「いのちの水」2016年7月号 第665



恐れるな。あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる。

(ヨシュア記1の9より)



リストボタン神は涙をことごとく拭って くださる リストボタン王としての神―詩篇47 リストボタン全国集会の感話から
リストボタン休憩室 火星、アンタレス リストボタンお知らせ 7月の北海道、 各地での集会予定 リストボタン全国集会の全内容録音CD の紹介


リストボタン  神は、涙をことごとく拭ってくださる

 

 聖書の最後の部分で、神を信じる者に約束されていることがある。それは完全に汚れから清められること―それは真っ白い衣を着ているという表現で示されている。(黙示録7の9

 

 この世において私たちが遭遇するさまざまの問題、それは自分の内なる間違った考え、自分中心、正しいあり方からはずれていたゆえに生じたもの―罪から生じたと思われること、または罪に関連していることがきわめて多いために、そのような罪の汚れから清められるということは、私たちの最終的な願いである。

 そしてその願いはかなえられるし、そのような人たちが天の大群衆として記されている。

 それとともに、特に「涙をことごとく拭ってくださる」ことが、強調されている。

 

…御座の正面にいます小羊(キリスト)は彼らの牧者となって、いのちの水の泉へ導いてくださる。

 また、神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」。(黙示録7の17)

 

 キリストのことをここではとくに小羊という表現で記されている。それは、迫害の時代ゆえにあえて象徴的表現を多く用いているということもあるが、それとともに、すぐ前の節にあるように、「彼ら―さまざまの国々、民族からなる白い衣を身につけた数えきれないほどの大群衆―は大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って清くした」(黙示録1714

 とあるように、小羊で表されるキリストが血を流して私たちのために死んでくださったゆえに救いだされたという意味がこめられている。

 小羊なるキリストが私たちをいのちの水の泉へと導き、そこで受ける恵みが、「涙をことごとくぬぐいさってくださる」であるとされ、このことは、黙示録の最後に近い部分でも再度言われている。

 

……そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神が人とともに住み、人は神の民となる。

 神が自ら人とともにいて、その神となり、

 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。

もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21の4)

  このように、世の終わりにどういうことが生じるのか―それは、神が共にいてくださるという約束であり、そこから与えられることとしてとくに、この「涙をことごとくぬぐってくださる」ということが記されている。

 しかもこのことは、神とキリストがおられる玉座からの大声で言われたのである。

 キリストが(大声で)叫んだ―とくに強調されたこの表現は、主イエスに関しては、数回しかない。いずれも、特に重要なことを言われるときである。

 

…イエスは大声で(叫んで)言われた。「私を信じる者は、私を遣わされた神を信じるのである。私を見た者は、神を見たのである。」(ヨハネ124445

 これは、主イエスと神とが同質であり、ヨハネによる福音書の最初に記されているように、キリストは神であるということを指し示す重要なことであるゆえに、大声で言われたのである。

 そして、同様に、大声で言われたと、とくに記されているのは、次の言葉である。

…「祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、立ち上がって大声で言われた。

渇いている人は、だれでも、私のところに来て飲みなさい。

私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7の37〜38より)

 

 イエスを信じることはすなわち天地創造の神を信じることであり、イエスを霊的に見た者、イエスの本質を知らされたものは、神を知らされたことなのである、これは神とキリストの同一性を示すゆえに、ヨハネによる福音書でも冒頭に記されていることであり、ヘブル書やコロサイ書でもその重要性ゆえに、その最初の章に記されている。(ヘブル123、コロサイ11518

 このように、イエスが大声で叫んで言われる―と記されているのは、単に当時の人たちに言っただけで終わるのでなく、それは、その後の歴史を通じてこの真理が響きわたるようにとの神のご意志が反映されているのである。

 このようにみてくるとき、聖書の最後の書、しかもその終わりの部分にて、神が永遠に共にいてくださるようになったときの祝福の最初に記されていることが、人々の涙をことごとく拭いさってくださる―ということが、大声で言われた重要性が感じられてくる。

 愛するものが迫害ゆえに殺され、また信頼していた人からの裏切りもあり、また、家族も分断され、家族からもキリスト者となったゆえに憎しみをうける、自分もまったくいわれなき理由によって極悪人とされ、拷問を受けて、猛獣に食わされるなどして殺されていく―そこにはどれほどの深い悲しみがあったことだろう。

 黙示録という書の中程にも書かれ、そして最後の部分に再度「涙がことごとくぬぐわれる」と重ねて記されているその背景が思われる。

 そしてその思いは、主イエスが山上の教えで言われたこと 「ああ幸いだ、悲しむ者たちは。彼らは、(神によって)慰められる。」と言われたことに響きあうものがある。

 人間の感情には、喜び、平安、高められ清められる満足感、それに対して怒り、憎しみ、妬み、不安、絶望…等々さまざまのものがある。

 そして、悲しみは、自分の身近な人、あるいは周囲のできごとが、裏切りや背信行為など、予想していなかったこと、自分の力ではどうにもならないことや深く傷つくこと、いわれなき理由にて見下され、また罪ありとされることなどによって魂の深いところからしみ出るように生まれる。

 詩篇にも、そうした身近な者からの背信行為があることが記されている。

 

…わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が威張ってわたしを足げにする。                (詩篇4110

 その者は敵対するものとなって、この詩の作者に向って、「早く死んでその名も消え失せてしまえ」とか「のろいに取りつかれて病気になったのだ、二度と起き上がれまい。」といって、病気に苦しむ者をさらに悪意をもって攻撃してくるほどであった。(同6〜9)

