いのちの水 2016年11月号 第669



どうか神があなた方に英知と啓示の霊を与え、

あなた方の心の目を開いてくださるように。(エペソ書11718より)


 

目次

秋の日

すべてを理解する人

復活の希望

死の力にうち勝つものー詩篇49篇

主の導き  藤井美代子

編集だより

お知らせ

集会案内

徳島聖書キリスト集会案内


 

リストボタン秋の日

 

 木々の葉は色づき、美しい紅葉、黄葉、あるいは褐色となり、今年のはたらきを終えようとしている。

 一部の草木には、枯れたようになる冬の近づくにあたって、それまでになかった新たな美しさを与えられているものもある。

 緑の常緑の木々のなかに時折真っ赤にいろづいたヤマハゼやカエデ、あるいは黄色く染まったイチョウ、イヌビワ、ヤマノイモ等々の葉もある。

 それらを静かに見入るとき、音なくして交響楽が奏でられているのを感じる。それは神の奏でる音楽である。

 そのような特別な色鮮やかな木々を見るとき、思いだすことがある。  それは、一日を私たちのために光とエネルギーを与え続けて、太陽が西に沈むとき、周囲の大空や雲をさまざまの彩りで輝かせつつ、かつ自らも赤く輝かしい姿を見せつつ沈んでいく太陽のことである。

 終えるときが近づいてもなおも輝くー私たちの人生もそのようでありたいと願う。

 キリストは、その人生の最後は十字架での処刑だった。そこには釘づけにされ、激しい痛みと苦しみのさいなまれつつ死んでいく状況があった。そこに何らの美しさはなかった。恐ろしい光景だった。

 しかし、その十字架は、霊的に見るときには、じつに輝かしい最後だった。永遠に輝く真っ赤な太陽ー魂の目でしか見えないその光を輝かせつつ、地上の命を終えられた。

 その輝きによって、以後二千年、無数の人間の魂が照らされ、救いを与えられてきた。私もその一人だった。

 これからも、そのキリストの光によって心の闇をかかえる人たちが照らされ、魂の平和が与えられるようにとねがってやまない。


 

リストボタンすべてを理解する人

ー旧約聖書の格言集(箴言)の中から

 

 多くの国々で残されている格言は、人生の真理を短い言葉で表したものである。聖書全体が、人生の真理が詰め込まれた書であり、到る所に、そうした真理が見いだされる。その聖書のなかでも、とくにそうした格言をまとめて集めたものがあり、それは箴言というタイトルとなっている。

 ここでは、その箴言のなかから、ごく一部をとりだしてみたい。

 

…主を尋ね求める人々は、すべてを理解する。(箴言285

 

 このひと言は、箴言の全体の要約ともなっている。主とは、万物を創造し、かつ現在もそれを維持し、支えている神である。身近な大空や星々、雲の動き、また天気の移り変わり、無数の植物や動物たち、昆虫などなど、一切を創造するという無限の英知ある御方であるゆえ、そのような主を尋ね求めることは、そのような神の英知を尋ね求めるがゆえに、さまざまのことをも深く理解する道へと導かれる。

 すべてーこれは、その人にとってとくに霊的に必要なすべてということである。

 この箴言の言葉は、後の新約聖書のヨハネ福音書に記されている次の言葉に通じる内容となっている。

 

…父(神)が遣わされる聖霊は、あなた方にすべてのことを教える。(ヨハネ福音書1426

 

 主イエスは、「求めよ、そうすれば与えられる」と約束されたが、ここで与えられると言われているものはさまざまの内容を含むが、究極的にだれにでも与えられると言われているのが、人間の魂をもっとも深いところで満たす真理、力ーそれら一切を含む聖霊のことを指している。(ルカ11913

 そのように教えられる状態と対照的なのが、愚かということである。

 愚かとは一般的には、頭の働きの鈍い者、判断力に欠けている者を言う。

  しかし、聖書では、一番の愚かものは、自分を賢いと思い込んでいる人だ。神は宇宙全部のことを知っておられる。過去、未来、人間のことも、すべてを。人間がどんなに賢くても、神の無限の英知と比較すれば、どんな人もみな愚かだということになる。

 人は、いかなる学者であり、人生経験豊かな人であっても、明日のこともわからない。すぐ隣の人の心もわからない。自分がいかに罪深いものであるかさえもごくわずかしかわかっていない。

