・2014年2月 第636号 内容・もくじ
冬の朝、南国徳島でも雪が近くの山々にうっすらと積もっている。そして冷たい風が吹いている。
近くの低い山の谷沿いを歩いた。
冬であっても山々は、さまざまの樹木によって緑に包まれている。クスノキ、シロダモ、スギ、竹、ヤブニッケイ、ツバキ…等々。その緑、それは命に満ちている。寒さ厳しくとも、その風に抗して立ち、茂り、成長してきた。
そして、大空は、澄みきった青、それは深さ、広さ。
そこに白い雲が流れていく。その天に浮かぶ白さは、地上のものでは感じられない清さをたたえている。
そしてそれらすべてを支え、目前に浮かびあがらせる太陽の光。
ただ、目をあげて山々を見、空を仰ぐだけでこうした他には代えがたい天の宝が得られる。
…目をあげて山々を仰ぐ。
わが助けはどこから来るか。
天地を造られた主から来る。
主はあなたを守る方、あなたを覆う陰。あなたの右にいます方。 …
何者もあなたを撃つことなきように、守ってくださる。
主は、すべての災いを退け、
あなたを見守り
その魂を守ってくださる。(詩篇121より)
―旧約聖書の場合
神との出会いは旧約聖書においては、どのように記されているか。
最初に創造された人間は、神と自由に出会える状況にあった。神からの語りかけを聞くことも、神がエデンの園を歩くときに会話もできたと考えられる。しかし、アダムとエバは、蛇の誘惑を受けたために、神と自由に出会うという特権を失ってしまった。
アダムたちは最初から神と出会っていた。そして神のすべてを整えてくださる愛のもと、生きることができるようになっていた。
しかし、すぐに、サタンを象徴する蛇に出会った。そして神との交流に重大な妨げとなった。
本来、神の言葉を守ることは決して難しくなかったはずだが、彼らは、それを守らなかった。そのため、彼らは神と日々、顔と顔を合わせ、神の恵みに生きる道を彼らの方から捨ててしまった。
神と会うことが許されてもなお、すぐにそのことを壊そうとする闇の力によって妨げが入ってくる。言い換えれば、神との出会いが与えられているのだが、サタンとの出会いもまた、すぐ間近にあり、それによってせっかくの神との出会いを空しくしてしまうのである。
神がエデンの園を歩んでいたとき、その神との出会いを避けるように、木々のところに隠れた。
出会いを喜んで受けるのでなく、その反対の行動を取ったのであった。
このことは、現代の私たちにも同様なことが言える。神はいつも出会いの機会を与えてくださっているのに、罪を犯してしまうために、私たちの方から神との出会いを望むどころか、神から隠れてしまう。背を向けてしまうのである。
そしてカインは、兄弟のアベルを突然襲いかかって殺すという重い罪さえ犯した。しかし、そのような行動は特殊なものでなく人間とはそのような重い罪をおかしてしまう根を持っているのだということが暗示されている。
それは、次のような記述もそのことを示している。
…主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかり心に考えているのを見て…(創世記6の5)
人間はみずから罪を犯して神と出会うという何にも換えがたい賜物に背を向けている。
このような闇の状況であっても、神は、時折 闇夜に光を投げかけるように、神との出会いを経験する人たちを起こしてこられた。
エノクやノア、モーセ等々の人たちである。そのことは、闇がいかに深くとも、神のご意志さえあれば、光を持った人を創造されることを示している。
そしてそのことが、聖書の巻頭に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり…」と記され、預言されているのである。(創世記1の2)地上世界は、いかに荒涼、空虚な状況があってもなお、神が光あれ! と言われたら、そこに光が存在しはじめた。このことは、どんなにこの世が絶望的であってもなお、神と出会う人―光を持った人を起こされるのを示している。
しかし、罪に汚れた人間のゆえに、神に出会うことできるのは、きわめて一部の人であった。例えば、無数の人がいたのに、とくにアブラハムだけが呼び出され、親しく語りかけ、神との出会いが与えられた。そして宇宙の創造主たる神を知らされた。
ヤコブは、決して模範的な人間ではなかった。母親とともに兄を欺いて長男の祝福を奪い取った。そこで兄から憎まれて殺されそうになった。ヤコブは遠い親族のところまで、荒野を一人旅していく。そのようなヤコブであったが、神はその旅の途中で彼に現れた。このように、神との出会いは本人が求めたとは記されておらず、神の一方的な選びであった。
モーセも荒野で羊飼いをしているときに、突然神が現れ、神との出会いが与えられた。そして神の力と導きによってエジプトで苦しむイスラエル民族を導き出し、その後神の生きた言葉を直接にシナイ山にて受けることになった。しかし、その山に登って神の御声を聞くことができるのは、モーセだけであった。他の人がその山に登ろうとするなら、殺されると記されていて、神に出会うという経験は一般の人には与えられないものであった。
またイザヤも、神を見るという特別な恵みを与えられたが、そのときにまず彼が思ったのは、喜びではなかった。比類のない経験が与えられたということで驚き喜ぶのでなく、逆に、滅ぼされるという意識だった。それは汚れた身だと自覚していたからである。
このように、旧約聖書においては、だれでもが親しく神と出会うということは、考えられないことであった。
しかし、そのような旧約聖書のなかで、神と個人的に出会う恵みが与えられることが、預言書では記されている。
…何と幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
主は、あなたの呼ぶ声に答えて
必ず恵みを与えられる。
主がそれを聞いて直ちに答えてくださる。…
あなたを導かれる方は、もはや隠れていることなく、
あなたの目は常に
あなたを導かれる方(神)を見る。
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く、
「これが道だ、ここを歩け」(イザヤ書30の19~21より)
旧約聖書の時代においては、神を見る、ということはできない、滅ぼされるという状況にありながら、預言者イザヤははるか後には、だれでも主を待ち望む者には、神を見る、そしてその御声を親しく個人的に聞くという恵みが与えられることを、啓示されていたのである。
そして、モーセが神から受けた神の言葉を再び告げるという内容の申命記には、神と会うことができるということが記されている。
…しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会う。 (申命記 4の29)
このように、人間から神ははるかに遠く、近づけないというのが当然であったにもかかわらず、一部の預言者や神の人には、このように神との出会いが与えられるということが預言として記されている。
申命記は、あまり読まれない書の一つであろう。しかし、この箇所のほかにも、主イエスご自身がそのまま引用された重要な言葉がある。
…あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(*) (申命記 6の5)
(*)「心を尽くして、…」と訳されている原文の表現は、「すべての心をもって」であり、英訳では原文と同様につぎのように訳されているのが多い。
Love the LORD your God with all your heart, with all your soul, with all your strength.
