あなた方は、神の変わることのない、生きた言葉によって 新たに生まれた。

                             (Ⅰペテロ1の21



20151月 第647号 内容・もくじ

リストボタンこの世の新しさと本当のあたらしいもの

リストボタン生きるとは Life is…

リストボタンイエスを礼拝するために

リストボタン新しくされること

リストボタン闇の中の光としてのキリスト

リストボタン待つことと祈り

リストボタン編集だより

リストボタンお知らせ



 
リストボタンこの世の新しさと本当の新しいもの

 

 現代は次々と新しいものが生まれる。新たな雑誌、読み物、映画、ドラマ…。新しい道路、新しい車、新たな携帯電話、スマホ、新たな交通機関としてのリニア新幹線、 そして毎日新しいできごとがニュースとして洪水のように押し寄せて来る。

 それらは決してよいものだけでない。悪しきものも多い。ニュースは新しいが、その内容は暗い気持ちや悲しみをもたらすものも多い。

 また、新しい機械、科学技術は、はじめはよいニュースとしてよいことばかりのようにいわれるが、だんだんとその危険性や害悪が現れて来ることも多い。

 原発はその最たるものである。原子力発電が導入されはじめるとき、水力発電のような巨大なダムは要らない、ビルの地下のようなところででもできる、煙もでない、ごくわずかの燃料で、計り知れない電力がえられる、車でも飛行機でも船にも使える―等々、夢のようなことが、大まじめに報道されていた。

 しかし、現実は、その建設のときから巨額のお金が動いて、人々の心を離反させ、迷わせ、村や町を寸断し、それができてもなおそのための巨額の援助費用でゆがんだ街づくりとなり、さらには原発事故によっては取り返しのつかない悲劇を起こし、その使ったあとは、何十万年も管理が必要な人類の未来への犯罪というべきものとなった。

 リニア新幹線もまた、この狭い日本になにゆえ、そのような山また山をくり抜いて飛行機のような速さで地上を走らせる必要があるのか、膨大な土砂の量の後始末、そして永久的な自然破壊、また通常の新幹線よりも、何倍もの多量の電力を消費するのであり、もともと原発には事故など起こり得ないから、どんどん作っていくという時代に考えだされたものだった。また電磁波のこと―いったん事故があったらその強力電磁波によってどのような害が乗客にふりかかってくるのか、そのようなことは全く触れようとしない。

 さらに、品川―名古屋の全区間の88%―圧倒的部分がトンネルであるということは、いったん事故があったら、外部からの救出が著しく困難となって、どのような事態が生じるのかだれもわからない。

 新しいロボットや、ips細胞などの新しい医療技術、宇宙旅行とか月や火星への移住などということも、また同様である。これらがどのような危険性をもっているのか、そちらのほうはほとんど言及されないのである。

 このような新しさとちがって、本質的に新たにされる道とは何か。また決して害悪の生じない永遠的な新しさとは何であるのか。それこそは、聖書の中心的メッセージである。

 それゆえに、聖書の巻頭にあって、闇と混沌のただなかに、すべてを新しくする神の光を存在させるみ言葉―「光あれ!」(創世記1の1~3)が記され、聖書の最後の黙示録にも、つぎの言葉が記されているのである。

「見よ、わたしは万物を新しくする。」(黙示録21の5)

 


 

リストボタン生きるとは―Life is…(マザー・テレサの言葉から)

 

Life is a challenge,

meet it.

生きることは、挑戦である。(やりがいのある仕事である)それに取り組みなさい。

 

Life is a duty,

complete it.

生きることは、義務である。それを全うせよ。

 

Llfe is sorrow,

overcome it.

生きることは悲しみである、それにうち勝ちなさい。

 

Life is a song,

sing it.

生きることは、賛美である。それを歌いなさい。

 

Life is a struggle

accept it,

生きることは、苦闘である。それを受け入れなさい。

 

Life is a tragedy,

 confront it. 

生きることは悲劇である。それに立ち向かいなさい。(まともにぶつかりなさい)

 

Life is an adventure,

dare it.

生きることは、危険をあえてなすことである。勇気をもってそれをやりなさい。

 

 この英文の部分は、韓国の読者の方がクリスマスカードに添えて送ってくださったもの。 これらのことは、神とキリストを信じて歩もうとする者、聖霊に導かれて歩む者には、その程度の多少はあれ、ここに記されているようなことを実感するであろう。

 とくに私たちの究極の模範である主イエスは、これらすべてを完全なかたちで生きられた。

 イエスの歩みは、まさに日々が チャレンジであって、大いなる使命を生きることであって、危険がつねに隣り合わせていた。最初の会堂での話からすぐに、人々によって崖から突き落とそうとされるほどであった。

 生きることは、神から委ねられた使命を果たすという義務に生きることだった。そして、人間の深い罪、真理に背く生き方は必ず裁きを受けることになって、滅びに至ることを霊の目ではっきりと見据えておられた。

 その滅びへの道をたどっている同胞たちのことを思って主イエスは、深い悲しみの涙を流された。

 

…いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、

「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら......しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。(ルカ194144

 

 賛美についても、主イエスが神への賛美を歌ったということは、最後の夕食のあとで、賛美を歌ったことが記されている。ゲツセマネの園へ祈りのために向った。

 

…一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ1426

 

 この賛美の心は、詩篇には最も多く、広く、かつ深く表現されている。新約聖書においても、黙示録では、啓示を受けて天の国の世界では御使いたち、また清められた人たちが、大いなる賛美をうたったことが記されている。

 

…彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。

「全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。

諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。(黙示録 153

 

 そして、神がおられるところから、大群衆のような声、莫大な水が落ちるような轟く音、あるいは天空に響きわたる雷のような音が、聞こえたが、それは神への賛美であったという。

 

…わたしはまた、大群衆の声のようなものが、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。

「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。

わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。(黙示録196

 

 神への賛美の声は、たとえようのないほどの重々しい音であった。そのことを何とか表現したのがこの箇所である。轟音のような音―このような表現で賛美の歌をあらわすということは、現在の私たちでは考えられないことである。それほどに、黙示録の著者が聞き取った賛美というのは、単にきれいなメロディーとか心に響くとか、美しいハーモニーだといったものでなかった。

 それは何よりも力だった、重厚なものであり、この世で最も大いなる音であった。

 ローマ帝国のきびしい迫害に耐えて、キリストの証しを守り抜いた人たち―彼らを支え、導いたのは、そのような重く、力あるもの大空に響きわたるほどの大いなる音であらわされる力だったからである。

 

 そして、主イエスに従っていくことは、時として苦しい戦い(struggle)となる。この点でも主イエスは、生涯がこの苦闘の連続だった。

 その延長上には、悲劇―十字架の死があった。そのような特別な使命がなくとも、この世にはかずかずの悲劇がある。そのなかに多くの人たちは巻き込まれ、生涯消えることのない、悲しみの刻印をその魂に押されることになる。

