聖書(旧約)は、わたし(キリスト)について証しをするものだ。

                                                                                           
  (ヨハネ5章39節)



20145月 第 638号 内容・もくじ

リストボタン芽生えの季節

リストボタン復活のイエスと出会う―使徒言行録、パウロ書簡

リストボタン共に祈ることの重要性

リストボタン約束の地を受け継ぐ―詩篇37篇

リストボタン憲法9条をノーベル平和賞

リストボタン「歴史を知らないこと」 への韓国読者からの返信

リストボタン便利さと危険性

リストボタンことば

リストボタン編集だより

リストボタン来信より

  リストボタンお知らせ



リストボタン芽生えの季節

 

 春になって山道を歩くと、至る所で野草たちが芽を出し、あるいは花を咲かせ、木々は新芽を次々と出していく。(*

 

*)わが家付近の山麓の道を少し歩くだけで、つぎのような野草に出会う。

 

 ハコベ、セイヨウタンポポ、カモジグサ、コナスビ、コバノタツナミ(小葉の立浪)、ヒメコバンソウ、カラスノエンドウ、スズメノエンドウ、キツネアザミ、ヤブジラミ、クサイ(草藺)、トウバナ(塔花)、マンネングサ、金鳳花、マツバウンラン、ハハコグサ(母子草)…等々。

 そして、ベニシダ、ヤブソテツ、イノデ、コシダ、ノキシノブ、ホラシノブ、タチシノブ、イノモトソウ…などなどのシダ類も新しい芽を出している。

 

 樹木も、梅や桜の咲いたあとに、フジの花や見事にその藤色の房を咲かせ、それが終わるとモチツツジが山道に花開く。

 白い可憐な星のような花を咲かせるマルバウツギも谷筋の湿ったところで静かに花を開いている。

 そのほかの樹木もいっせいに芽吹いてくる。

 注意深く見つめると、そこには驚くべき命がある。いっせいに春の暖かさに目覚めて、新しくされていく姿がある。無言にして、いのちの大合唱ともいうべきものを感じる。

 大地を揺り動かすこともできる無限の力を持っている神であるゆえに、このような数知れない野草や樹木たちをいっせいに芽吹かせ、花咲かせ、成長させていくことができるのである。

 このような神の新しくする力は、なんと生き生きと自然の世界に働いていることだろう。

 人間世界をふりかえるとき、そのような生き生きした神の力は見られない。かえって悪の力が至るところに働いているのを見る。

 自然の世界は、清く、美しくしかもいのちあふれている。

 だが、人間世界は、逆に醜く、汚れ、かつフレッシュな命は見当たらない。

 けれども、私たちの霊の目が開かれるにつれて、そうした生き生きしたいのちは、人間世界にも働いているのがわかってくる。ただし人間には、霊的な存在であり、植物や動物と根本的に異なっている。

 霊的な芽吹き、成長、そして花を咲かせることは、植物たちのように、ひとりでに春が来たからぐんぐんひとりでに現れてくるのではない。

 霊的な芽吹き、転換、成長ということは、人間の側で日々求めていかねば、その神の力は働かないようになっている。

 植物や動物の世界には、善悪はない。

 しかし、人間の世界にはそれが存在し、決定的な役割を果たす。真実な神に絶えず立ち返ることが人間にとっての善きことであり、神に逆らい背を向けて生きることが、悪しきことである。

 神に心を常に向けていることによって、私たちは植物たちが自然に成長していくように、霊的に芽吹き、また成長して花を咲かせ実を結ばせるようになる。

 神(キリスト)に背を向けているなら、主イエスが言われたように、そのような人は、「枝のように外に投げ捨てられる。そして枯れる。」

             (ヨハネ15の6)

 神の息の一吹きによって、悪の力にて滅びかけていたものも、そのいのちを受け取り、芽を出しはじめる。

 使徒パウロがそうであった。神の霊的な光が彼の魂に射しこみ、それによって新たな芽ばえが生じた。新生のパウロである。

 そして、自然の世界は、春が圧倒的に新たないのちを感じさせるのに対し、秋から冬は、そのようないのちは波が静まるように薄れ眠ったようになっていく。 しかし、人間の魂の世界においては、日々新たないのちを受けることができるし、そのようないのちのただ中を生きていくことができるように造られている。

 毎日が、芽生えのときであり、日々新しい成長がなされ、花を咲かせて実を結ぶようになっている。いわば神の霊的な光と熱を受けて、神の御手によって育っていくのである。

 植物たちが、日々新しくされ、あらたな芽吹きを見せているように、キリスト者もまた、霊的な意味でそのようになることができるように創造されている。 神がそのように人間を造られているのだから、私たちの魂が砕かれ、神からの力を受けるほどに、そのようになっていくのだと言えよう。

 


リストボタン復活のイエスと会う―使徒言行録、パウロ書簡において

 

 使徒言行録の最初において、復活したイエスと弟子たちは40日も会って神の国についていろいろと教えを受けたことが記されている。それにもかかわらず、弟子たちには新たな力は与えられなかった。人間そのものも変えられなかった。

 これは意外なことである。復活したイエスとそれほど長い期間に会って直接に教えを受けていれば、そこから当然力を受けてキリストの復活を宣べ伝えようとするようになったと思われがちだが、そうではなかったのである。

 弟子たちの人間そのものが変えられ、部屋にこもって恐れていたような弱々しい弟子たちが、殺されることをも恐れないほどに力を与えられたのは、聖霊が注がれることによってであった。聖霊が与えられるということこそ、本当の意味で復活のイエスと出会うということなのである。このことは、とくにヨハネによる福音書においてはっきりと記されている。

 

…わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。…心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。

   (ヨハネ福音書141828より)

 このように言われて、聖霊こそが復活のキリストであることを示している。聖霊を受けることが、すなわち復活のキリストに出会うことになる。

  他方、復活したイエスが特に個人的に呼びかけることで、イエスのほうから出会いを与えたという例もある。これは、

パウロの例において明らかである。彼は、キリスト教そのものを撲滅せんとしてキリスト者を殺すことまでしたと記されている。(使徒224)

 イエスとの出会いを求めていたのでもなかった。それにもかかわらず、神の一方的の御計画によって、復活のイエスとの出会いが与えられた。

 このようなことは特別な人にしかない、ということではない。私たちもさまざまの悩みや苦しみ、あるいは悲しみの淵に沈んでいる時に、思いがけず主からの呼びかけ、励ましの声を聞き、それによって立ち直らせていただく―そのような経験をされた方々も多い。

 ヨハネ福音書においては、イエスの内にとどまれ、ということが繰り返し述べられている。イエスの内にとどまろうと願うなら、イエスもその人の内に留まる、ということが、繰り返し強調されている。

      (ヨハネ福音書151-10

 それに対して、パウロ書簡では、キリストによって義とされる(罪赦される)こと、そしてキリストがうちに住むという表現に重きが置かれている。キリストと出会う、そのことからさらに進むことは、キリストがうちに住んでくださること であるからだ。

 普通に考えても 家のうちに共に住んでいるなら、当然毎日会っていることになる。イエスがうちに住んでくださるときには、私たちは当然イエスと毎日常時会っていることになる。

 

・主の内にあって―in the Lord

 この表現は、パウロは非常に多く用いている。

だからこそ、パウロは、

「主にあって」「キリストにあって」(*)(en kuriw または、en cristw)という表現を、ほかのいかなる使徒や文書より、圧倒的に多く使っている。

 

*)この言葉は、新共同訳では初めて「主と結びついて」と訳されたが、原語のニュアンスは、「主の内にあって」という意味。

 

「主にあって」という原文は、 エン キューリオー en kuriw であるが、この表現は、コンピュータで検索すると新約聖書全体で四十七回現れる。しかしそのうち、四十六回までパウロの書いた文書に使われている。また、「キリストにあって」という表現も新約聖書では七十六回あるが、そのうち、七十三回までパウロが使っている。すなわち、こうした表現は、パウロに特有なのである。

 その他、キリストのことを代名詞を用いて「彼にあって」などとなっている箇所も合わせると、新約聖書全体では、パウロは、このような表現をダイスマン(*)によれば、百六十四回も使っている。 

*)ルドルフ・ダイスマン(18661937)ドイツの神学者。彼の著作「パウロの研究」(邦訳は1930年教文館刊)の199頁。

 

