イエスは、人里離れたところに退いて祈っておられた。 (ルカ福音書5の16) |
・2014年3月 第 637号 内容・もくじ
道
この世は、さまざまの悪しきもの、毒麦の生えて来る荒れ野である。さらに、うるおいをもたらす水の流れていない荒野、砂漠のごときである。
しかし、そこに道を備えるお方がいる。荒野の道にうるおいある命の川を流れさせ、その道のかたわらに水をたたえた池をも備えてくださるお方である。
正しい道を歩みたい、苦難の道は歩みたくない。楽しく誰とでも仲良く、しかも平和に歩んでいきたい…等々、多くの人はこの世で生きるとき、道を歩むということと関連して思い起こす。
生まれたときから、病気や障がいなどで、寝たきりとか歩くことも困難、あるいは耳が聞こえないとか見えないなど、特別な重荷を負ってこの世の道を歩いていくことを強いられる方々もいる。
また、人生の道の途中で、突然の事故や災害で、それまでの幸いで平和な道が突然消え失せて、涙と苦しみの道を歩かざるを得なくなった方々も多くいる。
そのようなあらゆる人たちに、聖書は本当の道、永遠に壊れることのない道を指し示している。
神はさまざまの意味におけるこの世という荒れ野にあって、いかなる状況にあっても道を示してくださるお方として聖書で示されている。
このことが、最初に聖書で鮮やかに示されているのは、現在のイラク地方、ユーフラテス川の河口に近いところで神からの呼びかけを受けたアブラハムにおいてである。
彼は、生まれ故郷から、1500キロ以上も離れたような遠く、未知の場所へと 行くことを命じられた。彼が途中に遭遇するであろうさまざまの危険や困難にもかかわらずその呼びかけに応えて旅立ったのは、まさに道なき荒野に道を備えてくださる神を信じたからであった。
神を信じて、み言葉に頼って歩みを始めるときには、道はおのずから備えられるという真理がここで示されている。
神は、荒れ野に道を備えるお方であることは、次のような箇所で明確に記されている。
…呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。(イザヤ書 40の3)
この声は、いつの時代においても、霊的な耳を鋭くしている人には聞こえる声となる。神はそのような人を必要なときに起こされる。
預言者そのものが、道を備えようとする人たちであった。
神ならぬものを神とし、武力や富、権力欲にまどわされた人たちがあふれる荒れ野の状況の中で、命がけで、神の道を示し、語り続けた人たちである。
そして、それから五百年ほども後にあらわれた洗礼のヨハネは、キリストのために道を備えるために召された人であった。
そして、歴史上で最大の道を備え、かつ新しい御国への道を開いたのが、キリストである。
そのキリストは、人々に真理の道を教えることによってその道を備え、さらに、道そのものでもあった。
…わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14の6)
そして道であるとともに、いのちの水を流れさせるお方でもあった。それは、次のイザヤの預言の成就でもあった。
…見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に川を流れさせる。
(イザヤ書 43の19)
老年になって、若いときには想像もしなかったさまざまの苦しみ、試練―病気や孤独、体の不自由、施設などの生活の困難等々が次々と襲いかかってくることが多い。そのただなかで苦しんでいる方々のなかには、もう生きる道がない、と深い悩みにある方々もあることだろう。
そのような人生の最後の段階における道、その茨の道ともいえる道をも導いてくださるのは主イエスのほかにはない。
私たちは、その歩む道の延長上に死というものがあるのを知っている。しかし、それは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の最後の部分で現れるまっ暗なものとして漠然と感じている人も多いだろう。
けれども、聖書の世界においては、いかなるものも、死すらも、キリストの備えた道を阻むことはできない。
死という巨大な壁をも貫いている命の道であるからだ。
聖なる風の吹くとき
自然の音、そして私たちの耳に聞こえないが霊的な耳を持っている人には、聞こえる音や声がある。聖書に表れる人たちは、とくに後者―神からの語りかけをはっきりと聞き取ることができた人たちである。
また、物理的な音とは別に、霊的な耳に聞こえる響きというのもある。
…話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくとも、
その響きは全地に
その言葉は、世界の果てに向う。(詩篇19の4~5)
自然界の音で、最も重々しく、意味深い音として、私はすでに子どものときから、大きな松の木に風が吹くときの音―松風の音に心惹かれた。
それ自体としては単純な松の葉、それが数知れず集まって風に吹かれるとき、なぜあのような不思議な重厚ともいえる音が生み出されるのかと、聞き入ったことがよくある。
小学校の近くに、名勝とも言われた堂々たる松並木があった。それは数百年を経たと考えられる巨木で、学校の帰りに、はるかに見上げるほど高くそびえた松で、風が吹くと何とも言えない音がするのだった。その風格ある姿と松風の音楽は、60年を経た今も心に浮かびあがる。
今日では残念なことに、それらの松はすべて枯れてしまった。わが家のある山の松の古木も同様である。台風が近づいたとき、山の頂上まで登って誰一人いないそのところで、松の古木たちの奏でる音楽に耳を傾けていたものだった。
風にはこのような肌に感じるものがある一方で、目に見えない風、肌にも感じないし、周囲の木々からも音を出さない風がある。その風のことは、聖書においてもその巻頭に記されている。
神が天地を創造したとき、闇と混沌があったが、そこに吹いていたのが、神の風であった。原語のヘブル語では、風のことをルーァハというが、それは、人間に見られる「風」―息という意味にも使われ、息が止まると死んでしまうことから、命の根源―霊という意味にも使われるようになった。
新しい英語訳の重要なものにおいては、このことを 「聖なる風」、あるいは「神からの風」 などと訳しているのがある。
この聖なる風は、旧約聖書ではその後、エゼキエル書には、神の霊と風を重ね合わせるように記されている箇所がある。神からの風が吹きつけることによって枯れはてたものが生き返るというのである。(エゼキエル書37章)
