いのちの水 第661号 (毎月1回発行) 2016年3月10日発行
主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。 私はあなたを待ち望みます。(詩篇39の8より) |
内容・もくじ
編集だより |
春、それは太陽の熱と光が強くなり、野山はいっせいに芽吹き、あるいは花咲く季節である。
それまで、枯れたようになっていた木々に黄緑色の新芽が見え始め、そこから次々と若葉が成長し、さらに花を咲かせていく姿は、私たちに命の躍動を実感させてくれる。
寒さにからだが萎縮していた状態から解放されて喜ばしい気持ちになる。
春を意味する英語の spring とは、「湧き出る」が原意であり、泉の英語である spring、そしてばねの spring と同じ意味を持っていると語源辞典では説明されている。
主イエスも、「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」(ヨハネ4の14より)と言われた。
春はたしかに生命が湧きあふれてくる季節である。それは、私たちの外なる自然の状況であるが、私たちの内なる世界にも春は訪れる。
それは霊の太陽なる神(キリスト)が、内に深く宿ってくださることによって生じる。
旧約聖書の最後の書(マラキ書)にも、信じる者には、「義の太陽」が上る、と記されている。
そのときには、たしかに私たちの魂も、神を、そして神の愛を知らなかったときには冷えきっていた魂が太陽なる神によってあたためられ、それまで芽を出せなかったものが心の内に芽吹いてくるのを実感する。
そして小さな身辺のできごとにも、日々の自然のたたずまいにも、心は反応して花を咲かせ、苦しい経験もそれを養分として花を咲かせ、そして実を結ぶように導かれる。
私につながっていれば、実を結ぶ―という主イエスの言葉のように。
しかし、この世は冷たい風が吹いている。心を固くさせ、ときには凍らせてしまうこともある。
その冷たくなった心を溶かすのが神の愛であり、霊の太陽としてのキリストである。
魂の冷たくなっている人たち、温かい日の光を心に受けたい者は私のもとに来れ!と キリストは今も語りかけておられる。
想像を絶する巨大な津波、そして数知れない人たちが呑み込まれ、絶対安全と言われてきた福島原発の大事故が生じた。
それは、巨大地震により、原発に電力を供給していた送電線の一部が倒壊し、かつ関連設備も故障して外部電源が失われ、非常用の炉心冷却装置等々が作動しなくなったからであった。
そして5年を経た現在もその原発の中心部分には、近づく人が即死するほどの放射能を出し続ける溶けた燃料がある。
津波による被災者の方々は、新たな家を与えられた方々もいるが、家族が失われ、住んでいた共同体はばらばらになり、その傷はいやされない人たちは数多い。
原発の近くに住んでいた人たちは、今なお多くの人たちが故郷に帰ることができず、原発の廃棄物、放射能の除去はいつになったら終わるのか誰も分からない。
チェルノブイリ原発の大事故から、今年の4月で30年になるが、なおも溶融した燃料に近づくと即死するほどの強力な放射線が放出されつづけている。それゆえにどこへも持っていくことはできない。
そもそも、その廃棄物は、ゴミというにはあまりにもかけ離れた恐るべき代物である。一般のゴミは焼却すれば終わる、あるいは何らかの化学反応により無害化したり、また埋め立てると処理できる。しかし、原発の廃棄物は焼却してもいかなる高熱で焼却しようとも、またどこかに埋め立ててもなくすることはできない。
地下数百メートルに埋めても、ドイツのように地層の構造上、安全とされていたところでも、地下水が汚染され、膨大な費用とエネルギーを費やしてそれをとりだす作業がはじまっているという。
地下の地質が安全とされているフィンランドでは、地下の深いところに広大な空間をつくり、そこに保存して10万年も管理が必要となっている。 しかし、このような途方もない年月は、人間にとって無限といってよいほどの期間である。その途中に何が起こるか誰一人分からない。日本では、火山が至るところにあり、複雑に地下水脈も流れており、どこに埋設しようとも、世界でも有数の大地震や火山活動の活発な地域であるゆえ、10万年も安全な地下などもともとあり得ない。
こうした解決不能の問題があるにもかかわらず、原発をなおも継続していこうとしている。
これは、原発の大事故という天からの大いなる警告を無視することであり、また憲法9条の改変ということも、太平洋戦争に至る数々の戦争がいかに悲惨な結果を招くか、数千万の死傷者の犠牲を生み出し、それが大いなる警告であるにもかかわらず、現在の首相、政府は、その結果与えられた憲法9条の精神を捨てようとしている。
このような過去の歴史的教訓に学ばず、天よりの警告に聞こうとしない姿勢は、必ず新たな困難を生じていき、神のさばきを受けることになる。
沖縄問題も、やはり太平洋戦争の苦難と悲劇の教訓と警告を学ぼうとしていないところからくる。
どの県も基地を受けいれようとしないにもかかわらず、沖縄に金の力、権力をもってその基地を押しつけようとしている。
アメリカは以前から日本が軍事力を増強し、自国で防衛させようとしている。最近のアメリカ大統領選においても、共和党の有力候補はとくにそのことをはっきりと主張している。
そうした流れにあって、憲法9条を改変することになれば、平和のためと称して危険な軍事行動へと踏み込む可能性は一段と高まる。
憲法9条が時代に合わないのでなく、逆に今日のようなテロによる危険な時代にあっていっそう必要となっているし、むしろ憲法9条の精神に反する自衛隊の増強などをやめ、軍備にかかる膨大な費用を世界の―とくに貧しい国々や問題のある国々への人道的支援に費やすなどによって憲法9条の精神に合わせていくのがはるかに真の安全につながる。
アメリカや中国、ロシア等々の大国の膨大な軍事力があっても、なお世界の安全は深まるどころか、かえって危険がより深刻化し、全体として増大していることがそのことを示している。
事故から5年を経た今も福島原発の事故処理のために、毎日7000人という驚くべき多数がはたらいている。それはよきものを生産するためでなく、原発という恐るべき怪物の暴走の後始末をするというきわめて非生産的なことのためである。
巨額の費用を用いて前代未聞の大がかりな凍土壁を造ったがその前途も困難な問題が待ち受けている。
このように、原発は果てし無く後から後へと難問を突きつけてくるのであって、原発を稼働していく限りこうした事態がふたたび生じることは十分有りうる。稼働停止して5年もの歳月を管理し、再稼働のために万全の整備をしたはずの高浜原発4号機は、再稼働直後に、緊急停止した。このような緊急停止は16年ぶりというが、いかに人間が時間と膨大な費用をかけて安全のためにしようとも、機器のあまりにも複雑であるゆえに、管理点検が到底完全にはなされないためにこのようなことが生じる。
このような人間のなすことの本質的な弱さを考えるとき、原発を稼働していくことの危険性が改めて浮かび上がってくる。
原発の大事故は、広大な領域を汚染し、町や村全体を根本的に変質させ、滅ぼしていく。京大原子炉実験所において、一貫して原発の危険性について訴え反対してきた6人の研究者たちのうち、最後の現職であった今中哲二助教が今年退官する。
彼は、チェルノブイリ原発事故の災害の研究において第一人者といわれていて何度も現地を訪れているが、彼が原発大事故がほかの災害と根本的に異なる重大さを持っているのをそこで知らされた。そして原発はどうしてもなくさなければという強い思いを抱くようになったのは、チェルノブイリ周辺の平和な村々の広大な荒廃、滅びを目の当たりにしたからだと書いている。
福島も同様である。故郷を強制的に奪われ、家族も多くはばらばらとなり、仕事も生活も根本的に変えられてしまった人たち、そこに暮らしていた人たちの、言葉にならない深い悲しみ、精神的打撃は計り知れない。それはいかにお金で保障しようとも、その心の深い傷はどうすることもできない。多額の補償金でかえって家族関係が破壊され、また受けた補償金の額などで地域が分断され、あるいはその補償金で一時の快楽や賭け事に陥り、人生を破壊していく人たちもいる。
また、予想されていたことであったが、放射性ヨウ素による子供の甲状腺ガンの多発ということも新たな問題として浮かび上がってきた。
こうしたさまざまの問題―ことに深い心の傷や今後への不安などをいかにして耐え、さらにそれにつぶされずに乗り越えていくことがてきるのか、行政、政治による保障などなどはもちろん不可欠なことであるが、それらの手段によっても愛するもの、郷土、仕事を喪失した悲しみはどうすることもできない。
そのような深い傷を根本的にいやし、かつそれを越えていく力を与えるのは、過去数千年の間、無数の人たちのそうした魂の傷と空白を癒してきた力を持つ神の力である。
キリストが二千年前に言われた次の言葉は、この世界全体に言われている言葉である。
…これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和を得るためである。
あなた方には、この世では苦難(悩み、悲しみ)がある。しかし、勇気を出しなさい。私は世に勝利している。(ヨハネ福音書16の33)
この世に生じるあらゆる悲しみや心の空白、そして何ものもいやすことのできてい深い傷を癒し、新たな力を与えるのは、ただ人間を超えた力のみ、そしてそれを受けるには、一人一人が今、心を神とキリストに心を向け、祈り求めるだけでよいというのである。 そしてこのことは、過去2000年という長い歳月、無数の人たちがじっさいに体験した歴史的な事実であり、今日もそして未来においてもこの真理は変ることがない。