しかもこの言葉は、最も大切な戒めとしてイエスは教えられたのであった。神を信じるということは、当時のユダヤの人たちにとっては当然のことであっただろう。しかし、そのような信仰の民であっても、神を愛しているという人はごく少なかったと考えられる。旧約聖書には、その多くが読み過ごされていくような書であっても、ところどころにキラリと光る神の言葉がある。それをイエスは見逃すことなく取り出し、人々に提供したのである。
このようにところどころに神との出会いが記されているが、旧約聖書のなかに、 神との個人的な深い出会いを主題としたもの―それが詩篇である。
… いかに幸いなことか。
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は! (詩篇32の1)
このように、喜びの叫びが自然とあふれ出る魂、それは罪赦された魂である。罪こそ神との出会いを妨げている壁となっているものであり、その罪赦されてその壁が取り除かれたとき、そこで与えられることは、神との出会いである。神は真実な喜びの源であるゆえに、その出会いによって、これこそたぐいなき幸いだ、と実感したのである。良き人―といっても罪多き者にすぎないのであるが―と出会っても私たちは喜ぶ。それゆえ、愛と真実に満たされている永遠の存在に出会うことこそ、何にもまして深い幸いの実感を持つ。
この霊的に満たされた魂の状況は、詩篇23篇に美しく表されている。それは罪赦され、神と出会った魂の姿である。
…主はわが牧者。私は何も欠けることがない。
主は私を緑の草原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。…
死の陰の谷を行くとも
私は災いを恐れない。
あなたが私とともにいてくださるから。…
ここには、神の裁きを恐れ、しり込みする姿勢はまったくない。それは裁かれるべき罪赦された魂だというのを示している。罪赦されるとき、おのずからこのように、神との親しい出会いが与えられ、そこからこの世のものでない賜物が与えられるゆえに、欠けることがない、と言えたのである。
もう一つ、詩篇22篇をあげておこう。
この詩の冒頭は、詩篇23篇とは全く異なる激しい苦しみにさいなまれ、絶望的な叫びをあげる。
…わが神、わが神、あなたはなぜ私を捨てたのか!
そしてこの極限の苦しみは、十字架で釘づけにされたイエスの最後の叫びとしてそのまま福音書に記されている。しかし、このような苦闘のなかから、詩篇22の作者は、神に叫び祈り続けた。
それによって、この詩の後半(23節以降)は、そこから救いだされた大いなる喜びと賛美となっている。
…主は貧しい人(圧迫された人)の苦しみを決して見捨てない。
御顔を隠すことなく、助けをもとめる叫びを聞いてくださる。(25節)
こうして、主との出会いが与えられ、満ち足りるように変えられたのである。そしてそこから、地の果てまでもこの主の大いなる恵みと力が伝えられるようにとの強い願いを持つようになる。(28節)
これはほんの一例にすぎない。詩篇は、旧約聖書において、神を顔と顔を合わせて見ることを許されなかった世界のなかで、驚くべき神の出会いの豊かさを全編にわたって繰り広げているのである。
現代の私たちも、神と出会うことがどのようなことなのか、詩篇によって数千年も昔の魂の鼓動を聞く思いがする。
悪の霊(汚れた霊)などという言葉は、一般のマスコミなどではほとんど使われない。同様に、聖なる霊ということも一般的な新聞や雑誌、テレビなどではまったく見られない。
キリスト者も悪霊といった言葉はあまり使わない。
しかし、この二つは聖書においては正反対のものであるが、きわめて重要な意味を持っている。この世の問題と解決はみなこの二つが関わっているからである。
悪の霊と汚れた霊とは同じ意味で用いられている。(マタイ10の1節と8節参照)
そしてこれはまたサタンとも言われる。
人間に深刻な害悪をもたらすのはこの悪の霊の働きによる。
それゆえ、主イエスが12弟子たちを派遣するにあたって、まず与えたと記されているのは、「汚れた霊に対する権威(力)」であった。
…イエスは12人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権威を授けられた。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気をいやすためであった。(マタイ10の1)
そしてそのすぐ後で、次のように記されている。
イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
「…イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って 『天の国は近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、悪霊を追い出せ。」(マタイ10の5~8より)
天の国は近づいた、とは、神の御支配が近づいてそこに来ている、という意味である。悪の霊を追い出すということは、天の国―神の御支配が近づくことによって可能となる。弟子たちも神の国のうちに含まれる神の力を受けるゆえに、悪霊を追い出すことができる。
後に、主イエスは、つぎのように言われて、悪霊を追い出すことと神の国の近づいていることが深く結びついていることを示された。
…しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
(ルカ 11の20)
悪の力を滅ぼすこと、それは人間ではできない。それだけでなく、悪の力(悪霊)を私たちの内から追い出すこともできない。
主イエスも、悪霊を滅ぼすとは言われず、悪霊を追い出すと言われた。イエスが来られたのは、罪の赦しのため、すなわち、罪の力を追い出すためであった。イエスの力が及んで罪赦された者からは、悪の力は追い出されたのである。
こうしたことは、マルコによる福音書においても同様であるが、この福音書では最初の1章からこの悪霊を追い出すことが繰り返し記されている。
イエスは、サタンによって試練を受けたのち、福音を宣べ伝えて言われた。
…時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1の14~15)
ここでの福音とは、神の国、すなわち神の王としての御支配が近づいて、そこに来ているということである。それは、そのすぐ後に記されている悪霊を追い出すという記事がその具体的内容を表している。
…イエスは安息日に会堂に行って教えはじめた。…そこに汚れた霊に取りつかれた男がいた。…イエスが、「この人から出て行け」と叱ると、汚れた霊は出て行った。
(マルコ1の21~26より)
この記事に続いて、次のようにも記されている。
…イエスはいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出した。…
イエスはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。(同34、39)
このように、私たちにとっては、意外なほどに、悪の霊を追い出すことがイエスの最初からの重要な仕事であったのがわかる。それゆえに、弟子たちにも、それと同じ力を与えたのであった。
12人の弟子たちを招き寄せたとき、彼らに与えたのは、「宣教させ、悪霊を追い出す力を持たせるためであった」と記されている。
(マルコ3の14~15より)
もともと、宣教の前にサタンから試練を受けられたとき、いかにしてそのサタンに対処したであろうか。イエスは、みずからの言葉でサタンに対するのでなく、旧約聖書に記されている神の言葉をもって対抗された。このことは、旧約聖書は力がないのでなく、イエスさえもその言葉によってサタンを退けたのであるほどに力を持っているということを示している。
その試練のとき、イエスはサタンを滅ぼしたのでなく、追い払ったのであった。イエスが神の言葉をもってサタンの誘惑の言葉に対したとき、「悪魔は離れ去った。そして天使たちが来てイエスに仕えた」と記されている。
悪魔が離れたのは一時的であり、「時が来るまでイエスを離れた」のである。(ルカ4の13)
このことに関連して、次のたとえがある。
…汚れた霊が人から出て行くと、砂漠をうろつく。しかし休み場所が見つからない。
そこで、元の家に戻ったところ、その家は掃除してあり、整えられていた。
悪の霊は、自分よりもっと悪い他の七つの霊を連れて入り込んで住み着く。その人の状態は以前よりもっと悪くなる。 (ルカ11の24~26より)
これは分かりにくいたとえである。ルカ福音書では、群衆、マタイ福音書ではパリサイ派の人などが、イエスのわざを見て、悪霊の力によってそのようなわざをしているのだと言った。そのように神の愛の力をもってしていることを、全部否定し、さらに、悪霊の首領の力でやっているなどと言うほど真理の感覚が麻痺していた。
その状態こそ、七つの悪霊が入り込んだということなのである。
律法を基盤とすることで偶像崇拝から離れ、一見きれいになったと思われた。しかし、ひとたび悪霊は出て行ったが、まもなくさらなる悪の霊を連れて―それは単なる律法で整えてもそれだけでは、偽善や高慢、形式主義、祈りの場を商売の場とするような利得への欲望等々が入り込む。 それを七つの悪霊が入り込むという表現で述べている。
この整えた家と悪の霊が戻ってくるというたとえ、それはイスラエルの宗教的状況を表すものであった。
律法を中心とし、会堂や神殿がユダヤ人の宗教的中心となっていたが、そのいずれも、権力や利権、あるいは形式宗教、といった腐敗した状況になっていた。
イエスが神殿の庭で商売していた人たちを鞭をふるって追い出したこと―祈りの家となるべきと書いてあるのに、商売の家としてしまったと言われた。
このような行動は柔和なイエスと大きく異なるようなことで驚かされるが、これは神の宮のなかに入り込んだ悪の霊を追い出すという象徴的行動であったし、イエスの働きそのものが、このように神の権威をもって悪霊を追い出すことにあったことを示している。
たえず汚れたものが入り込む、それはキリスト教の歴史にも見られた。ローマ帝国の迫害が終り、キリスト教が中心となっていった。
そして立派な教会堂やきらびやかな礼服、聖職制度等々が生れた。それはきれいにし、整えられた状況である。
しかし、そこに、権力や利権への欲望などが次々と入り込んでいった。免罪符(贖宥状 しょくゆうじょう)といって、罪の赦しでさえも、お金と結びつけることさえなされた。 教会組織の中に 悪の霊が入り込んだからである。
そのために、そうした人間的な汚れた霊の代わりに、神の言葉を持ち込むべきだとしてルターの宗教改革が生れた。
個人の心の問題としてもあてはまる。何かの悪習から離れたとしても―勉強や仕事などを真剣にやることで、心を整えたとしても、そこに新たに何かが住み着かなければ、悪の霊が入ってくる。
この世全体がそうである。法律や社会的制度の充実、科学技術による便利な生活、福祉等々それらによって、きれいにされ、整えられていっても、そこに新たな悪が入り込もうとする。
それは享楽欲であり、狭い自分だけの欲望に負けることであり、快適と便利さだけを目的とするような風潮である。それが原発の増設、その結果の事故ともつながっている。
昔の家から比べたら遥かにきれいになった。衣服、住居、台所、トイレ、浴室等々。しかし、そうした科学技術の高度な産物の一つとして原子力が見いだされ、原発と核兵器という、最もサタン的なものが人類のなかに入り込んでしまった。
こうしたさまざまの問題の核心にあることを、イエスはこの不思議なたとえで預言的に示されたのであった。
そしてこうした一切の困難な問題に私たちがのみ込まれない唯一の道が、聖霊を与えられるということなのである。
空虚なるものとの戦い、それこそが、人類の永遠の問題である。
空虚なものを、人為的なもので埋めようとする、それは古代からずっと続いてきた。
戦前は、天皇という人間を神にまで祭り上げてそれを日本人の空虚に埋め込もうとした。しかし、そこに入り込んだのは、七つの悪霊―中国やアジアの人たちの数千万人を殺傷するというような―であった。
このように、この「清められた家」のたとえは、イスラエル民族の問題から、社会的なさまざまの問題のなかに見られるのである。
そして、一人一人の人間の心の状態についても言える。
空虚なるもの、そこに悪の霊が入り込んだ場合には、人間をさまざまの罪へと引き込んでいく。その空しさを埋めようとして、人間はさまざまの遊び、趣味、娯楽、芸術、スポーツ等々の文化活動を生み出してきた。そしてそれらはそれぞれに、人間の心をうるおし、満たすものがある。
けれども、そうしたことの致命的ともいえる問題は、私たちが本当に苦しい状況に陥ったとき、しばしば無力なものとなるということである。
例えば、重い病となったとき、元気なときにやっていた趣味、娯楽、スポーツ等々はできなくなるし、耳が悪くなれば音楽も聞けない、目が悪くなると読書もできない。それどころか、その病気によって心の中は、心配や苦しみ、痛みでいっぱいになってしまう。
そうした時においても、その魂の内に入ってくることができるもの、それこそは、この清められた家のたとえの少し手前の箇所で言われている、聖霊である。
ルカ福音書においては、「求めよ、そうすれば与えられる」という広く知られた言葉に続いて、与えられるものとは、聖霊であるとはっきり書かれている。(ルカ11の13)