 しかし、それでもなお、そこにも幸いの道があることを主イエスは伝道生涯の初期に教えられた。

 

…ああさいわいだ、悲しむものたち!  なぜならその人たちは(神によって)慰められ、励まされるからである。(マタイ5の4より)

 

 生きること―人生は冒険だ、このことは、キリスト教と関係なく、起業や、未知の山岳や極地や秘境の探検などでよく言われることである。しかし、キリスト教信仰においてこのことはそうした一般的な冒険とは大きく異なっている。それは、神の国を目指しての冒険だからである。

 そして、キリスト者の冒険には、確実な導き手がある。ヒマラヤなどの高山を登るときには、荷物の運搬をしてくれるシェルパやベテランの登山家などによる導きが不可欠である。

 神の国への冒険もまた、導きと重荷を負ってもらうお方がなかったら歩むことはできないし、神の国という限りない高みへと登ることはできない。

 そのために、私たちは聖霊の導きが与えられている。それは具体的に困難なおりには、こちらが道だ、と指し示してくれるし、また疲れた心、苦しみや悲しみにうちひしがれた重い心に寄り添ってその重荷を軽くしてくださる。

 それによって、私たちは神の国といういかなるものにも増して高きにあるところへと登っていくことができる。

 


 リストボタンイエスを礼拝するために

 

 新約聖書の最初の部分に、イエスの誕生のことが記されている。そしてその記述は、はるか東方で星を見た。そしてその星に導かれて、遠いアラビアの地から、ユダヤの王として生まれた方を拝みに来た三人の博士たちがいた。

 途中のさまざまの危険、そして何かをもらうためでなく、礼拝するため、しかも、最も貴重な黄金と没薬、乳香などを捧げるためにはるばるやってきた。

 私たちが、日曜日ごとあるいは各地の家庭集会で集まるのは、何か目に見えるものをもらうためでない。それはそこにいますキリストを礼拝するためである。

 その意味で、このイエスの誕生のときにやってきた東方の博士たちの目的としたところと同様な目的をもって集まっているのである。

 主イエスは言われた。二人三人わたしの名によって集まるものは、私もそこにいる、と約束してくださっているゆえに、私たちが主にあって集まるところにいてくださる主イエスに対して礼拝をするために集まるのである。

 東方から来た博士たちは、新たに生まれた王を礼拝するために、1500キロ以上もあるような遠いところから旅立ってきた。途中でどんな危険があるかもわからない。砂嵐、水がないこと、道に迷う、あるいは食糧がなくなる、盗賊に襲われる等々、そんな危険を犯して、長い期間を経て礼拝のために行く―それは驚くべきことである。

 ここには、イエスを礼拝することの重要性と、そのために、いかなる困難をも甘んじて受けて、その目的のために歩んでいく人たちのことが象徴的に示されている。

 たしかに、その後の長い歴史において、イエスを礼拝するために命の危険にさらされたり、実際に命を失ったり、家族がばらばらになったり、仕事も失われ、社会的にも捨てられたような人たちが数かぎりなく生まれてきた。

 それでも、なお主への礼拝を続ける人たちは、消えてしまうことなく、そうした迫害をもこえてさらに強く信仰の火が燃えていくことになった地域も多く現れ、そしてローマ帝国がキリスト教を受け入れ、そこからヨーロッパ全域にひろがって、さらに後には南北アメリカ大陸へと広がっていった。

 こうした長い歴史の歩みの中心にあるのは、あらゆる困難にもかかわらず、キリストへの礼拝へと強くうながすもの、そしてそれを導く星のような存在である。

 

 彼らは、それほどの困難を経てイエスへの礼拝のために遠くへと行った。そして、イエスに礼拝を捧げ、さらに、黄金、乳香、没薬(*)といった最も貴重な宝物を捧げたのである。

 

*)乳香は、カンラン科の植物の幹を傷つけて出て来る液を凝固させたもの。香りがよい。古代にあってとくに貴重なものであった。没薬は、やはりカンラン科の樹木(ミルラ)から分泌した液を乾燥させたもの。香油の材料としてまた薬としても用いられ、これも貴重なものとされていた。

 

 ふつう、どこかに行くときには、何かを受けるために行く。熱心にそのためにエネルギーを費やすのは、特別な試合のチケットとか、特別な記念の乗車券に類するもの―少し前に、東京駅開業100周年の記念IC乗車券のために、この寒い季節に、徹夜または5時間以上も前から来て並んだり、朝7時過ぎの時点で9千人もが並んでいたという。

 何か珍しいものをもらうためならこのように大変なエネルギーを注ぐが、もらうのとは逆のこと、最も大切なものを捧げるために、遠くから出かけるとかエネルギーを注ぐということは耳にしたことがない。

 この博士たちが、イエスへの礼拝のために捧げたものは現代の私たちには、耳慣れないものを含む。黄金は財宝という点では、目にみえるものでは最も変ることなく価値があるので全世界において、はるか昔から重要視されてきた。

 黄金に比べると、乳香、没薬などは現代では多くの人々にとって、無意味に見える名前であり、ほとんど関係もないと感じる人が多数であろう。

 しかし、現代の私たちにとっても、大切なものを捧げる。宝の箱を開いてキリストに捧げるということは、日々大切なことである。

 私たちの心の内にあるものこそ、宝の箱であり、それを開いて大切なものを捧げる―それは、砕けた悔いた心である。            

…神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を軽んじることはない。(詩篇5119

…主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。(詩篇3419

 

 このことに関して、福音書に次のようなイエスの言葉が記されている。

 

…ファリサイ派の人は『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者でなく…週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』と言った。

 ところが、徴税人は、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』  言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ181214より)

 

 また、心の貧しい人たちは幸いだと言われたことも同様である。

 心貧しき人とは、自慢や他者を見下す心をもった人とは逆の心をもった人である。

 自分がいかに、あるべき姿からはずれているか、それを深く知っているほど、心貧しき状態であり、そのような心をもって主を仰ぐ、礼拝すること―それによって神の国という最もよきものが与えられるという。

 罪あるとき、赦しを願うことによって主を礼拝する、自然をみても、その背後の神の力を知って礼拝する。よきはたらきの人があれば、その人にそのようなわざをなさしめている主を仰ぎ、礼拝する。

 日々の小さなことにも主にあって感謝できるということは、そうした小さなことを通して主を礼拝するということである。

 使徒パウロが、つねに感謝せよ、いつも祈れ、と言ったのはこのような主への礼拝の姿勢から必然的に生まれるからであった。

 

・どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4の6)

 

・目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ 42

 

 このような言葉によって、日常の小さな出来事においても、たえず主を仰ぎ、感謝と祈りをするということで、主イエスへの礼拝が日常的になることが示されている。

 そして、それによって聖霊が与えられ、神からの励ましや慰めが与えられることにつながっていく。

 