地上を吹く風によってさまざまの樹木は音を奏でるが、聖なる風が私たちの心に吹きつけることによって、沈黙せる自然であっても語りかけてくる。
あるいは、聖なる風が周囲の自然界や、人々に吹きつけるときには、そこからの声、賛美が響いてくる。
そのような声を聞き取ったからこそ、次のような詩が生み出された。
…主を賛美せよ
雪よ、霧よ、み言葉を成し遂げる 激しい風よ (*)
山々よ、すべての丘よ、
木よ、杉の林よ …(詩篇148の8~9より)
(*)原文は、ルーァハ セアーラー (セアーラーは、大風の意)。新共同訳では、この箇所では、この二語を嵐と訳しているが、別の箇所(エゼキエル書13の13)では、暴風と訳し、その箇所を、新改訳では、激しい風、口語訳では、暴風と訳している。
こうした詩篇では、人間に対してと同じように、自然のさまざまのものに対しても賛美を呼びかけている。
人は、神に対して賛美できる存在だからこそ、詩篇ではしばしば、主を賛美せよ、(ハレルヤ!)と賛美が呼びかけられている。同様に、自然のものも、霊的な耳を持った人には賛美できるものだと示されているからこそ、このように、人に対すると同じように、賛美を呼びかけられているのである。
無生物というが、それは単に私たちの固定観念に過ぎないのであり、死者をも生かす神の霊、聖霊によるときには、それらもある種の命をもった存在として浮かびあがってくるのである。
私たちが受け継ぐもの
この世では、受け継ぐ―相続ということは大きな問題になる。場合によっては、数千万円という巨額が得られる。そうでなくとも、安住の地や、財産が得られる。
相続がなければ、貧しく、苦しい生活となるという場合もある。
そのため、ひとたび遺産相続となると、肉親でも醜い争いが生じ、かつてはやさしかったと思われた人物が豹変することもある。
そして、この世の策に長けた人間が多くの相続をえることがある。
しかし、そのようにしてもぎとった財産によって新たな問題が生じることも多い。
主イエスが言われたように、この世の宝、財産は、虫が食い、サビが付くし、盗まれることもある。そしてそれらは、天の国へと持っていくことができない。
これに対して、私たちがだれでも求めることによって相続することができるものが聖書では示されている。
… 主ご自身が、あなた方の相続地である。(申命記10の9)
かつてイスラエル民族は、目的の地に着いたときに、それぞれの地を与えられた。これは、神から与えられたものであり、彼等が神の御手のうちにあるもののうち、目に見えるじっさいの土地を彼等に与えたのであった。
しかし、神と人との仲立ちとなって人々の罪を赦し、また神からのメッセージをつたえる祭司たちは、そうした土地を受けることがなかった。
それは、目に見える土地でなく、見えない神ご自身が彼等の相続するもの、分け前なのであったからである。
このような考え方は、やはりキリストを指し示している。キリストの弟子たちは、この世の職業を捨てて、主に従った。この世の受け継いだ仕事や報酬を受け継ぐのでなく、イエスに従うことによって神からの報酬を受けとることになった。
そのことはとても重要なことであるので、新約聖書では繰り返し記されている。
…人の子が天使たちを従えて来るとき、羊飼いがひつじと山羊を分けるように彼等をより分け、ひつじを右側に、山羊を左がわに置く。そして主は、右側にいる人たちに言う。
父に祝福された人たち、天地創造の前からあなた方に用意されている国を受け継ぎなさい。(マタイ25の31~34)
…この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。(エペソ
1の14)
…心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
(エペソ 1の13)
…悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
(Ⅰペテロ 3:9)
私たちは、何かを受け継いでいる。遺伝子によってそれは私たちの願いや希望とか関係ないものを受け継いでいる。遺伝子の本体はDNAである。いくつかの種類の分子(*)の長大な配列の仕方によってさまざまの能力が規定されている。運動神経、音楽の能力、知的能力…等々。病気になりやすい性質、ある種の病気等々も規定されている。
(*)デオキシリボース(五炭糖)とリン酸、それと、アデニン、グアニン、シトシン、チミンの四種の塩基など。DNAとは、Deoxyribo Nucleic Acid(デオキシリボ核酸) の頭文字を取った略語。
そのようなものを、私たちの意志と関わりなく受け継いでいる。
しかし、それと全く対照的に、やはり私たちの意志とは関わりなく、神の一方的な恵みによって受け継ぐものがある。それが神の国である。そのことを知った者は、これは神様の一方的な選びであると感じるであろう。知りもせず、望みもしていなかったもの―しかも最も価値高いものを受け継ぐようにしてくださったのである。
けれども、そのような選びにも関わらず、他方では自由な意志で選びとることもできるようになっている。
アダムとエバは、エデンの園という理想の場を与えられていたにもかかわらず、自らの意志で誘惑を受け入れ、楽園を追い出されてしまった。
神がアダムとエバの息子のカインに言われたように、「罪が戸口で待ち伏せており、お前を求めている。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4の7より)
この言葉にあるように、罪に陥るかどうか、その逆に、祝福を受けとるかどうか、人間が選びとるという側面も聖書では同時に記されている。
神の国を受け継ぐようにと選ばれた人たちであっても、背き続ける自由な意志も同時に与えられているゆえ、背きを続けるときには、神の国を受け継ぐことはできなくなる。
キリストによって選ばれたはずのユダもそのような人であったと考えられる。
信仰を続けられているということは、その選びがつづいていることであり、神の国を相続財産として受けることができるということになる。
この相続財産こそは、虫も食うことなく、盗まれず、またいっさいの財産や権力、健康、地位も関係がない。
一人一人があたかも神の長男であるかのように、貴重な神の国の霊的財産を受け継ぐことができるのである。
…キリストによって私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされた。