 そうしたいっさいを考えるとすぐにわかるが、人間の英知、学問などは、神の無限の英知に比べれば無に等しい。

 それにもかかわらず、自分を賢いと自惚れているものこそ、愚かだと言われている。

 

…自分を賢い者だと思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者と言われている人のほうがまだ希望が持てる。(箴言2612

…怠け者は自分を賢い者だと思い込む。(同16

 

 怠ける者、知的に怠けるとき、私たちはこの無限の神秘の世界のことをよく見つめることもしないで、ほんのわずか何かを知っているだけで自分を賢い者、優れたものだと思い込む。

 心の目を開き、しずかな細き語りかけに魂の耳を閉ざすような「怠け」心は、傲慢という愚かさへの道である。

 自分のそうした何も知らないのも同然な状況を思わないで、高ぶっているときには、他者をさばき、悪口という形で他者を見下すことになる。

 箴言ののなかには(26章など)、そうした人間の悪い言葉についても記されている部分がある。

 かげ口を言うことは悪いことを起こしている。かげ口に乗ったら両方とも罪に落ちる。かげ口は聴いた人の心に入り込み、その人がまた他にも言う。聴いたことが本当かどうかわからないのに、聴いた人の心に入り込んでしまう。かげ口は悪い食べ物である。

 しかし、神さまの言葉はよい食べ物である。

 よいことを言っていても、心で悪意を持つ。上品そうに言っても、心が濁っている場合もある。

 そうした悪いことを言う人は、自分がその穴に落ちる。信頼されなくなる。悪いことをしていたら、自分がその穴におちる。それが、神の裁きである。

 誰かについて何かを言うときは祈りが伴わねばならない。人間の口から出る言葉は人を汚す、とイエスさまも言われた。主と結びついていればそのようなことは起こらない。主にあって毎日を送る。ロマ書1214には「迫害する(自分に悪いことをしかけてくるような)人にも、悪口を返すのでなく、祝福を祈れ」と言われている。

 

…罪をつねに犯してしまう人間のことに心を燃やすな。

日毎に、主を畏れることに心を燃やせ。(箴言2317

 

 私たちは、子供から老年の者まで、幾つになっても、他者の言ったこと、したことにいろいろと心を悩ませることが多い。子供であっても、そうした悪しき言葉によっていじめをうけ、絶えがたい状態となってみずから命を断つほどの状況になる場合もある。

 私たちが心すべきは、人間が何を言ったか、ではなく、神が何を私たちに語りかけているのか、ということなのである。

 心を燃やすべきは、神を畏れ敬うことー言い換えれば、神の言葉に対してであり、神への愛やその真実、その力等々に関してなのだと言われている。

 

…人の心には、多くの計画がある。

しかし、主の御旨のみが実現する。(1921

 

 人間は明日のこと、すぐとなりの人の心さえ、見通すこともできないほど無力である。そのような無力な人間がどんなに緻密に計画を立てようとも、それは思いがけない出来事によって中断され、あるいはまったく壊れてしまう。

 神が万事を私たちの計画や希望などの背後で見つめ、それをその御計画にしたがって導かれているからである。

 ここに希望がある。愛と真実に満ちた神、全能の神のご意志だけが実現していくのだ、との確信は、どのような時代にあっても、「主の平安」(ヨハネ福音書1427)を与えられてきた。

 これからも、いかなる状況になろうとも、その真理は変わらない。


リストボタン復活の希望

 

 (これは今年116日の午後、徳島市の眉山にあるキリスト教霊園での教会の合同記念礼拝にて語ったことに補筆したもの)

 

 すでに亡くなった人たちに対する言葉として、キリスト教では「記念する」と言うが、仏教などでは、慰霊とか鎮魂という言葉がよく用いられる。

 慰霊という言葉は、霊を慰めるということで、死んだ人の霊が嘆いている、苦しんでいるということからその言葉がある。死者の霊が喜んでいるということなら、慰めるということは無用のことだからである。

 さらに、鎮魂という言葉は、魂を鎮めるのであり、これは単に静かにするといった意味とはまったく異なる。鎮とは、金偏であり、金属の重しを置く、という意味である。それゆえ、鎮火、鎮圧、鎮痛などとして使われる。これらはみな、おさえておく、ということである。死後の魂、霊も、そのままでは、悪いことをする、たたってくる、ということで、押さえておくという意味である。