その記述に続いて、イエスの特別な力―悪霊を追い出すということは、悪魔の力でやっているのだというひどいことを言う人たちのことが言われる。それは、汚れた霊を追い出したのちに、さらに悪い七つの霊が入り込んだ状況であると記されている。
このように、この箇所はずっと聖霊と悪霊との関わりをかいてある。空虚な人間の心には、サタンが入り込む。それはいかに趣味や芸術などで埋めようとしてもなお、自分中心とか名声、あるいはこの世の栄誉を求める虚栄心といったものは除きさることができない。
人間の努力や決心によって新たな心になろうとしても、一時的でしかない。すぐに古びていく。
そうしたあらゆる人間の問題を根本的に解決するのが、その空虚な心に聖霊を受けるということであり、それゆえに、ルカ福音書ではこれらのことが一続きに記されている。
空しさが人間の共通した内面の状況であることは、すでに聖書巻頭の書である創世記の最初に記されている。
天地が創造されたとき、真っ暗闇で、かつ混沌としていたとある。この「混沌」と訳された原語(ヘブル語)では、トーフーとボーフー という2語から成る。(*)
それを新共同訳では、「混沌」という一語に訳したが、この二つの言葉は、ともに形がない、何もないといったよく似た意味を持っている。
それで、「地は形なく、むなしく」(口語訳)、「茫漠として何もなかった 」(新改訳)のように訳され、英語でも、 formlessa and empty (NIV) のように訳されている。
すなわち、最初の状態として、闇と空虚ということが記されているのである。
(*)旧約聖書では、トーフーは20回ほど使われており、それらは「荒れ地、荒野、荒廃、形がない、空しい、混乱、無駄 」などと訳されている。
トーフーは、イザヤ書で特に多く用いられており、旧約聖書全体で20回用いられているなかで、イザヤ書で11回と半数を超えている。次のように「空しい」としばしば訳されている。
・役にも立たず、救い出すこともできない むなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ(サムエル記上12の21 新改訳)
・ 君主たちを無に帰し、 地のさばきつかさを(むなしい)ものにされる。 (イザヤ書40の23 新改訳)
次にボーフーは、旧約聖書では3回だけ用いられ、創世記、イザヤ書、エレミヤ書に各一回ずつである。
・…私が地を見ると、 見よ、茫漠として何もなく、 天を見ると、その光はなかった。 (エレミヤ書4の23) 「茫漠として」の原語は、トーフー であり、「 何もない」は ボーフー という語であり、ここは、創世記の最初の箇所と同じでこの二語が重ねられている。
なおこのボーフーという言葉は、「混乱」とも訳される。
この両者を埋めるものこそ、神の言葉「光あれ!」であった。後に現れたキリストこそこの両者を満たすお方となった。
私たちの魂の空虚と闇―それは、この世の楽しみ、学問や知識、人生経験等々では決して満たすことができない。その魂の空虚の中に、命の光であるキリストが入ってきてくださらねばならない。そのキリストと同質である聖霊こそがその空しさを根本的に満たすものである。
日本は、江戸時代が終り、新しい時代となった。それは、すでに述べた福音書の「掃除をして整頓され、飾りつけされた状態」を思わせる。そこにおいてさまざまの制度を一新していったが、日本の精神的な中心となるものを人間にすぎない天皇とした。ただの人間が一つの国の魂の空白を埋めることなど到底できない。
その延長上に、韓国併合、中国の満州への進出から中国全体への侵略へとつながっていった。そして太平洋の広大な領域での戦争となり、おびただしい人々を殺傷していくことになった。それはまさに悪の霊が入り込んだ状態となった。
そして、沖縄本土が攻撃され、たくさんの人たちが殺されることになり、さらに原爆投下によって数十万人が死に、生き残った多くの人たちもずっと苦しみにさいなまれることになった。
こうした悪の霊が蹂躙する状況が、ようやく終り敗戦となったが、そこで憲法9条も制定され、教育基本法でもその精神を生かすための内容が整備され…それは、日本が、主イエスのたとえにあったような「清められ、整えられた家」とされたことになる。
しかし、明治になったときと共通しているのは、そこに入るべき根本の精神がないということであった。
そのため、徐々に戦前のようにただの人間にすぎない天皇を元に置こうとする考えが増えてきた。せっかく測り知れない犠牲と苦しみ、悲しみのゆえに、戦争廃棄という憲法9条が与えられているのを変えようとする勢力が増大してきた。
こうした状況も、清められ、整えられても、そこに入るべき根本のものがなければ、再び悪が、さらに悪い力をもって入り込むという主イエスのたとえが実現しているのを知らされる。
イエスが最初に受けたサタンからの誘惑、試みにおいても、サタンを滅ぼしたのでなく、サタンを神の言葉によって退けられたのであった。
…「退け、サタン。あなたの神なる主を拝し、ただ主に仕えよ」と書いてある。その時、サタンは離れ去った。すると天使たちが来て、イエスに仕えた。(マタイ4の10~11)
ここにも、イエスがなされたのは、神の言葉によってサタンを退けることであり、そうすれば、天使が来て仕えるということであって、サタンを滅ぼしたのではなかった。
現在の私たちにおいてもこのことは、基本的に同じである。すでに次のように創世記に言われている。
「…罪が門口に待ち伏せている。それはあなたを慕い求める。
あなたはその罪を治めなければならない。」(創世記4の7)
罪へと誘う力を支配する、それは人間の力で対抗しようとしても打ち負かされる。聖書に現れる最初の人間、アダムとエバも簡単に罪の力に支配されてしまった。
イエスもご自分の考えや言葉でなく、聖書において記されている神の言葉を用いられた。神の言葉こそは、サタン、悪の霊を退ける力がある。
「霊の剣、すなわち神の言葉を取れ」(エペソ6の17)と言われている通りである。
心の貧しさ―それは、自らのうちには、追い出してもらわねばどうすることもできない罪の力、サタンの力があるということを知った心でもある。能力があってもその能力を自分のために、誇示するために使おうとする罪がある。能力がない場合には、うらやみ、不平不満を覚え、すでに与えられているものに感謝しないで希望を失うという罪がある。そうした罪の力を追い出してもらわねばならない存在だと知らされた心が、主イエスの言われた「心の貧しい者」である。
そこに、新たなもの、人間の考えや思いとは根本的に異なるものが、入って来なければならない。悪霊が出ていっただけでは、再びその悪霊が入ってくる。
その新たなもの、それがみ言葉であり、聖霊である。御国でもある。それゆえに、御国を来たらせたまえ、というのが根本的な祈りとなる。主がそのようにあらゆる人たちがどのようなときにも祈りとなることとして、この祈りをあげられたのにはそうした意味がある。
