いのちの水 2015年2月号 648号
私たちの戦いは、血肉に対するものでなく… 悪の霊に対する戦いである。 (エペソ書6の12より) |
内容・もくじ
清い水の流れ | 全地よ沈黙せよ | 二つの風 |
翼を持つ言葉 | わが愛に居れ | イエスのまなざし |
報復が生み出すもの | イスラム教とコーラン | ことば |
休憩室 | 編集だより | お知らせ |
わが家の近くの小さな谷川に行くと、いつも濁りない水が流れている。谷の水が流れている部分は、わずか数百メートルにすぎないが、それでもどんなに雨が降らないときが続いてもなお、小さな水の流れは変ることなく続いている。
山地の内部の深いところで、ゆっくりと流れている水が長い時間を経て地表に出て谷川となる。
大地の奥深く、静かに流れている水―そして地表に出て、谷川となってその清流を生み出す。
その谷沿いを歩いていると、小さなせせらぎの音とともに、そこから真理が香りを放ちつつ吹いてくるようだ。
真理も人間社会の奥深くを静かに流れている。千年、二千年経ってもその流れは変ることなく続いている。
そして、その流れは、霊的なものであるゆえに、いかなる状況にあっても消えることがない。黙示録の最後の部分にあるように、「神と小羊(キリスト)の御座から流れ出て、水晶のように輝くいのちの水の川」(黙示録22の1)がある。
神にその源流があるゆえに、そして神は永遠に変ることのなき存在であるゆえ、この神から流れ出るいのちの水をたたえた流れは、永遠に変ることがない。
この世の混乱と闇、人間のいとなみの空しさを思い知らされるとき、主のもとに行こう。
そして、このいのちの水の流れからくみ取り、神の命を与えられたいと願う。
この神の御座から流れ出るいのちの水は、聖なる霊でもあり、それが与えられることによって私たちはいかなる状況に置かれてもなお、新たな力を与えられるからである。
そして現在世界が直面している難しい問題に関しても、次の主の約束に従って、神の英知による洞察が与えられることを待ち望む。
…聖霊があなた方にすべてのことを教える。(ヨハネ福音書15の26より)
真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(同16の13より)」
現代は、静まることのできない時代である。絶えず、テレビ、インターネット、ラジオ、新聞、雑誌…そして外に出るとたちまち自動車、多くの人の流れがあり、電車にはたくさんの人たちが絶えず入れ代わり出入りする。
仕事においても、たくさんの人たちのただなかでされる仕事が多い。
昔は、農業、漁業、林業などに従事する人が圧倒的に多く、それらの仕事は、しばしば大自然のただなかでなされ、自然の深い沈黙に誘われて静まることも可能であった。
そうした環境の影響を強く受けた昔の子供たちは、現代のしばしば荒々しい、静まることのないゲームなどの影響を深く受けている子供たちより、ずっと純真で、素朴でまっすぐなまなざしを持っていた。
だが、そのような自然の静けさが周囲にあった時代であってもなお、大人になると、心の中にはさまざまの人間の雑音が響き、以前に言われた非難、差別的言葉、あるいは中傷、また自分のなかから生じる不安や他人や自分を責める声等々があり、静まることがないという場合も多いであろう。
そうしたこの世の内外の騒がしさに対して、祈りは最大の防護壁となる。
旧約聖書の詩篇には、次のように多くの箇所で主こそ我が盾、といわれている。言葉の攻撃その他さまさまのことから守ってくださるからである。
…主はわが力、わが盾。わが心は主に依り頼む。主の助けを得てわが心は喜び躍る。
(詩篇28の7)
…我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
(詩篇33の20)
祈りとは神との結びつきを強めることであるから、その神の力によって周囲の雑音や内部からの邪魔になる声をも静める。
主イエスは、しばしば夜を徹して祈り、静まることをされた。それほどに、主の前に沈黙して主と交わり、力を受けることは重要なのである。
旧約聖書にあらわれる預言者、それは深く主の御前に沈黙することを知っていた人たちである。だれも聞き取れない、宇宙とこの世界の創造者という途方もなく大きい存在を単に信じることを越えて霊的に実感していた人たちである。
彼らはじつに明瞭に神の声を聞いた。そしてそれをときには命がけで人々にまた王や支配階級の人たちに語り続けた。
次にあげるのは、今から2600年ほども昔に、神からの声を聞き取った一人の預言者の言葉である。
…主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。(ハバクク書2の20)
これは、全世界への呼びかけである。その視野の広大さに驚かされる。ほかの何者が、このように全世界に向って沈黙せよ、と呼びかけるなどあるだろうか。
神の力が発揮されること、それは、その沈黙のうちに霊的に示されることである。そして現実の世界にもそのことが必要な時を経て現われて来る。このことは、単に個人の心の世界だけでなく、全世界の歴史の大きな流れの内に通用する大いなるものだからである。
時至れば、必ず神の力が現れ、その力によってさまざまのこの世の悪の力が、滅ぼされる。
主の前に沈黙する―そのことによって、神は、その住まいである天から立ち上がられ、その全能の力を発揮されるのを実感できるようになる。
預言者が生きた時代にもさまざまの混乱や不正があったのは、どの預言書にも繰り返し記されている。
そしてこの世の悪はいかにしても滅びないで、いろいろな物事を腐敗させ、壊していくと考えられている。
しかし、静まって神の力を待ち望むものには、その力のはたらきがはっきりと示されてくる。そのことを次のように記している。
…とこしえの山々は砕かれ、永遠の丘は沈む。
しかし、主の道は永遠に変わらない。(ハバクク書3の6より)
私たちは、さまざまの試練―苦しみや困難な事態に直面し、また悲しみに陥ることもある。そのただ中にあっても、主の前に沈黙することによって、神が立ち上がられる。
人の前に―人間のさまざまの悪意や変節、裏切り、差別等々に打ちのめされ、うなだれて立ち上がれなくなることがある。人の前に沈黙してうなだれるのでなく、そのようなとき、人からまなざしを転じ、神を仰ぐことによって、この聖句にあるように、山々や丘のように不動のものと思われているこの世のしくみ、その権力者や、悪の力が砕かれるのが示される。
そして、そのなかに、ただ主の道だけは永遠に不動であることが示されるのである。
キリストの生きたとき、生まれるときから闇からの風が吹いてきた。イエスはその風にもう少しでのみこまれところだった。当時の王が、イエスを生まれたときに殺そうとしていたからである。
そして30歳になるまでは、そのような風は静まっていたようにみえる。
しかし、それからイエスがみ言葉の福音を伝えはじめるとき、たちまち闇からの風はつのり、最初の会堂での宣教ののちもう少しで崖から突き落とされようとした。
そしてその後も、さまざまの方向からその毒気を帯びた風はイエスに吹きつけ、次第にそれはイエスを追い詰め、ついに捕らわれ、ののしられ、最悪の悪人のようにされた。群衆も、イエスがエルサレムに入ったときは、歓呼の声をあげて王のように迎えた。
それは、わずかの間、天来の風が民衆の心に吹き通ったからだった。
そしてその後は、恐ろしい勢いで、その悪しき風はイエスを、そして民衆をも呑みこんでいき、イエスは神の子とは思えないほどの叫び―わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!との激しい叫びをあげて息絶えた。
だが、それから、天来の風がふたたび強まり、イエスに吹きつけた。そして復活し、その後40日も弟子たちに現れ続けた。
そして、弟子たちに祈って待てと言われた。
弟子たちは忠実に祈り続けた。そしてついに神からの激しい風(聖霊)が、炎のような熱をもって弟子たちに吹きつけ、彼らは一新された。
そしてその霊的な風は一時的なものでなく、ローマ帝国全体にその風が吹き続けていくことになった。
他方、闇から吹いて来る風もまた、激しくなり、多くのキリスト者たちは、ローマ帝国の迫害によって殺されていった。
日本の秀吉の時代から、明治のはじめにかけての長い時代も同様だった。そうした悪しき風によって聖書の真理は一掃されようとした。
ドイツで、ヒトラーがその悪魔的支配をはじめたとき、第二次世界大戦、太平洋戦争のとき、そうした時も大いなる闇の風がその国民に吹きつけたのである。
けれども、そのようなあらゆる出来事にもかかわらず、この地上の世界の深いところで、地下水が音もなく流れ続け、はるか上空では、強い風が常に吹いているように、あらゆるこの世の出来事にもかかわらず、天来の風は吹き続けていく。
…母はただちにわたしを認めて、なげきつつ翼ある言葉をかけた。「わが子よ、どうして暗い闇へと、生きながら、下ってきたのか」(ホメロス オデュッセイア第11巻154)
