いのちの水 第658号 2015年12月10日発行
あなた方は、神の生きた言葉によって新たに生まれた。人は枯れ、花は散る。 |
クリスマスの意味 | 自然の美と私たち | キリストが生まれるまで―聖書に記されてた女性3 |
聖霊のはたらき―マタイ1 章、処女降誕 | いのちの水を求めて…詩篇 42篇 | ソロモン王と英知 |
報告とお知らせ | 休憩室 12月の星 |
十二月となると、いっせいにクリスマスソングなどがスーパーなどでも聞こえてくるようになる。
クリスマスツリーとサンタとクリスマスプレゼント…等々が、一般的なクリスマスのイメージとして定着している。
しかし、クリスマス Christ mas とは、その字のとおり、クリスト(キリスト)のマス(ミサ)であり、言い換えれば、キリストへの礼拝である。 それはキリストの誕生のことが記されている新約聖書のマタイ福音書の二章に、東方の博士たちの来訪の記事にも記されている。
彼らは、はるか東方で不思議な星を見いだし、王として生まれた方を知らされ、星によって導かれて生まれたばかりのイエスのもとに来た。
彼らは、何も求めず、ただ当時最も価値あるものとして用いられていた黄金と乳香、没薬といった宝物を幼な子イエスに捧げた。そして帰っていった。
私たちは、だれかに会いに行くとか、何らかの集りに行くのは、そこで自分が与えられる喜びや楽しみをまず考えることが多い。相手に何か大切なものを捧げるためとは思わない。
例えば、講演会、コンサート、スポーツ観戦、同窓会、演劇等々。
しかし、聖書に記されているき博士たちはいったい何のためにはるばる危険にあふれた困難な道をきたのか。それはただ、王として生まれたイエスに会い、礼拝し、大切な宝物を捧げるということであった。
この精神は、現代の私たちにおいてもそのままあてはまる。日曜日ごとの礼拝―それはこの世のさまざまのさきにあげたような集まりとは根本的に異なっていて、キリストに会い、礼拝を捧げるためである。
現代の私たちも宝物をそれぞれ神から与えられて持っている。
それは心である。真実な心、まっすぐに真理―神やキリストに向う心、砕かれて、幼な子のように主に信頼する心―そうした心を主に捧げることは、本来はだれにでもその道が開かれている。
主イエスが言われたこと、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛せよ」(マタイ福音書22の37)ということも、さらにつぎの言葉もこの心の宝を捧げることにほからない。
…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ福音書4の23〜24)
このように見てくると、キリスト誕生のときの東方の博士の来訪という、子ども向けのように思われたりする聖書の記述は、実は、現代の私たちの日毎のあり方に深くかかわっていることが示されているのに気付かされるのである。
12月5日に静岡のクリスマス講演会で語らせていただく機会があった。その際、会場の窓から見える富士山が雲一つない快晴の空に、雪をいただいたその美しい姿を見せていた。その姿は会場に来る前にも、宿泊していた高いビルからも早朝から見えていて、この日は朝から私の心にこの映像があった。
沈黙の中から絶えず語りかけているこの山の姿とその美は何度見つめても飽きることがない。それは、私たちへのメッセージを語るものとして神が備えられたものであるからだ。
神の言葉たる聖書もまた同じ言葉であっても、何十年経っても繰り返し私たちに新たな何かを語りかけてくるのと同様である。
富士の美も、外見では同じ姿をしていながら、静まって見つめているときには、いろいろな音色、メロディーの霊的音楽のようなものを送り続けているのをほのかに感じる。
詩篇の作者が、「…語ることなく、声も聞こえなくとも、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向う。」(詩篇19)と書いているのが自然に思いだされる。
しかし、こうした言葉は、普通の音声とは異なって心を静めて黙することがなければ聞き取ることはできない。その点は、夜空の星が語りかける言葉と同様である。
そしてこのような美を与えた神は、また日毎の夜空の星々の美、夕日、雲、青空、虹、霧―とくに高山での―そして海や渓谷、谷川の水にかかわる美、地上での数々の樹木個々の姿や野草の花々、―鳥類や昆虫、動物等々の変化にとんだ姿とその美をも与えてきた。 そのような多様性をもつ美を無数のものに与えてきた神はいかに美そのものを限りなく持っている存在であるかを知らされる。
じっさいに目にする美は、例えば富士も再噴火があるとまったく様相は変るし、高山植物などの美も冬の到来とともにたちまち雪に埋もれ、失われるし、鹿やサルなど野生動物によって滅ぼされることがある。 それでも、神が持っておられる美そのものはこわされることがない。