御国とは神の御支配であり、
神の愛と真実な御支配のうちにある霊的な領域である。
御国がきますように、とは、神の愛と真実の力が支配しますように、との祈りであり願いである。それがなかったら人間は、悪の霊が支配している、それは、温和な形であっても深く宿って知らず知らずのうちに人を支配している。
求めよ、そうすれば与えられる、それも、悪の霊が追い出されたあとに、来るべきものを求める祈りである。ルカ福音書においてはそれがはっきりと記されている。
…もとめよ、そうすれば与えられる。あなた方の中に魚を欲しがる子供に、蛇を与える者がいるだろうか。あなた方は悪い者でありながら、良きものを与えることを知っている。まして天の父は求める者に、聖霊を与えてくださる。(ルカ11の9~13)
人間の魂には、奥深いところに空虚なもの、闇がある。
それに対する根本的な解決が右にあげた聖霊が与えられるということである。
聖書というのは、聖なる書だから、よい教えばかりが書いてあるのだろうと思っている人も多い。
しかし、読みはじめてすぐに気付くのは、そうではなく、さまざまの人間の悪しきこと―罪をも記しているということである。
ダビデは、優れた武人であり、信仰者であった。 彼は、すでに子供のときから優れて勇気や武力に恵まれていた。イスラエルのどのような軍人も恐れて立ち向かうことができなかった強力な敵―ゴリアテに対して石投げ一つもって立ち向かい、相手を倒したことから始まり、羊飼いの身ではあったが王に取り立てられ、音楽もでき、詩人でもあり、部下をも適切に指導する能力も長けていた。そしてサウル王がダビデをねたみ、悪の霊に取りつかれて、ダビデを殺そうと繰り返し襲ったが、ダビデはいかなる場合にも、サウル以上の武力を発揮することもできたが、あえて武力を用いようとせず、主に委ねて荒野をさすらうばかりであった。
しかし、神に従わず人間の考えや欲望を第一としたサウルは主によって滅ぼされる。ダビデはその後王となった。そして周囲を平定し、広大な王国を築いた。
そのような状態になって、彼は、バテセバという女性を見いだして、自分のものとしたが、妊娠したので、それを隠すために策略をはかった。しかし、それがうまくいかなかったので、その夫を激しい戦地へ行くように仕向け、死に至らしめた。
そのような重い罪をダビデは子供が生れるころまで気付かなかった。
そのため、神は預言書ナタンを彼に送った。ナタンは、一人の裕福な男が、貧しい人の大切な持ち物を奪い、その家庭を破壊したというたとえを出した。そのような人間は死刑だ、ということをダビデ自身の口から言うように仕向けた。
そのナタンを通して言われた神の言葉―あなたこそは、その死刑になるはずの者だ―によって、ダビデは霊の目が覚めた。そして自分の測り知れない重い罪を知らされた。ダビデはすぐに 「私は罪を犯した」と告白した。
このことは、私たちにおいても重要な意味を持っている。私たちは主イエスがゲツセマネの園で弟子たちに言われたように、眠りこけている存在なのである。
人間の言葉や経験、学問、年齢等々によってもなお霊的な目は覚めない。神のご意志そのものである神の言葉が私たちの魂に直接に届くとき、初めて私たちは霊的に目覚める。
ダビデは、その重い罪によって、死罪となるはずのところ、罪をはっきりと認めたことにより、神の赦しを受けた。
この間のダビデの心の動きが、詩篇51篇に深い意味をもってうかがえる。
そこでは、ダビデが深い悔い改めをなし、憐れみたまえ、罪を赦しぬぐい去って下さいという深い祈りがそこから発せられている。
その時たまたま犯したのでなく、自分という存在の根源に罪があることを知らされた。それが、生れる前から罪のうちにあったという表現からうかがうことができる。
そしてそのような根深い罪ゆえに、それは教育や人間の努力や習慣、豊かさ、科学技術、医療等々いかなることによっても解決されず、ただ神が新しい心を創造し、新しい霊を注ぐことによってのみ、そこからの救いがなされる。
新しく生れねばならないと、イエスが言われたように、聖霊によって新しく生まれ変わることが不可欠となる。それを、この詩篇では、イエスの誕生のはるか昔から記している。こうしたことこそ、啓示であり、ダビデが新しくされたゆえにこのような詩が生れたのである。
王に神のご意志を告げたナタンは、次のように言った。
ダビデの重い罪によって生れる子供は死ぬし、ダビデの子供たちが、女性問題を引き起すとともに、重大な悪事を働き、世の中にその醜態をさらけだしてしまうことを預言した。
罪をはっきりと認め、心からの告白をしたことによって赦しは受けた。しかし、罪の重さを思い知るために、以後長くダビデはさまざまの問題で苦しむことになった。私たちも犯した罪は心からの悔い改め、告白によって赦される。しかし、その犯した罪ゆえの罰は残る。人間関係の困難や、病気といったようなことに深い蔭を残したままとなることが多い。 この聖書に記されたようなダビデの事実上の殺人と不正な男女関係、計画的な悪事には、驚かされる。
何故、このような暗く汚れた事件が聖書の中に記されているのであろうか。
それは、人間の魂の奥深いところからすでに罪を持っていること、人間世界の争いはみなその罪ゆえのことであること、それゆえに聖書ではアダムやカイン、またノアやアブラハム、ヤコブ等々が皆、罪を犯してきたことが記されている。
しかし、そのような罪にまみれた人間たちのただなかで、神は働かれるということを示している。
ダビデのような人物さえ、こんなひどい罪を犯すのだ。それでは、私たちが信仰をもってもこんなひどい罪を犯すことさえあるのだろうか…等々、疑問や人間不信が吹き出しかねない。
だが、新約聖書の12弟子たちすら、一人はキリストを金で売り渡し、残ったものたちもみなイエスを見捨てて逃げた。ペテロは3度も主を否認し、裏切った。また、パウロもキリスト教を邪教だとみなして撲滅せんと国外まで出向いていったほどだが、キリスト者を殺すことさえしたと記されている。
このように見ると、どこにも光がなく、闇と混乱ばかりのように見える。
しかし、そのような罪や不信にまみれた人間をも主はその御計画の一環として用いられるのである。いかなることがあろうとも、生じようとも、神の御計画は変ることなく進んでいく。
そしてこのことこそ、新約聖書の最初のマタイ福音書の冒頭で記されている系図の目的でもある。
貴重な紙面の最初に、わざわざウリヤの妻による子としてかいてある。だれでもこれはダビデの醜悪な事件を思い起こしただろう。それでもあえて書いたのは、そうした罪深く汚れた人間であっても、神の壮大な御計画の内に折り込まれていく。いかなる権力者や大帝国が悪をはびこらせようと、それらすべてをのみ込んで、神はその御計画に沿ったものに造り替えていくということを記しているのである。