  このような深い悪意はどこから来るのか、しかもそれがかつては共にパンを食べて信頼さえしていたのだ。人間は本当にどのように変質するかわからない。

 主イエスご自身、この詩篇で言われていたように、12人の弟子たちの中から、イエスを裏切って金で売り渡し、処刑されることの橋渡しをしたユダの裏切りを経験されることになった。

 私たちがこの世で生きていくかぎり、数々の問題が生じ、悩み、また苦しむ。そしてその根が深いことを思い知らされるとき、私たちは悲しむ。ただ黙して、神の力がそのような現実に来たりますようにと祈り、願い続ける。

 それぞれの人が、さまざまの理由で悲しみの根を持っている。

 自分のいやされない病気やからだの障がい、また家族の分断、災害や事故や犯罪、あるいはそうしたことが大規模に生じたローマ帝国や日本の秀吉の時代から江戸時代、さらに明治の初期などにも生じた国家的迫害、そして大きな戦争などでは、至るところでそのような深い悲しみが生じる。

  それらいっさいがぬぐい去られるときが来るという。それはまことに喜びのおとずれであり、福音である。

 私たちは、そのような喜ばしい知らせが聖書にすでに数千年も昔から記されていることを知らされて驚く。

 長い歴史の流れのなかで、どれほど多数の人たちが、じっさいにこの黙示録の言葉により、また活けるキリスト、聖霊によって、「あなたの涙はことごとくぬぐわれる」という霊的な大声での語りかけ―確信に満ちた声を聞き取ってきたことだろう。

 私たちはこれからも、その語りかけを聞き続けていきたいし、その大いなる声が、あらゆる悲しみにある人に届くようにと願うものである。


リストボタン王としての神―詩篇47編

 

 私たちは、神を思うとき、まず何を連想するであろうか。天地創造の神、愛の神、そして永遠の神―等々。

 それとともに、王としての神―全世界を真実と愛をもって永遠の昔から現在に至るまで、現実に御支配されている神の姿もまた、繰り返し聖書には記されている。

 しかし、古代から現在まで、いつの時代においても、不正や武力闘争、圧政、破壊、混乱、自然災害―等々は至るところで見られて、どこに正義の神、愛の神が支配などしているのかと、一笑に付せられることが多い。

 しかし、それにもかかわらず、この混乱や闇のただなかで、明確に正義と愛の神の御支配を霊的な目で見、かつ言葉でも示された人たちが起こされてきた。

 この詩篇47篇もその一つである。

 

すべての民よ、手を打ち鳴らせ。

神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。(2節)

主はいと高き神、畏るべき方

全地に君臨される偉大な王。(3)

 

 詩とは個人的な感情を独特な美しい言葉、リズミカルな言葉で表現したものが多い。しかしヘブライの詩の場合は、よく似た表現を併置し、たたみかけるように表現することで意味を浮かび上がらせ、あるいは強調されることが多い。

 この詩も2節から互いに補い合って神への讃美を歌っている。例えば冒頭の2節では、

 

すべての民よ、手を打ち鳴らせ。

神に向って喜び歌い、叫びをあげよ

 

 神への賛美のすすめ、ということが、1行目と2行目で表現を変えて表されており、そのことで、神への賛美を作者が心から、力強く勧めていることが読む者に伝わってくる。

 この詩では、冒頭から、「手を打ち鳴らして」賛美することが、強く勧められている。

手を打ち鳴らせとあるように、当時の讃美は単に声を出すだけでなく、手をいわば楽器としてたたいて讃美をいていたことが分かる。

 心からの思い、賛美を表すために、楽器がある場合にはそれを用いるが、それもできない者、楽器もない者でもできるのは、手をたたくということである。

 他にイザヤ書55章の12でも、野の木々も手をたたくというぐらい、解放された民を非常に喜ばしく迎える。この55章は、大きな区切りであり、その最後の部分にこのことが記されている。

 これはバビロン捕囚からの解放、そしてさらには我々も罪の中にいるのは、バビロン捕囚の中にいるのと比喩的には同じようなものとされ、そこからの解放は一番喜ばしいことなので、周りの自然までも手をたたいて喜ぶというのである。

 霊的な世界に深く導き入れられたときには、声を出さない、無生物だとみなされているものまでが、命を持っているものであるかのように、そこから賛美を歌うのが聞き取れる。

 神は全能であり、死せるものに命を与えることの可能なお方であるゆえに、み心にかなった場合には、人間にもそのような力を与えるのである。

 主イエスは、悔い改めた者に関して、御使いたちが天で大きな喜びの声をあげると言われたが(*)、そのことと似た思いが伝わってくる。一番の喜びどこにあるのかということを、旧約の時から言われていた。繋がれたところから解放される。闇の力、罪の力から解放されるのは喜ばしいことだとみんなが喜ぶ。

*)悔い改める一人の罪人について、大きな喜びが天にある。…一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(ルカ福音書15の7、10より)

 

 旧約聖書の詩は、たしかに個人的な苦しみや悲しみ、困難を神に訴えるという個人的な感情の表現も随所で見られる。

 しかし、それらも個人的な感情であっても、不思議なほど、それから数千年も後に生きている私たちにとっても、人間的感情を超えた力をもって迫ってくる。

 しかし、この詩篇47においては、そうした個人的な感情はまったく記されておらず、神の全世界の御支配―愛と真実をもってされるその支配―に非常に心動かされた詩人が、神の霊に促されて書いたものである。

