「いのちの水」20154月 第650 号 内容・もくじ

リストボタン復活の春と啓示

リストボタン復活の重要性について

リストボタン「永遠の平和のために」―カント著より

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リストボタン復活の春と啓示

 

 四月、日本は至るところで春の息吹を感じさせる季節となった。枯れたようになっていた木々も、初々しい新芽を見せ、野草たちも可憐な花を咲かせている。

 そして、小鳥たちも元気に歌い、蝶や蜂なども飛び交うようになる。

 そのように創造主の復活の力を感じさせるような自然に囲まれていながら、日本では復活をさせる神を信じる人はごく少ない。

 どんなにうるわしい春の姿を目で見ても、だからといってそうした目で見たものだけでは死者をも復活をさせる神を信じることはできない。

 主イエスの弟子たちは、キリストの生前の奇跡を数々みてきたがそれでもイエスの復活を信じることはできなかった。

 死者を生かす神、永遠の命を与える神をはっきりと実感し受け入れることは、単に見たり頭で考えたり、あるいは教えられたり、知識を積み上げてもできることではない。

また、老年になったからといって必ずしも、真理の感覚が鋭くなるとはいえない。かえって、真理への感覚を失って、世の中とはこんなものだ、と開き直り、真実や無差別的な愛、敵対する者への愛などもそんなものは理想論だ、現実にはあり得ないなどと思うようにもなっていくことも多い。

  そこには啓示が必要である。神からの啓示があれば、いかに目で見ることはなくとも、なお信じ、復活させる神を受け入れることができる。

 弟子たちが本当にキリストの復活を実感し、確信することができたのは、聖霊が与えられたことによってであった。それによって命がけで、キリストの復活を宣べ伝えるようになったからである。

 

…聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

… 真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ福音書14の26、16の13)

 

 啓示が与えられることによって、いかに目で見ることがなくとも、深い真理の実感が与えられ、復活も信じることができるようになる。

 パウロは、キリスト者となる前は、特別に旧約聖書について専門的に学んだ人であった。彼は、キリスト者の殉教という目を見はるようなことに接しても、またキリスト者たちの話しをも聞いていたであろうが、復活したキリストを信じるようにはならなかっただけでなく、キリストそのものを全く信じることはできなかった。

 しかし、キリスト教徒を迫害するために外国まで出向いていく途中で、復活したキリストの光を受け、そのキリストの言葉をも受けて信じるようになった。

 これも 直接の啓示を受けたゆえに信じることができるようになったのである

 神からの直接的な示し―啓示は、聖書に記されている預言者のよう特別な人だけでなく、ただキリストを信じるだけで与えられる。

 キリスト者は、日々新たにされていくと記されている。それは日々、程度の差はあっても、何らかの新たなことが啓示されていくということでもある。

 そして、一度受けた啓示であっても日々霊的に目を覚ましていなければ、そこから落ちていくことがある。ペテロのような人物さえそのようなことがあったと記されている。

    (ガラテヤ書2の11~14)

 そのためにこそ、主イエスはたえず目を覚ましていなさいと教えられた。

 

…誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。

           (マルコ14の38)

 新約聖書のほかの箇所でも次のように繰り返しこのことが言われている。

 

…従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。              (Ⅰテサロニケ5の6)

…身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。  (Ⅰペテロ5の8)

 


リストボタン復活の重要性について

 

 私たちにとって、最も大切なことは―と問われると、どのように答えるだろうか。多くの人は、まず健康、と答える。健康第一という言葉もよく耳にする。

 健康を失い、病気となったら、苦しみ、痛み、不安が伴う、ひどくなると仕事もできなくなる。そして家族や職場の同僚たちにも負担や迷惑をかける。

 ひどくなれば、苦痛はますます強まり、自宅での療養、さらに入院となれば、ベッドの上での苦しみと一人戦わねばならない。そして行き着く先は死である。

 このようなことは、子供でも、また悪人と言われる人でもだれでもわかるために、健康第一ということは広く実感をもって受けとられている。

 他方、その一番大切なはずの健康があっても、よき心がなかったら、その元気な体をもって悪しきことをすることも多い。大きな犯罪は、みなからだが健康な人間がやっている。また大規模な殺人である戦争をはじめたり、推進していくのもみな健康な人間であって、病院で病気と戦う苦しみにある人ではない。

