いのちの水 2016年5月号 第662号
まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う者の砦。…死を永久に滅ぼしてくださる。神はすべての涙をぬぐってくださる。(イザヤ25の4~8より) |
主よ、
今回の熊本を中心として大分や各地で、地震災害を受けた方々、今もなお、先の見えない苦しみや悲しみにある方々に、援助の手が差し伸べられ、精神的にも、その困難に耐える力が与えられますように。
とくにからだの弱い方々、障がいのある方々にとって、避難所などの生活には安眠できず、心身が安らぐことがなく、耐えがたいものがあると思われます。
その苦難と闇のなかに、神の光が射し込み、神の言葉が与えられ、愛の神へと魂の方向転換がなされますようにと祈り願っています。
5月14日(土)~15日(日)と、徳島市で、キリスト教(無教会)全国集会が開催された。参加者は、北海道から沖縄まで、そして韓国からも参加者があり、当日参加者も含めて、140名ほどが集った。
さらに、その前日の13日夜と終了後の15日夜にも交流集会がなされた。
信仰は私たち一人一人と神(キリスト)との関係である。周囲の人がどのようであろうとも、また、私たちがいかに病気その他で弱かったり、さらには、過去から現在に至るまで重い罪を犯してきたとしても、私たちが主を仰ぎ、魂を神へと方向転換すれば救われる。
これはキリスト教の根源的真理である。
私を仰ぎ望め、
そうすれば救われる。
このことは、信仰によって義とされる、というキリスト教の真理のことであって、この点では旧約聖書からすでに新約聖書の根本にある真理が示されているのがわかる。
真理はこのように個人的に示され、与えられる。
しかし、聖書はまた、共同体としての信仰の重要性もまた強調している。
よく引用されるつぎのとことばも重要である
…私の名によって二人三人集まるところには、私もその中にいる。(マタイ 18の20)
二人、三人が主の名によって集まる、この言葉には、どんなに少数であっても―という意味が込められている。
文字どおり二人三人であっても、あるいは百人二百人であっても、日本全体からすればきわめて少数であり、そうした少ない人たちであっても、主を中心として集まるとき、キリストもまたその中にいてくださる。
あるいは、また次のようにも記されている。
…あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその部分である。
(Ⅰコリント12の27)
ここに、キリスト者とは、目には見えない霊的なキリストの一部であり、それゆえに深く結びついていることがしめされている。
そのことから、ともに祈り合うこと、ともに集って賛美、礼拝すること、み言葉をともに受けることの重要性がこのわかり易い表現によって示されている。
今回の全国集会においても、信じる人たちが集まるときに、そこに主がいてくださる、そこには聖なる風―聖霊が吹いてくださるのを覚えたことである。
一人だけでの本や祈りによる学び、研究によっても主は顧みてくださる。祈るときは、戸を閉めて祈れ―といわれているとおりである。
しかし、一人だけの祈りや学び、研究では与えられないことがある。それは、いま生きてみ言葉を実行している人、神の言葉によってじっさいに人間が動かされていること、神の言葉が現実の目に見える世界において、そのはたらきを表していること―そうしたことは、一人だけの学びや研究ではわからない。
キリストの使徒たちのうちでは最も大いなるはたらきをしたといえるパウロもまた、自分で考えてそのようなはたらきができたのではない。
組織の会議、話合いによって決めて派遣されたのでもない。
それは、聖霊によって集まった人たちがうながされ、心一つにされて、パウロを遠い国々へと送り出すことが決まったのであった。
(使徒言行録13章1~4)
パウロ一人ではこのような異邦人伝道ということは起こることのなかったのだと知らされる。
このように、神は、その御業をさまざまの人、その集りによってなされることがしばしばである。
このことは、こうしたキリスト教の集会にかぎらない。
松の葉一つでは、何らの響きもない。しかし、大量の松の葉が合わさった松の大木に風が吹きつけるとき、ほかにはないような重々しい、風格のある響きが生じる。
私の通った小学校の近くには、かつては数百年を経た松の堂々たる大木の並木があった。
また、わが家のある山には松が大量に生育していて、頂上近くには、見事な松林もあった。
それらが、風のある日には、その独特の音楽を奏でているのを別世界からの響きのように聞き入ったものだった。
それゆえ、古来から、松風の音は、松籟とか松韻 とか言われて、人々の心に深く入っていたのだった。
今回の全国集会も北海道から沖縄までの各地から集められた人たちの祈りが合わされ、そこにいつもの日曜日の集会では与えられなかった恵みのわざが行なわれた。
まず全体としての賛美によって、少数の集りでは与えられない力強い賛美が参加者の心の内に広がった。
み言葉を共有することによってそのみ言葉の力が、参加者にやどり、全体として御国の力が感じられた。
さらに、そこには、出会いが与えられた。この全国集会がなかったら決して出会うこともなかった方々、そして韓国からの方も参加されていた。
よき出会いは、そこからまた新たな命の水が流れだして周囲に及ぶ。
また、いつもの日曜日の集会には参加されていない方々、未知の方々なども十数人が参加されていた。
地域や年齢、からだに障がいがあるかないか、また、信仰的な体験や学識などの有無、その状況など―そうしたさまざまの違いを越えて、一つに溶け合わせる力がはたらいた。
それは聖霊の力だった。
その集会に注がれた聖霊の力はまた、個々の人たちとの出会いにおいても聖霊の力が与えられた。
しかし、こうした全国集会には参加できない方々も多い。
それゆえに、参加できた方々は、受けた霊の賜物、力、み言葉を少しでも、周囲の方々に分かつことが期待されている。
具体的には、集会や友人たちに、そこで語られた内容や用いられた聖書の言葉を語り、手紙やハガキに書いて送る、あるいは、全国集会の全部の内容が録音されてMP3形式でCDにされるので、それを購入して希望者に手渡す等々、 各人で可能な方法で伝えていくことによって、より祝福されたものとなる。
目に見えるものは分かつことで減少していく。
しかし、真によきものは、分かつことでさらに豊かになる。
祈り一つとっても、自分のためだけの祈りより、他者のための祈りをなすときには、霊的な恵みはさらに広がっていくのと同じである。
5月14日~15日、徳島市で開催されたキリスト教(無教会)全国集会で語ったことに一部追加したもの。
