会社にてもつねに熾烈な競争があり、狭い道を我先にと競っている。
しかし、神の国への道はそうした競争というのがない。いかに多くの人がその道を歩んでいこうとも無限の広さがある。この道を歩む人が少ないということだけでなく、霊的な道であるから混み合うということもない。多くの人が求めて歩いているとしても、つねに単独の道があるかのようである。
それを預言者イザヤは、次のように啓示を受けて記した。
…そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。
主御自身がその民に先立って歩まれる。(イザヤ書35の8)
このように、主とともにある道は、つねに広々としている。
…主よ、憐れんで下さい
私は苦しい。
目も、魂も苦悩のゆえに衰えていく。(10節)
罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていく。
私の敵は皆、私を嘲り
隣人も、激しく嘲る。
親しい人々はわたしを見て恐れを抱き
外で会えば避けて通る。…
人々がわたしに対して陰謀をめぐらし
命を奪おうとたくらんでいる。 (31の10~14)
ここには、この詩の作者が置かれていた状況が浮かびあがってくる。自らの罪のゆえ、また敵対する人からの悪意と攻撃、あざけりを受ける。さらに親しかった人からも見下され、まったく孤独な状況となっている。そのように周囲には誰一人味方となり、助けてくれる者もいなくなった。
旧約聖書の詩篇が何となくわかりにくい、親しめないと感じることがある。
それは、訳語の問題もあるが、私たちがこの詩のように孤独や敵対する人たちからの激しい攻撃やだれひとり助け手もいない恐ろしい孤独、という状況を経験していないからでもある。
けれども、何らかの事情によってこうした状況に近い苦しみに私たちが追いやられたとき、初めてこうした詩が私たちの何よりも深い慰めと励ましともなって浮かびあがってくる。
そのような中から唯一頼ることのできる神に向ってこの詩の作者は、「主よ憐れんでください!」と祈る。
それはこのような苦しみをもたらした自分の罪を赦し、まただれからも受けいれられない状況から救ってくださいという真剣な祈り、全身の力をこめたものであった。
この簡潔な祈りのなかに、私たちの恐れや孤独、悲しみ、そして不安などあらゆる思いを込めることができる。それゆえに、この祈りは、新約聖書のなかでも、全盲として乞食するしかなかった人たちが、主イエスに出会ったときに、彼等が発した叫びであった。
…ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、叫んで言った、「主よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、わたしたちをあわれんで下さい」(マタイ 20の30~31より)
ここで盲人たちはそれまで受けたであろうあらゆる悲しみや苦しみを込めて、それらすべてをいやしてくださるお方だと確信して、主よ、憐れみたまえ!と叫んだのであった。
この簡潔な叫び、祈りは、ギリシャ語では、キューリエ・エレエーソン という。そしてこれは苦しむ人、深い孤独に悩む人、あるいはさまざまの苦難に直面している人が、誰でもその思いのすべてを込めて祈ることのできる祈りである。
この祈りこそは、万人に与えられていて、しかも主イエスが盲人のその叫びを聞かれたように、神のお心にも届く祈りであり、その重要性のゆえにミサ曲に取り入れられ、「キリエ・エレイソン」として、カトリック教会だけでなく、東方正教会でも繰り返し用いられてきた。そして、多くのキリエの聖歌が現代でも聞くことができる。
しかし、そこで音楽の美しさにだけ関心が持たれている場合には、本来のこの言葉の重要性が伝わっていかない。
これは、絶望的な苦しみの中から渾身の力を込めて祈り叫んだ魂の余韻がここにあるのであって、私たちも自分の苦しみ、罪ゆえのいろいろな他者へのつまずきを与えたことなどを思い、赦しを乞う心で、この祈りをともにするときに初めて主は祝福して憐れみを注ぎ、かつて盲人の魂の叫びに応えられたように、私たちの罪を赦して霊の賜物をくださるであろう。
…主よ、わたしはなお、あなたに信頼し 「あなたこそわたしの神」と言います。
わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。(15~16)