私たちは何に対して心を燃やしているのか。
子供のときには、それは趣味、娯楽であり、飲食などが多いであろう。
成長してくると、それらに加えて、勉強や、スポーツ、あるいは異性への愛、未来に向っての目的の遂行…となってくる。
また、闇の力に圧迫されていくと、悪しき行動に心が燃やされてしまい、ひどい場合には犯罪を犯してしまったり、麻薬のようなものに力が入ってしまって、滅びへと落ち込んでいくことさえある。
会社や研究所等々にはいった人たちは、他者のやっていないことに結果を出すこと、少しでも業績をあげること、他者から抜きんでることに心身を燃やすというひとが多数となる。
このように、さまざまのものに人間は、心を燃やそうとする。
しかし、それらすべては、老齢となり、健康もむしばまれてくるとき、そのような燃える心は消えていく。
病気や困難な状況に耐えるのが精一杯、その苦しみや悲しみが絶えず心にあふれていて、それ以外のことが目にはいらなくなる、ということになる。
燃え尽きてしまい、ただ煙がくすぶっているだけ―といった状況になる。
そして最後に死がやってくる。死は、神を信じない人にとっては、いっさいが消えてしまう―無となってしまう時である。
けれども、万物を創造し、死をも滅ぼされる神を信じるときには、神が復活させてくださることを信じる。そしてときには、死の直前の苦しみを越えて、最も激しく心燃やされる場合さえ有りうる。
それは最初のキリスト教の殉教者であるステファノである。彼の語ったユダヤ人のかつての歩みの不正なことにユダヤ人たちが怒り、町の外に連行して石をいっせいに投げつけた。そしてそのような敵意、憎しみと暴力のただなかにあってステファノは、いよいよ心は主にあって燃え、天に神とキリストがおられるのを見るほどに、心開けた。それは聖霊によって燃やされたゆえに、天が開けたのである。
突然あらわれた星によって、心燃やされた人たち―すでにそれはイエスの誕生のときに、はるか遠くのアラビア地方でおどろくべき輝きの星を見いだし、そこから心が強く燃やされて、砂漠地帯を超えたはるかに遠い異国の地まで旅立った人たちがいた。
何のためにそれらの人たち―東方の博士たち―は、どこか遠い国に王が生まれたということを知って出かけたのか。
それは、王として生まれたイエスへの礼拝のためだった。神の恵みによって天来の光を受けるとき、その魂には新たな火が燃え始める。
毎日ガリラヤ湖で船に乗って網を打ち、魚をとる仕事をしていたペテロやヨハネたちは、革命的な新たな信仰の指導者になるなど、夢にも思わなかった。毎日の漁師としての仕事に心を燃やし続けていた人たちだった。
けれども、そこに主イエスが来られた。そして彼らに、私に従え、と呼びかけられた。するとただちに彼らは心に天来の火がともされ、いっさいを捨ててしたがって行った。
彼らの魂の中には、それまでまったく存在しなかった新たな光が投じられ、そこに聖なる火が燃え始めたのである。
それにもかかわらず、イエスとともに歩んだ3年間、その神による火は時折この世の力によって吹き消されそうになることがあった。主イエスがもうじき自分は捕らえられ、十字架に付けられるという重大なことを語っているのにもかかわらず、弟子たちは、自分たちのなかで誰が一番偉いのかなどと議論していたとか、ペテロはイエスをわきに引き寄せて、捕らえられるとか十字架につけられるなど―そんなことがあってはならないと、叱ったとさえ記されている。
そのとき、イエスは「サタンよ、退け!」と一喝された。それは異なる火がそこに小さくとも燃えようとしていたのを目ざとく見いだされたからであった。
弟子たちがみな裏切って逃げてしまった後、イエスは復活し、約束されたものを待っているようにと言われた。そして弟子たち、婦人たちが集って真剣な祈りの日々を重ねていたときに時至って聖霊が豊かにそそがれた。それは大風のごとき音と、炎のようなものがそこにいた人たちにとどまったと記されている。
それは、聖霊の火のような力を象徴的にあらわしているのであった。
パウロは、後に、聖霊の火を消してはならない。(Ⅰテサロニケ 5の19)と書いたが、私たちも常に燃やし続けている必要がある。
そして私たちが日々の生活のなかで、祈りを絶やすことなく、またみ言葉に常に触れ、可能なかぎりともに礼拝につどってともに祈りみ言葉と聖霊を求めていくとき、そのような火は燃え続ける。
イエスが復活したとき、2人の弟子たちの歩いているところに復活のイエスがいつのまにか近づきともに歩まれた。そして旧約聖書の全体にわたってイエスについて書いてあるところをずっと説明された。
その後、イエスをとくに招いて夕食をともにしたとき、パンを弟子たちに与えた。そのとき、2人は目が開け、「道で話しておられたとき、聖書を説明してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカ24章より)
復活したキリストとともに歩むこと―それによって私たちは心の内に聖霊の火を燃やし続けることが可能となる。
また、神と復活された神の子なるキリストの創造された自然の世界に触れるときにも、私たちの心は神からのメッセージを受けとって新たな心にされる。
自然のすがたは多くは沈黙のなかで、燃える火のようなものをたたえている。人里離れた山中で一人そのただなかで祈りにあるとき、心もまた静かに燃え始める。
そのような場所に行くことは多くの人にとっては難しいことである。しかし、身の廻りの小さな自然の姿に接することによっても、私たちの心は点火されることも可能となっている。
主イエスも、野の花を見よ、と言われた。そこに大自然を支え、生物を支える大いなる御手があるのを少しでも感じ取るとき、私たちの心の内にも小さな火がともる。
聖書の言葉―それは心燃やされた人たちに神が与えた言葉であるゆえ、その聖書の言葉に心して触れるときに、私たちのうちに光がともり、火が燃えはじめる。
主イエスはわが愛におれ!と語りかけられた。この世には本当の愛はない。人間を超えたキリストのうちに本当の愛がある。その愛にとどまり続けることによって私たちの心の中には、ともしびが燃えつづける。キリストがその愛によって保ってくださるからである。
大空を自由に翔る鳥たち、その鳥の姿を見つめているとき、さまざまのことが思い浮かぶ。
自由に空を飛べたらどんなに素晴らしいだろう―子供のときから大抵の人は一度や二度はそんな思いになったことがあるのではないか。
高速で自由自在に飛ぶこと、また翼をほとんど動かさないで大空を飛び翔るすがたは、美しく心惹かれる。さらに、ハヤブサ、ハト、ツバメなど時速100キロを越える速さで飛ぶ驚くべき能力。
またウグイスなどは、低木の茂みをも自由に衝突もしないで敏速に飛びまわることができる。
鳥だけでなく、昆虫類もチョウ、トンボやカブトムシ、コガネムシの仲間、アブやハエの仲間など数多くいる。それらはやはり羽をもって高度に発達した筋肉によって飛ぶ。1秒間にミツバチは200回ほど、蚊の仲間は、500回以上も羽ばたくという驚くべき性能の羽をもっている。
人間の飛ぶということ―それはグライダーや気球のような鳥や昆虫類に比べると比較にならない初歩的な飛行か、航空機やロケットのような精密高度な機器の集合体で、爆音をたてて直線的に飛行するという鳥や昆虫の優雅で自由自在な飛翔とはかけはなれたものでしかない。
しかもそれらの高速で飛ぶ飛行機は、空爆という大量殺人や破壊の兵器として重大な悪用もされている。飛行機やロケットなどがなければ、ロンドンや東京などになされた大空襲も原爆投下などもできないことであった。
現在の大きな国際問題となっている北朝鮮の核開発もその兵器を運ぶロケットがあるゆえに脅威となっている。
同じ空を飛ぶというものであっても、人間が作り出したものはこのように、人類を滅ぼしかねない危険をも生み出しているのに対し、神の創造による鳥類などの飛行は、優雅な美をたたえたものも多い。ことに、渡り鳥が美しい群れをなして大空を飛んでいく光景にはだれしも不思議な感動を覚えるものである。そしてそれはいかなる破壊や殺傷などと関係のない飛翔である。
高度の科学技術による機器である飛行機は、大きな害悪を必然的に伴ってきた。
鳥類や昆虫に与えられている飛翔の能力は人間には与えられていない。しかし、神は人間には、前述したような高度の機器などによる飛翔とはまったく異なる飛翔能力を創造の最初から与えてくださった。
それが、心につばさを持つということである。霊的な翼である。それによって私たちは、一瞬にして光が何億年もかかって到達するような宇宙のかなたへも達することができる。あるいは、その翼によって過去数千年も昔へと羽ばたいていくこともできるし、未来の世界へも同様である。
さらに、そうした心のつばさによって、人間の心の世界にも入っていくことができる。霊的な翼は、時間や空間を超えたものだからである。
主イエスは、会ったこともないサマリアの女性の過去の生活をも見通すことが可能だったが、それはそうした霊の翼を完全に備えていたからだった。
預言者にはとくにそのような時間や空間を越えて飛び翔る霊の翼が与えられている。それゆえに、通常の人間には見えない至高の神のところまで行くことも与えられ、またそこからはるか数百年の未来の世界へも達してその状況をありありと見ることもできる。
イザヤという預言者は、700年ほども後に現れる救い主キリストのことをはるかに見て預言することが可能とされたのもそうした霊の翼が与えられていたからである。
このような目には見えない翼のゆえに、全盲というきわめて不自由な状況に置かれていても、かぎられた言葉による説明や対象に触れること、香りなどから想像力という心のつばさによって自由にさまざまの世界を行きめぐることが可能となっている方々もいる。