 神は目に見えないけれど、すべてを支配されているという意味で王である。神が世界の全地を御支配されているということがこの作者の心に示された中心的な啓示となっている。

 多くの詩にみられる、個人の悩みや悲しみを訴える、あるいは自然の細やかさを歌うというものでない。この詩篇47篇のような詩は日本には見られない。それは、当然のことで、この宇宙、世界に、愛と真実の神、全能の唯一の神がいるという信仰が存在しなかったからである。

 それは日本だけでなく、このような詩は全世界を見ても聖書の世界以外では生まれなかった。

 旧約聖書はユダヤ人のものだとしばしば思われたり、その用語が数千年も昔の遠い地方の民族の使っていた言葉であるとか、訳されたときに原語の意味が必ずしもただしく反映されないためもあり、さらに何となく似た表現が多いように感じられたり、現在の私たちなら決して使わないような表現があったりする。そのためにキリスト教会、集会でも、詩篇を一つ一つ丁寧に学んでいき、その現代へのメッセージをくみ取ろうとすることは、キリスト者であっても、多くはないと思われる。

 そのためにすでに、旧約聖書の時代から、聖書に記されていることは、全世界のこと、その現在と将来のことも視野に入れていることに気付かないということが多い。

 世界のいろいろな人達が、最終的には、唯一の神、すべてを正義と真実によって支配されている神をを信じるようになる。諸国の民から、いろんな人が集められて神の民となる。全世界の人が神の元に集められていく。

 そして今もその神が御支配なさっている。当時はパレスチナ地方の小さな宗教に過ぎなかったのに、それが全世界に及ぶということを、この詩の作者はまざまざと見た。この真理はどんなことがあっても消えないで広がっていくんだと神に促されて書いたのであった。

 こうしたことは、この詩の作者だけでなく、最も重要な預言書の一つといえるイザヤ書にもその初めの部分に記されているし、ほぼ同時代の預言者であるミカが受けた啓示にも記されている。(イザヤ書22-4、ミカ書413

 

…歌え、神に向かって歌え。歌え、

我らの王に向かって歌え。

神は、全地の王。

ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。

神は諸国の上に王として君臨される。

神は聖なる王座に着いておられる。

諸国の民から自由な人々が集められ

神の民となる。

神は大いにあがめられる。                 (7〜10より)

 神が本当にこの世界を御支配なさっているということがこの詩の作者には啓示されたのである。一般の政治学者や知識人、あるいは評論家などが、その学問や知識を駆使してどんなに議論しても分厚い著書を書いたとしても、こうした確信は決して与えられない。

 それは、人間にはみな罪があるから究極的な真理は、見えないのである。心の中で神と和解せず、背を向けているから分からない。神の大きさも分からない。

 だからこのような啓示の世界が分かるということは、神と私たちを妨げてる壁が取り除かれて初めて分かることである。

 聖書の偉大さ、奥深さというのは、いかなる経験や教育を超えた世界が霊的に開かれて聞き取ったこと、霊的に見たこと経験したことが記されているゆえである。

 悪がこの世界を究極的に支配していると信じるなら、心はだんだん暗くならざるを得ない。神の支配というとき、「支配」という日本語の訳語ですでに先入観を持ってしまうことが多い。

 私たちが「支配」という言葉で連想するのは、愛や真実、慈しみなどとはほど遠い、むしろ逆のことだからである。源氏の支配、平家の支配、そして信長、秀吉、徳川等々の支配、さらには明治政府の支配―そのような支配に、だれが、愛や真実、弱きものを顧みる慈しみを感じるだろうか。

 それゆえに、神の御支配といっても、何らの説明もなく、初めて聞く場合には、神の冷たい支配、冷厳な支配―といったものをイメージしてしまいかねない。

 このように、詩篇においては一字一句が重要なことがしばしばあり、そのゆえに一つの重要な言葉を誤解したり、聖書の原意とは異なる日本語の通常の感覚で受け取るときには、聖書からの神のメッセージを受け取れなくなってしまう。

 この詩の作者が啓示を受けて確信をもって語っているのは、すでにモーセが神から啓示されたとして記されている、神のつぎのような本質をもった神の愛による御支配なのである。

「憐れみ深く、慈しみに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にもわたる慈しみを守り、罪を赦す神…」深く、だから真実と愛の神が支配され、導いておられるということをはっきり見えてきたら喜ばしい気持ちになる。

 

 この世の王はこのような神の御支配とは逆である。聖書に記されている神は、愛と真実の神であるゆえに、弱い者をかえって助けてくださるような御支配なのである。

 そしてこのような力をイエスキリストがそのまま受けておられる。ヨハネ福音書は霊的に示されたイエスの姿を書いているので、イエスが王であるという側面をこの詩のように強調している。

 私たちは聖書の世界に常に帰っていかないと、神がわからなくなり、主イエスの言われるように、幼な子のような心で神の言葉を信じなくなってしまうことにもなりかねない。

 福音書に記されているが、主イエスは、生涯の最後のときに、小さなろばという王者の風格も何もない、貧しい人が使う動物に乗ってエルサレムに入られた。(ヨハネ十五・15)

  このことも、この世の王とは全然違う本質を持っていることを象徴的に示している。

 またローマ総督ピラトによって「王なのか。」と何度も問われ、最後の罪状書きで、以後の歴史において、世界的に大きな影響を及ぼした3つのきわめて重要な原語―ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語で「ナザレのイエス、ユダヤの王」と書かれた。

