いのちの水 二〇一四 年 十二月号 六四六号
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・2014年12月 第 646号 内容・もくじ
クリスマスと義の太陽 1 | 最初の殉教者に与えられていたもの | 驚異の感性が開いた道― レーチェル・カーソン |
私たちが受け継ぐもの | ことば | 休憩室 |
編集だより | お知らせ |
旧約聖書の最後の書の、その終りの部分に、心に残る言葉がある。
「義の太陽が昇る」という短い言葉である。
現代の状況を知るにつけても、日が沈んでいくような状況だと思わされることが多い。
しかし、そうした心も重くなっていくような現状にあって、「いや、そうでない、義の太陽が昇っているのだ」との宣言がなされている。
この言葉が語られたのは、いまから2500年近くも昔であったが、その当時にもまた、現代とは異なるさまざまの困難が取り巻いていたのであって、この預言者は、そうしたただなかにこの言葉を神から啓示されたのであった。
それは神の言葉であったゆえに、たんに特定の国のきまった時代にだけあてはまるのではなかった。
そしてこのような啓示は、人間の思考、学問、あるいは科学的実験などでは決して生まれない確信である。これは、その霊的事実をはっきりと見た人の言葉なのである。そのように見ることができたのは、神からの賜物であった。
書物の最初と最後には、重要な意味が込められた文、言葉が置かれることが多い。
聖書において、その最初に置かれた言葉の重要性は広く知られている。「光あれ!」ということである。
そしてこれは、神を信じないという人でも、何か心に残る不思議な力がある。
闇と混沌は至るところでみられる。それにもかかわらず、そこに光が存在するようになるのだ、ということは希望に満ちた宣言である。
しかし、旧約聖書の最後に置かれた言葉は、それに比べるとはるかに注目されることは少ないが、これも私たちにとって特別な重要性を持っている。
見よ、その日が来る。
高慢な者、悪を行なう者は
すべてわらのようになる。…
しかし、わが名をおそれ敬うあなた方には
義の太陽が昇る。
その翼にはいやす力がある。 (マラキ書3章より)
「見よ、その日を!」 この呼びかけはとくに、聖書の預言書に一貫してあらわれる。闇のなかに、光あれ!と言われた神は、同時に、その光を見よ!との強い呼びかけをも私たちにも与え続けているのである。
見よ、義の太陽を!
その光を!
神を敬い畏れるものに昇っているではないか…。
これは、いかなる攻撃や人間の悪意や腐敗によってもその昇るのを止めることはできない。
じっさい、二千年前に、キリストがこの義の太陽として昇った。そして現在までの二千年という長い間、信じる人たちの心の世界に、たえずその義の太陽であるキリストが昇り、その光を輝かしてきた。
そして「その翼はいやす力」があるという。ここでいう翼とは、光線のことである。義の太陽たるキリストから出される光は、いのちの光であるゆえに、その光を魂に受けるときには、いやしの力をも受けとるからである。
キリストは、地上に現れて以降、たえず翼をもった言葉を語りつづけ、その光をも翼をもったごとくに、全世界のいたるところに投げかけてきたのである。
そしてこの世の終りにおいても、新たにこの義の太陽が現れ、一切の最終的な解決をなされるであろう。それは、この宇宙、世界を創造し、今もささえておられる全能の神の御計画であるからだ。
クリスマスの意義、それはこの義の太陽として生まれたキリストを記念する日である。その霊的な太陽は、いまも私たちの心に昇り、また世界の歴史の最終的な場面においても昇って来る。
そのキリストから新たな力と祝福を受け、それをさらに周囲の人たちに分かつことができるようにと、思いを新たにする日なのである。
キリスト教の歴史には、その信仰のゆえに殺されていった殉教者といわれる人たちが数多くいる。
ステファノという人はそのような殉教者のなかで、キリスト教の歴史上最初の人である。
信仰のゆえに、殺されるという最大の苦しみをも甘んじて受けるというのは、現代の迫害のない日本にあっては、想像をはるかに越えるものがある。
いったい、なにがそのような行動を可能にしたのであろうか。そしてそれはステファノだけでなく、後の二千年にわたる世界のキリスト教伝道の歴史において数知れない人たちが、そのように主のために命を捨てるほどだった。それは何を与えられていたからそのようなことが可能になったのだろうか。
それを聖書に記されているステファノについてみてみたい。
彼は信仰と聖霊に満ちた人であった。(使徒言行録6の5)殺される時でさえ、聖霊に満たされていた。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て…」(使徒七・55)
ここで言われていることは、聖霊に満たされると、イエスのために死ぬことさえも、受け入れることができるようになる。それは信仰を知識として知っているということとは全く別である。学問もなくても、聖霊が与えられると強固な信仰が与えられる。
それゆえに、主イエスは、求めよ、そうすれば与えられる、という約束で何が与えられるのかということについて、最も大切なもの―聖霊が与えられると言われたのであった。
そのことからも、わたしたちが、常に求めるべきはこの聖霊であるし、これだけが、過剰に与えられることもなく、ステファノのように石で打たれて死ぬ直前であっても聖霊はゆたかに与えられて働くというのがわかる。
ステファノは「恵み」と「力」に満ちていた。(使徒言行録6の8)
この力は聖霊によって与えられるものである。真理のために命を捨てるほどの力は聖霊によって与えられる。
力には、腕力、軍事力、能力、体力、学力、経済力などさまざまな力がある。わたしたちはこの世の中で、さまざまな力、悪の力に影響されている。人間にはどうしても愛や真実なことができない。それは人間には罪があり悪の力、悪い霊の力が働いているからである。
それとは全く別の真理の力が存在する。その真理の力を完全に持っていたのが主イエス・キリストであった。主イエスが弟子たちに、人々のなかに遣わすとき、最初に与えた力は、この悪の力を追い出す力であった。
…イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する力(*)をお授けになった。
汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マタイ 10の1)
(*)この原語は、エクスーシア。これは「力、権威、権能」などと訳される。ヨハネによる福音書のはじめの部分で、「…彼(イエス)を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 (ヨハネ1の12 口語訳)」英訳でも、プロテスタントの代表的英訳や、カトリックの重要な訳では、やはり次のように power 力 と訳している。新共同訳のように、権能 といった一般の人たちが使わない言葉で訳されたら、この大切な箇所がなにか心にすっと入ってこないために、この聖句の重要性を通り過ぎてしまうようなことがあれば残念なことである。このように、訳語によって、受ける感じはかなり異なるものになる。
… He gave power to become children of God,(NRS、NJB)