私は神の言葉によって変えられた。21歳のころ、たった一冊のしかもその一ページのわずかな記述によって、生涯の方向が変えられて今日に至っている。
それは、キリストの十字架の死は単なる犯罪人として処刑されただけの死でなく、人間の根本問題である心の問題、どうしても純粋な心、愛、真実などが持てない、それに従えないということ―それを罪といっているのだということも初めて知らされたし、キリストは、その罪を担って死んでくださったのだと知らされたのだった。
そしてそのことが神の言葉として新約聖書に記されているのが示されていた。そこから、キリストは十字架上から、「あなたの罪は赦されたのだ」と語りかけてくださっているということを知らされた。そして闇のなかの閃光のように、それまでまったく考えたこともないキリストの十字架とか神の愛ということが私の魂にぱっとひらめいたのだった。私を根底から変えてくれたのは、いかなる人間でも人間の思想でも文学でもなく、新約聖書の中心にある単純な神の言葉であった。
神の言葉、それは聖書においては、きわめて重要なものとして最初から記されている。
まず、それは天地宇宙を創造する力を持つことが示されている。そのことは、聖書の二千頁に及ぶ内容の最初に記されている。そこでは、神が天地創造をしたとは記さず、あえて神が「光あれ!」と言われたゆえに、光が存在するようになった、と記されている。神の言葉によって創造されたことが強調されているのである。
そして、闇と混沌、空虚と荒廃の状況のただなかにあっても、神のひと言によって光が生じるようになる―これこそ、永遠の希望である。
そして、後に現れたキリストによって、その光には、死の力にうち勝つ神の命があるということが明確に示されたが、この創世記の言葉はそのようなことをもすでに暗示するものであった。
ここに、聖書は神の言葉というのをきわめて重大なものとしているのがただちにうかがえる。
光に次いで、創造された大空や海、植物なども神が言葉を発して「地は草を芽生えさせよ!」言われたゆえにそれらが存在するようになったと記されている。
神の言葉の重要性は、さらに、信仰の父としてキリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教においてきわめて重要な位置を占めているアブラハムにおいても、彼のその大いなる影響力が生まれるに至ったのは、神があるときに、次のように語りかけたからであった。
「生まれ故郷を離れ、私が示す地に行きなさい!」(創世記12の1~3)
このアブラハムに語りかけられた神の言葉によっていっさいが変わったのである。この神の言葉に従うことによって、カナンの地(パレスチナ)がイスラエル民族が住む地域となり、以後神の民が広がっていく基となった。
さらに、いろいろないきさつの後、飢饉のためにエジプトに行くことになり、そこで増え広がったが、そのエジプトにおいて、厳しい迫害を受ける状況となり、滅ぼされようとしていたイスラエルの民族が救いだされたのは、モーセによってであったが、そのモーセを動かしたのも、神がモーセに語りかけたからであった。
…イスラエルの人々の叫びが、今、私のもとに届いた。 今、行け。私はあなたをエジプト王のもとに遣わす。我が民イスラエルをエジプトから導き出すのだ。(出エジプト記3の9~10より)
モーセは、生まれたときにナイル川に投げ込まれることになっていたが、家族の何とかして生かしたいという切実な願いのゆえに、防水された入れ物に入れて川に流された。それをエジプトの王女が見いだして拾いあげ、自分の子供として、エジプトの王子として育てた。しかし、成人したころ、イスラエル人だと発覚し、命がけで砂漠地帯を越えて、遠い地域まで逃げていくことになった。
そこで結婚し、のどかな羊飼いの生活をしていたのだった。そのようなモーセに突然さきほどの言葉がモーセに言われたのである。
それによってモーセは力が与えられ、素手で大国エジプトに向っていくことになった。
神の言葉はそのような驚くべき力を与え、人間的な思いからは到底考えられないことを指し示し、導くことが示されている。
その結果、最終的には、モーセはただ神の言葉、神の力によって、強大なエジプトからおびただしい民を救いだし、さらに、荒野の40年という苦難を経て、神の約束の地、カナンへと導いていくことになり、そこで、神の民は神の言葉を受けつつ、歩んでいくことになった。その子孫からキリストも生まれることになったのである。
その後、イスラエル民族は、何よりも重んじるべき神の言葉をないがしろにし、神ならぬものに行き、神に背を向けていくことになった。そのことは滅びへと直結していった。
そうした神の民の滅びゆく状況にあって、神の呼びかけの言葉によって一般の人間のなかから、とくに選び出され、神の言葉によって警告し、神に立ち返ることを命がけで語り続けたのが、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等々、大いなる預言者たちだった。
そうしてはるか後に、大いなる救い主が現れるということが神の言葉として語りかけられたのであった。
新約聖書の時代になって、主イエスの弟子たちはみな、イエスの呼びかけ、語りかけによって、イエスに従うものとされた。主イエスの言葉とはすなわち神の言葉である。
「私に従ってきなさい。」という単純なイエスの言葉が、弟子たちを動かして、今日のキリスト教の世界的な広がりのもとになった。
このように、聖書では大いなるはたらきはみな、一人一人の人間にふさわしい神の言葉が与えられたゆえである。
しかし、神の言葉はそのような聖書に記されている人たちだけに語りかけられているのではない。
神は万物を創造された。神と同じ本質を持っているキリストもそれゆえに、万物創造に深くかかわっておられると聖書には記されている。(ヨハネ福音書1の1~3、ヘブル書1の2~3、コロサイ書1の15~17)
神の御心によって創造された。その御心とは、愛である。それゆえ、自然のさまざまのものは、神の無限の愛ゆえに、創造されたと言える。
しかし、神の愛とは、人間には計り知れない深さと広大さを持つゆえに、人間に生じたさまざまの苦難―ハンセン病などの苦しい病気や事故、失明などからだの障がい等々、いかに考えても愛などと受けとれないようなことであっても、後に信仰が与えられ、そこに神の愛があったと実感させることがあるほどに、奥深いものである。
その点、例えば人間の母親の愛は子供に、病気や失明をさせたりするなどは考えられない。このように、神の愛といっても、人間の思いや感情では計り知れないところがある。