 これは、全世界に、主イエスこそが本当の王―愛と真実をもって導き御支配なさっている王なのだということを歴史を通して知らせるという遠大な神のご意志が総督のピラトを用いて示されているのをとくにヨハネは啓示されたのであった。

 

 今日取り上げた詩篇47篇の中心的なテーマは非常に広い範囲にわたって、今日の私たちにも提起されている。この世は何が王なのか、何者が本当に支配しているのか。その支配とはどういうものなのか…そしてこの世界は最終的にはどうなるのか。

 

神は諸国の上に王として君臨される。

神は聖なる王座に着いておられる。

諸国の民から自由な人々が集められ

神の民となる。(910節より)

 

 悪の支配とか分断、あるいは原発や核兵器による破滅で最終的に終わるのでなく、霊的な世界から見るならば、神の御支配のもとに、世界の民が集められるという壮大な展望が示されているのである。

 唯一の神今もなお本当の霊の力を持って御支配なさっているのだということをこの詩の作者はすでに数千年昔に啓示され、その後イエスの使徒ヨハネもそのことを深くは啓示され、十字架に付けられたキリストこそが、その限りない弱さのうちに、限りない神の力がこめられ、真の王であることが示されることになった。

 この世の表面だけを見る、あるいは人間のさまざまの意見や議論、あるいはそれが本になったものをいくら読んでもそのことは分からない。

 そのような神の御支配(御国)がきますように、―この祈りこそ、万人の祈り願うべきこととして、主イエスが教えられた祈り―「主の祈り」に含まれる祈りである。

 その重要性ゆえに、聖書の最後の黙示録のその終わりに、当時の迫害のもとで苦しむ人たちの絶えざる祈りとして、この御国が来ますように! という願いを言い換えた内容である「主よ、来てください!」(*)が最後の願いであり、祈りとなったのである。

*)この祈りの言葉として、当時のキリスト者が用いていた表現はアラム語で、 マラナ・タ!(マーラーナー〈主〉・ター〈来たれ〉。主イエスが用いていた言葉はヘブル語でなくアラム語であって、そのことは、聖書からでもいくつかの箇所が参照される。イエスの最後の叫び、エリ・エリ・レマ・サバクタニ―これはヘブル語の部分がエリ・エリ・レマの部分、サバクタニはアラム語。 あるいは、タリタ・クミ(クム)(娘よ起きよ)などのように、原語が残されている言葉からでも推察されている。)


リストボタンキリスト教(無教会)全国集会の感話から

 

 今年5月14日〜15日に、徳島で開催された第30回を迎えた無教会の全国集会においては、「神の言葉―希望に生きる」をテーマとして聖書講話とは別に、できるだけ多くの方々に、神の言葉に基づく体験、証し、そして賛美を歌い祈る機会となることを願っていました。

 その一環として、7名の方々にキリスト者としての証言を語っていただき、(その内容は前回の「いのちの水」誌に掲載済み)またさらに7名の方々に、5分という短時間ですが、信仰生活からの感じたこと(感話)を語っていただくことにしました。わずか5分であっても、主がはたらいてくださるときには、強い印象を残すことができますし、また主の祝福なければ、長時間の聖書講義もほとんど参加者の心に残らないということも起こり得ます。

 サマリアの女の例をみてもわかりますが、井戸端のちょっとした会話からでも、主の御手がはたらくときには、人生を変えるほどのインパクトが与えられることがあります。

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牧野貞子(北海道)

 札幌から参りました札幌聖書集会の牧野と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 突然の感話をということで、胸がドキドキして何を話してよいか まだ決まっておりませんけども、私の身辺に起きたことを少しお話させていただきたいと思います。

 私の主人は昨年8月に召天いたしましたけども、27歳の時にシベリアから帰りまして、そのときにどう自分の生きる方向を見つけていったらいいか迷っているときに、たまたま浅見先生にお会いいたしました。そのことがきっかけで、浅見先生に師事し信仰の道に入らせていただきました。私は主人が30歳の時に結婚いたしましたので、まったくキリスト教のことは知りませんでした。主人と暮らすうちに少しずつ聖書を読む機会があったりとか。でも主人と違ってまったく私は熱心でなくて、信仰のことは片方に置いた生活しておりました。

 昨年の8月3日に、主人が亡くなる少し前に吉村先生が主人をお見舞いにご来宅くださいまして、主人はとってもそれを喜んで、「吉村さんにお会いしたことが本当に何よりも慰めだった。」と申しておりました。吉村さんと握手して、いろんなお話をさせていただいたことがいっしょに心に残っております。私たち家族もたいへん吉村先生に感謝し、ごいっしょくださった皆さんにも感謝いたしました。

 ちょっと主人のことを話しますと、シベリアから帰ったあとも、自分の仕事 何をしていいか分からず、途方に暮れているときに、浅見先生と会って、そして信仰のことをお話しされて、それから学校の教員になろうと思って、高校の教員でずっと参りました。それで60歳で退職いたしまして、そのあと聖書学院に3年間学びました。その3年間の聖書学院の生活が主人は「少し自分のためになったかな。」と、あとで申しておりましたけども、さいわい そういうこともあって多くの方と交わり、札幌聖書集会の講話のお仕事もすこし引き受けさせていただいて、月に何回か登壇しておりました。でもそのことが私にも家族にも新しい光を射してくれましたし、晩年私たちの生活にもなにか新しい気持ちにもさせてくれまして、そのことはたいへん感謝でございました。

