2015年7月号 653号
助けを求めて叫ぶ声をきいてください。 あなたに向って祈ります。 主よ、朝ごとに、わたしの声をきいてください。(詩篇五の3~4より) |
モーセが最後に残した言葉のなかに、次のようなものがある。
…鷲が巣を揺り動かし、
雛の上を飛びかけり、
羽を広げて捕らえ翼に乗せて運ぶように、ただ、主のみがその民を導いた。
(申命記 32の11)
さらに、出エジプト記にも次のように記されている。
…あなたたちは見た。
わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。
(出エジプト記 19の4)
深い谷に落ちた遭難者のような状態になるとする。そこには道もなく、歩いて助けようとしてもいかにしても近づけない。唯一の方法がヘリコプターである。そこに飛び立ち、現場の上空でとどまってロープを降ろして、遭難者がそれにつかまってはじめて救いだされる。
そのとき、遭難者が倒れて意識不明ならば、救いだすのは困難となる。目覚めていれば下ろされたロープに体を結びつけ、ロープにすがって助けられる。
ここにあげた聖句においては、それと似た状態を思い起こさせる。
私たちも同様であって、どんな道をとっても魂を救いだすことができない深い死の陰の谷に落ちていた。
そこに翼をもった神(キリスト)が来てくださった。それによって救いだされた。さまざまの困難があっても、それらを翼に乗せて妨げを越えて運んでくださる。
人間はさまざまの障害物によって相手の深いところまで入っていけない。しかし、神は目には見えないつばさを持っている。それゆえに、その天使にも翼を与え、特別な使命を神の選んだ人に与える。
天使はつばさを持った姿で記されているのは、こうした神の救いにかかわる深い本性を持っている存在だからである。
神がそのような本質を持つゆえに、その神の心そのままである神の言葉もまた、つばさを持つ。予想しなかったところへと神の言葉は運ばれて、思いがけないところでその力を発揮する。
ホメロスは、つばさを持った言葉という表現をよくつかっている。それは神の言葉の自由自在さとその不思議な力を部分的にせよ知らされていたからであろう。
神がつばさを持って私たちを運んでくださる―それゆえに、その神を信じてキリストが私たちの内に住み、私たちがキリストの内に住むときには、私たちもまた小さくとも翼をもった存在となる。
私たちの言葉も、その内なる言葉である祈りも翼をもって働くことが期待できる。
…キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。
肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。(Ⅰペテロ 4の1)
ここで、武装するという言葉が使われている。何によって武装するのであろうか。
…霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも霊(聖霊)に助けられて祈り、すべての聖徒たちのために絶えず目を覚まして祈りなさい。(エペソ6の10~18)
別の箇所にも記したが、エペソ書に霊的な武器についてはいろいろ記されているが、その最後に書かれているのは、このように、神の言葉と、自分だけのためでなく他者への祈りによって武装する、というのである。
そうすることによって、苦しみを受けるときには、その人は、「罪とのかかわりを絶った者」になるという。(原文ギリシャ語の直訳は、「罪が終わる(やむ」である。)
苦しみのなかに、神の力が注がれ、また山上の教えで言われているように、深き苦しみや悲しみに陥っても主が励まし、慰めてくださる。
罪との関わりは主イエスの十字架によって基本的に断たれた。そこには主イエスの深い苦しみがあった。私たちはただそのことを信じるだけで、罪の力が断たれるようにしてくださった。
しかし油断しているとふたたび罪の力に引き込まれる。そのために神は折々に苦しみを与えて、ふたたびその罪の力を断つことができるようにと導いておられる。
苦しみが私たちにふりかかって来るのは、罪との関わりが断たれ、主といっそう強く結びつくようにとの主の導きだと言える。
この世においては、絶えず暗雲が漂い、またそれが私たちの心の中まで入り込んでくることがある。それはまた家族やいろいろな身近な人たちの関係や、大きくなれば国家全体にもその暗雲がたちこめてくることがある。
戦前の日本はまさにそうだった。自由な発言もできず、つぎつぎと若者は他国への戦争のために駆り出され、報道もいつわりの情報が満ちている。じわじわとそうした暗雲は押し寄せ、ついに毎日のように爆撃され逃げまどう―そうした悪夢のような状況となっていき、最終的に何百万人という日本人がその戦争で命を失い、他国にもその黒い雲を押し広げたあげく敗戦となった。
そして現代の日本はまた、戦後70年近い間守られてきた憲法9条の精神がふみにじられようとしている。そこにも暗雲が徐々に迫ってくるのを感じる。
他方、一人一人の人間には、戦前の戦争時代でなくとも、はるか古代から現代に至るまで、そうした暗雲はただよってくる。
さまざまな、悩みや苦しみ、そして悲しみといったことが生じる。