 さらに、パウロ書簡では、義とされる、ということが重要。義とされるとは、英語訳では、justify であり、これは、罪が赦されるという意味で用いられる。

 パウロは復活のイエスと突然出会った。彼においては、罪の赦しと同時に出会いが与えられた。パウロは、イエスと出会い、言葉をかけられたときに、彼の罪深さを知らされ、それにもかかわらず罪赦されたのを実感した。彼が3日の間、目が見えなくされ、水も食事もとらなかった。それは、自分の罪深さ、傲慢さと、それにもかかわらず、それを罰するのでなく、一方的にその重い罪を赦し、語りかけてくださったキリストの愛を深く受け止めるため、祈りに専念するためであった。(使徒言行録9の9~10)

 このように、パウロは、十字架のキリストによるあがないを信じたから赦されたのでなく、その信仰をまだ知らないとき、迫害のさなかに一方的に主からの赦しを受けたのである。

 そして、後になってイエスの死の意味が啓示され、その死は万人の罪を担って死なれたのだと悟るようになった。

 主は、アナニアという弟子を呼び出し、彼を用いて、パウロの目が見えるようになり、聖霊で満たされるようにと遣わした。

 聖霊は、このように人を介して与えられることもある。

パウロにおいては、聖霊に満たされている状態とは、生きて働くキリストの内に置かれていることであった。すでに述べたように、ほかのいかなる聖書に含まれる文書をはるかに越えて、パウロが「キリストの内にある、主の内にある」という表現を実に多くつかっていること―それはつねに霊なるキリストの内に生きていたことを示すものである。

 キリストの内にあるのであるから、キリストとは霊的につねに深い出会いの状態を保っていたということになる。

 キリスト以降の人間のうちで、使徒パウロが最もキリストを不断に見つめ続け、また復活した主イエスもまた、パウロをつねに深く見つめていたと考えられる。

 聖霊を注がれるということ―それは霊なるキリストとの深い出会いを意味する。そのことは、さまざまのことを通してなされたことが使徒言行録に記されている。

 復活した主イエスは、「約束のものを受けるまで待っていなさい」と弟子たちに命じた。

 そこで、弟子たち、イエスの母のマリアや他の婦人たちが心を合わせ、一つになって熱心に祈るようになった。そのような共同体の祈りを続けていたときに、神の時がきて人々に聖霊が注がれた。

 そして、彼等はみなヨハネによる福音書で預言されていたように、より深い意味において復活のキリストに出会ったのである。

 パウロのように、迫害のさなかに突然、キリストの方から光が与えられ、キリストが語りかけることによって出会いを与えられた者もいるが、彼もまた、すでに述べたように、キリストの内にいる―聖霊の内にとどまることによって、劇的な光と声による出会いの後もずっとキリストと出会い続けていたのである。そしてそれがパウロを比類のない伝道者としたのであった。

 このように個人的にも主は来てくださって出会いが与えられることもある。さらに、主の内にあって生きている人において、さらに深いキリストとの出会いも与えられることは、次のような例にも見ることができる。

 

…わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、"主にお会いした。主は言われた。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。」…(使徒言行録221718

 

 こうした霊的に深い出会いは、別の箇所にも記されている。

 

…私は、キリストにある一人の人を知っている。その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた。体のままか、体を離れてかは分からない。…彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。

     (Ⅱコリント12の2~4より)

 このように、常にキリストの内にあって霊的にキリストに出会いつつ日々を過ごしている場合でも、さらに、神は特別に引き上げて異例な出会いを与えることもある。パウロのような常時キリストのうちにあった人でも、そのような経験は、14年間に一度しかなかったのがうかがえる。

 キリストに出会うということは、このように、ごくささやかな段階から限りなく奥深いものまであり、それはキリストの御心のままに与えられる。

 こうした霊的に高い段階へと引き上げられて、キリストに出会うというような体験は、求めればだれにでも与えられるというものでなく―パウロですら14年に一度だった―神がとくに与えようとする人に与えられることがあるのだということである。

 使徒ヨハネやパウロほどではないが、後のアウグスチヌス、ダンテ、スペインのテレサ、トマス・ア・ケンピスなどの書いたものには、とくに引き上げられて、キリスト(神)と出会った経験を記していると思われるものがある。

 しかし、そのような特別な例でなくとも、ごくふつうのキリスト者はみな、そうした聖霊であるキリストと出会っているからこそ、神とキリストを信じての人生を送っていくことができているのである。

 神をお父様と呼べる人は、みな聖霊を受けている。聖霊によらなくては、目に見えぬ神をそのように最も近い存在として魂が呼びかけることなど到底あり得ないからである。そして聖霊を受けているということは、すなわち霊なるキリストと出会っているということにほかならない。

 「生きるとはキリスト」(フィリピ1の21)というよく知られた言葉がある。言い換えれば、人間として本当に生きるということは、復活のキリストと常に出会いつつ―キリストを見つめつつ生きることである。そしてそこから、あらゆるよきもの―永遠の命、力、清さ、美 等々を与えられていくというのが、私たちの願うところである。

 

…主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(Ⅰテサロニケ5の1011

 

 復活の主と出会う、それは一回きりのことでなく、日々与えられることである。目覚めていても眠っていても主とともに生きることができるなら、それは常時キリストと出会っていることにほかならない。

 そして、そこから自分だけが安らかにいるということにとどまっていないで、他者にその恵みを分かち合うことがさらなる祝福の道であることが、このパウロの言葉によって示されている。

 主は、いのちの泉であるから、本当に私たちがこのように目覚めていても眠っていても主と出会いつつ歩んでいるときには、その泉からの水をいつも飲んでいることになり、そこからまた周囲に流れ出ていく。

 


リストボタン 共に祈り合うことの重要性について

 

 祈りというのは、一人でするものだ、と考えて、キリスト者となって何十年にもなるが、一度もキリスト集会の人などに、「…を、祈ってください」と頼んだことも、そのような気持ちになったこともないという人たちが多い。

 これには、次のような理由が考えられる。

 

①祈りを聞いてくださる神や祈りの力に対する不信仰のため。そこから、祈ってもらってもどうにもなるものでないというあきらめ。

②自分が抱えている重荷や問題の内容がほかの人に言えないようなことだから。祈ってもらうためには、自分のかかえている問題をある程度話さないといけないが、自分の悩んでいる難しい問題を、他人に話す気になれない。

③自分自身が、その問題に対して、真剣に祈れていないので、他人に祈りを依頼する気持ちになれない。

④他人に祈って…などと頼むのは、何となく自尊心が許さない。相手に従属するような気がする。祈ってもらわないといられないような弱い人間だと思われたくない。 

⑤祈るときには、戸を閉めて祈れ、という聖書の言葉があるので、一人で祈るものだと思っている。

⑥祈ってもらうことのできる相手がいない。ふだんの交わりがあまりないので、祈ってなどと言えない。

⑦祈ってと頼んでも、本当に真剣に祈ってくれるかどうか分からない。

⑧自分はいつも祈っているので、他人に祈ってもらう必要はない。

 

 このような思いに対して、聖書はどう言っているだろうか。

 まず、主イエスは、一人で祈れということも言われた(マタイ6の6)が、他方次のようにも言われた。

 

…また、はっきり言っておくが(*)、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ181820

 

*)「はっきり」と訳されているが、イエスが強調されたのは、あいまいでなくはっきりといった明瞭性を言っているのでなく、原語は、アーメーン amen であり、真理を言う、真実に言う という意味である。英訳も、"I tell you the truth (NIV)、あるいは、Truly I tell you (NRS)である。

 

 この聖書の箇所の、後半部「二人、三人ともに集まるところに私はいる。」という言葉はよく用いられる。しかし、この言葉の前に置かれているのは、複数の人の祈りの重要性である。

 一人で祈るより、二人で心を一つにして祈ることによって聞いていただける、というのである。その後に、二人、または三人が主の名によって集まるところには…と言われているから、これは、とくに祈りと直接に関わっていることとして教えられたのがわかる。

 二人、三人イエスの名によって―イエスを信じ、イエスを仰いで集まるところには、主がそこにおられる、だから二人、三人が心を合わせて祈るときには、そこにおられる主が聴いてくださる―ということなのである。

 

 主イエスが、神と同じ存在であり、罪なき者であること示すため、高い山に登ったことがあった。このときも、あえて一人で行かず、3人の弟子たちを伴って祈るために行ったと記されている。

