いのちの水 2016年12月号 第670号 

目次

単純さのなかに秘められたものー星の輝き

キリストに導くもの

神様、なぜですかーヨブ記から

・感謝の献げものをー詩篇50

旧約聖書の続編から

休憩室

お知らせ

 


リストボタン単純さのなかに秘められたもの

      ー星のかがやき

 

 この世界では実に多様なものがある。人間が造り出した建造物、芸術作品、そして動植物にも無限の多様性というのがある。

 そうした複雑きわまりないこの世界の見えるもののうち、最も単純にしてしかも最も深い美をたたえたものーそれが星である。

 冬を迎えて夜空は澄み渡り、さらに一年で最も明るいさまざまの星が見える季節となった。

 とりわけこのところ、夕方には金星、明け方には木星がその強い光をなげかけていて、一層そうした星々に心惹かれる。

 星は外見的には、その輝きも色も単純そのものである。しかし、そこには真実、善きもの、そして美そのものが深く秘められている。

  地上でいかなることが生じようとも、星の単純で深淵な美しさや清い輝きを汚すこともない。

 その姿は、私たちに人間の持ち得ない真実を指し示している。

 きのうも今日も、そして明日も同じように輝き続ける。

 それは「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」というみ言葉を思い起こさせる。

             (ヘブル138

千年、万年をはるかにこえてもその清い光を放ち続けるその姿ーそれは、人間の言葉や行動、その心の中にはさまざまの汚れ、罪があり、闇があるのに比べて、全く異なる世界のものを暗示している。

 完全な善きものーそれは光そのものであり、常にその光を放つものである。

 神はこの暗黒と混乱の世界に光あれ!と言われ、それが聖書全体の内容を指し示すものとなっている。

 このように、最も善き存在である神は、光を与える存在として最初に記されている。

 キリストも言われた。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ」(ヨハネ812

 沈黙しつつ、雄弁であり、何の変化もないが、しかも見る人に良きものを与え続ける。

 私たちがひとたび霊的な世界のことと結びつけて見るとき、あの星の光は、そうした聖書の最も重要な光のことを内に秘めて輝き続けている。

 


 

リストボタンキリストに導くもの

 

 キリストが誕生したとき、はるか一〇〇〇㎞以上も離れていたと思われる地域から、三人の知性ある人たちが、砂漠地帯を越えてはるばるキリストの誕生への祝いものを持ってきた。

 そしてひざまずいてイエスを拝した。(マタイ福音書二章)

 彼らは星によってキリストの誕生を知らされ、また星によってキリストの誕生の場所へと導かれたと記されている。

 そして生まれたばかりのイエスに礼拝を、心を捧げた。それほど、彼らにとってキリストは絶大な存在として啓示されたのがうかがえる。

 しかし、 このような記述はあまりにも現実離れしていて子供向けのおとぎ話のように思う人は多いであろう。

 しかし、単なる子供向けの話は決して聖書には載らない。

 こうした一見子供向けの童話にも出てきそうな内容が、ひとたび霊的な世界にかかわっていることを知るときには、さまざまのことが暗示されているのに気づかされる。

 こうした星によって知らされ、星が導いてキリストのところに連れて行くーこれは、何もキリストに関して古代に一回だけ生じたことでない。

 それは、キリスト以後、無数の人たちに生じてきたことである。

 私自身もまた、たしかに一冊の本のある一ページが、キリストのことを知らせる星のような役目を果たしてくれた。

 そして、キリストへとその小さな本が導いてくれた。

 書物もまた、星となりうる。 三人の東方の賢者たちは、彼らにとって最も大切な黄金、乳香、没薬といったものをはるばる携えて、キリストに捧げた。

 途中の砂漠地帯で砂嵐や追剥などにであってそのような宝物を略奪されるかも知れないし、命も奪われる可能性も高い。それにもかかわらず、彼らはキリストのもとへとそうした宝をもって星に導かれてきた。

 キリストの不思議な力はすでに誕生のときから発揮されているのを示すものである。

 人間の最も大切にするものを、捧げようとするほどに、キリストは絶大な力を及ぼしているーそれは現代までの二千年間、無数の人たちにそうした力を与えてきた。

 私たちもまた、キリストのことを知らされ、私たちのうちにキリストが生まれてくださるとき、キリストが最も大切なものを私たちにくださったことを知る。それとともに、私たちもまた、自分が一番大切にしているものを捧げようという気持へと導かれる。