 

 リストボタン新しくされること

 

 だれでも、古びたままでよいとは思わない。新たな力、希望を与えられたい、新しいものを知りたい、新しい経験をしたい、新しい友だちがほしい…等々、新しいものは単なる物珍しさがあったり、ときには新鮮であり、心惹くものもあるゆえに、だれもが求めることである。

 新しくされる、聖書はそのことについてどのように述べているだろうか。

 新しい年になったといっても、周囲の自然は何も変化はない。また時間も同じように流れていくし、社会的にも政治状況なども、テロの危険、迫害されている状況、内戦地帯も、変ることなく続いている。

 日本の政治は、目先の物質的利益を第一に考えるという発想の政治家たちが受け持ち、原発のあれほどの害悪にもかかわらず、平然と再稼働や立て替えと称する新規増設などが考えられている。

 日本を見ても、世界をみても1月1日になったからといって何も新しい状況は生まれるものではない。

 それはたんにカレンダー上のことで、現実の状況は何も変化することはない。

 むしろ、新しさを感じるのは、3月から4月にかけての新緑や花咲き始める頃である。そこに、枯れ木のようになっていた草木が芽吹き、花を咲かせてその新たな命を到る所にあらわすからである。

 けれどもそのような新しさもまたすぐに、失われていく。

 人間にとって、絶えず新しいものを求めるのは、変わったこと、変化のあるもの、物珍しさという一時的な気持ちにすぎないことが大部分である。

 そのようななかにあって、時間や政治や社会状況などいっさいにかかわらず、深い新しさを実感させるものを聖書は指し示している。

 そして、 そのような新しさは、清めと深く結びついている。ごく身近な生活でも、汚れた器物もきれいに洗えば、しばしば新品と同じようになる。それと同様なことが、精神の世界、霊的な世界に、はるかに深い意味でみられる。

 けれども、ニュースのような出来事の新しさは、清めとは何の関係もなく、たんに時間的なこと珍しいということにすぎない。

 精神の世界における清めとそこから来る新しさを与えるものは、神の力であるが、そのことに関して、清めは、古い旧約聖書の時代から、水、火、光などを用いて記されている。

 このことに関しては、すでに旧約聖書の数千年も昔の古い記述から見られる。

 それは、現代の私たちと何の関係もないかのように見えるが、その奥に流れているものは現在にもつながっているのである。

 

…祭司は戦いに出た兵士たちに言った、「これは主がモーセに命じられた律法の定めである。

金、銀、青銅、鉄、すず、鉛など、すべて火に耐える物は火の中を通さなければならない。そうすれば清くなる。

 なおその上、汚れを清める水で、清めなければならない。しかし、すべて火に耐えないものは水の中を通さなければならない。

 あなたがたは七日目に衣服を洗わなければならない。そして清くなり、その後宿営にはいることができる」(民数記312124

 

 このように、はるかな遠い昔から、人間にとって清めということが重要であったことがわかる。言い換えるとそれほど人間は汚れに染まっている存在であり、汚れは人間の運命を悪しきほうへと変えてしまうからである。

 火―汚れを清めるということのために、火を使うということは現代でもある。それはいわゆるバイ菌による汚れを清めるからである。(バイ菌とは、カビや細菌などを含めて言う、通俗的表現。)

 包丁などに付着している細菌などは、ガスコンロの火にさっと通すだけで 死滅する。

 また、さまざまの物質が混ざり合っている鉱石から、例えば鉄だけをとりだすには、コークスという石炭より炭素分を多くしたものを用いる。それで高温にすると、鉄鉱石(赤鉄鉱 Fe2O3)の成分の 酸素と結びついて、鉄が溶けだす。

 このように、精錬によって純粋な金属をとりだす。火は不純物を清めるためのものとして、たとえで聖書にもしばしばあらわれる。

 神の言葉は、不純なものがまったくない清いものだということは、つぎのように、火で清められたと記され、金属の精錬のたとえであらわされている。

 

・神の道は完全、主の仰せ(神の言葉)は火で練り清められている。(詩篇18の31 )

 

・あなたの仰せは火で練り清められたもの。あなたの僕はそれを愛します。(詩篇119の140)

 

 このように、古い時代から、火、水は清めとして用いられてきた。

 

  次に、光が清めを与え、霊的な新しさとなることについて、聖書は繰り返し記している。

 私たちの暗い心に、光が感じられるとき、周囲のものも新たに見えて来る。新たな扉が開かれていく。

 春が新たなものを感じさせるのは、死んでいたような木々が芽吹き、そこに新たなものが見えて来るからである。

 光が見えないとき、私たちの心は古びて来る。光が与えられているほど、私たちにはそれまで見えなかったものが見えて来るゆえに、新しさを実感することができる。

 神の光を実感するとき、そこには闇ばかりであった状況に新たなものが見えて来るゆえに新しさを感じる。

 そして、水。 これは、汚れたものをきれいにして、新たにしてくれるということで日常的に生活と関連している。けれども、そうした清めはすぐに汚れる。単に一時的なものである。

 また、水は一時的にせよ、心身を一新するはたらきがある。とくに疲れ、水がなくて苦しいとき、その渇きに耐えかねているときには、大きなはたらきをする。

 夏の暑いとき、ずっと水がなくてのどの渇きが続いていたときに、冷たい水を飲むと心身をリフレッシュされる。

 私はかつて、夏山を10時間ほどもかけて、テント、食糧など重い荷物を背負って一人で縦走したことがあった。

 四国の二千メートル近い高山で、雲一つない真夏の晴天のもと、さえぎるものない稜線にあって、だんだん水のたくわえがなくなってきて、苦しいとき、ようやく尾根から少し下った所の湧き水を見いだして口をつけて飲んだとき、そのさわやかさはたとえようがなかった。 その冷たさ、何も味がないはずの水の新鮮な味わいがそこにあった。それはその場所とともに、数十年を経ても忘れられない。

 広島での原爆投下によっておびただしい人たちが命を失った。そのときまだ生き残っていた人たちが一様に必死に最期の息のなかから求めたのは、水だった。ようやくわずかの水をもらって ほっとした表情になったと思ったらすぐに息絶えたということも多く見られたという。

 このような切実な水への渇き、それは、渇ききった人間の魂がまた、そうした霊的な水を切実に求めているということを象徴的に示していると感じられる。

 神からのいのちの水は、霊的に死に瀕している魂を生き返らせる力を持っている。

  いつまでも渇くことがない―そんな水がある。渇きに苦しむ人間には、ふつうの水が、弱っていた体を力づけ、心身に力を与えるように、主イエスの言われた霊的な水は、われわれの渇いた魂がうるおい、力が与えられ、フレッシュな気持ちにさせてくれる。そして、私たちの魂の汚れを清め、新たにしてくれる。