 

…この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。(ルカ 928

 

 イエスが十字架にて処刑される前夜に、ゲツセマネにおいて深い祈りを捧げたが、そのときに弟子たちも共に祈るように求められた。

…「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」              (マタイ2641

 主イエスは、山に登って、夜通し一人で祈ったということも記されている。(マタイ1423)しかし、この時は、イエスの生涯のうちで、最も厳しい霊的な戦いのときであったゆえに、一人で夜通し祈るというのが予想できるところである。しかし、主イエスは、あえて弱い弟子たちもともに祈ることを求められた。

 ゲツセマネの祈りのときに、血のような汗をしたたらせ、非常な苦しみのなかで祈られた。そのような霊的な戦いの場にどうして弟子たちを伴ってきたのだろうか。

 それは、共同の祈りということの重要性のゆえであった。信仰の弱い者も、しっかりした者もともに祈ることが重要なのであった。

 つぎに、聖霊という最大の賜物を与えられることにおいても、共同の祈りを重んじられた。聖霊を受けるとは、キリストご自身、神ご自身を与えられることにほかならない。そのような大いなる賜物を受けるには、どうすべきと言われただろうか。主イエスご自身がつぎのように言われた。

 

…また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。

高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ244749

 

 ここで、高い所からの力とは、聖霊のことである。都にとどまれというのも、単になにもしないでおれ、というのでなく、弟子たちが祈りつつ待つようにとの意味であった。

 そのことは、ルカ福音書の後に続いて書かれた使徒言行録の最初にしるされている。

 

…イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1の3~5)

 

 ここでも、主は「約束されたものを待ちなさい」と言われているが、それは聖霊のことである。聖霊という最も重要なものを受けるためには、祈って待ち続けよ、と使徒たちに言われたのである。

 そして弟子たちは、そのイエスの言葉にしたがった。

 

…使徒たち、ほかの婦人たち、イエスの母マリヤたちも 心を合わせて熱心に祈っていた。」(使徒言行録1の14)と記されている。

  このようにして、共に祈り続けていたが、時至って、主の約束のとおりに聖霊が豊かに注がれた。それによって初めて弟子たちは、まったく新たな力を受けてキリストの復活、そして十字架による罪の赦しの福音を宣べ伝えはじめるようになった。

 私たちが注目させられるのは、最大の賜物としての聖霊がもっとも豊かに与えられたのも、複数の人たちが真剣に、心を一つにして祈りを続けた結果として与えられたということである。

 このような複数の人たちの祈りの重要性は、パウロも述べている。

 

…兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。

どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に(*)祈ってください。

わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに歓迎されるように、  (ローマ153031 

*)「熱心に」と訳されている原語は、シュナゴーニゾマイ であり、この語は、(sun シュン agonizomai アゴーニゾマイ)で、シュン という接頭語は、「共に」を意味し、アゴーニゾマイは、「戦う」というのがもともとの意味であったから、このパウロの言葉は、 「祈りにおいて共に戦っている」というニュアンスを持っている。

 

 このように、エルサレムにギリシア地方からの援助を携えてエルサレムに行くということは、パウロの命にかかわるような危険なことであることをパウロは知っていた。そうした困難な旅に出向くときに、彼はローマの信徒たちにも祈ってほしいと懇願している。

 それは、主イエス・キリストによって、また聖霊が与える愛によってお願いする…という特別に心を込めた表現となっていて、これはいかにパウロがこの問題を重要視していたかを示すものである。

 パウロは、きわめて高い段階にまで引き上げられて語ることのできない声を聞いたし、新約聖書の相当部分が彼が受けた啓示を記しているというほかに類のない使徒であった。それほど聖霊をゆたかに受けていたということである。

 それにもかかわらず、否それだからこそ、他者の真実な祈りの重要性を深く悟っていたのである。

 パウロが、「私たちは祈りのたびごとに…」と述べて、彼も含めた複数の人たちが、他者の人たちのことをともに祈っていることを記している。

…わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。(Ⅰテサロニケ 12

 

 さらに、パウロの最大の使命であった福音を語ることにおいても、自分だけが祈っていたらよいというのでなく、信徒たちの祈りの援助をも求めている。

 

…また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。

 私はこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは、大胆に話せるように、祈ってください。(エペソ6の1920

 

  このように、繰り返し、福音を力強く伝えるために、信徒の祈りの助けの必要を訴えている。

 こうしたことは、キリストを信じる人の集りは「キリストのからだである」と言われていることからも導かれる。

 信徒の集りがキリストのからだである、ということはふつうの考え方では理解しがたいことである。しかし、これは共同体がいかに重要であるかを指し示す言葉なのである。

 私たちは自分の体の一部が傷ついて痛むなら、全身でその痛みを感じ、また耐える。また、何かで喜ばしいことがあれば心身ともに喜ぶ。同様に、信徒の集りで誰かが苦しみ痛みを感じているなら、ほかの信徒もその痛みや悲しみをともに苦しみ、悲しむ―それこそが、キリストのからだであるということになる。

 

…一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅰコリント 122627

 

 こうした状態があるべき姿であるならば、ある人が苦しい問題を抱えているならば、ほかの信徒もともにそれを少しでも担ってともに祈りに覚えあうのが当然あるべき状態となる。

 共に、祈られ祈るということは、このように、福音書の主イエスの言葉や使徒パウロの言葉などからも、聖書の指し示す姿であるというのがわかる。

 そのような祈り合うことによって、そこに聖霊が注がれて新たな力や導きをそれぞれが与えられるのを信じることができる。

 


リストボタン約束の地を受け継ぐ―詩篇37篇

 

悪事を謀る者のことでいら立つな。

不正を行う者をうらやむな。

彼らは草のように瞬く間に枯れる。

青草のようにすぐにしおれる。(1~2節)

 

主に信頼し、善を行え。

この地に住み着き、信仰を糧とせよ。

主に自らをゆだねよ

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主にまかせよ。

信頼せよ、主は計らい

あなたの正しさを光のように(6

あなたのための裁きを

真昼の光のように輝かせてくださる。

 

 この詩では、まず最初に、「悪を行う者のことでいらだつな」とある。私たちは、絶えず、政治や社会で起こる出来事に、不満や批判、あるいは怒りを持っていると言えるだろう。それは、この詩篇で言われているように、いまから数千年も昔から変ることがない。

 政治でも悪を行う者は多くいるが、腹を立てたところでどうにかなることでもないので、私たちにできることは、必ず悪の力や不正は枯れ、滅びる時が来るという確信をまず持つことである。それからそれぞれの与えられた場でできることをするということである。

 この確信がなかったら、目に見える現象は悪いものが打ち勝ったりするので、すぐ動揺してしまって自分自身が沈んでいく。だからさまざまな問題をしっかり見た上で揺るがされないためには、悪の力は必ず草のように枯れるのだという確信を持つことで、また聖書はいつもそれを与えようとしている。

 そのような確信に満ちているという点においても、ほかのいかなる書物も聖書にははるかに遠く及ばない。人間が書いたもの―評論や小説、意見、解説等々はみなこうした悪の最終的結末ということには全くといってよいほど触れていない。

 詩篇もその第一篇から、こうした善(神)の力の勝利と、悪の力の滅びとがはっきりと記されている。

 

ああ、幸いだ。…

主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び

葉もしおれることがない。

神に逆らう者はそうではない。

彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。

神に逆らう者の道は滅びに至る。(詩篇第1篇より)

 

 詩篇37篇のはじめの部分は、このように、詩篇第1篇と本質的に同じことを歌っているのがわかる。

 神を信じるということは、このような聖書に記されている神のなさりかたをも信じるということを含んでいる。

 

 また「主に自らをゆだねよ。主は心の願いをかなえてくださる。」(4節)とあるが、これは私たちの日々の生活にとって重要な御言葉である。自分の力でしようと思ったらできない。個人のことにしても社会のことにしても、主にゆだね、主に任せると、必ず主が考えてしてくださる。

 

「あなたの正しさを光のように…」(6節)とは、私たち自身が正しいのではなく、悔い改めていることによって、神様に義としていただいているという点での正しさを意味しており、また、御言葉がその人の内で光り始めるという状態を表している。