自然に込められた神の愛など同様で、どうしてこのような自然のできごとが神の愛といえるのか、不可解なことも数々ある。そうしたことも、またしばしば長い時間を経て、神からの啓示によって、それらもまた、深い神の愛ゆえに生じたのだと示されるのである。聖霊こそは、すべてを教えると言われているとおりである。(ヨハネ16の13)
私たちの毎日の生活においてみられる全体としての大空の姿、永遠の光と清さを表して輝く星々、大空の青、雲のたたずまいとその純白や夕日や朝の色合い、木々の緑、変化にとんだ草木の花々、小鳥のさえずり、あるいは山のたたずまい、渓谷の水のながれとその音、海の広大さ、その深く青い世界、風のそよぎ、… 等々、かぎりなく存在する自然のさまざまなものは、その広大さ、色調、変化、力、永遠性、音などじつに多様なものによって神の創造の力の偉大さ、そして私たちに語りかけ、慰め、励ますものがたたえられており、そこに神の私たち一人一人への愛が込められている。
人間の一瞬のまなざしや、短いひと言によっても、私たちは愛を感じることがある。そのように、小鳥のみじかいさえずりは、木々が風にそよぐ姿やその音を耳にするだけでも、混じり気のない清いはげましを感じることがしばしばある。それはそこに神の愛が込められているからである。
神の言葉によって、万物は創造された―神は愛ゆえに、それらは愛によって創造されたのだ。このことは、繰り返し私の心にひびいてくる。
キリスト教詩人として、歴史上でもとりわけ重厚かつ広範な内容をたたえた長大な詩を生み出したダンテ、その詩の作品とは神曲である。
私たちのキリスト集会でも、だいぶ以前に、10年をかけて、学んだことがあったし、さらに何年か前にも煉獄篇だけを数年かけて学んだことがあった。
そこには、人間の生きざま、苦難、祝福とさばき、人間の愛と神の愛と正義、権力者の腐敗、聖なる世界からの音楽、美、また、当時の政治社会の状況や科学的な見方、そして煉獄篇のかなりの部分や天国編においては、神とともにある究極的な幸いの世界が示されている―等々人間のかかわるあらゆる領域にわたって触れられている。 果てし無き闇の世界から、光に満ちた天の世界にいたる内容であって、全体として神の大いなる力による導きがテーマとなっている。
その作品は地獄偏、煉獄篇、天国編の三部から成っているが、その三部の最後の言葉は、すべて星(stelle)で終わっている。例えば、地獄篇の最後の行は、つぎのように記されている。イタリア語原文と英訳、日本語訳で示す。
・E quindiuscimmo a reveder le stelle.(原文)
・ Thence we came forth to rebehold the stars.(Longfellow 訳)
・そしてそこから我らは、再び仰ぎ見ようとして外に出た、かの星々を。(寿岳文章訳)
このことは、当然のことながら、古くから注目されていることであり(*)、私たちにとっても、いかにダンテが星のことを重んじていたかを感じ取ることができる。
(*)このことに関して、ダンテ研究で知られた注解者もつぎのような短いコメントをつけている。 Each of the three great divisions of the poem ends with the sweet and hopeful word stelle. (C.H.Grandgent)
(この詩の三つの重要な区切りのそれぞれにおいて、うるわしく、かつ希望に満ちた言葉「星」で終えている。)
ダンテの神曲―それは人間を導く神の愛が根本的な内容である。その三つの部分の一つ一つの最後に、星(原文は複数形)という言葉を置くのは、3行ごとに厳密に韻を踏み、リズムも整然と整えた詩にあって、意味も不自然でなく表現するのは、容易なことではなかったはずだが、神はダンテに歴史に残る作品とするために、とくにそのような困難なわざをなす霊感を与えたのであった。
聖書においても、その最後にある黙示録の最後の部分に、この世界を究極的に完成する神の力がくだされることを待ち望むところで、その再臨のキリストが、明けの明星として表現されている。
ここにも、星というものが、最も高い霊的な意味、神の愛の表現として受けとられてきたのがうかがえる。
こうした身近に与えられている自然を通して、神はたえず、その愛を注ごうとされている。神の言葉―それは聖書のなかだけでなく、周囲のさまざまの自然の風物に書き込まれていて、さらにそれらは私たちに語りかけているのである。
(無教会の全国集会にて)
①酪農に出会って 北海道 西川 求
私は静岡に生まれ、子供の頃は父の転勤で東京の荻窪や清水の折戸に住み、小学5年で実家のある静岡に帰ってきました。
中学を卒業すると山形県西置賜にある基督教独立学園高等学校に入学が許され、3年間、野山を駆けずり回り、農家の田植えや稲刈りを手伝い、合唱の楽しさを知り、「人の行かないところへ行き、人の嫌がることをしなさい」と教えられたのです。
そして、山深い自然の中で、 つぎの聖句に言われているように、神様の創られた自然の素晴らしさに心奪われた3年間でした。
『烏の事を考えてみなさい、種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養って下さる。』
『野原の花がどのように育つかを考えて見なさい、働きもせず紡ぎもしない。
しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。
今日は野に在って、明日は炉に投げこまれる草でさえ、神はこのように装って下さる。 まして、あなた方にはなおさらの事である。』(ルカ福音書12章24~29)
3年生の夏休みにかけて修学旅行の行き先を14名の同級生で相談しました。みんなの行かないところへ行こう。北海道はどうだろうか。1957年、60年も前の事ですが北海道と言えば、熊の出そうな鬱蒼とした原始林と開拓農家と言うイメージでした。そういう所へ行ってみたい、出来れば開拓農家で働かせてもらえないか。夢がどんどん膨らんで調べて行くと、先輩のお父さんが獣医さんで、根釧原野で働いているのを知り連絡を取り、開拓農家へ一人または二人に分かれて1週間お世話になって働くことになりました。
そこは荒漠とした未開の地といった印象で、所々にぽつんぽつんと家があり、隣の家まで1キロか2キロメートルくらい離れていました。裸馬か馬車で行き来して、僕たちも隣の家のドラム缶の露天風呂に入りに行きました。毎日大鎌を振るって牧草刈りをしました。
親方はまだ23歳くらいの独身青年でジャージー種の親牛2頭と子牛1頭を飼っていました。見渡す限りの原野が広がっており、夕日が沈むころ遠く地平線に雌阿寒岳と雄阿寒岳がうっすらと見え、「ミレーの晩鐘」を思い出させました。