また、「恵み」とは何か。それに関連して、ヨハネの福音書の冒頭の章には次のようにこの言葉が重ねて用いられているのが目を惹く。
…わたしたちは皆、この方(キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネ一の16〜17)
このように、冒頭から、繰り返し「恵み」ということを強調しているのはなぜだろうか。
それは、主イエスの存在それ自体が、「恵み」であるからである。それゆえ、イエスにつながるときその恵みを受け取っていくことができる。恵みと真理は、他のどんな人からでもなく、イエスから与えられる。
恵みとは、さまざまの内容を含んでいるが、そのなかで中心にある意味は、人間の奥深い心の問題(罪)の解決を与えられることである。心はさまざまな良くない思いに引っ張られる。また取り返しのつかない罪もある。しかし、主イエスはそのような弱い心を救ってくださり、罪を赦して清めてくださる、それが最も重要な、主イエスから与えられる恵みである。
聖書における英知(知恵)
ステファノは、真理に敵対しようとする人たちに対して、「知恵と(神の)霊とによって語った」(10節)と記されている。
ここで「知恵」と訳されてい るが、原語のニュアンスと、日本語となっているこの言葉のニュアンスとは、大きく異なる。聖書においては、知恵という訳語でなく、英知(叡智)と訳すべきと言える。(*)
(*)日本語の知恵というと、それは、ごく簡単なことにも使う。こどもが少し大きくなって理解力が増えると、この子は少し知恵がついてきた、とか、正直一点張りの人に向って、もっと知恵をつけてやれ―などと使ったりするがこの場合には少々嘘をついたり要領よくすることを教えてやること、入れ知恵する、といった意味になる。また、お知恵拝借など遊びのなかでも使われるし、じっさい知恵の輪という遊具もある。さらに、知恵がない、といえば、単に工夫が足りないという意味となる。
しかし、ここで言われていることは、そのような些細なこととは根本的に異なるのであって、物事の本質、変ることのない実質を見抜く能力を言う。叡智の 「叡」という漢字に、目が含まれているのは、奥深くまで目のきく力を意味しているからである。
しかし、この漢字は難しいので、英知という漢字で表すことが多い。
大辞典には、次のように説明されている。
「英知・叡智」1 すぐれた知恵。深く物事の道理に通じる才知。
2 哲学で、物事の真実在の理性的、悟性的認識。また、それを獲得しうる力
ギリシャ語では、こうした叡智を表すのには、ソフィア sophia という言葉があり、英語には、wisdom という適切な言葉がある。
しかし、日本語の「知恵」という語は、ごく日常的によいことにも悪しきことにも使われるから、一般的にいえば、この両者は、その意味が大きく異なっていると受けとられるであろう。
例えば、「知恵」の原語のSophia を大学の名称に取り入れた大学がある。
それは、Sophia University である。しかし、この名称を日本語に訳して、それを「知恵大学」としたらどうだろう。何かテレビでのクイズ番組のように聞こえてしまうのではないか。知恵という言葉は深い意味では一般的に使われていないからである。
それゆえ、この英名の大学は、「上(神)よりの叡智を学ぶ」という意味で、上智大学 と日本語名を表している。
ステファノが与えられていたのは、このような意味での英知であった。
英知とは、本当の実在を見抜く力である。そしてこの世界にいかなることがあろうとも消えることのない永遠の実在こそ、聖書で言われている神である。
それゆえに、英知とは、聖書で記されている唯一の神、愛と真実の神をを知っていることにほかならない。
罪の赦しも、この英知がなければわからない。主イエスこそが最も英知に満ちていた方であり、すべてを見抜くことができていた。
それゆえに、このような英知をより深く与えられたいというのは、本来は人間のもっとも深い願いであったと言えるだろう。それゆえに、聖書においても次のよく知られた言葉がある。
「主を畏れることは英知の初め。
無知な者は英知をも諭しをも侮る。」(箴言一・7)
主を畏れること、これこそが英知の出発である。神様が全能であり正義であると信じることが主を畏れることである。正義の神であるから、私たちのことをすべて見抜いておられ、悪しきことを裁く方でもある。裁くということは正義と結びついている。悪をそのまま放置することは正義ではないからである。
人の心には、神の御前には、本当の愛も真実もない。それゆえに、神の裁きには耐えられないので誰もが裁かれてしまう。しかし、主を仰ぎ望めば救われる。そのままでは裁かれるが、仰ぐだけで赦していただける。その絶対的な正義、それとともに、裁きを受けるはずの人間に大いなる赦しを与えてくださるという、人間にはありえない広大な愛を知らされると、いっそう深い敬意をもってあがめるようになる。それが神を畏れる、ということである。
わたしたちもこの世の悪に打ち倒されないためには、聖霊を求めるべきなのだと知らされる。聖霊が与えられることによって、英知と力もその実として与えられるからである。
それは求める真剣さによって確かに与えられていく。ステファノはこのように求めていった中で聖霊と英知、そして力を豊かに与えられ、そこから命をも捨てることができるほどの高みへと引き上げられたのであった。
こうした殉教ということは、あまりにも私たちとかけ離れていると思われるであろう。たしかに日常の小さなことでも動揺したり、より困難な道を神の国のために選び取ることもなかなかできない状態を知っているゆえに、命を捨てるなど、到底考えられないほどの困難なことだと思える。 しかし、ステファノが殉教するほどに豊かに与えられていたもの、それ自体は、現代の私たちにも与えられるものである。
英知や、力、そして主イエスの恵み―罪の赦しを受けるということは、決して我々に無縁のことでなく、日常的に必要なことであり、またいつも主に求め続けていくことのできることである。
そうした意味でごく身近なことであり、その与えられる程度、霊的内容において大きな差はあるものの、本質的には同じものが与えられていく。
求めよ、そうすれば与えられる。―この言葉を主イエスは、万人に向けていわれたのであった。
この地上の人たちが、こうしたものを第一に求めていくように、主よ導いてください―これが私たちの願いであり、祈りである。
環境問題のパイオニア
私たちの周囲をとりまく環境に関する問題、その重要性は、ますます高まる一方である。
近年の最大の環境問題は、原発の大事故から生じた。その危険性は、ほかのいかなるものにも増して、環境を決定的に破壊するために、その原発を事故のまま放置しておけば、その付近には、何十万年も住むことができなくなるほどである。
外見的には、緑の広大な山野がひろがり、自然に満ちみちた地域であるにもかかわらず、その地域全体が、汚染されてしまう。
また、海の生物たちも放射能に汚染され、生物連鎖によって濃縮されていくことが問題となっている。
このような問題に関して、とくに農薬の大量使用が今から、50数年前にアメリカで発行された一冊の本によって厳しくその害悪が指摘され、環境問題の重要性がクローズアップされた。
その本の題名は、「沈黙の春」Silent Spring。著者は、レーチェル・カーソン。(*)
(*)1907〜1964年。アメリカのペンシルバニア州生まれの海洋生物学者、作家。なお、レーチェル Rachel とは、旧約聖書のヤコブの妻ラケル(創世記29章)の英語読みである。