これは、真理そのもの、正義そのものについても同様で、真理を与えられた人たち―過去から預言者や神の言葉を語る人たちはつぎつぎとなくなり、また迫害されて命を断たれるということも数々あった。しかし、そうした人たちが与えられていた真理そのもの、神の言葉そのものや正義そのものは、永遠なる神の本質であり、それはいささかも変化することがない。
キリストはわずか33歳ほどで処刑されてこの世の見える姿としてはなくなった。
しかし、キリストの本性そのものは変ることなく存在してきたのであって、それゆえにこそ、過去二千年という間、世界にそのキリストは伝えられ、霊的には生きて働いてくださっていることが証しされてきた。
神のご意志から出た神の言葉の真実性も永遠に変ることがないのは主イエスも言われたとおりである。
「…天地は滅びる。しかし、わたしの言葉は決して滅びることがない。」(ルカ21の33)
どんな権力もまた時代の流れも、あるいは科学技術の進展による予想できない問題によっても、さらには、太陽の膨張に伴う数十億年後の地球や太陽などの消滅というようなはるかな遠い未来に生じるとされていることであっても、神の真理―その不滅の愛や正義、清さや美といったものは消滅することがない。
そして驚くべきことに、弱さと罪、そしてさまざまの汚れに染まっている私たちであるにもかかわらず、ただ神とキリストを信じるだけで、神(キリスト)と同様な栄光の姿に変えてくださる―という約束が記されている。
神の栄光、キリストの栄光とは、すでに述べたような永遠の真実や清さ、美や力等々のことをすべて含んだものである。
私たちは死んでも暗い何者かになったり、地上の人間に何かをささげてもらったり拝んでもらったりする必要などまったくない永遠の存在へと変えてくださるというのは何と大きな祝福であろうか。
この主イエス誕生までの系図で神に選ばれたひとりひとりの名前が記されている。ここに大きな意味があることを学んできた。今回はその中で女性であるラハブについて考える。
「ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、『行って、エリコとその周辺を探れ』と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。」(ヨシュア二・1)
「女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。」(ヨシュア二・4)
イスラエルの民が危険にさらされていることを知ったラハブは彼らをかくまった。その理由はこういうことであった。
「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。」
(ヨシュア二・10〜12)
神の民であるから、ラハブは彼らをかくまったのである。人々から見下されている遊女であるラハブが、イスラエルの神を自分の神として、全面的に従おうとした。そして命がけで、助けた。このことから何を学ぶか。わたしたちも、神を知らない人たちの中で、選ばれて神を信じることができた。可能なことで、できることをしていくことが大事である。
次にルツのことを考える。
「ナオミは言った。『あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。』 1:16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。」(ルツ一・15〜16)
イスラエルからモアブに来たナオミは夫も息子も死んでしまった。それで故国に帰ることにした。しかし、故国に帰ると、モアブの嫁は異邦人であり汚れているとされ見下される。差別と孤独が待っている。それで、自分の国に帰るように勧めた。しかし、ルツは、ナオミの神を自分の神とし、その神に従っていこうとした。このことも命がけである。
このような人たちがキリストの先祖となり、キリスト誕生となる流れとなっていった。そこには、どんな人をも救おうとする恵みがある。汚れた人、地位の低い人、困難の中にある人、そのような状況の中におかれている人を顧みられる神の姿を示している。このふたりの女性は唯一の神にかけた。その積極性が書かれている。
次に書かれているのがバテシェバである。ダビデは忠実な部下であるウリヤの妻の美しさに惹かれて、バテシェバを自分の妻にした。そして部下を前線に赴かせ、戦死させた。そのことをすぐには罪とさえ思わなかった。預言者ナタンに示されて初めて罪を知った。そして神の前に砕かれて赦しを願った。
ダビデは罪は赦されたが、その罪によって、大きな裁きを受けることとなり、国では絶えず内乱や戦争が起こり、神への信仰さえもあいまいになり、形式的、儀式的な信仰となっていった。神ではないものを神としていったため、国土は奪われ、民はバビロンに連れ去られていった。これは、ダビデの罪が原因となって起こっていったことである。バビロン捕囚の原因はダビデの罪であった。そこに罰がくだされた。そして民族全体が歴史の流れのなかで苦難の谷間に落とし込まれた。
しかし、目に見える領土は破壊されていったが、そこにキリストの光が差してきた。それが、この後半の内容である。