 先日のドイツの飛行機を墜落させてたくさんの人を死に至らせた人物も体は健康であった。しかし、心は健康でなかったと言われている。

 このように、体がいくら健康であっても、心の健康とは結びつかないことはいくらでも見られる。

 そして私たちも体が健康であっても、精神的な苦しみのゆえに生きていけなくなるということは、昔からいくらでもある。

 人間と動物の決定的な違い―それはこのような精神的な苦しみや心の悩みを持つことである。

 それゆえに、もっとも大切な問題をあつかっている聖書では、心の問題を一貫して第一としている。

 心が強くあれば、病気の苦しみにも耐えていくことができるし、この世の誘惑にも負けないで生きられる。

 その心が強くされるために、どういう道があるのか。

 弱さの根源―それは人間にはどうしても正しい道を歩けないということである。自分中心、自分の感情あるいは欲望中心になる、ほかの人間に気に入られたい、自分が持っているものを自慢する、弱いものを見下す…すべてこれらはひと言でいえば、愛がないということである。正しいことへの愛が乏しいゆえに、間違ったことをしたり、言ったりしてしまう。他者への愛がないゆえに、相手の心を傷つけたり、見下したりする言動をしてしまう。

 そのような心の状態を罪と言っている。その罪をどうしたらなくすることができるだろうか。それこそ根本問題であり、その解決ができたら―というのが心の問題を少し深く考えるようになった人はだれでも思い悩む。

 そして聖書はそのことをまさに中心に据えて記されている。救いとは罪からの救いである。

 そしてそのために、キリストが来てくださった。十字架で釘づけられるという想像もできない苦しみを負って私たちの罪を身代わりに負ってくださった。

 そのことをただ信じるだけで、赦しを感じることができる。

 キリスト教の福音―喜びの知らせ―とはその罪の赦しの知らせだった。赦しなくば、自分の罪はどうすることもできない。

 その罪の赦しの福音をもたらすために不可欠であったのが復活である。

 復活がなく、ただ十字架で処刑されただけなら、それが万人の罪を背負って死んだなどとは言えない。それはただの人間だからである。

 神の力で復活し、さらに聖霊となって世界全体の無数の人たちのうちに宿り、導くようになった。

 復活があったからこそ、人間ではない。神と同じ本性のお方であることがはっきりと示された。だからこそ、万人の罪をも赦し、さらにその赦しとともに神の力そのものである、聖霊をその程度はさまざまであるが与えてくださるようになった。

 普通の人間なら、殺されたらそれでもう何もできない。万事休すである。

 イエスが復活した!これはイエスに対する見方の根本的な転換となった。

 死をも超える神の力があるのだ、しかもそれは愛と真実、そして正義に満ちた力だと弟子たちは示された。

 無惨にも嘲られ、ついにわが神、わが神、どうして私を捨てたのか!との叫びをあげて死んでしまっただけなら、そこには絶望があるだけである。

 キリストの復活がなかったら、いかに完全な愛や奇跡を起こす力があって権威ある言葉を語ってもなお、悪の力により、死の力によって滅ぼされたということになる。

 キリストの復活があったからこそ、あらゆる悪にも勝利したのだという確信が与えられた。そしてその確信が、イエスの復活を見ていない人たちにも、イエスの復活を信じるだけで与えられるようになった。それは復活のイエスの別の現れである聖霊の働きによる。

 その確信を持続させ、罪を犯してもなお、十字架のキリストを仰ぐだけで、罪の赦しを実感して立ち上がることができる。

  それゆえに、弟子たちの最初の福音宣教は、きわめて単純であった。それはイエスは復活した!であった。

 神はイエスを復活させた。それは、人々を悔い改めさせ、その罪を赦すために、イエスを導き手とし、救い主として復活させ、神の右に上げた。       (使徒言行録5の3031

 イエスは神と同じ存在となって、いまも導き、罪の赦しを与える存在となった。

 このように、十字架による罪の赦しということも、復活がなかったらあり得ないことであった。

 

 それゆえに、パウロは次のように言った。

 

… キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはなぜか。

 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である。

 キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にある。

 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者となる。

 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた。(Ⅰコリント15の12~19より)

 

 キリストの復活がない―それはイエスも人間であった、死にうち勝つ力は与えられていなかったということであり、そのような人間が万人の罪からの救いなどを与えることはできない。