(エペソ書1の11)
この御言葉にあるように、私たちは神のご意志により、その御計画にしたがって前もって御国を受け継ぐ相続者としてくださったのである。
この驚くべき恵みを与えられたと知った者は、この特別な恵みをどこまでももち続けていきたいと願う。
主の祈りと聖書
今日は、「主の祈り」の意味と、それが聖書全体とどう関わるかをお話ししたいと思います。
初めに「祈り」ということについて。
誰でも追い詰められると、別に神を信仰していなくても祈ります。例えば飛行機がハイジャックされたとき、思わず祈ったと言います。しかし、猫や犬は決して祈りません。犬は賢く、警察犬や盲導犬などに使われていますが、祈ったりしません。賢いサルでも祈るということはありません。善悪の観念もないのです。
しかし人間は祈ります。これは人間の奥深い本質と結びついていると考えられます。祈る気持ちに近づくほど、より人間らしくなると言えるでしょう。人間は、誰でも本当に苦しい状況に追い込まれたとき祈りたくなり、祈るのです。
「主の祈り」をイエスさまはどういう訳でこれを教えられたのでしょう。ルカ伝11章1~4節を見てみましょう。
… イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
父よ、御名が崇められますように。…」
なぜ弟子の一人がこう質問したのでしょうか。苦しいときには誰でも祈ります。病をいやしてください、あるいは、食物がないときに食物を与えてください…等々。
そのような自然に生じる祈りは弟子たちもしていたし、神を信じていないような人でもそのような祈りの気持ちになるものです。
しかし、弟子がとくに祈りを教えてくださいと願ったのは、そうした誰でも―子どもでも信仰のないものもしているような祈りでなく、最も神の御意志にかなった祈りはどういう祈りなのかを尋ねたと考えられます。
元気な者も病気で寝たきりの人も、死が近くなっても祈る祈り、黒人であっても白人であってもできる祈り―すべての人ができる祈りを、ここでイエスさまが教えたわけです。だから全世界で今も祈られるこの祈りの意味をこれから探ってみたいと思います。
主の祈りは次のようなものです。
…天におられる私たちの父よ
御名があがめられますように
御国が来ますように
御心が天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように。
私たちの日毎との食物を今日も与えてください。
私たちに罪あるものを赦しましたように、私たちの罪をも赦してください。(*)
私たちを誘惑に遭わせないで、悪から救ってください。 (マタイ6の7~13、ルカ11の2~4より)
英訳の主の祈りを初めの部分だけあげておきます。各種の英訳もほぼ似たような訳です。
Our Father in heaven、hallowed be your name,(*)
Your kingdom come.
You will be done, on earth as it is in heaven.
(*) hallowed…聖とされるように(hallow 聖とする, 清める;尊敬する, 神に献げる。holyと語源は同じ)
「天におられるお父様」とまず祈れと言われました。父という者は厳しい、なじみにくい存在です。旧約でも、アブラハムでもモーセ、あるいはダビデや預言者たちも、神様のことをお父様などとは言っていません。神は霊的な存在であって、全能の神として礼拝の対象であり、正義の神であり、罪を見抜き、裁きの神として恐れられていたのですが、「お父様」と呼びかけることはありませんでした。
日本では何でも、人間でも動物でも神様にしています。しかし、タヌキなどの動物や山を御神体としていたり、秀吉を神とまつっている神社に行って「お父様」などとは言いません。
主イエスは、旧約聖書の時代とちがって、神を、最も身近な存在を象徴的に表している「お父様」と呼ぶようにされたのが、旧約と大きく変わった点です。
「御名が崇められますように」
一般の日本人にとって、この表現はその意味が分かりにくいものです。御名とは何か、なぜそれが崇められるようにと祈ることがそれほど重要なのか…と。
しかし、独特の重要な意味があるのです。御名つまり神様御自身が崇められますようにということですが、日本語の「崇める」とはニュアンスがかなり違うのです。
翻訳するとどうしても、別の原語には訳しきれないものが残ります。例えば、英語の home ホーム(*)と日本語の「家」とは大きく異なっています。英語のホームという語には「心」というのが深く関わっています。
日本語の「ふるさと」も単なる場所でなく、心とつながっているのと似たところがあります。「英語のホーム 家庭と訳して、ようやく原意の半分を表しているにすぎない」と内村鑑三も述べています。(**)
ホームにあたる言葉はドイツ語にもない、ホームという語には独特な温かみがあります。日本語の俳句や短歌を英語にしようとすると、まるで違った感じになりますね。ですから、原語を知ることが大事なのです。
(*)故郷, 母国、家庭、棲息地、自生地、本場、中心地…。これらの意味の奥に流れているのは、心の故郷、中心となるところといったニュアンスである。それゆえ、Men make houses, women make homes. (男は家を作り、女は家庭を作る。)というように使われる。
(**)「外国語の研究」内村鑑三信仰著作全集5巻 182頁 教文館。
「崇める」という言葉で思い起こされるのは、学問的な世界では最高はノーベル賞です。スポーツではオリンピックの金メダルをとったりすると、人々は英雄のようにそれこそ崇めます。マスコミでも大々的に取り扱います。
しかし、この主の祈りにおいて用いられている「崇める」と訳されたギリシャ語は、「ハギアゾー」で、「聖とする」ということです。しかしまた、「聖」という字も漢語ですから、中国人の考え方を反映しているのであって、聖書の意味とは部分的にしか共通していないのです。この漢字は、「耳の穴がよく通って聞こえる」と説明されています。(貝塚茂樹著の漢和辞典)特に、人間を超えた存在からの、あるいは真理の語りかけを聞く耳を持つ者を聖と考えたことが分かります。
しかし、聖書のもとになっているのは、旧約聖書であり、それはヘブライ語で書かれています。新約聖書における「聖」という意味は、その背後に旧約聖書の意味があります。