バビロンに移住させられたのち、とある。ダビデが大きな国の支配者になったのに、落ちて行った。そして、混乱があった。そこから、メシアであるキリストが生まれた。
現実の厳しい状況を見るとき、どこに神の導きがあるのかと思わされる。しかし、年月が過ぎて、ふりかえると、神が全体として導かれているのがわかる。わたしたちも歴史を導かれる神に思いを馳せていく。
ダビデが、罪を犯して落ちていき、それがバビロンの捕囚につながり、そしてその深い闇と混乱のなかから、再び光の方向、キリストへと方向が転換されていった。
それは神の大いなる歴史を通じての御手の業である。人間のあらゆる計画や武力、権力などいっさいを超えた神の導きの故であった。
このように、神などいないと思われるこの世のただ中で神は導かれ、そこで神の存在が示されていく。
この箇所では、名前が羅列されているが、この中に神が意味を託された。人間は小さな石ころのようなものである。しかし、その石ころをも、神が導き、用いられるということを信じることができるのは、大きな幸いである。
ここには聖霊の大きな働きが記されている。聖霊によって身ごもった。このことを信じることができるかどうか、それは神が全能であることを信じることができるかどうかにかかっている。世界、宇宙、太陽、それらすべてを創造された神。宇宙や太陽の力を考えるとき神の全能を思わされる。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記一・1)このことをまず、信じるかどうかにかかっている。命を造りだし、人間を造りだした、その神を信じるとき、主イエスが聖霊によって生まれたと言うことも信じることができる。
この聖霊の働きは、また、主イエスが殺されてから後、弟子たちに与えられたことも書かれている。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒二・1〜4)
聖霊の働きによって、どのような困難の中も、弟子達は伝道に進んでいった。その聖霊が主イエスをマリアの胎内に生み出した。聖霊は、新しいものを生み出す。人間の努力では生み出せない。他者を変える力を生み出していくのも聖霊の力である。
主イエスの根本的な使命は、信じる者に聖霊を与えることであった。十字架の罪の赦しも、その罪ゆるされたのちに、聖霊を与えられなければ、清められた家のたとえにあるように、もとの罪深い生活に戻ってしまうからである。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ三・11)と洗礼のヨハネは主イエスのことを表した。火というのは、悪を滅ぼす力があることを象徴的に示している。イエスの根本的な使命は、聖霊を授けることであった。
この箇所は、処女降誕ということに捕らわれて、奇跡などないと思ってしまう場合がある。しかし、聖霊の働きに目を留めるべきなのである。聖書そのものが聖霊によって書かれている書である。
ヨセフは生まれた子供を示されたとおりに「イエス」と名付けた。「イエス」それはヘブル語で、イェ・ホーシューアであり、イェとはヤハウェという神の名の省略形であり、ホーシューアは、救いという意味ゆえに、「神こそは救い」という意味である。
これは、ヨシュアという名前でもあり、イエスとはヨシュアと同じ表現なのである。
人間は救われなければ生きていけない。人間関係から、病気から、戦争から、さまざまなことから救われたいと願う。そして根本的に人間は罪から救われる必要がある。どんな状況のどんな人も愛や真実な生き方ができない。
人間は愛から遠く離れている。その罪からの救いが一番大事なことである。その罪からの救いは主イエスの十字架を仰ぐだけで与えられる。赦されているということを信じることが大事である。人にはわからなくても神が知ってくださっているのである。
また、生まれてくる救い主のもう一つの名前として「インマニエルと呼ばれる」とある。これは、「神、我らと共におられる」という意味である。神がともにおられることの重要性は、旧約聖書にもすでに記されている。
「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記五の24)ここでは、つぎつぎとどんな長寿の人間もみな死んでいくということが記されているただなかに閃光のように神が共にいるということが書かれており、それと結びつけて、神がとられた、という不思議な記述がある。神が取られたゆえに、死者とはならなかったということが意味されているのである。
のちにキリストが殺されたのちに天へと神が取られた、天に帰ったことを暗示する内容となっている。そしてキリスト以降は、信じるものはだれでも、どんな迫害、事故、あるいは病気などで死んでも、神がその魂をとってくださり、天にて復活するという約束となっている。
アブラハムも神がともにいた。モーセも羊飼いであったが、神が共にいたから火の柱、雲の柱が、ともにあった。そして新約聖書においては、神がともにいてくださるということに関連して、キリストが内にきてくださると記されている。