…私の心の痛みはそのたびにますます鋭くなった。それで、声をあげて翼ある言葉をかけた。「なぜあなたは私のためにとどまってはくださらないのか…」(同上209〜210)
このように、人がべつの人に言葉をかけるときにも、また神々が別の神々に言葉をかけるときにもつかわれている。
ホメロスの作品には、ある情景をゆたかな言葉で立体的に表現することがしばしばみられる。
…会議の座が一様にどよめきたったありさまは、まさしく海の大波のよう、海の海綿に、東風と南風がいっしょになって、群がる雲から吹きすさんでわき立たせる波のようであり、また、西風がやってきて、深くしげった麦畑を揺り動かし、ひどい力で襲いかかるのに、麦の穂が一面にかしいでなびく、そのように、兵士たちの集り全体がどよめいて …。
…一同はまたもや会議の場へと、大きな音をたてて駆けつけたが、そのありさまは、ちょうど波が、ごうごうと鳴り騒ぐ大海の、ひろい浜辺に打ちつけて、とどろきわたれば、海原一面が響き返すときのようだった。
ホメロスは言葉が翼をもっているということを特に強く感じていたのを示している。そして確かに、ホメロスの心に浮んだ言葉の数々は、イリアス、オデュッセイアの二編となって、二千七百年もの歳月を、時間を越えて翼をもってその内容を運んできた。
翼を持つ、それは空間をも自由に妨げなく移動できることである。それは、さらに詩的表現としては、あらゆるものを越えて、妨げられることなく伝わっていくものという意味を含んでいる。
そのような意味において、最も翼をもった言葉の数々を含むのは、聖書である。
聖書は、確かに旧約聖書の時代から含めるならば、数千年という歳月を、翼をもった言葉として自由に世界の全領域へと飛び翔り、浸透していった。
聖書的な見方から言えば、最も大いなる翼をもった言葉とは、神の言葉である。主イエスご自身、次のように言われた。
「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」 (ヨハネ6の63)
神の霊こそは、自由自在にいかなるところにも行くことができる。復活したキリストは、霊的存在となったゆえに、弟子たちがユダヤ人たちから捕らえられることを恐れて部屋にこもり、鍵をしめていたにもかかわらず、復活したキリストはそのなかに入ってこられた。
…その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 (ヨハネ20の19)
二千年前から、今日に至るまで、キリストは、つねに聖書を通して、また周囲の自然やさまざまの出来事を通し、そこから翼持つ言葉を私たちに投げかけている。それによって固くまた冷たくなった心にも入ってそれを溶かし、苦悩や痛みに耐えかねている人間の魂にもその翼ある言葉は入っていき、そこでみ言葉の種を蒔いていくのである。
聖書全体にわたって言われていること、それは聖書の最初から、私たちへの呼びかけが一貫して記されているということである。
大都会では、数知れない人たちが洪水のようにとくに通勤時間などであれば、動いている。
そうした無数の人たちが行き交うなかで、私たちに呼びかけている人などはどこにもいない。互いに無関心な人たちがあふれている。
しかし、聖書の世界では、はじめから一貫して呼びかけがある。
それは、聖書の神が愛の神、慈しみの神であるからである。人が愛あれば、呼びかける。愛なければ、無関心となる。教師であっても、その人が愛の人であれば、絶えず児童、生徒に、直接的に、また心の中で呼びかけていることであろう。
この世には、さまざまのもの―愛でなく、単に愛の影でしかないものが、私たちに絶えず呼びかけている。私たちの人間社会では、友人、同僚、兄弟、夫婦、親子の愛がある、そうした愛は実は影である。影から生まれた呼びかけはまた、影のようなはかないものでしかない。
しかし、いかなることが起こっても、輝き続けるものは神の愛である。何もしない愛などというものはない。愛は必ず呼びかける。人間は、なにか表面的なこと―能力がある、スポーツができる、勉強ができる、容姿がよい―そうしたものに関心を向ける。そのような人には、呼びかけようとする、近づこうとする。
しかし、難しい病気―ハンセン病や結核などになるとだれも呼びかけなくなる。
しかし、神は異なる。神はかえってそうした弱い立場にある人たちに呼びかけているのである。
そして神は万物を創造したゆえに、周囲の自然もまた神の愛による創造である。それゆえに、自然も私たちに呼びかけている。
私自身は、低い山を登ったところで育ったこともあり、自然からの働きかけを感じてきた。山々の姿、その木々、野草、谷川、小鳥たち、連なる山なみ―そうしたものもみな私たちに呼びかけている。
山に行くと、山は清い呼びかけで満ちている。
しかし、人間世界からは、そうした呼びかけはあるだろうか。きらびやかな装飾、外見の華やかさ、巨大な建造物…等々、そうしたものは清いものを呼びかけているだろうか。そのようなものは、まったく感じられない。
こうした自然や神ご自身からの呼びかけの世界は、はるか昔から存在していた。
聖書においても、至るところで神からの呼びかけが見られる。
この現代において、さまざまの問題があり、家庭においてもまた学校や社会においても、居場所がない、という人々は数限りなくいると思われる。
安住の場であるはずの家庭にあっても、家族が相互に理解し合うということは、困難になっているのはいくらでもある。人間がさまざまの悪の道に入り込むのも、魂の居場所―安住の場がない、という不安と困惑、そして悲しみや憂うつ、動揺がその根源にあると言える。
そのような状況は、いつの時代にもあった。現代は情報がたちまち伝わるためにそうした居場所のない人間の動向は拡大されて無数の人たちに伝わっていくが、昔であっても、しばしば戦争もあり、飢饉や差別、病気の苦しみ、生活そのものが寒さや災害、病気の苦しさによって魂は安住できないということはいくらでもあった。いったん病気になれば、医者もいないし、薬もない、仕事もできず、家族の間で苦しい立場に置かれてしまい、その苦しみはたいへんなものとなっただろう。
病のなかでもハンセン病などになると、文字通り、自分の家にすらいることができず、家を出て、さまよい歩き、乞食をし、人々から見下され、嫌われて耐えがたい日々ののちに見捨てられて死んでいった人たちも数知れない。
このような居場所のない人間に対して、聖書は一貫して、万人のための居場所があるのだ、と語り続けてきた。
そして聖書の指し示すのは、真実で慈しみ(愛)の神である。そのような神にこそ、いかなる苦しい状況の者であっても、そこに招かれている。
わたしのところに来たれ、そしてわが愛の内にとどまっていなさい、と呼びかけられている。
「わが愛に居れ」この言葉は、新約聖書のヨハネによる福音書にある主イエスの言葉である。(ヨハネ15の9)
旧約聖書ではそのような内容は言われていないように思っている人たちが多いようである。
この世がいかに暗い状況であっても、そこに神は全能ゆえに、その言葉でもって光をもたらすことができる。
聖書の最初(創世記)には、そのことが記されている。
… 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、…
聖書の最初にあるこの言葉は、神の光が与えられるまでは、「混沌と闇」(*)であった。
(*) 混沌と訳されている原語(ヘブル語)は、二語である。それは、トーフーと ボーフー である。トーフーは、聖書(旧約聖書)では 20回ほど現れる。そのうちイザヤ書で11回である。これはこうした箇所では「荒涼の地、空しい、荒れ地、滅びた、混乱」などと訳されている。 トーフーについては、具体的な訳語をあげると次のように訳されている。
・荒れ地(口語訳、新改訳)、不毛の地(新共同訳)…申命記32の10
・空しいもの…サムエル記上12の21、
・混沌、荒れ地(新改訳)、空しい所(口語訳)…ヨブ6の18、
・荒涼の、荒れ地(新改訳)、混乱せる(口語訳)…イザヤ24の10
もう一つの語、ボーフーは、旧約聖書全体でも3回しか使われていないがそれらは次のように訳されている。
・何もない(新改訳)、空しい(口語訳)、混沌(新共同訳は、トーフーとボーフーの二語を合わせて混沌と訳した。)
・虚無の(新改訳)、混乱(口語訳、新共同訳)、desolate(荒れ果てた NIV)…イザヤ34の11
・何もない(新改訳)、空しい(口語訳)、混沌(新共同訳)…エレミヤ4の23
このように、聖書の最初でこの世界はいかなる状態であったか、それは、限りない空虚、空しさと荒れた状況、混沌…であり、しかも真っ暗闇であったという。
このように、いっさいの光も希望も、清いものや美しいものなど…すべてが存在していないような想像を絶するような状況であった。しかもそこには深淵があって、底知れない暗黒があった。