 それゆえに、復活抜きでイエスを信じるというのは空しい、力なきものとなる。

 復活がないのなら、聖霊もない。聖霊とは復活のキリストにほかならないからである。

 復活のキリスト―それは死の力に勝利する力であるゆえに、最も重要な存在である。死の力にうち勝つほどの力が、復活を信じる人に与えられるのであるから、復活がなかったらあり得ないことであった。

 私たちのどうにもならない罪の本性―それは死んでいたといわれている状況ですらも、それにうち勝つようにと導いてくださる。

 

…さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。

 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによる―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。

 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰により救われた。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物である。(エフェソの信徒への手紙2章1節~8節より)

 

 このように、私たちは心の深いところ―真実や愛、正しさ、清さという点にまで神のそうした完全な真実や愛などの前には、まったく不信実で愛なきものにすぎない。学問や芸術、スポーツ、等々がどんなにできてもなおこうした心の状態は変ることがない。

 それをキリストは、復活のキリストとともに私たちをも復活させてくださった。復活させてくださったということは、聖霊をくださっていることと同じである。

 天の王座に着かせてくださったというのはあまりにも大きすぎて実感できないほどである。

 天の王座とは神の座であり、そこに着かせてくださったとは、神の力をくださっているということである。その程度には実に大きな違いがあるが、ともかくも神の御座に座らせていただいたということはその神の無尽蔵の力のいくらかでもいただいているということである。

 

 パウロも、自分のこの死のからだを何が救ってくれるのか、それこそキリストであると述べている。

 

…私はなんとみじめな人間なのか。死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるのか。(ローマ書7の24)

 そして、創世記の最初に記されている闇と混沌―それは死の世界であり、絶望の状態である。しかし、そこに神の言葉によって光が存在するようになったということ―それは死からの勝利、復活を指し示すものである。

 キリストの復活がなかったら、私たちの信仰は空しいものとなり、罪の赦しという最も大切なこともなくなる。復活抜きのキリスト教を伝えることも無駄となる。

 このように、キリスト教信仰においては、復活がないのならすべては無になるというほどに重要なものである。

 もう一つ、パウロが力を込めて、それがなかったら無であるといっているもの―それが「愛」である。

 どんな学者であっても、また巧みな話しをしても、さらに人のためにわが身を焼くほどの行為であってもなお、愛がないことがありうるという。

 ここでいう愛とは、通常よく言われる男女や親子の愛でなく、無差別的な神の愛を言う。

 

…たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(Ⅰコリント13の3~4)

 

 キリストの復活がなかったのなら、すべては無意味になるとともに、愛がなかったら、無に等しいという。

 復活と神の愛は結びついているからである。神はキリストを復活させた。それは全人類に、死の力に勝利する力を与えようとの愛の御心からだった。死とは闇であり、文字通りの絶望の世界である。しかし、復活とはそうした闇にある人たちを新たにする力を世界に示した出来事だった。

 復活がないということは、死によってみな滅びてしまうということで、死の苦しみにある人たちはそのまま永遠に闇に沈んでしまうということになる。

 愛とは、そうした死の闇から救いだす力である。

 

 復活とは、すでに述べたように、罪に汚れて死んだ状態にあった私たちが、その罪赦されて新たにされた状態についても言われている。(エペソ書2の1~8)

 そして、この肉体の死後に、キリストの栄光の姿、霊のからだに復活させていただけることが、本来の復活という意味で記されている。

 

…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。

(フィリピ書3の21)

 

 さらに、復活は、この世界全体、宇宙そのものが新しくされることにつながっている。これもある種の復活である。新しい天と地へと復活するのである。

 主イエスは言われた。、

「天地は滅びる。(*

 しかし私の言葉は決して滅びない。」(マタイ24の36)

 

*)「滅びる」と訳されている原語は、パレルコマイ parerchomai であり、para(側)と erchomai(行く)から成る言葉であり、「過ぎ去る」pass away とも訳される。

 

 この言葉は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に共通して記されている。それほど重要とされたのである。

 この永遠とみえる宇宙、天地さえ滅びるもの、過ぎ去っていくものと言われている。しかしそれが根本的に変えられ、新しい天と地となると約束されているのである。いかなる滅びの力、死の力が迫って来ようとも、それらすべてに勝利して新たな天と地となって復活する―ということなのである。