 

 風―これはとくに夏の暑い日に、さわやかな風が吹いて来ることで心がすうーっと清められ、新しい気持ちになる。風のない暑い日、からっとした風があれば、気温が高くとも、十分に耐えられる。

 同様に、この世の息苦しさのただなかであっても、私たちは天の国からの風を受けるときには、さわやかなものを実感し、力が与えられる。

 これは、キリストの時代になって以降は、聖なる風(聖霊)が与えられるようになり、その聖霊こそは、人間を新しく生まれ変わらせる力を持っている。

 日本語の霊と風とは全くことなる言葉であるが、聖書の原語であるヘブル語やギリシャ語では、風という意味を持っていて、それが息や霊という意味にも用いられているので、じっさいに聖書ではそのようにも訳されている。(*

 聖霊とは、神からの聖なる風ということができる。

 

*)ヘブル語では、ルーァハ、ギリシャ語では、プネウマ。なおラテン語では、スピーリツス spiritus というが、これも、ヘブル語やギリシャ語と同様に、風という意味、そして息、呼吸、霊という意味を持っている。

  

 このように、神によって新しくされることは、清められるということと結びついている。水や火による清めは、聖書の世界にかぎらず、一般的にも言われてきたことである。

 しかし、罪による汚れを清めて新たにする、ということにおいて、とくに聖書に記されていることは、血が用いられているということである。

 

…祭司は、牛の血をとって幕屋に入り、血を7度注ぐ。またその血を取り、主の前で祭壇の角に、それを塗らなければならない。その子牛の血の残りは祭壇のもとに注がなければならない。(レビ記4章5~7より)

 

 このように、罪の汚れから清められ、赦しを受けるためには、命そのものであると考えられていた血が不可欠だとされていたが、このことは、後に、神の小羊といわれるキリストが十字架で血を流すことによって初めて人間の罪からの清めがなされるということにつながっていった。

 罪の赦しということは、罪からの清めを同時に含んでいる。清めを受けた魂は新しくされたものである。

 このような、さまざまのことによって、なんとかして清めを与えられたいという切実な願いが、いまから数千年前からみられる。そして、水や火、あるいは血といったものでなく、目に見えない神の言葉によって清めをうけるということも、記されている。

 このことは、現代の私たちにおいてもそのままあてはまることである。み言葉によって日々の清めを与えられ、それによって日々新しさを実感することができる。

 

…若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。(詩篇 119の9)

 

  聖書において、何が、人間を根本的に新しくするのか、本当の新しさはどのように記されているだろうか。

 その点において、はっきりと記されている最初の例はアブラハムである。彼は、何によって新しくされたのか。それは、神からの語りかけによってである。神の言葉によってである。

 旧約聖書での大きな存在はアブラハムであり、かれはすでに述べたように、神からの語りかけ―神の言葉によって決定的に変えられ、新しくされた。そしてそこから新しくされる人たちが、その後現在まで数千年の長期にわたって続いている。

 現在の私たちのうち多くの者は、アブラハムが聞き取ったように明瞭には神からの語りかけを聞き取ることができないかもしれない。しかし、そのためにこそ、書かれた神の言葉がある。それは私たちへの語りかけである。

 それを心して受けとるときには、私たちは新たにされる。

 主イエスも、私があなたに語った言葉によって清くされている、と言われた。(ヨハネ153

 ここでも神の言葉を聞くときに、清くされるのがわかる。そして清くされた心は、さまざまのものを新しいと実感させる。古びた汚れた心は、本当に新しいものを感じ取ることができない。

 風の強い音、雨の音が聞こえる、星が輝いている―それらの現象の背後には、神がおられる。それらの自然現象も、神の言葉によって万事が創造されたということを信じるときには、そうした自然の現象からも神の言葉を受けとることができる。そして、そのような心こそ、新しくされた心である。

 

… だから、わたしたちは落胆しない。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていくからである。(Ⅱコリント 4の16)

 

at the same time our inner human nature is renewed day by day.

 

 この体は日々、衰えていく。しかし、私たちの内に住んでくださるキリストの力によって、キリストが与えてくださるいのちの水によって、私たちの心、本性は、日々新たにされるようにしてくださった。

 そのしるしとしていえるのが、与えられているものがはっきり見えて来るということである。

新たに与えられているのが、わかれば感謝の心がおのずから生じる。それまで感謝などまったくしていなかった、朝起きてからのいとなみ―呼吸できること、目が見える、聞こえる、話せる、立ち上がれる、食事がある、空気がよい、衣服や住居、捕らわれたりしない安全な生活、使っている日用品等々、一つ一つ、与えられているのだと実感するとき、感謝がおのずから生まれる。

 そして感謝できる心は新しくされた心である。

 感謝できない心は、受けているものが分からない、固まった心、古びている心だということになる。

 この世の悲しみや苦しみが次々と生じていくとき、耐えきれなくなって、心が固くなってしまうこともある。

  老年になって、記憶力も考える力も、あるいは読む力、まとめる力、書く力なども次々と衰えていく。

 しかし、そのような状況となっても、感謝できる心、神様は何でも聞いてくださるお方だ、自分をみもとに連れていってくださるお方だ、と確信できるとき、それは新しくされている心である。

 そのような心になるということは、努力しても難しい。ただ上よりの賜物としてくださるものである。

 使徒たちは、主イエスからの語りかけを受けたとき、彼らの生涯は変えられた。まったく新しくされたのである。そして、主から悪霊を追い出す力を与えられた。

 そして、キリスト者たちを迫害していたパウロもまた、学問や教養、家柄などによっては全く変えられなかったにもかかわらず、キリストからの光、そのみ声により、その語りかけによって変えられたのである。

  憎しみは心を死んでいる状態にしてしまう。その反対に愛こそは、神の命であるゆえに、その愛を少しなりとも受けてはたらかせる者は、つねに新たな心の状態を保つことになる。

 愛こそは、神の命であるから、そして神こそは永遠に新しい存在であり、触れるものをみな新たにするお方であるからである。

 そのような神の愛を受けたとき、天にも雲にも主の愛、真実が満ちていると見えて来る。

 

…主よ、あなたの慈しみは天に

あなたの真実は大空に満ちている。(詩篇36の6)

 

 これとほぼ同じ言葉は、詩篇57篇、108篇などの三つの詩篇にあらわれるほどに、強調されている。それほどまでに新しくされる世界があるのだ。

 新しいとはいままでになかったこと、だれも知らなかったことである。ニュースはそれゆえに興味をもたれる。

しかし、この世のニュースはすぐにすたれる。一日経つともう大部分は忘れられるし、私たちの力にならない。

 しかし、聖霊によって、神の愛をうけ、キリストがうちに住んでくださるときには、さまざまの小さなこともまた、新たな意味をもって迫ってくる。神の国の霊的なニュースを運んでくれるようになる。