 今も、目には見えない星がかがやき、キリストがおられることを指し示し、またキリストのもとへと導こうとされている。

 私たちも、その光を受け、その導きを魂の内なる星ーキリストに必ず受けて日々を歩めるようでありたいと思う。


 

リストボタン神様、なぜですか

            ーヨブ記から

 この世にあって不可解なことはいくらでもある。この世界を創造し、支配しているのが正義の神、真実の愛の神であるのなら、どうしてこのようなことが起こるのかーということは、はるかな古代から現在に至るまで、日常的に生じている。

 それゆえに、そのような神は存在しないのだ、あちこちにいわば無秩序に何か不可解な力を持つものがあるーそれを神々として崇めるのが世界中でなされていることだった。

 そのようなただなかに、この世界を創造された神は唯一であり、しかも現在も愛と真実をもってこの世を治めておられるということを真理だと確信する人たちも起こされてきた。

 しかしそうした人たちも、簡単に神の正義や愛の支配を信じ続けることができたのではない。

「神はどこにいるのか! という切実な叫びは、この世に満ちているゆえに、聖書の中にもしばしば現れている。

 聖書は単なる理想や人間の想像でなく、事実を深くかつ鋭く述べているゆえである。

 そのような人生の深刻な魂の戦いに関して詩的表現で記されているのが旧約聖書のヨブ記である。

 ヨブという人物は、豊かであり、かつ常に神を忘れず、息子たちの罪の赦しを神の前で祈り願う生活であった。

 そのような彼に、突然息子も殺され、財産も奪われるという悲劇が襲ってきた。

 さらには、自分の健康も損なわれ、激しい苦しみにさいなまれるという事態になってきた。そうなった上、妻からも神をのろって死んだらいいのだ、というような侮辱的な言葉をうけるほどになった。

 そしてもう、自分がこの世に生まれてきたことを強く呪うという事態にあった。

  そうした状況にあって、3人の友人が訪れ、ヨブを慰めようとした。そして苦しみのさなかにあるヨブと長く、はげしいやりとりがなされた。なぜこんな目に遭うのかというヨブの叫びに対して、それはヨブの罪ゆえだというのが友人たちの主張であった。

 しかし、ヨブはどうしても自分がそのような苦難をうけるほどの罪は犯していない、私は正しく生きてきたーと繰り返し反論した。

 そして双方が議論の応酬に疲れ、どちらの答えも延々と続いて果てしがなかった。

 そのようなとき、突然現れたのがエリフという人物だった。(ヨブ記3237章)

 その名も、エリ(神)、フー(彼)から成り、「彼は神」という名前である。その後神がヨブに語りかけたとき、42章の7節で「お前たち3人は正しく語らなかった」と言われたが、エリフのことは一言も述べていない。38章でも神はエリフに答えたのではなくヨブに答えられたた。エリフと言うのはこのように、神秘さをたたえた存在である。

 神は、長い沈黙ののちに、最後にようやくヨブに語りかけるが(ヨブ記38章~)、自然の素晴らしさや神秘を言われ、そうしたことが分かっているかと言われるが、エリフの言葉は神の言葉と共通点を持っており、神の言葉への橋渡しとなっている。

 ヨブ記35章4節、5節に「天を仰ぎ見よ、雲を見つめよ」とある。自然を深く見つめることの人生が示されている。主イエスも「野の花(百合と訳されている事が多い)を見よ、空の鳥を見よ。」と言われた。

 単に雲の動きを見るだけで、深い暗示を得ることができるというのである。神は力強く、英知に満ちている。その英知によって、神の言葉に立ち返って耳を傾ければ幸いを与え、それを無視し続けるならば滅びていくという一種の法則を述べている。

 神は、苦しみによって、そこから救いに導こうとされる。神に対して罪を犯したことを知って、心が砕かれることで導かれていくのである。

 26節からは「なぜ自分だけこのように苦しみがあるのか分からない」ということへの応答として、神は大いなる自然を持って啓示しておられるということが書かれている。人間の意見や思いではなく、神の直接の力の表れとして自然がある。雨、雲、雪、氷、雷鳴などが書かれており、雷鳴については特に詳しく書かれている。神の悪に対する怒りの気持ちをあの音と光にこめられているとある。