  その新しい天と地の世界には、現在のような太陽も必要でなくなる。神とキリストが太陽となるからである。(黙示録2123225

 私たちの復活においても、この肉体は必要でなくなる。それはキリストのような霊のからだが与えられるからであり、キリストの栄光の姿と変えられるからである。

 

…自然の命の体として蒔かれ、霊の体に復活する。 …自然の命の体があり、次いで霊の体がある。(Ⅰコリント15の44~45より)

 

 このように、古く滅びてしまうようなもの、実際に死んでしまったものさえも新しい命を与えるという復活の真理は、聖書全体において記されている。旧約聖書ではとくに詩篇やヨブ記、イザヤ書、ダニエル書など部分的であるがそれでも、この復活の真理は予告されている。

 この復活の真理をキリストは、一言で語られた。

 

…イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11の25~26)

 

リストボタン「永遠の平和のために」カント著より

 

 政治は、「正(正義)なり」と二千五百年ほども昔の中国の哲学者(孔子)が語ったことは前月号で述べた。

 今から三百年ちかく昔に生まれた哲学者カントは、「正」と通い合う意味をもっている「誠実」ということの重要性を次のように述べている。

 

「誠実は、いかなる政治にもまさる」―これは、どのような異論をも超越しているものであり、それどころか、政治の避けて通れない条件なのである。(カント著「永遠の平和のために」)

  EhrlichkeitistbesserdennallePolitik, uberallenEinwurfunendlicherhaben, ja die unumganglicheBedingungderletzteren.

Kant:Zum ewigenFriedenより )

 

 このように、正しさや誠実、正直といった一人の人間において重要なことは、人間の集団においても同じようにその重要性は変ることがないのを示している。

 他者に対して誠実、正しくあろうとして、他者を殺すなどということはあり得ない。

 しかし、人間の集団となったとき、そのような人間の命を奪うという行為(戦争)を大々的に行なってしかもそれを正義の戦争だとか聖戦だと主張することが行なわれてきた。そのようなことは大きな間違いであることは、本来誰しも感じるはずのことである。

 

 また、自分の国の平和と安全のためと称して軍備の増強をするということは、昔からなされてきたし、現在の日本でも、不可欠のように言われている。中国もさらに軍事力を増強し、日本においても、防衛費は増額を重ねている。そのために、莫大な経費が投入されている。

 しかし、このような考え方は、歴史的にみても、本当の平和に至ることはなく、かえって徐々に平和の破壊の準備ともなってきた。(*

 

(*)例えば、歴史上最初の世界大戦となった第一次世界大戦への道を作ったのも、軍事力を増大させるという各国の方針であった。1898年、ドイツは、海軍の軍備拡張をすすめる海軍法を制定し、その後ドイツは軍艦を次々と建造していった。このような状況に接して、イギリスも軍艦を増強しはじめ、軍艦の建造の競争という状況となった。そして周辺の国々も軍備を拡張していき、第一次世界大戦への導火線となった。

 また、第二次世界大戦がはじまる前段階として、ドイツと周辺の国々の軍拡競争が次第に激しくなり、日本とアメリカにおいても、戦艦や空母の建造でより優位に立とうとする軍拡競争がなされていた。第二次世界大戦はそうした延長上に生じている。

 

 このような軍備の増強、拡大は決して本当の平和へと結びつかないことは、昔から言われていた。

 先ほど引用したカントは同じ著作で、次のように書いている。

 

…常備軍は、時とともに全廃されるべきである。

 なぜなら、常備軍はいつでも戦えるよう、すでに十分戦備を整えているので、ほかの国に戦争の不安を感じさせるからである。

 そのために他国を刺激して、おたがいにかぎりのない戦備の拡張によって他国の優位に立とうと努めさせることになる。(前述書第一章3より)

 

 国を守るためには軍備増強は不可欠なことだと考えられていた時代に、このような軍備は全面的に撤廃されるべきだという考えが明確に主張されている。

 これは、キリストの次の言葉の延長上にあるのがうかがえる。

 

…イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ福音書26の52)

 

 剣―現代でいえば、軍備をもって平和を獲得するのだというものは、軍備が起こした戦争によってそのような思想が間違いであることを示されてきたし、最終的にそうした武力の行使たる戦争によって、あるいはそうした考え方そのものによって滅びてしまう。