このような、絶望的状況の中に、それらすべての暗黒や空しさ、荒涼、混沌…すべてを打ち破るものが現れた。
「光あれ!」との神の言葉がそれである。
そしてそれは何のための光であろうか。
その光に来れ、との呼びかけにほかならない。
暗闇と混沌―荒涼としたこの世界、空虚なものに満ちているこの世にあって、私たちに、その闇のただなかに光があるのだ。光は、たんに輝いているだけでなく、それは同時に人間の魂の深みへと呼びかける声でもある。
それは、闇にとどまるな、混沌や空しさのなかにとどまるのでなく、神が新たに創造した光の内にとどまれ、という強いメッセージなのである。このように、神の光は、この世におけるさまざまの悪、災害、病気等々の苦難に悩み苦しむ人間たちへの深い愛を含む。
このように、創世記のはじめから、わが愛に居れ!ということの預言とも言える内容が記されている。
そして、そのような愛の光、命の光、いのちの水といったものをもっているのが、神の言葉である。
このような呼びかけは、二千年、三千年という歳月を越えて、今日にもまさにそのままあてはまる。このような長い歳月をもすべての社会的、政治的状況を越えてその真理は変ることなき光を放っている。
人間の考えや行動は実に大きく変る。戦前は、アメリカやイギリスを「鬼畜米英」といったり、「撃て!鬼畜米国!」などといった激しい言葉が、広く使われた。
今日言うヘイトスピーチが、だれもが知っている国民的雑誌の表紙に大きく書かれていたほど異常な事態となっていた。
そのような状況は、それからわずか数年後の敗戦の後には一転し、米英を日本の政治や社会―民主主義とか教育などのあり方の模範のように受け止めたり、欧米の習慣なども盛んに取り入れようとする風潮も生じるほど大きく変化した。
このように、実に簡単に、国家全体の方向も変化し、学者、文化人なども実に大きく変容する。
そのような中で、聖書―とくに新約聖書は、永遠不動の真理に満ちている。
そうしたあらゆる社会的状況の変化があろうとも、一貫して神の愛ゆえに、「私のところにとどまれ!」と言い続けている。そしてその声に引き寄せられて来た人たちは、無数に存在してきたのである。
この「神の愛にとどまれ」ということの重要性を繰り返し述べているのが申命記である。申命記という書物は、多くの人たちに好んで読まれてはいない。それはその内容が一見現代の私たちと何の関係もなく、またその一部の表現がとても受け入れられないと感じられる箇所があるからであろう。
しかし、申命記には新約聖書、主イエスに結びつく重要な内容を含んでいる。
我が愛に居れ―この言葉は旧約聖書にもその内容は広く見られる。だが、このような言葉は、新約聖書だけに―とくにヨハネ福音書にだけあると思っておられる方々も多いのではないだろうか。
神が愛(*)であることは、旧約聖書からすでに随所に見られる。
(*)旧約聖書では、ヤコブがラケルという女性を愛したというように、「愛」という言葉をしばしば人間の愛に用いているために、神の愛は、旧約聖書においては「慈しみ」という訳語で表されることが多い。例えば次のように用いられている。この訳語は、旧約聖書では260回ほども現れる。
…わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主がわたしたちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを。(イザヤ63の7)
その神の愛は、例えば次のような箇所にも現れている。
…主は荒れ野で彼を見いだし、
獣のほえる不毛の地でこれを見つけ
これを囲い、いたわり
自分の瞳のように守られた。
鷲が雛のうえを飛びかけり
羽を広げて捕らえ
翼に乗せて運ぶように
その民を導き…
(申命記30の10〜11より)
瞳のように守る、この表現のなかには、民の苦しみや痛みにきわめて敏感に共感してくださる神の愛が表されている。瞳こそは、人間のからだの中で最も敏感に外部からの刺激に反応する器官であるからである。
そして、さまざまの困難をも、鷲が雛を翼に乗せて運ぶように、神はその民を愛に満ちた守りによって導かれる―このような深い愛を申命記の著者は示されていた。
このような愛の神たる本質を知らされた者は、おのずから、その愛から出た呼びかけも深く実感していた。
神は、民の前途には、つねに二つの道があることを知らせ、そこで間違うならすべてが根本的にかわってしまう。その重大さを愛ゆえに力を込めて繰り返し語りかけているのである。
…見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。
あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記11の26〜28)
ここで、はっきりと言われているように、私たちの前途にはいまから三千年ほども昔から、ずっと二つの道しかない。それは祝福を受ける道か、呪いの道かということである。
そしてそのことは、何によるか、み言葉に聞くという単純なことである。そしてみ言葉に聞け、という強い語りかけは、そのままわが愛におれ、ということに重なる。
申命記は、主イエスが最も大切なこととして言われたこと、「まず、神を愛せよ」が繰り返しあらわれる。
とくに申命記の30章が、神の情熱的な語りかけが実感できる箇所である。
…わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、
あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こしあなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、
あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。
あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。
あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。…
あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。(申命記30章より)
この箇所で、「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰れ」と、繰り返し強調されている表現は、主イエスが最も大切な戒めとしてこの箇所の表現をそのまま用いておられるのに気付かされる。(「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛せよ」マタイ22の37)
このように、申命記の内容は、主イエスの心のなかにしっかりと留まっていたのがわかる。
それゆえ、現代の私たちにおいても、この申命記で言われていること―み言葉に聞くこと、心を尽くし、精神を尽くし、神を愛することは同じであり、それこそ、主の愛のうちにとどまることになる。
そして、そのみ言葉に留まることは決して難しいことでない。神が私たちの心に書き込んでくださっているからだという。
さらに、この申命記30章の11節〜14節「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」は、つぎのようにパウロがローマの信徒への手紙の10の6〜8において、引用しているところである。
すなわち、使徒パウロの心のうちにも、この申命記の言葉が深くとどまっていたのがわかる。
… では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である (ローマ10の8)
み言葉は、私たちの心に書き込んでくださっている、それは、モーセの時代であれば、特別な石に書き込んだものであって、その石を納めている神の箱がきわめて重要なものとされた。
彼らの礼拝場所であった神殿とは、その神の箱を安置しているところだったのである。
そして、遠いエチオピアからもその神殿に礼拝にきていたことが、使徒言行録においても記されている。
しかし、旧約聖書において、一方では神殿の重要性を説いた箇所がありながら、他方ではこのように、神の言葉は、決して特別な石に書かれただけのものでなく、一人一人の心に書き込まれていることが記されている。
…主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。…(申命記30の6)
預言者とは、呼びかけている神のお心を受けて、その代わりに民に語り続けた人である。イザヤ書ではとくに、次のように心に残る表現で記されている。
…「さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。(イザヤ55の1)
神の愛、慈しみのもとにとどまるためには、まず、神のもとにいかねばならない。それゆえに、このように呼びかけがなされている。