農薬―とくに塩素化合物であるDDT、BHC 、ディルドリンなどが、アメリカでは飛行機や大型機械でおびただしく使用され、小鳥や動物が死にはじめ、さらにいろいろな動物の体内に驚くべき量が濃縮されていくことが、膨大な資料によって明らかにされた。
私はこの書が、1964年に日本語に訳されて数年後、購入して読んだ。私自身が大学で生化学が専攻だったためもあり、化学物質による環境汚染、公害、薬害、生物への影響といったことも、在学中から強い関心があったためであった。
まず驚いたのは、科学に関する書物であり、数多くの資料、研究に基づいた内容であるにもかかわらず、書き方が、文学的であること、挿絵が単なるカットとちがってこの書の内容の重さを示すような描き方であったこと、巻末に添えられた著者が参照した資料の膨大さであった。
そして、当時の化学薬品、農薬の製造メーカーと激しい戦いも生じたというが、数知れない化学者がいたにもかかわらず、このような文学的な女性がこの問題を真正面から取り組み、それを精緻なデータをもとにして主張しているその説得力に強い印象を与えられた。
環境破壊、そこからつながっている人間への悪影響ということより、企業の目先の利益を重視していく、それは当時から現代の原発問題にいたるまで、ずっと続いている。
海へ―預言的な一つの詩
そのような環境問題の先駆者となったレーチェル・カーソンが、若き日に自ら方向づけられたと言っている短い詩がある。
海へ向って、ごうごうと吹いていく
さあ、私も行こう (テニソン)
For the mighty wind arises,
roaring seaward, and I go (Tennyson (*))
(*)テニソン Tennyson 1809〜1892 イギリスの代表的詩人の一人、桂冠詩人。日本語訳の単行本で、二百頁ほどにもなる長詩「In Memoriam」は有名。その詩の冒頭の Strong Son of God immortal Love (強き 神の子、不滅の愛)という言葉は、讃美歌275にも取り入れられている。ここにあげた詩は、ロックスレー・ホール(Lockesley Hall)という詩の最後の行。
この短い部分は、大方の人にとっては何の気持ちの変化も呼び起こさないかもしれない。しかし、カーソンは、この短い詩句によって人生の方向をはっきりと示された。
詩の作者のテニソンにおいても、この一節を200行ほどのかなり長いこの詩の最後に置いたというところにも、意味がある。この言葉に詩人の思いを込めたのである。
それが、カーソンの心に響いた。共鳴したのである。
言い換えると、渾身の力を込めたもの、深い祈りによって書いたもの、人間を超えた力にうながされて書いたものは、その人の魂からいわば翼をもって、ほかのひとたち、地域や時代を越えて飛び立っていく。
それは、古典といわれているかずかずの文学や哲学的作品のことを考えるとわかる。
そしてとりわけ、それらのうち群を抜いて無数の地域や人間へと時代や環境を越えて広がっていったのが聖書である。
カーソンも母親を通してその聖書の影響を受けた一人であった。
カーソンは、後になって、次のように語った。
「わたしは、あの詩の数行が、わたしにあたえてくれた強烈な感動を、いまでも思いだします。
それは、わたしの行く先が、まだ見ぬ海へと続いていること、そしてわたしの運命が海に結びついていることを教えてくれたのでした。」
自分の運命が、海に結びついている―この言葉だけでは何のことか分からない。それは、彼女がこの後、海に深く接することになり、そこから海洋生物の深い研究がはじまり、その延長上に、環境問題が浮かびあがってきたのであった。
そして、とくに当時のすさまじい早さで進みつつあった農薬の大量利用ということに、真正面からぶつかっていくことになる。
事実、この詩に触れたときは、アメリカの内陸部に生まれたゆえに、まだ海を見たことのなかったカーソンであったが、「大いなる風が起こり、ごうごうと鳴り響きつつ海へ吹いていく」―この詩の最後に置かれたこの短い言葉は、そのまま彼女が、ある大きな力に押し出されて、海のほうに引き寄せられていくのを暗示し、この詩が彼女のその後のはたらきを力強く指し示すものとなった。
しかし、それを彼女は、まだそれが具体的にどんなふうに関係していくのかは全く分からなかったが、はっきりと予感したのだった。
ある出来事が、その後の長い生涯を予告する、それは主イエスのことを思い起こす。イエスが生まれたのは聖霊によって生まれた。そしてそれは聖霊の驚くべき力を示すとともに、後になってイエスご自身が人々に聖霊を与え、それによってあらたに生まれるという道を指し示すものであった。
イエスの前に現れた洗礼のヨハネが、自分の後から来るお方は、水によってでなく、聖霊によって洗礼を授ける―聖霊そのものを与える存在であると言った。
イエスの使命、それは聖霊を与えることであるほどに重要なことになったが、そのことを暗示することにもなった。
カーソンが感じたのは、海へと向かわせる力強い―霊的な風であった。
すでに十一歳のときに、彼女が雑誌に投稿した作品が続けて賞を受けたほど、文学的な才能にめぐまれていた。
彼女は、大学に進学したがその大学では毎朝礼拝堂において礼拝があり、日曜日には近くの教会に行って、信仰の心、聖書の真理にも触れていた。
そうした状況にあって、他方では自然科学、とくに生物学への関心が深まっていった。
研究者、著作家としてのカーソン
その道を開いたのは、海 だった。彼女は、「海の中」という作品を書き上げ、全国的な雑誌に投稿して、多くの読者に歓迎された。
その本は、単なる生物学の知識の本でなく、カーソンの詩情と感性によって書かれたという点で、他者にはまねのできない内容となっていた。単なる生物学の本ならば、いくらでもあるが、そうした文学的、詩的感性と表現を伴った科学書というのは、稀であるからだ。
それがきっかけとなって、次には、海そのものを主役として「潮風のもとで」という本を書き上げた。そしてさらに、世界大戦を経て「私たちのまわりの海」を出版。これは、2年ちかくもベストセラーリストにあり、30カ国以上の言語に翻訳されたという。さらに、4年後には「海辺」という著作を完成し、これもまたベストセラーとなった。
このように、海洋科学者による、海に関する三部作がいずれもベストセラーとなるというかつてない状況が生まれた。
世界的に大きな影響をもたらすことになった「沈黙の春」という作品は、こうした海とその生物に関する深い専門的な研究と海やまわりの自然に直接深く交わるという経験、さらには、それらを詩的、文学的な表現をもって多くのひとたちに伝えることで、名声を博するという背景のもとで生まれたのであった。
詩的、文学的才能のある人は多いが、政治や大企業が公然とやっていることに真っ向から批判をするという人はごく少ない。また科学者も同様で、科学研究のためには、政府や大企業からの援助といったものが多くなされるために、政府や企業が認めていることを批判するということもまたごく一部の人によってなされるだけである。
日本の代表的科学者といえるノーベル受賞者は、多くいるが、その科学者としての立場から原発や政府のまちがったやり方を明確に批判する人は、日本では皆無に等しい状況であった。
わずかに、アメリカに50年も住んでいる根岸英一氏(2011年ノーベル化学賞受賞)だけが、原発は絶対止めるべきだと明言している。(*)