どんなときでも、親しい人間からすら、厭われ、捨てられるようになったり、人格を否定するようなひどい誤解、中傷を受けたときであっても、なお、神だけは私たちの味方となってくださる。その思いが、ここに表されている。私たちも、人間や人間的なもの、みかけが大きなもの、権力、名声などを魂の中心に置くのでなく、この詩人と同様に、神に向ってつねに、「あなたこそわが神!」という思いを持っていたい。
…御恵みはいかに豊かなことか。(20)
あなたを畏れる人のために
それをたくわえ
あなたに身を寄せる人に、
与えられる。…
…主をたたえよ。(22)
主は驚くべき慈しみの御業を示してくださった。
恐怖に襲われて、
わたしは言った、
「御目の前から断たれた」と。
それでもなお、
あなたに向かうわたしの叫びを
嘆き祈るわたしの声を
あなたは聞いて下さった。(23)
この詩の作者は、追いつめられ、もう死ぬかと思われるほどの苦しみのなかから、神の生きた助けを経験した。それゆえに、作者の味わった喜びは比類のないものとなり、その恵みの豊かさを初めて深く体験したのである。
人生で最も深い喜びとは、苦難のときに神が応えてくださったという経験である。主イエスを三度も否認したペテロは、その後に主から赦しを受け、聖霊を注がれたが、そうした主からの応答が彼の後の生涯を変える決定的なものとなった。
この経験を与えられた者は、黙っていることはできなくなる。この広大無辺の愛を受けたゆえに作者は立ち上がることができ、何よりも大切な主への愛を周囲に呼びかけずにはいられなくなる。
…主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。
主は信仰ある人を守り 傲慢な者には厳しく報いられる。
雄々しくあれ、心を強くせよ 主を待ち望む人はすべて。(25)
この詩の最後に、敵対する人やさまざまな苦しみを超えて到達した状態が書かれている。苦難を超えて到達したからこそ、苦しいことはあったが、最終的には神の大いなる救い、罪の赦しを受けた。
助けは神を信じ畏れ敬う人に蓄えられてあり、与えてくださったという経験へとこの詩を書いた人は導かれた。
信仰を持ち続けるときには必ず守られるのだから、さまざまなこの世の苦しい状態に置かれてはいても、そこから心を強くして主を待ち望もうという呼びかけで終わっている。
この詩は、作者の長い人生のさまざまな経験が折り込まれたものであると同時に、神の救いの約束、神の言葉が具体的な一人の詩人の言葉に託されて語られている。
現代の私たちにおいて、かつてのローマ帝国時代の迫害など関係のないことと思う人も多いであろう。しかし、決してそうではない。二千年前のキリストが受けられた苦難が私たちと深い関わりがあるように、またそれよりさらに千七百年以上も昔のアブラハムが生ける神の導きに従って生きたことがそのまま現代の私たちの生活の指針となっているように、はるか昔のローマ帝国の迫害時代のことも、私たちと深くかかわるものがある。
そのことを知るために、その時代を舞台にした歴史物語「クォ・ヴァディス」(*)の中から一部をとり出し、それに若干の説明、感じたことなど加えたいと思う。
優れた創作は、私たちの眠っている感性を呼び覚まし、読む者の魂を耕し、その描かれた状況をありありと私たちに迫ってくるように実感させる力を持っている。
それによって、単なる興味を駆り立てるというのでなく、そこで描かれた神の力、人々の信仰と愛、忍耐といったものが私たちの魂にも流れてくる。それが私たちによき方向性を与え、かつ前途を指し示すことがしばしばある。
論文は生きた状況を浮かびあがらせることは少ない。
それに対して、こうしたすぐれた文学は、神から与えられた天分によって、描かれた時代や状況へと私たちを連れ行き、魂の目を開かせるはたらきをゆだねられているのである。
少しでも多様な表現に触れるために英訳も一部付けた。
(*)「クォ・ヴァディス」ポーランドのシェンキェヴィチ作。「クォ・ヴァディス Quo vadis 」とはラテン語。クオー(どこへ)vadis ウァーディス(あなたは行く)を意味する。このタイトルそのものは、「主よ、どこへ行かれるのか」(Domine ,quo vadis)(ヨハネ福音書13の36のラテン語訳)からの引用。
作者は、ローマ帝国の歴史を詳しく研究し、それを二人の主人公の人間的な愛からキリストにある愛へと導かれていく状況を、ペテロやパウロなどの聖書の人物を登場させつつ、岩波文庫版で上中下の三冊、九百頁の大作に仕上げた。この作品は、50 以上の言語に翻訳され、映画化もされた。また、この小説が評価されて作者のノーベル文学賞受賞(一九〇五年)につながったと言われている。岩波文庫では今回の引用に用いた河野与一訳の後、木村彰一訳全3 巻が一九九五年に発行された。