このように、聖書が示す神は、呼びかける神であり、そのうえで、ご自分のところにとどまることを勧める神である。
そして、それでもなお来ようとしない人間のため、比類のない生き方をする一人の人が、現れることが預言されている。その人は、黙して大いなる苦しみを受けた。人々は神に捨てられ、裁きを受けたからだと思った。
多くの痛みを負い、悲しみの人であった。
だが、私たちは、彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのは、私たちの病であり、痛みであったのに、
私たちは、思っていた。
彼は、神の裁きを受けて苦しんでいるのだと。
彼が受けた苦しみによって、
私たちに平和が与えられた。(イザヤ書53章より)
このように、全く無実な人を起こし、その人がだまってあらゆる苦しみを受け、それによって人々の罪を担った、人々が受けるべき裁きをも黙して負っていかれた。
このような神のごとき人が現れると預言的に記している。
そしてこのような方が現れるゆえに、その人のもとに行け、と言われているのである。 このことは、キリストが来られて驚くべき的中とも言えるほどに、イザヤが預言したそのお方であった。
…あなた方の罪を身代わりになって負い、大いなる苦しみを受けた―それゆえに、私のもとに来たれ、わが愛のもとに居れ、といわれているのである。
(これは2015年1月23日に横浜市で開催された、キリスト教独立伝道会主催第17回 冬季聖書集会での第一日目の聖書講話を修正加筆したもの)
主イエスは最後の夕食が終わったあと、捕らわれ、殺されることを告げた。しかし、弟子の筆頭格であったペテロは言った。
… たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずくことはありません。…たとえ、あなたと共に殺されるようなことがあろうとも、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。(マタイ福音書26の33〜35)
このように、決死の覚悟を示したペテロであったが、いよいよイエスが捕らわれると、ほかの弟子たちと共に逃げてしまった。その後、イエスが捕らわれている近くへと戻ってきたが、そこで彼を見た女中が、ペテロを指して、この男もイエスと一緒だった、と言ったとき、ペテロは激しくそれを否定した。別のものがやはりペテロをイエスの弟子だと言ったときも重ねてイエスなど知らないと言った。
そのように、イエスと無関係な人間だと繰り返し言ってしまったのである。
そのとき、イエスはどうなさったか、短い記述がある。
…「イエスは振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、―鶏が泣く前に三度私を知らないと言う―と言われた主の言葉を思いだして激しく泣いた。」(ルカ22の61)
三年間、あらゆるイエスの奇跡、神のわざを身近に接して見てきたペテロ、その教えを毎日心におさめてきたはずのペテロであったが、驚くべき裏切りの言動を露呈してしまった。そのような罪にもかかわらず、聖書は、キリストがペテロを責めた、という記述はその後も見られない。
この「振り向いてペテロを見つめた」という簡潔な記述だけである。このイエスのまなざしのなかにすべてが込められている。
人の罪は自分ではわからない、どんなに自分が罪深いところに落ちていくことがありうるのか、だれもわからない。それほど人間はもろく弱い、罪深い存在なのである。
そのような人間を、イエスはただじっと見つめられる。その罪を知るように、そしてそれを私だけが赦すことができるのだと、そしてその私のところに来たれ、と呼びかけるまなざしである。そのような愛のまなざしによって私たちは赦され、生かされる。
主イエスのまなざしは、私たちが罪犯したときだけでない。さまざまの苦しみ、孤独、だれにも受け入れてもらえない絶望のとき…等々のときにも、私たちに向けられている。
そのようなイエスのまなざしに関して思いだされる作品がある。それは、映画化されて有名なベン・ハーという作品(*)である。そのなかで、無実の罪でとらわれてガレー船漕ぎとされ、終身刑とされたベン・ハーは、連行されていくとき、ユダヤの国ナザレの村を通る。
彼は、子供のときからの親しかった友人に裏切られて恐ろしい闇の世界に葬られることになり、昼も夜も苦しみにさいなまれ、絶望とみずからになされた不正への怒りで心は固くなり、復讐のかたまりのようになっていた。
そのようなベン・ハーを、たまたま通りがかった大工の息子、若きイエスが見つめていた。そして、近くの井戸から水をくみ取ってその囚人に持っていき、ベン・ハーの肩にやさしく触れた。
ベン・ハーは顔をあげ、イエスを見た。もちろん彼は、その水を持ってきてくれた若者が何者なのか、まったく知らなかった。
しかし、そのまなざしは、深い青色の目、柔らかで、人の胸を深く打つような雰囲気があり、さらに愛と聖なる意志に満ちているのを感じさせるものであり、その存在が不思議な力に満ちていた。(**)
彼はそのイエスの表情、まなざしに触れて、かたくなになっていた心が溶かされ、しばし幼な子のような心になるのを感じた。
彼は生涯忘れることのできないその表情、まなざしであった。
彼がイエスから手渡された水をゆっくりと時間をかけて魂に染み通るほどに飲み干した。
その間ずっと、イエスはひと言も言わず、ベン・ハーも何も言葉を出せなかった。そのあと、若者イエスは、ベン・ハーの頭の上に置き、祝福を祈ったあと、黙したまま、父親ヨセフとともに立ち去った。
これが、ベン・ハーとイエスとの最初の出会いだった。(「ベン・ハー」第2巻の最後の部分より」)
そして数々の出来事の最後の段階で、ベン・ハーは、ふたたびイエスに出会う。それは十字架への道を歩むイエスであった。
…ベン・ハーは心の中に、ある変化が起こりつつあるのを感じていた。それはこの世の命よりずっとすぐれた何ものかで―弱い者にも、肉体的苦痛と同様、精神的苦痛にも耐え忍ぶことができる力を与える何ものかであった。
それは、いつかナザレ人イエスが「私は復活であり、命である」
と言った言葉が、今ふたたび耳に聞こえてくるような気がした。そして、その言葉は、新しい意味と形をとって繰り返し繰り返し聞こえてきた。
彼はこれまで知らなかった平安―疑いや秘密などのない、清い信仰と愛に満ちた平安を感じはじめた。(「ベン・ハー」第9巻より)
このように、ベン・ハーは、無実の罪で終身刑として滅ぼされていくという絶望のなかで、まだ伝道の生涯をはじめていない若きイエスに出会い、その無言のまなざしを受け、苦しみと絶望のさなかに、イエスから「いのちの水」を受け、その祝福を受けたことが、後に奇跡的に滅びの運命から逃れ、長い苦難の生活ののち、十字架上で苦しむイエスを仰ぐことになった。
そしてそのときに魂の根源的変化を受けることになった。…
これは、映画においては、戦車競争のような大規模な撮影画面と手に汗握るといったような迫力ある映像に印象が強く残されて、実はこの映画の副題である、「キリストの物語」ということを忘れてしまいがちとなる。
けれども、原作に触れることによって、その印象は大きくことなるものとなる。私には、重い罪を犯した弟子ペテロにそそがれた無言のまなざし、そしてベン・ハーの絶望的な状況に注がれたそのまなざし―このイエスのまなざしは、こうした創作作品を越えて現実に無数の人に注がれてきたし、いまも注がれているのを思う。
それはまた、遠く離れてさまよう放蕩息子(ルカ15章)のためにどこまでも見つめるまなざしでもある。そのまなざしは、キリスト教徒を迫害し殺すことまでした一人のユダヤ教指導者パウロをも見つめつづけ、彼に光を与え、根本的な回心を与えたのであった。
この世には、邪悪な動き、力、雰囲気が至るところにある。そしてそのようなものしか見えないという思いになりがちである。
しかし、そうしたすべてを越えて、この世界には、愛の神、キリストのまなざしがある。それはどんなに暗い状況であっても決して見捨てることなく、見つめ続け、そして最終的にそこから救いだしてくださるのである。
(*)「ベン・ハー」とは、「ハー家の息子(ベン)」という意味。なお、原題は、「Ben-Hur: A Tale of the Christ」とあるように、「キリストの物語」というのが副題となっている。この著作のはじめの部分に、ここに引用したように、キリストとの出会いがあり、キリストがその背後にあって、数奇な運命をたどるベン・ハーを見守り、導くということが暗示されている。主人公の名前は、ジューダ Judahという。(日本語の発音ではユダ。なお、この名前は、創世記のヤコブの息子の名前として現れ、その意味は、「ヤハウェ(神)を賛美する」。)
原作は、ルー・ウォーレス。1827〜1905年 アメリカの弁護士、州知事、南北戦争のときの北軍将軍、著作家。
