「いのちの水」2017年11月号 第681号
収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主にねがいなさい。(ルカ10の2) |
目次
・そのひびきは全地に | ・秋 | ・ 実りの秋 |
・聖書のみ | ・立ち帰る | |
・宗教改革五百年 ールターとその言葉から | ・悪の力の迫るとき ー 詩篇59篇 | |
・安息日とは何か | ・休憩室 | ・お知らせ |
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台風一過、しかし、山には強い風が吹いている。
大木の無数の葉から生まれる賛美が流れる。
重々しい、広がりのある音。
それは 世界に流れる深い悲しみの声をたたえ
神の力の厳粛さをたたえる歌の響きともなる。
それらの賛美に、沈黙の月光が射し、星はきらめく。
…語らず言わず その声聞こえざるに
そのひびきは 全地にあまねく、
そのことばは 地の果てにまで及ぶ(詩篇19の3~4)
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木の葉は散りゆき
柿の実は色づく
その天然の食物に いくつものメジロが
喜んで来ている
自然の移り行きのなかに、大きな神の御手がある。
現実のこの世の状況の厳しさとは
何という違いだろう
これらすべてを味わうことのできない人たち
病気、災害、内戦、紛争、弾圧による牢獄で生きる人たち…
そのようなところに、
この秋の静けさとそれを包む御手が置かれますように。
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秋は、さわやかな風の季節、紅葉の季節であるとともに、実りの時でもある。
イチジク、柿、クリ、梨、リンゴ、ミカン、ザクロ、ぶどう…、野生のものではアケビやガマズミなどたくさんある。
それぞれの果実の色も美しく、柿などが秋の空に映えるのは心惹かれる風景である。
それらは味も多様で栄養的にも優れている。
こうした自然の美しい変化や収穫のときの果実は、私たちの心にうるおいを与えてくれる。
実りと収穫については、目に見えない世界においても時期があることが記されている。
…人が私の内にとどまっていて、私もその人の内にとどまっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 (ヨハネ15の5)
私たちが、イエスを信じ、その内にとどまっているだけで、イエスも私たちの内にいてくださり、私たちは実を結ぶという。
植物が実を結ぶためには、太陽の光を受け、地中の水や養分を吸収し、大気の二酸化炭素を取り入れ…等々が必要である。
しかし、人間の魂の実りは、単純明解な方法によるのがわかる。
さらに、世の終わりに向っての収穫というのが記されている。
…イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4の26~29)
ここには、収穫の時に至るまでの農夫の苦労、あるいは秋の果実の美や味わいなどの記述はない。
ここで言われているのは、神の国ーすなわち神の御支配とは、種まかれ、日々が過ぎ行くとともにひとりでに成長し続け、豊かな実を結ぶ。そして収穫がくる。
これは、私たちの通常の農作物を育て、収穫するということと大きくことなった描写である。
この世界に、真理の種、福音の種が蒔かれ、それは時間の流れ、歴史の流れとともに必然的に成長し、収穫のときー世の終わりのときが来るという、世界の大いなる流れが言われている。
災害や害虫などの発生によって、収穫がなくなるーということはない。霊の世界においては、どのようなことがあっても、確実に蒔かれた種は成長し、実を結んでいく、ということであり、収穫も法則のごとくに確実にある。
偽預言者が現れ、さまざまの苦難ー飢饉、地震、戦争の危機…等々がある。それらがどのようであろうとも、この世界は収穫に向って進んでいく。
そして収穫のときは必ず来るーそうした預言がこのイエスのたとえに示されている。