それは、共にいてくださるということにおいては、最も深い状態であり、信じるだけでどんな人にも与えられると記されている。そして、肉体は死しても、信じる者と永遠に共にいてくださるのである。
この詩は昔から多くの人々に共感をもたれてきた詩である。(*)
(*)作曲家のメンデルスゾーンも「詩篇42篇」というソロ、合唱、オーケストラのための美しい音楽を作曲していて、現在ではインターネットで簡単に購入できるようになっている。 そして、現代の作曲家 Marty Nystrom が作曲した「As the deer」(鹿のように)も、広く知られており、かつて中国から私たちの集会に参加していた中国人のキリスト教女性もこの歌はよく知っていたのを思いだす。そしてこれは、リビングプレイズ69「鹿のように」として日本語の賛美にも取り入れられて、私たちのキリスト集会でも聴覚障がい者にとっても手話で表現がしやすく、長年にわたって繰り返し賛美してきた。東京の無教会のキリスト教全国集会においても(青山学院大学の礼拝堂にて)、徳島聖書キリスト集会と東京の手話サークルの人たちで、この賛美を手話で行なったことがある。
鹿が谷川の水を慕い求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神を求めて、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
この詩篇四十二編は、詩篇の第二巻の始まりで72編まで続く。72編の最後を見てみると、アーメン、アーメンと同じようなことが書かれている。賛美は祈りであることはこれまでも何度か言ってきたが、詩篇もすべて神を目指した真剣な祈りであり、叫びであり、また感謝や賛美である。 (なお詩篇は、第一巻以降、第三巻、四巻などの終り―大きな区切りにはアーメン、アーメンで終わっている。)
何事も大きな区切りのあとに何を最初に置くかということは重要である。この詩は言わば第二巻の全体的なメッセージの要約といえる内容を持っている。
…鹿が谷川の水を慕い、求めるように (*)
(*)新共同訳だけが「枯れた谷に水を求める」と訳されているが、原文には「枯れた」に当たる言葉がない。ほかの日本語訳すべて、そして数十種に及ぶ英訳なども 枯れた といった言葉は用いておらず、いずれも例えば次のような訳となっている。As a deer longs for flowing streams, so my soul longs for you, O God. (NRS)
この詩では最初に、神に向って全身全霊をあげて神のいのちの水を求める姿が記されている。砂漠地帯、雨がほとんど降らない長期にわたる期間を持つこの地域にあっては、動物たちが水を求めるその真剣さは、日本では考えられない。
日本では対照的にどこに行っても水が豊富に流れているからである。
川のように見えるところがあっても、じっさいには水が流れていない。新共同訳で「枯れた谷」と訳したのは、その地域が水の流れている川がきわめて少ないからでもある。
実際現地に行けば、イスラエル地方で常時流れている川はというと、ヨルダン川ぐらいでそれもまた小さい川である。だから山間部に行くと本当に水がなく、死海の沿岸からエルサレムへは登り道であり、その標高800メートル余の頂上付近にある都市がエルサレムであるが、そこに登る道は草木がほとんど生えていないはげ山のような山をのぼっていく。
砂漠地帯に、ある所だけ崖の下部一帯に水が湧き出ている所があった。そこには鹿やヤギもいて、うずらも飛んでいて、近くの水の流れているところにはナツメヤシが生えている。
このようなごくわずかの地域に動物たちが水を求めて、あえぎつつ集まってくる―その実態の一部に直接に触れて、聖書の記述がいっそう深く心に入るようになった。
このように、イスラエル地方では、必死になって水を求めないと水にありつけない。その切実な思いがこの詩の冒頭に記されているのである。
この詩のテーマは、苦難にさいなまれ、悪の力にさらされているとき、全身をあげて、神を求めるということである。詩篇を含め聖書全体はのんびりとした生活では分からない。生活が豊かで安定してくると信仰が弱ってくることがある。ヨーロッパやアメリカなどいわゆるキリスト教国では全体としてそうした傾向が現れている。
そのため、今日ではアフリカや中国のほうが真剣に求めている。というのは、中国は未だにキリスト教徒は圧迫されており、自由な伝道も許されず、政府批判などしていたら逮捕されかねない状況があるという。このような中でもこの数十年間に、キリスト者が増え続け、共産党員よりも多くなり、公認、非公認の教会を合わせて一億数千万にもなっていると報道されている。(朝日新聞 二〇〇九年九月三〇日)
これは、キリスト者の数からいえば、世界第二のキリスト教大国ということになる。