(**)…a face lighted by dark-blue eyes,at the same time so soft,soappealing,so full of love and holy purpose …
----------
この世界には、はるかな昔から、絶えず、人間同士の憎しみ、争い、奪い合い、差別や迫害、戦争、弱い者を圧迫…等々がある。
いまから70数年前、日中戦争、太平洋戦争において、日本は中国や東南アジアを侵略して、中国だけでも、2千万人もの人たちの命を奪ったという。(*)
さらに、そのような戦争によって重傷を受け、さらにそのゆえに、障がい者となってしまったとか、家庭の平和を破壊され、職業も失ったという人たちは数知れない。
また、その戦争を推進した日本の側でも、三百万人ほどもその戦争で命を落とした。 第二次世界大戦で、中国以外でも、多くの東南アジアの国々の人たちの命が失われた。インドネシア(当時はオランダ領東インドとなっていた)では、300万〜400万人という多大の犠牲者を出し、フィリピンの人たちについては、50万〜100万ほども戦死、ビルマでは 30万人、朝鮮半島の人たちも40万人は犠牲となったという。
(*)中国人の犠牲者については、日本大百科全書(小学館、全24巻)では、「死者は2千万人以上と言われる」とし、世界大百科事典(平凡社、全35巻)では、「中国軍人の死傷者400万名、民間人の死傷者2000万名にのぼる」と記されている。なお、ウィキペディアでは1千万〜2千万としている。
ヨーロッパではどうか。最大の犠牲者を出したのは、ソ連で、2千万〜2700万人近い人たちが命を落とした。また、第二次世界大戦を引き起こしたドイツは、700万〜900万人が戦死。ポーランドは、600万人が死んだ。そしてドイツのヒトラー率いるナチスによって殺害されたヨーロッパ各地のユダヤ人は、600万人とされている。(日本大百科全書、ウィキペディアなどによる)
中国との戦争において、中国人は、日中戦争開始の1937年から1945年の太平洋戦争の終結まで、わずか8年ほどの間に、この戦争で二千万人が死んだという。毎年平均すれば、250万人もの人たちが死んでいったということになる。これは、毎月20万人もの犠牲者を出したことになる。
このように、大規模戦争がいかに甚大な悲劇をもたらすのか、日本はこうした中国へのおびただしい犠牲者を出したにもかかわらず、賠償金は支払うことがなかった。それは、当時の中国(中華民国)が賠償請求権を放棄したからであった。そのことは、1952年の日華平和条約の議定書において、「中華民国は日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、日本国が提供すべき役務の利益(賠償)を自発的に放棄する。」と記されている。
この日中戦争が拡大して、米英、オランダ、オーストラリア等々を敵国として戦う太平洋戦争となっていった。そもそもの発端は、1937年7月7日夜、北京近くの蘆溝橋付近にて、日本軍夜間演習中に打ち込まれた十数発の銃弾事件であった。このような、ごく些細なと思われることが原因で、数千万人が殺されるような途方もない混乱と悲劇、日本でも沖縄戦や本土空襲、原爆投下などという、想像もできない多大の苦難のはじまりとなった。
いかに武力を用いての解決策、あるいは一部の人間の野望、名誉心、権力欲というものが重大なことにつながるかを思い知らされる出来事であった。
ヨーロッパにおいても、第二次世界大戦は、第一次世界大戦によってドイツが多大の賠償を負うことになって、その混乱に乗じてヒトラーが強引に権力を奪い取っていった。それゆえに、第二次世界大戦は、第一次大戦のの延長上にあると言える。
その第一次世界大戦はいかにして開始されたのか。
それも、きっかけは1914年に、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が、セルビアの青年によって暗殺されたことであった。すぐにオーストリアがセルビアに参戦し、ロシア、フランス、イギリスなど連合国と、ドイツ、オーストリアなど同盟国にわかれての戦争となった。
4年間で1700万人とも言われる人たちが死ぬという大戦争となった。これも最初は短期間で終わると考えられていたが、広大な地域へと拡大し、悲惨な戦争となった。
このように、第二次世界大戦の伏線ともなった第一次世界大戦は、皇太子夫妻が銃弾に倒れたということだった。このとき、もし話し合いで決着させておけば、数千万人が死傷するような全ヨーロッパを巻き込む悲劇は起こらなかったし、第二次世界大戦が引き起こされることにもならなかったのである。
武力による復讐、そして集団的自衛権の発動によって次々と周囲の国々をも巻き込む大規模戦争がいかに危険なものかを示すものである。
日本がはじめた太平洋戦争の発端となった、蘆溝橋事件にしても、すでに述べたように、わずかな砲弾が打ち込まれたというだけであり、死傷者が生じたわけでもなかった。そのような後の大戦争を考えれば、きわめて些細なことであったにもかかわらず、中国側の動きに対して一撃を加えて武力によって支配を確立しようとする、ごく一部の軍人たちの誤った発想に政府も追従し、中国との全面戦争となり、太平洋戦争へとなって広大なアジアの領域での大量殺戮が行なわれるようになってしまった。
これもきっかけは、武力を使っての解決を考えたからであり、権力欲、支配欲と武力を用いようとする心理は深く結びついている。
武力を用いるとは、相手を殺傷することであり、たった一人を殺すことも、一般の社会では最大の重大な犯罪である。
そうでなくとも、誰かの手足に重大な損傷を与えるならその人は、仕事もできず、周囲の冷たい目と戦いつつ、生涯苦しみと悲しみを負って生きなければならない。そのような苦しみを考えたらたった一人であっても、武力を用いるということの大きな害悪がわかるはずである。
しかし、自分の欲望に目がくらんだものは、そのような個々の人間の苦しみや悲しみ、当事者の長い苦しみはまったくわからなくなるのである。
2001年の9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が発生した後、アメリカのブッシュ大統領は、報復の戦争として、アフガニスタン戦争、イラク戦争を開始した。それらによって、前者の戦争では、全体で数万人の死者がでたと考えられているし、イラク戦争では、5万〜6万人もの死者が出た。大怪我をしたり、戦後心身に障害を負った人たちはさらに多く、アメリカ側の戦傷者は、12万人にのぼる。
これを見ても、復讐または報復の戦争をはじめると、はじめの被害よりはるかに重大な事態となる。この9・11のビル攻撃による死者は、3千人余りという。その報復のために、はるかに多くの人たち―10万人近い人たちが死にいたり、今なおその戦争で傷つき心身に苦しみがいえない人たちは数知れない。
そして、そうした多大の犠牲者を生み出した戦争によって、根本的な解決はえられたのか、決してそうではなく、次々とそれに続く問題が生じてきた。
現在のイスラム国(*)も、アルカイダ系から派生したものであり、9・11の延長上にあると言える。その意味でイラク戦争、アフガン戦争などが、新たに困難な問題を生み出したと言えるのである。
武力による戦争はこのように、一時的には何らかの効果があったように見えても、しばらくすると別の新たな難題を生み出していく。
(*)Islamic State、略称IS、または、ISIL(Islamic State in Iraq and the Levant)
そしてこのような戦争は多大の戦費を費やす。そのような莫大な戦費を、報復戦争に用いることなく、中近東一帯やアジア、アフリカなどの貧しい国々への食糧援助、教育援助や文化施設、医療、井戸や農場などの設備等々のために、永続的に費やしたならば、そうした数知れない犠牲者は出なかったのであるし、そうした弱者への事業を続けるならば、その地域からも喜ばれ、結局はこうした問題への解決につながっていただろう。
日本も、安倍首相が、イスラム国と戦う国々への支援と称して、236億円という巨額を出すとした。それは人道的支援と称するが、イスラム国から見れば、敵への援助だとみなしてより戦意を駆り立てることにつながることになった。
集団的自衛権の発動も、いまは他国のこうした戦争には自衛隊を派遣しないと言っていても、今後どのように変えるか保障されない。
徐々にそうした方向に近づいていこうとしている。それは言い換えるとテロを受ける危険を弱めるのでなく、強めていく方向となる。
聖書―神の言葉を人間の根本指針とするとき、武力によって関係ない人たちをどれほど殺害していくかわからないことを認めることはありえない。武力行使してくる人間を殺しても、さらに憎しみをかきたてるという逆効果ともなる可能性が高い。
すでに述べたように、第二次世界大戦という世界中を巻き込んだ大戦も、その原因をたどっていくと、第一次世界大戦にさかのぼり、そして、太平洋戦争も、その出発点をたどっていくと、小さなことを軍事力で解決しようとしたからであった。