「聖とする」というのは、ヘブル語では「カーダシュ」です。このもとの意味は、set apart で、「分けて置く」ということなのです。
神様が聖である、という意味は、(私たちとは)根本的に別であり、人間世界から全く別の存在である、いかに人間世界が混乱に陥ることがあろうとも、天地の激変が生じようとも、神様は、まったく動じない、という意味が感じられます。
それに対して、私たち人間は、たった一言ですぐ傷ついたり得意になったり落ち込んだりします。人間は簡単に影響を受けてしまいます。清く美しい花も踏みつけられたり折りとられるとすぐに消滅していきます。海や山などの自然もブルドーザーではぎ取られると、全く違った世界になってしまいます。
しかし、神様は地上でいかなることが起ころうとも、絶対に変わらない存在です。それが神であり、神は聖であるとは、そのようなことを意味しています。
「分けて置く」ーこの事は旧約聖書の最初から出てきます。創世記2章3節に「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」とあります
聖別したと訳されている原語が、カーダシュというヘブル語です。安息日を聖別したという意味は、その日をふつうの日とは別に、特に神のために分けて置いたということです。このように「聖」というのは、本来「分けて置く」ということなのです。
漢字―もともと中国語で、現在も使われている言葉である「聖」という文字によって、私たちは、聖人の聖を思いだすことが多いのです。日本語では親鸞聖人(しょうにん・上人とも)などほんのわずかな人にしか使いません。中国でも、聖人とは、孔子や伝説的人物である、堯(ぎょう)・舜(しゅん)などやはりきわめてわずかの人にしか使わない言葉です。
では、聖書はどうでしょうか。聖書では、ローマ、コリント、ガラテヤ書等々、パウロの書簡には、その宛て名として 「聖徒となったローマの人たちへ」とか、「召されて聖なる者とされた人々に」と記されています。
聖なる人々とか聖徒というのは、言い換えると聖人ということになります。しかしコリント人への手紙を見ますと、いろいろと党派争いがあったり、パウロの使徒としての働きを否定して、一部の人たちが支配しようとしたとか、到底、日本語の「聖なる人々」とか聖人といったイメージとは合わないのがわかります。
カトリックにおいても、聖人というのは、歴史上でも特別な人だけに与えられる呼称です。
このように見てくれば、新約聖書で聖徒とか、聖なる人々というのは、大きく異なるのがわかるのです。 これも、旧約聖書や新約聖書での「聖」と訳された言葉の意味そのものが、私たちが通常連想する、「聖」という意味がちがっているからです。
聖なる人々というのは、聖書においては、この世から分けられた人たち、神の国のためにとくに呼び出され分けられている人たち、という意味になります。
主イエスを信じて救われた人は、神様によって選ばれ、分けられたのです。聖という中国の字から受ける印象からは全く違います。
オリンピックの金メダルをとった人が崇められたりするのとは、まったく異なる意味なのです。そのため、次のように、御名が聖とされるように、と訳している日本語訳聖書もいくつかあります。
・「あなたのお名前が聖とされますように」岩隈直(*)訳
・「あなたの名が聖なるものとされますように」
(新約聖書翻訳委員会訳―岩波書店)
(*)日本に日本語のギリシャ語辞典がほとんどなかったときに、25年余りも費やして、英語、ドイツ語の代表的なギリシャ語辞典や文法書、注解書などを駆使して「新約ギリシャ語辞典」を完成(1971年)。多くの人たちに用いられてきた。
著書に希和対訳脚註付きの新約聖書12巻、聖書講解双書10巻など。
人間は現実の悲惨や混乱などを見て、どこに神がいるかと言います。しかし、現実がどうあっても、神様は聖とされますようにと祈りなさいとイエスさまは言われたのです。つまり、これはみんなが神様のことを、この世のあらゆるものとは分けられた存在、いかなる地上の汚れや混乱とはまったく離れた存在であり、神の愛、真実は変ることがないと人々が信じ受け取っていきますように、という祈りなのです
これが、イエスさまが教えられた第一の祈りです。
このように、御名が崇められますように、という言葉から受ける意味―みんなが御名を崇めるようにとは、ニュアンスが相当異なるのです。
崇めるということは、この世では著名人とか権力者あるいはお金や特別なことを成し遂げた人に対してよくなされることで、そのような崇め方と御名を崇めるということとは、本質的に異なるものなのに、同じ用語を使うことで、御名を崇めるということの意味があいまいになる可能性があります。
それゆえに、この主の祈りは、「御名が聖とされますように」という訳のほうが、より原文の意味を現していると言えますし、表面的にもてはやすような崇め方とははっきりと別なのだということがよりはっきりと示されています。
「御国を来たらせたまえ」
この「国」という言葉と、ギリシャ語の意味とはまた相当違うのです。「国」と訳されていますが、原語は、バシレイア(basileia)というギリシャ語で、バシレウス(王)(basileus)から派生した言葉です。「王の権威あるいは支配」というのが本来の意味なのです。そこから、王の権威・支配の及ぶ領域―国という意味が生じたのです。
ですから、「御国が来ますように」という祈りは、この世界の支配者―王である神様の愛と真実のご支配が来ますようにということです。
御国とは、神様の国―天国のようなところがきますように、という気持ちで祈っておられる方々も多いと思われます。たしかにそのニュアンスも持っていますが、その根本にあるのは、神の王としての愛と真実の御支配が、今、この世にもたらされますようにという祈りです。
一人一人の心に来ていただくだけでなく、家庭やキリスト教の集会、あるいはいろいろな社会、国全体に、さらに世界に、神様の愛と真実なご支配が来ますようにということなのです。
家庭の問題では、家族の分裂など深刻です。国と国とでは日本と中国、韓国は小さな島を巡る問題で対立しています。
社会問題では原発事故の時、たまたま風向きの関係で飯舘村など北西方向に多量の放射性物質が飛散したが、風向きが関東方面だったらどうなっていたでしょう。日本はもはや国家として立ち直れないほどの深刻な状況になっていたと思われます。地震大国、火山大国の日本に多数の原発があることは空恐ろしいことです。
