いのちの水 2017年10月号 第680号
神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びる。(旧約聖書 詩篇第一篇6)。 (詩篇68の20)
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目次
神が愛ならば、語りかける神である。
神が愛なら、弱く苦しむ者、悲しむ者に語りかける神である。
神は愛であるゆえに、私たちの祈りに応えてくださる。
…求めよ、そうすれば与えられる。(ルカ11の9)
神は愛であるゆえに、「神を愛する者たちには、万事が益となくように共にはたらく。」 (ローマ8の28)
神が愛であり、しかも天地創造をされた神ならば、
万物にその愛が刻み込まれている。
自然のさまざまのものも、その神の愛のメッセージを語っている。
神は全能である。それゆえに、この世界を最終的には、その愛にかなったものに新しく創造される。
…わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいる。 (Ⅱペテロ3の13)
最近の政治の動向は、いかなる政治学者もまた政治に何十年と力を注いできた政治家や、さまざまの社会的な知識に長けた評論家も、一般庶民もーみな、想像もしていなかった状況となっている。
ここに、人間の学問や経験、予想のいちじるしい限界がある。
およそ二百年ほどまえに、発電の原理がマイケル・ファラデーによって見いだされ、その原理によって水力、火力による発電が大規模になされるようになり、科学技術が飛躍的に発達していくことになった。(現在では、彼の見いだした電磁誘導以外に、太陽光発電や各種の化学反応による電池の開発など新たな発電方法が次々と用いられるようになっている。)
今から、50年近くも前に、月面に人類が初めて着陸した。また、近年でも、木星探査機が、宇宙をはるかに5年も飛び続け、木星軌道に入ったとか、40年前に打ち上げられた無人の宇宙探査機ボイジャー1号は現在は、太陽系を出て、なおも宇宙をまっすぐに飛び続け、一部のデータを地上へと送り続けているー宇宙関係に限っても、そのような高い技術は、半世紀ほども前から、発達し続けている。
それにもかかわらず、人間の心の領域においては、それらの科学技術の発達にもかかわらず、どれほどよくなっていると言えるだろうか。
世界大戦や各地の内乱、迫害、思想弾圧、近年のテロ、アメリカでの銃の乱射による史上最悪の殺傷事件など、それらは、科学技術や学問の発達が以前とは比較にならないほどに見られるにもかかわらず、人間のなす悪は減少することがない。
こうした流動する状況にあって、つねに変ることのないものーそれこそが、現代の私たちの真の希望である。
科学技術の発達による銃や爆弾の高性能化、航空機による爆撃、さらには原爆等々によって二度の世界大戦はおびただしい死傷者を出すことになった。
今後もし世界大戦が起こるとすれば、それは過去のいかなる世界大戦をはるかに越える破壊と人間の殺傷が伴い、稼働中の原発の爆発などによって福島の事故などより比較にならない膨大な放射能が放出され、住めなくなるという事態となるであろう。
こうした状況のゆえにも、原発という危険きわまりないものは、稼働させることは決してあってはならないことなのである。
この問題は、ずっと以前から指摘さていたにもかかわらず、原発再稼働論者は、このような危険にはふれようとしない。
単にエネルギーの問題とか解決がきわめて困難である原発の廃棄物の処理という問題だけでなく、 国を守り、人々を守るためにも、原発は核兵器を持つ国が増大する現代には、あってはならないのである。
こうした過去から現代にいたる状況を知れば知るほど、人間の社会は今後どうなっていくのか、ますます不安になっていく。科学技術の発展や、学問もこうした不安にはまったく答えることはできないのは、過去から現在の状況を見てもわかることである。
大学も、現在は、短大を含めると日本全国では一千を越えるほどあるが、人間の真実や愛、正義、勇気といったものは、それに対応して増大していったであろうか。
そうした大学やさまざまの研究者が増えても、核兵器や原発による世界的な危険性はますます増大するばかりなのである。
こうした全世界、人間にかかわる問題に関しては、そうした一切を越える存在ー聖書にいう全能の神によるしか解決の道はない。
死をも越える力、宇宙万物をも創造し、それゆえにそれを再生させるような全能の神への信仰こそが、まったく予見できない今後の状況においても歩んでいく力を与える。
次の簡潔なキリストのひと言は、すでに二千年その真理性が証しされてきた。地上のものは次々と変質し、滅びていく。しかし、キリストの言葉ー聖書の真理性は一貫して変ることがない。
この言葉は、揺れ動く現代にあって、いかなる状況にあろうとも私たちを支え導くものとなる。
…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ福音書24の35)
祈りは、人間の特質である。ほかの動物はいかに賢いものがいても、目に見えないものへの祈りなどということはあり得ない。