私たちは、その収穫のときに向う途中で、いろいろな苦難や悲しみにも出会うが、そこでさまざまの霊的風景をときには深い悲しみの色、苦しみの色を全身で受け止めつつ、歩んでいかねばならないことがある。 そうして、最終的な収穫のときを待ち望む。
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無教会においてよく言われることーそれが、信仰のみ、聖書のみということである。
一般の人々にとっては、「無教会」といっても何のことか分からない人が多数を占めていると思われる。
教会に集っているキリスト者なら、無教会という名前くらいは知っているだろうけれど、その本質は何か、ということになると多くのキリスト者も知らないのではないかと思われる。
無教会とは、内村鑑三からはじまるキリスト教の精神を意味する。
それは、今回も言われたが、「聖書のみ、信仰のみ」を基盤として、外側のこと、形式、儀式(洗礼、聖餐を含め)に重きを置かないありかたである。
そこから、牧師、神父といった名称の聖職者を置かず、各地の無教会の集会では、語るべき使命を与えられたキリスト者が一人、あるいは複数の人たちによって神の言葉(聖書)が説き明かされる。
聖書のみ、という表現は、現在私たちが持っている印刷された聖書に限定する響きがあるが、これは不十分である。
というのは、初代の使徒たち、パウロなど、そして多くの初期の最も燃えるような信仰を持ち、命をかけて信仰を守って、ローマ帝国の迫害にも殉教していった人たちは、現在私たちが持っているような新約と旧約を備えた聖書はまだ作られていなかった。
羊皮紙やパピルスなどに書いた聖書などは、その材料ーとくにパピルスなどはどこにでもある植物ではない上に、それを紙のようなものにすることも容易でなく、したがって高価となり、その材料の作成自体が、特殊な技術をもった限られた人しかできないものだった。(*)
(*)書物づくりは 数千年間 ほとんど改善されなかった。 時間と費用がとてつもなく高かった。200頁ほどの書物作りは、専門の写字生 でも、 4~5カ月かかったし、この程度の羊皮紙を作るには、 25枚の羊皮紙が必要で、これは労賃より高くついた。 木版画は文字が不鮮明とか濃淡がきつすぎたり、ページは多くできても安価にはできなかった。(タイム社発行 「宗教改革」134頁 1967年発行。)
このことから、ごく大まかに当時の本の価格を見てみよう。筆写の労賃を仮に1日1万円とすると、5カ月かかるとすると、150日×1万円=150万円。それより羊皮紙代金が高いとすると、合計では、三百万円余りという高額になる。 現代の200頁の本なら、1000円前後だから、1冊が数百万円というのがいかに高価であるかがうかがえる。
そのため、ごく少数の人、あるいは会堂がそれらの一部、あるいはパピルスに書かれた現在の聖書の内容の一部を持っていたという状態であった。
羊皮紙に筆写された聖書は、その一部でも重くて大きなものであり、現代の聖書のようにどこにでも持ち運びもできなかった。そして、文字も読めない人は多数であったから、そのような高価で貴重な聖書を読める人はごく少なかった。
しかし、それでもなお、生き生きした信仰があった。
現在何種類もの聖書を自由に読んでいる現代人よりはるかにその信仰が真剣で、厳しい迫害にも耐えて、命をかけても信仰を守ろうとする人たちが次々と生まれていった。
それは書かれた新約聖書というのがまだできていないときであった。
パウロやペテロたちが、各地の信徒たちに書き送った書簡がある。それは、信徒たちのうち、文字が読める信仰のしっかりした人が読み、また説き明かし、読めない人たちはそれを耳でしっかり聞き取るのである。
その彼らを支えていたのは、確かに神の言葉と信仰であったが、現代のような聖書はまだなかった。聖書は、神の言葉であるが、神の言葉は、印刷された現代のような聖書にだけあるのではない。
彼らは、使徒たち、伝道者たちが聖霊によって語る神の言葉を聞いて御言葉を受け、さらに、生きたキリストからの直接の語りかけを神の言葉として与えられていた。
静かな細き声をかれらは真実に聞き取ろうとし、そこに生けるキリストが語りかけ、死をも恐れないで「私はキリスト者です」といって殉教していった人たちが多くいた。
