いのちの水 第652号 (毎月1回発行) 2015年6月11日発行
ああ、幸いだ。悲しむ者は。 なぜならその人は、慰めを受けるからである。(マタイ福音書5の4) |
朝起きたとき、まず何を思うか、まず神のことが思われるとき、その人の人生は勝利だ―スイスのキリスト教思想家ヒルティが書いていたこのひと言はもう四十年以上も昔に読んでから折々に思いだされる。
眠れなかった夜、病気などで苦しみや痛みの続いた夜、心労が絶えないときには、朝も重い心が残っている。
そのようなときでも、主を思い、主に祈ることでまず神のことを思うという道は開かれている。
だれでも、感謝どころか不満や悲しみ、不安などはいくらでもあるだろう。しかし、感謝できることも、たくさんある。 「数えてみよ、主の恵み」 という賛美がある。まず、夜が眠れたらそれも大きな感謝である。たとえそれが少ない時間であったとしても、心安んじて眠れない人たちも無数にいる。病気の重い人、自分や家族に深刻な問題抱えているとき、仕事などで苦しむとき―さらに事故や災害、そして紛争、内戦のような状況にある外国に見られるように、難民となって水、食糧すらない人たちには安眠もできない。眠れる場所がある、というだけでも、また目が見える、手が使える、足で歩ける、立ち上がれる―等々一つ一つできない方々もたくさんいることを思うとそうしたごく身近な一つ一つが感謝できることになっていく。
無意識に行なっている私たちの呼吸すらも感謝できることになる。肺などの病気で、呼吸が苦しい方々、人工呼吸器付けている方も私たちの集まりにもおられる。
福祉の制度もなく、食べ物や医療も受けられない―絶望的な状況で死んでいくような人たちも、外国には多くある。
不満に思うこと、苦しいこと、不安なこと、人間関係の不愉快なこと等々は、どんな人でも―傲慢な人、心優しい人、そして子供から老人まで、あるいは神を信じているかどうかにかかわらず、いくらでもすぐに心に浮んでくるだろう。
けれども、感謝することは、意識的に探す心がなかったらなかなかできない。みな当たり前だ、などと思ったりする。
神を信じない人も小さなことに感謝して心安らかに過ごしている方々もいるだろう。しかし、自分の将来、この日本、いや世界の将来など考えるとき、いろいろとその実態を知れば知るほど漠然とした暗い雲が増大していく。
すべてのことを最終的には良きにしてくださる愛の神、真実であり、かつ全能の神を信じているとき、日常の小さな一つ一つが神から与えられた賜物だと受け取り感謝し、またいかに将来のことが不安なことばかりであっても、すべての決着は神様がつけてくださる、しかも最善にしてくださるということを信じてはじめて私たちは安らぐことができる。
不満も苦しみや恐れ等々、そうした困難のただなかに置かれつつも、すべてを委ねていく信仰と、そのすべてを良きにしてくださるという希望、そしてどんなに失敗しても罪犯しても、静かに立ち返るたびに赦しを実感させてくださる主を与えられていることはなんと幸いなことだろう。
本当によきことは自分の力では何もできない、しかし、主がしてくださる。その単純な信仰を持って歩ませていただきたいと思う。
… ああ、幸いだ。心貧しき人!
なぜなら、その人には、天の国が与えられるからである。 (マタイ福音書5の3)
この短い主イエスのひと言は、私たちの人生を包む深い意味が込められている。
私たちは何かに従って生きている。小さいときは、両親、とくに母親に、そして保育園や幼稚園、学校の教師に、そして周囲の習慣、伝統、さらに、国全体の決まりである法律に従っている。
さらに、世界のすべての人間が必ず従うようになっているものがある。それは自然の法則である。これは人間だけでなく、地球上の生物、無生物を問わず、さらには、宇宙全体がその自然の法則に従って動いている。この法則は人間が作ったものでないから、全能の神を信じない人は、単に偶然的にそのような法則ができたのだ、としか説明のしようがない。
この地上の世界のあらゆるものは、さまざまに日々変化している。春になって新緑に覆われるとき、無数の複雑な化学反応が一枚一枚の葉の中で行なわれている。単純な化学変化―例えば、水素は酸素と反応して水を生じる、それも二個の水素分子と一個の酸素分子が結合して二個の水分子になる、このようなこともみな自然の法則に従って生じているが、生物の体内においては、それよりはるかに複雑なさまざまの化学物質が反応して生命が維持されている。
そのような実験室でなければ分からないようなことでなく、私たちがいま生きているとき、万有引力に従って、地球からある力で引き寄せられていて、それは私たちのからだのすみずみまでその力に引っ張られつつ生きているのである。食物をうまく飲んだり食べたりできるのもそうした引力が働いているからである。
この力は、二つの物の距離の二乗に反比例し、それぞれの質量に比例する力、というように数式で表現できる。これがなぜ、距離の三乗でないのかなどはまったく分からない。二乗に反比例するという法則がはじめから存在しているのである。
うっかりするとこのような法則をまったく忘れてしまい、自分は自分の力で生きているのだ、などと考える人がいる。万有引力がなかったら、そもそも地球が太陽の周りを回っているのも、そして太陽の光が地上の生物を支えているのも、万有引力ゆえに、地球が太陽と一定の距離を保って回転しているからであって、万有引力がなかったら、一瞬にして地球は太陽から離れて宇宙に飛び去ってしまう。地上の大気も人間もみな宇宙空間に霧散してしまう。引力の法則に従っているからこそ、太陽の光が存続し、この地上の大気も、生物もみな存在しているのである。
こんなことは、日常の生活で考えたことはない人が大多数であろう。
このように、生まれたときから、私たちは意識的、また無意識的に何かに従って生きるようになっている。
科学技術で何でもできるようになる、などと考えたりする人がいるが、こうした法則そのものは、人間が変えることなど不可能である。科学技術もいっさいがその科学的法則(真理)に従ってなされているからである。さきほどの万有引力の法則で、なぜ二つの物体の距離の2乗に反比例するように創造されているのか―そのようなことはそもそも科学では答えられないのである。科学は、そうした法則を土台としてなされているものだからである。
そして人間は、星や太陽の動き、地上のさまざまの自然現象から、自然の世界に何らかの決まった秩序があることは古くから気付いていたが、それが数式で表現されるというようなことは考えられたことがなかった。それにはじめて部分的に気付いて、惑星の動きという限定された領域ではあったが、その動きを数式で表現したのはケプラーであり(*)、また、それを用い、さらに自らが発見した法則をも用いて、万物に及んでいる法則を見いだして数式で表現したのがニュートンであった。