ですから、共同訳(*)でもそれを反映して「あなたの支配を行き渡らせてくださいますように」と訳されています。しかし、新共同訳では、「支配」という言葉が一般の日本人にとってある種の冷たい感じを持っていると考えられたようで、また「御国が来ますように」と訳しています。
(*)共同訳は、1978年に新約聖書の部分が完成。プロテスタント、カトリックの学者の共同作業によってなされた。岸千年、高橋虔、竹森満佐一などとともに、無教会の前田護郎も加わっていた。カトリックでは、P・ネメシェギ、Z・イエールなど。固有名詞の訳が、原語に近づけるということで、イエスをイエスス、ルカをルカス等々としたために読みにくい、また翻訳の考え方にも異論あり、新たな共同訳がなされることになり、それが現在の新共同訳聖書である。しかし、新共同訳が共同訳より全面的によいということではなく、翻訳上での考え方の違いによるのであり、共同訳も原語の幅広いニュアンスを知るために多くの点で参考になる。これは以前からの口語訳、新改訳、岩波から出ている訳なども同様である。
確かに、支配という日本語は、権力や武力による支配、金による支配…などのように、愛のイメージとは逆のものを感じさせることが多いと思われます。
このように、聖書の訳は、その担当者の考え方、解釈、日本語に関する感覚などによって変わりますが、原語の意味は、「王である神の真実のご支配が来るように」ということです。
このように主の祈りの一つ一つの祈りは、その意味を正しくとらえて祈ることが大切です。主の祈りを形式的に祈ったり唱えたりするのでなく、今言った意味を知って祈ることが極めて大事です。
私たちは日毎に祈りますが、朝起きてすぐ何を思い祈るかです。少しでも御国を来たらせてください、あなたの真実とご支配が来ますようにと祈れるようになりたいと思います。
御心がなされるように
「御心が行われますように」
「心」と訳してありますが多数の英語訳(*)で heartと訳してあるのは一つもありません。
原文のギリシャ語でも、心を現すカルディアはこの主の祈りでは使われていないのです。 御心と訳された原語は、セレーマで「意志」を表します。英語訳ではほとんどすべて
will(意志)と訳されています。 しかし、日本語訳聖書は、情緒的なニュアンスの強い「心」と訳しています
。
(*)現在では、40種ほどの英訳があり、その大部分を参照したが、will 以外の訳語を用いているのは、「THE MESSAGE 」と題する新約聖書が、Set the world right.と訳し、もう一つ May what you want to happen be done on earth as it is done in heaven.
( NIRV)と訳している二つである。しかし、この訳も神の意志がなされるようにということであり、心という情緒的な意味ではない。)
なお、英語の「heart」は、語源的には、ギリシャ語の 心を表す kardia カルディア や、ラテン語の corと共通している。イタリア語ではcuore(クオレ、この言葉を題名とした本はアミチス著で、「愛の学校」と訳された) 。
人間の悪い意志がはびこっているこの世界のただなかで、どうか神の真実にして正しいご意志が行なわれますように、という祈りです。 その原語の意味に則して訳されているのが、次の訳です。
「あなたのご意志が実行されますように」(岩隈直訳)
「あなたの意志のままに行なってくださいますように。」 (共同訳)
そして、意志という訳語は固い感じがすると思ったのか、岩波書店から出された訳では、意思という通常あまり使われていない表現をあて、それに 「いし」
とふりがなを付けていて、意志と情緒的なニュアンスもある 思いという二つを表そうとしたあとが見られます。
「あなたの意思(いし)が成りますように。」(新約聖書翻訳委員会訳)
しかし、共同訳の「意志」という訳語では、受ける感じが固いと判断されたためではないかと思われますが、新共同訳ではふたたび、「心」と訳されました。
この世界では、人間の支配欲、権力欲、部族間の憎しみ、いろいろな欲望など、まったく人間のまちがった意志によってさまざまの争いが生じ、その最大のものが国家や地域全体が戦争になる世界大戦も引き起こされました。今日大きな問題となっている、集団的自衛権というのも、それが広範囲に発動されて、二度の世界大戦も起こってしまったのです。人間のそうしたこの世の意志は、世界の無数の人々を死に至らしめ、苦しめ、破滅に陥れるのです。
だからこそ、この主の祈り―神様の愛と真実のご意志がなされますように、という祈りは、一人一人の祈りであるとともに、日本やアジア、そして世界全体を対象にした祈りなのです。主の祈りがほかのいかなる祈りより広く深いのはこのことを考えてもわかります。
この主の祈りについては、詳しく話すと一回だけではとうてい話しきれません。
日ごとの食物の祈り
「私たちの日毎の食物を 今日も与えてください」
アジアの貧しい国々から見れば、贅沢三昧をしているとみなされるかも知れないのが今日の日本人です。そのため、今日の食物を与えてくださいと、祈っている方は多くはないのではないかと思われます。日本では祈らずとも豊かに与えられているからです。そのため、ただ唱えるだけの浅い祈りになりがちではないでしょうか。
日本では、学校給食もふくめて、残飯や食糧の廃棄が莫大な量になっています。(*)
そしてそれを燃やして処分するのにまた大変なエネルギーを使っているのです。
多くの日本人は、なかなかこう祈れないと思います しかし、「私の食物を与えてください」ではなく、「私たちの日毎の食物を…」であり、私たち というところが重要です。私たちとは、狭い意味では家族や友人ですが、さらに日本、世界の人たちも含まれます。
世界にはまともに食べられない人々が9億人ほどもいます。
また、豊かな国であっても、病気などで食事をまともにいただけない方々も多くいます。その人たちのことを思って「私たちの日々の食物…」と祈ることの重要性を主イエスは古くから見抜いておられていたのです。
(*)日本では、食糧の廃棄量は年間二千万トン程度もある。これは、ヨーロッパ諸国の数倍だと言われる。食糧廃棄量は、一人あたり年間で、ドイツは82kg、アメリカ=105kg、日本は、152kg。(朝日新聞社のWEB RONZA
2012年05月07日 他による。)これを見ても、日本が特に食糧廃棄が多いのが目立つ。農業のあり方、TPPなどの議論も大切だが、このような食糧廃棄の実態を改善することが、より基本的に重要である。