 このように、鎮魂も慰霊もいずれも、死者の魂は、泣いている、嘆いている、苦しんでいる、怒り荒れているというような状態だとされているからこそ、そのような魂を重しでしずかにさせ、あるいは彼らの霊を慰めて、怒りや恨みをなくそうとするーという意味がある。

 しかし、キリスト教では、信じた者は、キリストと同じ姿と変えられる。生きている内から徐々に変えられていき、復活のおりには、キリストと同じ栄光の姿にしてくださるという驚くべきことが記されている。

 

…わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。           (Ⅱコリント3の18)

 そして、私たちは復活のときには、この弱く小さなものにすぎないにもかかわらず、キリストの力を受けて、悪の力をも支配下におくほどの力が与えられるということが約束されている。

 地上にあるときから、キリストを信じることによってさまざまのこの世の闇の力に引き回されなくなり、神さまの真実を信じ続けることができるーこのことは、キリストとともに、自分の内に働こうとする悪の力をある程度は支配することができているのを示している。それが次の聖書の言葉である。

 

…耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。        (Ⅱテモテ212

 そしてパウロは、このことをさらに、深く啓示されて次のようにも記している。 なんと私たちがキリストを信じることによって、死せる状態からの復活であり、キリストとともに天の王座に着かせてくださったーというのである。王座に着かせてくださるだろう、といった推測でなく、過去形で書いてある。

 

…罪のために死んでいた私たちを、キリストとともに生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださった。             (エペソ書2の6)

 ローマにおいて最初にキリスト者となった人たちのなかに、奴隷も多くいた。そのような人たちは、つねに所有者の命令通りに動かねばならない。

 そしてカネで売り買いされ、家族もばらばらになってしまうことも多かった。

 そのように、権力やカネの力でほんろうされている状況の人たちにとって、自分たちはキリストを信じるだけで、神様やキリストだけがおられるはずの天の王座に着かせてくださるというのは何という驚くべきメッセージ、信じがたいことであったろう。しかし、聖書は最も真実な書であり、主から与えられた真実をもって書かれた書である。そのような聖書に嘘が書いてあるはずはないーそういう思いから、このような聖書の言葉をそのままに信じた。それによって神から祝福され、さらなる力を与えられていったと考えられる。

 

…わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(Ⅰコリント1312

 現在の私たちのあらゆる知識は、一時的、またごく一部のものにすぎない。神の愛やその力、その正義やさばき、死後のこと等々、それらについては、無限の神であるゆえに、私たちがわかっているのはほんのわずかである。

 そのために、なぜ不正なものがはびこり、悲しむべき犯罪や病気、事故、戦争等々が起こるのかーなぜ私たち一人一人のうちに、真実や愛がないのか、それらすべては、私たちの復活のときに明らかになる。

 そして復活したキリストそのものである聖霊が与えられたとき、死後でなく、生きているうちから、私たちは真理に関わるすべてのことを教えられると記されている。

 

…父(神)が私の名によって遣わされる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

      (ヨハネ福音書1426

 復活、それは単に死んだらよみがえる、というだけでない。

 ヨハネによる福音書には、そのことがはっきりと記されている。

 そこでは、永遠の命ということが一貫したテーマとなっている。その福音書の実質的な最後にも、「これらのことを記したのは、イエスを信じて永遠の命を得るためである」と記されている。

 そして、次のようにも記されている。

 

…あなた方に真実を言う。(*

 わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 あなた方に真実を言う。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。そ の声を聞いた者は生きる。

 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。(ヨハネ52526

 

*)この原文は、アーメン(真実に)、アーメン レゴー(言う) ヒューミーン(あなた方に) であるゆえ、英訳では I tell you the truth, (NIV)  In all truth I tell you, (NJB)、新改訳では、「まことに、まことにあなた方に言う。」などと訳される。しかし、 新共同訳では、 「はっきり言う」と訳したが、この訳では イエスが強調しているのが真理だという意味が感じられなくなる。 子供が口をあまり開けずに小さな声で答えたら、教師が はっきり言いなさい、と言った場合、それは真理とは関係がない。この聖書の箇所は 「あいまいに言うのでなくはっきり言う」という意味ではなく、真理を言うということである。