実習を終え、学校に帰って来た僕に大きな変化が襲いました。それ迄は理科系の学校に進む道を考えていたのですが、あの根釧原野の開拓地が僕の頭の中を一杯にして、広大な原野を開拓してみたいという夢が膨らみつつありました。 若いとはいえ自分に開拓農家が現実に出来るのか、祈っていると不思議に力が湧いてきました。
『祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればその通りになる。』 (マルコ11の24)
と示され、「祈ってなしたことは失敗してもそれは成功、神様が全て取り計らったことである」と父がいつも言っていた言葉と重なり心に響きました。そうだ神様に全てをお任せすればいいんだ。
鈴木校長先生に相談したところ、北海道にある酪農学園に樋浦誠先生という立派な方がおられるからそこへ行きなさいと。
入学が許された酪農短期大学は、広い牧草地の中にポツンと細長い校舎で教室と実験室が幾つか並んでいて150人ばかりの小さな学校でした。入学式をした翌日から3日間作業服にスコップを担いで圃場へ行き1メートル余りの深さの明渠を300メートル位掘る仕事を毎日続けました。
翌週の月曜日教室に入ってみると現場を取り仕切っていた先生が実は同級生であったり、一緒に働いて話していた同級生が実は先生であったり、全国から集まった仲間はここですっかり打ち解けて、先生と学生が同じYMCAの会員になり、学校行事やクラブ活動、対外的なキリスト者学生同盟の活動などの参加もこのYMCAの総会で決めて行くことを知りました。
半年後、生出 正実(おいで まさみ)さんはその会長に、僕は文化部長と選挙で選ばれ、学校の行事を全員参加の元、盛り上げていくことに一生懸命働きました。この時生出さんとの出会いが無かったら、そして樋浦先生との出会いが無かったら今の瀬棚での農場経営や仲間との三愛活動はなかったと思い、神様が全て整えて下さり、祈りが聞かれたことを感謝しました。
そして次のみ言葉が示されました。
『測り縄は麗しい地を示し、私は輝かしい嗣業を受けました。』(詩編16の6)
実学と三愛精神
この学生時代に学んだことは実学と三愛精神であり、自ら農村に入って働く気持ちを益々強くしました。樋浦先生は「新しい農村の建設は、何としても農村に定住する青年の手によって遂行されなければならない。
…私は農村青年の前に立つとき、情熱の湧き上がるのを禁じ得ない。語りかけたいからである。言い聞かせたいものを持っているからである。」 我々は2年間、来る日も来る日もこんこんと諭され、時に口角泡を飛ばし、「無知からの解放」を、そして「理想なき人は人らしくない、理想とは何か、未来への夢である。未見へのまぼろしである。夢なき人は人らしくない、幻なき人は人間の特異性を失っているといわねばならぬ」と講義は延々と続き時間をオーバーすることしばしばでした。
もう一つが三愛精神です。「神を愛し、人を愛し、土を愛する」
これは、つぎの聖句と深く結びついています。
『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
(マタイ22章37~39)
私が困難に出会った時、示される御言葉でした。
三愛精神の発祥地デンマーク
北欧の国デンマークは1864年にドイツとの戦いに敗れ、南部の肥沃な土地2州シュレスヴィッヒとホルスタインを割譲します。国土の3分の1に相当する地域を失い国民を失い、残された国土は荒廃した僅かばかりの土地と絶望と貧困と飢餓の中に置かれました。疲弊した国民に牧師ニコライ・グルドビー(1783~1872)は当時80歳の高齢でしたが「神を愛し、人を愛し、国土を愛する」三愛の精神を提唱しデンマーク復興の思想を説き、明日の国民である青年教育の為に国民高等学校を創意したのです。
このグルンドビーの思想と精神に呼応した教育者クリスチャン・コール(1816~1870)はフォルケ・ホイスコーレ(国民高等学校)を創設し民主主義教育の柱に三愛精神を据え青年教育に力を注ぎます。
また、エンリコ・ダルガス(1828~1894)は国民の心をOutward Loss Inward Gain 「外に失ったものをうちに取り戻そう」、と説くと同時にヒース地帯に暗渠を掘り排水をよくし、樅の木を改良して何度も失敗を繰り返しノルウェー産の樅とアルプス産の小樅を交互に植える実験をし、徐々に不毛の荒野に緑の牧野が広がって行きました。
とありますが、まさにこれを実行したのでした。ダルガスの思いは長男フレデリック・ダルガスに引き継がれ親子2代にわたって、研究努力した結果、やがて森林を作り不毛の荒野は緑の大地に代わっていき国土を肥沃な農地に変えて馬鈴薯や牧草地を増やし酪農大国の基礎を作って行きます。主に全てを捧げた信仰と並々ならぬ祈りとが働いて国の復興を成し遂げたのであります。
この事を内村鑑三が1911年に今井館で講演し、1923年に小冊子となり出版されています。戦後間もなく岩波書店より「デンマルク國の話」として「後世への最大遺物」と一緒に再出版されました。(1946年 岩波文庫発行)
新規就農
酪農に目覚めて後、挫けそうになりながらも開拓の夢を持ち続けた10年間は私にとって必要な時でありました。東京へ出てアイスクリーム工場で働き、八ヶ岳山麓の牧場で牧夫として働き、袋井市でデンマーク人がデンマーク式農業を教えるというのでその手伝いをし、又、北海道に戻って開拓地を探しましたがお金も信用もない若者に土地を世話してくれる人もなく、酪農学園の農場や農業高校で働き、祈って時の来るのを待ちました。
ある日、生出さんが来て瀬棚で一緒に酪農をやらないかと誘いに来ました、瀬棚町や瀬棚農協が地域発展のため新しい人を求めていることを知り、生出さんが保証人になって下さり38ヘクタールの土地を与えられ営農に踏み切りました。家内と1歳になる息子がいましたから周りの友人やお世話になった先生方は何も開拓地に行かなくても、ここで酪農後継者の教育に携わってもらいたいと引き止めましたが、私は自ら農民になりたい、そして信仰を共にする仲間を一人でも増やしその輪を広げたい。
まだ雪が残っている4月初め、乳牛の導入と放牧用の柵作り、牧草地への肥料撒き、農耕馬の購入と忙しい毎日でした。当時の作業は馬が全てで、畑に肥料や堆肥を運ぶのも、街まで買い物に行くのも、収穫した牧草を運ぶのも全て馬車でした。冬になると雪に閉ざされ馬に橇を取り付け、搾った牛乳を一日おきに町まで二日分を運ぶのが日課でした。空いている日は山の高台に馬橇で堆肥を運び、馬も人間も汗をかきました。