 このように主にゆだねたら、毎日の生活は、神様がさまざまな面で導いてくださる。23節にも「主は人の一歩一歩を定めて、道を備えてくださる。」とある。人は倒れても、捨てられるのではない。ということが次にあるが、病気、苦しみ、事故、大きな罪を犯したりして、周りの人からも捨てられるということは起こりうるが、人が捨てても神様は支えてくださる。 このことは、信仰を続けてきた人みなが経験してきたことであろう。

 ハンセン病や結核は死の病として恐れられ、一般の人々からも家族からも見捨てられるほどであった。そのような状況においても神を信じた人は主がそうした人々の手をとらえて、引き起こしてくださった。

 老齢になり、家族もいなくなり、周りの人からも忘れられてしまうという孤独な状態になっても、そこに神様が来て、手をとらえてくださる。

 

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。

繁栄の道を行く者や

悪だくみをする者のことでいら立つな。(7節)

怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。

悪事を謀る者は断たれ

主に望みをおく人は、地を継ぐ。(9)

しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る

。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。(10

貧しい人は地を継ぎ

豊かな平和に自らをゆだねる。                    11節)

 この区切りの最初の7節前半の、「主を待ち焦がれよ」という訳語は、なじみにくい。  これは、次のように他の日本語訳や海外の次のような訳語がより適切である。

・耐え忍んで主を待て (新改訳)

・耐え忍びて主を待ち望め (口語訳)

 英語訳聖書でも、多くは次のように訳されている。

Be still before the LORD and wait patiently for him; (NIV)→ 主の前に静まり、主を忍耐して待ち望め。

 

 「待ち焦がれる」と訳された原語(フール)は「恐れる、おののく、苦しむ、身もだえする、」という意味にも使われていて(*)、他の訳では「耐え忍べ」となっているものもある。

 苦しみの激しいとき、祈ってもなかなか聞かれない、そんな時に、「主の前に静まり、苦しいと感じるほどに、耐え忍んで主を待て」ということである。

地を受け継ぐ者は

 この詩篇37篇では、 9、11、22、29、34節にあるように、4回も繰り返し、「地を継ぐ」という言葉が出てくる。新共同訳では、「貧しい人は地を継ぎ…」と訳されている。

 このように繰り返し言われているのは、聖書全体の中でもこの詩篇だけである。その中でも11節が有名な山上の教えの中に―訳語が少し違うが―「柔和なものは地を受け継ぐ」という訳で引用されている。

 日本語では「柔和な」というのと「貧しい」というのは非常に違った概念で、「貧しい」というとお金がない、「柔和」というとお金があろうがなかろうが関係なく、優しい、穏やかなという意味がある。

 どうしてこんなに違うかというと、新約聖書を書いた人たちは、旧約聖書の原文であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語訳の旧約聖書を用いて、そこから引用しているからである。

 元の言葉(ヘブル語)は、アーナウであり、これは、「圧迫された」という意味を持っているので、「苦しむ、悩む」という意味をもっている。

 それゆえ、日本語訳でも「苦しむ人」と訳しているのもある。

 

…苦しむ人は、地を受け継ぎ

豊かな平和を楽しむ。

          (フランシスコ会訳)

 

 そして、圧迫された人はたいてい、貧しさにつながるので、「貧しい」と訳しており、また圧迫されてもじっと耐えているという意味で「柔和」とも訳される。

 このように、旧約聖書の原文であるのヘブル語から、そのギリシャ語の プラユース praus になると、柔和な という意味に限定されてしまう。

 このように、外国語に翻訳すると当然、その意味は元の言葉よりも、狭くなってしまうことはよくある。(*

 

*)例えば、英語の sweet を日本語では、甘いと訳することが多い。その日本語では、味のことで砂糖のようなものをまず思い起こす。けれども、英語のsweet は 次のような意味を持っており、甘いというより、はるかに意味が広くて深い味わいのある言葉である。

 甘い,うまい; 味〔香り〕のよい; 新鮮な,気持のいい,愉快な; (声・音色が)美しい,調子のいい; 親切な,優しい;きれいな,かわいらしい;

 

 また柔和というのは、踏まれても踏まれても踏み返さないという風にも訳されたりする。単に優しいということでなく、主によって甘んじて受けるという心持である。そういう人こそが地を受け継ぐということである。

 地を継ぐというのは、神が与えると約束した地を受け継ぐということである。そしてその地とは、乳と蜜の流れる地、とあらわされてきたように、あらゆる良きものが満ちている地だということを意味している。

 神から、カナンの地を与えるとアブラハムのときからずっと言われてきたことだが、その約束されたところを、受け継ぐ、獲得するということである。

 現代の私たちにとっては、イエスが言われた、地を受け継ぐということは、山上の教えの最初にあった「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」であるように、神の国を受けるという意味をもっている。

 旧約聖書ではカナンという目に見える土地であったが、だんだん歴史とともに霊的な意味を持つようになり、新約聖書になれば、神の国を受け継ぐということになって新約聖書のあちらこちらにでてくる。

 

 この短い区切りにおいて、「地を継ぐ」という言葉が二回現れる。この詩の作者はとくにこのことに関して主からの啓示を深く受けたと考えられる。

 この言葉(表現)の重要性は、この詩篇だけにとどまらない。それは、この言葉(11節)が、新約聖書のなかでも最もよく読まれてきた有名な箇所―山上の教えの中に含まれているからである。

 

…柔和な人は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ。              (マタイ5の5)

 

 この有名な言葉が、イエスの時代よりはるかに古い時代に書かれた詩篇3711節からの引用であるということは、多くの人には知られていない。

 それは、訳文が旧約聖書と新約聖書とちがっているからである。

  それゆえに、マタイ5章の山上の教えの本来の意味は、引用元の詩篇の意味から考えると、柔和という徳目を持った人でなく、苦しむ人、何らかの圧迫に悩まされている人、貧しさゆえに苦しんでいる人、というニュアンスを持っているのがわかる。

 山上の教えでは、この「柔和の人は幸いだ…」の手前にあるのが、心の貧しき人々であり、悲しむ人々は幸いだ、ということであり、その文脈から考えても、ここは苦しんでいる人、というのが自然なつながりだと言えよう。

 じっさい、他の訳では、「耐え忍ぶ人々は、幸いだ。」(共同訳)と訳されている。共同訳とは、新共同訳以前に新約聖書だけが完成して発売されたものである。しかし、のちに、旧約聖書と合本になったとき、訳者が変わったために、訳語も変更されて現在のように 「柔和な者は…」となった。しかし、この訳のほうが、よりよいということではない。

 さらに、これは、山上の教えでは、心の貧しい(心が打ち砕かれた人)、悲しむ人、義にうえ渇く人と続くから、その間にあるのは、「柔和」という徳目をあげたのでなく、苦しんでいる人というのが前後のつながりにも合っている。

 そして、この5節は、悲しむ人々は幸いだ、という言葉を補強するために、詩篇から引用されたのではないかとも考えられている。

 そして、この5節の柔和な人たちというのを除くと、10節までの「幸いだ」とされている数は、7つとなって祝福された数となるのはこの見方を裏付けていると言えよう。

 いずれにしても、この詩篇37篇の11節は、新約聖書の山上の教えのなかに組み込まれたために、とくに知られるようになった。新約聖書の訳語は本来のものとは異なるニュアンスとなったが、それはそれでこの箇所のあらたな意味の広がりを感じさせる言葉ともなった。

 旧約聖書において、「地を継ぐ」のはどのような人であっただろうか。この詩篇では、さまざまの言葉をもってあらわしている。

 

・主に望みをおく人 (主を待ち望む人) (9節)

・貧しい人(苦しむ人)(11節)

・神の祝福を受けた人(22節)

・主に従う人―正しい人(29節) (主に従うと訳された原語は、ツァッデーク(サッディーク)であるから「正しき人」

 これらはそれぞれに重要なことであって、地を継ぐ―神の約束のものを受け継ぐのは、当然これら四つのいずれもが大切なことである。

 山上の教えでは、それら四つのうち、とくに第2の「苦しむ人、圧迫された人、貧しき人」を取り上げたのは、主イエスご自身が、そうした人たちのところに来てくださったお方であるからだと考えられる。

 この山上の教えの直後に、イエスが山から降りて最初にその神の力をあらわされたのが、ハンセン病の人に対してであったのを見ても、イエスの心の中心に、苦しむ人、圧迫されている人があったことがうかがえる。

 

 11節に「豊かな平和に自らをゆだねる」とあるが、これは平和を受けるということである。詩篇の場合、訳語によってかなりニュアンスが変わってくるので、他の訳を参照するとより分かり易くなる。「豊かな平和を味わうことができる」、「豊かな平和にあって、喜びを持つ」と訳しているものもある。They will take their delight in piece without measure.