彼がこのようにはっきりと脱原発を主張できたのは、彼自身が述べているように、日本の政府や企業と関係を持っていないからである。もし彼が日本に住んでいたら、おそらくほかのノーベル受賞者と同様に、原発に関しては沈黙したのでないかと思われる。
(*)原発に頼ることを、この先はやめるべきです。…放射性物質漏れのようなことがあった場合に、私たちがしなければならない心配事が多すぎます。しかも原発がある限りそれから逃れることができない。それだけ人を悩ませる原発に頼るのはおかしい。…
今より原発をふやすことは絶対に反対します。結果的に何十年かかるかわかりませんが、原発は減らしていくべきでしょう。… 原子力を使うときの一番の問題は、大きなリスクがあるということ。いままでは、これといった産業がない町の住民が言いくるめられて、原発の建設を容認させられてきました…。電力会社は、1回、2回は説得に失敗しても、3回目には認めさせて原発を作ってきたのではないか。…
原発ではどう処理しても高レベル放射性廃棄物が残ってしまう。にもかかわらずそのまま動かし続けていることもおかしい。」
それだけではない。以下のように、東京大学の原子力関係の学者のあり方にも厳しい批判を浴びせている。
「東大の教授は、東京電力に買収されています。そうすると公平にものを言えなくなる。だから、絶対に買収されてはいけません。私は買収されていないから、どこでも何に対しても自由に発言できるのです。」(講談社「週刊現代」2011年5月21日号)
カーソンは、農薬企業やそれに味方する学者たちの反対論陣にも屈することがなかった。そして次第に彼女の見解を受け入れるひとたちが増加し、なかでも、当時のケネディ大統領が強い関心を示し、調査を命じたがその結果、DDTの使用が全面的に禁止されることとなり、以後、科学技術と環境問題が世界的関心事へとなっていくことにつながった。
彼女にとって、今日の最重要問題の一つとしての環境問題に導かれることを暗示したのが、最初に書いたように、テニソンの短い詩であった。それが思いがけない進展と導きを預言するものとなったのである。
さまざまのこの世の激しい論争や非難を浴びつつも、その示す方向へとまっすぐ進んでいくこと―それはこの短い象徴的な詩がキーワードとなった。
The Sense of Wonder(驚異を感じる感性)
そして、さらにそれをさかのぼると、母親が、幼い彼女に深い影響を与えている。母親は、牧師の娘であり、かつ自らも神学校を卒業して牧師への道を志したような女性であり(じっさいには牧師にはならなかったが)、そこからまわりの自然も、神の被造物として神の性質が刻まれていることを知らせることになった。
近くの森を母はレーチェルとともに歩いて野の花や森の動物たちの名前を教え、蜜蜂のはたらきを観察し、北斗七星や天の川を観察することで、星空の、宇宙の神秘をも感じる心を育成しようとした。
さらに、母親は聖書物語や自然のなかで暮らす孤児の物語や海に関する詩なども、読み聞かせた。
カーソンのこうした環境問題への預言者的洞察は、幼いころにこの母親によって呼び覚まされた身近な自然の動植物や空、海、星などへの強い関心と驚きの感性とつながっている。
「The Sense of Wonder」という本が、彼女の死の翌年出版された。 この題名の意味は、「(自然のさまざまのものに対して、その奥深さ、神秘、美しさ、清さ、力等々の驚異を感じ取る感性、能力」ということである。これが彼女の最後の作品となった。
ここには、まず、考えるより先に、驚きを感じるということの重要性が示されている。このことは、古くアリストテレスが、「真理愛(哲学)は、驚異にはじまる」といったのも、身近なことに驚き、感動するこのことの重要性からであるが、それと共通したものがある。
「驚異を持つことによって人間は英知(真理)を愛しはじめたのである。
その初めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念をいだき、それからしだいに少しずつ進んではるかに大きな事象についても驚き、それはなぜだろうかという疑問をいだくようになったのである。」(『形而上学』第一巻2章、岩波文庫28頁)
そして、アリストテレスは、これに続いて、身近な自然現象だけでなく、人間が古くから伝えてきた伝承(*)の中に不思議な驚くべきことがその内容となっているから、真理愛はそうした方面にも働くと述べている。
(*)ギリシャ語のミュートス(mythos)。 このギリシャ語は、もともとの意味は、行動に対する言葉として口から語られたこと、そこから会話、物語、伝説、伝承、神話といったいろいろな意味で使われるようになった。ホメロスの大作、イーリアスなどもこれに含まれる。
聖書を読む人々は、そうした古くからの伝承のうちで、最も偉大な内容に触れることであり、そこには、絶えざる驚異が満ちているのを見いだすのである。
すべてを愛と真実をもって創造されたのだ、あるいは暗黒と空虚と混沌―これはどうしょうもない絶望的状況を暗示する―それは、人間がいかにしても変えることのできない状況だった―そこに、神が光あれ!とのひと言で、じっさいに光が存在するようになった。
これは、じつに驚くべきことである。これは、神のことばの神秘であり、また力であり、永遠的真理であり、まことに、それ以上の驚異はないと言える。
しかし、人間は、カーソンが述べているような、身近な動物、昆虫、植物や雨や雪、川のながれ等々に驚異を感じるのでなく、またそこに強い惹きつけるものを感じるのでなく、権力や、お金、目に見えるさまざまのものに驚きを感じてしまうのである。
そして、それらを獲得しようとして争い、妬み、また憎しみが生じる。
他方、神の創造された自然の美や力、静けさや清い姿に驚き、惹きつけられるときには、私たちは他者を憎んだりする気持ちはおのずと消えていく。
同じ驚きといっても何という大きな違いだろう。
歴史上で最も大いなる驚異とは何か、それは神が人という限界あるものになられたということである。そして死せるものが復活すること、また、私たちの人間のもっとも奥深い罪の問題がキリストの十字架の死を私たちのためと信じるだけで赦され、解決されるということ、この世界は最終的には新たな天地と変えられるということ…等々である。
自然界のさまざまの事物に直接に接してその繊細さや、美、驚くべき能力、生存への本能―等々に驚異を持つことは、現代では、誰にでもできるとは言い難い状況になってしまった。
現代の大都会は、そうしたものをほとんど奪い去ってしまった。
それは、人間全体としてカーソンが述べているような、驚異を感じる感性が育つ機会が次々と奪われていきつつあるのである。
それでも、そうした大都会以外のまだ田園や森林が近くにある者は―とくに日本ではまだまだ少し郊外に行けば豊富にある―神が与えているこの無限の多様な自然の美や精密なつくり、その音楽等々に触れることができる。
こうした神の直接の被造物の大いなる神秘に触れるときには、人間がつくったものはまるで色あせて来る。
現代のこどもたち、そして大人たちも、そうした自然のはかりしれない深さ、高さ、広さ、味わいを知らずに育つために、人間の造った巨大な娯楽施設やアニメといった人間の考えの枠内のものでしかないものに引き寄せられてしまう。
しかし、悪しきアニメや漫画の類は膨大なものがあり、そのほうが圧倒的に多い。自然に関しての、驚異の感性(Sense of Wonder)を失ったものは、そうした架空のものに動かされる。