就農して1か月が経った時、家内が腹痛を訴えて入院し危険な状態であるというので即手術をして一命を助けられました。子宮外妊娠でした。当時の農協組合長の奥さんは腹痛くらいと我慢して働き続け、同じ病気で亡くなったことを後で知りました。
その年の秋、その日は沢を挟んで隣の農家でデントコーンの収穫作業をしている時、家内が血相を変えて走ってきました。当時はまだ電話がありません。どうした、と言うと牛が倒れている。熊が出たのではないか。若い数人の者とわが家へ走って行くと牧草地の真ん中で大きなお腹を膨らませて一頭の親牛が倒れていました。恐る恐る近付いてみると牧草のクローバーを食べ過ぎて胃袋にガスがたまって食道を圧迫し窒息死した誇張症だと分かりました。
一番大事にしていた乳牛でした。その後も牛の事故は続きました。そのたびに、
『あなた方のあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。
あなた方を耐えられないような試練に合わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さるのである』 (一コリント10章13節)
を読みながら祈りました。
私が酪農を始めたことを大変喜んで下さった独立学園の桝本忠雄先生が修学旅行生と共に1週間働いて下さいました。それから修学旅行生の実習は50年も続いています、その中から新規就農した仲間が少しずつ増え、同じ志を持つ仲間が今は10軒余りになりました。
私が就農した1968年頃は北海道の酪農家戸数は4万1100戸が営農していました。現在6700戸が北海道の酪農を支えています。その中の10戸が瀬棚の仲間です。100頭200頭今や1000頭規模の酪農集団もいます。しかし瀬棚では30頭か40頭くらいの規模で家族経営と地域の活性化や周りの農家との交流を大切にしながらゆとりある経営をしています。「300ヘクタールの土地を一軒で300頭の牛を飼うのに比べ、30ヘクタールずつ10軒の農家が30頭ずつ牛を飼うと地域は活性化され村は生まれ変わります。」
神様の成さることは目に見える時と見えない時があります。今考えると全てを神様が導いて下さり、苦しくて辛い時も泣きながら、どうしてこんな事にと思う時も、そして楽しい時、喜びを何倍にもして分かち合う時も、共に祈り神様のみ声に耳を傾ける信仰の友が近くにいることに感謝します。と同時に全国に全世界に「神を愛し、人を愛し、土を愛する」三愛の精神がみ言葉と共に伝えられることをお祈りいたします。
貝出 久美子
(看護師・徳島)
わたしは、家に仏壇と神棚があり、朝に晩に仏壇を拝む母をみながら、キリスト教とはほとんど接することのない、一般的な日本の家庭で育ちました。
そんな中、わたしはある出来事から、心の中に深いブラックホールのような闇ができてしまいました。その闇は、わたしが元気に生きようとする思いや、まっすぐに進もうとする思いを、強い力で吸い込んで闇の中に引きずり込もうとする、そんな力がありました。楽しいことがあると、おまえは楽しんではいけないといい、幸せになろうとするとき、おまえにその値打ちがあるのか、と言ってきます。
そんな闇を抱えながらも、ごまかしながら、また、一時的に忘れながら元気に看護師の仕事をし、友人と楽しく笑い、家庭での生活もしていました。闇は思い出したように語りかけてきましが日常生活は忙しく、仕事と子育て、家のことで時間に追われ、疲れながら闇を振り払い生きていました。
二人目のこどもが与えられ育児休暇中のことでした。何かで見て、徳島いのちの電話主催の講演会にいきました。誰が何を話したか、今は覚えていませんがその講演にわたしは感動しアンケートのようなものに住所とか名前を書いてきました。
ある日、郵便が届きました。いのちの電話を主催している教会からのもので、教会堂を建てた、だから、献金してください、という案内でした。わたしは、その図々しさに驚きました。講演を聴いただけなのに献金の催促。だから宗教はいやだと思いました。そして、そんな教会をためしに見てみようと思いました。
ある日、乳児の次男を連れて、その新しい教会に行きました。優しそうな牧師が笑顔ででてきて歓迎してくれました。わたしは牧師に聞きました。「神様はどんな罪でも赦してくれますか?」それは、わたしの中の闇、ブラックホールの重さからでた叫びでした。牧師は優しく、しかし確信を持って答えてくれました。「どんな罪でも赦してくれます。」
そして、日曜日の礼拝に来るように勧められました。
わたしはその教会に行き、はじめてキリスト教の礼拝に出席しました。そのときのメッセージは「捧げることの大切さ」についてでした。やっぱり宗教はこうやって献金を集めるのだ、と思い、もう教会に行くのはやめようと思いました。
それから、わたしの中に大きな疑問がわいてきました。神様はいるのか、いないのか。それはもう、どうでもいいことではなくなりました。確信がないままではいられない。とても苦しく、頭の中がその疑問でいっぱいになりました。「神様、いるんですか、いないんですか、どっちなんですか。いるならいるで、わたしにわからせてください」と、何かに対して叫びながら、過ごしました。
そして、これで最後にしようと再度礼拝にいきました。牧師のメッセージは放蕩息子の話でした。放蕩三昧をした息子がみすぼらしい姿で帰ってきた。父親は急いで駆けより息子を迎えて抱きしめた。もちろん、初めて聴く話です。話を聞いているとき、突然、わたしの後に、まぶしく荘厳な光が現われたことを感じました。わたしは後の方に座っていて後には誰もいません。 神様だ、と思いました。怖くて後を振り返る勇気はなかったけれど、その荘厳な神様の光は、放蕩息子と同じようにわたしを待ち続け、赦し、駆けより、抱きしめてくださっていることがわかりました。神様はいた。そして神様にわたしは赦されている。主によって示され、涙が止りませんでした。
家に帰り、中学生の時ギデオン協会からいただいた聖書を開けました。関心もなく読んでも意味のわからなかった聖書のことばが心に染み込み、聖書は神様からのメッセージだとわかりました。昔の偉人にしか思えなかったイエス・キリストが神でありわたしを救ってくださった。「放蕩息子のたとえ」という神の言葉をとおして信仰が与えられ、心は喜びと平安に満ち、この道をまっすぐに歩んでいくはずでした。
しかし、わたしは、教会には出席しても、祈りもせず、聖書を読むのもやめてしまいました。祈りは呼吸だよ、と牧師にいわれ、牧師婦人からは「人を見ないで神様だけをみつめて」と言われていましたが、神様をみつめなくなりました。
月日が過ぎ、この世の力に引き込まれ、心はさまよい始めました。神様を知らされながら、キリストの救いがわからなくなったわたしは、惨めでした。