 様々な自然現象は、大地のためにも、恵みのためにも与えられているだけでなく、人間への大いなる警告と教えのためにも存在していると記され、大きな視野から起こされている。

 雷の光や音が人間にどのような意味を持つか。科学的でなく、霊的な意味となると誰も極めたとは言えない。

 ヨブ記37章の21節、今、光は見えないが雲の彼方で輝いている。金色の光が差してくる。全能者の全貌を見出す(極めつくす)ことは私たちにはできない。私たちの理解を遥かに超えている。

「自分になぜこのような大いなる苦しみが来たのか」それはどんなに考えてもわからない。そこから神がエリフという人物を通し、さらに神ご自身が語ったことーそれはこの自然の世界の無限の神秘を思うとき、それらすべては深い謎に満ちている。小さな一つ一つの自然の姿ー私たちの身の回りでも植物の葉の一つ一つの形、とげや細毛、花びらの形や色、とうとう動物や昆虫の模様や生態ーすべてなぜそのような姿でなければならないのか、葉の一つ一つの鋸歯(ぎざぎざ)をとっても、丸いのもたくさんの鋸歯のもの、表面がなめらかなもの、厚い葉、薄いもの、実に千差万別であるが、そうしたいっさいは謎にみちている。そのような葉の鋸歯ーそれがなくと生きていくためにも何も支障がないにもかかわらずなぜそのようなおびただしい多様性があるのかーそんな身近な植物のこと一つとっても無限の神秘がある。それゆえ、私たち人間に不可解なことがあるのは当然なのである。

 神は無限大であり、その神に比べるなら人間は限りなく小さい。数学者、物理学者であったパスカルは、神の無限大に比べるなら、いかなる有限も厳密にゼロになると書いた。

 私たちは、知識や判断、また善への力等々、人間の弱さ、卑小さを深く知り、神の無限の大きさ、深さを知らされ、それゆえに、そこから私たちに降り注ぐ困難や苦難の理由がわからなくとも、神の導きに信頼するという道が示される。

 キリストが言われているように、聖霊が与えられて、初めて全てが教えられて分かるのである。


 

リストボタン感謝の献げものをー詩篇第50

 

 この詩は正しい礼拝のあり方を示す内容をもっている。

 聖書は、人間の正しいあり方を一貫して指し示す書である。そしてそれゆえにその正しい道から絶えず大きく離れてしまう人間の罪をも繰り返し指摘してそこから立ち返るようにとのみ言葉を与え続けている。

 そしてそのような道からはずれた私たちに、求めることによって神の力が与えられる恵みが備えられていることも同時に繰り返し述べられている。

 この詩も、そのような内容をもっている。イスラエルの民は本来、人間の正しい道を示されている。にもかかわらず、繰り返しそこから離れ、あるいは背き敵対している状態である。

 神はその民を愛するがゆえにそのまま放置されず、厳しい警告を与える。

 

火の力を持つ神

神々の神、主は、御言葉を発し、(*

日の出るところから日の入るところまで地を呼び集められる。

麗しさの極みシオンから、神は光を放たれた。

わたしたちの神は来られる、黙してはおられない。

御前を火が焼き尽くして行き、

御もとには嵐が吹き荒れている。 (1~3節)

 

*)「神々の神、主」…原文は、エール(神) エローヒィーム(神の複数形) ヤハウェ

 となっている。エローヒームは、単に神とも訳されるが、ときには、力強い、激しい(mighty)とも訳される。(創世記308など)

 それゆえ、この箇所も、「力ある神、主」 とも訳される。英語聖書では、次のような表現となる。The Mighty One, God, the LORD (NIV)

 