今回はかなり長い文を引用したが、岩波文庫1954年版(上中下の3巻で約九百頁)のほかに、戦前の新潮社の世界文学全集第25巻「クォ・ヴァディス」(1928年版)や英訳を参照しつつ、よりわかりやすい表現を選んだ。
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ローマの厳しい迫害のなか、多くのキリスト者たちは捕らわれ、ライオンの餌食となり、また木に釘打たれ、火で焼かれて死んでいった。
そうした恐ろしい状況が襲ってきた人々は、地下の礼拝場所にて集まっていた。
そこで、人々はさまざまの悲しみや動揺を語りはじめた。
男も女も絶えず 「主よ、憐れみたまえ」と繰り返していた。その声には、深い、胸を刺すような悲哀の響きがこもっていた。
その集りには、愛する近親を失っていないものは一人もいなかった。
今や、厳しい迫害のために、最も熱心で勇敢なキリスト者たちはすでにことごとく投獄されているとき、さらに獄中では彼等に侮辱と呵責(かしゃく)が加えられているという知らせがもたらされ、苦難の大きさは、あらゆる推測をも越えていた。そのような状況になったとき、この集りの人たちのうち、一人として信仰の動揺をきたさないものはなかった。
キリストはどこにおられるのか、なにゆえ、悪の力が神より強いように見える状態を許しておくのかと、疑わないものはなかった。
しかし、そうした絶望的状況にあっても、キリストに憐れみをねがったのは、心のなかに、そのようなときであっても、そこにキリストが来られて、悪を滅ぼし、迫害を命じているネロ皇帝を深い淵に投げ込み、世界を御支配されるようになるという希望の火が今なお胸に燃えていたからである。
だからこそ、絶望的になりつつも、天を仰ぎ、主のみ声に耳を傾け、おそれつつも祈ったのであった。
人々は悲しみの奥底から、深淵からキリストを呼んだ。
今にも天が開け、主は測り知れない輝きのなかにもろもろの星々を足の下に踏んで、愛と畏怖を感じさせる姿で天から降ってくるのではないかと思われた。
そこに一人の女の、悲しげかつ苦しむ声が聞こえてきた。
「夫を亡くした私にはたった一人の息子があって私を養ってくれていました。あの息子を取り戻してください。」
その時別の声が嘆きはじめた。
「役人たちが私の娘どもをひどい目に遭わせました。それをキリストがそのままにしておられる。」
それから第三の声が、「私は子供たちと残りました。もし私が連れて行かれたら、誰が子供たちにパンと水を与えるだろうか。」
さらに第四の声が「私の親しい者が、最初は連れて行かれなかったが、今度は牢に入れられて拷問を受けています。」
第五の声が、「私たちが家に帰ると兵が捕らえにきます。どこに隠れたらいいのかわかりません。」
こうして、夜の静けさのうちに次々と嘆きが起こった。
年老いたペテロは、人々の悩みと恐れを見つめ、その白髪の頭を振った。
若い青年貴族のヴィニキウスは、すでにキリスト者となっていたが、このようなところに初めて遭遇した。ペテロの所に行って救いを願おうとしたが、突然、自分の前に断崖が現れ、それを見ると足の力も失せてしまったような気がした。
もし、使徒が、ローマの皇帝はナザレのキリストよりも力ある存在であると断言したらどういうことになるか。それを思うと、恐ろしさのために彼の髪は逆立つ思いがした。 もしそうなれば、彼の最後の希望も彼自身も愛する人も、キリストに対する愛や信仰も、彼の生活のすべても、ことごとく深淵の底に落ち込んでしまい、残るものはただ、死と海のように限りのない夜が残るだけだと感じたからである。
そのとき、ペテロは話しはじめたが、初めはいかにも低くてやっと聞こえるほどの声であった。
「わが子たちよ、私はゴルゴタで人々が神を十字架につけるのを見た。…神なるキリストが死んでいくところを見た。そのとき、十字架のところから戻りながら、あなた方が叫んでいるように悲しみの中で叫んだ。
「ああ、ひどい。主よ、あなたは神であります。それなのにどうしてこのようなことをお許しになったのですか。
なにゆえに死なれたのですか。なぜ、あなたの御国が実現されることを信じている私たちを苦しめるのですか。」
しかし、我々の主であり、神であるキリストは、三日目に死からよみがえり、大いなる栄光に包まれて御国に帰るまで私たちの間におられた。
私たちは今までの弱い信仰を示され、そこから新たな力を与えられ、急に心が強くなったのです。
その時から私たちはキリストの種を蒔いているのです。…
ここでペテロは初めの嘆きの声がしたほうに向って今度は強い声で話しはじめた。(*)
どうしてあなた方は嘆くのです。神ご自身が甘んじて呵責と死とを受けられたのに、あなた方はどうしてそれを逃れようとするのか。