主に従う人に向かって

主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが(12)(*

主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。(13

主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り 貧しい人、乏しい人を倒そうとし

まっすぐに歩む人を屠ろうとするが(14

その剣はかえって自分の胸を貫き

弓は折れるであろう。(15

 

*)「主に従う人」サッディーク は、「正しい、正義の」という意味であり、名詞の セデク(ツェデク)がその名詞形で「正義」。それゆえ、英語訳はほとんど the righteousと訳している。日本語訳も、悪しき者(口語訳)、悪者(新改訳)と訳している。日本語訳としては、初めて新共同訳が、正しい人と訳さず、主に従う人 と訳した。それは聖書的に言えば、正しいとは主に従うことだからという考えからであろう。

 同様に、新共同訳では、ほかのほとんどの英訳が The wicked(悪しき人)、日本語訳が「悪しき者」と訳しているのに対し、新共同訳だけが、「主に逆らう人」と訳しているのも同様な理解からであると考えられる。

 

 この箇所においても、悪の心を持つ者は、正しき人(主に従おうとする人)に対して理由なき憎しみをもって攻撃してくるが、彼等の最後は必ず裁かれるという確信がここにある。(1314節)

 こうした確信こそは、聖書が数千年にわたって人々にあたえてきたものであり、聖書が万人の書であり、永遠の書であることと深く結びついている。

 この確信は、神の万能とその正義の力を深く実感している者によって生まれ、それは神に根ざしているゆえに数千年を越えて受け継がれてきたのである。

 旧約聖書から続いているこの悪の末路への洞察は、神からの啓示であり、当然のことながら、新約聖書の世界ではさらに深められている。

 

悪しき人(主に逆らう者)は、武器を持って貧しい人や弱い人を倒そうとするというのは、歴史の中でいつも起こってきたが、その剣はかえって自分の胸を貫くとある。 (1415節)

 これは、意味深い言葉である。悪意ある言葉を剣として、相手の心を傷つけようとするとき、そのようなことをすれば、自分自身の魂が、その悪意によって刺され、裁きを受けることになる。そしてそのような悪意ある人の心から善き部分が滅びてしまう。

 主イエスが、剣を取って戦おうとした弟子たちに言われた有名な言葉がある。

 

…剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。              (マタイ2652

 この言葉は、戦争を否定する主イエスの言葉としてよく引用されるが、国家間などの戦争だけでなく、個々の人間みなにあてはまる霊的な言葉でもある。

 悪意の剣、暴言という剣、憎しみという剣…さまざまの相手の心を突き刺すような剣を人間は持っている。ふだんはそれは隠されたようになっているが、ふとしたときに、そのような剣をもち出して、相手を深く傷つけてしまう。

 そしてそれはこのイエスの言葉が鋭く言い当てているように、そのような剣をもち出すものの魂自身が滅びるということなのである。

 それとは逆に、キリストから受けた「いのちの水」を飲むときには、私たちの魂が一つの泉となる。そしてそこからあふれ出るという。そのようなキリストに源をもつ命の水が相手にも及ぶとき、相手の傷ついた魂のいやしともなるであろう。

 相手のことを思って心から祈るときには、相手にも自分に対しても良きものが及ぶ。相手がそれを受け取らなければ、平和はあなた方のところに返ってくると言われているように。              (マタイ1013)

 

 …主に従う人が持っている物はわずかでも

主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。(16節)

 

 これは、五千人のパンの奇跡でも言われているように、わずかなものであっても、イエス様が祝福されたら豊かなものになるということと同様である。

 主に従う者(信仰によって正しい者とみなされた人)、その人はたとえ持ち物はわずかであっても、地位や大きな家や財産はなくとも、その小さなものを主が祝福してくださるときには、それは愛と真実の香りを持っているゆえに、広がっていく。人間の持つ愛と称するものは、差別的であり範囲も狭い。それは聖書にいう愛でなく、愛の影にすぎない。

 しかし、神に由来する愛を与えられた者は、たとえ弱くこの世で称賛されるような業績はなにもなくとも、不思議なエネルギーをもっていてそのよき影響は周囲に及んでいく。弱いところに神の祝福は豊かに注がれると記されているとおりである。

 悪しき者の富は、周囲に災いを引き起し、最終的には何らよいことが生まれず、消えていくものでしかない。

 

… 無垢な人(*)の生涯を 主は知っていてくださる。

彼らはとこしえに嗣業を持つ。…(18

神の祝福を受けた人は地を継ぐ。

神の呪いを受けた者は断たれる。(22

 

「無垢な人」というような日本語表現は今ではほとんど使われない表現である。この原語は、ターミーム であり、従来の訳では、全き人 ―ヨブは全き人であった―と訳されてきた。

 「全き人」というのは、主に従おうとする人のことで、主に対して犯した罪を赦してもらった人もまた「全き人」であると言えよう。

 罪多き者であっても、悔い改めて主に向うだけで、その罪はすべて赦される。それは罪なき者―全き者のようにみなしてくださるということである。

 そのような人には嗣業、今の私たちには「永遠の命」が与えられる。それは神の国とも言い換えることができる。

 神の国、それは神の愛と真実による御支配であり、主の御手のうちに置いていただくことである。

 それを与えていただけるので、災いが降りかかってもうろたえることがない。本当に信仰をもっていたら、さまざまなことが起こって動揺することがあっても、立ち直ることができる。このように繰り返し悪の力には限界があり、時が来たら必ず滅びるのだということを確信を持って告げている。

 

「主に従う人は地を受け継ぐ」(29節)とあるが、「地を受け継ぐ」というのは新約聖書では「神の国を受け継ぐ」という意味を持つようになっていった。他方、この現実の世界においても、この地(この世)に実際に、人々の心に励ます者、清い存在として残っていくのも、主に従う人である。

 主に望みを置き、主の道を守るとき(34)―現代の私たちにとってそれは、主イエスの十字架による罪のあがないを信じ、復活のキリストそのものでもある聖霊を絶えず求めて受けていくときを意味する。

 そのとき、主が私たちをとらえ、祝福を与えてくださる。

 

…主はあなたを高く上げて

地を継がせてくださる。(34節)

 

 この世の悪はなぜこのようにはびこっているのか、なぜ正義の神がおられるのなら、そのままにしておかれるのかというのは、変ることなき疑問である。

 

…主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのをわたしは見た。

しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできない。(3536節)

 

 この確信を私たちもつねに共有したいと思う。主が聖霊を注いでくださるとき、真理をことごとく思い起こさせるといわれているように、こうした悪の末路に関する真理もありありと思い起こさせてくださるであろう。

 個人の場合にかぎらず、悪を成し続けるときにはローマ帝国のような大きな国も、日本の徳川幕府のように、鎖国をし、人権を無視して徹底的に差別をした国も、時が着たら必ず消えていく。

 

…全き者であろうとつとめ、まっすぐに見ようとせよ。

平和な人には、未来がある。(*)(37節)

 

*)未来と訳された原語アハリートは、後のものという意味なので、一部の訳―日本語訳も―子孫 と訳している。しかし、外国語訳、例えば英訳は、there is a future for the man of peace. (NIV) あるいは、 a wonderful future awaits those who love peace. (NLT) などのように、未来 と訳しているのも多い。

 

 神様に従うものであろうとして、まっすぐなものを見ようとするときには、主の平和が与えられ、その主に平和(平安)を持つ人にはいつも未来がある。しかし、主に逆らう者の未来はない。絶たれてしまう。

 「私の平和をあなた方に与えよう」(ヨハネ1427)―主の平和こそ、主イエスが、最後の夕食のときに、遺言のように語られたことである。

 

 この詩篇37篇でほかのどの詩篇にも増して強調されているが、「地を受け継ぐ」ということであった。そして地を受け継ぐ者はどういう者なのかということが繰り返し記されている。