老年となると、次第に日々そのようなばくぜんとした暗雲が近づいてくるような気持ちになることも多い。
そのような暗雲に心が覆われてしまうとき、前に進めなくなる。
なにが、そのような暗雲をぬぐい去ってくれるのだろうか。
風である。神からの風―聖なる霊こそが、そのような暗雲を吹きはらい、清めてくれる。
旧約聖書の詩篇は、そのような暗雲に迫られている魂の叫びが数多く記されている。そしてその叫び、祈りによって主が答えられ、じっさいにそのような暗雲をぬぐい去ってくれたという実体験が記されている。
…私は主に求め
主は答えてくださった。
脅かすものから常に救いだしてくださった。…
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救いだし
損なわれることのないように守ってくださる。(詩篇34より)
希望の光も見えず、暗い雲が近づき、ただ漠然とした不安、恐れがひどくなっていくとき、それでもそこから救いだしてくださるお方がいる、それを信じて求め、祈り続けていくときには、主はそのすべてから救いだしてくださる。
このような、主に求める熱心とそこからの救いが、いま暗雲が近づいているという状況にある人たちに与えられるようにと願うばかりである。
…主にのみ、私は望みをおいていた。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
滅びと泥沼から私を引き上げ
岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
私の口に新しい歌をあたえてくださった。…
いかに幸いなことか、主に信頼する人は!(詩篇40の2~5より)
これらの詩篇が指し示すように、この世界には、底知れない暗雲がある一方で、そうしたあらゆる迫りくるものを超えたところに永遠の光があることもまた真実である。
闇は光に勝たなかった―これはヨハネ福音書の最初の部分での宣言であり、そしてこの本質的内容は、すでに創世記の巻頭にて言われていたことである。
それほど、この世界にたちこめる暗雲に勝利する道は最初から備えられているのがわかる。
先ごろ衆議院の憲法審査会で、自民党や野党が推薦した3人の憲法学者がいずれも、政府・与党が推進しようとしている安全保障法制は、憲法違反であると明言した。
そしてそれが大きな波紋となっていろいろと報道されてきた。
しかし、今回の安保法制が憲法違反というのは、次の憲法9条を素直に読むときには、なにも学者でなくとも明白なことである。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
憲法9条においては、武力による威嚇や武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する、と明言されている。国際紛争解決のためでなく、自衛のためだ、と称して武力を用いようとすることが起こるから、第二項として、自衛のための戦争すらもしない、ということを明白にするため、陸海空軍やその他の戦力は保持しないとされているのである。
自衛隊というのはすでに世界有数の事実上の軍隊となっている。そのような軍事力は、憲法9条にいう、陸海空軍やその他の戦力は保持しない、という規定に照らしたとき、どうみても 憲法に違反しているといわざるを得ない。
なにも、今回の安保法制を議論するまでもなく、現在の世界的にも有数の規模となった自衛隊という軍事力そのものが、素直に読めば、この憲法9条の精神に違反しているのは、だれもが感じるのではないか。
自衛権はある、しかしあえてそれを使わないで、武力以外の方法に徹するのだという宣言がこの憲法9条である。
武力以外の方法―それは絶えざる外交上の努力であり、世界の到る所にある貧困や差別、生活難、水、食糧の確保、教育や文化、医療、たえず各地で生じる災害などに積極的に関与して手を差し伸べる、金だけを出すのでなく、海外のそうした活動に加わる人間を多く養成するための施設の新設等々、いくらでもある。
そのようなことをかぎりなく推進していくことが本当の憲法9条の精神を実行することである。そのような国にいったいどこの国が、武力攻撃してくるというのか。
そんな可能性よりもはるかに高まると考えられるのは、日本が集団的自衛権を発動して、アメリカの戦争に加わることによって生じる危険性、テロを受ける可能性である。
また、前述しているような平和への多方面の努力と実践、積極的な関与は、軍事費用にくらべるなら比較にならないほど低い金額であろう。
戦闘機1機すらも数十億~数百億円ほどもするのであって、しかもそれをいつ使うのか、他国の人間を攻撃して殺害するというためのものである。
そんな莫大な費用を殺人のために使うのでなく、さまざまの世界の各地へのよきはたらき、ボランティアが現在やっているようなよき仕事に使うならどれだけ多くの人たちの運命を変えることができるだろうか。
兵器というのは、爆弾や爆撃機、核兵器等々みな、よきものを生み出さない。使われるときには必ずどこかの人間が殺害され、あるいは一生の苦しみを与えるような重大な損傷をあたえてしまう。
そして古くなるとそのまま廃棄してしまう。