どんな原始的とされている生活をしていても、また高度の文明社会にあっても、子供も大人も、また健康な人も病気の人、また死に瀕している人であっても、何らかの目に見えない存在に向って祈り、願うーなどの心は人間に共通している。
そのようなありとあらゆる祈りや願いがあるなかで、最も私たちが、そして他者も祝福される祈りがある。それが聖書に記されている祈りである。
キリストがもっとも深く、かつ広範な祈り、しかも時代や人間の状態にもかかわらず、祝福される祈りとして、「主の祈り」を示されたが、そのなかに「御国がきますように」という祈りがある。
これは神の愛と真実な支配がきますように。至るところに、またあらゆる人にありますようにという願いであって、祈る対象が、悪人であるか、善人なのかといった区別にかかわらず生じる祈りとなる。悪しき人だからこそ、その人に神の国がきますようにとの祈りが生じる。
また使徒パウロも、その書簡の最初の部分に、「神とキリストからの恵みと平和(平安)がありますように。」 という祈りが記されている。これは、彼のキリストとの深い結びつきのなかから生まれた祈りが凝縮されたものとなっている。
キリストからの恵み、それはとくに罪の赦しということに焦点があてられているし、その罪の赦しを受けた魂が与えられるのが、主の平和であるゆえ、福音の根本がこの簡潔な祈りに含まれている。
しかし、祈りへの道は、そうした直接に祈りと記されているものだけではない。
聖書全体が祈りの書であり、祈りへと導き、招く書なのである。
例えば、聖書の最初の書である創世記には、「はじめに神は天地を創造された」と記されている。この聖書冒頭の言葉も、ただちに祈りへと結びつく。
日常出会うさまざまの自然の背後につねに愛の神を思い、天地万物の背後につねに神の愛の御手を思うことができますようにーという祈りである。
闇と混沌のただなかに、神からの風が吹いていたーそのように、現代の闇と混沌にも神の国からの風が吹き込みますように、そしてそのなかに光あれ!との御言葉によって光があったように、あらゆる闇に光が臨みますようにとの祈りとなる。
新約聖書にあっても同様である。
まず、神の国と神の義を求めよーこれは主イエスの言葉である。そしてこれはつねに何かを求めている私たちの生活の中心にある。神の国ということのなかに、愛も真実もある。神の力もすべて含まれている。神の義ということも、神の国に含まれる。
それゆえ、「主の祈り」においては、御国(神の国)を来らせてくださいーという祈りに含まれたものとなっている。
神を愛し、隣人を愛せよ、これも最も重要な教えである。それは、私たちが神を愛し、隣人を愛することができますようにーという祈りとなる。
ああ、幸いだ、心貧しき者は。神の国はその人のものであるーこれも、それゆえに、私たちは、心高ぶることなく、自分の弱さやまちがいを知っている心貧しきものでありますように、そして神の国が与えられますようにーという祈りへと結びつく。
ああ、幸いだ、悲しむ者は。その人は神によって慰め、励まされる。ーそれゆえに、私たちは悲しみのとき、主からの慰め、励ましを祈りのなかで待ち望む。そして深い悲しみにある人たちが、神と結びつき、神からの励ましと力を受けるようにとの祈りへと導かれる。
使徒パウロは、「生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる。」(ガラテヤ書2の20)と言った。これが、彼の日々の実感であった。
そして、これは二千年前の特別な聖人といえるパウロだからそのように言えたのだ、と他人のこととして受けとるのでなく、これも祈りとなる。
私たちも、そのように古い自分が死んで、キリストが私たちの内に住んでくださいますようにーという祈りとなる。
じっさいに、そうした祈りも記されている。
…信仰によってあなたがたの心の内にキリストが住み、あなた方が愛に根ざし、愛によって堅く立つ者としてくださるように。(エペソ書3の17)
聖書は、ほとんどどこを開いても祈りへと道が通じている。祈りのなかで神から啓示されたことが記されているからである。
私たちの生活、そして日本や外国の状況を見ても、祈りが生まれる。人間の力はあまりにも弱く、かつ不純であり、よき目標があってもそこに何らかの悪しきものが入り込んでくる。
そこからも祈りが生じる。
過去のことが生かされるように、現在のあらゆる問題が神の手によって導かれるように、未来が神の導きにあり、最終的に悪の力が滅ぼされますようにー私たちが過去、現在、未来のどこを向いても、祈りへの道が続いている。
安息日、これは世界的に知られた言葉である。
キリスト者は、日曜日を安息日として守っている。
この安息日に関して聖書ではどのように言われているだろうか。
この言葉は、旧約聖書では、80回ほど現れる。
これに関する最初の記述は、創世記にある。
…神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
(創世記2章1~2)
安息日の起源は、ここにある。創世記がいつ、だれの手によって書かれたのか分からない。