ヘレン・ケラーは全盲、かつ聾唖という三重障害を持っていたにもかかわらず、霊的なゆたかな翼を与えられていた特別な例であって、聖書や古代ギリシャのホメロスの詩によって大いなる心の翼が与えられると語っている。
…「イリアド」の中の最も美しい箇所を読むとき、私は生活の狭苦しい窮屈な世界から私を引き上げてくれる一種の霊感を意識します。 私の肉体的欠陥は忘れられ、私の世界は高くのび広がって、天の高さと幅と広さが、全部私のものとなるように感じます。…
「イリアド」の中の人物は、一気に三段跳びをしながら歌い続けていくではありませんか。 ―ホメロスは、白日のもとに、頭髪を風になびかせて立つ、美しく、生気みなぎる若者のようです。
こんなふうに紙の翼にのって飛ぶことはなんとやさしいことでしょう!(「わたしの生涯」116頁 角川文庫1966年発行)
…When I read the finest passages of the Illiad,I am conscious of a soul-sense that lifts me above the narrow,cramping circumstaces of my life.
My physical limitations are forgotten-my world lies upward,the length and the breadth and the sweep of the heavens are mine! …
How easy it is to fly on paper wings!
(「The story of my life by Hellen Keller」1902)
このように、盲聾唖という重い障害を持っていて彼女が接する世界はきわめて限定されていたと思われるにもかかわらず、適切なキリスト教指導者によって霊の目が開かれ、点字でいろいろの書物に接するようになってからは、ヘレンが書いているように、書物が彼女を広大かつ高い世界へと運ぶ翼となったのがわかる。
こうしたギリシャやローマの詩人に鋭く反応したヘレンははじめのうちは聖書の世界にはよくなじめなかったと書いている。しかし 次のように書いている。
…その後、聖書のなかに発見した喜びを私はなんといって表してよいか知りません。今日まで私はすでに久しい間、ますます広まっていく喜びと霊感をもって聖書を読み、それをいかなる他の主イエス持つにも比べようなく愛しています。(前掲書118頁)
How shall I speak of the glories I have since discovered in the bible? For years I have read it with an ever -broaddening sence of joy and inspiration;and I love it as I love no other book.
信仰とはなにか―さまざまの表現がある。心の翼を与えられるということも信仰による大きな恵みである。信仰なければ、死んだらそれで万事終わりであり、わずか70年、80年といった短い人生でしかその活動の世界はない。
しかし、信仰により霊的に飛ぶことの妨げとなっていた罪赦され、復活の希望が与えられるということ、それは生きているうちから死後の清められた世界へと飛び翔ることを与えられることになる。
信仰なくとも、想像の力は人間には与えられている。しかし永遠の真実を持ち、いかなる汚れもない愛の神など存在しないとなれば、人間の思い描くこともおのずから有限となり、罪深いこと、闇の世界のことなどへと迷い込むことになる。そうした行き先が閉ざされた世界、完全な正義や愛の存在しない世界をいくら想像の力をもって行きめぐろうとも確たる希望は生まれては来ない。
旧約聖書の時代の神殿に、いっさいの偶像的なものを造ってはならないという禁令があったにもかかわらず、罪の赦しを行なう最も重要な契約の箱の上部に、ケルビムという翼を持ったものが置かれてあったのは、神ご自身の完全な自由が翼で象徴され、罪赦された者が、その自由を与えられることの象徴でもあった。
預言者イザヤが、神の霊によりその霊的つばさによって混乱の世のただなかで、理想のエデンの園のごとき楽園へと飛翔し、砂漠のただなかに見ることができた。(イザヤ書35章)
主イエスは、神の子であり、湖の上をも歩くことができ、その影響力は二千年にわたって衰えることもない。霊のつばさをも完全なものを持っておられた。
しかし、地上においては、そのような軽やかな歩みをするのでなく、じっさい最後のときにエルサレムに入られたが、そのときには、小さな弱々しい足どりを持つ小さなろばの子に乗って行かれた。
さらに、その3年間の福音を伝える歩みにおいては、霊の翼を与えられている自由とはおよそ異なる重い十字架をになって歩まれた。死に至るまでの伝道の生活においても数々の病人の極限のような苦しみをも担い、また敵対者の激しい憎しみをも身に受けつつ、その地上での最後は、文字通りの重い十字架を背負って歩まれ万人の重い罪を一身に受けて息を引き取られた。
それはあとに続く世界の人々が、罪赦され、魂の自由を得て霊のつばさを与えられるためなのであった。
真理は自由を与える―といわれたが、キリストは真理そのものだった。
そして、この二千年という間、外見的には著しく不自由で自分で自由に歩くこともできない目の見えない人、足の立たない肢体障がい者、また中風などの病気の人、ハンセン病などの恐ろしい病になり、隔離され、人から見捨てられついに朽ち果てていくような重い病人に対しても、霊のつばさを与え、魂の自由を与えてきた。
そしてそうした目に見えるハンディのない健常者にあっても、罪の奴隷であり、その束縛を解いてくださって、神のもとに祈りによって自由に翔るつばさを与えられたのである。
人は何によって生きるのか、滅ぶのか
人は、何によって生きるのか、―それは主イエスの有名な言葉に簡潔に表現されている。
…人は、パンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる。(マタイ4の4)
人間は、食物で生きているだけなら、動物と同じである。人間には動物にはない霊が与えられている。その内なる霊によって目には見えない存在―神を信じ、愛し、またその神からの声に従っていこうとする。
その霊的部分に命を与え、力や喜びを与えて、生きている実感を与えるものが、神の言葉である。
それでは、人は何によって滅びるのか。
死ぬことによって滅ぶ―これは一般的に老衰とか病気、事故、あるいは災害となどで死ぬことであり、死と滅びは同じように思われていることが多い。
しかし、死と滅びとは本質的に異なる。
主イエスは、殺されてしまった。そのために滅びたのでなく、まもなく復活し、それ以後二千年にわたって、今も生きてはたらいておられる。
私もその生きてはたらくキリスト(聖霊)によって、とらえられ、それまでと全くことなる聖なる世界を知らされたのである。
滅びとは、この世の力に呑み込まれて希望もなく、生きる目的もなく、老化とともに死に、その存在が消滅してしまうことである。あるいは、主イエスも用いられた表現によれば、火で焼かれてしまう。これは象徴的表現である。火で焼かれることは、ひどい苦しみである。悔い改めようとせず、真実や愛、正義そのものを意図的に踏みにじり、抹殺しようとするような心は、正義の神によって厳しい裁きを受けることを意味していると考えられる。
さらに、物質は燃やすことによって、灰を残すのみでその存在が全く消滅してしまう。ほかの方法では、このように徹底的に破壊し、消滅させることはできない。―そのように 消滅してしまうことが暗示されている。
…私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
(ヨハネ15の9)
あるいは、詩篇の最初に記されているように、風の吹き去るもみがらのように、その存在が消えてしまうことである。
…悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。(詩篇第1篇4)
そしてこのような滅びに落ち込んでいくのは、すでに引用した主イエスの言葉によれば、永遠の命である神と結びつこうとしなかったからである。
それは言い換えると、罪を知らず、悔い改めようともしないことである。神と結びつく、神(キリスト)のうちにとどまるとは、罪を知り、その罪を赦していただくことによって可能となる。
私もキリストを知らなかったとき、学生運動の激しい状況のただなかで、神などまったく議論にも話題にもならず、神の存在とか復活、罪等々はおよそ考えたこともなかった。そのまま行けば生きる望みや目的は何であるのか混沌としてきて、何を見つめて生きるべきなのか、何が究極的目的なのか、まったく分からないままだった。
そのままいけばだんだんと魂の闇は深まり、沈んでいくばかりとなり、滅んでしまっただろう。
「剣を取るものは、剣によって滅ぶ」―これは非戦論の聖書的根拠の一つとしてよく引用される。しかし、すでに述べたように、聖書に一貫して言われているのは、滅びとは、罪を悔い改めないこと―したがって罪赦されないこと、神への方向転換をしようとしないことから来るのであって、剣で殺害されたとか、事故、災害で死んだからといって滅ぶのではない。
現代は、剣を取るものなど、戦争のときとか犯罪にかかわるときのような特別なとき以外にはない。だが、魂の滅びは、聖書のいうように悔い改めなきゆえに、剣を取る取らないにかかわらず、現代においても至るところで生じている。