こうした歴史のじっさいの教訓を深く受けるのでなく、目先の解決を考えて軍事力を用いていくなら、今後の事態はいままでにない危険な状況を生み出す可能性が高い。
それは、かつてはなかった大量の核兵器や原発の存在である。
それらがテロによって用いられたり、爆破されることになれば、取り返しのつかない事態が生じる。とくに、日本は、狭い国土に原発が集中しているため、世界でも最も危険な事態となるであろう。
そのようなことを防ぐには、軍事力を増強することによっては決してできない。それはアメリカの軍事関係の高官もすでに言明していることである。
このような状況にあって、やはり数千年を変わらぬ真理の光を掲げてきた、聖書の真理、キリストの真理、聖霊の教えた使徒たちの受け継いだ真理に生きることこそが求められている。
憎しみや報復、復讐でなく、そうした悪に陥った者たちのために祈れ、と主イエスは言われた。
彼らはテロリストという。しかし、いまから70年あまり前の、日本軍による中国に対するあの無差別攻撃や殺戮―そのようなことから日本にも報復として空襲や原爆投下がなされることになった―そのようなこと、そもそも二度にわたる世界大戦のような大規模戦争は、きわめて大がかりなテロではなかったのか。
南京虐殺のことがよくもちだされるが、虐殺は南京だけでない。至るところで軍人であれ民間人であれ無差別的に殺害するのが戦争である。戦争それ自体が虐殺行為にほかならない。
そうしたすべては、後で生じてしまった大戦争に比べると比較にならないごく小さなことを、大がかりに復讐、報復するという姿勢から生じていくのである。
こうした歴史における事実を見て来るとき、まさに、主イエスが言われた言葉―「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書26の52)が真理であることを知らされる。
こうしたあらゆる時代のさまざまの状況に対して、そのすべてにおいて最も重要なこと、それが次の主イエスの言葉である。聖書、キリスト教の根本姿勢はここにある。
…敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(新約聖書・マタイ福音書5の44)
…「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。(新約聖書・ローマの信徒への手紙12の20)
現代の世界には、報復、復讐の人でなく、祈る人が必要なのである。
イスラム教とコーランについて (「いのちの水」誌2001年10月号掲載)
今、大きな問題となっている「イスラム国」は、かつてのアルカイダから分かれた集団であり、彼らは、「聖戦」(ジハード)の一貫としてさまざまのテロ、爆破などを続けている。なぜ、そのような行動をするのか、彼らの拠り所とする教典であるコーランには、この問題に関してどのように書いてあるのか、まず私たちは、イスラムの根本になっている教典コーランについて知る必要がある。
以下の内容は、2001年の9月11日の、アメリカでの同時多発テロ事件のすぐ後に書いたものであるが、今日の状況において、コーランと聖書との関係を知ることの重要性を思い、ごく一部の変更を加えた以外は、ほとんどそのまま再度掲載することにした。
私たち日本人はイスラム教とかその経典であるコーランについてほとんど知らないのが実状です。ここでは、イスラム教やコーランについて本など購入して調べるということのできない人も多くいるので、そのような人たちのために書いてみます。
(なお、イスラムとは唯一の神、アラー(アッラー)に絶対に服従することを意味し、信者のことをムスリムという。)
イスラム教の創始者であるマホメット(ムハンマド)は紀元五七〇年頃に現在のサウジアラビアのメッカで生まれ、六三二年に死去しています。コーランはマホメットが神から受けたと信じたことを語ったものが集められたものです。彼が最初にメッカで神の啓示を受けたと称するのは、四〇歳頃のことで、紀元六一〇年のことです。
マホメットが理想とするのは、旧約聖書の中心人物の一人、アブラハムの信仰です。日本人にとってイスラム教というのは、キリスト教、仏教、イスラム教と並べていうことが多いために、聖書の宗教、つまりユダヤ教やキリスト教とはまるで別のように思う人が多いのですが、この二つの宗教と深い関係があります。
アブラハムの信仰は、キリスト教においても、信仰の模範の一つとなっていますが、完全な模範はいうまでもなく、キリストです。
しかし、イスラム教はアブラハムの信仰を最終的な模範とし、アブラハムの宗教を復活させることが目標だとしています。
…「アブラハムは、ユダヤ教徒でもなく、キリスト教徒でもなく、純正な人、帰依者であった。彼は多神教徒ではなかった。人々のなかで、アブラハムに最も近い者は、彼のあとに従った者、この預言者(マホメット)、信仰ある人々である。」(コーラン第三章67〜68)
コーランの中には、アブラハムやモーセ、ヨセフといった旧約聖書の有名な人物の名前がしばしば現れます。 その中には例えば「ヨセフの章」と題された章があり、それは旧約聖書のヨセフ物語の記事をもとにした内容だと直ちにわかるものです。ヨセフが兄弟たちのねたみを受けて野の井戸に投げ込まれ、兄弟たちが、父ヤコブに嘘を言うこと、エジプトに売られていったヨセフが、心のよこしまな女性によって、誘惑を受け、それを拒絶した結果、ヨセフは無実の罪を着せられたこと、投獄されたヨセフが夢を説いたことなどほとんど筋書きは同じです。その章は物語で終始している章となっています。これがコーランかと思うような旧約聖書のヨセフの物語の簡略版のような内容なのです。
マホメットが住んでいた地方にはすでにユダヤ人やキリスト者たちがいたし、彼の最初の妻の従兄弟であった人は、キリスト者であったと伝えられ、キリスト者たちが付近に隊商としてやってきたこともあると推測されています。
そうした人たちから聖書の話を聞いて知識としたようで、その知識はかなり不正確です。
例えば、コーランの第十九章は、「マリヤの章」と題されて、新約聖書のルカ福音書の一章をもとにして書かれているのがすぐにわかります。そこでは、ザカリヤやヨハネのこと、天使がマリヤにイエスの誕生を告げたこと、マリヤがそれに答えて「だれも私にふれたこともなく、不貞な女でもないのに、どうして私に子供ができるでしょうか。」と答えたと記されています。これは新約聖書の「どうしてそんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ福音書一・34)という、福音書の記述を借りてきて、それを少し変えたのだというのがはっきりわかります。
しかし、マホメットは聖書を直接にはよく知らなかった、読んでいなかったと考えられています。先ほどのマリヤの章の28節にはつぎのようにあります。
…やがてマリヤはその子(イエス)を抱いて、一族のもとにやってきた。みなは言った。「マリヤよ、お前は大それたことをしたものだ。アロンの姉よ、お前の父は悪人でもなかったし、お前の母は不貞な女ではなかった」
この記述は、旧約聖書にアロンの姉がミリアム(マリアのヘブル語発音)であるという記述を間違って書いてしまったものと考えられています。(旧約聖書・出エジプト記十五・20)つまり、イエスより、千数百年ほども昔のアロンやモーセの姉と、イエスの母とを名前が同じマリヤであったために、混同しているのです。これは、マホメットが聖書を持っておらず、おそらく、旧約聖書や新約聖書の話を周囲の人たちから部分的に耳で聞いて、うろ覚えで書いたからこのような基本的な間違いをしていると考えられています。
また、ほかにもこのような間違いは見られます。
シナイの山で、モーセが十戒を受けている間に山の下では、人々が偶像崇拝をして神への背信行為を繰り返していたときのことがコーランでも書かれています。
…「お前(モーセ)の去ったあとで、われらはお前の民(イスラエルの人たち)を試みにかけた。サマリヤ人が彼らを迷わせたのである。」(コーラン二十章85)
と書いてあります。しかしサマリヤ人というのは、モーセよりはるか後の時代に出てくる人のことです。イスラエルの人々を迷わせたのは、サマリヤ人でなく、アロンであったのです。
また、キリスト教の中心的な教義でもある、神とキリストと聖霊が同じ本質であること(三位一体と言われる)を否定しているが、そのことをコーランではつぎのように書いています。
「まことに、神は三者のうちの一人であるなどという人々はすでに背信者である。唯一なる神の他にはいかなる神もいない。…マリヤの子(イエス)はただの使徒にすぎない。彼以前にも多くの使徒が出た。また、彼の母(マリヤ)は誠実な女であったにすぎない。二人とも、食物を食べていたのである。…」(コーラン五章73〜75より)
このように、三位一体という、キリスト教では、きわめて重要な教義についても、マホメットは、「神とキリストとマリヤ」の三者が一体であると思いこんでいたのがうかがえます。