 このことは、核兵器の増強がなされてきた現代にあってはさらに重要である。

 二千年前に、真理の言葉として言われたイエスの言葉は、今日ますますその重要性が浮かび上がっている。

 憲法9条こそは、軍拡競争によっては破滅に至るほかはないということを、おびただしい犠牲によって知らされた結果生まれたものであり、そのはるか源流にキリストの言葉があり、さらにキリスト以前700年ほども昔の預言者イザヤが受けたつぎの啓示にすでにみられるほど、長い歴史をもっている。

 

…主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし、

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、

もはや戦うことを学ばない。

ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。(イザヤ書2の4~5)

 

 それは神のご意志である。 人間のうつりゆく考えにすぎない言葉が あたかも真理であるように言われるときこそ、永遠に変わらない真理のみ言葉の重要性が浮かび上がってくる。

 現在の沖縄の基地問題も、結局は、軍備を重要とするゆえに、アメリカの軍事的要請を受け入れ、沖縄に圧倒的な基地を置いたままとなっている。日本の政府は、集団的自衛権を行使してアメリカの軍備の肩代わりをしていく方向にあるゆえに、沖縄からアメリカの基地をなくするという方向に進まない。

 軍備によっては本当には守られることはないのは歴史を振り返れば明らかなことである。

 自国、国外を問わず、真実を重んじる姿勢、誠実さや弱者に手を差し伸べるといった精神こそ、真に国、国民を守る道である。

 安倍政権は、地方を重視、地方創生といいながら、沖縄という地方の県民の切実な声を本気で聞こうとせず、権力と金の力で押しつけようとするのは、原発にかかわることでも同様であった。

 沖縄県で、知事選、那覇市長選などで、ともに自民党が支援する候補が敗北したということ、これほど明確な地方の意思表示はないにもかかわらず、それをくみ取ろうとせずに無視して進もうとする姿勢に政治の貧困と精神の貧困を思わせるものがある。

 主の光の中を歩もう。―これは、現代の私たちキリスト者に向けて呼びかけられている言葉でもある。この世の光のように見えるものでなく、永遠の主の光の中を歩むことこそ私たちに求められている。

 


リストボタンことば

 

(383)何か善きこと

 あなたは、出会う人ごとに、何か善いことがあるようにと願っているか。

 もしそうならば、あなたは人間らしい人であり、思いやりのある心の持ち主であるが、そうでなければあなたの言葉はただ口先だけのおしゃべりである。(ヒルティ著・「眠られぬ夜のために」第2部6月5日より)

 

・何か善いこと―Something Good を常に誰に対してでも祈り、願うこと、そのようなことは以前には考えたこともなかったが、聖書の世界を知るようになって、遠い昔からじっさいにそのように、生きている人たちがいることを知らされて驚かされた。

 マザー・テレサも「何か美しいもの」Something Beautiful

を―と言っている。そのタイトルの本も出版されている。

 神は私たちに、つねに、Something Good そして Something Beautiful を、自然を通し、またさまざまの人間を通して、私たちに提供し続けておられる。

(384)

 あなた方は、しばしば「与えてもよい。しかし、それに値する者にだけ」と言う。

 しかし、あなた方の果樹園の樹々は、そうは言わない。(「預言者」カリール・ギブラン)

 

・神が創造された自然―山野に咲く野草の花々、樹木のたたずまい、またここに言われている果樹、そして青く澄んだ空や美しい山々や川、海などの景観―それらはすべての人たちに提供されている。

 だれでも自由にそこからその清さや美、あるいは力などをくみ取れるようにされている。

 人間はいつも限界を定めようとするが、神の愛は無差別的である。私たちが心を開けば開くほど、また霊の目が開かれるほど、年齢や学問の有無、職業などにかかわりなく与えられるようになっている。

 

(385)

聖書について批判的であるな。

聖書をしてあなたを批判し、裁かせよ。

 

Don't be critical of the Bible

Let the Bible criticize and judge you.