神の光を感じたという不思議な体験は、事実として頭でわかっていても、力にならなくなりました。以前、闇をごまかすために飲んでいたお酒を再びたくさん飲むようになり、自分でもどうすることもできず、紛らわせていました。
わたしは、自分が壊れた、生きているのに死んでいると感じていました。その頃のわたしは不安定で感情的になり、主人にも子供たちにも申し訳なかったと思っています。
ある牧師が書いた本に「自転車が壊れたら自転車屋に持って行く、時計が壊れたら時計屋に持って行く、わたしたちの心が壊れたら、創り主である神様のところにもっていく必要がある、創ったので直せる」とありました。神様の所に持って行きたい、でもどうしたらいいのかわかりませんでした。
心を紛らわせ生き甲斐を見つけるために新しいことを始めよう、と思ったときに高校時代の親しい友人から手話を勧められました。主人が家事やこどもの世話の協力をしてくれたので、仕事が終って、手話サークルに行き始めました。でも、闇は抱えたままでした。手話サークル会場の近くにカトリック教会がありました。そこはドアが開いていて自由に祈りができるようになっていました。サークルが始まるまでの時間そこでわたしは祈りました。
「神様、わたしは壊れました。助けてください。手話に行っていますが、手話で助かるなら手話で助けてください。壊れたので神様に直して欲しいです。助けてください」
サークルの始まる前の時間、何回も祈りました。これだけ祈ったのだから奇跡が起こっているかも、とそっと目を開けたりしてみても何も変わりません。神様は遠く、わたしはどうしたらいいか、わかりませんでした。
そんな中、わたしは手話にはまりました。手話で会話が出来ることが素晴らしいと思っていたある日、通い続けていた教会の受付に「世の光」という伝道用ちらしが置かれていて、それにごく小さく、徳島聖書キリスト集会が紹介されており、土曜日、手話の学びがあると書かれていました。 手話が学びたかったので行くことにしました。
数センチの小さな記事。それがわたしにとって命への入り口となっていました。扉はどこにあるかわかりません。
土曜日にそこで手話を学びはじめました。手話だけでなく聖書の話や賛美がありましたが、話を聞いてもピンとこず、「いのちの水」誌の前身の「はこ舟」誌を手渡されていたけれど、難しく感じて読みませんでした。
そんなある日、手渡されていた「はこ舟」をふと読みました。マザー・テレサのことが書かれていて心に残りました。
そのとき夕拝に誘ってくれていたことが思い起こされました。
そうだ、話を聞いてみよう、と駐車場で祈って夕拝にいきました。エゼキエル書を学んでいました。神殿建築がどうの、至聖所がどうの、チンプンカンプンでした。難しすぎる、と場違いな自分を感じているとき、新約聖書ではなんと書かれているか、と説明がありました。それは「あなたがたが、神の神殿である。」という箇所でした。
「わたしが神の神殿!」
その瞬間に、神様を見失ったみじめな自分が映像のように心の中に照らし出されました。神様を知らされてなお、立ち帰らないでお酒を飲みふらふらになっているわたし。どうしたらいいかわからないで、この世のもので必死にごまかしているわたし。
足をすくわれて壊れてしまい、生きているのに死んでいるようなわたし。つぎつぎと自分のみじめな罪の姿が心に照らし出されました。
「おまえは神の神殿であるのにどうしたことか。」
心の中を照らし出す光はわたしに迫ります。裁きの光です。でも、とても温かい裁きでした。裁きながら、「つらかったなあ」「わかっている」「もういい」「大丈夫」という赦しに包まれました。
裁きと赦しが同時に与えられたのです。そして、心に巻き付いていた鎖がはずれました。闇が消えていき、わたしは再び神様に立ち帰ることができました。平安と喜びが与えられ、そして、目の前に飛び込み台があるように思いました。わたしは思い切って飛び込んでみよう、と思いました。
それから夕拝に参加するようになり、メッセージをきいているうちに、聖書からのメッセージを受けることのすばらしさを感じ、通っていた教会から徳島聖書キリスト集会に変わりたいと思うようになりました。
代表者の吉村さんに相談すると、「十年祈っても思いが変わらなければ教会を変わりなさい」といわれ、驚きました。十年は長すぎる。でも、み心ならば従おうと思いました。 真実の礼拝に少しでも触れたかったのでしょう、わたしは通っていた教会の礼拝が終ってから急いで集会場に来て、見つからないように玄関にすわり、みんなが出て来そうになると逃げて帰っていました。 もどかしくてある日、神様に一生懸命に祈りました。「神様、わたしは教会を変わりたい。」真剣に祈りつつ聖書を読みました。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
(第一ペテロ二章2)
みことばが迫り、神様が教会を変わりなさい、と言ってくれました。わたしは飛び上がるような思いで、吉村さんに報告しました。
迷いはありませんでした。教会の牧師にも徳島聖書キリスト集会に変わりたいと伝えました。牧師は「あなたの信仰の成長のためなら応援します」と言われ快く出してくれました。牧師夫妻は今でも訪問すると温かく迎えてくれます。
そして徳島聖書キリスト集会に導かれました。毎回の礼拝で御言葉を受けつつ今があります。主の名によって集まるところに主イエスがいてくださる。集まり支え合うこと、御言葉を受けること、祈ること、それで命が続いているのだと感じています。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」 (出エジプト二十・2)
この言葉を聞いたとき、その通りだと思いました。神に背き、神から離れさせる力、罪の力、それは自分の力では戦えませんでした。
そこから導きだし、そして、命の道を毎日歩き続ける力、それは、神様が後に立って下さった不思議な体験でも、夕拝で感じた赦しの光でもない。それらの体験は、聖霊によってわたしの霊の目が開かれたときであり、それがなければ、神様を信じることも立ち帰ることもできませんでした。
しかし、そこから純粋な霊の糧、神の言葉を慕い求め続けることがなければ、そして、「主よ」と呼びかけ、主と交わり、祈ることがなければ、再び心は死んでしまうのだと思い知らされました。
神の言葉によって成長があり救いがある、そして、純粋な霊の糧を求めるために集会に導かれたのだと感じています。
わたしは無教会主義に共感して学びを求めて集会に来たのではなく、ただ手話を学ぶために数センチの案内を見て集会に来ました。混じりけのない霊の乳がここにあるからこそ、神様はそれを求めなさいと言われたのだと思います。