そうした傾向は、また悪しき人間の造ったものにも大いに動かされていく危険性がある。
カーソンはすでにそうしたことに警告を発している。
カーソンは、生涯の最後に書いたのは、次のことであった。
「…こどもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激に満ちている。
残念なことに私たちの多くは、大人になる前に、澄みきった洞察力や美しいもの、畏敬すべきものへの直感力を鈍らせ、あるいは全く失ってしまう。」
そう述べて、世界のこどもたちに、生涯消えることのない=神秘や不思議に目を見はる感性が授かるように、と願っている。
そしてこういう感性があれば、「大人になって襲って来る倦怠感や幻滅、自然という力の源泉から遠ざかってしまうこと、またつまらない人工的なものに夢中になることなどから守ってくれる。」と書いている。
彼女が生まれたのは、今から100年余り前であり、まだ人工的な―コンピュータを用いるような遊び、アニメというのは出現してはいなかった。しかし、科学技術の発達によってさまざまの人工的な娯楽施設や華麗な装飾等々は次々と現れてきていた時代であった。
そこから、自然への驚異の心がなければ、そうした人工的なものにこどもたちが惹きつけられ、本当の魂の幸いから引き離されていくであろうことを予感していたのである。
そして、現代に生きる私たちにとって、自然はますます失われつつある。
聖書の世界に関する驚異の感性
だが、すでに触れたもう一つの膨大な驚異の源泉―数千年前からの神のことばが、結集され、伝えられてきたものとしての聖書がある。
この源泉は、いかに科学技術が進むことがあって、自然が破壊されようとも、また政治や経済の状況などが大きく変化しようとも、こわされることもなく、変質することがない。
主イエスが、野の花を見よ、といわれたのは、そこに神の大いなる御手とその愛を直感できる世界があるからだった。野の花のなかに、神の愛を直感する、Sense of Wonder を 豊かに持っておられたからであった。
また、すでに旧約聖書の時代から、現実の政治状況においては民は滅び、遠い国々に捕囚となり、離散していた状況があり、そこからようやく帰国してもなお混乱は続く―そのようなどこからみても渇ききった世界にあっても、なおそこに、深い魂の驚異をもって見つめた人間がいた。
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、
野ばらの花を一面に咲かせよ。
花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。…
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。…
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。(イザヤ書35章より)
主のわざを啓示によって見る恵みを与えられた者は、見える世界がいかに砂漠的なものばかりであり、社会状況も、混乱と腐敗と悲しみが満ちていてもなお、そこに大いなる驚異をもって霊的な啓示を見るという恵みが与えられるのがわかる。
たとえ、驚異への感性(Sense of Wonder)をわずかしか持っていなかったもの、あるいはすでにこの世のさまざまのことによって喪失した者であっても、新しく与えられるということが約束されている。(ヨハネ3の7、Uコリント5の17、エゼキエル書36の26)
しかも、そうした霊的なことに驚き、その深さを直感する感性は、生まれながらの感性を大きく越えたものへと成長していく。生まれながらの感性は、自然がないところでは、育ちにくいし、枯れていく。しかし、霊的な驚異の感性は、たとえ自然のないところであっても、病室の狭い空間や目も見えず、あるいは歩くこともできない人であっても、とぎすまされたものへと成長していくことができる。
神の言葉、聖書はそうした無限の驚異の感性を育てる内容で満ちている。光あれ! そのひと言でじっさいにその人の魂に光を受けたものは、生涯にわたってその驚異の感性は持続するであろう。しかも、それは求めるだけで、いかなる環境にあろうとも与えられるし、門をたたけばさらに次々と開かれていくからである。
私たちはすべて何かを受け継いでいる。体の特性、また精神的な特徴、その能力等々もまた、はるか昔から受け継いだものである。その受け継いでいくものが遺伝子と言われ、近年になってその遺伝子と言われていたものの実態がDNA(*)という化学物質であることも判明した。
(*)デオキシリボ核酸 Deoxyribo Nucleic Acid の略。
日本の民族は、さかのぼっていくと、アイヌ系、朝鮮半島からの渡来人、中国の民族の一部、さらに、北方の騎馬民族の系統など、さまざまの地方から流入してきた人たちが数万年という長い歳月をとおして混合したものであって、単一の大和民族などというものではない。
このように、私たちははるかな昔から続いてきたさまざまの遺伝子を受け継いでいる。
この現在の日本の国土も受け継いできた。
私たちの言葉、習慣、宗教などもみな古代から受け継いできた。
このように人間や動物、そして植物―カビ、キノコ、細菌等々にいたるまで、すべてはるかな過去からその形質を受け継いできた。
私たちが学校教育で学ぶさまざまの教科の内容も、また、私たちが考えたり、信じているようなこともみな、過去の人たちが見いだし、研究してきたり、書いてきたことを受け継いでいるのである。
ゲーテは多方面にわたる天才であって、単に膨大な詩を書いた詩人というだけでない。「ウィルヘルム・マイスター」のような、日本語訳でも上下2巻にわたる大長編を書いた小説家で文学者というだけでなく、自然科学研究も手がけ、政治家でもあった。彼は独創的な発想をする思想家でもあったが、その彼は独創性について次のように書いている。
…独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味しているのか。
われわれが、生まれ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響をあたえはじめ、死ぬまでそれがつづくのだ。
一体われわれ自身のものとよぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲のほかにあるだろうか! 私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙(こうむ)っているものの名をひとつひとつあげれば、後に残るものはいくらもあるまい。(ゲーテ著「エッカーマンとの対話」より 岩波文庫。)
これは当然のことだと言える。
運動能力や精神的気質、能力といったものだけでなく、私たちの受けた教育、芸術、さまざまの学問等々も、私たちの周囲にあるさまざまの物―机や鉛筆、家具等々すべてそうした内容や技術は昔から受け継いできたものを発展させ、付け加えていったものである。
また世界の民族がそれぞれにもっている宗教もまたそうした過去の時代から受け継いできた。
このようにみてくると、何でも私たち人間に関すること、社会や自然の環境などもみなずっと以前から受け継いだものばかりのように見える。
しかし、このようななかで、人類の歴史上で突然に与えられ、そこから受け継がれていったものもある。動植物においてそれは突然変異として知られている。