 一読してよくわかるーといった内容ではない。現在の私たちの生活とは何かかけ離れているような言葉がならんでいる。

 しかし、これは今から数千年も昔の、日本とははるかに離れた地理的にも全くことなる状況に生きた人の表現であることを思う必要がある。

 こうしたなじみにくい表現の奥に何が言われようとしているのか、現代の私たちに何を投げかけているのかを学びたいと思う。

 この詩の冒頭でこのように、神の力強さをまず強調し、そして、全地を呼び集めるという壮大な語りかけから始まっている。

 何のためなのか。それは次にあるように、神の民であるイスラエルの人々の間違った宗教的状況を裁き、強い警告を与えるためである。

 神は、当時エルサレムの一つの場所に過ぎなかったシオンに現われた。エルサレムは山の頂上部にある町で、その一角にシオンがある。

 なぜそんなところが麗しさの極みと言われているかというと、神のおられるところは最も美しいからである。神こそは、あらゆる美しいものの根源であり、完全な美そのものだからである。

 人間もそうで、例えば、マザー・テレサの晩年には高齢となり、顔はしわだらけであっても、神と結びついているゆえ、独特な美しさが出てくる。内なる美しさを持っている場合は、年を取っても変わらない。

 そしてシオンに皆を呼び集めたのは何のためか。それはイスラエルの民を裁くために、自分の民がいかに間違っているか、真理は何なのかをはっきりするために来られた。

 火が焼き尽くすとか、風が吹き荒れているというのは、神が悪を滅ぼす力を持ってくるということを詩的な表現で言っている。

 聖書においては、神は岩であるという表現はしばしば現れる。(*)強固なお方ということや、神の御前には火があり、の悪を徹底的に焼き尽くすというお方としてもしばしば描かれている。

 

*)主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ。(サムエル記下 22:47

 

 私たちが悩まされるのは、悪の力であって、私たちの内や社会、国にも入り込んで悪によって世界が苦しむ。現在の日本や世界の状況を知るほど、悪の力、闇の勢力が次第に広がっていく気配が濃厚で、この傾向が進んでいくとき、これからの世界の前途はどうなるのであろうかーと不安が増してくる。

 しかし、悪の力がこの世界の最終的な力ではなく、このように焼き尽くす火のような力をもった神が、神の御計画に従って必要なときに来られる。この詩の作者はその神がこのように宣言された声を聞き取り、感動し、この詩に残した。

 神が火のような力をもっているというのは、新約聖書でも受け継いでいる。

 

・…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(マタイ三・11

 

 これは、キリストの先がけとなった洗礼のヨハネが、キリストに関して言った言葉。キリストは悔い改める者に対しては、聖霊というこの世の最高の賜物を与える方であるが、他方、悔い改めようとしない者に関しては、火でたとえられるような力をもって裁かれる、そして清めるお方であるーということである。

 また、神は悪に対して最終的にどのようにされるか、次のように記されている。

 

…私たちは御国を受けているのだから、感謝しつつ、畏れ敬いつつ、神に仕えていこう。

実に、私たちの神は、焼き尽くす火である。(ヘブル書12の28~29より)

 

 また、神のおられるところには、火のようなものがあり、火の川が神の御前から流れ出ている。(ダニエル書7の9~10より)

 

 こうした神の厳しい本質は、なにか親しみにくい、愛の神とはまったく異なるように思われる人も多い。

 しかし、私たちにとっての根本的なさいわいとは何だろうか。それは自分の心からも、周囲の人たちや日本、世界の人々のなかから悪が滅ぼされることである。悪人が滅ぼされるというのでなく、悪人とされる行動をしている人たちそのものは滅びるのを願うのでなく、その人たちの心が変えられるようにとの祈りが一番重要。

 その悪人のうちにある悪そのものが神の火と言われる力によって焼き滅ぼされることを願う。

 このように、この詩篇の言葉は一見私たちには関係のないように見えるが、よくその言葉を見つめていくとき、私たちに身近なものとして近づいてくる。私たちの個人的経験においても、何かよくないことをしたり、言ったりしたときには、何らかの裁きがあると感じている人たちも多いであろう。それは他者には分からないことが多いが、はっきりとこれは裁きだ、と直感的にわかることがある。

 

 

形式的宗教への裁きと本当のあり方

…「わが民よ、聞け、わたしは語る。

イスラエルよ、わたしはお前を告発する。

わたしは神、わたしはお前の神。

献げ物についてお前を責めはしない。

森の生き物は、すべてわたしのもの、

山々に群がる獣も、わたしのもの。

世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか。

感謝を神へのいけにえとしてささげ、(*

いと高き神に満願の献げ物をせよ。

それから、わたしを呼べ。苦難の日、わたしはお前を救おう。

そのことによってお前はわたしの栄光を輝かせる。(7~15より)