神はあなた方にこの世で生きることだけを約束されたのか。神はあなた方のところに来て、「来りてわが道に続け」と言われました。…
あなた方の前にあるのは、死ではなくて生なのです。苦しみではなくて、無限の喜びなのです。涙や嘆きではなくて喜ばしき讃美の歌であり、奴隷の身分ではなく、王の支配、王の位だ。
私は神の使徒として言います。
夫を亡くした婦人よ、あなたの息子は決して死なない。
永遠の生に栄光をもって生まれるのだから、あなたはそこで彼と一緒になることができます。
それから迫害者によって娘どもをひどい目に遭わせられたという御老人よ。永遠の命の世界に行けばそこでは、百合よりも清い娘が待っておられることを私は保障します。
子から引き離されようとしている母親の方、父を失った人、愛する者が死のうとしているのを知っている方、死なねばならない人たちよ、私はキリストの名によって言います。
あなた方は眠りから幸いなる目覚めとなるように、また暗夜から神の光に接するように、よみがえるのです。
キリストの名により、あなた方の目から妨げとなっているものを取り去り、心を(聖霊によって)燃やしなさい。
(「クォ・ヴァディス」下巻10章 岩波文庫 河野与一訳 109~114より )
(*)He began in a voice now stronger,--
I speak to you in the name of Christ. Not death is before you, but life; not tortures but endless delights; not tears and groans, but singing; not bondage, but rule!
I, God's apostle, say this: O widow, thy son will not die; he will be born into glory, into eternal life, and thou wilt rejoin him! To thee, O father, whose innocent daughter was defiled by executioners, I promise that thou shalt find her whiter than the lilies of Hebron! To you, mothers, whom they are tearing away from your orphans; to you who lose fathers; to you who complain; to you who will see the death of loved ones; to you the careworn, the unfortunate, the timid; to you who must die,--in the name of Christ I declare that ye will wake as if from sleep to a happy waking, as if from night to the light of God. In the name of Christ, let the beam fall from your eyes, and let your hearts be inflamed."
この箇所で言われていること、それはこの世には理不尽なことが至るところで見られる。とくにここに記されているような国家的迫害の時代には日夜そのような闇の力が神の力よりはるかに大きいとさえ思われるようなことが生じる。ヴィニキウスが、もしローマ皇帝の迫害の力が神より大きいなら、断崖から落ち込んでいくように思えた。そのようなことが真実なら、この世界は闇の深い海のようになると感じたと記されている。
このことは、現代に生きる私たちにおいても同様である。神の力より悪の力が強いのなら、最終的に悪が勝利する。いいかえると偽り、憎しみや数々の悪が、真実や清いものを討ち滅ぼしてしまう。それが真実ならば、私たちの生きる意味もなくなり、この世の努力や生活も意味を失ってしまう。
良きこと、真実なことより、それらを打ち負かす悪の力が強くて最終的に真実やよきものが滅ぼされるのなら、私たちの目的として生きた良きものいっさいは消滅し、滅んでしまうことになるからである。
それはまさに、作者がヴィニキウスというローマの青年貴族の言葉を借りて言っているように、断崖から真っ暗な闇、海に落ち込んでいくようなことになる。