 病気になりました時も、在宅介護に決心いたしまして、お医者さまが「どうしましょうか。」と言われたときに、私は「在宅介護を決心します。」と申し上げましたら、「いいですよ。」と言われて、「まあ、あと一ヶ月かな。」とおっしゃって、帰してくださった。さいわい 朝に賛美し、昼に聖書読み、そういう生活をしているうちに、日に日にと元気になりまして、9ヶ月間は家で「お母さんのお味噌汁おいしいね。」と言いながら元気に過ごしました。

 亡くなる朝も賛美し、聖書読み、最期もみんなに「ありがとう、ありがとう。」と兄弟たちにも握手して召天いたしました。

 ふりかえりますと、主人の生涯は27歳の時にシベリアから帰ってきて、91歳までやっぱり神さまに支えられた生涯だったなあと、家族としてはしみじみとそんなふうに思っております。

 さいわい 今日、大塚さんご夫妻が「毎年こちらの集会に参加している。」とうかがって、私も主人が何回か全国集会に参加しておりましたので、一回だけ参加したいと思って、今日札幌から大塚さんご夫妻とご一緒して参りました。ほんとうにあふるるばかりの感謝でございます。ほんとうに本日はありがとうございました。

 以上で、感話は終わります。心から感謝申し上げます。

 

島崎 英一郎(愛媛)

 皆さん、こんにちは。私指名されると思っていなかったので、緊張してるんですけどね。44番の島崎です。愛媛県から来ています。何を話したらいいか、私はあの、ここにいるお金も時間もある老人たちに話したくはない。私が話したいのは現役世代の人である。働いている現役世代の人は悩んでいると思うんですよ。私も悩んでいる。

 私はね、すごい罪人の頭で3年前、ここで四国集会があったんですけど、ここで何て言ったかと言うと、「私の夢は吉村さんみたいになることです」と言ったんですよ。これはね、こんなこと言っちゃいけない…と、3年間で変えられた。

 僕は初めて吉村さんと会ったのは4年前なんだけど、その時に、「なんやこの人は」と。「この人を突き動かしてるのは何なんだ」とね、これ、神の言葉なんですよね。神の言葉!。

 神の言葉が、この、吉村さんという肉体を使ってですね、とんでもないことをさせていると。やっぱり、日々御言葉を味わわなくちゃいけない。ちょっとでも、かみ砕いて消化できるように食べなくちゃいけない。御言葉は。

 祈れないときは、御言葉を歌ったらいいんですよ。で、あの手話讃美は体で表現する。五感でやる。讃美歌集とか見たら、その賛美のもとになっている聖句は聖書のどこにあるかというのがわかる。その聖句がある1節だけでもね、そこの段落だけでも読んだらいい。

 ゆっくり読んだらね、すっごくね、いいと思うんですよね。力が出ると思うんです。朝、早く起きて。私も無教会になってから― 以前は寝坊助やったんですけど、早く起きれるようになりましたね。朝が勝負ですね。朝、何をするか。まず朝御言葉を読む。そして、祈れなかったら歌ったらいいんです。祈れない人は歌ったらいい。

 高尚な祈りをする必要はない。難しい本も読む必要はない。今までに、いろいろ内村鑑三全集とか買ったけども、一切読んでない!私は。結局そんな難しいことやっても、全然意味がない!

 結局、聖書だけでいい!聖書と讃美かだけでいい。私たちには悔い改めが必要です。そのためには、聖書の言葉を中に入れなくてはいけない。ここにイエス様がいるって分かるじゃないかと。

 ここにイエス様いるんだから、その存在を感じるために、やっぱりあの、イエス様の言葉を、日々入れないと。イエス様は生きてる。

 死んでる神を礼拝してるんでないんだから、私たちは。だから、日々御言葉を取り入れて、イエス様を自分の物にして、イエス様と共に生きてるんだと、イエス様は共におられる。決して見放すことはない。そういう実感を持ってですね、賛美を歌う。

 そうしながらやってるですとね、新しいパワーを貰えると思います。そう、吉村さんではなく、武さんでもなく、主に!栄光が来たりますように!ハレルヤ!アーメン!

 

関 聡(長野)

 みなさんこんにちは。関聡と申します。よろしくお願いします。

 平信者のこういう者に機会を与えていただいたのは、ありがとうございました。

 何を話したらいいのか分からないですけども、清水勝さんがサマリアの女の人が罪を悔い改めて、聖霊が与えられて、イエスさまのことを同胞の人たちに伝えたということを先程話されましたけども、私もまったく同じようなことでした。

 結婚して30年ほどになるのですけども、クリスチャン同士ということで結婚したのですけども、子育てをずっと一緒にしてきまして、世の中のことに集中してきまして、神さまのことをおろそかに というか、そういう風にして生活してきました。

 それでこどもたちも、時々は教会の学校とか連れて行ったりしたのですけども、私たち両親がきちんとしていないと言いますか、神さまのほうへ心が向いていなかったものですからうまく伝わらなくて、形式的には言っていたかも知れないですけども、伝えることができませんでした。

 ある時に妻が「お母さんのところで集会をする。」というので、「高速道路を運転するのがたいへんなので、お父さんちょっと一緒に行ってよ。」と言われたのが初めで、高速道路を運転して、運転手として集会に参加させていただきました。

 その集会で吉村さんと出会いまして、それで創世記1章の「光あれ。」という御言葉を聞きまして、イエスさまから聖霊を与えられまして、帰りの運転の中で「俺、今まで間違っていた。向きが違う所へ行っていた。」と涙を流しながら運転して、家のほうへ帰ったわけなのですけども、そのとき神さまから聖霊が与えられたなと実感しました。