真理は、普遍的でありだれにおいても成り立つ。それゆえに、だれが神からの啓示を受けとったにかかわらず、それが真理であれば、永遠の言葉となる。
創世記も、書いた人の名前をあえて記す必要がなかったのである。
天地創造というこの宇宙全体の創造者としての神を記し、さらに2章では、次のように記されている。
…こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
ここで私たちは疑問に思う。天地万物を創造することもできる神がなぜ、休む必要があるのか、神は無限の力、エネルギーをも持っておられるのだから、休みは不要ではないだろうか。
人間は、休みがなければ労働によって筋肉が弱り、睡眠なくば、生きていけないほどになる。
休むことは本来不要なはずの神が休んだー安息をとったということが記され、それがまた特別な重要性をこめて書かれている。
それは、この日を祝福し、聖別したーとあるからである。
この原語は、「聖別する」、あるいは「聖とする」と訳される。聖 ということばは、本来中国語であり、この語の語源は、耳の口が通じている、あるいは、耳と呈から成っていて、呈テイは、まっすぐ述べる、まっすぐさし出すの意を示す。聖は、耳がまっすぐに通ることーと説明されている。中国で聖人と言えば、堯と舜、そして孔子など、歴史の中でもわずかしかいないほどの稀な高徳の人物を指す。孟子さえ、聖人でなく、それに次ぐので亜聖と言われるほど。日本でも、親鸞や空海などやはり歴史上でもわずかしかあげられないような有名な人物を指す。(聖人と書いて ショウニンと読んだり、上人とも書く)
カトリックでも、歴史上で特別に高く引き上げられた人だけが聖人と言われる。
このようなことから、聖人とは、特別に道徳的に優れた模範となるような人間精神が高く引き上げられたようなごく少数の人にあてはまる言葉であると受けとられてきた。
しかし、聖書においては、「聖とする」というもとの原語は、カーダシュ で、これは、そのようなきわめて稀なほど完全だーといったニュアンスではない。
この元の意味は、set apart 、seperate 分けておく、といった意味である。
(Brown・ Driver・Briggsの辞書による。このヘブル語の辞書は、1906年にイギリスで出版されて以来、ヘブル語の標準的な辞書となった。)
それゆえに、口語訳では、第7日目を「聖別」と訳して、別にするという原語の意味を示しているし、次のように英訳にも、伝統的な訳語である、sanctify、 hallow などの他に、set it apart as holy と訳して、原語の意味である 分ける、別に置く という意味をとくにつけている訳もある。
「第七日を聖とした」とは、その日を特別な日として分けて置いたーという意味である。
そして、さらにその日を祝福した、と記されている。
神が第七日には創造の仕事をやめて、休まれたとあるが、実はその第七日になさった仕事は、その日を祝福し、聖としたということである。
これは、現代の私たちが安息日(キリスト者にとっては日曜日)を守って、礼拝にささげることは、この神の霊的なわざ(仕事)を受けることにつながる。それゆえに重要なのである。
私たちが神から祝福され、聖とされる(神の御計画のためにとりだされる、分けて置かれる)ということは、新しく造られることにつながる。
私たちは、人間的な努力とか学び、あるいは経験などからだけでは、決して新たな人間になることはできない。どうしても心の奥には気づかないような罪が残る。
それゆえに、キリストは、聖霊によって新しく創造されなければ、神の国を見ることなどできないと言われた。(ヨハネ3の3~8)
安息日は、このように、神による祝福と、神のために選び、分けられるということが込められている重要なものである。
それゆえに、モーセが受けた十戒(*)といわれる十か条の神の言葉の中にも含まれていて、しかもくわしい説明がつけられている。
(*)「戒」という漢字は、戒めであり、自分に対して何かをしないように気をつける、という意味。戈(ほこ)+両手を意味する。それゆえ、両手で武器を持って警戒している状態。そこから 人が間違ったことに陥らないようにする戒めという意味となっている。
しかし、この戒律という意味を持つ 十戒という用語は、人間が道徳的に守るべき10の戒めというニュアンスになる。
しかし、聖書においては、戒めといった日常的なニュアンスを越えて、神からの直接の言葉であり、人類全体にあてはまる10の基本的な神の言葉なのである。 神の言葉であるゆえに、これは永遠である。
そこに安息日のことが次のように記されている。
…安息日に心を留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20の8~11)
このように、安息日は、単にユダヤ人だけにとどまらず、一時的に寄留している外国人や奴隷、さらには、家畜にさえも適用される。
神の祝福と聖別という精神が、一人一人の人間だけでなく、広く深く流れているのを感じさせられる。
三千年以上も昔に、このように人間の身分、社会的な差別を越えて、一週間に一度の安息を与えるのが、神のご意志だというのである。