 

…つねに感謝せよ、キリストの言葉がつねに宿っているようにせよ。(コロサイ3の15)

 

 主イエスは、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われた。      (ヨハネ3の3)

 神の国とは、永遠の新しさや清さ、美を備えた神の御支配のうちにある霊的な国である。それを見ることができるということは、何にもまして私たちに新しさを魂の深いところで実感させてくれるものとなる。

 そしてそれは思索や経験、生まれつきの能力、お金や教育といったあらゆるこの世の手段とは異なる道によって与えられる。それは聖霊による新たに生まれることによってである。

 そのような新生は、人間の意志や努力によらず、風が思いのままに吹くように、神のご意志によって、まったく人間の思いを越えてなされる。

 キリストの言葉、聖霊、生けるキリストが宿っているかぎり、私たちは古びることはない。この世が古びていこうとも、私たちはそうした流れに抗して、新しさを保っていくことができる。

 ただ主だけは変わらないお方であるゆえに。

 


 

リストボタン  闇の中の光としてのキリスト

 

 イエスが生まれたときの記事は、聖書においてはマタイとルカの二つの福音書に見られる。

 いずれも子供向けの絵本にも記されている。

 一つは、星に東方の博士たちが導かれるという記述、もう一つは、家畜小屋で生まれたというものである。

 これは、いずれも現代の私たちの生活とはあまりにもかけ離れていると感じられ、子供向けの話しのように思われがちである。

 しかし、世界の歴史で最も重大な影響を各方面に及ぼしたイエスの誕生のことを、子供向けに書くということは考えられないことである。

 たしかにその誕生の記述は、現代の私たちにも重要なメッセージを含んでいる。

 イエスが生まれたのは、へロデ王の時代であると最初に記されている。

 それは、当時の人にとってはそれがどんな時代であったかをはっきりと示すものだった。へロデ王は、権力を持つようになって、前の王を殺し、自分の妻の弟をも殺し、さらに自分の妻を、つぎに妻の母をも殺し、ついには子供たちを3人も殺して、自分の支配権を維持しようと考えた。

 へロデが王子たちを殺した時期は、彼が、イエスの誕生を聞いた時期と同じころであった。

 イエスの誕生のときに、王として生まれたイエスということを聞いたので、イエスを殺そうとしたが見つからず、そのために、その地域の2歳以下の幼な子たちを皆殺しにしたと記されている。

 このように、異例の悲劇を起こした点では、ネロ皇帝と似ている。

 ネロも、自分の地位を守るために、義理の弟を殺害し、母親を、そして妻をも殺害した。さらに、哲学者として有名なセネカはネロの幼少期の家庭教師であり、成人してのちも指導を仰ぐこともあったが、そのセネカをも自殺を強要することで殺害し、その甥ものちに自殺させられた。

 さらに、キリスト教徒を弾圧するために、ローマに火を付けて、その罪をキリスト教に負わせて捕らえて多数を殺害するなど、深い闇がたちこめていた。

 このように、ヘロデ王とネロとは、その深い闇をもった人物として、ある種の共通点がある。

 イエスは、へロデ王の闇のなかで生まれた。しかし、その闇から逃れるように御使いが導いた。

 また、ネロ皇帝の異常な迫害にさらされ、多くのキリスト教徒が捕らえられて殺されたが、そのような中から、新たに生きたキリストを心に宿す人たちが次々と生じていくという不思議なことが生じ、キリスト教はヨーロッパ全体へと広がっていった。

 闇の中で生まれ、闇の力を克服し、それによって真理は広がっていく。

 そのことによって、人間の力でなく、神の力がそうなさしめているのだということが証しされていった。

 

 イエスが誕生したとき、はっきりと二つの反応があった。

 一つは、はるか遠くから星に導かれて博士たちがやってきた。途中でどんな困難や危険があるかもしれず、死ぬかも分からないという状況が考えられるにもかかわらず、イエスに会うというただその目的だけで長く、危険な旅をしてきた。

 マルコによる福音書では、イエスの幼少時のことはいっさい触れることなく、いきなりイエスの30歳からの宣教の記述からはじまっている。そして、イエスが来られたのは、水でなく聖霊による洗礼を授けるためであったこと、神から聖霊を注がれたことが書かれ、ペテロ、ヨハネたちが漁師を捨てて主に従うものになったことが記されている。

 このあとに、記されているのは、汚れた霊、悪の霊にとりつかれた者をいやし、悪霊を追い出されたという記述が繰り返し現れている。1章の後半だけでも、6回もそうした悪の霊が言及されている。

 このような記述の仕方によって、イエスは闇のただなかに来られたのだ、そしてその闇の力にうち勝つということを証ししているのである。

 ルカ福音書では、イエスの誕生にまつわる危険は書いていない。その代わり家畜小屋というまっ暗な汚れた場所で生まれたことが記されている。  それもまた、闇の中に生まれたことである。それは貧しさと、それにつきまとう苦しさや悲しみ、そして他者から差別され、見下されるという闇である。

 そしてさらに、最初の会堂の説教の直後に、主イエスは、人々から湖に突き落とされようとしたという、この世の闇が記されている。

 それらの記述とは異なり、ヨハネによる福音書では、その第一章のはじめの部分に、闇の記述がある。しかし、神の光は、その闇に勝利したことが記されている。

  このように、いずれの福音書においても、イエスの到来は、この世の深い闇のただなかであったことがそれぞれの福音書において強調されているのがわかる。

 いかに科学技術が進展しても、闇の力を防ぐことはできない。かえって科学技術は闇の力、サタンの力に利用されることがしばしばみられる。

 その歴史的な例はいくらでもあるが、ダイナマイトもその一つである。そこからその巨大な爆発力が爆弾というかたちで悪用され、無数の人たちが死んだり、大怪我をして生涯を苦しみつつ生きねばならなくなった。

 爆弾はさらにその悪魔性を増し、核兵器というものが生み出され、広島や長崎で実証されたように、それがつかわれると何十万という人たちが一瞬にして死んでしまい、さらに何十年ものあいだ苦しみつづけねばならない。

 原発も同様で、最初は輝かしい未来が到来する、などと言われ、もてはやされた。しかし、それが何をもたらすのか、広大な山野を放射能で汚し、人間生活の基盤となってきた広大な農山村を破壊するし、東京など大都会にその強い放射能が降り注げば日本全体が壊滅的な打撃を受けるほどのことになった。

このように、政治学や経済学、あるいは社会学などが発達しても、また科学技術が驚異的なものを生み出してきたからといって、闇がなくならず、かえって新たな闇が生まれて来るという状況になる。

 LEDの光は、世界的に用いられて、エネルギーの節約となっている。しかし、その強い光であっても、人間の魂の暗闇を照らすことはできないし、この世界の闇の力を打ち破ることもできない。