 

 さらに、次のように言われている。

…イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。           (ヨハネ112327

 このように、世の終わりのときに復活することは知っているというと、イエスはそれを訂正するように、信じたらすでにいま復活して与えられる命と同じ永遠の命が与えられているということを、アーメン(真実、真理)を繰り返して強調されている。

 そしてこの福音書の最後の部分にも、結論として、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ2031)と記されている。

 

 主のうちにこそ、命がある。

み国めざして 主に生きよう。

暗い死のかげ おおうとも、

命、主にあり、ゆるがない。          (讃美歌21- 196より)

 天国にて、すでに死去した家族や友人と会えるとよく言われる。それはその通りだが、そのような希望を持てない人たちも多くいる。

 それは、親しい人、会いたいと思う人などいない、という人たち。例えば、親からも捨てられ、信頼できる友人たちもいない。さらに、いじめを周囲から受けた、だれもかばってくれなかった、親にも相談できなかったーそのような苦しみをもって世を去った人たちは、天国で会いたいと思う人はいないかも知れない。

 しかし、復活のときには、主と同じような栄光の姿になるーという約束は万人にとってそれ以上はない祝福である。主と同じようになるなら、主の力、洞察なども同じように与えられる、とすれば、当然、復活させていただいた人たちとも会えるであろう。

 そしてだれも会いたいという人はいない、というような場合でも、主と同じような姿としていただける、主の御前でそのようになれば、当然完全な祝福をうけるのであって、もはや満たされない孤独や悲しみもすべてなくなる。

 死んだ後、いつかわからないが、キリストの再臨のときに復活させていただくーということも大きな希望となるが、いまのこの闇と混沌のなかで死んだようになっている私たちに新たな命を与えて、復活させ(すでに述べたエペソ書26)、いかなる闇にもかかわらず、そのような闇の力に打ち倒されずに前進していくこと、それこそが万人にとってさらに直接的に重要なことである。そしてそのような新たな命を与えられた者は、もはや死ぬことはない、永遠の命を与えられているからだと言われている。

 ヨハネによる福音書では、その最後に、これらのことを記したのは、イエスを神の子と信じて永遠の命を受けるためであるという。

 永遠の命を受けるなら、福音書に記されているように、いま死んだ状態から生きる。そして死んでも死なないーと記されている。

 つまり、死後は眠っていて、未来のある時期に復活する、と受けとれる箇所がある一方、いますでに復活したといえるのであり(エペソ書216)、永遠の命を与えられたのだ、ということも明確に記されている。そのような新たな力が与えられるなら、当然、未来に生じる幾多の艱難をも越えていく力が与えられるということになる。

 キリストは、葬儀に行かせてくださいと、願った人に対して、死せるものは死せるものに任せよ、と言われた。本当にいのちを受けた者は、死人に関してエネルギーをさくことではない。生きている人に対して注ぐべきであると言われたのである。

 キリスト教では、慰霊とか鎮魂などということはしない。記念する、という。

 それではその記念する集りー記念会とは何か。それは故人を忍ぶ、ということに終わるのではない。それだけでは、力は必ずしも与えられない。

 一つの家族であっても、故人とはうまく理解し合えなかった、愛しあうことができなかった、というようなことはいろいろとあるだろう。そのようなとき、故人を思いだして力が与えられるだろうか。生前に不和や、差別的待遇をうけたとか、問題のあったこと、考えが違って対立したこともあったことなど思いだすと、かえって心が滅入ることにもなりかねない。

 それゆえ、葬儀、毎年の記念礼拝などは、単に故人を思いだし、遺族を慰める、ということでにとどまるものでなく、死という厳しい現実を私たちの目の前にもちだして、私たちも必ず死が訪れること、そのために適切な霊的準備をするーそのことが大きな目的となる。そのために、死を前にしつつ、新たな力を与えられることが重要となる。

 私たちの外なる人は日々古くなっていくが、内なる人は日々新たにされていく(Ⅱコリント4の16)ーそのみ言葉のように、永遠の命、すなわち神が持っておられる命を受けて日々新たにされることを願い求め、御国に向って歩む力を与えられることが目標となる。


 

リストボタン死の力にうち勝つもの

              ー詩篇49

 