しかし、世界各地の貧困や砂漠化などにこうした軍事費用を投入することで、どれほど多くのよき農産物や森林資源などがよみがえるだろうか。それらはよきものを生み出すのである。兵器はよきものを破壊するのであり、その対照は著しい。
今回の憲法学者がそろって現在の安保法制を憲法違反だと断じたのは、長谷部恭男・早稲田大学大学院教授、小林節慶応大学名誉教授らであった。彼らは、自衛隊そのものを違憲だとする人たちではない。しかし、それでも、なお今回のように明確に政府自民党などの安保法制を憲法違反だと明白に国会で述べたのは異例のことであった。
それほどに、今回の安保法制は、自衛隊の評価や憲法の解釈にいろいろ違いがある人たちでも一致して多くの憲法学者たちが反対したということが多くの人たちを驚かせたのである。
しかも、自民党は、はじめは、憲法学者の佐藤幸治京都大学名誉教授に出席を要請したが断られていたという。
その佐藤幸治氏もまた次のように述べた。(6月6日、東京大学で行なわれた「立憲主義の危機」シンポジウムにおいて。)
…イギリスやドイツ、米国でも憲法の根幹が変わったことはないとした上で「いつまで日本はそんなことをぐだぐだ言い続けるんですか」と強い調子で、日本国憲法の根幹にある立憲主義を脅かすような改憲の動きを批判した。(毎日新聞6月6日)
さらに、6月22日の衆議院特別委員会にて、参考人質疑が行なわれたが、そのとき、野党が推薦した元内閣法制局長官二人が、つぎのように、違憲あるいは、かえって日本を危険に陥れると語った。
元内閣法制局長官の阪田雅裕氏は、集団的自衛権を行使すると、戦争に参加することによって、相手に日本を攻撃する根拠を与えることになってしまい、それは、国民を危険にさらす結果しかもたらさない」とした。
さらに、やはり元内閣法制局長官の宮崎礼壹(れいいち)法政大法科大学院教授は「攻撃を受けていないのに自国防衛と称して武力行使するのは違法な先制攻撃であるから、速やかに撤回すべきだ」と主張した。
このように、内閣法制局という法律の専門家の集団のかつてのトップが二人までも、今回の安保法案を違憲としたり、反対していることも異例である。
そして、すでに引用した憲法学者の小林節慶応大名誉教授はこのときも、「憲法上、わが国は海外での軍事行動が本来的に不能。解釈で憲法を踏み越えて行うことは、法の支配を放棄した独裁政治の宣言に等しい」と強く批判した。(「東京新聞」6月22日」)
(*)内閣法制局は憲法をはじめとする法令に関して内閣や首相、閣僚に意見を述べ、内閣が国会に提出する法案や政令、条約を審査する役割がある。その長官は、憲法を含む法令の解釈について国会での答弁をすることがしばしばである。そのため、「法の番人」とも称される。
政治は、憲法を土台としてそれに沿って行なうのが本来のあり方である。立憲主義とは、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則のことであり、これは人類の長い歴史において、正しい基準でなく、支配権を持った者が、その権力を乱用し、多くの人々を苦しめてきたことに対する反省から生まれた原則である。
それは個人の自由や権利を守るために、憲法で権力を持ったものを縛るためのものであることは、基本的なことで繰り返し言われてきた。
しかし、今の自民党と政府は、逆に時の権力者が、憲法解釈を変えて都合のよいように使えるようにしようとしている。
このようなことをすれば、憲法とは名ばかり、権力を持った者が、勝手に憲法解釈を変更し、さらに憲法まで変えていくことになりかねない。
政治的多数を持っている自民党の傲慢さは、今回の自民党の勉強会と称する会において、百田尚樹という講師が、沖縄の二つの新聞をつぶさないといけない、と言ったことにもあらわれている。さらにその講師は「本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞だ」とツイッターに書いたと報道されている。
そして、この百田という人物は、安倍首相と考え方がよく合うというが、じっさい首相がこの人物を推したゆえに、NHKの経営委員になっていた。
以前の東京都知事選挙のときには、自分が応援する人物以外の候補を、「人間のクズみたいな者だ」と言ったり、南京大虐殺がなかったと言ったりしたが、こんどは、沖縄の米軍基地はもともと田んぼの真ん中にあって周りには何もなく、基地のまわりに行けば商売になるとみんなが基地のまわりに住みだした」と言ったが、実は、まったく事実に反していて、宜野湾市史によると、基地のできる前の1925年には、9千人あまりも住んでいたし、村役場もあったという。
こうした人物を「先生」として講師に招き、教えを受けたいと、自民党の青年局長が代表をつとめる勉強会と称する会がつくられ、その最初の重要な講師として、この百田尚樹という人物が選ばれたというところにも、現在の自民党の体質が現れている。そこで講師によって語られたこと、参加していた代議士が言ったことには驚かされる。政府に批判的な新聞の広告を出す企業やテレビ番組のスポンサーに働きかけてそのような新聞などに圧力をかけるべきだというような驚くべき発言がなされていた。