 

*)新共同訳では、「告白を神へのいけにえと…」と訳されている。しかし、告白と訳された原語は、トーダーであり、「感謝」を意味する。それゆえ日本語の他の訳(口語訳、新改訳、関根正雄訳)もすべて「感謝」と訳しているし、外国語訳も同様である。 Offer to God a sacrifice of thanksgiving (RSV) Present to God a thank-offering!  (NET)

 新共同訳においても、この語はほかの箇所では、「感謝」と訳されているにもかかわらず、この詩編50篇だけは、「告白」と訳している。

 

 このように、当時の神への礼拝において捧げるものは動物の肉や血であった。それが当たり前として行なわれていた時代であるが、その際の心構えというものも、まったく神への大切なことを欠いていた。

 

…神は背く者に言われる。「お前はわたしの掟を片端から唱え、わたしの契約を口にする。どういうつもりか。

お前はわたしの諭しを憎み、わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。

盗人と見ればこれにくみし、悪事は口に親しみ、欺きが舌を御している。

座しては兄弟をそしり、同じ母の子を中傷する。(16~20より)

 

 この詩の作者が神から示されたことは、さまざまの動物はいまさら神に捧げる必要はない、もともといっさいの動物はみな神のものだからである。

 そのようなことをしても何ら、人々の心は変ることなく、腐敗したままである。 

 神が人間に求めるのは、そうではなく、感謝の心だというのである。神は生きた神であるゆえに、人につねに何か良きものを提供し続けておられる。そのことは私たちが魂の目を開くほどわかってくる。そこから神への感謝が自然に生まれる。

 そのような心からの感謝の心こそが、神への最善の捧げ物だと言われている。

 こうしたことは、次のように他の詩においても歌われている。

 

…神よ、あなたに誓ったとおり、感謝の献げ物をささげます。        (詩編56の13)

…感謝の献げ物をささげて主に歌え。立琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。            (詩編147の7)

 

 神への感謝の重要性、それが神に喜ばれることーこれは人間関係からも類推できる。私たちが誰かに何かをなすべきことをしたり、与えたりしても、全く感謝しない者もあれば、小さなことをずっと覚えて感謝をあらわす人もいる。

 自分自身、親から生まれ落ちたときから数知れないさまざまのことを受けておりながら、いかに感謝を表すことが少なかったかを思いだす。同様に、ほかの人間関係にあっても、同様で私たちは、自分になされた良きことを簡単に忘れてしまう。

 あるいは覚えていても、当然のことのように思ってしまい感謝を怠る。

 こうした状況は、自分がやったのだ、自分の努力や能力でできているのだ、という自分中心の、狭く高ぶった考えがあるからだ。

 自分の弱さや罪を知るとき、そして自分のそうした弱さにもかかわらず何かができているのは、さまざまの人たちのおかげであることを知っているとき、感謝は自然に生まれる。

 このように考えるとき、私たちの自分中心、すべてを配慮されて導く神が見えないゆえに、人にも神にも感謝をしない心になっているのだとわかる。 

 日常生活の中で、日々のさまざまの出来事に関して、「神さま、ありがとうございます。」という単純な祈りこそは、神が喜ばれる祈りであり、だれにでもできることだ。

 これは特別な能力とか資金、あるいは運命といったものと関わりなく可能である。それゆえに、使徒パウロも次のように勧めている。

…いつも喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝せよ。

これこそ神があなた方に望んでおられることである。

  (テサロニケ5の16~17より)

 すべてのことにおいて感謝するーこれはもちろん私たちにとっては著しく高い目標であり、現在これがいつも実行できているというような人はまずいない。キリストすら、ゲツセマネの祈りにおいては、感謝をすることでなく、激しい霊的な戦いに置かれ、血のような汗を流しつつ、「どうか御心でしたらこの受けようとしている苦難(十字架)を取り除いてください。しかし御旨のままに…」と祈られたのである。

 もし私たちがそのように神を仰ぎ、神のなさるさまざまのことに、たとえそれが苦しくとも、きっと最善にしてくださると信じて感謝を捧げるときには、必ず良きことを起こしてくださる。

 それゆえに、この詩の最後にもう一度、すでに語ったことを繰り返して終わっている。

 