それゆえ、キリストの死後歴史上で最も真剣なキリスト者たちは、生きてはたらくキリスト、聖霊からの言葉と、それを受けとるだけの信仰が与えられていたのである。
たとえ書かれた聖書があっても、そこに聖霊がはたらかないなら、読む人に力を与えることはなく、逆に書かれた聖書がなくとも、聖霊がはたらいて生きてはたらくキリストからの言葉が与えられるとき、大いなる力が与えられる。
使徒パウロも、「文字は殺し、霊は生かす。」(Ⅱコリント3の6) と言っている。
それゆえに、無教会も、聖書のみ、信仰のみという原点に帰るということからいうなら、書かれた聖書だけでなく、生けるキリストからの直接の語りかけを含めた「神の言葉」と「信仰」を最重要視するということになる。
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旧約聖書から新約聖書を通じて一貫して流れているものは何だろう。
それは、「立ち返る」(「立ち帰る」と表記されることもある)ということである。
すでに創世記の最初から、罪を犯したアダムたちに対して、神は言われた。「どこにいるのか」と。
神はすべてを見通しておられ、アダムがどこにいるのかなどはじめから分かっておられる。それでもあえてこのように問いかけられたのはいかなる理由によるだろうか。
それは、神に立ち返ることをのぞんでおられたからである。
預言者たちが、みな最も強調していたことは、この「立ち返れ」という言葉にほかならない。
この原語は、シューブ であり、この意味は、方向転換である。英語では turn あるいは return である。
… 地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書45の22)
この有名な聖句において、「仰ぎ望め」と訳されている言葉は、やはり「方向転換せよ」という意味の言葉(*)であるから、重要な英語訳ではたいてい次のように訳されている。
Turn to me and be saved, all you ends of the earth (NIV)
(*)パーナー これは、英語では turn。先にあげた、シューブとは別の言葉であるが意味はやはり同じで「方向転換する」。神に向っての方向転換であるので、主を仰ぎ望め とも訳される。一部の英訳(KJVなど)は、Look to me ! と訳していて、これが、日本語訳の 「私を仰ぎ望め!」と同じ。
立ち帰る、という言葉は、現在の我々の一般の会話ではほとんど用いられないが、原語のシューブは、英語の turn や return と同じく、戻るとか引き返すといったごく日常的な言葉である。
例えば、創世記でいえば、引き返す(創世記14の7)、鳩がはこ船に戻って来た(8の12)、生まれ故郷に帰る(32の9)等々である。
じっさい、聖書には、このシューブという原語は、1075回も用いられている日常語なのである。(*)
しかし、とくに預言書においては、神に方向転換する、神に立ち帰ると言う重要な意味に多くが用いられており、国がまさに滅びようとするとき、預言者エレミヤは繰り返し、神に立ち帰れ と語り続けた。(*)もし、ユダ王国の指導者や人々が、真実な神以外のものに頼り続けるならば、バビロンからの大軍の攻撃によって、町は焼かれ、神殿も破壊、人々の多くは殺されたり、遠いバビロンまで捕囚となって連れ去られるのだと、命がけで語り続けたのであった。
(*)このシューブという原語は、三大預言者のイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書において特に多く用いられている。エレミヤ書には115回、エゼキエル書64回、イザヤ書51回というように、この三つの預言書だけでも、230回も使われているキーワードといえる言葉である。
このように、旧約聖書の中心的メッセージをひと言で言うなら、それはきわめて単純なことー「神に方向転換せよ!」ということだとわかる。
旧約聖書を深く流れる真理は、キリストの時代になってもすぐに表面に現れた。
それは、キリストの福音伝道のメッセージに表されている。イエスは、つぎのように言われた。
…時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1の15)