 そしてそのことは、霊的な意味へと深められ、新約聖書にも流れ込んでいる。

 それはすでに述べたように、主イエスの有名な言葉、「柔和な者(引用元の詩篇の意味に則して言えば、苦しむ者)は地を受け継ぐ」(マタイ5の5)である。

 それ以外の箇所でも、キリスト者が受け継ぐものに言及されているところは多くあるが、一例としてエフェソ信徒への手紙をあげる。

 

 …キリストによって私たちは神の御計画によって約束されたものの相続者とされた。…

 私たちは、キリストによって福音を聞き、約束された聖霊で証印を押していただいた。

 この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保障である。(エペソ書1の1114より)

 

 聖霊は聖なる風というニュアンスも持っており ―創世記巻頭でも、暗闇と混沌の中で霊が動いていたと訳されているが、これは聖なる風 ―divine wind―とも訳されている。

 私たちがその御国からの聖なる風を受けたら、それが御国を受け継ぐ保証であると記されている。18節でも、聖なる霊が与えられたら、私たちが受け継ぐものがどれほど豊かなものなのかが分かる。そのように目を開いてくださいというパウロの祈りか書かれている。3章6節でも、神様の大きなご計画は、異邦人であっても約束されたものを受け継ぐということで、新約聖書でもこのように繰り返し言われている。

 わたしたちは現実の問題をいつも見て、どのように動いているか知らなければならないが、それによって絶えず動揺させられそうになるので、そのときにこそ聖書がある。新しい天と新しい地を受け継ぐという壮大な希望が聖書の最後におかれた黙示録に書かれている。

 どんなにこの世に悪があっても、私たちが聖なる霊を豊かに受けるとき、主はすぐに来られるということを実感できるようになるのがうかがえる。(黙示録2220

 私たちもその約束を信じて、主よ来てくださいという希望を持ち、必ず悪の力は滅び、輝かしい神の国を受け継ぐことができるということを、いつも胸に思って、その福音を伝えていきたいと思う。

 


リストボタン憲法9条を

      ノーベル平和賞に

 

 憲法9条を持ち続けてきた「日本国民」が先月、今年のノーベル平和賞候補にエントリー(参加登録)された。それは、神奈川県のキリスト者の女性、鷹巣直美さん(7歳と1歳の子供の母親)が昨年送ったメールがきっかけとなった。

 

 女性の敏感な感覚―それは未来の世代を自らのからだに宿し、育てていくということと関わっていると言えよう。今から60年ほど昔、国民的な署名運動となったきっかけも女性から始まった。

 1954年3月、北西太平洋ビキニ環礁でアメリカの水爆実験が行なわれ、その際生じた強い放射性物質を静岡の漁船(第五福竜丸)の乗員らが浴びた。死者も出たこの事態によって、水爆実験禁止への大きなうねりを生じることになった。

 東京・杉並の主婦からはじまった原水爆実験禁止を求める署名活動は、たちまちのうちに全国に広がり、翌年8月には、3000万人を越えるまでに至った。

 

 今回の憲法9条を守るためにと、1人で始めた運動が去年5月はじめには、2万5000人の署名が集った。 憲法といった個人でも団体でもないものは、エントリーの対象にはならないが、団体ならば可能ということで、憲法9条を守ってきた日本国民を対象に、ということにした。

 去年の5月にインターネットで呼びかけると、すぐに多くの反応があり、エントリーのために必要な有識者の推薦(*)も集まった。

 

 *)それは、岩村義雄(神戸国際支援機構理事長)、大田正紀(梅花女子大学名誉教授)、勝村弘也(松陰女子学院大学教授)、沢知恵(歌手)、白方誠弥(淀川キリスト教病院名誉院長)、新免貢(宮城学院女子大学教授)、樋口進(関西学院大学教授)、本田哲郎(フランシスコ会 司祭。「釜ケ崎反失業連絡会共同代表」)、水垣渉(京都大学名誉教授)、宮本要太郎(関西大学教授)、久松英二(龍谷大学教授)、光延一郎(上智大学教授神学部長)ほか。

 

 今年2月1日の応募締め切り時点で、大学教授など43人の推薦人と2万4887人の署名が集り、4月9日に、ノーベル委員会から「今年の278件の受賞候補の一つにエントリーされた」とメールがあったという。もちろん受賞というのは多くの参加登録があるからなかなか難しいと思われるが、こうした可能な方法で私たちの意志を現すことが重要なのである。 4月末で4万9861人の署名が集まったという。

 なお、団体がノーベル平和賞を受賞したのは、EU(欧州連合)の例がある。冷戦終結後の欧州をまとめようと尽力したためだった。

 「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会の 署名サイトは、(http://chn.ge/1bNX7Hb)。署名は、増え続けている。簡単に署名できるので、インターネットを使っている方々は、このサイトを開いてみられることをお勧めします。

 なお、この記事は、最初に、東京新聞が「9条にノーベル平和賞を」、「一人の母親の運動広がる」と題して今年の1月3日に大きく取り上げ、ついでクリスチャン新聞が、1月26日号でやはり同じタイトルで取り上げた。さらに、毎日新聞は5月3日の憲法記念日にかなりのスペースを使って掲載した。

 東京新聞は、原発関係でも、すぐれた報道、論評を掲載して、評価が高かったが、今回のことも、正月早々に、写真入りで大きく取り上げるという見識を示した。

 鷹巣さんたちは、「非戦、非暴力は神様の御心と信じ、戦後、戦争の歯止めとなっていた憲法9条を守り、広め、輝かせたいと祈りつつ、地元の憲法9条の会の方々といっしょに活動しています。」と語っている。  (クリスチャン新聞1月26日号)

 


リストボタン「歴史を知らないこと」への、韓国の読者からの返信

 

 前月号に、日本人が、日本が中国や韓国に戦前に何をしてきたか、あまりにも知らないことを記した。

 豊臣秀吉に命じられた軍が朝鮮に攻め入った文禄・慶長の役のことなど書いた小文について、「いのちの水」誌の読者、韓国の具 本術氏が、つぎのような記事を寄せて下さった。

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 最近、御下送の「いのちの水」誌、第638号(16頁)の「歴史を知らないこと」にちなみ、弊地の新聞、朝鮮日報の4月23日の記事を翻訳転記致します。

 文禄・慶長の役は、韓国での通称は、「壬辰倭乱・丁酉(ていゆう)倭乱」といい、緒戦の釜山では、隣接の守護城のあった小都市(東莱トンネ)では、豊臣軍により、軍官民は残らず全滅されました。

 その戦乱後、新しく赴任した市長の李安訥(イ・アンノル)が、戦争のあった4月15日の朝、町中から不意に起こった大いなる哭(声をあげて泣くこと)の声に驚き、綴った詩(題は「4月15日」)があります。

 

「父がその子のために哭し、子が父のために哭をなす。

祖父が孫のために哭し、孫が祖父のために哭する。

母が娘のために哭し、娘が母のために哭する。

妻が夫のために哭し、夫が妻のために哭す。

兄弟や姉妹の別なく、生きている者は、みな哭した。

額に皺を寄せて聴きいっていたが、涙をとめどもなく流していた。

そのとき、下役の一人が述べるには、

哭する家族でも残っていたら、まだその悲しみは深くはない。

白刃のもとで全家族ことごとく失われ、哭する者もない数もあまたに(たくさん)ある。

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 具本術氏は、この詩の原文を添えて、それにご自身の訳を付けて送ってくださった。(一部わかりやすい表現にした箇所がある)

 この朝鮮での戦争で、秀吉の武将たちは、朝鮮の軍、民の鼻、耳を削ぎ落とし、持ち帰った。それが埋められて塚とされたのが今日も京都市に残っている。東山区の豊国神社門前にある鼻塚(耳塚)。二万人分の鼻などが埋められているという。

 このような異様なものが、現在まで残されているが、それは秀吉が、中国(明)までも、支配しようとした結果生まれた悲劇であった。

 たった一人の人間の欲望から、何十万という人たちの苦しみや悲しみ、人生の破壊が生じてしまう。

 また、こうした戦争にはこのようなおびただしい人たちの命が失われるが、死なないまでも、病気や足や体を大きく傷つけられ障がい者となり、生涯を破壊された人たち、さらに、そうした何万、何十万という兵士たちのおびただしい食糧は、いかにして調達したのか、それらは多くが周辺の農家など民家からの略奪に頼ることになる。そうした行為によって人々は食糧を奪われ、また抵抗すれば暴行されて、ひどい目に遇わされる。周辺の村や町などがどれほどの苦しみを受けたか計り知れない。