そこには、神の祝福を広く深く及ぼそうとされるお心が現れている。
こうした神の安息がだれに対して与えられるようにーとのご意志は、遥か後のキリストの次の言葉が思いだされる。
…疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。
休ませてあげよう。…
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 (マタイ11の28~29)
エリヤは、今から三千年近くの昔の預言者であるが、彼は預言者のなかでも、特別な人であった。彼の必死の祈りによって、天からの火が下ってきて、エリヤの言う神こそ全地を支配する神だということが証しされた。
また、数年間も雨が降らず、そのために農作物ができず、干ばつによって人々が苦しみあえいでいたとき、深い祈りによって、雨がまもなく降ってくるということを予告したが、じっさいそのようになった。
あるいは、もうパン一切れもなく、小麦粉がわずかとほんの少しの油しかないという追い詰められた状態の母子のところに遣わされ、そこで、そのわずかのものに祈りを込めたとき、驚くべきことに「壺の小麦粉がつきることなく、瓶の油もなくならない」という状態になった。
しかし、その母親の子供は、のちに病気になり、息を引き取った。
エリヤは、神に祈った。
…彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向って祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」
主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。(列王記上17の21~22)
こうした数々の奇跡を行なったエリヤは、不正な偶像礼拝を指導していた当時の偽預言者たちを滅ぼした。それほどに神の力を受けた預言者であった。
しかし、そのようなエリヤの行動を知った当時の王妃が激怒し、エリヤを必ず殺すという決意をした。
そのことを知らされたエリヤは、驚くべき奇跡をつぎつぎにした人物とはおよそ違った態度をとった。
…彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。
彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19の4)
当時のイスラエルの王は、エリヤを殺そうとしていた。しかしエリヤは、その王の前で、こう言った。
…主の戒めを捨て、偶像に従っているあなたこそ、国に害を及ぼしているのだ。(列王記上18の18より)
このように、神の力を与えられて、王をも恐れなかったほどの人物であった。
そのエリヤが、王妃の強硬な殺意に遭って生きていく気力を失ったというのである。同じ人物とは思えないほどの変容ぶりだ。
ベエルシバとは、砂漠のなかにあるオアシス地帯で、現在もその都市はある。そこから、1日歩くほどの距離というから数十㎞をも歩いた砂漠地帯である。そこで死んでしまいたいーというほどに絶望的になった。
旧約聖書の最後の書では、長く預言されていた救い主が現れる前に、再びエリヤが来る、と記されているほどエリヤは特別な預言者であった。
そのような人物が、もう死にたい! と言うほどに追い詰められた心情になったのである。
聖書は、いかなる人間崇拝をもしない唯一の書であるとヒルティが書いていたが、たしかにそうである。
一般的な偉人伝には、その人物がいかに優れているかという記述ばかりである。
しかし、聖書では、旧約聖書に現れる重要な人物ーノア、アブラハムやモーセ、そしてダビデやソロモン等々であっても、みな弱さや罪もそのままに記されている。
キリスト以外では、新約聖書の最重要人物といえる使徒パウロも、彼が回心する前には、キリスト者を殺したことさえあったほどに厳しくキリスト教徒を迫害していたという罪を記している。
そして、キリストの12弟子たちも、3年間も主とともにあり、すべてを捨てて従ったキリストの奇跡やその驚くべき力を目の当たりにしていたにもかかわらず、イエスが逮捕されたときには、みな逃げてしまったほどであったし、弟子の筆頭といえるペテロは、付近にいた女中などに、あなたも、イエスとともにいた、と言われたとき、繰り返しそれを否定したほどに、心弱き者だったことが赤裸々に記されている。
こうした記述は、人間にはいかなる栄光をも与えないーという精神を示すものであり、ただ神のみに栄光を帰するという精神が、旧約聖書から新約聖書を通じて一貫している。
旧約聖書でのとくに大いなる預言者であっても、人間を恐れて神の力を失うなら、たちまち普通の人間になってしまう。人間の力や強さは、実は、神からの力のゆえであり、それゆえに神に絶えずその力を祈り求めていかねばならないということである。
主イエスも、求めよ、そうすれば与えられるーと言われた。そこで与えられるのは、神の力そのものである聖霊であり、神ご自身と同じ本質を持っているのであるから、あらゆる与えられるものの最大のものが与えられるということになる。