 このような状況を知れば知るほど、神はいかなるほかの方法でもできないこと、魂の闇に光をもたらすことをキリストに与えたのであった。

 


リストボタン 待つことと祈り

 

 エレベーターで扉が自動的に閉まるまでの4秒ほど、その時間をあえて閉じるボタンを押さずに、かかわっている人たちのために祈る時間とする―と書いていた著作家がある。

 他者のための祈りは、神を見つめ、相手の人たちをも心の目で見つめるということであり、主イエスが最も大切なことと言われた「神を愛すること、人を愛すること」につながることである。

 真実に他者のために祈る心は、神に心を注ぎだし、また神が祈る対象の人に、よきものを注いでくださるようにとの祈りであるからである。

 この世で最も大切なこと、それは何か目立つことをすること、スポーツや何らかの会でよい成績をあげたり、有名になったりあるいは地位があがり、りっぱな家とか持ち物を多く持つことでもない。

 それは誰にでも、どこにあってもなしうることである。

 愛することと祈ることは一つである。

 主イエスも、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5の44)と言われた。

 そして、自分がいよいよ捕らえられ、苦しめられ、十字架にて処刑されるときが間近に迫り、弟子たちが逃げてしまうこともすべて見抜いた上で、言われた。

… しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

          (ルカ22の32)

 このように、イエスは弟子たちを最後まで深く愛されたが、その愛は祈りでもあったのがわかる。

 また、最初の殉教者となったステファノも、自分を殺そうと石を投げつけて来る人たちのために、「彼らの罪を赦してください」との祈りを捧げて息を引き取った。

 それは、かれを殺そうとする敵のために最期のときであっても祈りをささげたということを示している。

 待つことは祈り、だれかが真理に背いている、その人を愛するとは常に主の力がその人に臨むようにと待ち続け祈り続けることである。

 もし、神がおられることをまったく信じることなく、それゆえに愛の神、全能の神に祈ることを知らないときには、待つということは単調な、退屈な時間の流れとなるだろう。

 しかし、待つという時間を、神への祈り、他者への祈りへと転じるときには、重要な時間となる。

 私たちの生活は、至るところで待つということがある。仕事に行っている人は、電車やバスなどで毎日「待つ」ことを経験する。また車でも、信号待ち、渋滞での待つこともしばしばである。

 このようなごく日常的なことであるが、他方、聖書においては、もっとも重要なことにかかわって現れる。

 それは、聖霊を待ち望むことである。聖なる霊、それは私たちに与えられる最大の賜物である。なぜなら、聖霊とは神の本質である愛や真実、そして正義や力、洞察力といったものをすべて兼ね備えているものだからである。

 そのために、主イエスが言われたのが、「待ちなさい」ということであった。

 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1の3~5)

 

 聖霊を与えられるから、待て、と言われたのである。それは、あなた方 と言われているのは、特定の人でなく、弟子たち、イエスを救い主として信じる人たちすべてに対して言われたことであった。

 このイエスの言葉にしたがって弟子たちは待った。みんなで集り、祈りつつ、待ち続けた。

 そして、時至って聖霊が与えられ、キリスト教が以後全世界に伝えられていくその出発点となった。

  主イエスは、つぎのように言われた。

 

「求めよ、そうすれば与えられる。…あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

…このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

     (ルカ福音書11913より)

  待つことは、祈り―このように私たちはこの人生のすべてのときにおいて、待ち続ける。聖霊をより豊かに与えられたいと祈り、待つ。

 それは、さらにこの世がいかに悪しきものになろうとも、変ることはない。

 主イエスは、この世の混乱、腐敗はだんだんとおさまる―といった楽観的な見方をしていない。だが、そうした混乱や闇が最終的にすべて決着がつけられる時が来るというのが、旧約聖書、そして新約聖書を通じて一貫して言われている。

 旧約聖書時代は、待ち続けた結果、キリストが神と同じ力をもって地上に来られた。

 そして、キリストの復活以降は、世の終わりにキリストがふたたび来られるということが浮かびあがってくる。

 主よ、来てください!  (マラナ・タ)というのが、聖書の最後に記されている願いと祈りの言葉となっている。

 このように、「待つ」ということの、大いなる深さと広さが聖書によって私たちに示されているのである。

 他方、主イエスもまた私たちの心の扉をたたきつづけ、私たちが心の戸を開くのを待ち続けてくださっている。

 

…見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。

だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。(黙示録 320

 

 このような表現は、一般的にはわかりにくい。 キリストが戸口に立っている、中に入って共に食事するとはどういうことなのか。ここでいわれているキリストは、復活して天に帰り、神と同じ存在とされているので、神が待ってくださっているということでもある。

 私たちは、神が待ってくださっている、などということには、思い及ばないことが多い。

 逆に、私たちが待っているのだ、ということはわかりやすい。神を信じる人は、神が私たちの願いを聞いてくださるのを待ち続けている。信じていない人たちも運命が好転することを待ち続けている。苦しみや悲しみが深いほど、その待つ心は切実である。一日たりとも忘れることはできない。

 それゆえ、旧約聖書の詩篇には、神を待ち続ける作者の祈り、叫びが数多く記されている。

 

…わたしの魂は恐れ、おびえている。主よ、いつまでなのか。

主よ、来て私を助け出してください。(詩篇6の4~5より)

 

…いつまで、主よわたしを忘れておられるのか。

いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。(詩篇13の2~3より)

 

 どんなに待っても待っても、その助けが来ない。生まれてこなかったほうがよかった、どうして神は私をこの世に生まれたときに命を取ってくださらなかったのか。…

 といった切実な苦しみと嘆きは、旧約聖書のヨブ記にくわしく記されている。神を信じているのに何ゆえ、神は慈しみと真実な神であるはずだのに、どうしてこのような恐ろしい苦しみが取り除かれないのか… この根本問題にヨブ記という長大な詩篇が費やされているほど、この問題は、神を信じている人にもおそいかかってくる問題となっている。

 こうした聖書に記されている記述や、私たち自身の経験、そして周囲の知り合った人たちにふりかかっている苦難の状況などを知るにつけても、待ち続けることが至るところでみられるのに気付かされる。

 そのように神を待ち続けるという気持ちと逆のこと、主がつねに私たちを待っていて下さるということは、とても意外なことに思える。

 けれども、聖書にこのこともまた、多く記されている。

 創世記の最初に、アダムたちが神の命令に背いて、食べるによい果実が周囲に十分に備えられていたのに、食べてはならない木の実を食べてしまった。この食べてはいけない木の実、それは人間の真のさいわいと知識や技術的な発達がどのようなことをはらんでいるかの深い洞察がそこにある。

 この重い罪を犯したアダムに対して、神が最初に投げかけた言葉は、裁きの言葉でも、責める言葉でもまた怒りの言葉でもなかった。(創世記3章)