神の歴史における重要な時となり、キリストが地上に来られた。それはすなわち、神の愛と真実による御支配が現実に行なわれるときとなった。そのキリストへと心の方向転換をせよ。そして福音を信じなさい、ということである。
悔い改めという言葉は、「過去のあやまちを反省して、心を入れかえる」(大辞林)ことである。
しかし、この言葉は、原語の持っているニュアンスとはちがっている。
過去のあやまちというのは、幾つか数えられるほど少ないだろうか。
神の持っておられる愛や真実、正義、勇気、清さ、純粋等々の前に、私たちの思いや言動は、ずっとそれには到底およばないような自分中心であって、そこに不純や不正、愛なき心がいつもあるといえる。 愛など、過去といわず毎日、無差別的に、あらゆる隣人のことを思い、祈り、できることを実行するなど、到底できるものではない。
そのような高い基準から見るなら、私たちの心や、そこから生まれる言動など、愛からはずれていることばかりである。
とすれば、悔い改めとは、「あやまちを反省して心を入れ換える」というが、そのような反省をきちんとしていたら、何時間あっても足りないだろう。
そしてそもそも、私たちは、自分の心を、まったく新しい心に入れ換えたりできるであろうか。
器の汚れた水をきれいな水に入れ換えるのは簡単である。しかし、人間の心を真実な愛や、純粋な心、正義に向っていのちをもかけていくような力、そのような心に入れ換えることなどだれもできない。
そんなことができるのなら、簡単に私たちは愛の人、清い人、正義の人、あるいはそのために命をも捨てるような人になるだろうが、そんなことはあり得ない。
このように、私たちは悔い改めというのを簡単に考えがちであるが、じっさいは、できないことなのである。
部屋の空気を入れ換えるためには、やはり外からのきれいな風が必要である。
同様に、それは、人間の決心や努力などでは到底できないことである。
それは、神に魂の方向を転換し、その神からの力を受ける必要がある。
イエスが言われたたとえがある。
…「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。
(マタイ12の44~45)
この不思議なたとえは、人間の努力や意志では、せいぜい掃除がなされ、整えられたという程度で、そこにはさらに悪の霊、汚れた霊が入り込んでくる。それほど人間の心の世界は、どうしょうもなく汚れてしまうのだということである。
これは、すでに旧約聖書の時代から、詩篇で言われている。
…神は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩篇53の4)
これを使徒パウロは、その最も重要な書簡であるローマの信徒への手紙の最初の部分(3章)で引用して、人間はすべて汚れていて、罪深き存在であるからこそ、万人のための救い主キリストが必要なのだと述べている。
このように、一部の人が清くて、多くの人が汚れているということでなく、すべての人は、神という絶対の正しさや愛の前には、みな正義もなく愛もない存在となる。
だからこそ、人間には、努力や決断、さらには死をも超えた力ー神の力が与えられるのでなければ、最終的には闇に沈んでいくことになる。
このために、キリストも繰り返し「悔い改め」の重要性を語られた。
…あなた方に言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
(ルカ13の3)
…わたしが来たのは、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ5の32)
…あなた方に言う。このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
・…このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。
(ルカ15の7、10)
このように重要な言葉であるが、新約聖書における悔い改め の原語は、メタノエオーであり、メタは、いろいろな意味があるがこの場合は、変える、反対にする ということであり、ノエオーは、ヌース(理性)の変化形であるから、メタノエオーとは、理性的転換 といった意味になる。
