「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。 |
・2013年9月 631号 内容・もくじ
本当の喜ばしさ
オリンピックを日本で開催するということを、あたかもこの上もない良いことのようにニュースなどでは報道されている。こうした世界が注目する大がかりな事業、祭典は、莫大な金を使い、必要もない施設を次々に造り、一部の企業は大きな利潤を得ることになる。
だが、大多数の人にとっては、日々の生活にどのような力を与えることができるだろうか。震災など各地の災害による苦難、沖縄の問題、その他無数にある人々の日々の悩み、病気や仕事、あるいは老年の苦しみ、等々、オリンピックによってそのようなものは少しでも好転するだろうか。
また、スポーツで金メダル取っても、人間性はよくなるという保障など全くないことは、オリンピックでメダルを獲得したような日本の代表的選手が、柔道のように繰り返し暴力やお金に関する偽りなどが発覚してもなお、そうした暴力を止めようとしないことを見ても明らかである。
柔道や剣道などが日本精神を培うなどとして、学校教育で必修とされているが、こうしたスポーツ界の現状を見たらよい精神など期待できないことは明らかである。
人を押し退けて、自分がトップになる―そんなことを毎日思って生きるなどということ自体が、真理に反するものである。そんなに一番になって何が得られるだろうか。正義への感覚や弱者への愛、真実など最も大切なものが、一番になったからといって少しでも養われるだろうか。
しばしばそれは逆である。トップになることで、高ぶりや弱者への軽視などがおきることがよくあるからだ。
そして、オリンピックなどでメダルを取ることは、貧しい弱小の国ではほとんどできない。 マラソンのような設備も要らないものなら可能であるが、たいていのスポーツで好成績をあげるためには、適切な施設、よきコーチ、おびただしい練習、多額の費用、そのための体育大学など教育施設等々が不可欠である。それゆえに経済大国が多くのメダルをとってしまう。
貧しい国々ではそんなことは到底できない。飢えている世界で10億人近くもの人たちにとって、オリンピックに出場することなど夢のまた夢でしかない。
日本の若者には、そんなことより、農業実習や国外の貧しい国々での奉仕体験などをさせるほうがはるかに望ましい。
農業―という土に根ざした仕事、じっさいに土を耕し、肥料をつくって施し、また雑草を除き、育て、その収穫を体験するということが、金メダルなどを目指して金をつぎこみ、一日ボールを追っかけたり、投げ合いをするなどということよりはるかに人間的であり、心身の育成に役だつ。あるいは森林の樹木をいかして使う仕事にかかわり、漁業の困難さに触れさせる―こうしたことに直接に触れさせることのほうがはるかによい効果を生み出すのは確実である。
「人間の間であがめられるものは、神の前では忌み嫌われる。」(ルカ福音書16の15)
最も大いなる喜び、それはどういうものだろうか。
…悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
…一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ福音書15の7、10)
人の前であがめられ、もてはやされるようなことを神は喜ばれない。
忌み嫌われるという強い表現で訳されているが、神が喜ばれるのは、私たちがいかに真実な道からはずれているかを思い知り、そこからその赦しを求めて神に向う、そのような心をこそ、最も喜ばれる。それは、人の目につかないようなところ、病院や家の一室、また祈りのとき、罪の苦しみのとき…などでなされる。
それはまったくお金や権力、またテレビやマスコミでもてはやされることはない。しかし、神の国―天において大いなる喜びがあると記されている。
それが神の御心なのである。
神は、私たちがスポーツなどできない弱いからだであっても、また貧しい国であって生きることさえままならないような状況にある人々でも、また病床で苦しみつつ孤独に過ごす魂にも、どのような人にも与えられる本当の喜びを示してくださっているのである。
真理は、いつでも、どこででも成り立つ
真理とは、永遠性と普遍性を持つ。例えば、2×3=6というのは、千年前も現在も変ることなく成り立つし、日本においても、またアメリカにおいても成り立つ。昔の奴隷など身分差別のひどい時代であっても、現代であっても成り立つ。戦争があってもなくても成り立つ。
そして、あと500年経ったら 2×3=8になったりすることはない。永遠的である。
同様に、本当の正義や愛、真実というのも真理そのものであり、それらは永遠に変ることなく、またいかなる場であってもどんな人間にも成り立つ。
例えば、理由なく人を殺すということが悪だということは、永遠に成り立つし、またすべての民族、国家において成り立つ。
また、苦しむ者の痛みを共感するような愛は、どこにあっても、いつの時代にもその価値を失うことがない。
真理はそれをみんなが持つほどよいことになる。前述のような愛や嘘をつかないこと、盗みなどをしないということは、皆が持つほどよいことである。真理は真理みずから万人に所有されることを望んでいるのである。
しかし、真理でないものは、みんなが持つと破綻し、滅びに至る。例えば、嘘をつくということを皆が実行したら人間関係は破綻し、いっさいは成り立たなくなる。明日巨大地震がくるなどという嘘をいっせいにテレビやラジオで報道すれば大混乱が生じてそのようなことをするものはたちまち捕らえられる。真理に反するものは、このように万人が持とうとすると必ずさまざまの不都合が生じ、それがひどくなると、破滅に至る。
それならば、原発を持つということ、核兵器を所有するということは真理にかなうのか。
真理かどうかは、それをすべての国に広げていくことでどのようなことが生じるかを考えるとすぐにわかる。真理はあらゆる国々や人々に広げていくことでますますよいことが生じていく。しかし、真理に背くことはその逆であるからだ。
原発をあらゆる国が所有する方向になれば、そこには必ず犯罪集団、テロリストによって破壊される危険性がきわめて大きくなり、必ずどこかでは破壊され大事故になる。近隣の国々も汚染され住めなくなる。そして生じる廃棄物は至るところであふれ、それぞれが10万年以上も危険が伴う。そして生じるプルトニウムがあふれ核兵器を作ることにつながり、それが使われる可能性が大きくなって危険きわまりない世界になる。
原発一つの大事故で、そのときの風向きや雨などで、大都会が住めなくなり、数千万人が避難することになり、日本が壊滅的になる可能性すら濃厚であったのだから、世界各地でそうした事故があれば世界は大混乱となるだろう。
軍備を拡大し、核武装するということも、次々と国々が核武装していくと、どうなるのか。人間は動物より危険だといわれたりするが、たしかに動物は、第二次世界大戦のようなおびただしい殺戮をすることはあり得ない。食物さえあれば猛獣も穏やかである。しかし、人間はいくら食物があっても争いは止まることがない。自分中心の考え、上に立ちたいという支配欲や、憎しみや虚栄心、傲慢等々がかぎりなく存在するからである。そのような人間の本性からして、核武装する国が到る所にあるなら、そこで政治的混乱、革命、内乱などが生じたとき、その核兵器も悪用される可能性が高くなる。
核兵器をもって自国を守るというが、この考え方を押し進めるとき、世界の各国が核兵器を持つことになり、それはきわめて危険な世界となるのであって、自国の安全どころか全世界が危険となる。
このように、原発を持つ、軍備を増強する、核兵器を持つ等々は、それをどの国も持つようになればますます世界は危険に瀕することになるのであり、それゆえにこうした考え方は真理でないことは明らかである。
逆に、自然エネルギーを中心とし、贅沢を慎み、原発を廃棄し、軍備を持たず、その莫大な経費を自国や他国の教育や福祉、医療、砂漠の緑化、等々のよい企画へと用いていくこと、それを世界の国々が実行していくならば、そこからよいことが次々と生まれる。
そうした意味においても憲法9条は、日本が守るべき貴重な世界遺産というべきものであり、それは富士山の保全よりはるかに重要なことである。富士山がひとたび大噴火すれば観光どころか関東の大都市に甚大な被害が生じて日本に大影響を与えることになり、その美しさなどは問題にされなくなるだろう。
しかし、9条の精神ははるか旧約聖書にその源流があり(イザヤ書2章、ミカ書4章等)、神のご意志に沿ったことである。それは真理であるゆえに尊重し守っていくべきなのである。
アメイジング・グレイス ―Amazing Grace
私は大いなる罪人。しかし、キリストは偉大なる救い主。
I am a great sinner,
Christ is the great Savior.