 

・聖書について批判的である―、キリスト者でなければ、そうなるだろう。しかし、キリスト者となっても、この部分は誰が書いた、本当の著者は〇〇である等々、いろいろと注解書を読んで批判的に読む人たちもいる。そうした知識も時に必要な時もあるが、そのように読むことに力をいれていると、いつのまにか聖書の相当部分が人間的なものだと思うようになり、聖書の一部だけが神の言葉であるように思ってしまう―ということにもなりかねない。そして、神の言葉としての力がそこから受けられなくなっていくことがある。

 聖書を全体として聖霊によって導かれ、そして記された「神の言葉」であると信じて受けとるとき、それは批判すべき本でなく、まず、私たちが限りなく尊重すべき書であることがわかってくる。

 聖書は私たちの数々の間違いを指摘してくれるだけでなく、その間違い(罪)を赦してくださる道を示し、さらにその道を歩んでいく力もこの書には秘められている。

 その中の言葉は、現代に生きてはたらく真理だとわかってくる。

 キリストを人間だ、過去の偉大な人物の一人だと見れば、ほとんど現代の私たちに力を持たない。

 しかし、キリストはいまも生きて働いておられる神だと信じ、実感するとき、日々の私たちに比類のない存在となってくるのと同様である。

 


リストボタン編集だより

 

 今月は、予想外のことも生じて、書き上げる時間がなくいつもより少ない頁数となっています。

 イースター(復活節)は、4月5日であり、春という季節そのものがとくに日本では、復活の命を日々感じさせるときでもありますので、今月は、復活に関して書きました。

 日々新たに生まれ、死後は主のように復活させていただけるということ、さらにキリストの再臨によって新しい天と地となる希望が与えられているということは、かけがえのない恵みです。

 


リストボタン来信より

〇「いのちの水」誌3月号にて、「政」(政治)とは「正」なり、を読み、まさしくそのとおりと思いました。

 約40年余り前私はアメリカへ留学していました。

 アメリカで生活していると、様々な場所で、南北戦争(Civil War)という歴史的大事件が様々な場所でよく解説あるいは説明されていて目につきます。…

 ワシントンの国会議事堂の前の長い公園を挟んで、約2km程先の向かい側に大理石のリンカーン記念堂があり、大きなリンカーンの座像が遠く向かいの国会を見据えていました。台座には亡くなる半月前の第二次大統領就任演説の全文が彫りつけてありました。永久保存なのでしょう。

 リンカーンはその演説で「南北戦争は他人が額に汗して得たものを、無償で奪い取ること(奴隷制度)を長いこと続けてきた悪行に対する神の罰である」と言い切っています。

 リンカーンの死後、政治的、形式的奴隷制度は無くなりましたが、残念なことに生前のリンカーン大統領が目指していた経済的平等(真の実質的平等)達成の政治活動は今だに全く効を奏さないばかりか、年々貧富の巨大な格差がますますひどくなってそれが世界人類にも影響して大きな不和と争いを引き起こし始めています。

 私はアメリカにいた時から、人々に今も大きな強いインパクトを与え続けている南北戦争や国会を見据えているあのリンカーンの彫像はアメリカの社会に一体どういう意味を問いかけているのだろうかと考え続けました。でも自分を納得できる答えは出てきませんでした。

 さらにこの疑問を日本へ帰国後も私は解答を求めて長く考え続けました。約10年ほど経過した時にある時ふと考えついた答えは、「政治には絶対に道義が必要である、政治は正しいものでなければならない。」ということをアメリカでは南北戦争という世界史的大事件を通じて、あるいはリンカーン大統領の信念を通して、人民のための政治の有るべき姿を人々や子孫に思い起こさせているに違い無いということでした。

 ”政治とは「正」なり”を拝読して、このことを思い出しました。(九州の方)

 

〇「ヨハネによる福音書」の講話(*)を聴かせていただいてます。

 ていねいに説明してくださるので イエスさまのそば近くに、その時代その場所にいるようなみことばが近くに感じられ 喜びに満たされ楽しみにしています。(四国の方)

 

*)吉村孝雄による聖書講話CDシリーズ(MP3)。CD5枚セットで販売しています。(価格は二千五百円)

 インターネットでの徳島聖書キリスト集会のホームページでも聞くことができます。(無料)

 


リストボタンお知らせ

〇第42回キリスト教 無教会 四国集会

・主題…「復活の命」

・日時…5月16日(土)~17日(日)12時。

・会場…道後友輪荘

・会費…全日参加  九千円。(一泊二食、写真代金含む)

・部分参加等問い合わせ

               …小笠原明

 

〇講演会

(キリスト教独立伝道会主催)

・日時 4月29日(水・祝日)

・会場 YMCAアジア青少年センター3階(東京都千代田区猿楽町2の5の5)

記念講演 15時~16

 講師…吉村孝雄

「神の言葉―その光、命、力」  懇談 16時~17