それからも、辛いこと、苦しいこと、失敗、間違い、いっぱいあり情けない思いの繰り返しですが、主に向えば心が変えられ、また御言葉に導かれ前に進むことができます。 主の体である集会で共に礼拝し、また県内外の集会に参加することでつながりが広がり、信仰の友が与えられました。
またアシュラムという聖書に聴き、祈り合うあつまりとの出会いも与えられました。超教派で集まり共に祈るとき、組織や儀式の問題も全て越えてひとつになれることを実感します。そして離れても互いに祈り合う。それは、大きな支えとなります。
「祈りの友」の集まりも超教派です。祈られ祈るだけのつながりは会うことが出来なくても病床にあってもひとつの集会です。
苦しかったブラックホールのような闇の力を覚えています。精神科病棟での勤務で心病む人たちと出会ってきました。
それは自分自身と重なりました。これからも、闇に苦しむ人たちが、どうか、神の言葉によって救い出されますようにと願ってやみません。
神に従う者は命を持つ 永井 信子
(いずみの森聖書集会代表)
「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119の105)
「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8の12)
主イエスは、「わたしについてきたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と言われました。
ついてくるのは自由だが、ついてくるなら自分という自我を捨てて空っぽの心で、自分の現実を背負って従ってきなさい。そうすれば闇の中を歩かず、主の命の光を持つ、と言われています。
「神を愛し自分を愛するように人を愛しなさい」との御言葉では、自分を愛することが出来なければ人を愛せないということになります。少年犯罪をしてしまう人の多くは、人から愛されている実感がないので、自分を好きになれないことが要因の一つにあります。私は保護観察をしていて、トマトはトマトのままメロンはメロンのままで神様は愛してくださっていることを伝えるようにしています。また、「私にとってあなたは尊い」との御言葉で心の平安を得た人から人へと伝わっているのを聞くと神様は本当に生きて働いているのを実感します。
神様が試練を与えられるのは、無力さ、弱さ、愛せないことに気づかせ、神様にしか救いはないことを知らせるためです。神様の愛は無限です。
自分に与えられた現実を背負っていく、それが神を愛することだと思います。祈りが聞かれないと思っていてもあきらめず祈る。神様につながっているとは、祈り続けることだと思っています。執拗に祈って神様につながっていれば、必ず祈りは聞かれると信じて祈る、主イエスが、血と汗が出るほど祈られたように、霊と真とをもって必死に祈る。すぐに答えてくださらなくてもその時を待つ。神様の方は、いつ自分のところへ帰ってくるか待っておられる。放蕩息子が悔い改めて帰るのをずっと待っていたように。
ニューヨークにあるリハビリテーションの待合室の壁に掛けられているという「応えられた祈り」という詩があります。
「功績を立てようと、神に力を求めたのに 謙虚に服従するようにと 弱さを与えられた。
より大きなことをしようとして、健康を祈り求めたのに より良いことをするように 病気を与えられた。
幸福になるようにと、富を求めたのに、賢くなるようにと 貧しさを与えられた。人々の賞賛を得ようと、力を祈り求めたのに 神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。
祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに 実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。
このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ、すべての人に勝って、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。」
祝福を与えられること、ほかの人のために祝福を祈ること、悪を行っている人を呪わず、祝福を祈ること、それが神様の御心です。御心にかなう生き方をしていくには、私たちは常に命の水を飲んでいなければ枯れてしまいます。パンだけで生きるのでなく、神の言葉で生きるために、命の水が必要です。「主よ、御言葉のとおり、命を得させてください。」(詩編119の107)との祈りを続けていきたいと思います。
最後に、絶望から希望へ変えられた、ひとりの死刑囚の書簡「死に勝つもの」という本の中から、一部分を読ませていただきたいと思います。手紙はあるキリスト者へ宛てたもので、35通あります。その中からいくつかを引用します。
「新たに主にありて生まれた我々は、明日を思うことなく、与えられた現在を十二分に神への服従に従って全うすることが務めですから、毎日毎日が最後の日であり、主の再びこの世に来る日でなければなりません。
私たちのような現実の生活ではともすれば悪魔の試みに誘惑されそうな毎日を送っている者には、祈る時間と、聖書によって読んだ御言葉を体内に完全に消化して力とする二つの方法だけが、悪魔の絶え間ない誘惑に勝ち得る唯一の道だと思います。」
「されど主の御言葉は永遠に保つなり。とは何とありがたい福音でありましょうか。ここに生きる希望を見出し得た以上、もう地上における苦悩なぞは問題ではありません。」
「私は今規制の許される範囲内に福音を語っております。厳しい独房生活にありますので、伝道はなかなか苦心が伴いますが、主は常によい機会を与えてくださいますので感謝です。最近は職員の方も非常に私どもの信仰にご理解くださるので感謝しております。私は今真剣に同囚達に福音を呼び掛けております。」
「人間は皆死期の定まっていない死刑囚なのですね。死刑囚でない生命は神を信じて獲得した生命のみです。この生命こそ私どもに大きな希望、歓喜、自由、平安、幸福、満足を味わせてくださるのですね。ハレルヤ!」
「現在の私にもし信仰がなかったとしたら、おそらくこの現実の苦痛に発狂するか、あるいは自殺するか、このいずれかを選び取ったであろう。こうしたことを今心静かに思い浮かべ、唯一の活ける主に選ばれ、その御救いに与れたことを深く感謝しております。」
次は最後の手紙です。刑の執行は突然来るので、この人はその時を悟ったのかもしれません。
「罪びとの首である私達、この私達の全罪を、尊い御子イエスキリスト様に負わせたまい、罪と死と、滅亡のみの世界から永遠の希望と喜びの世界に引き上げてくださった、父なる神の御愛と恵みに感謝するばかりでございます。