この言葉は、アメイジング・グレイス Amazing Grace という世界的に知られている讃美歌を作ったジョン・ニュートンが召される数週間前に、尋ねてきた友人に語った言葉である。
その讃美歌の名前と同じタイトルの、「Amazing Grace」(アメイジング・グレイス) というイギリス映画(*)の中では、彼が、晩年になり失明した状況のなかで、奴隷制、奴隷貿易をなくすために献身的に戦っているウィルバーフォースに言った言葉としてあらわれる。(**)
この告白は、ジョン・ニュートンの変ることのない気持ちであり、自然と口から出る言葉だったと思われる。
(*)2006年イギリス製作。イギリスにおける奴隷制度、奴隷貿易をなくすために、キリスト教信仰をもって戦ったウィルバーフォースの伝記映画。
(**)なお、BS放送の映画の字幕は、「私は罪人、神は救い主」と訳されていたが、英語原文は、ともに great を使っており、そこにジョン・ニュートンの気持ちを表す重要な意味がある。 パウロも私は罪人の頭だと言ったし、キリストこそ万人の偉大なる救い主であることを一貫して伸べているのであるから、当然ここは、前述のように訳すか、さらに強調して、「私は途方もない(great)罪人、キリストは偉大なる救い主」というように、訳すべきところである。
なお、神は救い主 という表現は新約聖書では用いられておらず、救い主といえば、キリストを指すからこの点でもこの字幕の訳は不適切であった。
真理は、ごくわずかの言葉で足りる。このわずかなひと言の中に、キリスト者の胸の内にある深い真理が込められている。
恵みということのできるものはいろいろある。毎日の健康、家族、日々の生活の食事、家、友人―目が見えること、耳で人の言葉や音楽などを聞けること、歩けること、…私たちの日々の一つ一つが恵みである。
しかし、そうした恵みを恵みとして実感できるように魂を変えるという最大の恵みは、キリストによって私たちの過去の、そして日々の罪が赦されるということである。そしてキリストの復活の生命をそこに注がれる、いのちの水を汲み取ることを許されるということである。
ジョン・ニュートンは、かつては、たくさんの奴隷たちをアメリカや西インド諸島に運んで行った奴隷船の船長だった。しかし、それは当時のイギリスでは社会的に多数が認めていたことであった。国会議員の多数が奴隷貿易と関わって利益を得ていたような状況だったのである。
そのような中で、奴隷制度やその貿易の悪魔性を見抜いて、それを誤りだということは、非常に勇気のいることであった。だれもが認めていることを悪だ、と洞察するのは、通常の学問や常識、経験ではできない。
中国大陸や東南アジアを戦場とした太平洋戦争のとき、国民の圧倒的多数は、あの戦争が間違ったものだということを知らなかった。一千万をはるかに越える人たちが日本軍の攻撃によって殺され、中国の大都市は爆撃で破壊されていったが、その人たちの苦しみを思い、また日本人そのものも数百万という人たちが死んでいくことになったが、それでも学者や政治家、文筆家等々も一般国民も、大多数の者たちは、その戦争によっていかに中国や東南アジアの国々、そして日本に害悪が広がっているかを見抜くことができなかった。
原発も同様である。40年もの間、原発は新たな希望のエネルギーだと偽りに満ちた宣伝を、多数の科学者、技術者や政治家、文学者、社会学者たちもみな見抜くことができなかっただけでなく、原発を推進する人たちとともにその安全性と利便性を宣伝していくだけであった。
奴隷制度にしても、いまから、200年も昔であって、それが当たり前のように考えられていたとき、ジョン・ニュートンがそれが悪だということを本当に知ったのは、周囲の人たちの意見とか奴隷たちの苦しみを見たとかいう経験でもなかった。いくら奴隷たちが悲惨な状況に置かれているかを数えきれないほど見てきたにもかかわらず、わからなかった。
彼がその悪をはっきりと知ったのは、上よりの啓示によってであった。
彼が22歳のとき、イギリスに帰る船で、彼は、たまたま時間つぶしに持参していた本の一つを手にとった。それは、トマス・ア・ケンピス(*)の「キリストに倣いて」であった。何気なしに読んでいたが、ふと、そこに書かれてあることが真理なら、自分の今後はどうなるだろう、と考えるようになった。彼の当時の生活は、その本の内容とあまりにもかけ離れていて、そのままであれば自分は当然神からの裁きを受けるだろうという考えが頭をもたげ、それ以上考えることは止めた。
(*)トマス・ア・ケンピス 1379年ドイツ生まれ。12歳のときに入学した学校で深い霊的影響を受けた。後に修道士、司祭となり、アウグスチヌス会の修道院にて71年を過ごした。そこでの黙想、祈りの生活のなかから修道士のために書かれたと伝えられるのが、「キリストに倣いて」である。
彼の乗った船が、激しい暴風に遭遇したのはちょうどその本を読んだ翌日だった。
その日のことを、後に書いた手紙型式の自伝では、「主の時」(The Lord's Time)というタイトルで書いている。 大波とともに大量の水が驚くべき速さで船のなかに入り込み、沈没しかかっていた。甲板に出た船員が船に襲いかかった大波に飲まれて海中に沈んでいった。
しかし、悲しんでいる間もなかった。自分たちもそのように皆、船が沈むとともに海に呑みこまれると思ったからである。そこから助かったのは、まさに奇跡だ、と書いている。
このとき、仲間は船がもうだめだと思い、もう手遅れだ!と絶望的な声をあげた。そのようなとき、彼は、思わず「こうした努力がうまくいかないなら、主よ、私たちを憐れんでください!