しかし、霊的な世界においてもそれがある。それが唯一の神がおられ、万物を創造し、しかもその神は人間にとって最も大切な愛や真実を持っておられるというのである。
そのような神が人間に働きかけて、そのことが特定の人間に与えられ、それが次々と受け継がれていった。それが、唯一の神を信じる信仰である。
それがアブラハムに与えられて以来、ずっとその後のヤコブ、そこから広がった部族へとひろがっていった。
イスラエルの人々は、カナンの地を受け継ぐ者と約束された。なぜ、単に与える、でなく「受け継ぐ」といったのか。
与えると言うとき、それはその人限りということである。受け継ぐというのは代々受けるものが続くということを意味する。
その受け継ぐということは、聖書の最初の書である創世記においてすでに見られる。
…主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える。」(創世記12の7)
これは、単にアブラハムという個人だけに与えるというのでなく、その子孫にまでずっと受け継がせるという意味なのである。
そのことは、すぐあとに次のようにして再度言われている。
…ロトがアブラムと別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与える。
あなたの子孫を大地の砂粒のように多くする。(創世記13の14〜16より)
さらにモーセによってエジプトの奴隷状態で滅ぼされようとしていた状況から導き出された。そうした過程においても、モーセは、羊飼いをしているときにも、神はモーセに語りかけた。そうした語りかけも神の言葉として聖書に記されて受け継がれていく。
そして、神の名(神の本質)は、「在りて在る者」ということ、「私は必ずあなたと共にいる。」というような神の言葉を次々と受け、それを支えとし力としてモーセは歩んでいった。
そしてそのモーセは、シナイ山において十戒と言われる永遠的、かつ普遍的な、神からの直接の啓示を受けた。そしてその十戒を中心としつつさらに、神の言葉がモーセに与えられて聖書として書き留められ、後の時代へと受け継がれていくことになった。
そしてそれ以後の長い歴史においても、神の言葉は、いわば一部の人たち―神の民の霊的なDNAとなって、受け継がれていった。
しかし、神の民がその大切な神の言葉を無視し、権力や頼ることのできない人間が作った神でないもの(偶像)に頼る状況となり、神のたびかさなる警告やさばきにもかかわらず、神への方向転換をしようとしなかった。
そのために、神は特別な人を呼び出し、神の言葉をゆだね、預言者とした。彼等もまたそのみ言葉を魂の深みにおいて受け取り、その精神を命がけで守り、語った。そして人々のなかには、その預言者が語った神の言葉をしっかりと受けとって伝えていくものもあった。
このようにして預言者の命がかかっている神の言葉は、つぎの世代へと受け継がれていった。神の民であった北部イスラエルはその背信によって滅び、残った南部のユダの国もまた、外部からの攻撃によって滅びてしまった。
そして多くの民は遠い現在のイラクのユーフラテス川の下流のバビロンまで連れ去られていった。
しかし、彼らは、そこにおいても、唯一の神への信仰とそこに与えられた神の言葉を受け継いでいった。
旧約聖書のはじめの部分では、神の民が受け継ぐものは、じっさいのカナン(現在のパレスチナ地方)の土地であった。
しかし、そのときでも、祭司の民(レビ人)とされた部族の人たちだけは、受け継ぐべき土地はなく、神ご自身が祭司たちの受け継ぐべき割り当てのもの(嗣業)であった。
…それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。(申命記 10の9)
このことは、モーセが神から受けた言葉だとして記されているが、それ以外にも、次のように詩篇でもみられる。
…主は私に与えられた分です。
み言葉を守ると申します。 (詩篇119の57)
与えられた分とは、分け前ということである。神から与えられるものは、土地であると大多数のひとたちが考えていた中にあって、この詩の作者は、とくに祭司でもなかったが、神こそが自分に与えられた分け前、分であると示されていた。
ほかの土地、財産、あるいは兄弟姉妹といった親族などもたとえいなくとも、神ご自身を自分に与えてくださったという大きな確信があった。
それゆえに、神の言葉を守っていくことを御前に約束する心が自然に伴ったのである。
…主は私に与えられた分、私の杯。(詩篇16の5)
私が飲むべき霊的な杯に満たしてくださるのは、神ご自身である。神の本質たる霊的な力や喜び、真実を私の杯に満たして飲ませてくださる、という特別な恵みをこの詩の作者は実感していたのである。
このように、イスラエルの人たちは、それぞれの部族が土地を神から与えられたもの(嗣業)として受け継いでいくことになったが、祭司の部族だけは、土地は与えられず、神ご自身を受け継いでいくということになった。
このように、目に見える土地や財産、あるいは現代の私たちがすぐに連想するような遺伝子―能力や性格等々でもなく、目には見えないもの「神」を受け継ぐという驚くべき発想がすでに、一部の人たちに啓示され、それが数千年も昔の書である旧約聖書に記されている。
そしてこのことが、後のキリストの時代になって、キリスト者が受け継ぐものは、「神の国」であるというように高められ、求める者はだれにでも与えられると約束され、広く世界に広がっていったのである。
…ああ、幸いだ。心貧しき者たち。なぜなら、神の国はその人たちのものだからである。 (マタイ5の3)
心貧しき者とは、自分がどうしても神の愛や真実にふさわしい生き方ができない、そうした良きことを願っていてもできないという心の致命的な限界(罪)を知っている者のことである。
そこから神に求めるときには、神の国がそのひとたちに与えられる、と約束されている。
神の国とは、神の御支配のうちにあるもの一切を含むのであって、神がもっておられる愛や真実、正義、永遠の命など、あらゆる良きことである。
そのようなものがただ、自分の心の弱さ、限界(罪)を実感しているというだけで、求めるなら与えられるという。最もよきものは、生まれつきの能力や血筋、社会的地位―等々はいっさい関係していないのである。
この山上の教えにおいて、同じような意味を持つことが、すぐあとの5節にも繰り返されている。
それは、すでに述べた神の国を受け継ぐということが、詩篇の引用を用いて言われているのである。
…ああ、幸いだ。柔和な人たち。その人たちは地を受け継ぐ。 (マタイ5の5)
これは、詩篇の37篇の11節の前半のギリシャ語訳をそのまま取り入れたものである。
福音書においては、イエスの教えとして最もよく読まれているであろう山上の教えの中で繰り返し記されているということは、このことがとくに重要だからである。
しかし、「地を」受け継ぐ という表現は、決して現代の私たちにそのまますんなりと入って来る表現ではない。
しかも、柔和な人が地を受け継ぐ、といわれても、現実とはまるで違うではないか、という気持ちを抱く人が多いはずである。土地を受け継ぐのは、以前なら長男であり、またその後は、政治家や、権力者や資産家といったひとたちが、多くの土地を所有して受け継いでいくではないか、という疑問が生じる。
しかし、ここでは、この引用のもとになっている旧約聖書の箇所を参照しなければならない。
それは、詩篇37篇にある。
…しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。(詩篇37の11、口語訳)