主イエスが言われたのは、自らが罪の悔い改めをしようとせず、敵を殺すことで相手を滅ぼそうとする考え方自体が一種の剣であり、それは自分自身にはね返ってきて滅びに至るということである。
滅びは、私たちだれもが日々その道を歩みかねないほど身近にある。主イエスが次のように言われたことは、私たちへの日々の生活に対するメッセージなのである。
「狭き門から入れ。滅びへの門は広く、その道も広々としてそこから入るものが多い。しかし、命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ福音書2の13)
主イエスの誕生のとき、旧約聖書の次の預言が成就したと記されている。
「主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエル(神我らとともに)ととなえられる。」(イザヤ書7の14)
成就したといっても、じっさいにイエスがインマヌエルという名前で呼ばれるようになったのでなく、その意味が成就したのである。主イエスは、神と同じ本質を与えられた存在であり、生ける神として、地上に来られた。その生ける神が、日々私たちと共にいてくださる新しい時代となったということである。
旧約聖書の詩篇においては、神がつねに共におられたことが基調となった詩が多く含まれているし、旧約聖書のアブラハムやモーセ、ダビデ、そして多くの預言者たちはみな神が共におられたことをはっきりと示している。しかしそれでも一般の人々にとっては、神は遠い存在であった。神に近づくと殺される―と出エジプト記(19の12など)にも記されているほどである。
しかし、キリストの時代になって、じっさいに主イエスは、当時のユダヤ人の宗教指導者―律法学者やパリサイ派の熱心な人たちからも見捨てられていたような人たちのところに行き、直接に罪を赦し、病をいやされた。とくにそのような人たちが、主イエスへの絶対の信頼を持っているときには、主の持っておられる神の力が豊かに注がれ、イエスも彼らのその信頼(信仰、信実)を大切なこととされ、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。(マタイ9の22など)
こうした主イエスの姿勢は、神の愛から出る自然な行動であったし、ここからどんな落ちぶれた人、重い病や当時の人たちが汚れた者としていたハンセン病のような人たちも、重度の障がい者もみな同様に神の愛を受けることが示された。
このことは、神がどのような人たちとも共におられるということをじっさいに指し示したことである。
主イエスが地上に生きておられたときそのように、「神我らと共に」ということを成就されていたが、十字架で処刑されたのちには、復活され、聖霊となってこの世に来られた。
そして肉体を持っておられたときには、キリストは地上のきわめてかぎられたカナンの地のごく一部の人としか接触することはできなかったが、聖霊となって全世界のあらゆる人たちと共におられることが可能となった。
イエスご自身の地上での伝道の出発点においても、聖霊が注がれたことが記されているが、弟子たち―パウロも含め―が、彼らの背信行為を赦されて全く新たにされて伝道に命がけで邁進するようになったのもまた、聖霊が豊かに注がれたことによる。誰かの命令とか人間的意志や決断でも、組織の命令でもなかった。
キリスト教が驚くべき短期間のうちに、ローマ帝国の広大な領域に広がっていったのは、信じた人たちに学問や多くの知識があったからではなかった。当時、キリスト教を受け入れたのは、そのころに社会に多数存在していた奴隷たちや身分の低い人たちが
多かった。イエスの12弟子たちも漁師のように無学な人たちが多かったことからもそのことはうかがえる。
そもそも文字も読めず、印刷ということも存在しなかったし、現代のような書物も大多数の人たちには無縁のものであったから、書物の研究などによって福音が伝わるということは考えられないことである。
そのような状況のなかで、イエスの死後わずか30年余りで、ネロ皇帝がキリスト教への大規模な迫害をせざるをえないほどに大きなひろがりを見せていた。
こうした驚くべき力はどこから生じたのか、それは聖霊の力であった。「神我らとともにいます」ということの最も強い証しは、聖霊がそうした無学な、社会的に弱い立場の人たちにも豊かに注がれ、それがヨハネによる福音書においてイエスが言われているように、キリストを信じた人の内に生ける水が与えられ、それが泉となって周囲にもあふれ出ていったからであった。
そうした最初の明白な証言はステファノに見られる。彼は、ユダヤ人の歩みが間違っていたことを指摘したときにユダヤ人から激しく憎まれてついに石で撃ち殺されるが、そのとき死の直前に「天が開け、キリストが神とともに座しているのが見えた」と記されている。そして自分を撃ち殺そうとしている人たちの罪の赦しを祈りつつ息絶えた。
神我らとともにいます―このことがいかに大いなる力を洞察、そして愛を与えるかが、このステファノの例が指し示している。このようなことが、ローマ帝国の迫害の時代においても、次々と奴隷や庶民たちにおいて生じていったのである。
神―聖霊が私たちと共にいてくださる―これは、平和なのんびりした生活のなかではその深さがわずかしか分からないのであろう。危機的状況にあればあるほど、このことがいかに大いなることをもたらすものであるかが啓示されていく。
そして、さらに、パウロが語っているように、聖霊こそは、私たちと共にいて、呻くほどにとりなし―祈りをしてくださっているという。(ローマ8の26)
私たちは弱く、つねに罪を犯してしまう存在である。愛や正義、真実といっても、いったいどれほど神の御心にかなうほどに私たちができているだろうか。そうしたきわめて不十分な我々の現実はすべて罪であり、そうした弱い私たちであるからこそ、聖霊は私たちとともにいて切実な祈りを捧げてくださっているのである。それゆえに、何事が生じようとも、その聖霊が万事を益としてくださる。
…神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている。(ローマ8の28)
新約聖書においては、じつに多くの箇所で、「神我らと共に」ということが記されている。 主イエスの伝道の出発点において書かれているのは次のような記述である。
…暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」(マタイ福音書4の16)
これは、それまで神から見放されていると思われるほどであった暗い世界、苦難のうちに生きてきた人たちに、神の光がのぼったということであり、それらの苦しみや悲しみにある人たちとともにいてくださる新たな世界となったという宣言でもある。
私たち人間は、心狭く、まちがいや愚かさに満ちた存在である。それにもかかわらず、そのような私たちと共にいてくださる神がおられる―そしてその神とは、宇宙のすべてを創造し、現在も宇宙の果てから私たち人間の一人一人を支え、また細菌類のようなきわめて小さな生物の中に、複雑かつ精巧なしくみを生み出されたお方である。
そのような神が私たちとともにいてくださる―これはこの世の最大の奇跡である。
十字架でキリストが人類の罪を担って死なれたこと、そのあと復活して天にて永遠の存在―神としておられ、さらに聖霊としてこの地上に来られてつねにはたらいてくださっていること―それらはすべて神が私たちとともにいてくださるためである。
罪あるままでは、神とともにいることはできない。罪とは壁である。壁を造ったままでは神を来させないと言っていることである。
また、罪とは、究極的な真実そのもの(神)に背を向ける、あるいは踏みつけることである。そのような状態の心には、神はともにおられない。
それゆえにキリストは、私たちの罪を赦し、清めるために死んでくださった。
そして復活によってこの世に来られた。
キリスト教の中心となっている、十字架による罪の赦し、そして復活―それらはともに神が私たちとともにいてくださるためであった。
最後の夕食のとき、ヨハネによる福音書においてはそのとき語られたことが13章から17章にかけて記されている。17章は神への語りかけ、祈りであり、弟子たちに語ったことは16章で終わっているが、その最後には次のように言われている。
…これらのことを話したのは、あなた方が私によって平和(平安)を得るためである。あなた方はこの世では苦難がある。しかし勇気を出せ。私はすでに世に勝利しているからである。(ヨハネ6の23)
このように、最後の夕食で語られたことの最後は、主の平和(平安)を弟子が得るためだという。
主の平安を与えられるということは、主がともにいてくださることに他ならない。
イエスの誕生のときに言われている、インマヌエル―それは神我らとともにいます、ということは、イエスの地上最後の夕食のときにも、神がわれらと共にいてくださることに通じる主の平和をくださるという。
この世界、どこにいっても混乱と不安がある。しかし、他方この世界のどこに行っても単純に神を信じ、神にすべてをゆだねていくとき、そこに主の平安がある。主がともにいてくださるのを実感できる神からの平安がある。
(これは今年1月に横浜市上郷森の家での聖書講話を補筆したもの。)
すべてのものを一つにする
主イエスの最初の弟子たちは、漁師であった。ペテロ、ヨハネ、ヤコブという人たちがそれである。そして、ペテロに対しては、「私に従え。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
原文では、単に「人々の漁師」とある。英訳(*)もほとんどの訳は、原文のまま訳している。
(*)Follow me, and I will make you fishers of men.