(Lord,have mercy on us!)」と言った。
ジョンは、長い年月にわたってこのような祈りと願いを口に出したことがなかったので、自分から出た言葉に打たれたのだ。それが、1748年の3月10日だった。この日以降、その日をすっかり忘れて過ごしたことは一度もないほどであった。
その日、いろいろと今までのことを思いにふけり、反省の時を与えられ、自分を振り返って自分ほどの罪人はいなかった、と思った。彼は、旧約聖書の箴言の次の言葉にも動かされた。
…私は呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
あなたがたは私のすべての忠告を無視し、 私の叱責を受け入れなかった。
それゆえ、私も、 あなたがたが災難に会うときに笑い、 あなたがたを恐怖が襲うとき、嘲けろう。(箴言1の24~26)
神は、思いがけないとき、だれも予想しない状況と場所においてその御手を伸ばされる。そしてご自分の僕となされる。二万人に及ぶ奴隷の貿易を続け、利益を得てきた人間の回心を、そうした荒海のなか、沈もうとするような危険な状況のなかでなされたのであった。そのときに、書物が用いられた。キリスト教の古典として伝えられた書物はキリストに生きた人間の心にあったことであり、主が示してきたことがその主たる内容となっている。単にその本を読んだということでなく、その本を書いた人間と出会ったことであり、さらには、その本を書かせたキリストと出会ったということである。
「キリストに倣いて」という本は、深い霊的な祈りに満ちており、現在のようなテレビや新聞、雑誌、車や列車、飛行機など一切がなかった時代であり、自然のゆたかな状況にあった。
そうしたなかで、物質的には貧しい生活をしながら、神からの言葉を聞き取ろうとし、また神への祈りに長時間を費やした人の一人がこのトマス・ア・ケンピスであった。
神はジョン・ニュートンの回心にこの本の著者の真剣な長い歳月にわたる祈りを用いたのであった。
私が一冊の本の立ち読みでキリスト教へと回心を与えられたのも、その著者の長い期間にわたる未信仰の者への祈りがあったこと、そしてその著者を支えたキリスト者たちの祈りをも感じる。著者がこの世にいなくなって長い歳月が経っても、書物という形でその人間の魂の本質を残し、それを必要なときに用いられるのである。
旧約聖書の箴言は、たくさんの神の言葉が格言として書かれてある。多くの人にとっては、似たような言葉、戒めが多いために読み流す書となっても、神が必要とされるときには、たくさんの言葉のうちのわずかなひと言ふた言を用いて重要な人物の回心に用いられたのであった。
神はこのように、人間をこの世のこと自分自身のことから神へと魂の方向を転換させるために、しばしばこのように苦しみを用いられる。大きな苦しみや悲しみ、また精神的動揺等々、それらは誰もが自分から進んで持ちたいとは思わない。一体だれが、みずから目の重い病気になって失明することを願ったり、全身不随の病気になったり、心の重い傷のために悩み、悲しみで日夜苦しみ続けることなどを望むことがあろうか。
神はだれもが望むことのないような状況を用いて、かたくなな人間の魂を転換しようとされる。
ジョン・ニュートンの場合もこのことがあてはまる。
彼は、航海での非常な苦難―もう生きられないと思われるほどの危機に直面したとき、神の手によって魂の目が開かれた。しかし、同じ船に乗っていた仲間たちにはそうした回心はなかった。このことを、彼は、手紙で次のように語っている。
「一時的な恵み(苦難からの救い)は、主ご自身がそれらを用いないかぎり、人の心には届かない。私は、彼等より、自分が賢かったとかよかったというのでなく、主が、私に特別な憐れみを注ぐことをよしとされたからだった。」
No temporal dispensations can reach the heart unless the Lord Himself applies
them.
I was not any wiser or better than they,but the Lord was pleased to vouchsafe me peculiar mercy.
(「Letters of a Slave Trader Freed by God's Grace」80P MOODY PRESS)
彼はそこからキリストへと向き変えられた。それから幾年かの期間を通じて徐々に、キリスト第一とする生活に変えられ、奴隷貿易から完全に離れて、人々に神の言葉を伝えること―牧師となって生涯を送ることになる。
そのなかで、彼は、小さな町―オルニー(Olney)の教会の牧師となった。そしてその町に住んでいた詩人クーパーとの親しい交流がはじまり、彼とともに讃美歌集を出版した。それが、「オルニー讃美歌集」Olney Hymns というものであった。(1779年)
そして、その讃美歌集のなかに収録されていたのが、アメイジング グレイス Amazing Grace である。そしてその讃美歌集において、関連聖書箇所として、歴代誌上17章16~17があげられている。それは次のような内容である。
…ダビデ王は行って、主の前に座し、そして言った。
「神なる主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。
神様、この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、この僕の家の遠い将来にかかわる御言葉まで賜りました。
神なる主よ、あなたはわたしをとりわけ優れた人間と見なされたのでしょうか。」
ジョン・ニュートンにとって、自分が多くの罪悪を重ねてきて、二万人ともいう奴隷たちを奴隷船に乗せて彼等を売買し、利益を得てきたという罪人であるにもかかわらず、そこからその罪を赦し、しかも人々に神の愛と神の言葉を伝えるような人間にまで導かれたことを本当に信じがたいこと、驚嘆すべきこととしていつも感じていたのがうかがえる。
アメイジング・グレイスという詩に込められた、「驚嘆すべき Amazing」という言葉は、ジョン・ニュートン自身の魂の深い経験、日々の実感であったが、彼は、この聖句にあるように、2700年ほども昔の人、ダビデの祈りにも心動かされ、共感していたのがうかがわれる。
最初にあげた、ジョン・ニュートンの言葉、―自分が大いなる罪人(great sinner)であることを深く知ることは、キリストが偉大なる(great)救い主であることを知ることと不可分に結びついている。これは、ジョン・ニュートンだけでなく、あらゆるキリスト者にあてはまることである。
主イエスの最初の教えが、「ああ、幸いだ、心貧しき者! なぜなら、その人たちに神の国は与えられるから。」と言われたのも同様である。心貧しきとは、神の前にみずからの罪を深く知る心だからである。そこに神の国という比類のないよきものが与えられること―それこそ驚くべきこと amazing! なのである。
キリスト者とは、こうした驚異を感じる心を、その程度の多少はあっても、日々与えられている人なのである。
………………………
Amazing Graceより
Amazing Grace (How sweet the sound) (*)
That sav'd a wretch like me!
I once was lost, but now am found,
Was blind, but now I see.
驚くべき恵み (何とうるわしい響き)
それは、私のような悪しき者を救ってくださった!