憲法9条という70年ほども、一貫して平和の強い礎となってきたものを変えてしまおうとする勢力は、また言論出版の自由という基本的な人権をも、権力にまかせて企業に圧力をかけたり、こともあろうに沖縄の二つの新聞社をつぶすべきだとか、出版言論の自由という民主主義の基本をすら変えていこうとするようなことを考えているのが判明したのである。
沖縄が太平洋戦争の末期の激しい戦闘によるおびただしい死傷者、以後の長いアメリカによる統治、その後1972年にようやく本土復帰したのちも、沖縄以外の都府県と比べて圧倒的に多い米軍基地を負担させられてきた。
その沖縄の苦しみと差別的なあつかい方をも、何ら理解しようとせず、逆に貶めようとした今回の自民党の集会でのありさまは、弱い立場の者や反対の考えの者をおさえつけようとする自民党の体質が現れたものである。
はじめは、謝罪すらしようとしなかった首相が一週間も経ってようやく謝罪をした。しかしそれはアメリカに約束した安保法制をはやく国会決議をしたいゆえの一種の方便だと考えられている。
憲法9条をアメリカからの押しつけだといいながら、現在の安保法制のことは、アメリカからの押しつけを安易に受け入れようとしているのである。そのために、日本の平和憲法という二度と取り返せないであろう日本の宝というべきものを壊してしまおうとしている。
このような状況にあるゆえに、かつてないような規模で幅広い学者たちが、今回の安保法制に対して反対する声明を発表した。
…国内の幅広い分野の研究者でつくる「安全保障関連法案に反対する学者の会」が6月15日、法案は憲法9条に違反するとして廃案を求める声明を発表した。会は11日に発足。呼びかけ人には法学や政治学、歴史学、天文学などから60人以上が名を連ね、賛同する学者・研究者は2700人近くに上る。
呼びかけ人で15日に記者会見した学習院大の佐藤学教授(教育学)は「再び若者を戦地に送り、殺し殺される状況にさらすことを認めることはできない」と強調。法政大の山口二郎教授(政治学)は「安倍政権の暴走に批判を加えなければ、学問の存在理由はない」と訴えた。(毎日新聞 6月15日)
さらに、若い世代―学生たちもこの法案に反対する集会を6月27日、東京渋谷駅前で開催したが多くの市民たちが集まった。
私が学生のときには、学生たちの新鮮な感覚でまちがった方向に対しては、それは間違っている、反対だと主張する多くの人たちがいた。残念なことに現代の大学生たちは、そうした国全体の方向といった大きな問題には無関心なものが多い。それでも今回の安保法制にはこのような学生たちの反応としては久しぶりに見るものであった。
いままでにも何度か書いたが、憲法9条の精神は、聖書に深く流れている平和の精神にその源流がある。(真理は繰り返し語られねばならないゆえに再度書く。)
それは、いまから2700年ほども昔に書かれたイザヤ書のはじめの部分にある。
彼らはその剣を鋤に、 その槍をかまに打ち直し、 国は国に向かって剣を上げず、 二度と戦いのことを習わない。
剣を鋤(すき)に、やりを鎌に―現代では武器弾薬を廃して、農林業、水産業、工業、福祉や文化等々、真に必要なもののためにその費用をあてる、ということになる。
この武力を廃する―これこそは、日本国憲法で言われている精神の源流に位置する内容である。
これとほぼ同じことが、旧約聖書の預言書であるミカ書にもみられる。
…主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 (ミカ書4の3)
このように、ほとんど同じような表現が重ねて聖書に別々の預言者によって語られ、記録されて2千5百年ほども受け継がれてきたということのなかにも、神のさまざまの語りかけのなかで、この武力を廃止するという人間のあるべき姿が、はっきりと示されていたし、その重要性がこれら預言者たちによって深く受け止められていたのがうかがえる。
武力、軍事力は破壊と殺害をするのに対して、農産物などよきものを生産するためにそれらの費用とエネルギーを投入すること―それが数千年も昔からの神のご意志なのである。
しかし、キリスト者も戦わないのではない。キリスト者の戦いは、殺傷する兵器や、自然や建物を粉砕する爆弾などの軍事力によらない戦いなのである。
それこそは、主イエスが完全な意味でその戦いをされて、永遠の模範とされた。それは神の言葉によって戦うのである。イエスが初めて福音伝道をはじめたとき、サタンの試み、誘惑に出会った。そのときイエスが対抗したのは―サタンとの戦いに用いた武器とは、神の言葉であった。旧約聖書から受け継がれた神の言葉によってサタンを退けられた。(マタイ福音書4の4~11)
このことをパウロの手紙として伝えられてきた書物でも明確にのべている。
私たちキリスト者の戦いとは、この世の悪しき支配力、そしてその背後にある悪のさまざまの霊に対する戦いであることを述べ、私たちの武力とは、神の目に見えない力であり、神の真理、正義、真理といったものが武器である。さらにつねに平和の福音を伝えようとする意志を持って、信仰を悪の力から守る盾となせ、と言い、最後にキリスト者の最も力ある武器とは神の言葉であることが言われている。
…神の武具を身に着けなさい。
真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる。