 こうした残酷なことは、戦争となると至るところで行なわれてしまう。文禄・慶長の役において、それぞれの戦争に15万人前後が送り込まれた。そして朝鮮の人たちの犠牲は数十万人と言われている。

 戦争は、大規模な殺人、強盗、略奪、破壊…等々ありとあらゆる悪行の合体したものだ。

 それは、その一つをやれば、重い罪とされることであるが、戦争となると大規模にそのような大罪を犯すほどかえって英雄的にもてはやされるという異常な事態となる。

 

 武力による戦争を決してすべきでないというのはこうした点から言えることであり、現在の日本が、集団的自衛権を行使することができるようにしようとしているが、そうしたことは、とくにアメリカが引き起こした戦争に日本も加わることになり、そこから相手国が日本に武力攻撃を加えるということが考えられる。

 そうなると防衛のためとして更なる攻撃をし、相手も反撃してくる―その果てはどうなるのか。ことに核を持ったり、ミサイル攻撃をすることができる状況にあれば、それが日本の狭い国土に、しかも大都市から200キロ前後のところに多数の原発がある状況で、他国からのミサイルなどが打ち込まれたらどうなるのか―以前には想定されたこともない危険な状況に直面することになる。

 日本の現在の指導者や、自民党の多数の人たちはこうした危険性が見えないのである。

 憲法9条という歴史的にも特別な意義を持ち、その根底に聖書の考え方が息づいている平和主義の精神が守られるようにと願ってやまない。

 


リストボタン便利さと危険性

 

 自動車は便利である。しかし、それによって数々の事故が生じ、人命が失われ、手足に損傷をうけて障がい者となる被害もおびただしく生じるようになった。

 トンネルなどの工事のために、ダイナマイトは著しく効率よく岩盤を爆破することができるようになり、便利になった。しかし、それらを応用して、おびただしい爆弾が造られ、それによって大戦争に用いられ、何千万という人命が失われるようになった。

 空を飛ぶ飛行物体は飛行機として長距離を短時間でいける便利さを生んだ。しかし、それらから派生したロケットなどで、核兵器を搭載して外国への攻撃をすると、―それが原発の攻撃に用いられたりすると、日本は、場合によっては東京や、大阪、名古屋などの大都市が、放射能のために住めなくなり、壊滅的な打撃を受けるし、これまでのような大都市の火災とかでは到底おさまらず、何十万年もの期間、放射性廃棄物で悩まされることになる。

 テレビは便利だ。居ながらにして世界や日本の状況が見えるのだから。しかし、それによって有害なものが大量に人間の目に触れるようになってしまった。

 犯罪や誘惑、事件、汚れた内容の数々の番組等々、そんなものを子細に見せても、悪の力の大きさを知らせるばかりであるし、とくに子ども、青年たちには将来にわたって魂を汚すことになるようなものがはんらんしている。

 コンピュータ関連の機器も同様である。通信などにはきわめて便利だという反面、以前では想像もできなかったような数々の犯罪、悪事がコンピュータや関連の機器によってなされるようになってしまった。

 たった一発の爆弾で、数百万の大都市を壊滅させる核爆弾、しかもかつてのように、何十万という兵力を敵地に運んで犠牲者をだすのでなく、ミサイルを使って打ち込んだらよいのだからとても便利だということになる。大量殺人にほかならない戦争のために、ついに人類は究極の「便利」なものを生み出してしまった。

 最近ではさらに 人間の体の一部まで造り出そうというiPS細胞関連のことが、莫大な研究費を投入して研究されている。特別な病気や障がいが治るようになるかも知れないといった希望的なことばかりが言われているが果たしてそうだろうか。

 かつての原子核の研究のように、そこから人類を滅ぼす悪魔的な原水爆が造られてしまったが、現在の生物に関するこうした研究がいかなる害悪をもたらす可能性があるか、ほとんど言われようとしていない。

 だが、科学技術というものは、その歴史をみればわかるように、必ず大いなる便利さとは裏腹に、危険な害悪をも生み出してきたのである。

 このような便利さと、経済―金儲けを至上の目的とする現在の人類の方向性は、必ず破綻に陥るときが来る。

 神の言葉(聖書)が、数千年前から、驚くべき洞察をもって告げていたように、神の命の木の実でなく、「知識の実」のみを食べようとするときには、死に至るということなのである。

 そのことを知って、私たちは、こうした急激な科学技術の発達に何らかのブレーキをかけ、あるいはそこから転換し、目に見えるものでなく、資源も要らず、競争もなく、害悪もない、しかも、無尽蔵の富がある世界―目には見えない世界からの利益をより多くくみ取る生活へと重点を置き換えていかねばならないと思われる。

 日本のような地震、火山国においては、原発はすでに、廃止という強力なブレーキかけねばならないというのは多くの人たちの願いとなっている。

 聖書はすでに、命の木の実を食べ、あるいは命の水を飲むことによって、今後生じる可能性の高い困難な状況―ブレーキき効かないような状況―においても、そうした一切の死にいたる病から逃れることを告げている。

 … 私を信じるものは、死ぬことはない。

 私が与える水を飲むものは、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。

        (ヨハネ1126、4の14

  この聖書の単純な、しかし無限に深い意味が込められた言葉が、現在から未来にわたって、私たちすべてに永遠の霊的プレゼントとして与えられているのである。

 


リストボタンことば

 

(361)絶えず祈る

         (Ⅰテサロニケ5の17

 絶えず祈る―これは、神に向って祈っている霊の姿勢である。上を仰いで祈り求めている姿勢がいつもなければならない。

 この上を仰ぎ見る姿勢は、どんな仕事をしていても、またどこでも、会話のさなかでも、日常的な仕事を考えていてさえも、存在しうる。

(ブルームハルト(*)「悩める魂への慰め」31頁)

 

*)ヨハン・クリストフ・ブルームハルト (18051880年)ドイツの牧師、神学者。息子のブルームハルトもまた神学者として有名で父子は共に大きな影響を与えた。ヒルティとも同時代で、よく引用されている。

 

・苦しいとき、悲しみのとき、悪く言われるとき時も、常にこの主を見つめる姿勢があれば、私たちは立ち直ることができる。そして物事がうまくいっているとか、ほめられるときでも、傲慢にもならず、みずからのが主の御前にいかに小さきものであるか―心の貧しさにとどまることができる。

 主は霊であるゆえに、私たちの心のどのような状態にあっても―部屋に鍵を閉めていた弟子たちのところにも入って来られたように―そこにともにいてくださる。

 その主を仰ぎ、見つめて歩みたい。

(362)

忘れないうちに

 

今きいたこと

見たこと

心に感じたこと

忘れないうちに 消えない内に

主のうるわしいみわざを

賛美する詩をつくる

 

(水野源三著「わが恵み汝に足れり」18頁)

・私たちの心はすぐに忘れていく。それゆえに、主日礼拝や家庭集会での講話、読んだ本、周囲の自然のたたずまい、新聞やテレビなどで知ったよき言葉…等々を書き留めておく。そしてそれらの一つでも他者にメールやはがきなどで送り、だれかと共有しようとする―そこに新たな祝福が生まれる。

 水野源三の詩もみずからは寝たきりで言葉も出せない人だったが、そうして書き留められた詩の数々は、いまも讃美歌ともなり、歌われ、読まれて多くの人の心に御国の息吹をつたえている。

 

(363)

 内面的進歩には、二つのもの、すなわち、われわれに語りかける声と、その声を聞くことのできる耳とが必要である。

(ヒルティ「眠れぬ夜のために上2月10日」)

 


リストボタン編集だより

 

・今月号は、「祈りの友」会の会報第2号の編集と重なったために、時間が十分に取れず、 不十分なものですが、主がそれをも福音のために用いてくださいますようにと願っています。

・テロがあちこちで生じるのも、一つには武器弾薬が大量に拡散してしまったからです。 国家間においても、それぞれの国が軍備の拡大をするほど、安全は高まるのでなく、全体としてみればますます危険な状況になります。

 集団的自衛権の行使ができるようにするなら、制限を付けるなどといっても、そのような制限は状況に応じて簡単に変更されてしまう可能性が大きく、他国の戦争に巻き込まれる危険性が高くなります。