また、私たちの肉体のための食べ物のためではなく霊の食べ物のために祈ることはもっと重要です。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4の4)とあります。
私たちを本当に生かす食物とは、イエスが言われたように、神の言葉なのです。それゆえに、イエスさまは、私たちに日々の糧である霊の糧をくださいと祈りなさいと言われるのです。
日々の食物も十分にない人たちははるかな古代から現在に至るまで常に数知れず存在していました。そしてそれと共に霊的な食物―神の言葉を知らずに、霊的に飢えた状態の人もまた、いつの時代にも無数にいます。キリストによる救いを受けたキリスト者たちにおいても、これは日々祈りのなかから神から受けなければならないことなのです。
口から入る食べ物がいくらあっても、それだけでは人間は人間らしく生きられません。神様から霊の糧、霊のパン、霊の食べ物をいただきそれで満たされないと、人は傲慢になったり人を見下したり、あるいは逆に絶望したりしてしまいます。これは貧しい国の人も豊かな国の人も皆そうです。老人も若者も、病人も健康な人も皆同じです。
こうしてみると、この主の祈り―私たちの日毎の食物を与えてください―は限りなく広く、自分もふくめ、一人一人の個人から、全人類のために祈る限りなく広い祈りだということが分かります。
罪の赦しの祈り
「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に罪のある人を赦しましたように。」
私たちは起きた時から、まず自分のことを考え行動します。新聞を見たりテレビを見たり、また何を食べようかと食べ物のことを考えたりします。起きてまず自分中心という罪を犯す私たちです。
そうではなく、起きたらまず神様のことを思い、神様に祈るように変えられたいものです。罪を赦され、新たな力を受けないとなかなかそれができないのです。
そして、自分の罪の赦しを深く実感すると、自分も赦されているんだから、他人の罪も赦してください、愛することが出来るようにしてください、と祈ることができます。
人間の根本問題は、神の示す正しい道―愛や真実、正義にかなった生き方ができないということです。その言葉も行いも正しくない―罪があるということです。その罪ゆえにありとあらゆる問題が生じてきます。
自分は○○さんから受けた不当な言葉や悪意、あるいは仕打ちを忘れられない―赦せない、といった気持ちは大なり小なり誰の心にも起こるものだと思います。それがある限り、私たちの魂の本当の前進は難しいので、主は私たちが他者のそうした罪を赦したのかどうか、をいつも問われているのです。この祈りを祈れないとき、私たちは主の言葉―あなたが他人の小さな罪を赦さないなら、私もあなたを赦さない、祝福を十分には与えない―という語りかけを聴く思いです。
他人を赦せるためには、聖霊を豊かに受けることが必要です。聖霊を豊かに注がれるとき、私たちの心の内なる暗き部分が明るくされ、聖霊から来る安らぎ、喜びによって他人から受けた不正も、私たちの心から消えていくからです。それが赦せるということです。
それができないとき、私たちはこの祈りが難しく感じられますが、そのときには、さらにルカ福音書で主の祈りに結びつけて記されているように、聖霊を求める祈りをするようにと導かれます。
そしてその聖霊は、必ず真剣な求めによって与えられると約束されています。
誘惑に遭わせないように
「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪から救ってください」
以前の口語訳や新改訳では、「試み」と訳されていました。新共同訳では、「誘惑」と訳されています。これは、原語のペイラスモス peirasmos が両方の意味を含んでいるからです。英語訳でも二通りに訳されています。(*)
(*)・…lead us not into temptation (NIV)
・…do not bring us to the time of trial, (NRS)
なぜ、「試み」とも訳されるのでしょうか。それは、例えば重い病気にかかり、長く続いたら、神はいないのではないかという思いに誘惑されます。それは同時に、信仰にあくまで踏みとどまるかどうかの試練、試みのときなのです。そのようなことからわかるように、誘惑されるときは、試練のとき、テストされている時であるゆえに、このような二つの意味で使われていると考えられます。
私たちは何らかの苦しみに出逢いそうなときには、試みに遭わせないでくださいと祈ります。そのような日常的な祈りにも用いられてきましたが、この祈りは、激しい迫害のとき、生きるか死ぬかという厳しい状況にさらされる中においても祈られてきた祈りです。
キリストを信じるだけで、捕らえられ、家族もろとも獄に入れられ、厳しい寒さや暑さ、極端に貧しい食物、不衛生、さらに拷問などを受ける苦しみは、現代の私たちの到底想像できないものです。
そうした試練に遇わせないでください、というのは全身全霊を込めた切実な祈りだったのです。この主の祈り、それは、そのようなこの世の極限の苦しみにあってなお祈ることのできる祈りでした。
現在でも、無実の罪で牢に入れられている多くの政治犯の人たち、その人たちの内なる祈りは、やはり、これ以上の試練に遇わせず、この苦しみから逃れさせてください、神のご意志がなされますように、この苦難を乗り切る霊のパン―キリストご自身をください…等々の主の祈りがなされてきたと考えられます。
次に、「私たちを悪から救ってください」については、原語が、悪そのもの、サタンとも、悪人とも解することができるため、訳も二通りにわかれています。
・…悪い者から救ってください。(新共同訳)
・…悪しき者からお救いください。(口語訳)
・…deliver us from the evil one. (NIV)
・…悪から救ってください。(共同訳)
・…悪より救いいだしたまえ(文語訳)
・…悪から救い出してください。(岩隈直訳)
・…悪からお救いください。(新改訳)
・…save us from the Evil One (NJB) 大文字を用いて、悪人でなく、悪そのもの、サタンからの救いを示している。
主の祈りは、あらゆる人のすべての状況において成しうるものであることを考えると、特定の悪人からの救いを祈るのでなく、悪人によって虐げられていない人でも、心の中に悪―サタンが入り込み、誘惑するゆえ、悪そのものからの救いを祈っていると受けとるのがより深い内容を持つことになります。