また、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エペソ書6の12~17より)
じっさい、キリストが捕らえられたときには、弟子たちすらみんな逃げてしまったし、ペテロなどはその直後、女中にあんたもイエスの仲間だったと言われたときに、繰り返しそんな人は知らないと言い張ったほどであった。
そのようなペテロさえも、聖霊を受けてからは別人のようにキリストの復活が事実であること、神の言葉を力強く語り始めた。
かれらは何一つ人を殺すための武器を持ったのではない。素手であった。しかし、聖霊と神の言葉という強力な目に見えない武器を与えられたゆえに、敵対するもののためにも祈り、ひどい目に遇わされてもなお復讐せず、最初はキリスト教徒を迫害していたパウロもキリスト者と変えられ、牢獄に投げ込まれてもなお、神への賛美を歌い続ける―という驚くべき力が与えられた。(使徒言行録16の25)
こうしたすべては、主イエスが、言われたこと―「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」(マタイ5の44)の教えに従ってなされた。敵を愛する―それは好きになるということではなく、そのあとの言葉―敵対するものが神の祝福を受けるようにと祈る心である。
こうした言葉が神のいのちというべき聖霊とともに与えられたがゆえに、かれらはそのようにじっさいになすことができた。
憲法9条の精神―いつの時代にも武力があふれて互いに攻撃しあっているただなかで、「いっさいの武力をもちいない」などということは、通常の常識では考えられないことである。それはいままで述べてきたはるか数千年前に預言者に示された神のご意志、そしてそれを完全にあらわしたキリストの精神がその深いところで流れているのを感じさせるものがある。
これは真理であるゆえに、いかに現実の政治家が策動しようとも、また変えられることがあろうとも、この真理そのものを変えることはだれにもできない。この二千年のという長い歳月、いかなる戦争や混乱、ききん、病気などの蔓延があってもなお、この真理性をゆるがすことはできなかった。
私たちはそうした揺るがないもの、―天地は滅びようとも、私の言葉は滅びない
―(マタイ福音書24の35)そのような、永遠の真理を見つめて、それによって導かれ、歩ませていただきたいと願うものである。
―詩篇39より
…わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。
わたしは口を閉ざして沈黙し
あまりに黙していたので苦しみがつのり
心は熱くなり
わたしは舌を動かして話し始めた。
「教えてください、主よ、わたしの行く末を
わたしの生涯はどれ程のものか
いかにわたしがはかないものか…」(2~5節より)
沈黙することによって罪を犯さないようにと、この詩の作者は、黙し続けた。
しかし、そうした修行のような沈黙によっては心は平安を得られずかえって熱くなるほどに苦しみがつのっていった。敵対する者、悪の力はいたるところにあり、反論しても、黙っていても新たな攻撃を受ける。
それゆえに、この詩の作者は、苦しみを人に訴えるのでなく、神に向ってその真実な思いを注ぎだした。
そして作者の心からあふれ出てきたのは、人間とは何なのか、私たちの存在はいかに空しいものかという思いであった。
… 与えられたこの生涯は
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでもすべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人は空しくあくせくし
だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
人生は無に等しいもの―これはこの作者のように神を信じていない者であっても神を信じる者であっても、少し冷静に考えるとき、同じように感じるであろう。70年80年と生きたとしても、星の寿命のような100億年といったスケールに比べるなら、一瞬にすぎない。
過去に生きた人たち、私たちの友人、親族たちも、その他名をよく知られた人々もみな死んでいく。何かを残したといっても時間とともにすべて呑み込まれ、消えていく。
人間そのものは影のようなもの無に等しいもの―このことを魂の深みにおいて感じるようになったとき、この世のあらゆることへの空しさが込み上げてくる。
何かに向ってなされる努力、仕事も最終的には消えていく―そのような空しさを何が打ち消してくれるのか。
これは、古代から現代に至るまで、人間の根本問題である。
そこからこの作者は、その空しさから脱却する道を求めていく。
…主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。
わたしはあなたを待ち望みます。
あなたに背いたすべての罪からわたしを救い
神を知らぬ者というそしりを受けないようにしてください。
わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。(8~10節)
こうした万事が空しさと無に満ちているこの世にあって、希望を持つことができるのは、この世の目に見えるものではない。見えるものは必ず移り変わり最終的に消えていくからである。