…感謝のいけにえを捧げる人は、

私をあがめる。

道を正しくする人に、私は神の救いを見せよう。(23)



リストボタン旧約聖書の続編(*)から

 

〇…全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。

 あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。

憎んでおられるなら、造られなかったはずだ。

 あなたが望んでいないのに存続し、

あなたが呼び出されないのに存在するものが

果してあるだろうか。

命を愛される主よ、

すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。

    (知恵の書112326

・ここには、深い神への信頼、その愛への確信がある。

 神の愛は万人に及んでいる、そして救おうとされている。人間だけでなく、この自然の世界もすべて神が愛されるゆえに創造されたのだと。

 

〇…(神の英知は)人間を慈しむ霊である。

神は人の思いを知り、

心を正しく見抜き、

人の言葉をすべて聞いておられる。

主の霊は全地に満ち、すべてをつかさどり

あらゆる言葉を知っておられる。(同)

 

・神は全能ゆえにすべてを聞いておられる。そしてつねにその適切な報いを与えておられる。私たちも神の英知のほんのひとしずくでも与えられるとき、神とその創造された自然に聞く耳が与えられることを期待できる。

 

〇いかに多くを語っても、決して語り尽くせない。

「主はすべてだ。」このひと言に尽きる。(シラ書4327

 

*)旧約聖書の続編とは、外典(アポクリファ)とも言われる。ヘブライ語で書かれた旧約の部分を「正典」とし、紀元前3世紀にエジプトでギリシア語に訳された『七十人訳聖書』Septuagintaのなかに追加されてある部分を「外典」いう。

 新共同訳では、続編という名称で続編付きの聖書として発行されている。 キリスト教の最初の使徒たちの用いていた聖書は、ヘブル語の旧約聖書でなく、ギリシャ語に訳された70人訳といわれる旧約聖書を用いていた。 しかし、ルターが聖書をドイツ語に訳したときに、ヘブル語の旧約聖書から訳したため、プロテスタントでは、続編のない旧約聖書が一般的となっている。 しかし、使徒たちが用いたものであり、二千数百年の歴史を越えて残されてきた書であり、ここに引用した箇所からもうかがえるように、聖書とほぼ同様な内容を持っている書が多い。

 プロテスタントの聖書では続編を含んでいなかったため、その内容をよく読むことなく、続編を退けている人が多いが、正典とされている現在の旧約聖書のエステル書や雅歌には、神という語や信仰あるいは信頼という言葉が一度も使われていないのであって、とくにエステル書が引用されることはほとんど見かけない。それらより、はるかに続編の「知恵の書」(「ソロモンの知恵」)、「シラ書(ベン・シラの書、あるいは集会書とも言われる。ベンとはヘブル語で子という意味であり、ベン・シラとは、シラという人の子 という意味)」などが、真理に満ちた内容であり、旧約聖書の箴言と共通の内容が多い。またマカベア書は、旧約聖書のダニエル書の理解には不可欠の書であり、旧約聖書から新約聖書の時代に起こった出来事を知るためにも必須の書である。


 

 

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夜明けの星

 12月に入って、夜明け前に、東の空に強く透明な輝きを見せている星があります。木星です。

 夕方には、金星が宵の明星として、強い光を投げかけているので、都会でもすぐに見つけることができるほどです。

 まだ、しばらくの間は、宵の明星と、あたかも明けの明星の金星を思わせる二つの星を見ることができます。

 このように、夕方も夜明け前にもともに、星空では最も明るい星を見ることができるのは、長い間なかったことです。

 夜明け前、午前3時ころには、東の空から昇ってきて、数時間輝きを見せつつ、午前6時ころにはほぼ真南の空に著しい光を見せています。

 12月20日ころは、月が見えているので、木星の輝きもそれほど強く感じられないのですが、クリスマス以降になると、月も細い三日月のようになり見えなくなっていくので、木星の輝きが一段ときわだってきます。早朝の4時~6時前ころです。

  まだみんなが寝静まっている夜明け前のひととき、戸外に出て東天に黙して光の言葉を投げかけている木星、それ自体が一種の神の言葉です。広大な宇宙から、地球の私たちに向って何らの強制も副作用もなく、ただ黙して輝いているその光は、天の国からの光を象徴しています。

 


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