魂をうるおす霊的な水が与えられないで、苦しみ続け、悪の力に打ち倒されそうになっている状況にあって、何とか命の水を得たいという切実な願いがこの詩のテーマであり、第二巻の最初に置いたということも、第二巻全体がこのような意味をもっていうことを示したかったわけである。
人間はどんな人でも生きるために生命を支えるものを切実に求めている。生まれたときからそのことは顕著で、赤ちゃんはミルクを求める。成長していくにつれ、人格的なものを求め、母親、友達、知識などを求め、苦しい病気や大怪我など痛みを受けると必死に癒しを求める。
このように、いつも人は誰でも何かを求めている。しかし、しばしば一番大切なものを求めていない。特に日本人は唯一の神がいることを知らないために、もっとも大切なのは自分の命や家族、あるいは友だちなどの人間だと思っていることが大多数をしめている。
私たちの命やあらゆる人間を支えているのが、聖書に記されている神であるのだから、もっとも私たちが求めるべきは、その神であるだが、そのことにまったく気付かないまま生涯を終えるということも実に多い。
真理への渇きというものがある。しかし科学的真理というのは動かないで静止している感じがある。万有引力の法則は自然界における根源的真理である。しかし、その真理が私たちの心に語りかけてくるとかいうことはない。
しかし究極的真理である神―そのような科学的真理をも創造されたのが神であるゆえに―その神は生きて働く神であり、本来人間は自分を創造されたお方である神を求めるという本能のようなものがある。
それが、美や清いもの、正しいもの、真実なものをだれもが、心引くものとして感じる原因となっている。たとえば、嘘つきの人間を誰が心惹かれるだろうか。それはどんな人間も、嘘より真実に惹かれるということを示すものなのである。
いやな臭いより、野生のユリやバラ、あるいはスイセンやウメなどの香りを好む、それもまたそのようなよき香りのもとである神に心が引き寄せられ、そのような神を求めるということを暗示するものともなっている。
あるいは、雑然としたゴミのようなところより、きれいに整頓され美しい絵画や花のある部屋を好む―美に惹かれるというのも、神の本質である美に惹かれ、それを求めるということに他ならない。
このような深く求めてやまない心の世界が人間の魂には存在していて、しかもその求めにこたえてくださるお方もいるのだということが、人間への大いなる福音として与えられている。
主イエスが、言われた有名な言葉―
「求めよ、そうすれば与えられる。」与えられるものとは神のもっている数々のよきもの、さらには神ご自身である聖霊が与えられる―ということで、この詩はずっと新約の時代まで通じている。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。 (4節)
この人の置かれた状況は昼も夜も涙ばかりだということである。非常に苦しい状況なのに、周りの人がお前の神はどこにいるのだ、助けてくれないではないかと嘲り、神の助けを否定して攻撃してくるからである。
私たちも神を信じていても、非常に苦しい状況が訪れて、改善しないとなったらこのような声が外からも内からもある。このようなことは、キリスト者であると、しばしばだれにでも生じることである。
だからこれは三千年前だけの話ではなく、詩篇は現代の私たちにとってもごく身近なことを言っているのであって、過去の人がその大昔の時代だから書いたというもの決してなく、いつの時代にあっても神を信じる人にとって切実な問題なのである。
一番大事なものとして信じているもの―神はおられるとはっきりと自分は分かっていても、周りの人たちは、お前の神なんていないではないかと言う。
私はかつて公立の学校教員であったとき、愛の神、宇宙を創造されたは生きて存在しておられるということを必要なときには同僚にも生徒たちにもはっきりと証しし、語ってきた。
教育とは、真理と正義を愛する人間を育成することが、第一の目的であり、聖書に記されている真理はまさにそのような人間の根源的な教育に重要な意味を持っているからである。
そのため、自分の困難なとき、また社会的に事件や混乱の激しい状況のとき、愛の神などどこにいるんだと、生徒からも同僚からもよく言われた。そして相手が受け入れようが受け入れまいが、私は人間ではなく神によって変えられたということを証しを続けていく力を神から与えられてきた。こうした状況にあっても、周囲の人たちから理解されない、受け入れられない苦しみや渇きは、神に求めることによっていやしの水を与えられて新たな力を得るということがじつに多かった。
そしてそのような状況のなかから、行くさきざきの学校において、生徒たちからも信仰を持つものが与えられ、そうでなくとも、私の語ることを聞こうとする人たち―放課後の自由な読書会などで―も少数ながら与えられ、また同僚の中からもキリスト教信仰を持つ人も与えられ、あるいは聖書に関心を持つようになった人たちも与えられてきた。
…わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を…