個々の罪を数えて心入れ換えるというようなことでなく、心の方向を変える、方向転換 ということになる。
そしてこの「悔い改める」というギリシャ語のヘブル語訳は、シューブ(方向転換)が使われている。(*)
(*)デリッチの新約聖書のヘブル語訳による。デリッチは、ドイツのプロテスタントの旧約聖書学者,ユダヤ学者。ライプチヒ大学教授。旧約聖書各編の注解により世界的名声を得た。またユダヤ人のキリスト教への改宗を促進しようと新約聖書のへブライ語訳を行なった (1877) 。なお、デリッチの注解は内村鑑三もしばしば参照して学んだのが彼の著書からうかがえる。その意味ではデリッチの影響は内村を通して間接的であるが無教会の人たちにも及んでいるといえよう。彼の旧約聖書の注解書は、原語(ヘブル語)に則して注解されている。それは英語に訳され、九〇〇~一五〇〇頁の大冊が全10巻のシリーズとなって発行されている。(EERDMANS社)私は四十年ほど前にこの注解に接して、日本とは比較にならないヨーロッパの聖書注解などの層の厚さや広さに驚かされ、聖書の深淵な世界にいっそう惹かれるようにもなっていったことが思いだされる。
以上のことから、キリストが宣教をはじめられたときにも、やはりその核心は、神への方向転換であり、そこからキリストの福音を信じて受けとるようにーというメッセージであった。
そして、神への方向転換は、神と同じ本質を持っていたキリストへと魂を向け変えることであり、そのキリストの大いなるわざである十字架へと方向を転換するー自分やこの世から目を転じてキリストの十字架へと向けることである。
それはまた、復活していまも生きておられる復活のキリストへと魂を方向転換して見つめることにもつながっている。
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2017年10月31日、いまこの原稿を書いている日であるが、ちょうど五百年前のこの日、ルターが、ウィッテベルクにある城の教会堂の扉に張りだした九十五か条の文が、宗教改革の発端となった。
ルター自身は、そのような大きなことになるとは想定しておらず、ただ、贖宥状 (免罪符)に関して、それは、どうしても聖書の真理からはずれていると確信して書いたことであった。
その一枚の紙が、全ヨーロッパを揺るがし、さらに、アメリカに伝わり、日本にもキリスト者たちに大きな影響をもたらすことになった。
その宗教改革は、社会的にも政治的にも、またキリスト教において、さらに教育や音楽、言語など広範な領域に影響を及ぼすことになった。
そのもとは、ただ聖書に基づく真理を書き留めたというだけのことであった。 このことによっても、いかに聖書の言葉ー神の言葉に絶大なエネルギーが込められているかがうかがえる。
ルターには、聖書に基づく福音を伝えるという、神からの大きな使命が与えられていた。しかし、時代の状況は、そのような信仰の問題だけでは終わらなかった。
ルターによって自由ということを知った貧しく、かついろいろに縛られていた農民たちは、自由をルターが説いた霊的自由というように受けとらずに、自分たちも自由なのだとして、修道院や貴族の家などを襲って物品を略奪するようなことにまでなってしまった。そうした暴動を領主たちが実力で封じ込めるように勧め、そのような経過を経て農民たちの暴動は鎮圧された。
そのほかにも、さまざまの困難が生じたが、神はそうした困難や悪の力が襲ってくるようなことをも越えて、とくにルターを用い、ツヴィグリ、カルヴァンなども起こして聖書中心の信仰のありかたを世界に広めるようにされたのだった。
世界のキリスト者たちが毎週、ごく普通に歌っている讃美歌、聖歌なども、ルター以前は、一般の信徒は意味不明のラテン語の歌詞が聖歌隊によって歌われるのをただ聞いているだけであった。
それを自分たちがわかるドイツ語の歌詞で、信徒たちが自由に賛美できるようにしたのがルターであって、その延長上に、今日世界で讃美歌が教会やその他において自由に賛美できるようになったのであった。
さらに、その延長上に、バッハの音楽も生まれた。バッハが賛美の指導者として就任した教会は、ルター派の教会であった。