このクォ・ヴァディスの作品が描いた時代から二千年という歳月が過ぎた現代、こうした問題は終わったかといえば、全くそうでない。
現代もまさに、悪の力が横行し、私たちもその力によって罪を犯し、企業や政治も、狭い地域でも日本全体や世界的なレベルで見ても、日々そうした悪の力が報道される。
それにうち勝つような善の力、神の力などどこにあるか、という状態である。そのような状況にあって無気力になったり、神への信仰が動揺させられることも起きる。
私たちはそのようなとき、ここでペテロが語っている言葉のように、いかなる迫害や苦しみによって死ぬことがあろうとも、必ずその人たちは御国へと復活していくのだ、そのことをどんな悪の力、猛獣も権力もとどめることはできない、という確信を与えられていたい。
そしてこのような確信こそ、旧約聖書の時代から、とくに詩篇において繰り返しその苦難を生き抜いて神の平安へと導かれる根源となっている。
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…やがて暗闇が降りて 空には最初の星が現れた。それぞれの犠牲(木の柱に付けられて殉教していく者)のそばには、燃えるかがり火を手にした奴隷が現れた。柱に縛られた人たちの下に置かれた藁(わら)に火が付けられた。またたくまにそれは犠牲者たちの足を炎がなめていった。
すさまじいうめきと苦しみの叫びがこだまとなって響いた。しかし大抵の犠牲者たちは、きらめく星空に顔をあげてキリストをたたえる讃美を歌った。群衆は耳を傾けた。
小さな柱からは、「お母さん、お母さん」と心を刺すような叫びがあがった。それを聞く者たちは、最も冷酷な心を抱いた者でさえも不憫さに打たれた。…
皇帝ネロは、側近とキロンを連れて一つ一つの柱の前で立ち止まってこれらの犠牲者を見て回った。最後に来た柱には、火の赤い舌は柱に縛られた人のひざまで達していた。その老人の顔を見て、キロンは突然、崩おれて、傷ついた蛇のようにのたうって、人の声というよりカラスの鳴き声のような叫びをもらした。
「グラウコス、グラウコス…」
燃え上がる柱の上からは、医者のグラウコスがまだ生きていて、キロンを見つめていた。顔は苦痛にみちて傾いていた。
自分を裏切り、妻と子を奪い、自分を殺害するために暗殺者を差し向け、いっさいをキリストの名によって赦してもらいながら、なお、自分を死刑執行人の手に渡した迫害者キロンを最後に見つめようとしているようであった。
いままで人間が人間にこれより以上の恐ろしい、これよりも残酷な迫害を加えた者がほかにあるだろうか。
そして今や、この被害者は燃える柱で死にかかっている。 しかも、その迫害者は、その足もとに立っているのである。
グラウコスの目はひたと相手の老ギリシャ人―キロンの眼に見入った。ときどき煙が間をさえぎったが、微風がそれを吹き払うとキロンは自分を見つめているグラウコスをいやでも眼を留めないわけにはいかなかった。
キロンはその場から逃げようとしたが、その力はなかった。両足がまるで鉛になったような気がした。
何か、眼に見えぬ手が超人的な力でこの柱の前に自分を引き留めているのだとも思った。彼は石のようになった。―体内には何かがあふれてきて、何かが崩れていくような気がした。…
グラウコスはいっそう苦痛のために頭を垂れつつ、じっとキロンを見据えた。まるで火の舌がキロンの体を焼いているかのように、恐怖と苦痛で彼の顔はゆがんだ。
突然彼はよろめいて、哀願の手を差し伸べながら、胸をつくような声で叫んだ。
「グラウコスよ、キリストの名によって私を赦してください!」
深い沈黙があたりをとざした。それを見た者たちはみな身震いして思わず柱を見上げた。
殉教者は頭をかすかに動かして、柱の上からうめくような声で言った。
「あなたを赦す」と。
キロンは顔をおおって打ち伏して野獣のように号泣した。 炎は燃え上がってグラウコスの胸と顔をなめ、さらに彼の頭上に付けられていた飾り物も燃え上がった。
しばらくしてキロンは立ち上がったが、その顔はすっかり変わって別人のようになっていた。
キロンの両眼には、今まで彼に見られなかった新しい光明で輝き、しわのよった額の上にも喜びの色が満ちあふれていた。
ついさきほどまではあれほどよろよろしていた老人が、今は神のご意志を受けた者が未知の新しい真理を開いて見せるように思われた。…
到る所で、柱は燃え尽くし、煙と火花と人間の焼ける匂いで道を満たした。
こうしたいっさいを見ていた群衆たちは不安に襲われ帰り出した。至るところでキリスト教徒たちに対する同情の声が聞かれた。
―彼らが、ローマを焼いたのでないのに、何だってあんなに血を流し、苦しめ、不正を加えたのだ。神々は罪なき人々のために復讐をなさらないのか。―