主イエスは、私たちが絶えざる祈りをなすべきを教えられた。御国を来たらせたまえ、神のご意志がこの地上でも行なわれますようにとの祈りは、神の御計画がこの地上にも成るようにとの祈りである。
彼らは、主を仰ぎ見た。すると彼らは輝いた。(6節)
主を仰ぐだけで、神の光を受ける。それによって窮地に陥ったり、混乱して滅びへの道をたどるようなことはなくなる。そのことを、「辱めに顔を伏せることはない」と訳している。
旧約聖書には、「恥」ということがよく出てくるが、日本語のニュアンスとはかなり違う。31編2,18(*)、詩篇25編の2,3節等々にも繰り返し出てくるが、これは神によって救われ光を受けるとは反対に「滅びる」と強い意味をこめて言っている。神によって救うか滅びるかという重要な状況の中で言っていることで、私たちが日常生活で、何かを言い間違って恥ずかしい思いをした、というような軽い意味ではない。
(*)とこしえに恥に落とすことなく
義によって私を助けて下さい。…
あなたの耳を私に傾け
早く私を助け出して下さい。(詩篇31の2~3)
主よ、あなたを呼びます。
私を恥に落とすことなく
神に逆らう者をこそ、恥に落とし
陰府に落とし、黙らせてください。(18節)
このようなことを知ってから詩篇を読まないと、どうも意味があいまいになることがしばしばある。これは訳語の問題でもある。主を仰ぎ見る人は光を受けるので、滅びてしまうことはないが、光を受けなければ滅びてしまうとはっきりしたことを言っている。
…苦しむ人(*)が呼び求める声を、主は聞き、
苦難から常に救ってくださった。
主の使いは、その周りに陣を敷き
主を畏れる人を守り、助けてくださった。
(*)原語は、アーニィで、圧迫されているという意味を持っている。そこから、新共同訳のように、貧しいとも訳されるが、悩む者(新改訳)、苦しむ者(口語訳)、
英訳では、oppressed man 、afflicted one とも訳されているように、単に経済的に貧しいという人だけを指すのでなく、苦しみ、圧迫されている人を指す。
この詩篇の作者は霊の目を開かれて、ありありと御使いが助けるために取り囲んでいる状態までも見た。今日の私たちにおいても、このことは、困難の中で、主の助けをはっきりと実感するということである。
人間の考えや、経験から言ってもあり得ないと思われるようなことが、神の霊のはたらきによって見えた。もうだめだ、と思われるような状況にあって、予想を超えたところから神の助けが与えられるということである。
このような助けが与えられるということは、学問とか経験とかでなく、啓示による。聖書はこうした神の直接的な助けを私たちに伝えているので、聖書に帰ることで、初めて 神の大きさ深さ広大さというものがだんだんわかってくる。
…味わえ、見よ、主の恵み深さを。(9)
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
主を畏れる人には何もかけることがない。
若いライオンは獲物がなくて飢えることがあっても
主を求める人には、良いものが欠けることがない。(詩篇34の9~11)
9節に 主の「恵み深さ」とあるが、この原語は「トーブ」で 創世記の2章では、エデンの園で善悪の木の「善」と訳されたものである。しかし、善悪の木、というように「善」と訳すと道徳的な意味だけになり、原語よりいちじるしく意味が狭くなってしまう。
このトーブというヘブル語は、「美しい、愛する、かわいい、貴重、きれい、行為、幸福、親しい、幸い、善行、宝、正直、正しい、反映、福祉、恵み、安らか、豊か、良い、喜び、立派」など何十種類もに訳されている言葉なのである。
道徳的な善悪の木というのでなく、あらゆる良いこと、悪いことを神抜きにして知識だけとして知る木、という意味である。人間は、単なる知識のみだけでは死んでしまう。それは、今日の原発の問題ともつながっているのを知らされる。世界に核が拡散し、そこで核戦争や、林立する原発へのテロ攻撃がなされたら、最高度に発達した知識が人間を滅ぼしてしまうことになる。 聖書は、エデンの園の中央に置かれた木の実を食べるういうことが、どのようなことにまでつながり得るかも予見していた。
またこの詩篇34の11節にも「トーブ」があり、ここでは「良いもの」と訳されている。このように、一つの詩においても一方では「恵み深い」、そのすぐ後では同じ原語が「良いもの」というように、二通りに訳されている。
神はいかに良いお方であるか、その「良い」という言葉の中には、恵み深いとか、親切だとか愛情深いとか、力がある、美しい、清い、永遠などいろいろなことを含んでいる。
「主の良さ(恵み深さ)を味わえ、見よ」というのは、ほかには見られない表現である。これは心とからだで深く実感するということである。
神は無限に遠く、罪を見抜いて罰するお方、裁きの神というイメージがある。しかし、他方では、この箇所のように、すでに旧約聖書の古い時代から、神は間近に来てくださり、私たちがその愛を親しく実感できるほどであると体験から言っているのである。
味わうとは口から入る食べ物だけについて言うが、食べ物は舌という体のごく小さい一部分を通過したら、味も何もなくなる。だから何かの病気で舌に異常があれば、味はしなくなる。
このように舌による味は非常に狭いことだが、からだ全体で味わう、実感するというのは確かにあることで、例えば非常に苦しいときに、誰か愛のある優しい人がいて、その苦しみを和らげる道を示してくれたら、その優しさは忘れられないであろう。
その人の真実の愛、何も計算のない愛というものを受けたら、ずっと残る。それは確かに味わっているということで、からだも心も覚えたということである。
そんな風に神の良さというものを心身で体験しなさい、できるのだということを言っている。
また、霊の目で見よ、とも言っている。いくら目が良くても星をほとんど見たことがないという人もいる。花のにおいなどもかいだことないという人もいる。
しかし、心の目、魂の目で見ると、そこに神のよさが分かる。嫌な人に対しても、嫌いだと思っているままでは神の愛も分からない。それは赦せないという気持ちがあるからである。
ある人から悪意ある言動を受けたとしても、主によって赦すことができたら、これも主の愛のゆえに、赦しの心をいただいたという意味で、主の愛を知ることができる。
神ではなく、人間に何か良いことを自分にしてくれると期待していのとき、人は私に何もしてくれないと不満やねたみ、怒りばかりが出てくる。
主の聖徒たち―言い換えると、主によって神のものとして分かたれた人は、何も欠けることがないという。(34篇の10~11節)