バッハの音楽が、後のモーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーン等々の優れた音楽家たちによって受け継がれ、その大きな影響を受けて今日クラシック音楽という全世界の人々に愛される音楽が生み出されていったのであるから、ルターの影響は広く深くさまざまの領域に広がり、ルターなどまったく知らないとか関心のない人たちでも、前述のクラシックの巨匠たちの音楽を愛好し、またキリスト者たちが、自由に讃美歌を歌い、心に何か清いもの、神の国にあるものを受けとることができるようになったのである。
江戸時代の末期から、日本に宣教のために渡来し、命がけで渡来した宣教師たちも、プロテスタントの人たちであり、彼らの全面的な影響を受けて、現在の日本のプロテスタントの諸教会ー無教会も含めーがある。
そしてそのキリスト教によって日本の教育も大きく影響を受けた。障がい者のための盲、ろう学校、養護学校なども、すでに二千年前にそうした障がい者たちに示されていたキリストの愛の延長線上にある。
また、女子教育はまったく当たり前となっているが、日本のかつての伝統は女性は男性より相当低くみなされていたこともあり、女子高等教育ということは、とくにアメリカのプロテスタントキリスト教の宣教師たちがもとになって起こされていったのであった。
そうした意味から、ルターは現在の日本にも大きな影響を及ぼすことになったのである。
しかし、ルターは決して欠点もあやまちもなかった聖人のような人ではなかった。
プロテスタントという新しい流れが歴史のなかで生み出され、世界にその影響が波及していく過程では、ルターが想像もしなかった展開が各地で生じていった。
ときに、すでに述べた農民の暴徒化や、ユダヤ人への対処においてルターも大きな時代の波に巻き込まれて、当初は考えもしなかったみずからの変容も生じ、あとに尾を引くことにもなった。
戦前においても、すぐれた学者、キリスト者、また思想家、芸術家たちも多く存在していた。しかし、中国に対する侵略戦争や、太平洋戦争等々において、そうした見識ある人たちもその激しい波に呑まれていき、正しい歩みをしていくことが困難になった。
原発の問題にしても、圧倒的多数の学者ー自然科学の研究者や文科系の政治や経済等々にかかわる学者たち、また一般の人たちも、原発を推進していこうとする人たちの安全神話に呑み込まれていった。
けれども、神はそうした人間の弱さやさまざまの限界、罪を越えて、その御計画を推進されていく。
ルターもいろいろと限界もあり、罪も犯したこともあっても、それでも神はルターを用いて、大いなるキリストの真理を世界に広げていく使命を負わせたのであった。
私たちも、また罪深く、弱い存在でしかない。しかし、神はそうした私たちをも、その器として用いてくださると信じることができる。
私たちとしては、日々自分の限界、罪を知らされつつ、その赦しを願い、そしてその赦しを受けつつ、歩んでいくことが与えられている。
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ルターの言葉
ー卓上語録より(*)
絶え間なき祈り
正しきキリスト者は、絶え間なく祈る。
必ずしも口をもって祈るのでなくとも、彼らの心は、眠っているときも、覚めているときも、絶え間なく祈る。
それは、真のキリスト者のしるしは、祈りであるからだ。
「主は言われる。苦しむ者が圧迫されているゆえに、また貧しい者が嘆いているゆえに、私はいま立ち上がる。」(詩篇12の6)
同様に、真のキリスト者は、常に十字架を担う人である。それを必ずしも感じなくとも。
主の祈り
主の祈りは、人々を一つに結びつけ、また人々を相互に近づける。こうして一人はほかの人のために祈り、また互いに祈る。「主の祈り」は、死への恐れを追い払うほどに、かくも強く、力強いものなのだ。
心からの祈り
心からの祈りと、貧しき人々(苦しむ人々)の嘆きとは、天におけるすべての天使の耳に響くほどの叫びとなる。われらの主なる神は、大いなる耳を持っておられる。鋭敏な聴覚があるのだ。
祈りの力
祈りがいかに力強いものであり、いかに有効なものであるかを、多くの人は信じようとしない。