私はかつて失われていた。しかし、今は(主によって)見いだされた。
かつて見えなかった。しかし、今や私は(真理を)見ている。
(*)この讃美歌が収録された最初オルニー讃美歌集では、ここに引用したように(How sweet the sound) の部分は、カッコが付けられている。それゆえ、この部分は挿入句となっていて、Amazing Grace that sav'd a wretch like me! というのが本来の文であるから、That は、Graceを受けている。それゆえ、意味は、「悪者のような私を救ってくれた驚くべき恵み」という意味となる。 sound は、キリストの恵み(grace)というその言葉自体が自分の生涯をかえてくれた大いなる恵みを思い起こさせるものであり、そこに彼は、うるわしい(sweet)響きを感じ取ったのである。新約聖書で、「恵み」とはギリシャ語で「カリス charis」 といい、とくに滅ぶべき自分を愛してキリストがその罪を赦してくださったことに中心的な意味がある。
イザヤ書における信・望・愛
ここでは、信とは、神の信実を表す。(*)
(*)信実とは、真実を意味する語の本来の漢字である。信という漢字は、人偏に言であり、「その人と言葉が一致している」あるいは、「一度言ったことを貫く、途中で屈することなく、まっすぐに進む」というように説明されている。これに対して
真 は、本来は 内容がびっしりつまっていること、を表す。それゆえ、充填 の填 という漢字にも含まれている。(漢字源などの辞書による)この小文では、神の一貫して変わらない本質についての文なので、「信実」と表記する。
宗教全般に関心がなく、無神論の人であっても、何かを信じること、希望、そして愛を持っている。 例えば、この1、2年では、原発はまず爆発などしないだろうし、東北地方であったような大地震、大津波も来ないと大多数の人は、信じているだろう。毎日の車や列車などを使う人たちも、まず事故はないと信じているはずである。本気に疑ったら乗れなくなるからだ。
日々の食物も同様で、これには放射能がほとんど入っていないとか毒物など入っていないと信じている。
アメリカの面積とか、いろいろの科学的法則、DNAが遺伝子の本体である、そのDNAには、4種類の塩基しかない、それが結びつきあって蛋白を作る情報を持っているとか、体内の水が何パーセント含まれているとか…私たちの知識というのは、ほとんどがだれかが実験したもの、証明したということを信じているのであって、じっさいに私たちが実物に触れて確かめたものではない。
復活のイエスに、トマスが、イエスの脇腹に触ってみないかぎり信じないといったが、そのように自分が手がけて手で触れ、目で見たものだけを信じるなどというなら、ほとんどのものはそのようにできない。新聞、テレビ、インターネットなどの情報もみな信じているのである。
このように、信じるということは、私たちの生活の中で至るところで見られる。こうした「信」自体は、価値あるものではない。子供から大人まで、いわゆる悪人から善人まで、また無学な人からどんな知的に優れた人でもみな持っているからである。
本当に私たちにとって価値のある「信」、それは、神の信実と私たちがそのような神を信じるという「信」である。
聖書においては、神の信実が一貫して記されている。人間の信実というのは、実にはかない。頼りない。私たちは、物事を正確に言い表すことはほとんどできない。他人の批評においてもほめるだけで終わると、その人に対してまるでよいことばかりのように言ったことになるが、そんな人はあり得ない。
また、ある人を悪く言ったとき、それだけを聞いた人は、その人が悪いところばかりの人間であるかのように受け取ってしまう。
また、原発の事故で明らかになったように、原発は、科学的、学問的にも安全だ、大事故が起こるということは、隕石に当たるほどの確率だからまずそんなことはあり得ない、絶対ない、といえるほどである、というように説明されてきた。
しかし、現実は歴史上で何度も大事故が生じてしまったし、福島原発は、今後もどうなるのか、予断を許さない状況にある。
学者から政治家、また科学や技術にかかわっている人から一般の人々、みんなが原発は安全だと信じていた。しかし、その「信」は、架空の上に建てられたバベルの塔のごときものであったのが証明されたのである。
この世の愛も希望も同様で、みな何かがおきるとすぐに壊れてしまう。親子、あるいは男女、友人の愛といっても、ちょっとした言葉や行動によってもいとも簡単に壊れ、逆に憎しみや嫉妬に転じたりする。希望も同様で、自分の将来の希望などといっても実現される見通しなどは全くない。病気や事故、災害あるいは人間関係のもつれ…等々が解決されるという希望を持っていても、それはまったく根拠がなく、夢のようなものに過ぎないことが多い。
このように、聖書で記されている神とキリストを抜きにした信・希望・愛などはみな影のようなもので、すぐに実体が変質したり、消えてしまうものである。
それに対して、聖書―ここではとくにイザヤ書―ではどのように記されているだろうか。
神の信実(真実)、それは聖書の到る所で記されている。聖書とはまさに神の信実を一貫して述べている書だからである。
イザヤ書においても同様であり、全巻にわたってその言葉は、すべて人間にはない信実が見られる。ここではその一部を記す。
人間はみな草のようだ。
草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、神の言葉は永遠に立つ。(イザヤ書40の6~8より)
神の言葉とは、神のご意志、そのお心から出たものであり、それが永遠に動かされないということは、神の信実の永遠を示すものである。
このことは、主イエスも言われたことである。
…天地は滅びる。しかし、私の言葉は決して滅びることはない。(マタイ24の35)
ここに、天地が過ぎ去り、滅びることがあろうとも、キリストの言葉―神の言葉は永遠にその信実を失うことはないということである。
それに対して、人間の存在そのものが実にはかないもの、枯れていくものであり、またその心やそこから出る言葉もまた実にうつろいやすい。人間はごく些細なことでも、すぐにその言動を変えてしまう。
人間には信実がない、ということは、使徒パウロもその最も重要な書簡ローマの信徒への手紙において、「正しい者はいない、その舌で人を欺く、皆迷っている」(3の10~18より)と言っている。
神の信実(真実)は、その愛と深く結びついている。信とは変ることがない一貫性を意味する。神の正義も愛も変ることがない。正義ゆえに、不正なもの、背き続けるものには裁きを与えること、それも神の信実にかなうことである。それゆえに、イザヤ書の冒頭から、背き続ける民への裁きが現実に生じたことが記されている。
…お前たちの地は荒廃し、町々は焼き払われ、
田畑の実りは、お前たちの目の前で、異国の民が食い尽くし、
異国の民に覆されて、荒廃している。(イザヤ書1の7)
他方、神の信実は、このような背信がつづいても変ることがない。それは、「残りの者」を起こし続けるということである。
正義ということを一貫して変えることがない神、それゆえに裁きもなされるが、他方ではイザヤ書の1章から現れている「残りの者」を起こされるということもまた、神の信実のゆえである。
…もし、万軍の主がわたしたちのためにわずかでも生存者を残されなかったならわたしたちはソドムのようになり、ゴモラに似たものとなっていたであろう。(同1の9)
66章にわたる長大なイザヤ書の最初の章にはやくも現れるこの「残りの者」が起こされるということは、ほかのどの聖書の箇所にも増して、イザヤ書の中でしばしば現れる。
不信実とは、すぐに心変わりすることであり、人間はまさにそうである。しかし、神は信実であるゆえに、救いに招こうとするお心も一貫している。ご自身が選ばれた民に、どこまでも救いの御手を伸べようとしてくださる。
…その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に信実をもって頼る。
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。
あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。
滅びは定められ、正義がみなぎる。(イザヤ書10の20~22)
不信実な者は、すぐにあきらめ、見捨ててしまう。関わりを持っていても何も効果がないとわかると見放してしまう。人間関係でも信実な人間関係とは、相手にどこまでもよきものを提供しようとする心である。
イザヤは、自分の息子の名前にさえ、「残りの者は帰る」という意味の「シェアル・ヤシュブ」(*)と名付けたほどである。
(*)シェアルとは残りの者、ヤシュブとは、シューブ(転じる、帰る、)に由来する)
イザヤ書において神の愛はどのように表されているか。それは、神の信実と不可分に結びついている。人間の愛は、親子、兄弟、友人、あるいは男女の愛など、いずれも何か相手に偽りや罪があるとたちまち溝ができ、変質し、消えていく。そして、無関心や敵意、あるいは恨みなどになっていくこともある。
それは信実ということの本質である一貫性、永続性がない。
一部の者は、残りの者として必ず起こされる。そしてそこからまた新たな神の民が生まれ、つづいていく。
神の一貫して変わらない信実とその愛は、次のような箇所にも示されている。
…彼ら(神の民)の苦難を常に御自分の苦難とし、
御前に仕える御使いによって彼らを救い、
愛と憐れみをもって彼らを贖い、
昔から常に、
彼らを負い、彼らを担ってくださった。(イザヤ 63の9)
神は、天から見守ってくださるだけでなく、私たちとともに歩んでくださり、さらに、私たちが歩けなくなった時、倒れたときには、私たちを担って運んでくださるというのである。ここには、深い神の愛と信実を経験した人の実感と、さらにそれをこのように明確に表すための啓示を受けたのがうかがえる。
旧約聖書における神は一般的には、正義の神、それゆえに裁きの神というイメージが大方の人々によって持たれている。しかし、旧約聖書の随所にこうした神の信実とこまやかな愛が示され、それはそのままキリストの愛に通じる。
いまから2500年ほども昔、日本では文字もなく、人々が何を考えていたのか全く知られていない原始的な時代であるのに、古代イスラエルにおいてはこのように深くて新しい神の愛が体験され、啓示されていたことに驚かされる。
現代の私たちも、この世のさまざまの苦しみ―病気や、老年の苦しみ、身近な友人、職場の同僚などからの誤解、中傷、攻撃、あるいは家庭の崩壊、職業生活における破綻、そしてみずからの罪による取り返しのつかない問題、また東北大震災など自然災害からの苦しみや悲しみ等々、それらがひどくなるとき、私たちは前に進むことができなくなる。
歩けなくなる。
そうしたときに、ともにいてくださるだけでなく、このイザヤ書にあるように、私たちを担い運んでくださる神の愛がどうしても必要なのである。
この担ってくださる神をあらわした次の「あしあと」という詩は、よく知られている。 それは、自分の生涯を振り返る夢が内容である。要約と終りの部分を記す。
つねに砂浜に二つの足跡があった。一つは自分、一つは主。
いつも共に歩んでくださった主が浮んできた。
しかし、人生で最も苦しく悲しみにあったとき、足跡が一つしかなかった。
それはそのようなときに主が私を見捨てたのだろうかといぶかった。
…主はささやいた。
「大切な子よ、私はあなたを愛している。
だから、決してあなたを見捨てたりしない。
苦しみや試練の時に
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていたのだ。」
He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."