しかし、なかにはまた、突然立ち止まって互いに別の問を交わすものもいた。
「いったいどういう神なのだろう。苦しみと死に対してあんなに力を与えるとは!」(下巻第19章より)
○ここに引用をした箇所は、私が初めてクォ・ヴァディスという本を読んだ40数年前、とくに心に残った箇所の一つである。
悪意につぐ悪意を重ねて、真実なキリスト者の医者グラウコスを苦しめ、裏切りのあげく最後は死に至らしめた、悪魔のような人間キロンに対して、まさに激しい苦痛のつのる炎の中から、そのキロンをも赦す心が一読して忘れられないものとなった。
その赦しを受けたことによって、キロンは悔い改め、ローマの大火の犯人は、キリスト教徒でなく、ネロ皇帝だ、と群衆のなかで大声をあげ、殺されることを覚悟で、告発したほどに変えられたのであった。
キロンのなかで、それまで長い生涯のあいだ、ずっと燃え続けてきたいわば悪魔の火が、ようやく吹き消されたのであった。それは、キリストと深く結びついたグラウコスの愛と祈りからでる赦しによってなされたのである。罪の赦しこそは、人間を本当の意味で変えることになる。
ここで描かれているグラウコスの深い愛が、彼を裏切った男に注がれたのは、グラウコス自身がキリストの十字架によってみずから罪赦されたものであったからである。
キリストの十字架の福音とは、このような小説にとどまることなく、現実に私たちに働いて人間を根底から変えていく、比類なき力を内に秘めた真理なのである。
そしてこの箇所によって、人間として最も高い到達点とは、こうした悪に対して善をもって勝利するということなのだと深く知らされたのであった。
使徒パウロが、次のように書いていることをそのままグラウコスという人物に見ることができる。
「悪に対しては善を行なえ。そうすることによって燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(ローマ12の20)
敵対する者への祈り、それは 主イエスご自身がそのようにされたのを思い起こす。 十字架に付けられて死に至ろうとするとき、主は祈られた。
…父よ、彼等をお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23の34)
また、最初の殉教者のステパノが、石で打ち殺されようとしたとき、その最期のときに、「主よ、この罪をかれらに負わせないでください」と大声で叫んで息を引き取ったのも同じように、敵対する者たちへの祈りがあった。
この敵対するものへの愛と祈りこそは、キリスト教が武力や権力を用いないでローマ帝国の広大な世界に広がっていく原動力となった。そしてその力は、さらに世界中へと伝わり、現在も世界のいたるところでこの力は働いている。
そして、このような自分の命を攻撃してくるものへの愛と祈りは、そのような力をもつ別のもの―病気の力に苦しめられている者への愛と祈りともなり、病気から生じる体の不自由や障がいなどに関しても、この世の考えがそれを恐れ忌み嫌うなかで、そのような病気や障がいを持った人たちへも神の愛と祈りをもって接するような人たちを生み出していった。
そこから、病院やさまざまの障がい者への福祉、施設、教育、法律の制定等々へと波及していくことになった。
目に見える物やそれを支配する金銭の力が、絶対的なもののように、政治や経済でも絶えず大きな位置を占め、新聞、テレビなどもそうしたことに関することが繰り返し大々的に報道されている。
いつのまにかお金があったら一番の安心だという考え方が空気のようにしみ込んでいきつつある。
しかし、どんなに安全なところにいても、また、お金で生活が保障されていても、魂の平安は訪れない。
日本の現在の経済的な状況は、戦前から敗戦直後の貧しい時代とくらべて比較にならないほど豊かになっているが、個々の人の心の世界は決して平安が以前より深められたということは言えない。
…さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ55の1)
今から2500年ほども昔から、このように本当に必要なものはただで、受けることができると強調されている。ここで言われている水とかぶどう酒、乳というのは、人間がその魂に本当に必要なことを指して言われている。
憎しみの心、それは渇いた心である。強い憎しみでなくとも、だれかのために心を注ぐことができないこと、それは渇いているからである。
自分中心に考えている心、これも同様である。自分が渇いているから周囲へと流れだすことができない。