というのは、悪人から救われても、悪から救われるとはかぎらないからです。主イエスが自らが十字架で付けられて殺されることを予告したら、ペテロがそんなことはあってはならないと、こともあろうに、イエスを脇に引き寄せ、叱ったことがありました。
そのとき、主イエスは、「サタンよ、退け」と一喝されたのです。このことからも分るように、サタン―悪はどのような状況にも入り込むのであって、そのような根源的な悪からの救いを祈るというのが主イエスの祈りであったと考えられます。
主の祈りと聖書
この主の祈りは、いかなる状況にあっても、またどのような人でも祈ることのできる最も内容の深く、広い祈りであるゆえ、聖書に記されているさまざまの祈りも、この主の祈りと内的に深くつながっています。
主イエスも、十字架で処刑される前夜に、できることならこの杯を除いてください、しかし神のご意志がなりますようにと、主の祈りに含まれる祈りをなされたのでした。
最初の殉教者、ステファノは自分を石で撃ち殺そうとして襲いかかった人たちに対して、「彼等の罪を赦してください。」という祈りをもって命を終えたのです。その祈りは、「主の愛のご意志がなされ、彼等が赦されますように。愛の御支配が彼等に対してなされますように」という祈りであり、ここにも主の祈りが含まれていたのです。
パウロがその書簡でほとんど常に祈りをもって始めていますが、そこでは「私たちの父なる神と主イエスからの恵みと平和があるように」という祈りがなされています。このような祈りも、信徒たちの心に御国が来る(主の愛の御支配)ことによって実現されるし、主のご意志によって実現されるゆえにこのように祈っているのです。
聖書には最初に「闇と混沌」があったと記されています。このような記述を神話だと思う人も多いのですが、神話のように人間が考え出したり、空想や想像力のおもむくままに作り上げたものでなく、神が与えた啓示であったのです。
…初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊(*)が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。(創世記1章1~3節)
(*)以前にも記したが、ヘブル語では、霊という語は、風、息という意味を持っている。そこから、神の霊とは神の風とも訳される。新しい英語聖書においても、 a divine wind (NJB) 、wind from God (NRS)と訳されている。
老年になり、病気や事故、孤独、あるいは災害などに出会うとき、この世には闇と混沌が渦巻いているのを痛切に思い知らされます。しかしそこに、「神の風」が吹いているのです。神が「光あれ」と言われると光が来るのです。
光あれ! という神のご意志がありさえすれば、どのような暗黒にも、空しく荒れたところにも、光が来るのです。それはまた、神の御支配が私たちのうちに臨むということです。御国が来るということです。
それゆえに、「御国を来たらせてください」「あなたのご支配を来たらせてください」と祈れとイエスさまは教えてくださったのです。
さらにこの祈りは、キリストの再臨によって、いっさいの悪が滅ぼされ、この世界、宇宙が最終的に新しい天と地になるという主の約束が成就しますようにとの祈りも含んでいます。
このような、主の祈りを祈ることは、主のご意志にかなっているゆえに、必ず実現されることです。
そして一人一人の祈りがこの主の祈りに沿ったものであるときには、個人的にもその祈りは聴かれてきました。だからこそ、数千年昔から、聖書は今も伝えられているのです。
私自身も闇と混沌の中にあった時、ある人の本の一節を読んで光が与えられました。その本にはその著者の、御国を来らせたまえ、愛の御支配がなされますようにとの祈りがこもっていたのであり、私の心の世界にそれが部分的にせよ、実現したのでした。
やはり聖書の初めに、次のような内容があります。
…エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記2章10節)
とあります。その四つの川は、全世界をうるおしていたのですが、この箇所は、いのちの水が、全世界に流れるということを指し示しているのです。私たちは、流れているそのいのちの水を飲むのです。イエスさまが「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われた水を。
そのように、聖書に書いていることは、必ず実現するのです。ですから、そのようになりますようにと祈るのです。
このようなことも、御国を来らせてください、という主の祈りに含まれます。御国―神の王としての御支配がなされるなら、私たち一人一人の魂にもいのちの水が流れはじめるからです。
詩篇の中でも一番有名な詩篇23篇には、
主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
とあります。これも、主の愛の御支配が私たちのうちになされるとき、心の中のさまざまの汚れ―不満や怒り、いろいろな欲望、無気力等々は除かれ、清められときに生じる魂の世界を表しています。
御国が私たちに来るときには、このようなうるわしい状態となると言われているのです。それゆえ、私たちはこの主の祈りを祈るのです。
詩篇は主の祈りの表現をさまざまに変えたものと言ってよいでしょう。
「山上の教え」の初めに、
…心の貧しい人々は幸いである、
天の国はその人たちのものである。(マタイ5章3節)
とあります。私たちの心に神のご支配が臨んだらこの深い意味が分かるのです。天の国がその人たちのものになる、神の王としての御支配の力が与えられ、その御支配のうちにあるよきもの―真実や正しいこと、清いこと、愛…などなどがその人たちに与えられるということです。
このようなさまざまの意味を内に秘めている主の祈りを―単に唱えるのでなく、毎日祈っていきたいと思います。
(2014年5月25日(日)主日礼拝講話。会場 鹿児島市 牧善商会にて。これは、鹿児島聖書の責任者である古川 静氏が録音から起こしてくださったものを修正、加筆したものです。)
集団的自衛権と平和
現在の複雑な政治、社会的状況では、かつてのような平和憲法ではだめだ、憲法そのものを変える、それがさしあたり難しいので解釈を変えて軍事力でアメリカ、あるいは他国と集団で防衛するのだ、という議論がなされている。