神の家に入り、ひれ伏したことを。(5節)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」 (6節)
5節では過去を振り返っている。かつて今起こっているような苦しみや悲しみがない時には、みなとともに礼拝をするためにエルサレムへ行っていた。しかし今は喜ばしいことがなくなったという状況にあり、再びかつてのような状況を待ち望んでいる。
6節には自分で自分を励ましている。弱くて倒れそうな自分と、それではいけない、神とつながらないとだめだからと神に立ち返って求めなさいという二人の自分がある。
これは主イエスのようなお方でもゲッセマネの祈りで、「できることならこの杯を取り除けてください。けれども御心のままにしてください」と、血のような汗を流しながら必死で祈られたことを見ても、私たちにどこまでも生じることなのであるとわかる。
どんなに信仰的に強い人でもこの二つのものが私たちの内で戦う。その戦いのときに、いつも神と結びついた自分が絶えず自分を励まし、神を待ち望もうと言い続けねばならないのである。
御顔こそわが救い―このような表現は現代の私たちにはなじみにくい。神は私たちの救いだ、神こそ私たちの力だ―等々はよくわかる。しかし、神の顔が私たちの救いだ―というような表現はまずキリスト者であってもとらないであろう。
このような表現が聖書で折々になされているのは、神と顔と顔を合わせて見るというような表現をとるほどに、聖書にあらわれる人たちが、体験的にまじかに神を感じていたことがうかがえる。
人間でも実際顔と顔を合わすほうが身近に感じるのと同じで、神がわたしの顔を見つめるようにして近づいてくれる。それこそ私の救いだということである。
そのようにして自らが自らを励ましつつも現実の自分の弱さが7節に書かれている。
… わたしの神よ。
わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。(7〜8節)
ヘルモンというのは標高が2800メートルを超える高い山で、そこから豊かな水があふれだし、それがヨルダン川となっていく。その大いなる流れのような力を持って、悪意、敵意に押し流され飲み込まされそうだという状態を言っている。
苦しみがはるか遠くから激流を押し流して、自分を飲み込むような状況をこのような表現で表しているが、それはいかにこの詩の作者が耐えがたい苦しみとそのゆえにもう死の力が呑み込んでしまいそうだという実感をもっていたかをうかがわせるものとなっている。
しかし、そのただ中から神の救いの世界を待ち望み、有らん限りの力で神を求めているのである。
苦しいからといってそれで終わらず、苦しい只中に神が昼も夜も恵みを与えてくださるという確信を失っていない。それはかつて実際に慈しみや賛美ができるように恵みを与えられたからである。今もまた与えてくださると確信を持ちつつ、現実の中で必死で祈っている姿がここに現れている。
… 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。(9節)
苦しみつつ、死の恐怖にさいなまれつつ、そして周囲には誰一人助けてくれるものもいない、さらに敵対するものたちが攻撃をしかけてくる―そんな最悪の状況にあってもなおこの詩の作者は、あきらめることをしない。
鹿がいのちがけで、砂漠地帯を水をもとめて探し回るように、この作者もまた、精神の荒野を求め続けていく。それは祈りとなって主のもとにあげられていく。
… わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。(11節)
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。(12節)
11節にある骨を砕くというのは本当に骨を砕くのではなく、自分の存在を支えるものが、打ち砕かれそうな状況であるという意味である。
表面的には神を信じているようであっても、結局は、愛の神などいないのではないかという思いの人はたくさんいるであろう。
この世で起こるたくさんの事件、悲劇を見たらどこにおるのかという切実な疑問がいつでも出てくる。これは自分の中からも出てくる声である。
しかし、そのような声に耳を傾けないで、内なる自分を励まそうとするのがこの作者である。そして内に住んでくださる神にむかって絶えず神を待ち望もうと励まし、神にその力を求め続けるのである。
現代の私たちにおいても、自分の外も内にも大きな戦いがある。しかし最終的にはそうしたいっさいのこの世の闇の力に勝利し、求め続けていた命の水が与えられる。
これは新約聖書の時代にもつながっている。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ十六・33)
このように旧約聖書と新約聖書では表面的には違うことを言ってるようだが、本質的には同じことを言っていることは実に多い。旧約聖書ではしばしば生々しい表現で、生の声で内面、外面の戦い、そしてそこから勝利していくという信仰が書かれているので、新約聖書と合わせ読むことによっていっそう聖書の真理が私たちの魂に深く届くのである。