これはとても意外な言葉である。私たちは誰であっても、自分自身の能力や健康、人間関係、仕事、生活、家庭、交遊関係―さまざまのことについてたえず足りないという実感を持っているからである。足りないからこそ,それをさまざまのことで満たそうとしている。いろいろな美味な食べ物を食べる、娯楽、趣味、スポーツ等々もみな、満たそうとすることである。
しかし、それらは一時的に欠けた心を満たしてもすぐにまた欠乏感が生れる。
それゆえに、この詩の作者のように、欠けるものは何もない、と繰り返し言われていることに驚かされるのである。
それは、主に求めるからであり、主から目にはみえない良きものを豊かに与えられるからである。
こうした、神から与えられる良きものが存在するということ、それは神が存在するもので最もよいものだからであり、私たちが求める、愛や真実、清さ、さらに力や永遠性といったものを持っておられるからである。
もし私たちがこのようなものを少しでも受けるならば、深いところで満たされるだろう。
そしてそれがこの詩が聖書に収められている理由でもある。少しという程度からさらにこの詩の作者のように、何も欠けることがないと言い切れるほどに、目には見えない賜物で満たされることが可能であり、それを指し示している。
このようなことが言えることになるということは、主の恵みを味わっているということである。詩篇の受けた人の啓示、経験というのは、一般の人間とはるかに超えており、歴史上高いレベルに達した人でもこのようなことを仰ぎ見るだけである。これは神が選んで与えた人だからである。
私たちの生活で欠けるところといえば、いくらでもあるだろう。自分の能力、健康、衣食住、家族、仕事、交際…等々そうした生活の場面で、欠けるところがないなどと言える人は、どれほどいるだろうか。
いま欠けるところがないと、満足していても、次の日に何が起こるかわからない。そしてたちまち、欠けたところばかりの中にはまり込み、日夜欠けたところに悩まされるということもある。
16節から、助けを求める叫びに聞いてくださるとある。また同じことが18節にもある。そして私たちに大切なのは砕かれた心、壊れた心であって、そんなところにこそ近くにいてくださる。
もし私たちが、困難な問題で解決できないような苦しみにあるとき、あるいは何らかの個人的なことで周囲から見放され、見下されるとき、その孤独や悲しみは誰にもわかってはもらえないということがある。
それが深いものであるほど、他者にも言えない。
そのような状況こそ、この作者が、「助けを求める叫び」と表現している。それはまた、悲痛や苦しみで壊れてしまった心でもある。「主は打ち砕かれた心に近くいてくださる」(19節) 打ち砕かれたと訳されている原語(*)は、悪しき者が、戸を壊そうとした(創世記19の9)とか、雹が、野の木々を打ち砕いた(出エジプト記9の25)などのように、ごく普通に壊すという意味で用いられる言葉である。
(*)原語はシャーバル。英訳では、ほとんどが、broken-hearted と訳し、中国語訳では、心中破碎的人 あるいは、傷心的人 と訳している。
それゆえ、ここでは、心砕かれた、謙遜といった意味というより、 じっさいに心が壊れてしまった人、余りに大きな苦しみや事故、人間関係の裏切り等々で傷心の人を指す。体は病気によって壊れてしまい、正常なはたらきを失うことがある。心も同様に、苦難や悲しみの深いときには壊れてしまう。
けれども、そのような心にこそ、主は近い、それがこの作者の実体験なのであった。
この語に続いて、「悔いる霊を救ってくださる」(19節)とある。悔いると訳された原語は、ダーカーで、これも「砕かれる、踏みつぶされる」といった意味に用いられる。
すなわち、ほぼ同様の意味を持つ言葉を重ねて、繰り返し表現することで、強調しているのである。
こうした心が壊れてしまった経験を持ったこの作者であるゆえに、次のことが言われている。
…主に従う人には、災いが重なるが、
主はそのすべてから救いだされる。(20節)
20節は、しばしば引用される。主に従う人、正しいと普通思われている人であっても、その正しい道を歩んでいこうとするからこそいっそう災いも重なるけれども、最終的には全てから救ってくださる。
しかし、あの厳しい迫害の時代はどうだったのか、苦しめられ、殺されてしまった人たちも数知れないではないか…と思う人も多いだろう。
私たちはたとえクリスチャンであっても、このように「すべての災いから救いだされる」とはなかなか言えないであろう。それは私たちが目に見えるものばかりを見るからである。ヨブも恐ろしい苦しみがふりかかり、どんなに祈っても聞かれない、神の応答もないという状態が続いたが、最終的に神からの声があり、助けが与えられた。
また、キリストも十字架の処刑のとき、あまりの激しい苦しみに主よ、主よどうして私を捨てたのか、と詩篇22の作者が叫んだのと同じ叫びをあげておられる。救いがなかったと思われるほど、苦しみは最後まで続いた。しかし、その後には、ヨハネによる福音書によれば、すべてが全うされた と言われて息絶えた。
このように、霊的に最終の結末を見たら、生きてる間に助けられなかったように見えても、必ず死後、霊は永遠に助けられる。
沖縄の普天間基地を移設する問題、知事は県外移設と主張していたが、政府側から巨額の援助を提供すると言われてたちまちそのカネの力にそれまでの主張を変えた。
沖縄振興策について,安倍内閣は、年間3000億円の経済援助を8年間にわたって沖縄県に与えるという。
徳島県の当初予算は、近年は、4500億円程度だということを見ても、年間3000億円、しかも8年間というのがいかに巨額であるかがわかる。
そのようなカネを沖縄に投入して、政府の思い通りにしようとするやり方に驚かされる。原発のときと同様、札束で頬をひっぱたく、カネをばらまくという手法で人心を変えようということである。
しかも、それまで県内移設には反対してきた沖縄の自民党の国会議員たちもみな賛成にまわった。知事は、「驚くべき立派な内容だ」「有史以来の予算だ。いい正月になる」などと政府側の提案を高く評価した。
このような巨額のカネを与えられるということで、アメリカ軍基地を県内移設という方向に大きく転換してしまうこと、それが一体どうして驚くべき立派な内容なのか。 カネで人間の心を変えようとする悪しき考えが露骨に出ている内容をこのようにほめ上げたことに驚かされる。
驚くべきは内容の立派さでなく、カネで解決できるとする低い発想である。
かつて、アメリカの沖縄総領事が、「沖縄は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ」と発言したとして、3年ほど前に更迭されたことがある。
今回のような知事や沖縄の代議士たちの変節は、沖縄県民全体に対しての評価を下げてしまうことにもなりかねず、心ある沖縄の人たち全体への大きな迷惑行為と言えよう。