また、絶えず活動している人にも渇きはある。自分が一番になりたい、人にほめられたいといった願望もまた、渇いている魂から生じる。うるおいある心は、それだけで満ち足りているから、他者によってほめられる必要がなく、また、ほめられてもそれは他の欠点を知らないからだとわかるから喜べないのである。
神は愛であると記されている。神こそはすべてのよきもので完全に満ちた存在であり、それゆえに神に結びつく者に、その満ちみちたものから分かち与えることができる。神と同質の存在であるキリストも同じように完全に満ちみちたお方である。
このことを、ヨハネによる福音書の最初の箇所で見ることができる。
…(キリストは)父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。…私たちはみな、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。(ヨハネ1の14~16)
クォ・ヴァディスでさきに引用した、グラウコスという医者は、キロンという男から甚だしく苦しめられ、家庭をも破壊されたが、それでもその男を赦した。しかし、それにもかかわらず、なおも、キロンは悪をかさねてグラウコスを苦しめ、ついに、迫害者の手に渡し、グラウコスを火で焼かれる苦しみにさえ陥れたのであった。
それでもなお、自分をこのようにおとしめた人間をも赦すことができるということのなかに、この殉教者がいかに深い豊かさを活けるキリストから受けていたかを示している。
主イエスも十字架の上の激痛のなかから、となりで十字架につけられた罪人に祝福の約束を与えることができたが、それを思い起こさせるものがある。
こうしたキリストからの満ちあふれる恵みを受けたゆえになされた殉教ということ、それは、古くから尊重され、その迫害と殉教の目撃者たちによって語られ、また書かれ、伝えられてきた。
それは、ユーセビオスの「教会史」や、殉教者たちの行動の記録が古くから伝えられたものに記されている。(*)
また、日本において、江戸幕府のキリシタン迫害はその残酷さにおいて知られているが、その詳細な記録(**)が、岩波書店から発行されている。
このような書物から、キリスト教を信じる人たちが、長い歴史のなかでいかに激しい苦難をも耐えてきたか、そしてこのクォ・ヴァディスに引用したように、その苦難に耐え、かつ迫害者たちに対しても最後まで憎しみを抱かず、かつ神とキリストを証しつつこの世を去って御国へと移されたということが、キリスト教の真理を伝える大きな力となっていった。
すでにこのことは、キリスト教史上の最初のそして最大の殉教者といえるキリストご自身に見られたことである。主イエスが十字架で耐えがたい苦しみを受けて息を引き取ったとき、その光景を見たローマの兵隊長が、イエスのことを神の子だと信じるに至ったことが記されている。最もよき人が無惨にも殺されていく、どこに神がおられるのか、神の愛や救いは本当にあるのか、という深刻な疑問が生じる一方で、神はつねにこうした不思議な道によってその真理を人々に証しし、その存在と力を世界に広げていかれたのであった。
こうしたことからも、この世において、現在そして将来にいかなることがあろうとも、万能でかつ愛の神は、そうしたただなかに、神の証し人を生み出し、真理を伝えていくことを信じることができる。
(*)「キリスト教教父著作集 第22 巻・殉教者列伝」(教文館発行)には、そうした古代から伝えられてきた迫害に耐えてキリストのために命を捨てた人たちの貴重な記録が集められている。なお、エウセビオスは、古代キリスト教の指導者。(263?~ 339年)
(**)「日本切支丹宗門史」全3巻。 一九三八年初版 著者レオン・パジェスは、一八一四年生れのフランス人。日本に関する膨大な資料を駆使して全四巻からなる日本史を書いたが、そのうちの第三巻の部分にあたるのが、岩波書店から刊行されたこの著作である。
この書は、一五九八年から一六五一年までの、徳川家康、秀忠、家光らの時代のときにキリシタン迫害の実態を詳しく著述した。日本の宗教学者として有名な姉崎正治博士は多数のキリシタンに関する著作を書いたが、彼は「パゼスが、あれだけの著作を残しておいてくれなかったら、到底企て及ぶ事業ではなかった。この点については、パゼスの忠実細密な働きに対して篤く感謝の意を表せざるを得ない」と述べたという。「いのちの水」誌にも、その中から一部を紹介したことがある。
(345)兄弟たち、何をおいても、まず第一に、自分自身の心のうちの燃える火を保つように気をつけよう。
(「AN ALL ROUND MINISTRY 6」スパージョン著)