 それから『何をしたら』と、私も思ったのですけども、こどもたちに福音を伝えたいという気持ちになりまして、それで娘が京都にいたものですから、京都から吉村さんのところへ電話して、「ちょっと明日行きたいのですけども。」と言ったら、「明日は高槻のほうへ行くから、徳島では集会しないよ。」と言われまして、急遽大阪から高槻のほうへ回って、那須さんの集会のほうへ寄らせていただきました。

 そのようなこともありまして、神さまから聖霊が与えられますと、こどもたちにほんとうに真剣になって伝えたいという気持ちにもなりますし、また息子が東京にいたものですから聖書を送ったりして、いろいろやり始めたのですけども、すべてがすべてうまくいくわけではないのですけども、そういう気持ちが起こされまして、いろいろなつながりができまして、今回の集会にも参加させていただくことができました。

 聖霊が与えられて、イエスさまに立ち帰らせていただいて、ここにこうしてみなさまと交わることができまして、ほんとうに感謝です。ありがとうございました。

 

田中 輝子(埼玉)

 先ほど、急に指名されまして、もう、何にも考えられなくて、ちょっと頭が真っ白なんですけど、私が住所を全てを書いてなくて、申し訳ないんですけど住所は不定じゃないんですが、10年前に夫を天に送って、それから、なんか個人情報をあまねく広く人々に知らせたいとは思わなくなりまして、ちょっとお許しいただきました。申し訳ありません。

 私はいのちの水を吉村さんが送ってくださると、まず、最後の方の自然のこと、星のこととか、お花のこととか、そういうところを、まず最初に読ませていただいて、金星が早朝に東の空に見えますって書いてあると、4時前に起きて外に行って、金星を見て、写真を撮って吉村さんにお送りするとか、とにかく、自然のことをとても、神様からの声が聞こえるって感じで有り難く読ませていただいています。

 私は大阪に1年住んだんですけども、もうその時に水道水がカビ臭いことを経験しましてそれから、化学物質の問題を勉強して、今時々あちこちでちょっとお話しさせていただいているんですけど、大阪から帰ってきたときに、川が汚れると水道水が悪くなるっていうことがはっきり分かったので、埼玉の上流の川で、水生生物の調査を6年ほどしました。

 その時、川の中のカゲロウとかカワゲラとか、ヘビトンボとか、そういう幼虫が川の汚れを食べてくれて、そして川をきれいにしてくれてることが分かって先生がいろいろその虫の生態というか、そのドラマを教えてくれると、ああほんと、川は、川には魚しかいないと思っていたのに、石にへばりついてる虫のことなど、目に留まらなかったなあと思ってほんとに、虫が好きになりました。

 その後、お米を5年ほど越生町(おごせまち、埼玉県中部の町)に通って無農薬でレンゲだけを肥料にして友達といっしょに作った時にも田んぼにいろんな虫がいて、ミジンコとか、エビ、なんていうエビか名前忘れましたけど、いろんな虫がいて、無農薬なので農薬を使っている田んぼと無農薬をなれしてる田んぼとはぜんぜん生き物の種類も違うんですね。

 そこでまた虫と出会って今埼玉市で、100坪ほど農家で畑を借りて無農薬で、無化学肥料で落ち葉を堆肥にして野菜を作ってます。

 一人暮らしなので自給率は60パーセントぐらいなんですけど、その畑にもいろんな虫がいて、蛇以外は、ミミズぐらいはつかめるようになっています。

 いろんな虫がくるんですが、そこでまた神様と、朝早く聖書を読んでそのまま朝ご飯食べないで朝ご飯食べると、お腹がつかえてですね、前かがみになると苦しいので朝ご飯食べないで畑に行って1時間位畑をして、そして、家へ帰ってきて食事をするんですけど、その時に朝早いのであまり人がいないんですね 畑に。そして、その時に神様との対話、それがほんとに朝の貴重なひと時です。

 食事をするんですが、その時に、労働で減った体重はもうすべて、食事が美味しいのでもくあみになります。

 今 畑には、ホトトギスがきてまして、鳥との対話も、後、礼拝用のお花も私が係なのでお花も沢山植えていろんなことを楽しんでます。このような話で申し訳ありません。有難うございました。

 

対馬 秀夫(青森) 

 青森から来た対馬です。長い間、聖霊を求めていました。それらしいものは感じられるけれども、はっきりと「こうなんだ」というのは、やはりなかった。

 今年の1月17日に、内村鑑三先生の「聖霊はいかにして与えられるか」を何回も読んでいたんだけれども、その日、集会から帰った日でしたけれど、それを読んでいたときに、私は解った。

 二つです。一つは、モーセの十戒の一つです。もう一つは、私の自分中心性。これは、わかっていたけれど、本当にはわからなかった。

 その時、「そう、あ、そうだ、神が私に聖霊を与えてくださらなかった」のは、というか、私が受けることができなかったのは、私の自分中心性のゆえだったのだ。私が心を閉じていたんだ。それがわかった。

 同時に、神の判決だけど同時に赦されるんだ。裁かれ、赦される。貝出さんは、裁きと赦しは、一つだと言っていたけど、私はあの時、そうでした。「あ、そうだ。裁かれて赦された。裁かれきって赦された。」

 そのとき、素直に「愛のない私に愛をください。汚れた私を清くしてください」と、素直に祈れた。そして、その次の日から少しずつ、少しだけど変わってきた。今も続いている。