だが、この箇所は、別の訳では、「貧しい人は地を継ぎ、…」と訳されている。(新共同訳、新改訳など)
日本語では、柔和な人と、貧しい人 では意味がまったく異なる。どうしてこのように訳語の大きな差が生じたのか。
それは、新約聖書の旧約聖書の引用は、原典のヘブル語聖書でなく、ギリシャ語に訳されたものを使っているからである。
この箇所の元の詩篇37の11節の「柔和」とか「貧しい」と訳された箇所では、その原語(ヘブル語)では、アナーウィーム という言葉で これが、ギリシャ語に訳されたとき、柔和を意味する プラユース という語で訳された。それを新約聖書を書いた人は、そのまま引用したのである。
柔和とは、優しく穏やかという意味しか持っていないが、、この言葉の原語は、そのような単純なものではない。
この原語の意味として、ヘブル語辞書では、次のような言葉で説明しているし、じっさいに外国の聖書(*)では次のような多様な訳語が用いられている。
oppressed ,poor, afflicted,humble, meek
(*)英訳…・the meek (KJV) 柔和な人々
・the poor ( NJB) 貧しい
・The lowly (NLT) 身分の低い、へりくだった
・Oppressed people (GWN、NET) 圧迫された
〇仏訳…・Les miserables (LSG) みじめな、不幸な
・Les humbles (TOB) 貧しい、謙遜な
〇独訳…・Die Gebeugten (ZUR、ATD) 圧迫された、虐げられた
・Unterdruckten 抑圧された
この原語のもともとの意味は、「圧迫された」oppressed という意味があり、そこからここにあげた多様な訳語のもつ意味が派生する。
圧迫されている人は、多くは貧しい人である、また苦しみ、悩みを持っている、そしてそれにもかかわらず、その圧迫に仕返し、復讐などをせずに、黙って神を仰いで耐えている―そこから柔和、謙虚といった意味にも用いられることになる。
もとになっている詩篇37篇の11節、9節などは、悪事をたくらむ人たちに囲まれ、圧迫され、苦しみを受けている状況にあって、そこから真剣に主に頼ることの重要性をうたった詩である。
そうした悪に対するに、悪をもって対抗しようとするのでなく、ただすべてに勝利される主を待ち望むこと、そのような人こそ、地を継ぐのだ、悪をなそうとするものたちは、必ず滅びていくと言われている。
この地に残されていくのは、圧迫に耐えて希望を持ち続ける人だというのであり、単に貧しい人とか、性質が柔和―優しく、穏やかといったことを言っているのではない。
このような意味を持っているゆえに、山上の教えにおいて、心貧しき人たち、悲しむひとたち のあとに続いて置かれていると考えられる。
神の国を受け継ぐということは、最も大いなることであるから、新約聖書では繰り返し記されている。
使徒パウロは、キリスト者は神の子供とみなされるから、神の相続人であるという表現を用いている。神の国のあらゆるよきものの相続人だというのである。
…もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 (ローマ 8の17)
… 御国を受け継ぐという祝福を主から受けることを知っている。(コロサイ3の24)
しかも、そのような大いなる神の国を受け継ぐということは、はるか前から神によって計画されていたことだと言われている。
…そこで、王(キリスト)は右側にいる人たちに言う。
さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 (マタイ25の34)
神の国を受け継ぐということは、実に大いなる約束である。子供も財産やこの世での評価、業績など何一つないものでも、私たちはただ神を信じ、私たちの罪が主によって赦されていることを信じるだけで、神の国という最大のものを受け継がせていただける。
このようなことはあまりにも大きいことであるがゆえに、私たちはうっかりと忘れてしまいがちである。
主イエスを信じるひとたちは、すでにはるかな昔から次のように言われているとおり、神の祝福を受け継ぐ者である。
…悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。(Tペテロ 3の9)
そしてその祝福の基となるのは、神の言葉である。旧約聖書からの数千年という長い歳月、一貫してその内容を変えることなく受け継がれてきた。それが、私たちにも手渡されて、いまも信じるひとたちのうちに生きて働いている。
そしてその神の言葉の究極的な姿が、キリストである。ヨハネによる福音書などの最初に言われているように、キリストは神の言葉そのものであり、万物を創造し、かついまも支えている。
そのような、キリストと御言葉を私たちは遥かな古代から受け継いできた。そして現代の混沌とした世界にあっても、いかなる変形や汚れにも染むことなく、次々と受け継ぐ人が新たに起こされ、終りのときまで続いていくのである。
(375)屈辱を
受けること、高められること
神の恵みによって高められる時には、いつもまちがいなく、人間による屈辱か侮辱がそれに先立つ。
このことは、全く確かな前兆である。われわれは自分の持っている価値が、人間の善意か悪意かによって与えられるものではなくて、神の摂理によって授けられるものだということを、はっきり悟り、これに従って行動すべきである。
だから、そのように神によって高められることは、われわれを謙遜にするが、傲慢にはしない。
また、そのような侮辱はかえってわれわれの心を堅固にし、確信を強めるものである。世の常の成りゆきとは正反対である。
ミカ書7の8〜10、ゼパニヤ書2の3、ハバクク書2の4・20、3の16・18・19、エゼキエル書34の24〜27、イザヤ書43の11〜13、46の11。(ヒルティ著 眠られぬ夜のために上 11月22日)
・ペテロも女中にすらさげすまれ、逃げて行った。そのような屈辱ののちに、イエスによって赦しを受け、ペンテコステにおいて豊かな聖霊を受けることにつながった。
主イエスは、このヒルティの言葉の完全な成就であった。鞭打たれ、つばを吐きかけられ、十字架を背負ってよろめきながら刑場に向って歩かされ、ついには釘で打たれて十字架刑にて殺された。それほどまで低く、屈辱を受けたのちに、最も高くされ、天に帰り、復活された。
(376)キリストに倣いて
御あるじのたまはく。われを慕ふものは闇をゆかず、ただ、命の光を持つべしと。
心のやみをのがれ、まことの光を得たく思はば、きりしとの御行跡と御かたぎをまなび奉れと。きりしとの御行跡をくはんねんする事を、われらが第一のがくもんとすべし。
…ここにかくれたる天の甘味をおぼゆべし。(ヨハネ8の12)
(「こんてむつす むん地」吉利支丹文学集上巻 199頁、朝日新聞社刊 1973年) ・あるじ…主
・きりしと…キリスト、・御行跡…生涯、行為。・くはんね→「観念」であるが、ここでは黙想、祈り、・甘味…キリストとの霊的交流による平安、喜び、清め。