人間をとる、などというと人間を動物扱いしているようなニュアンスがあるが、ここでイエスが言われた意味を考えたい。
魚が海でばらばらにいるがそれを漁師は網で集めてくる。それと同様に、人間はあちこちにそれぞれ「飼う者もない羊」のようである。
そこに、神の愛という網を投げて真の羊飼いであるイエスへと導く。 それゆえ人間の漁師、という言葉は、この世においてさまよっている人々を真の羊飼いであるイエスに集めていく、という意味である。
キリスト者となった者は、他者との関わりのなかで、キリストへと集めていこうとする心が生まれる。
自分に集めよう、自分の会社、あるいは自分の所属する団体、さらには自分の国に利益を集めよう―という行動は誰しももっている。
戦前の日本は、大東亜共栄圏といって東アジアの盟主となって、それらの民族、国家を天皇のもとに集めようとしたまちがった考えが広まっていた。
武力、権力による支配者はたいていそのような自分のもとに人間を集めようとする。 けれども、主イエスは、いかなる人間的な集りとか特定の人間に集めるのでなく、主イエスのもとに、神のもとに集められるのを欲しておられる。
神のもとに集められる―それはイエスの時代から五百年以上も昔にはっきりと言われていた。
…終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって川のようにそこに向かい
多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
目に見える世界においては、そのようなことはとても考えられないような状況がある。しかし、聖書ではっきりと約束されている復活ということ、キリストの十字架の死による罪のあがないということも、目で見て、調べてあるいは考えても分ることではない。
こうした聖書の記述は、全能の神を信じてはじめて聖なる霊が与えられ、その聖霊によって信じることができるようになる。
まちがった思想、宗教はみな特定の個人や団体へと集めて勢力を増大させようとする。しかし、本当は、そうした人間や人間の作ったものに集めることではない。無差別的な愛や真実、また正義そのもの清さ―等々の総体である真理そのものに集めることである。
そして、その生きた姿、奇跡を次々と行なう神の力、死後もなお復活して聖なる霊として世界に生きてはたらいておられるキリストこそ真理そのものである。もっとも弱き人たち、差別や病気の苦しみにあえぎ、生きることさえできないほどの状態にある重度の障がい者の人たちのところに出向いて癒しを与えられた。
神とはどのような御方であるか、旧約聖書だけではまだ十分には啓示されておらず分かりにくかった。しかも病気の苦しみ、らい病の恐ろしい苦しみをいやすのは何ものなのか、いやす力をもった人は現れないのか、というばくぜんとした不満が残り続けていた。
キリストはそうした旧約聖書の世界にはまだ一部しか示されていなかったことが全面的に実現された御方である。
キリストが地上に現れて生きて教え、かつさまざまの奇跡をおこなわれて初めて神とはどのような御方であるのか、―はるかモーセの時代にすでに言われていた神の本質が目に見えるかたちであらわされたのであった。
重度の病気―ハンセン病、盲目、ろうあ者、精神障害者、肢体障がい者、中風の人、死に瀕した重病の人―等々重い病気の人たちはみなキリストによっていやされた。
そのような愛と真実な御方、しかも神の力をそのまま与えられている御方―それこそ真理そのものである。
主イエスは地上におられたときから、弟子たちを選び、イエスのもとに連れてくる使命を与えられていた。そして地上から去って天に帰られたあと、世の終わりには、世界のあらゆる地域から選ばれた人たちを神のもとに集めて来られると言われている。
…そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集める。
(マルコ13の27)
この世はつねに拡散していこうとする。物質の世界をみると、例えば一つの植物が枯れるとき、風雨にさらされ、細菌が繁殖して分解し、いろいろな気体となり、またミネラル物質へと分解し、ついには目には見えなくなっていく。
しかし、生物は大気中の二酸化炭素を地中の水分、そしてそこに溶けているミネラルなど微少な分散しているものを集めて一つの植物とし、そこに精巧な仕組みの葉や茎、花、そして果実、種としていく。
このように生きているものは、分散しているものを集める大いなる力を与えられている。
こうした分散しているものを集めるのは、その根源に神の力がある。その力が生物にも分かち与えられているのである。
それゆえ、神は人間を集め、また万物をあつめてキリストのもとに導き、一つとなすと記されている。
主イエスは、羊飼いのたとえの箇所で、次のように言われた。
…わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。
こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 (ヨハネ10の16)
キリスト教世界には実にさまざまの教派がある。イエスが一つの群れになるように導くと言われたが、目で見える形ではイエスは地上におられない。
ここで言われているよき羊飼いとは、復活ののち聖霊となったキリストを意味している。聖霊が最終的にはさまざまの国々にいるキリスト者たちを一つに導いていくと言われている。
さらに、世の終わりには、一つに呼び集める大きなわざがなされる。
…そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集める。
(マルコ13の27)
さらに、次のように人間だけでなく、天地のいっさいがキリストのもとに一つに集められていくということが預言されている。
…こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる。(エフェソ書1の10)
現在の世界は、はるかな昔から絶えず混乱と闘争、分裂が絶えなかった。
しかし最終的には、神の全能の力によりその大いなる御計画によってすべてを一つにされるという。
これは実に大いなる福音であり、この宇宙全体にかかわる御計画を信じて歩むことは、誰にでも開かれた道なのである。
聖書のなかに、とくにこの世の現実を直視しつつ、そこに神の言葉や、一般の人には見ることのできない事象を見ることが与えられ、そこからそれを周囲の人々に告げることを命じられ、またその力をも与えられた人たちがいる。
それが預言者である。
預言―この言葉は、しばしば予言と書かれ、未来のことを予告するという意味で使われる。しかし、聖書における預言とは、その言葉のとおり、言葉を預かるという意味で、神から言葉を受けた人―それが当時の人々にとって特別に重要な内容の言葉を受けることである。
それは単に未来のことを予告するというのでなく、神の深い洞察力を与えられることなので、過去、現在、未来のできごとの本質を見抜き、そこから神が語られることを受け取って、人々に語る人たちである。
預言者として、エレミヤやエゼキエルのように祭司の息子もあれば、アモスのように羊飼いもいる。また、サムエルも預言者と言われているが、彼の場合はごくふつうの家で生まれた子供であったが、幼児のころにすでに神の呼びかけを聞いて、神殿でそだち、預言者となっていったような者もいる。 イザヤという預言者もアマツの子と記されているだけで、特別な人物とか家柄は何も記されていないふつうの家庭の人であったようである。
また、神の言葉を受け取った人が預言者であるゆえ、旧約聖書時代の最大の預言者とも言えるモーセも、イスラエルのレビ族に属する人だということだけが記されている。
こうしたさまざまの預言者のうち、預言者自身の心の悩みや苦しみ、また悲しみをもっともリアルに記されているのが、エレミヤである。彼は、今から2600年ほども昔に現れた人物である。
日本においては、初めて書物が著されたのは、今から1300年ほど昔の古事記であるから、それより1300年ほども昔である。そのような古代の人間が何を考え、何を思っていたのかは、日本には文字もなく、したがって文書もまったくないので、知ることはできない。
しかし、聖書の世界では、そのようなはるかな大昔であるにもかかわらず、長い歳月を越えて、現在の人間のように、その心の繊細な動き―悲しみや苦しみが伝わってくる。
エレミヤ書にはその最初から、彼の心の苦しみが記されている。「ああ、主なる神よ、私は語る言葉を知らないのです。若者にすぎないのですから。」(エレミヤ書1の6より)
これは、彼が神から呼び出されたときに、思わず口にだした言葉である。
人々に対して神の言葉を語るなどという経験も、宗教的知識もそうした教育を受けたわけでもない。それなのに、はっきりと神からの語りかけを聞いた者としての苦悩がここに見られる。それはまた、それ以後の彼の歩みにおいてもしばしば神の言葉を聞いて従うことの苦しみが見られる。
神の言葉のゆえにほかの人が全く味わうこともできない、深い霊的な喜びも与えられるようになった。
…あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれを食べた。(*)
あなたの御言葉は、わたしのものとなり、