ほむべきかな、わが父、あゝほむべきかな、わが主イエス・キリスト様の御愛、本当に神様の広大な恩愛には、ただただ感謝し御名を賛美するほかはありません。ハレルヤ。ハレルヤ。
そして、「わが罪を知れば知るほど身に沁みる、十字架の上の主の愛をば」
主イエスは、もう一度来て新しい天と地を造ると約束されました。その日「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
「主よ 来てください」闇夜の中に。来てください。主よ 来てください。新天新地を造るために。
〇第30回 キリスト教(無教会)全国集会について。
今回のテーマは、「神の言葉―希望に生きる」でした。
それは、日本や海外においても、希望を打ち砕くようなできごとが次々と生じており、そのようなところにこそ、聖書で約束されていること、神の言葉が注がれ、闇に光あれ!とのみ言葉を受けて、じっさいに命の光を与えられたいと願ったからです。
それはそうした問題に関しての議論や知識の開示、あるいは研究発表によってではなく、
ただ、わたしども一人一人が自らの弱さ、罪深さを知り、そこから集ってともに神を仰ぎ、祈り、賛美し、み言葉を受けていくこと、そうしてキリストそのものである聖霊を受けることです。
心身が弱り、苦しむ者にとって、多くの知識や論文、研究的内容を理解することなどとてもできないことです。
しかし、その苦しみや悲しみのなかから、神を仰ぎ、神に叫ぶこと、そしてまたともに神への祈りとともに賛美の歌を歌うことはできることです。
ああ、幸いだ。悲しむ者は。
なぜなら、その人たちは、神によって励まされ、慰められるからだ。という主イエスの約束を思います。
今回は、会場の都合もあり、分科会をつくらず、一日目の夜の「祈りの友」の会と、若者の会、そして二日目の主日の早朝の早朝祈祷以外は、すべて全体会場で行なわれました。
それによって、参加者と相互に出会う機会がふやされ、より親しみのわくものとなったとの感想も寄せられていました。
たしかに、二日間を通じて、比較的多くとっていた休憩時間や食事時間のときに、いつも 140名ほどの人たちと自由に交わり、食事もともにし、どなたとでも主にある交流、お話しができますので、いつもの全国集会にはない、親しみある関わりが与えられたのを思います。そのうえに、全国集会前日の夜にも2時間(37名参加)、全国集会終了後にも場所を徳島聖書キリスト集会場にかえて、やはり2時間(25名参加)の交流集会をも開くことができました。
一人一人に、神のみ言葉を届けたい、そのためには、多くの方々によってじっさいに神の言葉が与えられたという生きた証言を語ってもらうという方針でプログラムが作成されました。
そのため、聖書講話も10分~30分という短い時間で、4名の方々によりなされ、証しも、二日間を通して7名の方々が20分ずつ語っていただきました。
さらに、当日指名の7名の方々には5分という短い時間で、自由に信仰の経験、考えていること、み言葉、賛美、書物のことなどを語っていただくという時間を今回初めて特設しました。
そして、音楽、賛美を用いたプログラムも土曜日、日曜日とそれぞれ二つずつ入れました。
一つは音楽の賜物が与えられた方々による演奏と賛美、証しとメッセージ、そして会衆賛美を組み込んだ内容、一つは徳島聖書キリスト集会員による、手話讃美やデュエット、コーラスなどです。
賛美とは、祈りであり、またしばしばみ言葉そのものでもあります。
言葉によっては心に入ってこない場合でも、賛美によって深く心に入り、魂をゆすぶられることもあります。
これも、一般の歌とちがって、主に向って歌われる賛美によって、神の言葉の力が各人に注がれることを期待してのプログラムでした。
こうして、聖書からのメッセージと証しは、18名の方々によってなされ、さらに、閉会礼拝のときには、数組のご夫妻を含む8名ほどの方々が、3分以内で、今回の集会全体にわたって、み言葉にかかわる感想を語られましたので、25名ほどの方々が、壇上で参加者に向って語りかけることになりました。
こうした多様な方々によって、受けとられた神の言葉が、参加者全体の心へと波のように伝わっていったのを感じたのです。そしてその波動の根源は、神であり、キリストだったのです。
今回の全国集会では、沖縄から、北海道まで、132名が申込され、そのうち、病気や家族や仕事の事情で何名かが参加できなくなりました。
他方、いろいろな事情で、申込できていなかった方々が、追加参加者として、当日に、県内から、10名(判明分)が参加され、そのほかにも、一日だけ、部分参加された方もあったようで、約140名が集うことができました。
私たちのキリスト者の集会が、全国集会であれ、日曜日ごとの集会や家庭集会であれ、この愛の神、キリストに出会うこと、そして直接に生けるキリストからの言葉を受けることが目標です。
今回の全国集会がそのような目的に少しでもかなうことがなされたのを信じ、主のみわざとして、心からの感謝をささげます。
〇全国集会の録音CD
今回の全国集会の全部の内容が録音され、MP3形式でCDにされます。
ご希望の方は、つぎの4種類
のCDのうちいずれを何枚希望するかを書いて、奥付にある吉村孝雄まで申込してください。 メール、FAX、ハガキなどで。
①プログラム全体(全国集会の前後の交流会も含む)をプログラム順に録音したCD。
②4人の聖書講話だけのCD。
③全体の自己紹介、7名の証し、やはり7名による5分の信仰感話、閉会集会の7人による感想など。
④今回の全国集会で用いられた賛美だけを録音したCD。 今回は、約30曲を用いています。それは、讃美歌、讃美歌21、新聖歌、つかわしてください―世界の讃美、リビングプレイズ、プレイズ&ワーシップ、友よ歌おう、等々の讃美集から選ばれています。さらに「祈りの友」の歌も含んでいます。
この賛美集CDには、武 義和さんや安彦 真穂さんによる特別讃美、徳島聖書キリスト集会員による賛美も含みます。、
価格は、CD一枚200円(送料込)です。代金の送付は、郵便振替、あるいは200円以下の少額切手でもかまいません。
〇吉村への電話は、左記の奥付の固定電話にかからないときには次の電話のいずれかにかけてください。
〇なお、全国集会他いろいろな事情のために、多くの方々からの協力費やお手紙などにも返信ができない場合が多くなっています。申し訳ないことですが、お許しください。
〇今月号は、全国集会のためにとくに時間がなく校正もできなかったので、入力ミスなどもあると思われます。
それらに気付いた方は、お手数ですが、ご一報くだされば幸いです。ネット版では訂正したものを提示できるからです。