 昨日の桜井保子さん(聴覚障がい者)たちの手話讃美、「神の国と神の義を求めよ、そして、ハレルヤ!」私、その賛美に心動かされた。求めて、そして与えられて賛美として出るんだ。それとともに、今日の「聖霊来たれり」という賛美が心に深く入った。

 天の神、聖霊をください。そして聖霊来たれり。私も後ろの人も大声で歌った。聖霊来たれりと。

 聖霊は、言葉だけでなくて星から、自然界から、人から、あらゆるものから、聖霊が神の言葉が、私たちに来るのだ。

 それは、ここに来て教えられた。神の言葉の広さ、深さを教えられた。だから心を開いて受ける。そして与える。それを体で表現する手話讃美っていいものだと強く思った。

 

坂内 義子(神奈川)

 初めて、徳島の集会に参加させていただきました。

今回、この集会にぜひ参加させていただきたいと思ったのは、やはり、吉村先生からいただいたいている「いのちの水」やインターネットで、の聖書の説き明しに感動していたためです。それで、頭を空っぽにして何の準備もなくここに体を運ばせていただきました。

 信仰歴と言うことですが、母は塚本集会の会員で塚本先生からかわいがられた人間でした。父は結核で伏せっていましたので、矢内原先生の「嘉信」を熱心に読んでいました。わたしは反抗心が強く、いろんな集会を渡り歩いた経験があります。塚本先生の集会にも通っていましたが、フェリス女学院というキリスト教の学校に入ったときに、さとみ先生に出会いました。先生が登戸学寮での集会に誘ってくださって、そこでさまざまな観点から、文学的な観点からも語ってくださって、また、世界連邦という考えを持っておられたことも、刺激を受けました。

 先生が召されて、告別式でわたしが話したときに、夫は司会者として聞いていたのですが、突然、結婚を申し込まれまして、結婚することになりました。それで、高橋三郎先生の集会に連なるようになりました。

 高橋先生は、塚本先生のようにひとつひとつの言葉のギリシャ語やラテン語からの説き明しというよりは、生きた言葉の人間の証しの中から語られ、それを勧めてくださった方です。常に生き様、神様からいただいた恵みをどう生きているかを証しするように勧められたと思います。人権のこと、平和のことも熱心に語っていただき、その影響をわたしも受けたと思います。

 でも、一方で言葉の大切さと言うことで、小さな経験ですが、親しいある友が、罪の問題で苦しんで、自分は救われない、地獄に堕ちると、思いがけない電話をくれたときに、たまたま無教会全国集会が終ったあとでした。

 思いがけない電話でしたけれど、すべての人を赦してくださるために、イエス様は十字架に付かれたのではないかと、伝えましたら、本当に驚くことに、そのひと言でその人は解放されました。それを証しの中から学ばさせていただきました。ありがとうございました。

 

佐藤泰吾

 きのうからこの全国集会に参加して思ったことを話します。私は、学生時代6年間、登戸学寮にいて、聖書の学びをして、そのあとも、当時寮長していた小舘夫妻のところで、いま、週一回程度参加して、社会人になって2年ほどたちました。

 とくに大きな集会とかには現在は行っていないので、ふだんは賛美する機会はあまりないんです。で、今回この全国集会に来て―去年も京都で開催された近畿無教会集会でも感じたのですが―今回、参加して、賛美の歌を歌うとは、すごいな、いいなと感じました。

 ふだんは独り暮らしなので歌を歌う機会はあまりなくて、歌う機会といえば、毎週聖書読んでいる時間に新聖歌の賛美を歌う機会があるのと、ほかには、サッカーを見に行ったときに応援歌を歌うような機会くらい。でも応援歌のような歌は、相手チームに勝つというような内容なので、讃美歌とは全く逆のような内容だから、とても満たされるわけではない。

 しかし、きのうの武義和さんが担当されたときの讃美歌など、本当にみんなが神様のほうを見てるな、一つになってるなというのをすごく感じて、これだけ大勢の人が一つになって一つの歌をうたっている―その力はすごいなと。

 とくに僕は、今日の主日礼拝の聖書講話の後、全体で歌った、「聖霊来たれり」(新聖歌416)という歌がすごく好きな讃美歌で、聖霊見えたな、という気持になって、すごくいい気分になりました。

 年に何回あるかの機会に、こうやって大勢で讃美歌を歌う機会はすごく貴重な機会だなと、あらためてこの会で感じました。


リストボタン休憩室

 

〇少し以前に、火星が近づいたというので、新聞などでも紹介されていましたが、一般の大多数の人にとっては、そのようなとくに接近したときだけでなく、常時何千年も昔から、変わらぬ光を輝かせている夜空の星そのものが、大いなる関心を持つべきものです。

 現在も、火星は夜8時ころなら、南の空に見えていて、その左に少し離れて、土星があり、さらに、西南西の空には、澄んだ光で強いかがやきをもっている木星が見えます。

 また、土星の右下にアンタレスという赤い星があります。

 アンタレスは、夜空に見える無数の星のなかでもとりわけ巨大な星として知られています。直径が太陽の700倍に達するということで、赤色超巨星と言われる星です。その太陽は、地球の100倍余りの大きさですから、アンタレスは地球の7万倍余の巨大な星です。 しかし、火星は地球のほぼ半分ほどの大きさなので、火星とアンタレスとは比較にならないほどその大きさが違っています。