 この詩のはじめは次のような呼びかけから始まる。

 

…諸国の民やこれを聞け。

 この世に住む者は皆、耳を傾けよ。

 

 一般的な詩からは見慣れない意外な冒頭の言葉である。

 これは、永遠の真理だからこそ、諸国の民よ聞けと、強い調子で呼びかけているのである。

 この言葉通りに、3000年近くも前の詩篇を無数の民が聞いてきた。皆というのはお金持ちも貧しい人もみんなそうだということを、念のため3節で言っている。

 真理というのはある国の人だけとか、ある年齢、ある知能の人だけでなく誰にでも当てはまる。水素と酸素で水ができるのが誰にとっても当然であるように、精神の世界でもそうである。

 45節にある、知恵、英知、格言というのは同じような言葉を言い方を変えて言っている。 聖書で言う知恵、英知というのは、神に関する永遠の真理を知らされた魂の状態を表している。(英語では wisdom

 この詩の作者は民に対してに聞けと言っているが、この人自身も格言に耳を傾ける。本当の真理に耳を傾けてないなら、他者にも真理を伝えることがてきない。

  竪琴を奏でて謎を解く(5節)とは、竪琴を奏でつつ、人生の深い真理を究めるということである。永遠の真理に関する洞察が、音楽を助けとしつつ、深められてきたということである。

 このようなところにも、聖書の世界における音楽の重要性をかいま見ることができる。

 讃美歌は、実際に音楽とともに讃美することによって神の真理が心に入ってくることが多い。キリスト教の音楽は単に楽しいだけでなく、神の言葉が込められており、また曲のほうも、神への愛と憧憬の心から作られたものが多数を占めているからである。(一部にはその地域に伝わっている民族の音楽を用いることもある)

 政治家であり、詩人、音楽家であったダビデも同じようなことがあった。 (サムエル記上16章・16)今から三千年ほども前のことだけれど、音楽とともに霊的な良きものが流れてくるということがあった。

 しかし、音楽といってもどの音楽もよいものではなく、暗きへと引き入れようとする音楽もある。そのような音楽に心が奪われないように注意が必要となる。

 この詩の作者が直面していた問題は災いのふりかかる日、悪意に囲まれる日の具体的な解決である。

 この作者は深刻な経験をもっていて、それをいかにして乗り越えたのか。

 古代から権力は財産力と結びついてきた。財宝や富の力は直接武力に繋がる。財宝や何らかの武力で、そのようなものがない人達に迫ってくるというのは昔から今もある問題である。富の力だけを見ていたら、本当の助け、救いはわからない。

 それを乗り越えるために、この作者は人間の死という現実と神の無限性を見た。

 いくらお金があっても、死の世界から誰も買い戻すことはできない。富や財宝には致命的限界がある。お金や権力も死を前にしては無力である。このようなことを見抜くことが英知である。

 さらに、それに続いて、閃光のように、旧約聖書ではまだ部分的にしか示されていなかったが、ほとんどの人が人間死んだら終わりだと思っている中で、神だけがわたしの魂を死の力から買い戻すことができるという真理が啓示されことを記している。(16節)

 死から乗り越えて、愛の力で死に打ち勝つ力があることをこんなに昔から言われていた。

 旧約聖書はまだ、死後の復活ということはわずかしか出てこない。預言書のなかでは、非常に長いイザヤ書だが、死後のことが言われている箇所はわずかである。

 その一つは、次の箇所である。 神様の送られる露は光の露だと詩的な表現である。まだ復活ということを誰も知らなかったときに、闇の中に稲光があるように、光を受けて、神様は死んだ人の世界に命の光の露を送るんだと、閃光のように見ることができた。(イザヤ書2619)

 そしてこうした記述は、後に現れるキリストの復活と、キリストを信じる人たちの復活という真理を預言するものとなったのである。

  死んだものを贖い取る、闇の力から救いだしてくださる力があるということが、示されるかどうかは、すべての人の人生を一変させるほどの重要なことである。

 どんな無学な人でも、死にかかった人でもこれが分かったら、死さえも喜びになる。  この詩の作者は、死という現実を思ったら、権力者も富も何も力がないということが冷静に分かり、さらに積極的な意味で、闇の力から救い出してくれる力があるということも、神からの啓示によって示された。