・使徒パウロも「御霊の火を消してはいけない。」と言っている。(Ⅰテサロニケ5の19)
使徒たちの最初の福音伝道も、研究や会議によってでなく、炎のような舌が弟子たちに降ったことからはじまった。
いわば神の国の祭壇に燃えている火によって弟子たちの魂に点火されたのである。
私たちもまた、絶えず消そうとする力に抗して御国からの火を常に受けていたい。絶えず祈るとはそのことでもある。 私たちの信仰が生きたものであるなら、その内につねに聖霊の火が燃えている。
聖書という書物は、数千年を経ても変ることなく、そこに神の清い火が燃え続けている。 そしてその力ある火を受け取っていく人たちもまた、変ることなく続いてきたし、これからも続いていく。
(346)アシジのフランシスコの言葉から
・不正な仕打ちを受けたとき、加害者が自分自身の心に与える害悪を、まず考える者こそ、敵を本当に愛しているのである。
・人はじっさいに善き人になればなるほど、自分をいっそう悪く感じるものである。
・友が、遠く離れていても近くにいる時も、彼を同じように愛し、聞かせられないことは、何も、その背後で(かげで)言わない僕は幸いである。
(「アシジの聖フランシスコ」ヨルゲンセン著 講談社 241~243頁より)
○四国集会の申込締切りは、4月20日ですので、それまでに申込をよろしくお願いします。
なお、健康上の問題その他の理由で、申込が遅れる場合は、吉村孝雄に連絡をお願いします。
○四国集会の会費について
前月号には、学生の会費などについて書いてありませんでした。
大人で全日程参加 13000円(一泊三食付)
学生(小学生~大学生) 半額 6500円
部分参加については、「集会だより」の最後の頁にある別表を参照してください。
○4月23日(火)にて、吉村孝雄は、愛農高校のイースター礼拝で、み言葉を語らせていただくことになっています。とくに若い生徒さんたちに、み言葉と聖なる霊がもたらされますようにご加祷ください。
・今月号には、古代ローマの使徒―ペテロやパウロたちも登場し、当時の厳しい迫害時代を背景とした、クォ・ヴァディス(「どこへ行かれるのか」の意)の一部から取り上げました。聖書の最後の書である黙示録も、その著者が、イエスを証ししたために、迫害を受けて捕らえられ、エーゲ海の島にていたと記されており、おそらく捕らわれの身となっていたと考えられています。
九百頁にわたる長編ですが、終りに近い部分から、とくに現代の私たちにも関わっていると思われる箇所を引用してあります。これは紹介なので、余力のある方はぜひ、原著の完訳版を岩波文庫で読んでいただきたいと思います。
・3月号の「今日のみ言葉」を読んで
「日はまた昇る」ヘミングウエイの小説と同じ題名ですのに、これほど心に響いたことが有りませんでした。
母の逝去を境に認知症を発症した父の命に22年間寄り添って参りました。我が人生のほぼ三分の一の歩みであり、父の生活が私の生きる核となっておりました。その父が 天に召され、一人取り残され、悲しく寂しく、心が苦しい、これから如何に生きるべきか?というよりも、心が凍り、何もできず、又朝起きても何もすることがないと言う状況に陥り、ボチボチ動き出しはするものの、力なく、ただいたずらに時を過ごしておりました。
そんな凍てついた我が心に光を、一筋の光を感じるように思います。
気力・集中力がなくなり、本も読めぬ状況ではありましたが、昨日は本当に久しぶりに聖書を開き、心が落ち着き、慰めを得ることが出来ました。
今日のみ言葉を拝読させて頂き、大きく再び神様の方へ向きを向けて頂きました。(関西の方)
・神の言葉は、不思議な力、驚くべき力を表すことがあります。人間の言葉―意見、研究、思想といったものではどうにもならなかったのが、み言葉によって変えられることがあり、また慰めや力を与えられることがあります。
○3月号の「復活の春」の文に、大きな力をいただきました。 一か月余り前に、夫が急死して、平常心を失いつつありました。夫は、その四日ほど前に、聖書集会で聖書講義をしていたのに…。 でも神様の愛によって復活を信じています。…(関東地方の方)
○出エジプト記の聖書講話CD、毎日のように聞いています。聖書のダイナミックな史実の記述というものが、また現実に日々生きているこのプロセスというものが、神が私達に語りかけ続けられた、神へ帰っておいでという愛の表現の軌跡だった、と 初めて感じて感動しています。
何という世界であったことでしょう。心より感謝しております。(関東の方)
・上記は、「いのちの水」誌で紹介した、聖書講話CDシリーズのうち、出エジプト記(全3巻)を購入された方からの感想です。