 憲法9条こそは、日本が世界平和のために今後も貢献できる大切な道です。軍事の協力でなく、そして軍事に要する莫大な費用を、個々の国々の災害や貧困、難民、公害等々に心のこもった援助を多く注ぐことこそ、真の防衛であり、安全につながることです。

 

リストボタン来信より

○先日は、第40回キリスト教四国集会のDVDを御送付頂き、妻と3日間で全部拝見し、大きな恵みと感激を味わいました。

 吉村先生と関根先生の講話、石巻の被災者、原光子さんと数名の方々の証言、また、讃美の数々感激を与えられました。

 特に、手話を交えた讃美は圧巻でした。

 私達も、主がお導き下さるならともに出席できる日をと願ったことです

北田康広さんご夫妻の讃美演奏が素晴らしかったことと参加者の方々の感話も実によかった。(関東地方の方)

 

○いのちの水の、「海の上を歩くイエス」。

 わたしも、この十数年なんとかこの世の海に飲み込まれずに来られたことを感謝です。-本当はもっと、幾度も、また決定的に飲み込まれることがあるだろうと思ったりしたこともありましたが…。 不思議なことです。感謝です。

 わからないことが霊的にほんの少しでも見えるようになることは、大きなよろこびです。

 普段、漠然と思ったり、ちょっと気づかされたりすることも、このようにわかりやすくはっきりと書いてくださることで、あらためてみ言葉にゆたかに触れ、その深い意味と広がりを知り、じっさいにいのちの水とパンとしていただくことができると思わされ、本当に、なによりの感謝です。(四国)

 

○毎月の「いのちの水」(併せて「集会だより」も)を読ませて頂いておりますが、聖書の奥深い福音のメッセージを楽しみにして読ませていただいております。

 特に、聖書について、福音について知らない身近な人にメッセージを知らせるための参考にさせていただいております。

 私は、専門的な聖書学などの学びはできませんので、大いに喜んでおります。ご健康が守られて、ますます大胆に、御言葉を語り、取りつがれますようにとお祈り申し上げます。(中部地方のYさん)

 

○昨日はじめて 徳島聖書キリスト集会のイースター特別集会(4月20日)の模様を聞かせていただきました。

 多少聞きづらいところもありましたが、すべて聞かせていただきました。

 素朴な感じで、単なる行事に堕せず、本当に神様への感謝の念が満ち溢れているように思いました。

 皆さんそれぞれ主イエス様への真実な愛にあふれていることが伝わってきました。

 私も一度徳島県にお伺いして参加させていただき、皆さんにお会いできることを願っています。(関西地方の方)

 

○キリスト教に出会えて、何が一番大事なことなのかを、教えられたことは感謝でございます。信仰の歩みは、遅々としており、神様に見捨てられまいと必死で歩んできたように思いますが、そうではなく、聖霊の力により、導いてくださっているのだと…。

「いのちの水」誌で聖霊について よく教えていただき、アーメン、アーメンと心の中で叫んでおりました。…(関東の方)

 

○2011年5月、長野県松下道子宅で吉村さんとお会いして以来、神様の導きを感じながら過ごしております。2012年6月から、自宅で妻と二人で、毎週日曜日、家庭での集会を持てるようになりました。昨年2013年2月から隔週の日曜日に、離れたところに住んでいる私の両親とともに集会が持てるようになりました。

  自宅での二人だけの集会は、吉村さんの聖書講話シリーズの創世記のアブラハムが召されるところからはじめ、創世記が終り、現在では出エジプト記20章まで進むことができました。両親との集会では、ルカ福音書の講話を1章からはじめ、現在第30講(ルカ5章)に入るところです。…この聖書講話シリーズによって聖書の学び方の基本を教えていただいています。…(中部地方の方)

 

○「いのちの水」誌4月号の詩篇講話において、旧約聖書における「義」の意味について、目が開かされたことなど、多くのことを学ばさせていただき心より感謝です。

 昨日は、地域の人たちとともに、水田の水路清掃を行い、いよいよ田に水をひき始めました。乾いた土地に水が注ぎ込まれると、急に田が活き活きとしはじめ、「主なる神が土で人を形づくり、命の息を吹きいれられた。人はこうして生きる者となった。」という創世記の記述が思いおこされます。…(東北のKさん)

 

・水田に水をいれると急に田や周囲の状況が命にあふれるようになってくる―そこに創世記の言葉を思いだしたとのこと、農業の仕事中でもこのようにみ言葉を思いだし、み言葉と重ね合わして周囲の状況を見ていくこと、それはだれでもそのように求めていけば可能になると思われます。

 


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○毎年夏に行なわれている、北海道の瀬棚聖書集会について、開催責任者の野中信成さんから、送られてきた案内を貼り付けておきます。

 私は、今年で、12回目の参加となります。もう40年にわたって酪農を主体とする農業従事者によって続けられてきたということだけ考えても、神の特別な導きと守りを思います。

 とくに現在の瀬棚集会に集っている人たちの内、最初に瀬棚に入植し、長くこの集会をお世話されてきた、生出正実、真知子ご夫妻の支えが大きかったと思われます。

 そして、10年あまり前から、若い人たちがこの集会の世話人となり、導かれていますことを感謝です。

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 41回 北海道瀬棚聖書集会

主催:瀬棚三愛同志会 協賛 日本キリスト教利別教会、キリスト教独立伝道会

 

《主題について》

 一般に人は自分が正しいということが前提となり、自分を基準に物事を判断し行動します。しかし、隣同士の国が、また、組織や隣人同士でお互いを認めずに自分の『正しさ』のみを主張し合い色々なところで争いが起きています。

今回、準備するにあたり様々なテーマについて話し合われた中で「赦し」について考え始めた時に初めに出てきたのは’相手を赦す’ということについてでした。しかし、話し合いが進む中で「まず、自分が赦されている存在なのである」ということを思い起こさせられました。このことを日常の中で意識してゆきたいものです。

 今年は利別教会の相良牧師が退任され石橋牧師が招聘されました。気持ちも新たにともに聖書の大きな柱である「赦し」について学びたいと思います。

[主題]…「赦し」

[日時]2014717() 2000 集合~720() 昼食後解散

[場所]…北海道久遠郡せたな町瀬棚区共和 農村青少年研修会館          

[講師]…吉村孝雄(1945年生まれ、徳島聖書キリスト集会代表)、石橋隆広(1966年生、今年4月より利別教会牧師)

[会費]一般15.000円 学生10.000円(部分参加も可能です。一泊食費込みで5000円)

 { 宿泊費、食費、及び ファームステイ費を含む }    

[申し込み、問い合わせ先]

野中信成宛  

 TelFax 0137-84-6335

 〒0494431 北海道久遠郡せたな町北桧山区小倉山731

 Email:nobunari@mac.com

[締切] 630日までにお申し込みください。(寸前でも対応は出来ると思います)

[所持品]聖書、筆記用具、着替え、寝間着、防寒着(夜は冷えます)など

( 聖書は何冊かこちらにもあります。賛美する曲目は印刷して用意いたします。)

[交通]JR函館本線「長万部駅」下車、長万部駅前発函館バス「北桧山瀬棚行き」に乗車

 約1時間45分程で「瀬棚市街」下車、徒歩15分又はタクシー

★函館駅前発函館バス「快速せたな号」乗車、約3時間半で「瀬棚市街」着

★ 長万部発 8:3510:5412:5714:2916:2519:43 20:51

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 なお、この瀬棚聖書集会では、吉村孝雄が4日間のうち、4回の聖書講話(内一回は、利別教会での主日礼拝講話)、それに加えて子どもたち(その保護者も含め)を対象とした土曜日の学びを担当しています。 それらの他に、日本キリスト教団利別教会の牧師による講話が一回あります。

 

○「祈りの友」通信第2号

 1年前にはじめられた新しい「祈りの友」会に加わられた方々は、この4月で100名を越え、この一年を祈りの交流が与えられて感謝でした。

 若い方々の多くの協力も得て、「いのちの水」誌の5月号とともに、会員の方々には、会報「祈りの風」第2号をお届けできることになりました。

 会員以外の方々も、希望があれば、「祈りの風」をお送りすることができます。B5判、43頁です。費用は、一部送料込みで200円。

 また、「祈りの友」の紹介のため、伝道のためなどで、複数部数を希望される方も申し込みください。