(*)ケプラーはドイツの天文学者。(1571~1630)彼は、共同研究者であったティコ・ブラーエが20年間も観測を続けた膨大かつ精密な惑星の観測データをもとにして、神は必ず宇宙を整然とした法則によって創造したのだという確信によって、それらのデータから、惑星の運動に関するケプラーの法則を見いだしたのであった。
現在の多くの人たちは、このような自然法則が存在することは、理科教育で学んで知っている。しかし、ニュートンがそのような法則を見いだしたのは、いまからせいぜい400年ほど前である。
そのような自然界の法則より、はるか昔から人間の一部に啓示されていた法則がある。それが、目に見えない精神世界の法則、言い換えると霊的な法則(真理)である。
この法則は、自然科学の万有引力の法則と全然違うように見えるが、ある種の共通点がある。
それは、両者とも永遠の昔から存在していたことである。つぎに、歴史のある時期に、そのような法則(真理)が示されたということである。自然科学の法則に関しては、特別な天才がその能力を駆使して見いだした。しかし、その能力も人間が造り出したのでなく、神が与えたものであった。
他方、精神世界の法則―霊的な法則は、神から直接にごく一部の人間に啓示され、それが伝えられていくことになった。
真理とは、法則である。科学に関する万有引力のような法則とは永遠に変わらない。人間に関する精神世界の真理も同様である。
自然の法則には私たちは、無意識的に従っている。従わないということはあり得ない。人間が造り出すあらゆるものはすべてその科学的法則に従って作っている。
そして、精神世界の法則は、聖書全体にわたって記されている。聖書の巻頭にある言葉―闇と混沌のただなかに、光あれ! という神の言葉によって光が存在するようになった。そしてそのほかの万物も神の言葉によって創造されたということが記されている。
それは、神の言葉によって万物が創造された、それゆえにまた神は現在もその万能の力で維持し、さらに日々新たなものを創造されているということをも含んでいる。
このことが、法則であり真理である。神の言葉のそうした無限のエネルギー、力というものを表しているのである。
このように、この宇宙のすべてが、人間も、地上の生物もまたこの宇宙万物も、目には見えない法則(真理)に従っている。
こうした目には見えないものに従うということ、それが人間の世界では、その法則というのが、聖書に記されているということができる。
自然の法則、例えば、万有引力や運動に関する法則、電気のプラスマイナスの力に関する法則、化学変化に関する法則等々に対しては、人間の意志にかかわらず、生まれたときから、必然的に従っている。このような法則に従わずに生きるなどということはそもそも考えられない。
これに対して、精神世界の法則は、人間は従うことも従わないことも自由に選べるようになっている。そして、聖書には一貫して従うことの重要性が記されている。そして従わないことから、あらゆる災いが生じる。その法則が繰り返し記されている。
それはすでにエデンの園におけるアダムとエバにおいても見られる。
人間は、真に従うべき対象である神のことを忘れてしまって、自分中心に考え、行動しようとする。
アダムとエバも、神の言葉に従うのでなく、誘惑するものに聞いてその言葉に従ってしまった。
カインも、ねたみと憎しみという人間的感情に従って アベルを殺害するという大罪を犯した。
ノアのときの大洪水も、人の考えることは悪しきことばかりであったために、そしてそれを改めようとしないため、滅ぼされた。ノアだけが神に従うことを第一とした。
後の時代に重要な影響を与えたアブラハムもまた、従うことからその大きな影響力を与えられていった。
キリスト教とともにヨーロッパ思想、そして世界の哲学思想に根源的影響を及ぼしてきたソクラテスは、悪法も法であるとして、間違った裁判にあえて従って毒杯を飲んで死んだ。彼は、彼の主張を止めよと言われても止めなかった。その点で命をかけて従わなかった。他方 みずからが受ける苦痛、死刑を、法に従って甘んじて受けた。
(これらのことは、プラトンが記した「ソクラテスの弁明」、「クリトン」という作品に詳しく記されている。)
このような、従うことと従わないことに関しての、完全な模範がキリストであった。イエスは、当時の固定化した安息日や食事前に手を洗うこと、異邦人との交わりによって汚されるといった誤った考えなどをはっきりと指摘した。そして、神殿が、神への祈りの場であるにもかかわらず、その機能が失われていること、律法学者や祭司たちの腐敗を指摘することは、止めなかった。
他方、そうした間違った人たちが、イエスを憎み、十字架による死刑を決めたことについては、イエスはそれに逆らうことなく、みずからの命をもって従った。
ここに従うことと従わないことの根本がある。
人間の本性は、苦しいことには従わない、そして安易な方向を求める自分の本能的感情、自分の考えに従おうとする。
神に従うという根本なくして、批判だけをしていても自分も相手をも変えることができない。
主イエスは、神に従うことを根本とした上で、地上の権威や立場が上にある者に従うことによって、そしてしばしば大きな苦痛をも主からのものとして受けることによって、自分も他者をも変えていく道を示された。
じっさい、キリストは万能であったから、天の万軍をも呼んでユダヤ人やローマ人とも戦って自分を捕らえにきた人たちを退けることはできたがあえてそのようになさらず、苦しみを甘んじて受けられた。それによって、世界が変えられていく道を開かれ、そしてじっさいに世界の歴史が大きく変えられていった。
なぜ、とくに、被支配者―一般の人々、奴隷、僕、妻といった人たちを強調しているのか。それは被支配者のほうが圧倒的に多いからである。権力者はごく一部であり大多数はそれに支配されている人たちである。キリストの福音はそうした弱い立場の人たちへのものだった。それは盲従でなく、明確に従うべきもの―神とキリストを与えられていた。
そうした支配者が悪しき者なら、その悪と霊的な戦いを常に持っていた。言い換えると、霊的(精神的)には常に従うことなく、内なる戦いをたたかっていたのである。
奴隷、僕に対しても、悪しき主人に力で抵抗してもいっそうひどく打ち据えられるだけである。それは双方にとって何らよきことにならない。それゆえに、まず僕の側でキリストを信じたなら、その悪しき主人が変えられるようにとの祈りと霊的戦いをもって接する。
それによって、じっさいに主人が変えられていったということが生じていった。
妻においても、横暴な夫に苦しめられること―それに直面したときどうするのか、現在では警察に訴えるということが可能である。しかし、長い年月にわたってそのような家庭の問題はどこにも訴えていくということができなかった。そうしたやり場のない困難のなかからキリストを信じる道が与えられた人たちは、そこからキリストを仰ぎ、その苦難のなかから、悪しき夫の言動に耐えつつ、祈りをもって対するという道が与えられた。