わたしの心は喜び躍った。
(エレミヤ書15の16)
(*)新共同訳では、「むさぼり食べた」と訳されているが、原語は、ごくふつうの「食べる」という動詞なので、ほかの日本語訳では、右記の引用のように「食べた」と訳している。原語のアーカルは、例えば「木の実を食べる」のようにごくふつうの食べるという意味の言葉である。英訳では、eat が使われているが、I did eat と強調して訳しているもの、devour を用いているのも一部にはある。
このように、神の言葉はエレミヤに、大いなる喜びとなり、それを食べ、自分の霊的栄養となったことを記している。
そのように、神の言葉を受けるということは、重い使命を課せられるという苦しみや悩みのほかに、ほかのことでは決して得られない喜びを与えられることも伴っていた。
そしてさらにそうした重荷を負う苦しみのほかに、ほかの預言者には見られない特徴として、彼が深い悲しみをもって滅びゆく民、神の裁きを受けてその魂が汚され、まちがった道へとぐんぐん進んでいく人々の前途を見ての悲しみ、さらにその行き着くさきは、大国が攻撃してきてそれによって壊滅的な損害を被り、多くの民は殺され、あるいは遠いはるかな国へと捕囚となって連行されていく。そのような状況を、特別に神によって目の当たりにして彼は深い悲しみを感じていたことがありありと記されている。
いくら神の言葉を告げても、その間違った生き方を改めようともしない人々、そのひとたちがいかに愚かで悪いことをしているか、それを鋭く見抜いたエレミヤであったが、彼らを見下すことも、また嫌悪感をもったり、人間的感情で嫌いだといって見ることもせず、ひたすら彼らの現状とその前途を知って悲しみ深く憂えたのであった。
悪を見て、まず思うのは、目を背けたいという嫌悪感、そしてそういうひどい悪事をした人たちへの嫌悪感、そんな人に極刑が課せられたらいいのに、といった復讐的感情もある。
そして自分がそうした人たちから損害や中傷、攻撃、あるいは暴力や侮蔑を受けるとき、人間はまず恐怖や忌み嫌うという感情が生じるであろう。
そのようなことを越えて、彼ら自身が受けるさばきの厳しさを思って嘆き、悲しむ人たちも昔から存在していた。とくに神の愛や清い世界を知らされた者は、そうした悪しき人たちには決して与えられないことを示されるから彼らへの侮蔑とか嫌悪感でなく、彼らにも神からのよき賜物が注がれてほしいと祈り願う。
エレミヤ書には、当時の社会がいかにあるべき姿からかけ離れていたかが、随所に記されている。
そしてその状態に対するエレミヤの深い嘆き、悲しみ、そして痛みがほかには見られない表現で記されている。
…何という苦しみ、耐えがたい苦しみだ。わが心臓よ、わが心臓は激しく打つ。私は静かにしていられない。(*)(エレミヤ書4の19より)
(*)この部分は、新共同訳などでは、原語に従って「私のはらわたよ、はらわたよ。私はもだえる。心臓の壁よ、私の心臓は呻く」と訳している。はらわたとは、大腸、小腸など内臓をあらわす言葉。だが、日本語として、私のはらわたよ! といった表現を誰かが使うだろうか。一般の会話、ラジオ、テレビ、また新聞、雑誌、文学、あるいは聖書にかかわる著作等々で、このような表現はまず見られない。これは日本語としてはなじまないもので、なにか異様な表現として感じられる方々も多いのではないかと思われる。現代の私たちの日本語でのニュアンスは、ここで訳したような意味になる。
これは、英語においても同様で、my bowels(わが内臓)と訳しているのもあるが、このような表現は通常には使わないので次のように、訳しているのも見られる。
Oh, my anguish, my anguish! I writhe in pain. Oh, the agony of my heart! My heart pounds within me, (NIV) ああ、わが苦しみよ、わが苦しみよ!私は激しい苦しみ痛みにあって身もだえする。
My heart, my heart! I writhe in pain! My heart pounds within me! I cannot be still. (NLT) わが心よ、わが心よ、私は苦しみにあって身もだえする。私の心臓がひどく鼓動する。
当時の国ユダ王国は、宗教指導者、一般の人々、また政治的な指導者たちもみな、不正を行い、弱者を苦しめていた状況が繰り返し記されている。
…祭司たちは、 『主はどこにおられるのか』と言わず、 律法を取り扱う者たちも、わたしを知らず、 牧者たちもわたしにそむき、 預言者たちはバアル(偽りの神々)によって預言して、 無益なものに従って行った。 (2の8)
また、正義に反することを続け、神に立ち返ることをしなければ必ず神は裁きを与えると繰り返し警告されているにもかかわらず、人々はそのことを信じようとせず、悪をなしても神は何も裁きなどしない、と次に引用するように神の言葉をあなどっていた。
…「彼らは主について偽り語って言った、『主は何事もなされない、災はわれわれに来ない、またつるぎや、ききんを見ることはない。 (5の12)
…なぜなら、身分の低い者から高い者まで、 みな利得をむさぼり、 預言者から祭司に至るまで、 みな偽りを行っているからだ。 (6の13)
また、宗教指導者たちも、形式的な儀式によって魂の平安が与えられると説いて、本当の悔い改め、神への魂の方向転換を説こうとしなかった。
このようなことは、現代の日本でも随所で見られる。祖先へ供養をしておいたら家族、親族は平和に過ごせるといったこと―そこには正義とか真実といったものが求められていない。
…彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、 平安がないのに、 『平安だ、平安だ』と言っている。 (6の14)
このような状況にあって、エレミヤは神からの呼びかけも同時に語り続けていた。
…背信の子らよ、立ち返れ。と主は言われる。私こそあなた方の主である。(3の14より)
彼らはその道を曲げ、主なる神を忘れたからだ。
「背信の子らよ、立ち返れ。私は背いたあなた方をいやす。」(3の14、21~22より)
このような神からの呼びかけも無視し、背を向けて悪しき道を歩み続ける民に対して、神は裁きを下すことを告げた。エレミヤはそのことを心を込めて語り続けた。
それにもかかわらず、人々はその罪深き行動を改めようとしなかったゆえに、神が下そうとする裁きをエレミヤはありありと見せられた。
… 主はわたしに言われた、「災が北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む」。
彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、おのおのその座を設ける。 (1の14~15)
…わたしは、 彼らのすべての悪にさばきを下す。 彼らはわたしを捨てて、 ほかの神々にいけにえをささげ、 自分の手で造った物を拝んだからだ。 (1の16)
北からの大国が責めてきて、ユダ王国は廃墟となる―と言われた。その状況をありありと見たエレミヤは、深く悲しんだ。
そのことは、次のように繰り返し記されている。自分の民がかたくなに悪の道を歩む―そのために裁きを受けることを目の当たりにしたエレミヤは、自分の愛する妻や子がそのような目に遭うのを見るように、傷つき、滅んでいく人々のことを深く悲しんだ。
聖書には、多くの人物のことが記されているが、エレミヤほどに、同胞の滅びに対して深い悲しみ、涙を流しているさまが描かれているのは他に見られない。
…わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、夜も昼もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために。(8の23)
…我々の目は涙を流し、まぶたは水を滴らせる。(9の17)
…あなたたちが聞かなければ、わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ。(13の17)
…あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「わたしの目は夜も昼も涙を流し、とどまることがない。娘なるわが民は破滅し、その傷はあまりにも重い。(14の17)
こうしたエレミヤの民への深い悲しみは、はるか後の時代に使徒パウロが述べたことを思い起こさせる。
… 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマ12の15)
私たちは「キリストの体であり、また、一人一人はその部分である。」(Ⅰコリント12の27)ゆえに、次のように言われている。
…一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ。
(同12の26)
そしてさらにこのエレミヤの悲しみの深さは、後のキリストのことを預言的に示すものともなっている。
主イエスは、エレミヤの時代の人たちと同様、当時の時代の宗教的指導者たちが、見せかけの宗教的な熱心に陥り、弱者を苦しめ、自分たちの利益を得ようとしている状況を厳しく指摘していた。