このように、弱さのために倒れ、歩けない者に目を留めて助け起こし、担ってくださる神、その神は、また私たちの苦しみや悲しみの根源である罪においてもそれを責めるのでなく、私たちの罪を身代わりに担ってくださり、私たちが受けねばならない罪への裁きによる苦しみをも徹底して受けてくださり、十字架で死するまでにその愛を貫かれるという救い主の姿が記されている。
そしてそのような救い主の比類ない信実と愛の姿もまた、イザヤ書に記されている。
それは、バッハのマタイ受難曲によっても深くその心情が音楽化されている。
…私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれが、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、その私たちのすべての罪を
彼に負わせられた。
(イザヤ53の6)
多くの人の罪を担い、
背いた者にとりなしをしたのは
この人であった。(同12)
この信実な愛、みずからが身代わりになって他者の罪を担い、そのために生命を捧げるほどにまで、全身全霊をもって担うこと―それはただ神のごとき者だけに可能なことである。私たちは、自分の罪すら重くて負いきれないのであり、他人の罪を負い続けることなど到底できないからである。
このことは、これが書かれて500年ほども後になって現れたキリストを預言する内容である。キリストの無限の信実と愛をはやくもこのような古い時代に啓示され、書き記されたのであった。
担ってくださる神、そのようにまでしてくださる神は、その愛のもとへと常に呼びかけてくださっている。
死に至るまで、忠実であれ、と言われているが、それが完全にあてはまるのは、ただ救い主、キリストにのみである。 人間の重く深い罪を担って死に至るまで徹底して愛を注いでくださるからである。
そのような愛をもっておられるからこそ、次のような呼びかけをなすことができたのである。
…「さあ、かわいている者は
みな水にきたれ。金のない者もきたれ。
来て買い求めて食べよ。
あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ55の1)
ここで、水とかぶどう酒、乳と言われているものは、神の国からの賜物である。それは私たちを死から生き返らせるいのちの水であり、魂を活気づける力を与える霊的なパンであり、いかなることにも打ち倒されないような力である。
そうしたものが、だれでも与えられる、何もよきことができない者、罪深き過去を持ったものでもただこのように呼びかけてくださる神の愛を信じて求めるだけで与えられる。
ここに、神の信実と愛がある。いのちの水や命のパン、ぶどう酒と表現されているものを受けるとき、その魂は、どのように変えられるか、その有り様は次のように表現されている。この描写は、単にイスラエルの民の歴史のなかの特定の祝福された状況を表すのにとどまらず、一人一人の魂の状況をも表している。
…荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。…
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれる。 (イザヤ書35章より)
このような無限の愛の存在であるゆえに、神はイスラエル民族や信じる個々の人たちの魂の救いにとどまらず、人間の究極的な願いである、この世界、宇宙全体が永遠によきものに変えられることをも成し遂げてくださる。
それが、次の言葉である。
…見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。(イザヤ65の17)
過去のあらゆる麗しいこと、そしてまた暗い出来事―そうしたいっさいの過去のことは、この新しい天と地によってもはや思いだす必要もなくなる。あまりの壮大さ、麗しさのゆえに、過去の一切は自然に消えていくのである。
そしてここに究極的な希望がある。
この壮大な希望ゆえに、聖書の最後にもこのことが記されている。
…私は新しい天と新しい地を見た。
最初の天と地は過ぎ去っていき、もはや海もなくなった。
神が人とともに住み、彼等の涙をことごとくぬぐい去ってくださる。
もはや死もなく、悲しみも労苦もない。(黙示録21より)
このように、イザヤ書における大いなる希望は、新約聖書にそのまま受け継がれ、現代の私たちの最終的な希望ともなっている。
この霊的な、新しい天と地―それは、太陽も月もなく、神とキリストが光であると記されているゆえに、私たちの通常の理解をはるかに超えた霊的な世界である。私たちのまずしい理解力はそうしたことを思い描くこともごくわずかしかできない。
しかし、そこに信仰が与えられている。神の信実と、私たちの側でその神の信実を信じる信仰と、神の愛、そして希望がいつまででも続く。イザヤ書は、このような意味で、旧約聖書では最も神の信実、愛、そして究極的な希望を詳しく、かつ霊的に記した書物と言えるのであり、新約聖書のキリストの世界へとそのまま流れ込んでいる啓示なのである。
原発の汚染水の問題
原発の廃炉には、百年もかかるほどの長い歳月と、膨大な費用がかかるということははやくから知られていたことである。
イギリスの西部ウェールズ地方に、1965年に運転を開始し、91年に停止した原発がある。この原発は、出力23.5万キロワットの小型原発である。
しかし、その原発の廃炉には、90年を要すると報道されている。原発が稼働していたのは、26年であるから、それよりはるかに長い間、廃炉に要する。
しかし、その廃炉が終わったら問題は解決したのではない。膨大な放射性廃棄物が生じる。それは10万年は管理を要する。そのような廃棄物をどこに置くのか、それは決まっていない。アメリカのような広大で砂漠地帯を持っている国でも、廃棄物を処理する場所は現在も宙に浮いたままである。
1987年に、ネバダ州ユッカマウンテンやテキサス州デフスミス(岩塩)などの3か所の処分候補地から、2002年2月にユッカマウンテン(Yucca Mountain)が、最終処分地とされた。そして2009年までに、1兆数千億円にものぼる巨費を投じてきた。しかし、地元住民やネバダ州議会から強い反対が起こり、オバマ大統領はこの計画を中止した。それまでの数十年にわたる最終処分地のための労力や費用は空しく消えていった。
このような実例を見てもわかるが、原発の最終処分地を決定することがいかに困難であるかを示している。
脱原発をすみやかに決断したドイツであるが、その放射能処分場については、ここでも見通しの立たない困難に陥っている。
放射性廃棄物の最終処分場の候補地がまったく決まらないために、『中間貯蔵施設』として、岩塩を採掘していた地下750メートルの坑道に建設した。しかし、そこに、毎日12トンの地下水が流れ込み、すでにそこに貯蔵していた危険な放射性物質を入れた12万6千本もの金属容器を取り出さねばならなくなった。
そのままでは、腐食した容器と接触した地下水が汚染され、広範な領域の地下水を汚染していくことになる。そうなれば回収は不可能となるからである。
そのためには、それをくみ出し、より深い地層へと送り込むことだけがさしあたりの対処方法だという。しかも、その金属容器を取り出したとしても、それを持っていく場所がない。さらに、それらの容器を取り出すだけでも、30~40年もかかるという。