なぜ、神はただちにそんなわるい夫を変えてくださらないのか―そのような願いは数かぎりなくあるだろう。
しかしそれでも、そのようには変えられないことが多い。
このことは、人間関係だけでなく、病気、事故、災害―といったことにおいても同様である。
そのような病気や事故をどんなに運命をのろっても何もよくはならない。ふりかかってきた病気や苦しみを神からのものとして受け、それに耐える力と、その状況を洞察する力―聖霊による―を求め続けていくことがキリスト者に与えられた道となる。
その力を与えられた上で、可能な手段を見いだし、働きかけていくということである。
それは単に忍耐を勧めるのでなく、神への信仰を強め、自分に与えられた力をもって相手をもいっそう心を込めて祈り、神からのめぐみを受けるように、変えられるようにとの心をもっていくことである。
御国がきますように、というのは こうした事態においても、常にいのる内容となる。パウロがたえず祈れ、どんなことにも感謝して祈れ―ということはとてもできないと思われるようなことだが、それは、困難なときにも神が必ず最終的にはよきことをしてくださると、見えないことを信じていく道である。
現在の日本は、70年続いた憲法9条(*)に基づく平和の精神が大きく崩されようとしている。
(*)日本国憲法は1947年交付。
今までにも徐々に、9条の精神はたえず攻撃されて、徐々にこの精神を骨抜きにしようとする動きが続いてきたが、それでも、自国の安全にかかわるという理由のもとで、外国に自衛隊が行って他国とともに武力行使をするということは、いかに考えても憲法9条に反するのは明白であったから、歴代の首相も集団的自衛権は行使できないとしてきた。
しかし、今回、去年の7月はじめに政府は、集団的自衛権は行使できないという当然のことを変更して、 それを可能とするという戦後70年の歴史において最大の方向転換を決めてしまった。
本来、専守防衛ということも、本来自国が攻撃されたときだけに武力を持って守るということである。
(*)「他へ攻撃をしかけることなく、他から自己の領域が攻撃を受けたときに初めて、その領域周辺において自己を守るためにのみ武力を用いること。」 (大辞林)
しかし、そのような自明と思われることさえも、解釈を変更して、遠い外国の地域での何らかの紛争―石油を積んだタンカーが通過する海峡での危険があるときに、その危険をもたらしている国の基地をも武力攻撃することまで、専守防衛だ、などということを言い出した。
しかも日本の存立がおびやかされるなどということを繰り返し国会で首相は言っているが、
この表現はもともと自民党が考えていたものではなかった。
公明党はもともと2013年の参議院選挙のとき、山口代表は、「集団的自衛権には断固反対」と言っていた。しかし、それを迫る自民党の圧力に対して、次の三つの条件のもとでの集団的自衛権の行使を認めるに至った。
その3つの条件とは、第一に、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態。これが中心でほかに適当な手段がない、武力行使は最小限度にするというのが加わっている。
解釈の変更を早く実現したい自民党は、この公明党の提案を受け入れた。そしてそれまで反対していた公明党もあっさりと受け入れた。そして、この3条件、とくに最初の存立危機事態というのが厳しい歯止めになっていると首相は、繰り返し国会で答弁していた。
公明党がもともと集団的自衛権は断固反対という立場を変更して、自民党に妥協するために、言い出したものであった。それを自民党は、そのまま受け入れたのだが、その公明党が言い出したことをあたかも中心的な重要性を持っているかのように、何度も何度もうんざりするほど国会での答弁で用いていた。
国の存立危機事態というと、大変なことだというイメージがあると考えられて、このように国民の疑念を薄めるための方策として利用するようになっている。
国民の多数が、集団的自衛権によって戦争に巻き込まれるという疑念を持っているのでそれを何とか鎮めようと、この言葉を多用しているのである。
本来、憲法9条の精神とはいかにしても相いれない他国に対する武力行使に関して、自民党の主張を受け入れさせるために、公明党が言い出したことを利用しているのである。
そして、存立にかかわる危機事態の例として、ホルムズ海峡での危機事態をあげている。石油が入らなければ日本の存立危機事態なのだと、繰り返し語っている。
しかし、石油は日本には半年分の備蓄がある。さらに、風力や太陽電池のようなエネルギーの割合が今後ますます増大するのであり、その政策をいっそう推進させることも本来できるはずである。それゆえに、もしもホルムズ海峡に問題が生じても、決してただちに日本の存立の危機となるのではない。
それにもかかわらず、そのようなことを例示して集団的自衛権を用いて武力行使をすることがありうるのだと主張している。
このように、もともと存立危機とはどんな状況なのか、明確なことは言えないのを条件としているから、解釈を次々と拡大させていくことが可能になっている。
今回の解釈変更によって集団的自衛権を使うため、武力行使を認めていくという方向の延長上には何があるのか、武力で問題を解決しようという姿勢であるゆえに、どのような報復的武力、あるいはテロなどがなされるのか誰も分からない。
日本の憲法9条は、戦後70年の間、自衛隊を正式な軍隊として、武力を用いることができるようにしようとする暗雲が迫ってくるのを、何とか払いのけて、日本が武力の行使―戦争に巻き込まれるのを防いできた砦であった。
ホルムズ海峡を守ることが、日本の存立にかかわる危機事態だ、などという考え方は、戦前に「満蒙は日本の生命線」だと称していたのを思わせる。
そしてその満蒙の問題を武力で解決しようとして満州事変を起こし、それがさらに日中戦争という15年にもわたる長期の戦争、太平洋戦争へとつながる破局へと向っていくことになった。
このようにまだせいぜい70数年前の歴史的事実をみても、武力で解決をしようとすることは、だれも想像できないような重大な事態へとつながりかねない。
しかも、今日ではかつては想像もしなかった核兵器や原発が大量に存在する時代となっている。核兵器が使われなくとも、原発を破壊するだけで、日本は壊滅的打撃を受ける可能性が大きい。
軍事の増強に伴う危険は、以前よりはるかに深刻だと言える。
首相や自民党の主張は、軍事力を増大させて戦争に対する抑止力を高めるというが、それ以上に、他国の軍備競争を高め、より軍事力がもちいられる危険性が増大し、さらには大規模戦争に至ったという歴史の教訓が認識されていない。
ユネスコ憲章の前文は、次のような言葉がその冒頭に置かれている。
…戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
Since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defences of peace must be constructed;
ユネスコ(*)は、第二次世界大戦終結後間もない1945年11月に国連教育文化会議で定められた。
(*)United United Nations Educational,Scientific and Cultural Organization
(国連の教育と科学、そして文化の組織体の意)
それゆえに、世界歴史で最大の規模での悲劇、苦難を二度と起こさないためにという切実な気持ちが現れている。
あのようなヨーロッパでもアジアでも数千万人が死んだり、障がい者となったり、生涯を苦しみで終えた人たちなど無数に生み出した戦争の出発点が、人間の心の中にある、という洞察がある。
単に、国家の一部の者たちの間違った判断や行動だけにあるというのではない。そうした間違った行動を考える人間の罪は、本来どのような人間の心にもその奥深くに潜んでいるのである。そうした欲望をかなえられるような地位や状況に置かれたとき、その深いところに潜んでいたものが芽を出してきて、大きくなっていく。その延長上に戦争がある。
それゆえに、いったん戦争となると、人を無惨な仕方で殺害することにも何とも思わなくなるほどに変質していく。そしてそうした間違った方向を、支持しそれを宣伝する人たちの考えを簡単に受け入れていく。
それゆえに、一人一人の人間の心の中に、教育、科学、文化を通じてそのような争いあう心の芽をなくしていこうという精神でユネスコというものが作られた。
しかし、教育や科学、文化なども、しばしば間違ったものがなされ、用いられてしまう。日本の戦前の教育は、天皇を現人神として崇拝するという間違った教育を行ってきたし、科学技術も軍事力のために用いられた。
さらに、自国の文化を最善のものだとして、他国に強制する―神社参拝や、朝鮮を植民地として、朝鮮の言葉を禁じ、日本語教育を強制するなどの間違ったことをやってきた。これは自国の文化の悪用である。
このようなことをみてもわかるが、教育と科学と文化をいかに発展させるとしても、正しい方向にそれらを用い、導いていく力がなければ、人間の罪深い本性は、そうしたものをも戦争の道具とまでしてしまったという歴史がある。
聖書でさえも、旧約聖書の表面的な記述だけをとりだして、例えば戦争を肯定するなどが主張されたことがあった。しかし、そうした理解の仕方は、旧約聖書は新約聖書のキリストを指し示すという視点を持っていないという過ちを犯している。
主イエスは、そしてキリストの霊を豊かに受けた使徒パウロも、キリスト者の戦いとは、武力でなく、血肉に対するものでなく、霊的な戦いであることを明確に示している。(エペソ書6の15~20)
それゆえに、どのような時代においても、またいかなる状況にあっても、心の中に生まれようとする戦争へと続く悪しき心―互いに憎み、ねたみ、攻撃しあう心―を生まれないようにするため、あるいはそうしたすでにある悪しき心を追い出すためには、つねに揺らぐことなき真理の力が必要である。
心のなかの本当の砦とは何か、それが神であるということを、すでにイスラエルの一部の者は、数千年昔から啓示されていた。
…神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。(*)
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。(詩篇46の2)
(*)神こそは砦 という表現は詩篇には数多く現れる。それほどに、武力や権力、人間的な策略を砦とするのでなく、目には見えない神を砦として悪の力から守っていただき救いだしていただく、という確信があったのがうかがえる。つぎにその一部をあげる。
…あなたはわたしの大岩、わたしの砦。
御名にふさわしく、わたしを守り導き
隠された網に落ちたわたしを引き上げてください。
あなたはわたしの砦。(詩31の4~5)
…わたしの力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ。(詩篇59の18)
私たちに憎しみや感情的な怒り、報復の心が生じるとき、そのような悪しきものから守り、救いだしてくださるのは、神である。
必ず助けてくださる―それは言い換えると、必ずそうした暗い心、憎しみの心などから救いだして、そこに新たな清い心を入れて下さるということである。
そのような真実の神による新たな心こそ、平和の砦である。
それゆえに、主イエスは、いかなる人間的なものにも動かされず、変質もしない聖霊による導きを強調されたのであった。
聖霊こそは、私たちの魂の奥深いところで生まれる戦争を起こす心を打ち砕き、新たに生まれさせる力をもっているからである。
ユネスコ憲章の前文で言われていること、心の中に平和のとりでを築くこと、それは究極的には、活けるキリストにより、聖霊によって初めてなされることである。
新約聖書において、復活のキリスト―聖霊のはたらきが最も明確に記されているのは、使徒言行録においてである。
キリストを裏切って逃げてしまった弟子たち、そのままでは、弟子でありつづけることはできなかったし、3年間も主とともにいてあらゆる教えや神のわざをまのあたりにしてきたことも無になってしまいかねないことだった。
しかし、そこに復活の命そのものである聖なる霊が、激しい風のように吹いてきて彼らは一変した。
そして、その聖霊を受けてまず行なったのが、イエスが復活したという証言であった。
聖霊を受けるまでは、神の国のために立ち上がる力が与えられず、茫然としていたり、部屋にこもって鍵をかけていたりした。そして、イエスから人間をイエスのもとに集める漁師―すなわち人をとる漁師とされたにもかかわらず、ふたたびもとのガリラヤ湖の漁師に戻って漁に出ていくという状況であった。(ヨハネ福音書21の3)
それが全く一変して力を与えられ、生まれ変わったように命をかけてキリストを証しするようになって、十字架による罪の赦しとともに福音の中心であったキリストの復活のことをまず証言するようになったのである。
このように、聖霊のはたらきがまず何に現れたか、といえば、それは力が与えられ、キリストが生きておられることを証しすることだった。
イエスが復活したなどということを言ってはならぬ、と大祭司など最高の宗教的権威者たちからも命じられたにもかかわらず、ペテロは、「人間に従うより、神に従う」(*)といって止めることをしなかった。
(*)使徒言行録4の19、5の29