自民党の石破幹事長が、名護市長選挙の3日前という直前に、市長選の応援演説で、名護市の地域振興のための500億円規模の基金を立ち上げると言い出した。そしてこれは自民党推薦候補が当選しなかったら実施しないというのである。国民の税金を特定市長を当選させるために使うなど、あまりにもひどいやり方である。
NHKの会長が、就任記者会見で、従軍慰安婦がどこの国にもあった、などといった。女性を軍人の欲望の道具とすること自体が悪であることを全く考えていない。また、このようなことが当たり前のように軍も認めてやるほど、戦争というのは異常事態である。 戦争となると、他国の人を大量に殺害することをこの上もないようなよき出来事であるかのように政府もマスコミも発表する。そして国民全体もそのような波にのみ込まれていく。
このようなことが起こるから戦争は決してしてはいけないのだが、現在の政府は憲法の解釈を変更して集団的自衛権の行使をしようとしている。
特定秘密保護法案についても、決まったことは言っても仕方がないと言う意味のことを言った。だが、多数の横暴で決まったことを、それを正しく批判し、あるべき姿へと導こうとするのが新聞やテレビなどの使命である。
さらに、NHKの経営委員の作家が、核武装を必要と主張する東京都知事選挙の候補者の応援演説に出向いたりして、南京虐殺はなかったなどと主張した。
そして、わずか10数人しかいない経営委員のうちの女性委員である、埼玉大学の名誉教授が、驚くべき発言をしている。(毎日新聞2月5日)
大分以前に、抗議先の朝日新聞社で拳銃自殺した右翼団体元幹部について、この委員が、昨年10月、この自殺を礼賛する追悼文を発表し、そのような事件を起こした人物を擁護している発言で、メディアへの暴力による圧力には全く触れていないとのことである。しかも、その女性経営委員は、その右翼団体の行為によって天皇が、「ふたたび現御神(あきつみかみ)となられたのである」と言った。
さらに、朝日新聞について「彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない」と言ったという。このような、憲法に記されている象徴天皇制を否定し、特定の新聞を全面否定するように発言をしている。このような人物が、公共放送として莫大な費用を使っているNHKの経営委員に選ばれているのである。このような人物が選ばれたのも、首相の意向に沿ったからであった。
安倍首相自身が、かつてNHK放送で圧力をかけたことで知られている。NHK教育テレビで日本の従軍慰安婦の問題を取り上げた番組で、放送前日に放送部門トップが安倍官房副長官のもとに出向いて 番組内容を説明した。安倍氏は、番組の内容について要望を出したという。その後、番組はその意向を受けて、大幅に改変されてしまって報道された。
また、この問題に関して、数年後、NHK職員が、政治介入があったと内部告発したことがある。このことは当時はかなりの期間にわたり、繰り返し報道されていた。東京高裁判決では、実際に政治家の意図を受けて改変が行なわれたことを指摘した。
こうした過去のいきさつを見ても、現在の首相自らが、NHKの番組に圧力をかけて改変させてきたような人物であるが、ことを思うが、そのような首相の気に入った者を経営委員として選ぶのでは、大きくNHKの内容が変わっていくことが予想される。
私たちは、今後いっそう、NHKのこうした体質の変化に対して敏感になっていかねばならない。
(355)もし、人の生涯が正しい目的を持つべきだとすれば、それは、神の慈愛をたえず受け取り、またそれ再び分けあたえることでなければならない。(ヒルティ著 「眠られぬ夜のために」上8月28日)
人間の生きる目的は、実にさまざまに見える。そして一見したところでは、あまり共通点もないように思われるほど多種多様である。しかし、真理は単純である。
神から良きものを受け取り、それを他者に分かつことだというのである。
福音伝道も同様である。人間の根本問題である罪の赦しは、ただ神とキリストを信じるだけで与えられる。そしてその真理を他者に知らせることが福音を伝えるということである。
イエスのように実際に重い病気をいやす力を与えられた者は、その力を他者に分かつことができた。私たちはそのような特別な力は誰にでも与えられるのではないことを知っている。
しかし、どんな状態の人でも、ただ信じるだけで心の奥深いところにある良くない思い―罪を赦されるということは、誰でも受けて、それを他者に分かとうとすることができる。
真冬の空は、澄みきっていて月のない日は、星も1年中で最も鮮やかに輝いています。とくに、今年の冬は、夜8時ころには、南の空にオリオン座が見え、その左上の赤い一等星(ベテルギウス)を左上に延長していくと、冬の空で圧倒的な明るさをもって輝く木星が見えます。それをさらにその方向に延長すると、双子座の二つの星のうちの一つ、カストルに達します。また、オリオン座の左下には、全天でとくに明るいシリウスが輝いています。その左上方には、小犬座のプロキオン、頭上に輝いているのは、御者座のカペラです。なお、オリオン座の右上には、牡牛座があり、その一等星アルデバランの赤い星が見えます。このように、今年の冬の星は木星が ほかの星座の輝きをもひきたたせています。
天は神の栄光を物語り
大空は御手のわざを示す。(詩篇19の2)
神の崇高なわざを実感させてくれるのが、冬の星々です。
〇エフェソ書 聖書講話全3巻ができました。全体の講話時間は、約30時間です。聞くためには、パソコンまたは、MP3対応機器が必要です。MP3対応機器として、1年あまり前に、ソニーから発売された、CDラジオが取り扱いが簡単で、カセットテープの機能を省いただけ、小さく、幅も少ないので枕元に置いてもじゃまにならない便利なものです。もちろん、普通の音楽CDも聞くことができます。近くの電器店で購入できない方は、送料共で5000円でお送りできます。
〇これまでに、完成して発売されている吉村孝雄の聖書講話シリーズは次の通りです。
・創世記 3枚セット 41時間 2000円。
・出エジプト記 3枚セット 32時間、1500円
・詩篇 12枚 185時間 3500円。
・ルカ福音書 8枚 109時間 2500円。
・ヨハネによる福音書 5枚セット。約64時間。2千円。
なお、次は複数の方々から希望も出されているイザヤ書の聖書講話CDの作成が進行中です。
〇中高生聖書講座
吉村孝雄は、3月26日(水)~28日(金)、川崎市青少年の家で開かれる中高生聖書講座にて、詩篇を語らせていただく予定です。この聖書講座は、森山浩二、田中健三両氏たちの御愛労によって続けられていて、主がそのような若い世代へのみ言葉を伝える働きを祝福してくださいますように。