「どこにいるのか。」という問いかけがそれであった。

 神はもちろんアダムたちがどこにいるのか、隠れている場所も熟知していた。それでもなおこのように問いかけたのは、アダムたちが、自分と神との関係がどうなったのか、神の真実や慈しみというところから、どのように離れてしまったのか、どこまで離れているのか、それを問いかけたのである。

 それは、本来厳しく裁かれるべき罪であったが、まず神は待つということをされた。アダムたちがみずから犯した罪に気付いて、神に立ち返ることを待たれたのであった。

 それにもかかわらず、アダムたちは立ち返らなかった。彼らは蛇が誘惑したとかいう言い逃れをするだけだった。

 このことは、アダムたちのふたりの子供に起こった事件においてもみられる。兄カインが、弟をねたみ、野原に誘い出して突然弟を殺害するとい驚くべきことが起こった。

 このような卑劣なことをした兄に対しても、神はただちに厳しい罰を与えることをせず、意外にも、つぎのようにいわれた。

「お前の弟はどこにいるのか」―これは罪犯したアダムたちにいわれたのと同じ語りかけである。

 このように、聖書の最初の書から、すぐに罰を与えることなく、まず、神は人間の悔い改めを待つということが記されている。このことは、後になって神を信じているはずの民が、悪事を重ね、神に背き続けたことによって、大いなる裁きがくだされ、北部のイスラエルに大国が攻撃してきて滅ぼされるという事態となった。

 さらに、残った南部のユダにおいても同様で、真実な神への背信行為を重ねたために、やはり大国によって滅ぼされてしまい、多くの民は遠いバビロンに捕囚となって連行されたのであった。

 このような過程においても、神は預言者をつかわし、彼らは不信仰な人々に対して、悔い改めをいのちがけで説き続けた。

 

…「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。

金のない者もきたれ。

来て買い求めて食べよ。

あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」

             (イザヤ書55の1)

 このような呼びかけは、すなわち神は人間が慈しみと真実な神のもとに来ることを待っておられるのを示している。

 待ち続けてくださっている神、それはふだんはそのようなことをなかなか考えたり、見つめたりしない。

 愛の神であるゆえに、そのように待っていてくださるのだ。

 私たちも、もし家族や親しい友が離反してしまったとき、心の固くなった者なら、怒ったり見下したり、あるいは見放したりしてしまうであろうが、愛が深いほど、待ち続けるだろう。

 待つということは、最初にあげたごく日常的なことから、はるかな古代に起こった出来事にもみられ、預言者たちによっても神の待ち続ける愛が示された。

 他方、人間の側においても、とくに詩篇においてどこまでも神に叫びつつも、待ち続ける姿が記されている。

 この世の終りという究極的な状況にあっても、そこでも、人間の待ち続けることが記され、神はその希望に必ず応えてくださることを確信して聖書は終えられている。

 現代に生きる私たちも、自分自身にかかわるさまざまの問題の解決を待ち続け、それとともに私たちが心の扉を開くのを待ってくださっている神(キリスト)を日々、受け入れて私たちのうちにとどまっていただきたいと願っている。

 


リストボタン ことば

 

(377)自然の役割

真夜中に、窓際に立つ桑の木の枯れ葉を打つ音を聞いた。

電光が鋭く光った。

こだまする雷鳴の響きで、

天には神がおられて、世を御支配なさっていると思わされた。

そのとき、かつて聞いたことのある、天の正義の話しを思いだして

悩む心も、なごみ和らぎ、朝まで平和の眠りについた。

(「エヴァンジェリン」4・ ロングフェロー作)

 

・苦しみと悲しみのなかに置かれた一人の若い女性、エヴァンジェリンのさまよう心に、深夜に雷鳴が響いたが、それは通常の人に対するように恐怖を呼び起こすものでなく、かえって、神の力強い愛と正義の御支配を思いださせるものとなり、魂の平安へとつながるものとなった。

 聖書においては、雷の音やその電光、あるいはさまざまの自然現象もみな、神の御支配をあらたに思い起こさせ、そこからその正義と真実へと立ち返らせようとされる神のご意志であることが示されている。

 

(378)忍耐によって

 最も困難なのは、忍耐であった。人間の最もよい性質は、ただゆっくりと、しかも多くの忍耐によって初めて成長していくものであり、また悪や利己心などはなかなか急にはなかなかなくならないものである。

 そこでわれわれが人間を相手にして、彼らを助けて進歩させようとするとき、特別な忍耐をもっていなければならない。 (ヒルティ・眠られぬ夜のために下4月3日)

 


 

リストボタン  編集だより

 

来信より

〇韓国の方から

…今年も主にあってともに歩むことができたことは感謝です。

 「いのちの水」誌を読む会は、村の図書館で、毎週火曜日の夜、9人くらいで3年間続いております。

 み言葉を通しての交わりができること、感謝と喜びです。        (韓国の方)

・この「いのちの水」誌が、日本語なので言葉の壁があるにもかかわらず、韓国においても少数の方々に読まれていることを感謝です。

 一部の政治家たちが、かつての日本が行なった中国や朝鮮半島の人たちに対する間違った行動を心から反省し、悔い改めることをしない―それは村山談話を見直そうとする動きに現れている―などがみられるゆえに、最も近い隣国であるそれらの国々との信頼関係が育たないといえます。

 しかし、国や民族が異なっていても、あるいは遠く離れていても、主にあって一つとなることを主イエスは望んでおられるし、私たちが主のうちにとどまるときには、おのずから一つになることがわかります。

…父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…

あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。…

わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。(ヨハネ172123より)

 

12月号のレーチェル・カーソンの記事に関して。

 ・今回は、『いのちの水』誌12月号の、環境問題への一文「驚異の感性が開いた道―レーチェル・カーソン」を読み、ほぼ同じ環境問題への関心をもつ者として、深く同感し、多くを教えられました。

 現在、地球環境問題を、公教育の世界における中心問題として取り上げ、後代の子供たちに対して少しでも大人としての責任を果たしてほしいと思って、可能な場面で文部科学省に働きかけています。

 この問題は世界的・地球的な問題でありながら、国益などと言っている今の政府の関心からは遠いのですが、だからといって何もしないでよいわけではありませんから、私なりに努力しています。

 貴誌で取り上げてくださって嬉しく思い、メールしました。 毎号、夫婦で多くを学ばせてもらっています。

「今日のみ言葉」でも、学生時代に山歩きをして、草花になじんできましたので、いつも山や花や草の写真に慰められています。(関東の方)

 

・「いのちの水」誌によって)毎回、胸打たれ、自分の信仰を反省し、力と励ましを与えられてきました。

 12月号のレーチェル・カーソン女史の「沈黙の春」、私も先生と同じころに読み、先月再読し、「シュバイツァー友の会」へこれに関する原稿を送ったばかりの時に、御誌が届き、カーソンに関する文に接して嬉しいかぎりです。…            (中部地方の方)