このように、新しいいのちを受けて、ただちにキリストの復活の福音伝道をはじめたのであった。それほど、復活のいのちをうけることと、他者に証しし、伝えようとすることは深く結びついていたのである。
このことは、パウロにおいても同様だった。 彼は、キリスト者を迫害し、殺すことまで加担し、さらに国外にまで出ていってキリスト者をとらえてエルサレムに連行しようとしていた。 そのさなかに復活したキリストからの直接の光と呼びかけを聞いて、彼は回心した。人間の説得や、キリスト者ステファノの雄々しい殉教の姿などをまのあたりにしてもなおキリストの福音にはまったく心を動かされなかったにもかかわらず、聖霊となったキリストからの光とそのひと言の言葉で決定的に変えられたのである。
このように人間を根本から変えるのは、人間の説得や教養、学問、あるいは経験などでなく、復活したキリストの光を受け、そのいのちある言葉を聞いたときだということが示されている。
このことは、特別な例ではなく、聖書全体が、本当の命―神のいのち(*)を指し示している。それはすでに旧約聖書からはっきりと言われている。
それは創世記の最初から、神の創造されたエデンの園には、その実を食べると死に至る木と、神に従っていのちを得る木(生命の木)が置かれていたことがそれを示している。
この世のさまざまのことを単に知るということだけでは死に至るという深淵な洞察がここにある。今日の科学技術―物質の根源となっている原子核に関して知るということを最大限に利用した核兵器、それと関連して生まれた永久的な害悪を持ちつづける原発、さらに、さまざまの科学技術による公害、環境の悪化、インターネットなどの悪用、ロボットや遺伝子操作などの発達はそれの悪用も同時に含んでおり、その行き着く先は何であるのか―単なる知識の実を食べようとするだけでは死に至るということを暗示しているのである。
また、モーセが受けた神の言葉として伝えられてきた旧約聖書の申命記という書物には、繰り返し、命の道と滅びの道のことが強調されている。
…見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。(申命記 11の26)
…見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。
わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
(申命記30の15~16)
…わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにする。 (申命記 30の19)
ここで言われている祝福の道とは、命への道、呪いとは、滅びの道であり、人間の歩むべき道とは命の道であることが繰り返し強調されている。
そして旧約聖書の後半期に書かれたヨブ記や詩篇において、この命は、この人生で死にうち勝って長く生きるという意味を越えて、死後においても新たな命が与えられることがすでに、まだ不十分な内容とはいえ、啓示されている。
…あなたは死からわたしの魂を救い、突き落とされようとしたわたしの足を救い、命の光の中に神の御前を歩かせてくださいます。(詩篇56の14)
…彼はわたしの魂をあがなって、墓に下らせられなかった。わたしの命は光を見ることができる』と。
見よ、神はこれらすべての事をふたたび、みたび人に行い、
その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる。(ヨブ記33の28~30)
…国がはじまって以来、かつてなかったほどの苦難が続く。しかし、その時には、あの書に記された人々は救われる。
多くの者が眠りから目覚める。
ある者は永遠の命に入り、ある者は、永久的な恥(裁き)を受ける。
目覚めた人々は、おおぞらの光のように輝き、
多くの人の救いとなった人々は、星のようになって永遠に輝く。(ダニエル書12の1~3より)
このように、旧約聖書のときからすでに、永遠の命、復活の命というものが部分的に啓示されていた。それは、究極的には、キリストを指し示すものである。
地上に生きていたときのキリストは、死んだと同然とみなされていたハンセン病や生まれつきの盲人、あるいは悪霊にとりつかれて墓場で生活していたとか、立つこともできない人たち―に新たな命を与えた。
これは、死者をよみがえらせるということの象徴的行動であった。
さらに、そのよう特別な病気や心身の障がいの人たちだけでなく、人間はみな、キリストの命の光を受けないかぎりは、みな罪のために死んでいたのだと言われている。
…さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、
その愛によって罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。
あなたがたの救われたのは恵みによる。(エペソ書2の1~6より)
このように、死んでいた者を新たな命に復活させて、天の王座につかせてくださったという。これは信じがたいような表現である。弱き私たちがどうして天の王座―そこには神とキリストがおられる―に着いているなどといえようか。
私たちが死の状態から復活の力をいただいて霊的に生き返ったということは、死にうち勝つ力を与えられたということである。
そのような力は神とキリストだけが持っている。そしてキリスト者はその死にうち勝つ力を与えられたゆえに、王のごとき力を与えられているということなのである。
このように、神の命によみがえらせていただいたのがキリスト者であるが、それでもなお、正しいあり方―神の愛や真実、正義などにふさわしい生き方がいつもできるかというと決してそのようにはいかない。
たえず、狭い人間的な感情、自己主張、あるいは他者に認められることや、自分の知識、技術、能力、地位などを誇ろうとするような気持ち―自分の考えが一番よいのだ、といった罪の思いが入り込んでくる。
このようなどうすることもできない人間の実態に対して、使徒パウロが神から示されたことは、聖霊が私たちのために、真剣に祈ってくださっているということであった。
このことを次のように繰り返し強調している。
…霊(聖霊)も弱い私たちを助けてくださる。私たちはどう祈るべきかを知らないが、霊みずからが言葉に言い表せないうめきをもって執り成してくださるからである。
…霊は、神の御心に従って聖徒たちのために執り成してくださるからである。
(ローマ8の26~27より)
この聖霊の私たちへの祈りのことは、日本語では「執り成す」と訳されている。しかし、この言葉のもとになっている原語(ギリシャ語)は、日本語の「執り成す」とは、かなりニュアンスの異なる意味を持っていて、「祈る、願う、訴える」というニュアンスを持った言葉である。(*)
しかし、そのようなことはほとんど考えたこともないし、そんな祈りを実感したこともない、という人が多いのではないだろうか。