この書は、1610年(慶長15年)に京都で刊行。「こんてむつす むん地」という書名は、ラテン語の De Imitatione Christi et ContemptuOmniumVanitatum Mundi の一部をとって付けたもの。こんてむつす→Contemptu(軽視する)、むん地→Mundi(この世)このラテン語の書名は、「キリストに倣うことと、この世の空しき事を軽視すること」の意。「キリストに倣いて」は、50種以上の近代語に訳されている重要な書であるが、このようにキリシタンの時代に日本でも刊行され、キリストに従う道が日本のキリシタンにも伝えられいったのがうかがえる。
この四百年前の翻訳は、迫害の困難な時代をも越えていったキリストの深い流れを想起させるものがある。
(376) 厳しさと静けさ
神を求めて生きる過程には、生きる目的にたいする絶望や火や嵐がつねに伴いがちである。
しかし、正しいものはおだやかな、説きすすめる声をもって訪れて来る。(列王記上19章)
…かすかな神の声に向って開かれた耳を獲得すくまで、辛抱し抜く者は稀である。けれども、あらかじめ、疾風怒濤の苦悩の状況を経なければ、人の心は十分に開かれることがない。(ヒルティ著、眠られぬ夜のために下5月9日)
・私たちをとりまく自然は、激しさ、きびしさとともに、静かに語りかけるという双方の性質を持っている。
それは、神の人間に対するなさり方を象徴しているものである。
〇木星
この時期には、木星は夜の
11時近くになると、東の空からあの透明な、強い輝きを見せているので、天気のよい夜には、ぜひ見てほしいと思います。
星座のことがわからずとも、東の低い空にひときわ強く輝く星―それが木星です。
この頃は、オリオン座が南に見え、その左には、小犬座のプロキオン、その下方にはおお犬座のシリウスの強い輝きもあり、その上方には、双子座の二つの明るい星々も見られます。
一年で最も多くの明るい星が勢ぞろいする時期ですが、それらの星座、一等星たちの左(東)側に、そうした明るい星々の締めくくりを担当するかのように現れてきます。
〇遠くて、清い、永遠を指し示す星の輝きと、人間世界のさまざまのきらびやかな装飾―その二つには限りない距離があります。
LEDでどんなに飾りたてても、それは人間の技術のたくみさを示していても、そこにいかなるものによっても汚されない清さ、永遠の美といったものが感じられるでしょうか。
人間が作るものは、一見美しいように見えるものであっても、そこには作った人の人間的な思いが必ず入り込むものです。
しかし、大空の美しさや星々の光には、いかなる人間的な不純なものもなく、あるのはただ創造者たる神の無限の奥深さ、そして清さや力、美だからです。
〇水仙
わが家のある山の斜面には、12月に入ってすぐ、水仙が咲き始めています。夏は、多くの雑草やクズの一面の葉、野生化したツルニチニチソウなどで覆われる上に、こまかな土は流され小石だらけのよくない環境で、およそ、園芸植物など美しい花が増えそうでないところ。それでも、過去10年20年の間に、少しずつ増えて、野生化し、群生しています。
そのたくましさに驚かされるとともに、冬の寒さに向って咲き始めるその姿が印象的です。また、そのような状況で育っていますが、心ひかれる香りを持っていて、その香りをかぐと、一種の霊的音楽のようなものを感じます。
神の言葉もまた、似たところがあります。いかにこの世のかずかずの雑草が生い茂って覆い尽くそうとも、必要な時には、意外な人の心に、また地域に、芽生え、育って、かぐわしい花を咲かせていくからです。
来信より
〇…み言葉を食べるといいますが、いつも新しい味わいで、汲めども尽きない思いです。ほんとうに神さまのみわざには驚かされます。
最初は、こんなところまで導いてくださるとは思ってもいませんでした。み言葉によって導れていることを、深く感謝です。(四国の方)
〇世の中だけでなく、私たちの集りの中でも言葉が氾濫しているとつくづく思わされます。その中で、何が真実を、真理を語る言葉なのか、何が神のみ旨であって喜ばれる事なのかを見抜く目を失わないようにしなければならないと思わされています。
また、語る側も、特に主日礼拝においては、語るべき事(言)は何かをよく見極めて簡潔に語らねばならないと自戒しております。
「今日のみ言葉」244号で示してくださった「光あれ!」という神の言葉は確かに闇を退ける神のみ言葉であり、今も生きていることばでした。
今の日本の政治、国民の向かうところは全く闇であり、そのことに国民が全く気が付いていないことを毎日これでもかこれでもかと示され続けていると、この「光あれ!」という神の現実をつい見失いそうになります。
「闇は光に勝たなかった」という聖書の言葉にも力づけられて神への信頼に歩みたく思いました。
〇マラキ書3の20のみ言葉
見よ、その日が来る ‥わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る‥
今まで聖霊を受けず素通りしていた御言葉が、魂の深い部分に喜びをもたらしてくれます。
主のなさる事は時にかなって美しい…。(四国の方)
〇昨日、いのちの水645号と集会だより412号が届きました。
ありがとうございました。
… 天使たちは皆、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」 (黙示録7の11ー12)
「それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」
(アモス書8の11)
いのちの水を早速拝読し、予定していたテゼの祈り特別集会(超宗派)に久々に出かけました。 雑念が消えた静かな聖なる時間を過ごすことができました。
終了後帰り道で、「晩秋の白い花の賛美」(「いのちの水」誌11月号)などに掲載の聖句が強く頭に浮かびました。 (九州の方)
〇「いのちの水」2013年3月号の「アンクル・トムス・ケビン」を読んでいます。…
トムの言葉「私の魂の中でそれを感じるのです。…『キリストの愛は人知を超えるもの』なのです。」…
に触れ、私がキリストを信じると言ってる事は、まだ単にどちらかわからないのを信じる所から抜け出せず‥ただ経験させて頂いた事実によって、かろうじて魂でキリストを信じる事へ立ち返ろうとしている途中です。
自分の傲慢さ 罪深さに顔を上げる事が出来ません…。
明日は、…静かな祈りの中に、主を トムのように感じたいと思います。
今夜はミリエル司教の様に(*) 眠りにつく前に庭に出て目に見得る星の輝きと目に見える神の輝きに触れたいと思います。(四国の方)
(*)「いのちの水」誌 二〇一三年二月号。 「レ・ミゼラブル」―聖書 との関連について。
〇元旦礼拝
1月1日 午前6時30分〜8時 徳島聖書キリスト集会場。新しい早朝の朝を、礼拝によって始めましょう。
〇冬季聖書集会
・日時 2015年1月23日(金)13時00受付 14時開会 〜 25日(日)13時解散
・会場 上郷・森の家 横浜市栄区上郷町1499ー1
・講師 吉村孝雄(徳島キリスト教聖書集会代表)
聖書講話@〜B
・会費 大人19,000円大学生5,000円 日帰り参加1,000円+食事代
尚、福島以北、岐阜以南の遠方の方の会費は、3,000円軽減いたします。
・持ち物 聖書 讃美歌 筆記用具、着替え等、その他各自必要な物 (タオル、バスタオル、浴衣、歯ブラシ、シャンプーは施設についています)
・申込…12月26日(金)までに郵便かFAX又はメールで次へお申し込みください。
〒387ー0024 長野県千曲市鋳物師屋62-3 関 聡
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〇クリスマスと、来たるべき新しい年の祝福を祈ります。