エリヤは、そうした経験を通していかに神の力を受けることが重要であるかを、死に直面するほど深く体験させられた。そこから彼は、神の奇跡的な働きによって、立ち上がることができた。
そして、そこから、40日40夜歩き続け、400㌔ほども離れた神の山ホレブ(シナイ山)に着いたと聖書に記されている。
それは、かつてモーセが神からの直接の言葉(十戒)を受けた特別な山だった。それゆえに神の山というほかにはない特別な名前となっていた。
そこにはるばる砂漠的な地域を越えていくのは何のためなのか、それは告げられなかった。ただ、「この旅は長く、耐えがたい」ほどのものだと言われただけである。
しかし、神からの力を与えられた者は、まっすぐに示されたことに向って行く。エリヤも、そのような長距離を、何故にそこに行かねばならないのかも分からないままに、進み続けた。
そしてホレブの山に着いた。そこで洞窟に入っていたが、神の言葉があった。「エリヤよ、 何をしているのかー」と。
エリヤは、「自分が神の言葉を命がけで語っていたが、よき預言者はみな殺され、自分一人が残り、さらに自分も殺されそうになっている。」と現状を訴えた。
神は、そのことについては直接には何も答えず、「山の中で主の前に立て!」 と言われた。
激しい風が吹き、それは山をも裂き、岩をも砕くほどだった。さらに地震が起こり、火も起こった。
しかし、そうしたさまざまの激しい状況のなかにも主はおられなかった。それらのあとに「静かなる細き声」がした。
主は、再度、エリヤに「エリヤよ、ここで何をしているのかー」と語りかけた。エリヤは、ホレブの山にたどりついたときと同じ問いかけであったが、エリヤが答えたのも同じであって、自分は主への情熱に生きてきた。しかし偽預言者たちが、正しい預言者たちを次々と殺してしまい、自分一人だけが残った」 と絶望的状況を再度語った。
そのように、何をしているのか、と問われてただ過去の熱心や悪人たちの行動を思い、それに嘆き続けるだけであったが、神は、新たな言葉を与え、力を与えた。
…行け、あなたが来た道を引き返し、さらにダマスコの荒野に行け。そして新たな王を任命せよ、あなたの後継者となるエリシャにも神の油を注いで預言者とせよ! (列王記上19章)
このようにして、絶望の谷間、死の蔭の谷に追い詰められていたエリヤは、神によってそこから立ち上がる力と、何百㌔の遠い道を神の山にまで行く力を与えられ、それでもなお、何をなすべきか分からなかったが、そこに神は新たな大いなる使命を与えたのだった。
シナイの山から、シリアのダマスコまで、700キロほどもある距離であって、私たちは地図で確認しないかぎり、そんなはるかな彼方まで、徒歩で行くなどは、考えられない距離である。
そうした神の力を与えられるため、神の言葉を与えられるために、往復で千㌔を越えるような距離を旅させた。
新たな使命を与えられるために、これほどまでの回り道をさせる神の御心は、本当にわれわれの予想を越えるものである。
なぜこのような長距離を往復させたのだろうか。神は全能だから、こんな遠くに行かせなくとも、ベエルシバに行くときに、直接に語りかけることもできたはずである。
神からの新たな使命を受けるまでに、これほどの犠牲が要求されたのであった。
私たちも、神からの使命を受けるまで、あるいは神の言葉を直接に受けて、その真理性を実感するまでには、長い人生の旅路が必要となることが多い。
人には回り道に思える。しかし、神はあえて回り道を設定される。
イスラエルの人たちがエジプトからカナンの約束の地まで帰るときも、地中海沿いの最短距離をいけば、せいぜい一か月もあれば十分な距離である。だからこそ、ヨセフとマリヤは、イエスが生まれたとき、へロデ王がイエスを殺そうとしていることを天使から知らされ、3人でエジプトに逃れた。それは乳児のイエスを同伴してのことだったから、困難ではあったろうが、それでも旅は可能なほど短い距離だった。
しかし、神はそうした安易な道を通らせずに、困難な道、険しい行程を歩かせ、その後に神の言葉を告げる、あるいは新たな使命を呼び寄せるためなのである。
エリヤが、ホレブの山にて神の前に立ったとき、激しい岩を裂くような風や地震、火(雷に由来する稲妻、あるいは落雷で樹木が燃えた火であるかもしれない)があったというが、それはまた、この世に生きるときのさまざまの苦難の象徴でもある。
そうした数々の厳しい状況を経て、神の言葉が与えられ、力も同時に注がれたのであった。
これは、紀元前9世紀ー今から三千年近くも昔の出来事である。そして私たちと何の関係もないような内容のように見える。
しかし、生きた神によって絶望の淵から立ち上がらせてもらったこと、神の力によって支えられたこと、さらに、そこから数々の人生の苦しみや涙の谷をも越えて、神の言葉を受けたことーそうして希望の断たれたような暗い状況から、新たな道を示されていくことー等々は、現代の私たちにもそのまま何らかのかたちであてはまることである。
最終的には、私たちは死に至るまで数々の困難、身も心も打ち砕かれてしまうような苦しみや悲しみに翻弄されるかもしれないが、そこから復活という新たな世界へ導かれることが示されていく。