私自身、ローマの信徒への手紙に記されているこの箇所の深い意味を知らされていくまでは、聖霊が、私たちのために深い祈りをしてくださっているなどということは考えたことがなかった。
ヨハネ福音書に記されているように、聖なる霊がこの世に存在して人間に働きかけて、キリストを信じるようになったりする―私が信仰を与えられたのもそのような聖霊が風のように吹いてきて、一冊の本のわずかな箇所から光を与えられた―このようなことは、聖霊は風のように思いのままに吹くという主イエスの言葉どおりであったので、よくわかる。
しかし、その風のように吹く聖なる霊が、私たちのために、うめきながら祈る(執り成す)というほどの切実な愛をもってしてくださっているなどとは思ったこともなかった。
(*)執り成す。エンテュンカノー entugchano これは、「執り成す」 と訳されている。
しかし、日本語の「執り成す」とは、次のような意味であり、祈るというニュアンスはない。
① めごとの中に立って、仲直りをさせる。仲裁する。 「両者の間を執りなす」
②
②なだめて機嫌よくさせる。その場をうまくはからう。 「なんとかあなたから執りなしていただけませんか」 (大辞林)
不和・争い・叱責など激しく対立する双方の間に立って、その場の気まずい空気をうまくまとめる。「けんかを 執り成す」
「母がいろいろ執り成してくれたおかげで父にしかられないで済んだ。」 (新明解国語辞典)
このギリシャ語は、新約聖書では、5回使われていて、そのうち3回はローマの信徒への手紙、あとは、使徒言行録25の24(訴える)、ヘブル書 7の25 (執り成す)である。
…エリヤはイスラエルを神に「訴えて」こう言った。 (ローマ11の2)
この エンテュンカノーは、旧約聖書のギリシャ語訳において9回、ダニエル書に1回用いられている。
…あなたに感謝を捧げるために、日の出前に起き、暁にあなたに 祈らねばならないことを。
… to make it known that one must rise before the sun to give you thanks, and must pray to you at the dawning of the light;
(旧約聖書続編 知恵の書16の28)
このように、エンテュンカノーはここでは「祈る」と訳されている。
日本語の 「執り成す」には、妥協させるとか仲直りさせるとか、激しい対立をうまくまとめることであって、 祈りとか、懇願、希求という意味がない。
人生のあるときに、神からのはたらきかけを受け、主を信じて復活の命を受けた魂は、新しく歩みはじめる。しかし、それでもう迷うことなく正しい道をどこまでも歩んでいくことができるだろうか。
それは私たちの周囲のいろいろなキリスト者を見ても、途中で信仰を失ってしまう人も多くいるし、ペテロのような人でも、聖霊を豊かに受けていながら、途中で、大きく判断を誤ったことが記されている。(ガラテヤ書2の11~14)
それゆえ、救いを受けた魂であっても、その救いを生涯をかけて全うするために、真理の道からはずれてしまわないように、聖霊あるいは活けるキリストの切実な祈りを受けていく必要があるのである。
これは、意外なことである。私たちは、信仰によって救われたらもう、聖霊やキリストの祈りを受ける必要など考えたことがない―と考えている人も多いのではないかと思われる。自分の意志で信仰を持続していくように考えていたらよいのだと思いがちである。
しかし、パウロは人間の弱さを深く見抜いていた。信じて、聖霊を与えられ、神の子たちの一員とされてもなお、それだけでは、あまりにも罪深い人間の姿をありありと感じていた。
その罪深い状態をいかに越えるべきか。それは、人間の努力ではかなわない。 神、キリスト、聖霊ご自身の力を受けなければ 越えられない。
人間の罪の実態がいかになかなか変わらないか、そのことを神はすべて見抜かれている。そのうえで、神はキリストをこの世界に送り出し、さらに、復活させ、聖霊として世界に存在してくださるようにされた。
その聖霊は単に静かに、あるいは風のように吹いてくるだけでなく、そのような罪深い人間のためにうめくというほどに祈ってくださっているというのである。
すでに、生前から、主イエスは、弟子たちのために真実な祈りを捧げてくださっていた。
…シモン、シモン(*)、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き入れられた。
しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。 (ルカ22の31~32)
このような主イエスの言葉に対してペテロは、自分の意志の力を信じていたので次のように答えた。
…シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」。(ルカ22の33)
このように、主イエスはすでにペテロの本質的な弱さ―これは人間全体がもっている―を見抜いておられた。それゆえに、パウロに示された啓示のように、復活したキリストである聖霊はつねにキリスト者のために、切実な祈り―呻きと言われているほどの祈りを捧げてくださっているのである。
(*)シモンとはペテロのこと。シモンという名は、ヘブル語のシャーマー(聞く)という言葉に由来する。神の言葉を聞くことの重要性からこのような名前がある。申命記でも、「聞け、イスラエル!」という呼びかけがしばしば見られる。ヘブル語では、シェマー イスラーエール!となる。 なおペテロという名は、イエスを神の子―神と同一の本性を持ったお方だと信じるその信仰を岩(ギリシャ語でペトラとは岩のこと)にたとえて、イエスが直接に与えた名である。ペテロそのものはすでに書いたように弱い人間であったが、彼に与えられたイエスは神の子と信じる信仰は岩のごとく、キリスト教信仰の基として今日まで続いている。
復活のいのち―それは聖霊そのものでもある。そして聖霊が働くとき、私たちはあらゆる真理への道が開かれ、さらに生きていく力をも与えられる。
人間がもっとも必要としている神の愛もまた、聖霊による実として与えられる。(ガラテヤ書5の22)
そして、人間に与えられる究極的なもの、永遠の命といわれる神の命そのものをさえ、聖霊によって与えられる。
そして、そのような大いなる賜物を与えられるためには、どうすればよいのか、それはただ、主イエスを神の子と信じるだけでよい、どんなことがあっても、そのことを信じつづけていくだけでよい、というのが聖書の一貫した主張である。
イエスが神の子であるということは、神と同じ本質を与えられているということであり、それゆえに、主イエスは死にうち勝って復活し、万人の罪をあがなうという大いなるわざをなされたのであった。