 神を見つめるとどんな難問も解けていく。現実を見るとだんだんと追い詰められていくが、そこから打ち勝つ英知を与えられ、死の力すらも打ち勝つ力も与えられ、悪意をも乗り越えて勝利していった。

 このような真理の永遠的な力を知らされたゆえに、この詩は冒頭から、「諸国の民よ、聞け」と言われているのであり、その呼びかけは、今日に至るまで続いている。


  

リストボタン主の導き     藤井美代子

 

 1118日の朝、私たちのキリスト集会員で、共に歩みを続けてこられた藤井美代子姉がみもとに召されました。

 以下の文は、2012年の春のイースター特別集会でなされた感話です。

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 私は穴吹の出身です。

 キリスト教に触れたのは子供の頃、 近所のクリスチャンの方がおられ、クリスマスには、よく招かれて参加しておりました。親族で唯一人のクリスチャンの叔母の導きもあったことも、その一因だったと思います。母が50歳の若さで他界し、続いて私も体調を崩し入院いたしました。

 その時、叔母がみ言葉を送ってくれました。「彼らは涙の谷をすぐれども、そこを多くの泉ある所となす」 文語訳、詩篇84章7節です。

 この、みことばが今も私の心に深く刻まれて印象深く、忘れることができません。

 穴吹集会、脇町教会へ参加し導かれました。私の母教会は脇町教会です。

 牛島出身の主人と49年前のイースターに結婚し鴨島での信仰生活を続けておりましたが神様の意に反し年月は重ねつつも、 なまぬるい信仰生活だったと反省しております。

 問題のある中、今後どの様な道があるかと祈りつつ生活しておりましたが徳島聖書キリスト集会に、お導きを受け、現在に至っております。

 初めて参加させて頂いた昨年(2011年)の6月第2主日礼拝の吉村さんのお勧めの中に「わたしは決してあなたから離れず、決して置き去りにはしない」(ヘブル書13章5節)のお導きで神様は私のことを見捨てず、ご計画の中に入れて下さっていると、言うことが、はっきり示され感謝で一杯です。

 薄れつつある昔の良き時代の人々への思いやり優しさあふれる皆さまのお仲間に入れて下さいましたこと本当に嬉しく思います。

 今後とも、よろしくお導き下さいます様お願いいたします。ありがとうございました。

 

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〇藤井 美代子さんの愛唱讃美歌より。多くありますがここにはその一部をあげておきます。

「いつくしみ深き」讃美歌312

 「人生の海の嵐に」新聖歌248「主が私の手を」新聖歌474

「み恵み深き御神よ」

                  新聖歌415

 

  とくに「人生の海の嵐に」は、死の近づいたとき、声も出なくなったときでも、私どもが枕元で歌いますと、ずっと歌詞も覚えておられたようで、口が歌詞のとおりに動いていました。いままでの生涯のなかで経験した数々の嵐のたびに、魂の港であるイエスさまのもとで、平安を与えられてきた魂の姿を深く感じたことでした。

 

〇美代子姉が心に残っている聖句より

 

主ご自身がこう言われる。

「わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」

(新約聖書 ヘブライ人への手紙135節より)

 

 藤井美代子姉に関しては、自宅療養のときから、一般的な治療を行なう病院に頼らず、さまざまの治療をみずから労力をいとわず、力を尽くして続けられたご夫君、藤井文明兄の姿も私たちの心に強く残されたことでした。


  

リストボタン編集だより

 

〇今月号は、執筆する時間がどうしてもとれずに、発行が二週間遅れ、さらに内容も少なくなりました。それは11月9日~17日まで、九州、中国地方のいくつかの集会にてみ言葉を語るために出向いていたこと、その他の事情もありました。若き日のように、夜中の二時、三時までかかっても仕上げるということができなくなってはかどらないということもあります。

 

来信から

 …健康状態が十分でなく、遠くの集会に参加できなくなったが、インターネットのスカイプによって私たちの主日礼拝に参加されるようになった方からの来信です。パソコンがなくとも、スマートホンによっても、スカイプによって、ともに集会に参加できます。こうした手段は以前では考えられなかったことです。

 