聖書の詩集である詩篇、それは数千年昔の人間の魂の苦闘や賛美、神からの啓示、祈りの書であり、私たちが通常想像する詩集とは大きく異なっている。
聖書全体が、祈りの書であるが、とりわけ詩篇は、全体が深い祈りとそこで与えられた啓示で満ちている。
ここでは、私たちにとって日々の霊的な呼吸と言える祈りについて、詩篇からその精神の一端を汲み取りたい。
なお、この詩篇62篇は、ドイツの注解者(*)によって「詩篇における、純粋の祈りの姿勢に関する最も美しい証言の一つである。」と言われている。
(*) アルトゥール・ヴァイザー(1893-1978)ドイツの神学者、旧約聖書学者。ガイバーグ教会牧師、ハイデルベルク大学、テュービンゲン大学教授。Alte Testament Deutsch(ATD)の編集者。詩篇注解の担当者。
… わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。 (2~3節)
現代の日本に最も欠けていることがここにある。
私たちの力の源、それは、神の前に、沈黙して神を待つこと、神に心を向けることである。それによって神の力を与えられることである。
日本人は、世界の国々においても特別に、異例といえるほどに、天地万物の創造者たる神を知らない。
その神こそは、完全な愛であり、いかなる欠けたところもない正義と真実な御方であり、それゆえに、人間のどんな弱いところも、苦しみも悲しみもみな見つめておられる。そのような神がおられるということを全く教えられない。
それゆえに、その神の前で沈黙することも知らないし、その神からの力を受けることも知らない。
この詩は、ダビデのものとされている。ダビデとは、今から三千年ほども昔の政治家であり、王であり、詩人である。
そのような人物が書いた詩が、三千年の歳月を越えて現代に、強い光を投げかけている。
私たちに、岩はあるか。不動の揺るがぬ土台はあるだろうか。
私たちは、神様の前では、どんな努力をしても汚れ果てているが、罪人で弱いからこそ力を頂こうとする。
しかし日本においては、大部分の人たちがその道を知らない。超大国の指導者が悪しき言葉を使い、テレビでもネットでも休む暇なく人間の意見や感情が世界中でこだましている。
神の前で沈黙することがない。教育でもそういうことは言われない。 世の中には、権力、武力が氾濫している。その中にあって、三千年ほども前から、ずっと響き渡っている真理、神に対する深い経験からくる言葉がここにある。
…私の魂は黙して神に向かう。
神にのみ、救いがある。
神は不動の岩である。(2節)
日本は緑にあふれ空は青い。海もある。大きな岩に接するというのは、日常的には少ない。
日本では、大きな岩などどこにでも見られるものでない。
しかし、モーセが神の言葉(十戒)を受けた神の山としてイスラエルの人たちにとって深いかかわりのあるシナイ山は、花崗岩でできている。頂上から見渡すと岩ばかり山々が延々とそそり立っている。
その荒涼たる光景は、20年余り経った現在でもなおも鮮やかである。
シナイ山に限らず、雨量が少ないイスラエルでは、草が生い茂るということもなく、岩ばかりが目立つというところも多い。
その岩ばかりの荒涼とした光景であるが、そのような命のないとみられる岩において、強靭な力を感じ、詩の作者は、神の無限の力をあらわすと感じたのであった。
私たちが追い詰められた時には命や希望が見えなくなってくる。 殺意や憎しみ、破壊、飢え、辱しめ、痛めつけるものすべてを含んでいるのが戦争である。
それは、緑が象徴的に示している命が断たれ、おびやかされる暗黒の状況である。
しかし戦争や迫害のような中でも、この詩篇の作者のような確たる信仰を与えられていた人たちが常に起こされてきた。
そして彼らもまた、この詩の作者のように、神の前に深く黙することによって、岩のごとき力を受け取ることができたのであった。
神の民は、そうした砂漠地域に見られた不動の岩山を見ていたゆえに、そうした山々の岩石のただなかにあって、動くことなき神を思った。これらの強固な岩こそ、神を象徴的にあらわしていると知らされた。
日本では至るところ、緑である。それは命を感じさせる。
しかし、パレスチナ地域においてとくに南部などは荒涼たる砂漠あるいはそれに準じる状況である。
そこでも、神の民は救い主、そして力の源たる神を実感した。それゆえに、我が神、わが救い、そしてわが神ということを周囲をとりまく自然によっても深く知らされていたのがうかがえる。
…お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。
亡きものにしようとして一団となり
人を倒れる壁、崩れる石垣とし
人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。
常に欺こうとして口先で祝福し、腹の底で呪う。(4~5節)
この詩の作者が直面していた状況がここに記されている。襲いかかろうとする敵(悪)の力は、神を信じる人を滅ぼそうとして迫ってくる。