 しかし、地上から見るときには、火星が、地球に接近するときには、アンタレスに比べてはるかに近くにあるために、強く赤く輝いて見えています。

 なお、このアンタレスよりもさらに大きいのがオリオン座の赤い一等星、ベテルギウスです。これは太陽の千倍もの直径だと言われています。

 火星とアンタレス―同じように赤い星であっても、そこから私たちは、天文学の研究で知らされたことを考えるとき、この宇宙の壮大さを思わずにはいられません。

 その他、夏の星座としては、こと座やわし座、白鳥座などがあり、子供のときから興味を持って見つめてきたものです。

 こうした、壮大な宇宙を創造したのが、私たちの信じる神―聖書に記されている神なので、いかに大きいお方であるかが改めて感じられます。

 


リストボタンお知らせ 

7月12日(火)からの私(吉村)は、神の許しあれば、各地でみ言葉を語らせていただき、
また主にある交流を与えられたいと願っています。その予定を書いておきますので、ともに祈りを合わせ、賛美を歌い、み言葉を共有できますようにと願っています。

 



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リストボタン全国集会の録音CD

〇今回も、5月に徳島で開催された無教会の全国集会の録音の一部を掲載しました。

 全国集会のほとんどすべての録音を明瞭なMP3録音として作成したCDを希望者にお届けしています。

 二カ月後の現在でも、申込がありますので、この紙面でも再度紹介しておきます。

以前にも紹介しましたが、次の4種類です。

@全部のプログラムを一枚のCDにしたもの。

A4人の聖書講話のみ。

B全員による、自己紹介、7名による証し、感話など。

C全国集会の二日間で用いられたすべての賛美の録音CD。

 

 価格は送料込みで、それぞれ1枚が200円。

 なお、これらを聞くには、MP3対応のCDプレーヤが必要です。市販されている大多数のCDラジカセは、MP3対応ではありませんので、これらのCDを申込されても、MP3対応の再生機器を持っていなければ聞くことができません。

 それで、以前から、MP3対応の機器をも紹介しています。

 ここに紹介するソニーの製品は、以前に出ていた機種よりも安価ですが、性能がよく、CDラジカセ全体で数百種ある製品のなかで特に評価の高いものです。私も使っていますが、ラジオもワンタッチで聞けますし、サイズもカセットテープの機能をはずしているために小さくて、扱いやすいです。

大きさは、幅32センチ、高さ16弱、奥行き7センチ程度なので、枕元、病床にもおけます。

 名称と型番は次のとおりです。

CDラジオ ZS-E30(ソニー製品)価格は、インターネットでは、最安値は、送料込で、6千円未満です。

 操作ボタンも高齢者にもやさしくされており、日本語ですし、いちいち電源ボタンおして、CDにボタンを切り換えて―という必要がなく、ワンタッチで、演奏やラジオが聞けます。近くの電器店で購入するときには、必ずこの型番をともに明記して在庫を探してもらう必要があります。同じCDラジオでも、MP3対応でないものも多いからです。

 

 なお、右のMP3対応のCDラジオが電器店にも行けない、そのような店がないという方々には、吉村に電話で連絡あれば、インターネットショップから直送してもらうことができます。その場合代金は私が前払いしておきますので、製品到着後に奥付の郵便振替、または、簡易書留などで送金していただくことになります。

さらに、友人とかに紹介したいとき、MP3機器持っていない人に渡すためには、ふつうのCDラジカセでも聞けるタイプのCDが必要という場合には、その場合にはCDの枚数が、数倍に増えますが、対応できます。(例えば、賛美集のCDなら3枚、聖書講話のCDなら2枚というように。価格も枚数分必要になりますが。)

 

〇「祈りの友」通信の発行。

 5月の徳島での全国集会のとき、一日目の土曜日夜に、「祈りの友」の合同集会がなされました。「祈りの友」会員以外の方々も自由に参加できる集会でしたので、合わせて52名ほどが集り、祈りました。

 そのうち、「祈りの友」会員は32名、非会員の方々が20名ほどで、夜八時過ぎからの一時間弱という短い時間でしたが、とくに難しい問題をかかえている方々のために、心を合わせて祈る時間が与えられました。そして日頃、会員にとっては、「祈りの課題集」や、「祈りの友」通信で名前だけ知っていて祈りに覚えていた方々と実際に会って今後の祈りがより具体的になる機会ともなって感謝でした。

 なお、新しい「祈りの友」は、

3年前に始まり、年に二回の会報「祈りの風」の発行と、会員がそれぞれどのようなことを祈ってほしいか、またともに祈りたいことなどを書いた、「祈りの課題集」も会報とともに発行して、それをもとにして祈っている方々も多くおられます。

 現在の会員は、北海道から九州まで、120名余りおられます。主にあって、 「祈られ、祈る「祈りの友」」という精神がもとにあり、自由な時間に自由に祈りに覚え合う、そして自由な交流をするということで続けられています。

 祈りは一人でもできるし、また同じ教会、集会員同士でもできるので、何も「祈りの友」という集りに入らなくともできるのですが、やはり二人三人主の名によって集まるところには、主がおられる―このことは、遠く離れた者同士であっても、祈りによって集まるとき、新たな導きや交流、上よりの祝福を与えられることがあります。

 会費は自由協力費。

 「祈りの友」に新たに加わってともに祈りを合わせたいとの希望がある方は、左記の吉村まで連絡ください。

 また、「祈りの友」の会報は7月に第6号が発行されます。 会員でなくとも、希望者には、在庫あるかぎりお送りできます。B5版48頁。送料込で、250円。切手でも結構です。送付希望者は吉村まで。