…イエスは言われた。私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。
生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 (ヨハネ11の25)
ここに復活の命が与えられる道が簡潔に記されている。ただ信じるだけでよいというのである。
このような単純なことであるからこそ、文字通り万人に開かれた道となったのであり、ヨハネ福音書の事実上の最後の部分にも再度このことが記されている。
…これらのことが書かれたのは、あなた方がイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて命(永遠の命)をうけるためである。
(ヨハネ20の31)
春から初夏にかけてはとくに、周囲の野山の自然は緑にあふれ、復活の命を指し示すもので満ちている。そのことも、この主イエスの語られた単純な、そして深淵な真理への絶えざる招きにほかならないと言えよう。
人間は、さまよっている。私たちが本当の拠り所、いわば魂の錨というべきものを持っていなかったら、大風や大波に船が揺さぶられ、漂流していくのと同様である。
人間のそうしたさすらいのことは、すでに創世記の最初の部分に表されている。
兄弟を殺すという重い罪を犯したカインは、神からの裁きとして「土を耕しても作物を収穫できず、お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」(創世記4の12)
神が示された正しいあり方からはずれているとき、私たちはこの世においてさまよう者となる。それはまた、詩編の冒頭で言われているように、「風に吹き飛ばされてしまうもみ殻」のようなものになってしまう。
そのさまよう状態から逃れようと、古来さまざまの道を探求してきた。さまざまの宗教における修業とか、四国八十八箇所めぐりや座禅ということも、そうした一つだと考えられる。
人間のこの揺れ動く、吹き飛ばされているような状態から、あるべき状態に落ちつこうとすること―それは深い魂の要求である。
魂のさまよう状態、それは罪ゆえである。罪を犯し続けていることとは、さまよいの状態である。
そのようなさまよい、さすらいの状態にある魂は、いかにしてそこから逃れることができるのか、神はそのためにキリストをこの世界に送ってくださった。キリストを信じてキリスト教と言われる信仰の内容の深い霊性に触れてはじめて私たちの魂は、漂流が止まる。
讃美歌にもつぎのように記されている。
さまよう人々 立ち返りて
天なるみ国の 父を見よ…
…父なる御神の みまえにゆき まことの悔(くい)をば いいあらわせ
…十字架の上なる イエスをみよ(讃美歌239より)
人生のある時に、帰っていくべきところ―神を見いだしてようやくそのさすらいは終わる。
しかし、それでも、私たちが油断していれば罪を犯し、そこからふたたびさまよいはじめる。
イスラエルの民族全体がそうであった。モーセに導かれた民は、荒野をさすらった。それは実際に生きるか死ぬかという厳しい中でのさすらいの旅であったが、そこには神の言葉を受け、神に導かれたモーセがいた。
しかし、それでも、その導きから離れ、あるいは背いて行こうとする人たちが大勢出てしまった。
主イエスは、そのさまよう私たちのために、来てくださった。荒海のなかで、漂流する弟子たちのところに、湖を歩いて来てくださったイエスは、現在の私たちにも来てくださる。
さまよっている者を探し求めてまでして、来てくださる。
そのキリストの姿は、神の言葉への長大な賛歌である詩編119篇の最後においても指し示されている。
…わたしは小羊のように失われ、迷い出てしまった。
どうかあなたのしもべを探してください。
あなたのみ言葉をわたしは決して忘れない。(詩編119の176)
人間は本質的にさまようものである。動物はあるべき姿というのがない。本能のままに生きていくことだけであり、悩みとか誘惑に負ける、あるいは罪の苦しみ、未来への不安等々が存在しない。
しかし、人間にはあるべき姿というのがある。それを知っている。嘘を言ったらいけない、人を殺傷したり、盗んだりしてはいけない、ほかの人に思いやりを持って対するのがよい等々、それらを忘れていたなどということはなく、知っていてもつい嘘をついたり、人をいじめたり、わるいことを言ったり、人のものを欲しがったりする。
それが罪である。
罪があるということは、つねに私たちは正しいあり方からはずれる―さまよいだすということである。
主イエスご自身も、次のように言われた。
…また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深く憐れんだ。(マタイ9の36)
その状況を見て、羊飼い(キリスト)のもとに導く、あるいはキリストを紹介する「はたらきをする人たちが少ない、だから働き手を送ってくださるように、主に願いなさい。」と言われた。(同37節)
そのような働き手をこの世に送り出すため、主みずから12弟子を任命したことが、そのすぐあとに記されている。
このように、福音を伝えるということは、この世のさまよう人たちを、本当の導き手であるキリストに連れていくことである。
しかし、ひとたび、さまよいからキリストのもとに導かれる歩みと変えられても、なお私たちはさまよいはじめる危険性を常に持っている。
それは、この世の困難―病気や人間からの差別、いじめ、不当な仕打ち、事故、災害、離別等々によって、それがひどく苦しい状況となったときには、キリストが見えなくなる。神の助けも愛も信じられなくなる。主イエスでさえも、肉体の非常な激痛、耐えがたい苦しみによって、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!と叫んだほどだった。
またヨブも、財産や家族が死んでもなお岩なる神に結びつき、神への信頼を保っていたが、みずからのからだに耐えがたい病気を持つに至って食事も安眠もまともにできないという状況となり、さらには、もっとも身近な存在であった妻からも嘲られるようになって、自分が生まれたことをのろうようになった。
このように激しい苦痛や孤独に直面するとき、私たちの魂はふたたびさまよいはじめる。
しかし、苦しみは逆に、ゆるんだ生活を引き締め、真剣に神を求める叫びを生み出すものとなることが多い。
病気や災害、事故、あるいは複雑な人間関係からくる苦しみがなかったら、必死で神に祈り、神を仰ぎ求めることがないぬるま湯的な信仰になっていくことが多い。そうなるとふたたび魂はさまよいはじめる。
神はそれゆえに、私たち誰でもに、それぞれの人生に大きな苦しみや悲しみに遭遇させる。この問題がなかったらどんなにかいいだろう―と思うような重荷をそれぞれの方々は持っているであろう。