しかし、迫ってくる大きな困難を感じるときには、祈りが与えることができるものは、大いなるものだ。
祈ることが、真剣であったほど、真剣に祈ったたびに、私は自分の祈りが聞かれていること、祈った以上に与えられていることを知っている。
ああ、キリスト者の正しい祈りは、何と力あるものであろうか。
神に逃れよ
神を畏れ、神に逃れ、すべての困難の際に、神に叫ぶべきである。
なぜなら、聖書にこう言われているからだ。
「神はわれわれの近くに立ち、われらが祈る前に、我らの祈りを聞いてくださる。」と。
絶え間なき祈り(その2)
愛の祈りは、教会(キリスト者の集り)を支えた。なぜなら、祈りは、今日まで教会における最善のものをなしてきたからである。
それゆえに祈りはますます多くなされる必要がある。
キリストは言われた、求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん、たたけよ、さらば開かれん。と。…
人が祈るとき、神は自ら一つの部屋に入って戸を閉じておられる。その部屋に入ろうとする者は、戸をたたく必要がある。一回、二回たたいたくらいでは、神の耳にはわずかしか達しない。いつもたたき続けていると、神は開いてたたく人を入れてくださる。そして、「何を求めるのか」と問われる。「私は〇〇を得たい」と言うと、主は、言われる。「それを得よ」と。
このように、人は神を求めねばならない。祈るとは、すなわち、祈り願い、呼び、たたくことを意味する。そして人々は絶え間なく続けなければならない。
(*)卓上語録とは、ルターの家庭に集まった同僚や学生と食事するときに キリストや神、罪、生活、人間のこと、教会のこと…等々について語ったことを記したものである。ワイマール版のルター全集では、6巻にも及ぶ分量であるというが、日本語に訳されているのはごく一部である。
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わが神よ、
私を敵から助け出し
立ち向かう者から
はるかに高く置いてください。
悪を行う者から助け出し
流血の罪を犯す者から
救ってください。(2~3節)
見てください、主よ
力ある者が
私の命をねらって待ち伏せし
争いを仕掛けて来ます。
罪もなく過ちもなく(4)
悪事をはたらいたことも ない私を 打ち破ろうとして
身構えています。
目覚めて私に向かい、
見てください。(5)
この詩は、力ある者がこの詩の作者の命をねらって待ち伏せているという状況のなかで書かれたのがわかる。(前書きにサウルがダビデを殺そうと迫ってきて、生きるか死ぬかという状況であるということが記されている。)
命が狙われているというようなことは、現在の日本ならば、たいていの人にとっては、そのような状況にないために、このような詩は、私たちとは無関係だと受けとられやすい。
しかし、決してそうではなく、絶えず霊的な目を見張っていないと、うっかりすると霊的な敵(サタン)が待ち構えていて、私たちの霊的な命を滅ぼそうと待ち構えている。
日々生じるさまざまの犯罪、そして心の病気や周囲からのいじめや圧迫によって生きていけなくなるという状況ーそれは、そうしたサタン的な力が人間に働きかけていることによる。その意味で、この詩篇は まさに現代の問題である。
聖書は、数千年も昔の文書なので、表面的に見ると、その地名、人名、状況などが私たちと無関係と思えるものも多い。
しかし、そのような記述の背後には、時代や場所を越えて現代にあてはまることが暗示されている。聖書とは、そういう本である。
この詩の一つの特徴は、神をわが力だという表現がいくつかある。この詩を書いた人は、この世界には二つの力がいつも対立しているということをはっきり分かっていた。
二つの力とは神の力と闇の力である。
4節にあるのは闇の力のことで、闇の力が絶えず私を狙って待ち伏せして、神の命から引き離そうとしている。
神の前では全ての人は罪人だが、旧約聖書の場合、律法に従っていると自覚している人は、新約聖書の時代のように罪ということを深くは掘り下げてはいなかったため、罪もなく過ちもなく悪事をはたらいたことのない私ーと言っている。