・「いのちの水」誌12月号は、とくに、惹きつけられてぐいぐい読んでいて、嬉しいことがありました。

 レーチェル・カーソンさんのことを、これほど詳しく教えていただいたこと、そして カーソンの生涯に大きな影響を与えたのがテニソンの詩であったこと、そのテニソンの代表作の「イン・メモリアム」との関わりで、村岡花子さんが、この詩など、英語詩を原文で愛読されていたこと。…現在もキリスト教の代表的出版社である教文館に村岡花子さんが勤めていてその仕事場であったこと、村岡さんは、そこで、子供のための本の翻訳や著作をされたり、婦人運動家としても世の婦人たちのため、こどもたちのために、キリスト者としてのお働きをたくさんされたのを知りました。

 彼女は、貧しいなかから、カナダの宣教師から英語を学び、学校の図書館にあった英語の原書をほとんど読み尽くすほどの読書で英語の本を読み、翻訳し、作品にする…というお仕事をされていたのを知って、こんなお方がおられたことに感動しました。(関東の方)

 

・…とくにレーチエル・カーソンに関する「驚異の感性」に深く学ばせていただきました。身の回りにある自然の小さな動きや変化、そして日常生活におけるありふれたささやかな出来事のなかにも、神様のみ恵みと愛、御手のわざを感じ取らせていただく心を祈り求めていきたいと思います。(中風地方の方)

 

〇今日のみ言葉「あなたの前に門をひらいておいた」(黙示録3の8)、ありがとうございました。

 先に、「いのちの水」11月号で「開け!」という、イエス様の力強い言葉が心に残りましたが、今月の、「今日のみ言葉」にも、静かでありながらゆるぎない、神みずからそなえたもう開かれた門が待っていることを教えていただきました。(関東の方)

 

〇山雪の厚き衣着て ひたひたと 恩寵わが身に迫り来る今日               (中部地方の方)

 ・この短歌を寄せてくださった方は、長くご夫妻ともに仕事に労苦されてきたのでしたが、去年3月に奥様を天に送られ、深い悲しみを経験されています。

 それにもかかわらず、こうした上よりの恩寵に深く感じておられることがこの歌から感じ取れます。 ヨハネによる福音書のはじめに言われていますこと、「恵みの上に恵みを与えられた」ということは、現実の困難な状況を越えて成就することを思います。

 

〇賛美の力

…誰だったか、たしか外国の人だったと思いますが、子供のころの思い出の中で、印象的なことの一つに、クリスマスイブの夜、よその家の玄関先を聖歌を歌って歩いたキャロリングの思い出が、よい思い出として今も残っていると言っていた人がいました。

 先日、ご病気の方を訪ねましたら、すぐわかってくださり、「起こして!」と言われましたが、本を読んでおられたご主人が、「それは無理です」という素振りをされ、ファイルからプリントを出され、賛美をしました。

 難しい、歌ったことのない賛美でしたが、ご主人が三番までしっかり歌ってくださり、その病気の方を両方から囲み、一緒に歌いました。

 するとそれまで、「お水が欲しい、痛い」などと、苦しみの訴えを繰り返していたのが、スーッと安心したように眠りに入られ、賛美の力を思いました。賛美は下手でもいい、というのがよくわかりました。

 外は寒い風が吹いていましたが、窓から暖かそうな光がさし、別世界のようでした。         (四国の方)

 

〇(「日暮れて四方はくらく」の英語の原文の歌詞を読んで)…辞書を引き引き読みましたが、心にぴったり来る歌でした。

今まで「讃美歌」の39番でしか知りませんでした。

 曲が好きでよく口ずさんでいましたが、歌詞がなんとなく寂しく感じて心にしっくり来ていませんでした。「もうすぐ死ぬけどあなたがいれば大丈夫…」というような消極的な印象だったのです。

 ところが、今回、英語の歌詞に接して初めて、明るい曲だったことに気づきました。

 今までは曲自体も静かな物悲しい曲だと思っていたのですが―、英語の原歌詞で歌ってみると明るく力強い曲として響いて来たので驚きました。

 曲の印象というのは、歌詞でこんなにも違うのですね。

これからは、この英語詞で歌えるように覚えようと思います。(関東地方の方)


 

リストボタンお知らせ

 

〇「野の花」文集を追加希望の方、あるいは「野の花」が送付されていない方で希望の方は、吉村まで申込してください。一冊送料込で300円。

代金は、200円以下の切手でも可。

 

〇2月の県外での吉村孝雄が聖書講話を担当する集会。これらの集会についての詳しいことは、吉村孝雄まで問い合わせてください。

 

①高松集会…2月1日午後3時~。

場所 高松市成合町 1066の13 エメロード成合 201

 松浦大亮宅

 

②阪神エクレシア…2月8日 午前10時~12時。

・場所…神戸市元町駅前  兵庫県私学会館

 

③高槻聖書キリスト集会…2月8日 午後2時~4時

・場所…高槻市塚原585 那須宅。

 

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徳島聖書キリスト集会案内

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47  徳島市バス東田宮下車徒歩四分。

〇徳島聖書キリスト集会場での礼拝、集会

(一)主日礼拝 毎日曜午前1030分~(二)夕拝 第一火曜、第3火曜。夜7時30分から。  毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、毎月、徳島市国府町いのちのさと作業所、吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、徳島市城南町の熊井宅を移動)

・土曜日集会…第四土曜日の午後二時~。  手話と植物、聖書の会、

・水曜集会…第二水曜午後一時から。

〇集会場以外での家庭集会など。

・北島集会…板野郡北島町の戸川宅(第  2、第4の月曜日午後一時よりと第二  水曜日夜七時三十分より)

・海陽集会、海部郡海陽町の讃美堂・数度宅 第二火曜日午前十時より)、    ・天宝堂集会…徳島市応神町の天宝堂での集会(綱野宅)毎月第2金曜日午後8時~。・小羊集会…徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会。毎月第一月曜午後3時~。・いのちのさと集会…徳島市国府町(毎月第一、第三木曜日午後七時三十分より「いのちのさと」作業所)、・藍住集会…第二月曜日の午前十時より板野郡藍住町の美容サロン・ルカ(笠原宅)、つゆ草集会…毎月一度、徳島大学病院8階個室での集会。・祈祷会は月1度(第一金曜日午前10時~)。 

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(これらは、いずれも郵便局で扱っています。)  

  「いのちの水」協力費 一年 五百円(但し負担随意)

 加入者名 徳島聖書キリスト集会 協力費は、郵便振替口座か定額小為替、または普通為替で編集者あてに送って下さい。

(これらは、いずれも郵便局で扱っています。)