しかしその重荷のゆえに私たちは祈らずにおられない。そしてその祈りがまた神へと結びつけ、神から離れることを守ってくれているということも実に多い。
その逆も生じる。私たちがいろいろと恵まれた生活ばかりとなったとき、そこに快楽の誘惑や傲慢、あるいは人間的なもの―お金や地位の安定により頼むようになる危険性がある。ダビデも、美しい女性に惹きつけられて重い罪を犯してしまうことになった。
主の祈りに、私たちを誘惑、または試み、試練に遭わせないで、悪より救ってください、という祈りがある。これは言い換えると、私たちが苦しみや快楽によって、神からさまよいはじめることがないようにという日々の切実な祈りである。
私たちがさすらう存在とならないように、主イエスは繰り返し語りかけておられる。
…私のうちにとどまれ。そうすれば私もあなた方のうちにとどまる。そうすれば豊かに実を結ぶようになる。私の内にととどまっていないなら、枝は切られ、外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれる。(ヨハネ15の1~10)
また、さまよい出るとは、正しい道からはずれることであり、それゆえ主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14の6)と言われたのである。
そして主イエスこそが、究極的な導き手であり、羊飼いなのである。「私はよき羊飼いである。」と言われた通りである。
さまよい出たところから、立ち返るためには、ただ方向転換をするだけでよい。放蕩息子の場合も同様だった。
魂の方向転換―それは祈りによってなされる。祈りこそは、たえずさまよい出ようとする私たちを引き戻し、そのさすらいから命の道を歩くように仕向けてくれる。
罪犯したままであるなら、私たちはさまよっている状態のままである。十字架のイエスを仰いで赦しを受けるとき、私たちは連れ戻していただける。
…地の果なるすべての人たち、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ45の22)
梅雨空が一転して、大陸からの高気圧が張りだしてきたため、さわやかな風が吹いている。山の谷間の道を歩く。
周囲の山々をみると、一面の緑、緑、そして緑…。そこからさらに上方には、真っ青な大空、昨日の雨風で大気中の微少なゴミが一掃されていて空気が澄んでいるのを感じる。
その青空には、太陽の光を受けて、真っ白に輝く雲が流れている。
山の緑、大空の青、そして雲の純白―この三つが周囲の山々、大空を覆っている。
これらは、神の深さ、清さ、そして命を象徴的に表している
そのような清く命に満ちた自然であるが、時折まったく異なる様相を呈することがある。大空に激しい雷鳴や稲妻、そして台風、竜巻―等々がおきると激しい破壊力を見せる。
白い雲が大量に集まって雷雲や雨雲となるとき大雨となり洪水をも起こす。
大地の静けさが破られ大地震が起きるとき、恐るべき事態を生じる。
美しい景観や温泉を生み出す火山もまた、ひとたび大噴火すれば地獄のような灼熱と破壊をもたらす。
このように、自然というのは、限りなく柔和で清いもの、美しいものであるとともに、同時に考えられないほどの強大な力を発揮するものとなる。
このような驚くべき二面性は、精神世界にも見られる。
神は失われた者―人の命を奪ったり、恐るべき犯罪を犯した者ですら、愛をもってつつみ、立ち返らせて神の命を与え、また、全盲やろうあ者のように著しく生きるのが困難となって耐えがたい苦しみを味わう人、かつてのハンセン病のような恐るべき病気や体の障がいによって苦しむ人に、ほかのいかなるものも与えられないような愛を注ぎ、そのような状況にあってもなお、深い平安を与えられるという人間の愛では不可能な神の愛を注ぐお方でもある。
他方、人が正しい道を踏み外し、それをなおも続けていくとき、恐ろしい運命へと落ち込んでいく。例えば、人の命を奪うというような最も悪しきことを意図的に行なうとき、捕らえられ、重罪を課され、長く刑務所での苦しみを与えられ、その人の家族まで耐えがたい悲しみや苦しみを余儀なくされる。
男女関係においても、不正な関係によって双方がともに回復しがたい苦しみに落ち込むということもある。そしてそれはまた生まれてきた子供にも苦難の歩みを強いるようになる場合もある。
悪しきこと、罪深いことを意図的に続け、神などいない、さばきなどないと言い張る人には、何らかの苦しみは、必ずふりかかってくる。そしてその裁きの厳しさはたとえようのないほどのものになることもある。
自然の世界に現れている多様な神の力は、隠れて悪事をしても、また弱い人を苦しめても、偽りを言っても何も神の裁きなどない、などと考える人には、穏やかに見える日常に突然恐ろしい苦しみをも与える力となって働くこともある。
そしてこのような静けさや完全な愛などをうけているという側面と厳しい裁きを受けるということがもっとも深いかたちで表れたのが、キリストだった。
キリストは神とおなじ本質を与えられたお方ゆえに、神の無限の愛と真実を持っておられた方である。そしてそれを実際に地上に生きておられたときそのような愛と真実をもって弱っている人、絶望の人を救いだされた。
他方、イエスは恐るべき仕打ちを受けた。もっともよきことをなし続けたにもかかわらず、人からたたえられるのでなく、さげすまれ、鞭打たれ、つばをはきかけられ、縛られ、処刑のための十字架を背負ってよろめきながら歩き、釘で両手足を打ちつけられて激痛の苦悶のなかで死んでいくという恐ろしい苦難をも経験された。
それは神の厳しさを、罪深い人間の身代わりとなって受けられたのだった。
これはこの世界において、私たちが神から愛されているにもかかわらずそれでもなお、大いなる苦しみが降り注ぐことがありうるということをも暗示するものとなっている。
そしてこの謎のような世界を示して、それをテーマとして記されているのがヨブ記であるが、そのヨブ記もまたキリストが受ける苦難を部分的に指し示しているとも言える。
この世界には、闇の深淵が横たわっていると同時に、その深淵を越えて無限に深い神の愛と真実の世界が前途に広がっている。
ふだんは静かで美しい自然の世界に大きな自然災害が生じるとき、また人間世界を見つめるときにも、この両者を深く思わずにはいられない。
そうした闇の深淵は創世記の最初(創世記1の2)にすでに預言的に記されているが、そこに無限の祝福へと招く神の光も同時に与えられている。
「神の愛と厳しさを見よ」と聖書にある。(ローマ11の22)
それゆえに、神への畏れということも聖書では繰り返し記されている。
穏やかで美しい自然、その清い姿とともに、私たちはまたその背後にある神の愛と厳しさをつねに覚え、そしてただ信じつづけていくときには、必ずすべてが共に働いて善きに転じていく(ローマ8の28)ということを信じ、導かれていきたいと思う。
7月~8月の各地での集会予定。