いかなる時代、どんな苦難の状況があってもなお消えていかないもの―それこそ万物を創造された神のみがそれであり、その神の言葉、そして神の愛である。
私たちの心に生じるどうしょうもないもの―真実や愛、正義に反する思いや行動(罪)―それはいかに人間の考え方を変えようとしてもなおなくならない。
罪の力に対しては、学問、教養などもどうすることもできない。この詩の作者のいうように、神の赦しを信じ、自分の罪をふくめてすべてを良きにしてくださる神を信じるほかはない。
罪の赦しは、ただ神のみがなしてくださるのであり、それは神の愛と全能による。永続的な希望は、このように罪の赦しと深く結びついている。
この箇所に現れている「主を待ち望む心」―これは旧約聖書から新約聖書の全体にわたって根底を流れている。
…わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。
あなたに罪を責められ、懲らしめられて
人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。 主よ、わたしの祈りを聞き
助けを求める叫びに耳を傾けてください。
わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者。先祖と同じ宿り人。
この詩の作者は、周囲にいる敵対する人間に対して罪犯さないために沈黙を守った。そしてそこから心に渦巻く思いを神にむかって注ぎだした。
私たちのだれでも陥る間違いは、本当の告白すべき相手である神でなく、人間に向ってしまうことであり、人間に告白し、人間に頼ってしまうことである。
この作者は、人間に対しては沈黙を守り続けるが神にむかっては精一杯のあつき心をもって心を注ぎだした。
祈ってもなおいやされない心の苦しみ―それは神によって罰せられているのだと感じていた。それゆえに、主に向って、「私を苦しめるその御手を放してください。 御手に撃たれて衰えはてた…」と真実な心のうちを注ぎだしている。
人は空しい、その助けも空しい、神がそこにかかわってくださるのでなければ。
作者は、自分の現在の苦しみや痛み、悲しみのなかから、人間にそのことを訴えることをせず、神にのみ目を注いだ。そこからのみ真の救い、永続的な解決が与えられることを知っていたからである。
現代の私たちもこの点ではまったく同じである。苦しみのとき悲しみのときに、神に向って心を注ぎだすこと。この詩は、そのことへと私たちを指し示すものとなっている。
あなたの目をわたしからそらせ
立ち直らせてください
わたしが去り、失われる前に。
神の目をそらせてください―これは、神の御手を放してくださいという祈りと同じことを言いかえたもので、いまの苦しみからどうか救ってくださいという祈りである。
そして地上から去る(死ぬ)前に、どうか救いだしてくださいと祈る。
自分は、いま耐えがたい苦しみや悲しみのなかにいるが、周囲の人たちはそのような自分に攻撃しようと待ち構えている。内なる病の苦しみ、外には敵対するものからの苦しみという内外の圧迫にあって、行き場のない心、そしてまた心も、この人生、生きるということ全体に空しさを深く思い知らされている。この世は無だという思いに打ち倒されようとしている。
人生は空しい、みんな消えていく―無である、生きることに力が入らない、生きる意味がわからない―等々、人間であるゆえにつきまとうこうした思いに根本的にうち勝つ道は、この世の学問や教養、あるいは重要性経験、経済的豊かさ、この世の名誉―等々ではない。
それらもまたこの作者のような心身が衰え果てる状況においては、みな空しいからである。
こうしたいっさいのこの世の空しさ、無という状況から脱却する道が、ここにあるように、主に希望をおくことである。
この希望あれば、自分は、罪犯す弱いものにすぎないが、そのことも主が赦しきよめてくださるという確信へと導かれる。
しかし、この希望は旧約聖書の時代においては、死の後に与えられる「永遠の命」までは含まれていなかった。
それはキリストによって初めて確たる希望として与えられることになった。
「何に望みをかけるべきか、私はあなたを待ち望む」(8節)―この言葉の延長上に、キリストが指し示されている。
キリストが到来したことによって、信仰・希望・愛は、いつまでも続くということが確証され、その真理は世界に伝わっていくことになった。(Ⅰコリント13の13)
このように、数千年も昔から、この詩に記された「希望」が人々の深いところを流れ続けてきたのである。
①
万象の影 みな祈りごと視ゆる日よ 旅ゆく魂も添いて祈らむ
・ここでの「影」 とは、姿、あるいはそのものの形 を意味する(大辞林)
・キリストは祈りそのものである。ゲツセマネの最後の夜に血の汗したたらせて祈られた。そして、弟子たちを湖の向こう岸へと送り出して一人山に登って夜通し祈られた。
さらに復活したのちには聖霊となって、うめくほどに私たちのために祈りをもって対してくださっている。ローマの信徒への手紙8章
そのキリストはまた万物を創造したと記されている。(ヨハネ1の3 、ヘブル書1の コロサイ書1の)