しかし、集団的自衛権の広範囲な発動によって、二度の世界大戦も引き起こされたのであり、集団的自衛権を発動したら国が守られるなどということは決して自明のことではない。
むしろ、それによって軍事力を広範囲に用いることになり、かえって戦争の危険を広げていく。とくに今日ではテロが思いがけない方法でなされていることを考えるとき、そのようなテロに対しては、集団的自衛権は、防備することは困難である。
このような時代だからこそ、そして日本はウクライナやシリア、アフリカなどの国々と異なり、民族的対立が国内にはなく、またイスラムのように、同じイスラム教徒であっても、スンニ派とシーア派で激しく対立する、そこに他国が介入するということもない。しかも、広大な海によって自然の巨大な堀となって他国の進入からも独立が守られてきた。
そして、太平洋戦争によっておびただしいアジアにおいて―とくに中国への侵略によって一千万を越えるおびただしい犠牲者を生み出し、自国でも数百万の死者を出し、世界で唯一の原爆を二度落とされてその悲惨を徹底して他国に与え、かつ自国も味わってきた。それは世界でも特異な経験である。
そこから、平和憲法という歴史上でも特別な憲法が与えられ、70年近くも戦争に直接的に加担することがなかったため、日本の軍事力によって他国の人を殺害することもなかったのである。
その上、かつては存在しなかった新たな重大な問題、原発が国内に50基以上あり、それらがもしテロ行為による破壊とか、ミサイル攻撃など受けたら、日本は壊滅的な打撃を受けることは、3・11のことから考えても容易にわかることである。日本は、かつてのような空襲とか、外国軍が上陸して戦場になるとか、
あるいは核戦争とかにならずとも、原発への攻撃だけで日本は事実上滅びてしまう状況になるのである。
だからこそ、日本は、国防のため軍事力を発揮するという「ふつうの国」でなく、この平和憲法を守ることによって、平和を守る「特別な国」であることを宣言し続けていくことこそ、自国の本当の平和、世界の平和に貢献できる道である。
とくにキリスト者にとっては、この平和憲法の理念―武器をとらない、戦争しない―ということは、聖書のなかにその淵源がある。次の言葉は今から2500年以上も昔に書かれた言葉である。人間世界のあるべき姿が、そんなにも古くから明確に指し示されているのに驚かされる。
…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書2の4)
こうした延長上に、キリストのよく知られた次の言葉がある。
…イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイによる福音書26の52)
平和を守る、平和のためと称して軍事力を用いる、20世紀の数々の戦争もそのような名目で始められた。このような考え方が一体どうして真の平和に至る道であろうか。
平和憲法を守る、これは空理空論ではない。過去から現在にいたる世界の厳しい現実と日本の現実を見つめるときに、日本の独自の使命は、まず、この平和憲法を守るということに立ってそこからさまざまの方法を考えることにある。
お知らせ
7月の北海道瀬棚での聖書集会と、それ以後の7月~8月の集会の予定を書いておきます。地域、場所はほぼ去年と同じです。主が守り導いてくださらなければ、できないことなので、主に祈り求めて無事各地での集会がなされ、み言葉が語られ、聖霊が注がれますように、御業がなされますようにと祈ります。
なお、これらの集会に関して、内容、場所や責任者の連絡先(電話番号、E-mail)などの問い合わせは、すべて吉村孝雄まで。
○瀬棚聖書集会
・日時…7月17日~20日
・場所…北海道久遠郡 農村青少年研修会館
・責任者…野中信成
○札幌交流集会
・日時…7月21日(月、休日)午前10時~14時
・場所…北海道札幌市 北二条クラブ
・責任者…大塚寿雄、正子
○苫小牧集会
・日時…23日(水)
・場所…苫小牧市民会館 会議室 207号室
・責任者…大澤恵美子
○青森市での集会
・日時…24日(木)午後1時~3時頃
・場所…青森市 岩谷宅
○山形県鶴岡市での集会
・日時…26日(土)午前10時~13時
・場所…佐藤宅 責任者 佐藤 よし
○山形市
・日時…26日(土)午後6時30分~8時30分
・場所…大手門パルズ
・責任者…白崎良二
○仙台市
・日時…27日(日)午後2時30分~4時30分
・場所…仙台市民会館 特別会議室
・責任者…田嶋 誠
○福島県本宮(もとみや)市
・日時…28日(月) 午後4時~6時
・場所…湯浅鉄郎宅 (責任者)
○さいたま市での集会
・日時…29日(火)
・場所…関根義夫宅(責任者)
・午後2時~4時頃
○千葉県大網白里市 での集会
・日時…30日午後1時~3時
・場所…足立哲郎宅
・責任者…深山政治
○千葉県市原市
・日時…30日午後6時~8時
・場所…土屋 聡宅(責任者)
○八王子での集会
・日時…31日(木)午後1時~3時頃。
・会場…八王子学園都市センター(八王子スクエアビル11階)八王子東急スクエア
会費は300円。
・責任者…永井信子
○山梨県北杜市での集会
・日時…8月1日(金)午前10時~12時。
・場所…山口清三宅 ・責任者…加茂悦爾
○長野県伊那市での集会
・日時…8月1日(金)午後3時~5時
・場所…有賀進宅
○長野県下伊那郡での集会
・日時…8月2日(土)午前10時~12時
・場所、責任者…松下道子
○岐阜県恵那市
・日時 8月3日(日)午前10時30分~12時
・場所、責任者…石原 潔宅。
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○聖書講話シリーズ イザヤ書
イザヤ書聖書講話CDが完成しましたのでお知らせします。
全3巻、価格は、2000円(送料込)全137講話、約67時間35分)
・この聖書講話を聴くためには、パソコンまたは、MP3やWMA型式のファイル対応のプレーヤが必要です。最も安価でかつ取り扱いも便利、枕元でも台所でも使えるのは、ソニーから発売されている、CDラジオ(ZS-E20CP)です。これは、MP3やWMA型式のいずれであっても聞くことができます。
今まで、私たちのキリスト集会や県外の多くの方々が用いておられます。
近くに電器店がない、インターネットでは購入できないという方は、吉村宛てに申込すれば、お送りします。価格は、4500円です。(送料込) なお、インターネットでは、価格が常に変動しています。以前より現在は値上がりしています。