ソロモン王という名前はかなり広く知られている。私も子ども時代に本で読んで知っていた。しかし、それは子ども用の昔物語であって、作り話だと思っていた。
後に、ソロモンは歴史的人物で、いまから3000年近く昔のイスラエルの王であったことがわかった。
彼は単なる物語の人物であって何も学ぶことはないのか―もちろんそんなことはない。ダビデのような王であっても、数々の詩篇のもとになったほどであるが、そのダビデさえも致命的ともいえる罪を犯したことが赤裸々に記されている。ダビデの個々の言動や勇気、また詩篇などから豊かに学ぶことができる。他方、ダビデの若き日からの大胆不敵な行動や後の彼の詩篇に表された信仰と、その後の国の安定からきる心のゆるみと罪―そうしたことのすべてを含む全体像としてのダビデからも私たちはそれによって神が示そうとされていることの一端を学ぶことができる。
ソロモンにおいても同様である。ソロモンなどは模範にはならないなどと思う人もいるかもしれないが、神はソロモンからもさまざまの学びがくみ取れるようにとこの聖書の記述にそのことがにじみでている。
聖書は決して人間崇拝を許さない唯一の書であると言われるがそのとおりである。
一般的な伝記では、まるで欠点や罪が何もなかったかのように記されていることが多い。
しかし、現実の人間は、キリスト者であっても日々何らかの罪に陥るものである。―愛はあったのか、正義は語ることができたのか、その正義に向って一歩踏み出すこと―勇気はあったのか、谷川の水や青く澄んだ大空のような清い心はあったのか…等々と言われると、それは何もできていない―と言わざるを得ないのが大多数の人間である。
そしてそのようなきわめて不完全な人間からでも、私たちは聖書の記述を少し心深く読むときにはいろいろと得ることが多い。神はそのようにして大きなはたらきをした人のうちにも、弱さと罪が宿ることを表明し、それにもかかわらず神がそのような弱き人間を用いて、神の国のために生きた姿を記している。
ここでは、ソロモンの信仰の姿、そして神は何をソロモンに与えたのかについて聖書の記述を読み、それは現代の私たちにどのようなことを示すのか―などについてそのいくらかでも記して私たちの導きとなればと願っている。
ソロモンは、主を信じ、愛した。主への愛によって多くの焼き尽くす捧げものを捧げたと記されているが(列王記上3の4)、現代の私たちはもちろん彼がささげたような羊とか牛などは関係はない。
しかし、神にささげるという心は過去3000年ほども経っても変ることなき重要性を持っている。
現代の私たちにとっては、ソロモンがささげたと伝えられている大量の羊や牛などに相当するのは何か。それは、心を捧げることである。主イエスが、心を尽くし、精神を尽くし、魂を尽くして神を愛せよと言われたのはそのことを指す。
もし、私たちの最も大切な魂をささげる相手が間違っているとき―例えば、間違った人間や宗教に心を、またその力のすべてをささげていくことは、その人の生涯において決定的なる害悪を受けることになり、最終的には滅びてしまうことになる。
私たちのすべてを創造し、かつ天より私たちを見つめ、愛してくださり、悪しきものは決してそのままにはしておかずに、必ず何らかの裁きを与えるのは確実なことである。
神を知らないときには、必然的にわたは人間や金、あるいはその地位、さらには酒のために生涯を破滅させてしまう人たちもいる。
「わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。」とある。(3の6節)
ダビデの神への心は忠実であった。この「忠実」ということばは「エメス」という原語で「信実」という意味がある。(*)
(*)エメスは、アーメンや、エムーナーという語とは、語源的には同じで、「堅固な」という意味を持っている。いかなることによっても動じないもの―真理そのものを意味するようになっていた。祈りや賛美のあとで言うアーメーンもまた、真実という意味をこめてなされるのが本来である。
ダビデはまず神への信実をもって神に仕えた。だから神は大いなる慈しみを注いだ。そして、その息子ソロモンを祝福し、王とした。
神は、王となったソロモンに、「何を願うのか、何事でもあなたに与えよう」と語りかけた。ソロモンは次のように答えた。
… わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。
どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。(列王記上3の7〜9より)
ソロモン自身は、自分を取るに足りない者と思っていた。そのように自分の弱さや罪を知る心こそ、神は祝福を与えられる。ソロモンはそのように弱さを覚える者であるのに多くの民を導かなければならない。だからそのための英知を神に求めた。神の前に何が正しいのか、何が良いことなのかを知る心を求めたのである。その思いもまた神に喜ばれた。