現在の日本の汚染水問題と同様、流れを断つことのできない地下水が流れ込み、放射能汚染されていくことは、限りない困難を生み出すことになっている。
日本の国土は、世界の陸地の 0.25%であるのに、世界で起きる地震の約20%が日本でおきているし、さらに活火山は 、世界の7%が日本で生じている。
しかも日本はこの狭い国土にさらに人間は平野部に圧倒的に集中している。そのうえ、各地の原発は日本の百万都市からいずれも100~200キロ前後のところにある。(*)
ひとたび、原発の大事故が生じ、その風向きや雨が大都市方面にて放射能をもたらしたとき、チェルノブイリの事故でわかるように、ポーランド,スウェーデン,ノルウェー,フィンランド,ドイツ,ハンガリー,ギリシャ,ブルガリア等々、数千キロも離れた地域にも大きな放射能被害をもたらしたし、八千キロ離れた日本にも影響が及んだほどであるから、日本で原発の大事故が生じて、雨と風向きによっては大都市が壊滅的となることが予測できる。
(*)札幌―泊原発 65キロ、仙台―女川原発 56キロ、東京―福島原発 230キロ、 東京―柏崎・刈羽原発 220キロ、東京―浜岡原発 180キロ、名古屋―敦賀原発 100キロ、京都―高浜原発 60キロ、高浜原発―大阪 90キロ、福岡―玄海原発 55キロ
福島原発の大事故のときも、もし風が、飯舘村など北西方向に向うのでなく、東京方面に向って雨を伴いつつ吹き続けていたなら、東京を中心とする3500万人もの人々が、飯舘村のように避難しなければならなかったことになる。
たまたま、そうした風は少ししか吹かなかったから、そうしたことは生じなかったが、その可能性があったのは、柏市や足立区などでかなり強い放射能が計測されていたことからもうかがえる。
汚染水の問題も、原発から生じるさまざまの難問のうちの一つであるが、そもそも日本では岩塩層もなく、砂漠地帯もなく、そして雨は全国的に多く降る。地下水も到る所で流れている。そして頻発する地震によってその地下水の流れる状況も変えられることもある。
数十年間、電力を生み出すために、以後の何十万年も管理せねばならない。(*)もし、最終処分場が見いだされたとしても、そのために莫大な費用と多くの処理のために数知れない人たちが被曝していく。
(*)プルトニウムの半減期は、2万4000年だから、5万年ほどたってもまだ、4分の1にしかならない。
またもっと長い寿命の放射性物質も含まれている。例えばヨウ素129の半減期は、1570万年もある。
私は、福島原発事故の発生した年、2011年7月19日に、北海道の瀬棚に行く途中で、日本最大の原子力発電所である、新潟県の柏崎・刈羽原発に立ち寄った。そこで、原発に隣接して建てられている一般向けのサービスホール(他の原発ではPR館などという)にて、詳しくその展示内容を調べたことがあった。そこで、原発の構造や施設に関するさまざまの展示物やその内容に、福島の大事故の現実と向き合っていない内容に接していろいろと疑義が生まれたので、そのことについて直接に館長と話したいと担当者に申し出たところ、個人的に話す機会が与えられた。その林勝彦館長は柏崎・刈羽原原子力発電所の副所長でもあったが、氏は初対面の私にも率直にいろいろと話され、そのとき、廃棄物の問題の話となったとき、私が廃棄物は10万年も管理せねばならないのだから…というと、林氏は直ちに「いや、100万年です」と言われたのが、心に残っている。
そんな途方もない費用と労力を、外国の教育や、植樹、医療、荒野の開拓等々に用いるならば、どれほどよいことができるであろうか。
百年もかけて廃炉していく、それは測り知れない多額の費用と、おびただしい人々の放射線被曝を生み出すことになる。廃炉するだけで、そんなにも多くの年月をかけていく、それは本来やってはいけない原子力発電ということに人間が手をつけてしまったからである。
核兵器も原発も核分裂を利用するものであり、そもそもそのような永久的な危険を与えるものに手をつけること自体が根本的に間違っていたのである。 原発の原料となるウラン235は、微量の放射能をだすだけのウラン238と混在していて、自然界の山や原野などから取り出さねば、特別な害を与えることはない状態にとどまっている。
そしてそのウラン鉱石を産出する場所はごく限られているから、自然状態のままならば、人間に害悪を起こすことは全くといってよいほどなかったのである。(*)
(*)日本においては、1955年(昭和30年)12月19日に原子力基本法が成立し、原子力発電へと踏み出したとき、各地でウランの埋蔵の調査が行なわれ、岡山県と鳥取県境の人形峠もウラン鉱石があるのがわかり、採掘されて少量のウランを取り出したが、研究用などに用いられたにとどまる。その後品質が低く、採算がとれないために、閉鎖されている。
しかし、それを掘り出し、 濃縮しそこに中性子を照射して核分裂を起こしてしまうことで、さまざまの種類のおびただしい放射性廃棄物を生み出してしまう。
またウラン235やプルトニウムを用いた核兵器を作り出すと、それが使われたら数千万人をも殺害することができるきわめて危険なものとなるし、また原発という形においても、大事故やテロによる破壊の際の恐るべき影響をはらむものとなる。
通常運転であっても、その廃炉後には、廃棄物が永久的に害悪を与え続けるものになってしまう。
原発は使えば使うほど、人間にとって永久的な害悪を生み出し、それを処理するためには、巨額の費用が湯水のように必要となってしまうグロテスクなものなのである。
人間や動植物が作り出す汚れたもの―排泄物や死骸、枯れ葉、朽ちた樹木等々は、何の害悪も生み出さず、逆に肥料となり自然界をうるおしていく。
これは、原子力発電所の廃棄物といかに異なることであろうか。神の創造された自然の秩序はこのように無駄がなく、万事が驚くべき仕方で循環して不要なものが何もないように作られているのである。
人間の作った原発の廃棄物は、それに触れるものをみな汚していく、反生命的なはたらきを永久的にし続けていく。
現実にこの2年半という歳月、この事態に直面してきたにもかかわらず、なおも、このような「怪物」(*)にしがみつこうとしているのが 日本の自民党や経済界の多数を占める人たちである。
(*)原発を「怪物」と表現したのは、かつての原子力安全委員会の斑目元委員長である。彼は、原発を推進してきた人物で原発の本質をよく知っている専門家だが、そのような人でも、鎌仲ひとみ監督の映画「六ヶ所村ラプソディー」のなかで原発のことを、人間が制御できない「怪物」、と表現していたのが印象的であった。
怪物ということに関連して、戦後まもなく1954年に作られた映画「ゴジラ」は、その後いろいろな続編や関連映画を生み出した。 そのゴジラそのものは、アメリカの太平洋における原水爆実験によって太古の昔からの眠りから覚めた怪獣である。アメリカ軍のビキニ島における水爆実験のわずか8カ月後に公開された映画であり、それは、放射能の恐ろしさということのインパクトの強さをも示している。ゴジラが口から吐く炎には放射能があるということ、そして当時のあらゆる科学技術もそのゴジラにはどうすることもできず、そのままでは東京が破滅するという状況となった。