それゆえに、私たちの霊の目が開かれるほどに、祈りそのものであられたキリストが創造された万物には祈りが込められており、 その祈りは私たちに向けられている。私たちもそれにうながされて祈る心を起こされる。
病み伏して 無為なるこの身 聖書読み 祈り暮るるも「完全なる日 パーフェクトデイ」 とせむ
「地の片隅」 近藤蓉子
・病によって動けない、家から出られない、あるいは寝たきりとなっている方々は 非常に多い。
そのような状態となって何ができるであろうか。病気が重くなるほど この世における仕事はほとんどすべてできなくなる。
そして、治療のためのお金はかかる、周囲の人にも重荷をかける、場合によってはうとんじられ、軽視される。
そのような心身ともに深い苦しみと悲しみが襲ってくるような状況に置かれている人たちも多い。
しかし、霊的な世界においては、元気で仕事をやっている―というような人であっても、驚くべきことに「死んでいる」とまで言われている。
…あなた方はかつては罪のために死んでいた。(エペソ書)
それゆえに、いかにこの世においても活動的であっても、霊的には―絶対の正義を持ってしかも愛の神の前においては、それだけでは何もしていないということにもなる。
それでは、神の御前にて生きている、働いているというのはどういうことなのか。
最も活動している神の分身を受けたときである。それはみ言葉を受け、聖霊によって祈るときである。
み言葉はいのちのパンである。それを食べないなら生きてはいけないと主は言われた。人はパンだけでは生きられない―と。
祈りによって、み言葉をうけ、聖霊を与えられる。それによって私たちは生きる。み言葉を信じ、その力を受け、祈る。
そのとき、神とともに働くことになる。
私たちが病気となり、重い病状ちなって、死が近づいたときでもなおも御国のために働くことができる。
それゆえにふだんの生活のなかでも、キリスト者は置かれた状況にかかわらず、また生まれつきの能力やこの世の履歴、地位、年齢などにかかわりなく、祈りとみ言葉によって働くことが与えられている。
② 日々
日々を生きる
何によって生きる
愛によって生きる
神の愛によって生きる
それがわたしの今日の食べ物
それがわたしの今日の呼吸
それがわたしの今日の喜び
(「星になって」)
愛のために
東の空が
ほのかに明るみ
どこから吹いてくるのか
頬にかすかな風
すがすがしい
夜明けの香り胸にいっぱい
ああ神さまが
生きなさい と言っている。
でも
何のために
何のために今日はある
苦しみでいっぱいのこの世を
なんのために
愛のために
愛のために
今日を生きなさいと
しずかな声で
言っておられる
「泉にゆく道」 伊丹悦子
③ わが胸に嵐吹くたび また叫ぶ 主よ 溺れます御手の助けを
格別に身近にいます主を感じ祈る喜び今朝もたまえり
祈る霊あたえたまえと祈るとき主の祈りこそ祈る霊なり
「主は招く―祈りへの道」内藤静代
④神さまの愛
蒔かなくても生えてくる
野原の小さな花
呼ばなくても吹いてくる
さわやかな風
振り仰げば常に広がる
はるかな大空
すべて無償で無条件
ひたすら降り注ぐ
神さまの愛
「風ひとしずく」貝出久美子
(① 著者は無教会の渋谷聖書集会員、他は徳島聖書キリスト集会員)
(389)「信仰者の祈りが、病人の血液中の免疫力を高め、人間の持つ治癒力を強化する。」(「長さではない 命の豊かさ」(日野原重明著)184頁。朝日新聞社発行2007年
・祈りや願い―それは、明日は晴れてほしいというような日常的な願い事から、殺されることになっても甘んじて耐えがたい拷問をも耐えて信仰を証しするほどの力を生み出す祈りまで、広く深いものがある。
また、主イエスのゲツセマネの祈りのように、やはり釘で打ちつけられるという想像を絶する激痛をともなう十字架の刑をも受ける決断と耐える力を与える祈りもある。
ステパノというキリスト者は、祈りつつ民の罪を厳しく指摘した。それによって激しい敵意を受けることになった。
しかもそれでもなお、祈りをもって殺気だった群衆に向っていった。そして天が開けて復活したキリストと神が見えたという。
祈りの力はこのように、ほとんどなにも変わらないという祈りから、死や耐えがたい拷問をも甘んじて受けるほどに深いものまで実に多様なものである。
ここで言われているような、免疫力をも高め、治癒力をも強くする―というようなこともだれにでもすぐに生じることではないであろうが、御心にかなったときには、このように驚くべき力をももたらすものだ。
(なおこの言葉は日野原さんが、アメリカの大学ではこの報告がある―との紹介文にある。)
(390)キリストは望んでおられます。ほとんど何も持たなくとも、何よりもまず、いのちという神の贈り物を通して、私たちの内に炎(火)と聖霊が感じられるようになることを。(*)
どんなに貧しくとも、炎(火)を消すことのないように。
聖霊を消すことのないように。そこには愛の驚きが燃えているのですから。
そして信仰という素朴な信頼は、炎のように、人から人へと伝えられていくのです。(「信頼への旅」ブラザー・ロジェ)
(*)マタイ3の11 その方(イエス)は、聖霊と火であなた方に洗礼を授ける。
・この世でほとんど何も持たなくとも、聖霊の火が魂のうちで燃えつづけることが有りうるのだという。そしてそれさえあれば、ほかのことはわずかしか必要を感じなくなるという。