目に見えるような攻撃をしかけてくると共に、悪しき考えをもって霊的に誘惑しようとする。
口先で良いことを言いながら欺くなどの悪意、そのただなかにあって祈る。
相手に対して嫌悪感が湧き、必死で反論を考えたり、相手への非難の言葉を思い、迷い悲しんだりしていると私たちの心もからめとられてしまう。そして報復しようとしたり、自分自身の心に傷を残したりする。 しかしこの詩の作者は、人に関わらないで、まっすぐ神様を見つめると言う姿勢がある。
… わたしの魂よ、
沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。
神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない。
(6~7節)
再び、冒頭に言われた言葉が繰り返される。押し寄せる敵対する力に対して、ただ神にのみ向おうとする魂の姿がここにある。強固な精神的な基盤がなければ、世の中全体が悪の波のようになるときには、たいていの人たちがそれに呑み込まれる。
戦前の日本の状況を見るとそれはよくわかる。
そうした厳しい試練のときにも、この詩の作者は、そのただ中から神に向かい、神のみを見つめ、そこに希望をおく。神こそ我が岩、救いであるからだ。
そのような人間が悪しき考えに染まってそれに国民全体が押し流されようとするとき、そこに対抗するのは、至難のわざである。
そのような場合でもこの作者は流されない。固い岩である神にすがっているからである。
…わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。(8~9節)
神は岩ーこれは、ほかの詩篇でもしばしばこのように言われている。
… 常に身を裂けるための住まい、岩となり、わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 (詩篇 71の3)
… わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの岩わたしに与えられた分。(73の26)
… 彼はわたしに呼びかけるであろう、あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩、と。 (89の27)
…主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。(95の1)
これらは一部である。こうした記述を見て、いかに旧約聖書の詩人たちが、神の揺るがぬ本質を岩のごときものとして信じて受けとっていたかがうかがえる。
そしてそのような信仰こそは、現代の動揺してだれも予測できない状況が世界を取り巻いているなかにあって、いっそう必要なものとなっている。
どんな政治学者も、経済学者も哲学者、あるは科学者、技術者、そして芸術家たちも、あるいはこの世の動きに敏感な大会社の経営者たちも、いかなる人たちも、明日のことさえ予見できないほど、現代の世界は流動的であり、確たるものを提示することはできない。
日本の政治動向もわずか数日で野党第一党が事実上崩壊してしまうーという、だれも予測できなかったことが生じている。
国家を指導する立場にあるものが、国民を偽り、欺きを隠すために、国会審議もいっさいやらずに解散するーといった考えられないようなことが堂々となされている。
こうした現実は、三千年ほども昔に言われた次の言葉が、まさにあてはまっている。
…人の子らは空しいもの。
人の子らは欺くもの。
秤にかけても、息よりも軽い。 (10節)
人の子らー人間全体は、空しく、真実を語らない。息よりも軽いーこれは無に等しいほどの軽さ、実体がないことを言おうとしている。
どんなに世の中の状況が腐敗と混乱とに満ちていても、そのような状況を造り出している人間は、息よりも軽い。秤にかけても全く重みがない。
真理とは、いかなるものによっても吹き飛ばされたり、滅ぼされたりしないものであるゆえ、無限の重みを持っている。
それゆえに、真理を持たないものは、軽くなる。風に吹き飛ばされるようなものとなることは、すでに詩篇の第1篇で言われている。
…神に逆らう者はそうではない。
その人は風に吹き飛ばされるもみ殻。(詩篇1の4)
悪しき力に頼るな。奪い取ったものを誇るな。
力が力を生むことに心を奪われるな。(11節)
(*)力と訳された原語(ヘブル語)は、ハイル。この語は、富、軍勢といった意味にも用いられる。
この世の力は、他者、他国を圧迫し、欺き、その国の物質ー資源や農産物、また人間や土地すらも奪い取ろうとする。 そのようなことを戦前は日本もやってきた。
力が力を生む、力は「富」とも訳されてきた。富が富を生み、力は力を生む。
ここから、さらなる奪い合いが生じ、大規模となると国家間の戦争とまでなる。
こうしたことから、力や富を持つ者がさらに貯えて貧富の差が拡大して、弱き立場のものが苦しむということを是正しようとして、社会主義が生まれた。
しかし、その主義に沿ってソ連や中国も起こされたが、そこにもスターリンのような独裁的な人物がみずからの権力欲によって、弾圧、迫害を行いおびただしい人たちが殺害された。