これは、カトリックでは、マリアに祈るとか、キリストとともに非常に重んじていたしマリア像などもキリストとともによくみられたのでこのような誤解を生んだ可能性があります。
このように、旧約聖書や新約聖書の引用があちこちで見られますが、このような初歩的な誤りが見いだされるのです。
コーランでは、預言者として、つぎのように、旧約聖書で親しみある名前と、新約聖書からも一部、例えばイエスといった名前があがっています。
…「まことに我らがなんじに啓示したのは、ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらはアブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブと各氏族に、またイエス、ヨブ、ヨナ、アロン、そしてソロモンに啓示した。またダビデに詩編を与えた。…モーセには神が親しく語りかけられた。」(コーラン第四章163〜164)
このように、主イエスもコーランにおいては、預言者たちのうちの一人であって、人間のなかまにすぎないとしています。旧約聖書の神が預言者として特別に選んだ人物をコーランでもそのまま、預言者として受け入れているのに、どうして新しい宗教が必要であったのかと疑問になります。それをコーランではつぎのように説明しているのです。
…「しかし、コーラン以前にも、導きであり、慈悲として授けられたモーセの経典があった。このコーランはそれを確証するもので、アラビア語で下され、悪い行いをするすべての者たちに警告し、善い行いをする者たちによい知らせを伝えるものである。」(コーラン四十六章12)
つまり、旧約聖書は神からの書であることを認め、それをさらに確証するものがイスラム教では、コーランだというのです。コーランは新約聖書をも部分的に神から下されたものと認めます。
…「このコーランは神をさしおいてねつ造されるようなものでなく、それ以前に下されたもの(旧約聖書と新約聖書)を確証するものであり、万有の主よりのまぎれもない経典をくわしく説明するものである。」(コーラン十章37)
このように、コーランを究極的なものとして位置づけます。
そしてユダヤ教徒もキリスト教徒も、その神からの啓示をゆがめてきた、それをアブラハムの正しい信仰に復元するのがイスラム教だという主張なのです。
しかし、キリスト教の内容に影響を受けてつくられたと考えられる教義には、復活、天使や悪魔の観念、それから死後の裁き、天国と地獄などの観念があります。これらは旧約聖書にはないか、あってもごくわずかです。アブラハムの信仰を目標とするといえども、アブラハムにはそのようなことについての信仰内容は見られないので、こうした観念は、新約聖書に影響を受けて作られているのがわかります。
現在深刻な問題となっている、テロはいったいどのようなコーランの内容に基づくのか、それは多くの人にとって疑問となっています。世界宗教とも言われるものが、あのような大量の無差別殺人を教えているのかと。これはもちろん否ですが、聖戦、これはつぎの箇所がもとになっています。
…神(アッラー)の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。
…お前たちの出会ったところで、彼らを殺せ。お前たちが追放されたところから敵を追放せよ。迫害は殺害より悪い。(コーラン第二章190〜191)
このように、イスラム教徒を迫害することは、殺すことより悪いとして、イスラムを迫害する敵がいる場合には、相手を殺すべきなのだとはっきり敵を殺すことを命じています。
こうした戦いのことを「聖戦」(ジハード)と言っています。そしてこうしたイスラム教徒以外の敵との戦いで死んだ者は、アッラーの神のもとで神からの恩恵を受けて生きている、とされています。(コーラン第三章169〜170)
9・11のアメリカの高層ビルへの攻撃は、この聖戦と称する戦いだと信じてなされたのが推察されるのです。
マホメットは「剣とコーラン」をもって征服していったと言われます。イスラムの敵には容赦なく処刑するという姿勢、イスラム教の敵は殺すことをすら正当化すること、こうしたことが、現在の一部のイスラム原理主義の者たちが、無差別的なテロを行う宗教上での根拠ともなっています。
なお、次のような箇所もあります。
「だが、(4か月の)神聖月(*)があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうが良い。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待ち伏せよ。しかし、もし彼等が改悛し、礼拝の務めを果たし、喜捨も喜んで出すようなら、その時は遁がしてやるがよい」(9章第5節)
(*)神聖月とは、この期間は宗教的行事にあてられるのであって、どんなに激しく対立している敵同士であっても、一時和平協定を結ぶ。(岩波文庫「コーラン」上巻251頁)
イスラム教は、旧約聖書や新約聖書のとくに福音書をも神の啓示とみなし、ユダヤ教やキリスト教からもいろいろとコーランに引用していますが、つぎのような点でキリスト教と根本的に異なっているのです。
コーランはイエスをマホメット同様、人間の仲間であるとします。しかし、キリスト教はイエスは神と同質のお方であるということが啓示されるところから出発しています。
イエスが人間なら、罪の赦しもできず、復活もありえず、死を超える力を与えることもできないのです。
そして、信仰の究極的な模範を、イエスやモーセでもなく、アブラハムに置いています。
さらに、武力を用いることを当然とすることや、一夫多妻もキリスト教と根本的な違いの一つです。マホメットは、十数人もの妻を持っていました。その中には、政略結婚のようなものもあったり、わずか六歳の幼女と婚約し、その三年後に結婚しているような例もあります。
このようにつぎつぎとたくさんの女性を妻に迎えるなどということは、キリスト教では考えられないことで、武力の肯定、宗教上の敵を殺すべきだというような点とともに、キリスト教とはきわだった違いだと言えます。
主イエスは、敵に対する態度は究極的にはどのようであるべきか、このことについて、聖書を見てみます。
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。…
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ福音書五・38〜44より)
また、コーランが宗教上の敵には殺すこと(剣をとること)を命じているのに対して、キリストは、つぎのように言われました。
…そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書二六・51〜52)
この言葉の通り、武力で敵を征服しようとするものは、必ずまた武力によって滅びていくということは、歴史のなかで繰り返し見られることです。
そして主イエスの霊を最も多く注がれた使徒パウロもつぎのように教えています。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書かれている。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマの信徒への手紙十二・19〜21)
このような、明白なキリストの教えと、その精神に反して、アメリカやヨーロッパの主要国がいっせいにアメリカとともに武力での攻撃、戦争を始めようとしています。そのようなことは、決してよいことを生み出すことはできないのです。
イスラム教の大きい問題点は、このように、イスラム教に敵対する者を殺してもよいとする、マホメットの教えにあります。
主イエスは、こうした武力によっては決して問題は解決しないということを深く見抜いておられました。そして、そうした武力報復とはまったく異なる道で悪に立ち向かうことを教えたのです。
それは、神の前に静まり、敵のために祈り、あくまで真実な神の力に頼り、その神の裁きに委ねていくということです。ここにこそ、あらゆる紛争の根本的な解決の道があります。
一人になり、沈黙と静かな落ち着きのうちに過ごすことを勧めます。
私たちの中であふれ続けるいのちの水によって新たにされるために。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ著。14頁)
・主イエスは、しばしば夜通し祈られた。いのちの水で満たされつつ、無数の苦しめる人たちに分かつため。
私たちもそのように導かれたいと思う。
(380)主が語ること
私たちが何を語るかは問題でなく、神が私たちを通して何を人々の魂に語りかけるかが大切なのです。
What we say does not matter,onlywhqt God says to souls thpough us.