神殿で多くの人たちが商売をしているのを見て、それを追い払い、「祈りの家であるべきなのに、盗みの家としている」とまで言われた。
そして、さまざまの捧げ物などは形式的にしていても、彼らの心のうちは「律法のなかで最も重要な正義、憐れみ、真実は無視している。」
そして外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている。外側は人に正しいように見せかけているが、内側は偽善と不法で満ちている。
(マタイ23章)
こうした状況のゆえに、ユダの国は滅びるのをイエスはありありと見ておられた。そしてエルサレムに最後に入って行ったとき、つぎのように記されている。
…エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」(ルカ19の41~44)
このように、正しい道に歩もうとしないかたくなな人々を見て、そしてその末路をも知った上で、彼らへの怒りとか見下すとか見捨てるというのでなく、ただ深い悲しみを持ち、見つめられた。
この主イエスのもっておられた悲しみは、すでにイエスより数百年も昔の預言者によって記されていた。
…,彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、苦しみを知っていた。 (イザヤ53の3)
He was despised and rejected by men, a man of sorrows, and familiar with suffering.(NIV)(*)
(*)「悲しみの人」、この箇所は新共同訳では「多くの痛みを負い」と訳されているが、新改訳、口語訳、関根正雄訳などは「悲しみ(哀しみ)の人」と訳されている。そして英語訳では、プロテスタントの代表的な訳の一つであるNew International Version(NIV)、カトリックのやはり重要な訳である New Jerusalem Bible(NJB)なども、 a man of sorrows(悲しみの人)と訳しているほか、大部分の英訳もそのように訳している。「苦しみを知っていた」は、病を知っていたとも訳される。
愛なき心は、悪しき道を行き続ける者に対して、裁き、見下しあるいは突き放すか無関心となる。
しかし、愛は悲しむ。そしてその裁きを受けていく状況から救いだされることを祈り願う。エレミヤやその心のさらに完全な姿であるイエスは、愛ゆえにそうした深い悲しみを持ちつつ歩まれた。
そしてその悲しみの深さからなされたことが十字架だった。十字架によってそのようなおそろしい裁きから逃れることができるようにと、みずからが十字架という恐るべき苦しみを担ってまで、私たちのその悲しみに至る根源をいやそうとしてくださったのである。
この45編は他の詩と異なる内容となっていて、王に対する賛美の詩であるとともにその王と結婚する王妃のことも歌われている。
そのような内容であるだけなら、神の言葉として詩篇のなかに収録されることはなかった。この詩は、メシアと救いを受ける神の民の霊的な結婚が指し示されていると受けとられてきたのである。
そうした結婚の祝いの賛美が、そのように受けとられてきたことのなかに、古代の詩篇の編集者に与えられた霊の導きをうかがうことができる。
そうした意味において、このような詩もまた、私たちに霊的に受けとることの重要性を指し示している。
ヘブル書の著者も、その第1章においてこの詩篇45篇を引用して、御子キリストに対して言われた詩であると述べている。(ヘブル書1の8~9)
イギリスの19世紀を代表する伝道者、説教者の一人であるスパージョンは、詩篇に関する2800頁にもわたる浩瀚な著作において、この詩について、「キリストと教会(キリスト者の集り)の神秘的な結びつき」(The Mystical Union between Christ and the Church )というある注解者の言葉を引用し、とくに「あなたの王座は、世々限りなく、あなたの御支配をあらわす杖は正義の杖。」(7節)は、私たちの主以外の誰に対して言われることがあろうか。と記している。(「The Treasury of David」Vol.1-318,328p)
ここでは、この詩が持っている霊的な意味の一部について記す。
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この詩の前書きにつぎのような言葉が置かれている。
「聖歌隊の指揮者に。「ゆり」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌」。
「ゆり」に合わせてというのは、何らかの音楽調の指定であって実際に歌われていたことが分かる。詩篇の詩は、その言葉が、人の言葉であるにもかかわらず、神の言葉として聖書におさめられていることからわかるように、霊的にとくに優れているのでこのように残ってきた。「ゆり」の原語(ヘブル語)は、ショーサンナーで、そこから英語のスザンナという人の名前として多く用いられてきた。
ゆりの花は、古代から現代に至るまで、その清純さと愛らしい美によって人々の心をうるおしてきた。いまから3000年ほども昔のソロモンの神殿の柱の上部の柱頭も、ゆりの花の形に作られていた。(列王記上7の19)
… 心に湧き出る美しい言葉
わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。
あなたは人の子らのだれよりも美しく
あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。(2~3節)
2節にある「美しい」は「トーブ」で、エデンの園で、「善悪の木」の善と訳されているが、道徳的に善きことだけを意味しているのでなく、さまざまの訳語が用いられている。(*)だから善悪の木のように善と訳すと、道徳的なことだけに限定されてしまう。3,12節にある「美しい」は、トーブとは別の美しいという原語である。
(*)例えば、次のように数十種類の訳語があてられている。
愛すべき、祝い、美しい、麗しい、かわいらしい、貴重、結構、好意、幸福、好意、高齢、ここちよい、財産、好き、親しい、幸い、親切、順境、親切、正直な人、善、善人、宝、正しい、尊い、楽しむ、繁栄、深い、福祉、ほめる、まさる、恵み、安らか、愉快、豊か、喜ばす、りっぱ
あなたというのは王をさす。優雅は 英語では grace で気品と訳しているものもある。このように王のことを美しさや、祝福を受けて語るという側面でまず言っている。
王は、メシアを象徴的に表しているのであって、メシアの悪と戦うという力強い側面だけでなく、霊的な美しさをも持っていることが示されている。
…勇士よ、腰に剣を帯びよ。それはあなたの栄えと輝き。
輝きを帯びて進め
真実と謙虚と正義を駆って。右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。
あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び
諸国の民はあなたの足もとに倒れる。(4~6)
神よ、あなたの王座は世々限りなく
あなたの王権の杖は正義の杖。 (7節)
次はそうした美的側面からだけでなく、悪との戦いにおいては非常な力を持っていることが書かれている。しかもその力とは、「真実と謙虚と正義」を伴うものであって、単なる武力の強大さとは本質的に異なることが示されている。なお、真実とは原語では「エメス」、正義は「セデク」という言葉であり、旧約聖書ではとくに重要な意味をもっている。
7節では、この詩が王に対する歌であるにもかかわらず、その王を神と言っている。後に現れるキリストが神であり、王であると言われるようになるが、そのことをはるかに指し示している。
… あなたは正義を愛し、不義を憎む。(*)
それゆえに、あなたの神、主はあなたに油を注がれた。
喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。(8節)
(*)正義(セデク)という重要な言葉は、新共同訳だけが、「神に従う」と意訳している。だが、7節にも神―キリストの特性として正義が言われているゆえに、神に従うと訳すると重要な正義という言葉の内容があいまいになる。原語からして当然のことであるが、ほかの日本語訳、数十種類ある英語訳などはほとんどすべて「正義」( righteousness 、あるいはjustice )と訳している。
この8節では、ヘブル書の著者もキリストを意味していると書いているように、たしかに、この詩篇はキリストのことを預言的に記しているのを感じさせられる。詩篇はこのように単なる人間の情緒的な、あるいは感情を書いたものでなく、預言という内容をもった特別な内容をたたえている。 メシアの特質は、「正義」であり、王(メシア)は正義を愛し、悪を憎むという簡潔な表現である。このように、王の性質は非常にはっきりしていて、中間、あいまいさというものがない。
さらに、その正義の特質を十分に発揮できるように、神は、「喜びの油」を注いだと記されている。これは、聖霊を意味していて、聖霊はまた、厳しい正義の実行者であるだけでなく、喜びをも注ぐものであることが示されている。
そして主イエスは、じっさい、次のように言われている。
…そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。(ルカ10の21)
そして聖霊による喜びは、キリストに従うものにも与えられるようになった。悲しみや希望のない暗い状況にあっても、突然に聖霊が注がれることがあり、それによってこの世のものではない喜びが実感されることがあるのは、キリストを信じて歩んだ人がその程度の差はあっても経験してきたことである。
神は油を注がれたとあるが、神は古い時代から深い霊感を与えて、はるか先に現われる王であるキリストのことを預言しているというのが、「油注がれる」「マーシャハ」という言葉から暗示される。神様は時々、復活のことを部分的に闇の中の閃光のように、キリストが初めてもたらした完全な真理を旧約聖書の中の一部の書―預言書や詩篇の一部において光らせることがある。
この詩も王に対して神と言い表したり、油を注がれると言ったり、真実と謙虚と正義の王であり、その王の放つ矢はどんな悪のただ中へも飛び、悪を滅ぼすなど、キリストの特質をこの詩の作者は、知らず知らずのうちに指し示しているということができる。
…「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。(11節)
これはこの詩がもともとは、異邦人の女性がイスラエルの王との結婚に際しての歌であったゆえに、直接的には、異邦の人々、家族のことも忘れて、王との結婚に入れ、と言われている。
しかし、このような結婚する女性に対するごく普通と見える言葉も、霊的に受けとるときには、重要な意味を持っていて、この詩篇が聖書に加えられることになったのもそうした霊的な意味からである。
それは、王なるキリストとの霊的結婚―すなわちキリスト者として生きるためには、それまでの神を知らない人たちとの決別が必要ということである。
もちろん生活すべてを断絶するなどでない。主イエスは当時の人たちのただなかで生きて行かれた。これは霊的な意味において、この世的なもの、真実の神の御心にそぐわない一切と決別することを意味している。
この精神は、この詩より遥か昔の人物、アブラハムにおいてすでに見られる。神がアブラハムに語りかけたとき、つぎのように言われた。
…時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (創世記12の1 )
そしてアブラハムはその神の言葉のとおりにしたがって、一切を捨てて、神の示された遥かかなたの地へと旅立った。
また新約聖書に現れるペテロやヨハネもまた、主イエスの「私に従え」との呼びかけに、いっさいを捨てて従ったと記されている。
…彼女は喜び躍りながら導かれて行き
王の宮殿に進み入る。(16節)
わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。
諸国の民は世々限りなく
あなたに感謝をささげる。 (18節)
彼女―これは霊的に受けとるとき王なるキリストの花嫁としてのキリスト者を意味する。信じる人たちは、たしかに喜びを与えられてキリストのもとに導かれていく。
そして、世界の人々は永遠に真の王たるキリストに感謝をささげ続けていく。
この箇所において、もしここで言われているのが、特定の王であれば、永遠に諸国の人々が感謝を続けることはない。ここでもこの詩を書いた人は永遠に感謝を捧げられ、永遠にその名が伝えられる王を霊的に示された。特定の王を見ながら、その背後にある完全な王を啓示の中で王の姿を見たのであった。
このように、一見単なる王の結婚の歌のように見えながら、最初に述べたようにすでに新約聖書の時代―ヘブル書の著者も聖霊に導かれてこの詩がまさにキリストを預言しているのを示されていたのである。
旧約聖書を読むときに、単に歴史的なこと―その時代や人名、地名、だれのことを歌っているのか等々だけををいくら調べても、何ら霊的な洞察や力も与えられず、単なる知識に終わってしまう。
そうした歴史的なできごとの背後に、また表面的には大した意味もないと思われる言葉の背後に込められた神のメッセージを受けとろうとする姿勢の重要性を示される詩である。
(393)1を無限の上に足しても、少しも無限を増加させない。1センチを無限の長さに足しても同様である。有限は無限の前では消え失せ、厳密に無となる。
われわれの精神も神の前では消え失せ、われわれの正義も神の正義の前では同様である。
(「パンセ」二三二 中央公論社「世界の名著 パスカル」(*)162頁」)
(*)パスカル (1623~1662)フランスの数学・物理学者、キリスト教思想家、著作家。物理のパスカルの原理で知られるが、16歳ですでに当時の幾何学の先端を行く学者となっており、微積分学の先駆となる。さらに計算機の発明他でも知られている。パンセ penseeとは、フランス語で、考え、思想を意味する語。
・神は無限の愛であり、正義であり、清い。それゆえに、そのような神を前にするとき、人間の正しさとか心の清さ、愛などというものは厳密に無となる。
聖書において、主イエスが 「ああ、幸いだ。心貧しき者は!」と言われたとき、その心の貧しき状態とは、自分が神の前に無であることを知っている心を意味している。
あるいはやはり主イエスが、「幼な子のような心」の重要性を強調されたが、それもみずからを神の前に無と実感している心であり、その心をもって主を仰ぐことである。
…幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。(ルカ18の16~17)
そしてそのような人間の精神、思考などは神の前では純粋な無となることを知るとき、たとえいかに私たちが考えても分からないことであっても、その無限の英知をもつ神にゆだねる信仰が生まれる。
〇最近の夕方の夜空には、オリオン座が南に見えていますが、まもなく見えなくなります。
木星は、去年からずっとその強い光をもって秋から冬の空を飾ってきましたが、なお現在も夕方7時ころには、東から上り、一晩中夜空にて輝いています。その星の輝きを見つめていると、それは私たちの心に射し込む天来の光、言葉にならない言葉を告げていると感じられてきます。
〇春の到来をいちはやく知らせる植物―梅や貝母(バイモ)、水仙などとともにサンシュユの黄色い小さな花が目立つこのごろです。集会場の庭にも咲き始めています。
この木は、もとは薬用として中国から朝鮮経由で入ってきたということですが、現在では春の花として親しまれています。
梅や桜のように葉が出るまえに、花を咲かせるのはほかにもいろいろありますが、そのうちマンサクは、かつて京都北山の天ヶ岳に三月に登ったとき、谷筋に一面この黄色い花が咲いていてそのあたりから神への賛美がひびいているような気持ちになったのを思いだします。
〇毎日新聞の余祿の欄で書かれてあったこと―銀座で長年生きてきて、最後に小さな店をもったある女性に、ある作家が何を大切としてきたかと問われて、「誠意」だと応えたということです。そして、つぎのような言葉が書かれてありました。
・どんな職場でも、誠心誠意でこつこつやっていけば、誰かが認めてくれる。
・裏方の人たちにいばらないこと、自分より立場の弱い人に対する態度で、その人の値打ちが決まる。
・陰口を言わぬこと、言えば自分も言われると思え。
このようなことは一般的にもよく言われることであり、たいていの人が何となく思っているし、知っていることでしょうが、このことをたしかな足どりで守って生きていける人は少ないと思われます。
やはり、神の助けと導き、そしてこうしたあり方に反したことをしてしまっても赦してくださる御方の存在―キリストへの信仰がなかったらなかなか続かないと言えます。
たとえいつまでも人から認めてもらえなくとも、神が知ってくださっているという信仰が支えるし、その神がそのような歩みに平安と喜びを与えてくださる。
弱い立場の人の前でいばる―弱い人の背後には、弱き者を愛せられる神がおられるゆえに、いばるような心は祝福されない。
そして、陰口―それは陰でその人のために祈る姿勢と逆のあり方になります。私たちも、陰でだれかを悪く言うのでなく、善きことを陰で祈るように主によって導かれたいと願います。
来信より
〇日本の滅びというのが、迫ってくるように見えてしまいます。ユダが滅びた原因とおなじように、神ならぬものを神としていることが根本原因のように思います。
国の滅びは段階を踏んで起こると学びました。最初は民の心の乱れと学びました。日本もユダ王国と同じ道を進んでいるように見えます。
そのような中でも私の役割は、本当の神様を世に伝えることだと思っていて、その役割を全うしたく願っております。
エレミヤがユダの国へ主への立ち返りを示した事、そして、変わらない希望を伝えたことは、今日の日本人のキリスト者が、日本の国民に向かって行うべきことだと、私は思っています。
聖書はとても、大切なことを示して下さると深く感謝しています。(関東の方)
〇無教会の全国集会 今年5月14日(土)~15日徳島市での開催です。申込締切りは4月15日です。参加希望の方は早めにお申し込みください。
問い合わせは、左記奥付の吉村まで。
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