・参加者全員が自宅にいて、インターネットのスカイプで集会をする集りに参加して、関東や九州、四国の人々のお声を聞いて、特別な感動がわき上がってきました。

 参加した各地からの16人の人々が、遠く離れたそれぞれの場所で、心を一つにして、み言葉に耳を傾け、その語られるメッセージの中に、皆が一様に神様の愛を感じたような不思議な感覚に捕らわれました。

 9月に初めて、スマートホンを用い、スカイプを通して徳島聖書キリスト集会の主日礼拝に参加したことのことです。スマートホンから、集会のはじめのオルガン伴奏の音が流れだしたとき、同時に私の目から涙が流れだしました。

 このように、実際にスカイプで遠く離れたところでの主日礼拝からの音が聞こえるようになるまでに、何人かの兄弟姉妹に大変お世話になったのです。大阪のnさん宅で、Nさんが、徳島のSさんに電話して長時間、スカイプで通話できるようテストを繰り返しました。

 スマホ相手のスカイプはSさんたちも初めてのようでした。私は何度もあきらめかけましたが、Nさんの決してあきらめない真剣な態度に驚きと感謝をもって続けることができました。  さらに、別の日には、徳島のNYさんが練習につきあってくださいました。NYさんも根気よく説明を繰り返し、私の操作を忍耐強く待ってくださいました。 このときは、muteの仕方や、画面の変え方etc、実際に礼拝に参加するときの注意点などもいろいろ教えてくださいました。

 体力が弱り、以前集っていた集会場所までいけなくなった私が、自宅にいながら主日の礼拝に参加できるように、みなさんが惜しみなく時間と知識を与えてくださいましたこと、心から主に感謝しますと同時に、イエス様とつながっていることによる恵みに喜びを禁じ得ません。…

 年取ると、新しいことを始めるのはとても困難ですが、何とかできるようになると喜びもまた大きいです。みなさんが、本当によかったと喜びでくださり、Line で、メッセージをくださったり、カードおくってくださったり、共に喜んでくださることは大きな支えです。…(関西の方)


 

リストボタンお知らせ

 

〇全国集会記録集

 5月に徳島で行なわれた、第30 キリスト教(無教会)全国集会の記録集ができたので、希望の方にお送りできます。参加者、参加予定で会費を納入された方々などには、「いのちの水」誌とともに同封してお届けします。

 内容の大部分はすでに、「いのちの水」誌の5月号以降に順次掲載してきたものです。 写真はもともと入れる予定もなく、そのために全国集会では写真係もおかなかったのですが、一部スナップ写真というべきものが撮られていたのでそれを入れて、不参加の方々に全国集会の雰囲気が少しでも伝わるようにと少数入れてあります。 写真を撮るために従来は時間を多くとられ、分科会を中断して撮影が個別の分科会ごとになされ、またその担当者は、撮影のためのかなりの時間は、集会に参加できなくなるというマイナスがあるために、写真はとらないという方針でした。

 記録集作成になかなか時間がとれず、いろいろ不十分なものとなりましたが、主がそのようなものをも福音のために用いてくださるようにとねがっています。

 希望者は、一冊500円(送料込)です。申込は、「いのちの水」誌奥付に記してある吉村孝雄宛て、メール、電話、FAX、ハガキなどで申込ください。代金は郵便振替(これも番号は奥付にあります)、あるいは200円以内の少額切手でも結構です。

 なお、録音は、ほとんどのプログラムについてMP3形式でなされてCDとしてすでに販売しています。多くの方々から申込ありましたが、現在でも希望者にお送りできます。全体の内容を収録しても、MP3形式でCDにすると、1枚で全部が入っています。また全国集会の賛美だけ、あるいは講話だけを収録したCDも別途作成していますので、これらのCDの希望者も、吉村まで申込ください。このCDも一枚500円(送料込)です。


 

リストボタン徳島聖書キリスト集会案内

・場所は、徳島市南田宮一丁目一の47  徳島市バス東田宮下車徒歩四分。

(一)主日礼拝 毎日曜午前1030分~

(二)夕拝 第一火曜と第3火曜。夜7時30分から。

 毎月第四火曜日の夕拝は移動夕拝。(場所は、徳島市国府町いのちのさと作業所、

吉野川市鴨島町の中川宅、板野郡藍住町の奥住宅、

徳島市城南町の熊井宅の4箇所を毎月場所を変えて開催)です。

・水曜集会…第二水曜日午後一時から集会