(「Mother Teresa in my own words」37頁)
・自然の星や雲や野草たち―それらを通して、神が語りかけてくるように、私たちの移ろいやすく、また一時の感情や他人の言葉の反復でしかない言葉でなく、私たちを通して、永遠の真理たる神が語られる―それが私たちが語ることの究極的な目標になる。
〇金星、火星、木星、土星が見られる! 最近の夜空から。
2月中旬の午後6時ころ、西の空には、きわだって明るい金星が輝き、そのすぐ近くには、火星も見える。このように金星と火星が並んで見えるというのは、いましばらくは続くけれども、今後はなかなか見られないものです。
やや東寄りの南の空には、星座でも最も知られているオリオン座が輝き、その右上方には、牡牛座、左側には、恒星のうちでは全天で最も明るいシリウスを含む大犬座、小犬座、その上方には双子座、さらに、東には、金星に次いで明るい木星の強い輝きが見られます。そして頭上には 御者座があります。
このように、今年の冬空は、いわゆる一等星(1・5等を越えるものを含む)と言われる明るい星は、惑星も含めると、金星、木星、火星(これらは惑星)、シリウス、リゲルとベテルギウス(いずれもオリオン座)、カペラ(御者座)、プロキオン(小犬座)、アルデバラン(雄牛座)、ポルックス(双子座)等々 10個に及びます。
ただしこれらのうち、金星と火星は、夕方7時半ころには、沈んでしまうので、午後6時〜7時ころの天気のよいときが、観察にはベストと言えます。
冬空の澄みきった大気のなかで輝く星々はすばらしいものです。
さらに、深夜過ぎて午前2時半ころからは土星が南東の空低くに現れてきますので、夕方午後6時ころから午前2時半ころまでに、金星、木星、火星、土星と惑星の仲間で最も明るい星たちがすべて見られるという得難い時期になっています。
これらのうち、夕方の金星と火星は天気さえよければ、西空がさえぎられない位置にあればだれでも見いだすことができます。
目に見えるもののうちでは、もっとも清く、またその輝きは、いかなる人間的な行為によっても打ち消すこともできないという点で、永遠的であり、人間から最も遠く離れて聖別された輝きであるゆえに、神の国のことを最も直接的に私たちに指し示してくれるものだと言えます。
主イエスが、夜明けに輝く金星にたとえられ(黙示録22の16)、ダンテがその大作「神曲」のなかで、地獄偏、煉獄篇、天国編のそれぞれの最後の言葉を星(stelle)としていることも、星の輝きが古代からほかのあらゆる自然のものに比べて特別な高い意味を感じさせてきたことを示しています。
また、旧約聖書においても、「天は神の栄光を物語り、大空は神の御手のわざを示す」(詩篇19の2)として、神の栄光―神の力、その永遠性、美や清さ等々―を表すものとして、数ある自然のなかから、とくに星―ここでは天と訳されている―を代表させています。
〇梅の開花
二月、最も寒いこの季節に咲き始める花、梅はただそれだけでも心を惹くものがあります。
ほかの植物、動物たちも寒さに動きがとれないという時期に早くも咲き始めるので、寒さに抗して、周囲の状況がまだ眠っている―あるいは枯れたようになっているさなかに、花を咲かせるということで驚かされます。
春の暖かさによっていっせいに芽を出し、葉をひろげ、花を咲かせるのが圧倒的に多いなかにあって、梅は特別なものです。
そのほんのりとした香りや色調、すがたも日本人の心にとくに静かにとどまってきたと思われます。
万葉集には、119首に歌われているほど、古代から関心を集めていたのがわかります。梅の花が自分に語りかけて来るのを感じて、見続けていたいという歌があります。
春されば、まづ咲くやどの、梅の花、
独り見つつや、春日暮らさむ (山上憶良)
(春が来るとまず咲くわが家の梅の花、それを一人で見ながら、春の一日を過ごそう。)
また、梅の花が最も寒いときに咲き始めるというその性質、花の清楚、香り、姿のよさ等々から、このような花はきっといつまでも愛され、咲き続けるだろうとその価値ゆえに、直感的にその永遠性を歌ったものもあります。
〇万代に、年は来経とも、梅の花、
絶ゆることなく、咲きわたるべし
(いつの世までも梅の花は絶えることなく咲き続けるであろう。)
たしかに、万葉集から千三百年を経ても、現在も変ることなく咲き続け、愛され続けているし、これからもそうだろうと思われます。
さらに、より霊的に見るとき、このような厳しさのなかに単独で咲く、周囲の流れに流されないでその清さや美を保ち続ける―真理はこのような本質を持っているのに気付かされます。
そして、聖書の真理、神の愛、キリストの愛こそは、その本質を完全にそなえたものです。
来信より
〇いのちの水」「野の花」を拝受しました。ありがとうございました。
「野の花」は、今年もほかの方々の文章から新鮮な息吹を与えられました。
各地で育てられた野の花が、紙面で一つの花束になりました。
この花束は主に捧げられました。主は、「多くの人に用いるように」と、花束を一人一人に返されました。
主のみ名を讃美します。編集に携わられた方々のご愛労に感謝します。
「いのちの水」1月号を読んで。
・「感謝できる心は新しくされた心である。感謝できない心は、受けているものがわからない、固まった心、古びている心だということになる」
・呼吸できること、話せること、食事があること、等々 ついつい当たり前に思うとき感謝する心が湧きません。
一つでも失ってみないとわからない愚かさを内に持っています。
「一つ一つ与えられている」ことを感謝していけるように、また、高齢になって、あちこちが弱っていく中で、不平や不満を言ったりしないように、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事にもつけ、感謝を込めて、祈りと願いをささげ」、主を礼拝したく思わされました。
・「待つことと祈り」より
スカイプを用いての集会で「ヨハネ黙示録3・7〜13」で「開かれた門」を学んだことを思いだし、イエス様の門は開いていつも私たちを待っていてくださっている、神の愛を改めて思いました。「待ち続ける神の愛」「人間においても神に叫びつつも待ち続ける」
人間が待つという間には悔い改めを神の方で待っておられる、ということも、学ばせていただき感謝です。(関東の方)
〇ある本で、五十歳を過ぎたけれど、この歳になったらもう驚くことはほとんど無い、と書かれているのを読んだことがあり、それをなぜか今も覚えているのですが、きっと聖書にも出会わず、神さまも知らなければわたしも同じだったと思います。
この世の驚きや新しさでなく、万能の神さまから来る新しさは、同時に驚きで、究極のいただきものであることを思います。
深い新しさを実感することは、清めと深く結びついている、ということも深く考えさせられています。このようなことを知らされることに感謝です。今日の、遠くの山の青さも目に沁み、神の国の清さ、雄大さを思わされます。(関西の方)
〇…ベッドの上で身動きできず、自分のことも家族の問題もどうすることもできない私にその時出来ることと言ったら「祈ること」しかありませんでした。痛みと苦しみの中でヨブの苦しみ、イエス様の苦しみを思いました。
朝から晩までずっと祈っていました。そのような中でふと分かったのは「何という恵みなのだろう」ということでした。
このような苦しみに遭うまではこんなに朝から晩まで祈ることはなかったのでした。朝から晩まで主に向って祈っている自分、祈りを聞いて頂いている自分、イエス様にすがることしかできない自分、「何と恵まれた時を過ごしているのだろう」と痛みと苦しみの中で思ったのでした。
苦しみの中で感謝を覚えるなど私には初めての経験でした。
この「今日のみ言葉233」の吉村先生のメッセージに私の当時の記憶がまざまざと甦ってきました。イエス様を通して主に祈ることができる恵みをこの時ほど感謝したことはありません。(九州の方)
〇…イスラム国と言われる集団に集まる人たちがどんな原因で、事情で駆り出されるのか、また大国の思い上がりや差別意識が、根の深い人間の罪を思い知らされます。
一日もはやく、平安な日々が、訪れることを願うばかりです。
「いのちの水」誌1月号に書かれていたこと、「待つことと祈り」に、「他者のための祈りは、神を見つめ、相手の人をも心の目で見つめることであり、主イエスが最も大切なことと言われた『神を愛すること、人を愛すること』につながることである」とのお言葉を心に刻みました。… (関西の方)
〇新発売の聖書講話CD。(MP3版、聖書講話者吉村孝雄)
@ローマの信徒への手紙(全2巻)約38時間(全部で69回の講話)
Aコリントの信徒への手紙T、U(全2巻)約42時間(全部で74回の講話)
ご希望の方は申込してください。価格はいずれも1500円です。
なお、このMP3版の聖書講話を聞くためには、MP3対応のプレーヤ(CDラジオ、CDラジカセなど)が必要です。
パソコンがある方はそれで再生できますが、パソコンのない方は、MP3対応のプレーヤの購入が必要です。
CDラジカセの種類はたくさんありますが、MP3対応のものは、ごくわずかです。カセットテープをつかわない方は、ソニー.から出たCDラジオ がおすすめできます。この製品(型番ZS-E20CP)は、500種を越えるこの種の製品のなかで、現在売れ筋ランキングは第一位を保っています。価格は、四千円〜六千円台。(送料込、インターネットや一般の電器店での価格はこのようにかなりの開きがあります。)
近くの電器店に、商品名「CDラジオ」、発売会社名(ソニー)、型番などを告げて在庫とか価格を問い合わせてみることもできます。
もし、近くに電器店がないとか、体調の具合の関係で電器店まで行けないといった方々は、ご希望があれば、私がお送りできます。(送料込みで四千円とします。)
なお、いままでに発売された聖書講話CDシリーズは、ヨハネ福音書、ルカ福音書、創世記、出エジプト記、イザヤ書などがあり、これらも希望あればお送りできます。
価格は、千五百円〜三千五百円。
〇伝道会総会での講演予定
・日時…2015年4月29日(水・祝日)
・会場…YMCAアジア青少年センター3階(東京都千代田区猿楽町2の5の5)
JR水道橋駅から徒歩5分余。
・日程…総会13時30分〜14時25分
記念講演15時〜16時
吉村孝雄「神の言葉―その光、命、力」
懇談16時〜17時
(講演、懇談などに参加のための会費は不要)
〇2月24日の移動夕拝は、熊井宅。午後7時半〜9時。
スカイプでの参加申込、または、スカイプでの集会についての問い合わせなどは、左記の吉村まで(メール、あるいは電話。)