そのとき、最後の手段が特殊な科学技術を使う方法で、それを余りにも危険なために極秘にしてきた一人の特異な研究者が、その薬物をもってゴジラのいる海中に潜水し、みずからもその毒物によって死なねばならないことを覚悟して、ゴジラの近くにそれを置いて殺すという筋書きである。
一人の特別な能力と、その人間の死によって初めてゴジラの脅威から救われるというのであり、この筋書きは、キリストという一人の死によって人類が救われるということに影響を受けたのではないかと思われる。
原発の放射能による汚れはいかにしても取り除けない。汚染水を処理したといっても、放射能を除去したというが、その除去したという放射能を多量に帯びた物質はどこかにおかねばならない。処理すればそこで新たな高濃度の放射性物質を作り出してしまうので、また新たに保管方法やその場所に悩まされるのである。 そして、どこかで保存するとしても、そこで放射能を出し続け、その保管が不適切ならまたそこから周囲へと汚染は広がっていく。
フィンランドでは、世界で唯一、じっさいに地下深いところに放射性廃棄物を貯蔵して10万年は管理を続けるという施設がある。
福島で生じたおびただしい放射性廃棄物―それは、そのように10万年も管理が必要なのであるが、どこへも持っていけないとなれば、福島がそのまま中間処分地からさらに最終処分地となってしまう可能性が高くなっている。しかも、フィンランドのような強固で安全な地下などなく、至るところで地震の危険性や地下水を汚していくという危険性をはらんでいる。
このような重大問題を本気で取り組もうとせず、オリンピックという本来娯楽であり、それを手段として利益を得ようとする人たちには金儲けのできるイベントとなるが、オリンピックというものは、本質的に人間の生活に不要なものである。そのために莫大な経費と労力を使うということは、あるべき姿から大きく逸脱している。
政府は汚染水問題が、国際的に注目され、直前に迫ったオリンピックの開催地の決定にも悪影響を与えかねない状況になったとき、突然470億円もの国費を支出すると言い出した。これは財務省にも連絡もしなかったという。
これは、オリンピック誘致を少しでも有利にしようとの目的だったと言われている。
福島原発や東北の津波、地震の被災者のためでなく、オリンピックを東京に誘致するために考え出したとは何ということだろう。
しかも、莫大な費用をかけて開催するオリンピックに対して批判的な考えをもつ人の意見などは、NHKニュースなどでもいっさい報道せず、もっぱら賛成の意見ばかりである。ニュース報道を見ていると、あたかも政治家も経済界も、一般国民もみんながオリンピックに大賛成だなどというように受け止められるようなニュース構成である。このような一種の娯楽を、現在も多くの、苦しみと困難にさいなまれている原発という重大問題以上に考えているのが明らかとなった。
日夜、放射能に苦しめられ、故郷から追い出され、農業、酪農、水産業などの長く受け継いできた仕事も継続不能となった多くの人たち―あるいは、津波のために肉親を失い、職業やふるさとを捨てねばならなくなった人たち―そうした災害だけでなく、それがなくとも、いつの時代にも数しれぬ存在する闇に苦しむ人たち―こうした苦しみは、オリンピックといった華やかなお祭をテレビでしばらくの間見ているときは、気晴らしになっても、それが終われば、彼等の苦しみや悩みは再び、オリンピックなどまったく関係なく襲ってくる。
そんなものに巨額の費用とエネルギーを今後開催までの長い間にわたってつぎこむより、はるかに大切なのは、原発に変る自然エネルギーの研究、開発であり、また自衛隊を軍隊にするなど止めて、あくまで憲法9条を守り、自衛隊と切り離した災害救助隊というべき独立の組織をつくって、これからの日本のさまざまの災害―原発災害も含め―に対処するようにすること、あるいは、急増する高齢者や病者といった弱者への適切な施設と人材の要請である。
汚れの除去、これは環境問題として科学技術の進展とともにつきまとってきた。足尾銅山の公害、四日市の工業地帯での大気汚染公害、水俣病、騒音公害、都市の大気汚染等々絶えず問題となってきた。
アメリカでは、レーチェル・カーソンが、1962年『沈黙の春』という本を出版したが、その中で、DDTなど農薬の汚染がいかに広がっているか、しかもそれが生物に濃縮されて各地でその被害が生じつつあり、最終的には人間にも及んできつつあるということを膨大な資料を駆使して述べたため、世界的にこの本が読まれ、知られるようになった。
アメリカのケネディ大統領もこれを読んで環境問題に力を入れるようになったほどである。
こうした環境汚染の最大のもの、それらと桁違いの広範な領域に及び、しかもほとんど永久的に人間に悪影響を及ぼし、さらに核兵器という人類破滅の兵器の製造にもつながり、対処の方法がないものが、原発による汚染である。
ここで、人間の精神的な世界、霊的世界の汚れのことを対比的に見てみよう。自然界に科学技術の進展からの汚染が生じる以前から人間の魂の汚れは存在してきた。これも生きているかぎりつづく。そして人類はその汚れ―罪に悩まされてきた。
そのような罪の汚れからいかにして清められるのか、ということが聖書全体の中心的内容となっているのである。そして、その罪の汚れは、キリストが来られたことによって、ただ信じるだけで赦され、清めていただけるという真理が神から与えられた。そして、じっさいにその通りとなり、二千年の間、そうして赦しと清めを受けてきた人たちが無数に全世界に広がってきた。
原発はさらに世界の各地、とくに発達途上国で増設されていく。それゆえ原発の問題が今後も、世界を悩まし苦しめ続けていくことは確実である。建設のときには多くの反対運動を権力でつぶし、建設後は廃棄物を生み出し続け、テロや戦争による破壊が周囲に壊滅的被害を与えることを恐れつつ運転せねばならない。さらに廃炉となっても果てし無く長い歳月にわたってその地域の人間に害悪を与え続けることになる。
こうした永遠につづく放射能との戦いにうち勝つ唯一の力は、神の力である。放射能は体を壊し、ガンなどいろいろの病気を起こす。最終的には死へと結びつく。
それゆえに、死にうち勝つ力のみが、放射能の永久的な悪影響から逃れる道である。そしてそれこそは、キリストの復活の力、死にうち勝つ力に他ならない。
私たちもこのキリストの力を与えられつつ、この現実の問題に対処していかねばならないと思う。
ことば
(349)自分を他のすべての人たちの下に置いても、あなたにとって何の害もない。しかし、一人の上にでも自分自身を置くことは、大きな害になる。
平安は、謙遜な人と共にある。しかし、傲慢な者の心には、ねたみや絶えざる怒りがある。(「キリストに倣いて」1の7 トマス・ア・ケンピス著)
It is no harm to you if you place yourself below all others; but
it is great harm if you place yourself above even one. Peace is ever
with the humble man, but in the heart of the proud there is envy and continual
anger.