自分の弱さを知ることを神は喜ばれる。主イエスも「ああ、幸いだ、心の貧しいものは」と言われた。そして、神の慰めの世界が見えてくるので「悲しむものも幸いである」と言われた。
ソロモンに与えられた真理を見抜く力(英知)は後のキリストの時代になって、真理の霊、聖霊が与えると言われるようになり、ヨハネ福音書に繰り返し記されている。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(ヨハネ十四・15〜17)
「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。すべて聖霊が教えてくださる。」(ヨハネ十六・13)とあるように、何が正しいかを教えてくださるようになった。
次に、神から英知を与えられたソロモンの行った裁きが書かれている。二人の母親が、一人の乳飲み子をどちらも自分の子供だと言った。それでソロモンは、裂いて二人で分けよと言った。それを阻止しようとしたのが実の母であると見抜いた。ここにあるのは愛である。 神の愛こそはもっとも本質を見抜く。 ソロモンは、さまざまな欠点もあり、罪も犯したが、神はソロモンに祝福を与えられた。それが、聖書におさめられている箴言だとして伝承されてきたほどである。箴言の冒頭には、「ダビデの子、ソロモンの箴言」と題されている。 さらに、聖書の続編とされる後に書かれた文書のなかにも「知恵の書」とあり、これは別名これも別名「ソロモンの知恵」(ギリシャ語・70人訳のタイトル)とされるほどに、ソロモンは英知の人として伝えられてきた。
その「知恵の書」(ソロモンの知恵)と題する書から一部を以下に引用する。
「知恵は人間を慈しむ霊である。しかし、神を汚す者を赦さない。神は人の思いを知り、心を正しく見抜き、人の言葉をすべて聞いておられる。」(知恵の書一・6)
彼ら(神を知らない人々)は、目に見える善いものを通して
存在そのものである力を知ることができず
またその業に目を止めながら、その作者を知らなかった。…
彼らは火や風、星の循環、激流、天体などを神々とみなした。
それらの美しさを見て喜び、
それらを自分たちの神々とする彼らであれば、
それらの支配者である主がどれほど優れているかを
知ることができるはずではないか。
それらを創造したのは、美の創始者であったのだから。
また、それらの力とはたらきとに心を打たれる彼らであれば、
それらを形作られた方がどれほど力強い方であるかを
それらを通して悟ることができるはずではないのか。
被造物の偉大さと美から推し量ることで、
その創造主を認めることができる。(「知恵の書」13章より)
ソロモンがまず求めたのが、主にある英知であった。そして豊かに与えられてきた。
現代に生きるわたしたちも、神とキリストを信じ、真剣に求めるだけで与えられる聖霊を受け、そして究極的な英知とは、新約聖書に記されているように、復活やキリストの十字架による罪の赦し、そして新しい天地にかかわる再臨、さらにキリストご自身を深く知ることであるから(そうしたことは、奥義(*)と言われている)、そのような歩みへと日々導かれていきたい。
(*)奥義について触れている箇所から
・エペソ書6の19 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。
・コロサイ書1の6その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。
・コロサイ書1の27 …この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。
〇12月の星
今年の終り頃までの東の夜空には、木星が深夜12時過ぎには見えてきます。
その後、火星、金星と以前はすぐ近くに見えていたこれらの三つは、距離が離れてきて、それらは一直線に並んで昇ってきます。
そして午前4時過ぎに金星が昇ってきますが、かつての目を見はるような輝きはなくなり、普通の一等星並の明るさとなっています。
その後6時過ぎには、土星が見えてきます。木星、火星、金星、土星がほぼ一直線になって見えてくるのは珍しいことですが、土星もふつうの一等星並の明るさなので、星座のことがよくわかっていないと、ほかの星座の一等星などと区別がつきにくいと思われます。木星は、春の代表的星座のしし座のすぐ下部にあり、火星は、しし座とならんで春のよく知られた星座である乙女座の一等星スピカの近くに見えています。そして土星は、夏の星座さそり座の一等星アンタレスの近くに見えてきます。
惑星以外は一般の星座表でわかりますので、それらを参考にすると、今から1月にかけての深夜から明け方の、惑星たちと春の星座を見ることができます。寒い季節ですが、夜空は澄んでいて厳しい寒さのなかから、私たちに語りかけているのに触れることができます。それはほかの目に見える何ものよりも、人間の言葉では表現できない御国からのメッセージをたたえています。