心の内に、神の愛への驚きが燃え続けていく。人間の愛でなく、神の愛は、それが与えられるときどのような人であっても、他者へと伝わっていくという。
来信より
○4月号の「復活の春」を読みました。私は日々の生活の中でいつのまにか人を憎んでいたり、赦せなかったりする自己中心の罪に気がつかないでこれまで歩んできました。そんな心の闇に神様は光をあててくださり、照らし出され、どんな状況にあっても、神様の光の中を希望をもって生きる道に導いてくださっていることを知りました。
キリストはいまも生きて働いておられる神様である事実も知ることができました。 心を開いて、命の光の中を人として誠実に生きていきたいと思います。
迷いや苦しみをも、主からの力によって乗り越えて希望をもって歩んでいきたいです。(四国の方)
〈東京での講演「神の言葉―その光、命、力」(キリスト教独立伝道会主催)について〉
〇4月29日の東京での講演「神の言葉―その光、命、力―」というメッセージを聞いていて、2年前の出来事を思い出しました。手術前も、術後も、私の心を支えていたのは、兄弟姉妹方からメール等で送って下さる、神のみ言葉、そのもので、神の言葉につながってないと、すぐ、不安と恐怖が入り込んで、どうしようもなかった日々のことを思い出します。
神のみ言葉、そしてみ言葉そのものであるイエス様に日々つながり、しっかり心に受け入れて導いていただく時に、命が与えられ、光が与えられ、生きる力が与えられていくことを教えられました。
又、信仰は、受けるばかりでなく、与えていく時に潤されていくことも、心に受け止めつつ歩みたいと思います。 (中国地方の方)
○講演の録音、力強い語り方で、力強いメッセージをきかせていただき、励まされました。聖書はまさに真実の言葉。光、命、力そのものとの思いを改めて強くいたしました。 (四国の方)
〇講演会での様子を想像しながら何度も拝聴いたしました。
時間の都合で一度にすべては難しかったので 何度も戻りながら聴かせていただきました。
そして5月号の「いのちの水」でも講演会の内容が文字化されていたので、より深く響いたことをうれしく思いました。
日常生活においてあらゆる場面でさまざまな人間の声に翻弄されている自分を思い
いま一度神の言葉を聞き分けなくてはと反省いたしました。
そしてもっとも印象に残ったのは、人格をとおして福音が伝わるのではなく、神の言葉は聖霊の働きによって直接伝わるのだということ。
その力を切実に求めたとき、神の御心として神のご意志として個人的に語りかけられるのだということでした。
そのことは、激しい流れとなって一気に「いのちの水」として心の内に注がれたように感じました。
実は春頃からまた少し体調を崩していたので、今回新たな気持ちで立ち上がるきっかけにもなったことを心より感謝いたします。
自分自身としてはいつも「幼な子」のように神さまを見上げているつもりでも
いつのまにかこの世の価値観が心の内を左右しているのかもしれませんね。
強くあろうとする気持ちが慢心を生み、へりくだることにブレーキをかけている自分に気づきハッとすることもしばしばです。
幼な子の心で任せきって神さまをまっすぐ見つめて生きたいです。
そして、神さまによって成長させていただきたいです。 (中部地方の方)
○5月号で紹介した、インターネットのYOUTUBEからの二つの録画DVDを見た人からの感想です。
・早速、拝見させていただきました。
DVD「世界から見た日本国憲法」
なんということをしているのだ!
憲法第9条は国際問題でもあり、東アジアへの謝罪でもあるというインタビューが印象的でした。
DVD「最終処分場はどこへ―行き場のない核のゴミ」
なんということをしてくれたのだ!
原発再稼働と最終処分場問題をリンクさせない日本とリンクさせるヨーロッパ諸国との対比が印象的でした。
見終わって、しばらく気分が暗くなりました。
しかし、暗闇が一層濃くなるほど、光がより一層輝きますね。 主を仰ぐ…。「主によって」「主において」を忘れずに。
わたしは野草の花の名前はよくわかりませんが、でしゃばらない花の美しさは、峠道を歩いていて、何とも言えない喜びを与えてくれます。
○5月号の「平和をつくり出すもの」―感動と大きな共感を持って読ませていただきました。
「平和をつくる者は幸いだ。その人たちは神の子と言われる。」私はつくるものという言葉には福音書の底流にある共通した大事な意味を以前から感じています。
平和を好むもの、望むもの、論ずるものではなくて、つくる人たちがイエス様から求められていると思います。
巷で感じられる単なる平和ゼスチュアではなく、それぞれの立場と状況下で前向き積極的に真の平和をつくり出す態度と行動が大事であると考えます。
○7月~8月の各地での集会での開始時刻の追加。
6月号で、今夏の北海道瀬棚での集会の後の、各地での集会予定を書いたのは、「いのちの水」誌の読者の方々で、参加希望の方々がおられること、またふだんと異なる集会には、また違った祝福があり、主が働いてくださることを今までにも経験してきましたので、主のわざを待ち望むためにも書きました。
そのうち、一部の集会の予定の時刻が書かれてなかったものだけ、次に付け加えておきます。