その後の第二次世界大戦とくに日本がかかわった太平洋戦争なども、そうした大規模な力が力を生み出した結果の産物であった。
とくに軍事的な力の極限ともいえる核兵器によって相手を脅迫し、欲望をとげようとするようなことが現実に行なわれようとしている。
そのような社会的状況にあって、この三千年前の詩人は、それをも見通す確信を述べている。それは神から受けた啓示であるからだ。
悪しき力は、また悪しき力を生むが、逆に、神からくる良き力は、さらに良き力を生む。
…彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神と出会う。(詩篇84の7)
主イエスも、「求めよ、そうすれば与えられる。」と、言われた。
力の源である聖霊が与えられると約束された。(ルカ11の13)
…ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた。
力は神のものであり
慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
一人一人に、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。(12~13節)
このような真理を、神が常に語りかけてくださっている。それを、一つのことを語り、また二つのことを語ったーという表現で示している。
この詩の冒頭において作者は、「私の魂は、沈黙して、ただ神に向う」と書いた。その結果、最後の部分での、「一つのことを神が語り、二つのことを私は聞いた」のであった。
神は、沈黙しているように見える。いろんな災害や悲劇がこの世には次々と生じる。そして祈っても何も変化が生じない、聞かれないーそうしたことから神は沈黙しているだけでなく、神など存在しないのだ、と思う人もとくに日本人には圧倒的に多い。
しかし、この詩に見られるように、実は、神は絶えずいろいろな方法で語りかけているのである。日常生活においても、何かの集りで、誰かが話していても、また、学校の授業や社会人対象の講演などでも、聞こうとしていなかったら、耳に入らない。
道を歩いていても、心して見ようとしなければ、そばにある樹木や花も目に入らない。
同様に、神からの語りかけも、聞こうとしていなければ聞こえない。キリストが生きておられたとき、奇跡を行い、主が教えても、聞こうとしなかった律法学者やパリサイ派の人たちは、憎み、殺そうとまで考えたほどである。
神が愛であり、宇宙を動かす力、悪の力をも倒すほどの力は神にこそあるーそうした語りかけをこの詩の作者は、沈黙のなかで神に向って耳を傾けるときに聞き取ったのである。
このようなことは、同じく詩的作品であるヨブ記にも見られる。
…神は一つのことによって語られ
二つのことによって語られるが、
人はそれに気がつかない。…
神は人の耳を開き
その魂が滅びを免れ、
命が死の川を渡らずにすむようにされる。(ヨブ記33の14~18より)
…まことに神は、このようになさる。
人間のために、二度でも三度でも、
その魂を滅びから呼び戻し
命の光に輝かせてくださる。 (同29~30節)
詩的直感の与えられた人であるからこそ、このようにとくに神からの語りかけや神からの助けの道に敏感だと言えよう。
人生の重大事において、このように直接の語りかけはある。稀な語りかけもあるが、毎日の生活においても、ここに言われているように、神は私たちに絶えず語りかけ、この世のなかに埋没することなく、永遠の命の光を受けるようにされている。
祈りとは、このように神の前に静まり、そこからの語りかけを聞き取り、命の光を与えられ、滅びから救われるようにとの神の愛を受けることである。
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〇報告
「祈りの友」合同集会
9月23日(土)に行なわれた「祈りの友」合同集会には、県内外から、一部スカイプでの参加者も含めて 33名の参加がありました。
午前11時開始、最初に、開会礼拝にて、吉村が「イエスの祈り、パウロの祈り」という題で短く語り、その後、詩篇からの祈りに関しての御言葉が県外からの会員3名ー香西 信(岡山)、那須 佳子(大阪)清水 勝(大阪)によって語られました。
15分ずつという短い時間でしたが、詩篇における祈りに関して、それぞれ個性的な内容で語られました。
祈りについて聖書から語られる場合は、ほとんど新約聖書からで、詩篇からは異例のことでしたが、それだけに、新鮮にまた、印象的でした。
その後、自己紹介と交流のときで、今年会員になった方も初めてこの合同集会に参加され、また県の北部の教会員で初めてこの集会場に来られた方もありました。
その後、午後3時の祈りのときで、全員が祈り、4時すぎまでの、祈りを中心とした交流がなされて感謝でした。5時間という長い時間でしたが、ふだん会うことのない方々もまじえて共に祈りを中心に交流の機会が与えられたことを感謝でした。
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徳島聖書キリスト集会案内