・使徒パウロも次のように書いている。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(Ⅰテモテ 1の15)
パウロは二千年という長い歳月を通して、最大のはたらきをした使徒と言える。彼が書いたものが聖書に数多く収録され、測り知れない影響を及ぼしてきたからである。それはパウロ個人の思想とかでなく、神、あるいはキリストからの直接の啓示であったからそのように大いなる力を持って歴史を通じてはたらいてきたのであった。それほど神に引き上げられた人であったが、その彼が、自分は罪人の最たる者だという実感を持っていたのである。
このことは、次の言葉にもうかがえる。
…実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。(Ⅰコリント 15の9)
主イエスは、「ああ、幸いだ、心の貧しい人は。なぜなら神の国はその人たちのものであるからだ」といわれた。パウロのような実感、意識こそ、そのような「心貧しき人」の心の状態である。そしてイエスの約束通り、パウロは神の国を与えられた。そのことは、聖霊をだれよりも豊かに受け、それによって神からの啓示を後のいかなる人よりも多く受けることになったことに表れている。
(350)あなたは今日、死のうとしているかのように、すべての行いや思いにおいて、身を処するべきである。
自分の死の時をいつも目の前にたもち、毎日死ぬ心構えを怠らない者は祝福された人である。(同1の23)
You ought to order yourself in every deed and thought, as if you are to
die this day.
Blessed is the man who has the hour of his death always before his eyes,
and daily prepares himself to die.
・主イエスはいつも十字架の死を見つめて歩んでおられた。使徒たちも、世の終わりは間近だという切迫感をもって生きていた。死は間近だ、残された時間は少ないということを本当に真剣に見つめるとき、おのずから小さなことは念頭から去り、死の彼方の復活、神の国を見つめることにつながる。そして主イエスが言われたこと、「私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことがない。」(ヨハネ11の25~26)という真理をより深く実感しつつ生きることになる。
休憩室
〇宵の明星
しばらく前から、宵の明星と言われる金星がみえています。 夕方6時頃には、西南西の空低く、強い輝きを見せているのですぐにわかります。金星の左上近くには、土星も見ることができます。
天候不順な日々が多く、星空に接することが少ない最近でしたが、ようやく秋の澄んだ空が広がる季節となっています。
虫の音―とくにマツムシとエンマコオロギのコーラスが響いて、人間があの羽をこすり合わせても決してだすことのできない澄んだ音色が流れています。
こうした星の輝きや虫の声―それらは人間の手が全くかかわっていないゆえに、それらを創造された神のお心が伝わってくる思いがします。
お知らせ
〇新しい「祈りの友」の初めての合同集会
・日時…9月23日(秋分の日)午前11時~16時
・場所…徳島聖書キリスト集会場
徳島市南田宮1丁目1の47
・会費…500円(弁当代金)
・問い合わせと申込は、 吉村孝雄まで。(電話 050-1163-4962)
・なお、多くの会員の方々は、遠距離、高齢や病気などで参加できないと思われますが、その場合には、何らかの近況報告、そして参加していたら祈るであろうことを書いて吉村までお送りください。当日に参加者の方々に読み上げ、ともに「祈りの友」につながる主にある友であることを覚えたいと思います。
〇「野の花」原稿募集
「野の花」文集は、信仰をともにするものたちが、1年の間に心に残ったことを分かち合い、信仰を強め、キリストのからだとして横のつながりを深めつつ、それらの文章が、未信仰の人たちにも用いられ、福音伝道につながるようにとの目的で発行されています。
毎年出しています「野の花」文集の原稿を今年からは、締切りを10月末とすることになりました。 それで、次の要領で原稿を送って下さい。
1、内容…主日礼拝や特別集会、あるいは家庭集会などで心に残っている学びについて。
振り返って、心にあるみ言葉、讃美歌の歌詞だけでもよいです。
また、日々の歩みの中から、生活のなかでの経験、キリスト者としての意見、考え、詩など。
書物や音楽などの感想も可。また、イラスト、カットなども可です。
2、長さ…2000字以内。それを越える場合には、編集者の判断で短縮、カットしますので御了承ください。なるべく多くの方々の原稿を取り入れたいからです
3、文集発行の目的…この「野の花」は、この世の自由な文集ではなく、キリストの福音を伝えるための一つの方法として発行していますので、その方針にそぐわない内容のものは掲載できないことになります。原稿の採否は編集者の責任で行います。
4、他の印刷物や刊行物に書いた原稿は、「野の花」には投稿しないでください。
5、原稿の送付方法…パソコンで作成したテキストファイルをメールの添付ファイルで送っていただくのが、編集の負担が最も少なくなるのでこれができる方はそのようにしてください。(縦書きとかワードで作成する必要はなく、最も単純なエディタ―メモ帳で作成するとテキストファイルで保存されます。ワードで作成したファイルが送られますと、こちらでそれを読みとってテキストファイルに変更する手間がかかるからです。)
インターネットを使っていないが、ワープロでの印刷ができるかたは、その印刷されたものを送付ください。(その場合は当方でスキャナで読みとってテキストファイルの原稿とします。)
6、パソコン、ワープロなどいずれも使っていない方々は、できれば原稿用紙に、手許にない場合は、コピー用紙、便箋などに書いていただいても結構です。その場合は、できるだけ楷書に近い書き方で書いてください。そうでないと、それを入力する人が、判読できないことがしばしばあるからです。
7、原稿は、FAXでは送付しないで、郵送で送ってください。FAXでは、もとの文字が薄かったり、FAX受信のときに鮮明でなかったりして、その不明なところを問い合わせたり、余計な手間がいろいろとかかるからです。
8、原稿締切りは 10月末です。
〇主日礼拝の聖書講話を聞く―ホームページのリニューアル
ホームページ担当の数度勝茂さんの御愛労によってホームページに、毎月の「いのちの水」誌や、集会発行の各種印刷物、聖書講話などがじっさいに読み、かつ聞くことができるようになされています。
今回、一部がリニューアルされて、毎週の日曜日の聖書講話が、だいたいその翌日か2日後にはホームページから聞けるようになりました。
従来から、毎月初旬には希望者に送られている集会CDによって、主日礼拝の講話は聞くことができていましたが、今回の変更によってその集会CDを購入していない方々にも自由に主日礼拝の聖書講話をその翌日には聞くことができます。関心ある方は、聞いてみてください。
録音は、デジタル録音でなされており、音声はクリアです。
〇映画「Amazing Grace(アメイジング・グレイス)」のDVDの紹介。
このDVDは、インターネットなどで購入ができます。価格は、3200円程度からあります。
2007年に、イギリスの奴隷貿易廃止200年を記念して、イギリスで製作、公開されたものです。 タイトルのアメイジング・グレイスというのを見て、あの有名な讃美歌の映画かと思うひとも多いと思いますが、そうではなく、イギリスの奴隷貿易廃止のために、キリスト教信仰の情熱をもって戦ってついに奴隷制度、奴隷貿易を廃止に導いた政治家、ウィルバーフォース(William Wilberforce)の伝記映画です。彼を信仰的に導き、政治家として奴隷貿易廃止に取り組むか、それとも聖職者として生きるかという岐路にあるとき、政治家としての天分を用いてキリスト教精神をもってやるようにと助言したのが、今月号に紹介したアメイジング・グレイスの作詞者、ジョン・ニュートンでした。