これは、キリスト以降では、罪も過ちもないーということはあり得ず、罪をはっきりと知っていてそれを常に主に告白し、つねにキリストにより、十字架によって赦しを受けている私、ということになる。
悪の力、滅ぼそうとする力が間近に迫っているときには、祈りは真剣にならざるをえない。キリストは、しばしば夜通し祈られた。それほどに、悪の力が自分にも人々にもいつも迫ってきているということを、実感していたのである。
そして、その悪の力によって、人々の霊的な命を奪っていくのを見ていたから、あれほど真剣に祈ったのである。みんな滅びていくというのを見ていなければ、何も必死で祈ることはない。
このように霊的に清められ、高められた人は 待ち伏せしている悪の力が、正しい道から引き離そうとし、あるいは滅ぼそうとしているのがわかる。それゆえに、いつも目覚めていようとする。
あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。
目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。(6)
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
見てください、彼らの口は剣を吐く。
その唇の言葉を誰が聞くに堪えるだろう。 (7~8)
自分に押し寄せてくる悪の力は、政治的にも社会的にも広がっていることをこの人ははっきり知っていた。「悪しき者たちは、夕べになると戻ってきて、犬のように吠え、町を巡る」
この7節は15節でも繰り返し言われているのはどうしてであろうか。
夕べになるとやっと一日の仕事が終わり夜になる。夜になると悪の力が戻ってきて餌食を求めて巡る。これは悪の力は闇がきたら餌食を見つけるまで探し回るんだということで、この世界に根強く広がる悪の執念深さを深く感じていたからである。
夜になり、やれやれと思うときにこそ、かえって悪は戻ってくる。こういうことをこの詩人は霊的な目で見ることができ、その危険性を深く感じたからこのように繰り返し書いたのである。
夜の世界は何か不気味な感じがする。精神的にも神の光が射していない霊的な闇夜には、私たちの心の中も悪がはびこって、良いものが餌食になってしまうことがある。
イエス様も、清められた家のたとえで、人間的な思いで一度清められたと思っても、悪がさらに多くの汚れた霊を連れて戻ってくると話された。これも悪の執念深さ、その力の根強さを示している。このようにいつも戻ってくる悪の力に対してどうするのかというのが9節以降にある。
しかし主よ、あなたは彼らを笑い
国々をすべて嘲笑っておられます。(9)
わが力よ、あなたを待ち望みます。
まことに神は私の砦の塔。(10)
しかし、神は、悪の力が支配している数々の国を一笑に付す。いかに強い悪の力、サタンであっても、神からみたら何の力もない。人間世界では、悪が渦巻いてどうしようもない深刻なことでも、神にとっては取るに足らないことである。
このように悪の力が個人的にも、民族的に迫ってきても、神の力は揺るがず、時至ればそうした悪の力は必ず滅ぼされる。
この啓示は詩篇の一番初めから記されている。詩篇第一編は詩篇全体の総括で、二編から事実上の詩篇の内容に入る。
その本論の最初に置かれているのは、個人の悩みや叫びといったものでない。この世界全体に見られる悪の力に勝利する神の力の支配と勝利がその主題となっている。
地上の王は結束して神に逆らおうとするが、神はそれを笑われる。
10節 新共同訳は、「あなたを見張って待ちます。」と訳しているが、このような訳は他には見当たらない。神を信る人が、神を見張るーなどという表現は不適切。見張るという言葉は、自分より目下の者ー部下や子供、あるいはよくない行動をする者や動物などに対して使う言葉だからである。 原語は、シャーマルで、「守る、見守る」という意味。ほとんどの英語訳では 見つめる watch、待つ wait upon などと訳している。フランシスコ会訳は、「私はあなたを仰ぎ見ます」
じっと神を見つめていると、ますます神こそは、私たちを守ってくれる存在、いわば砦の塔だということが見えてくる。
このように、自分に対して大いなる力の源だということが分かってくる。そういう意味で9、10節は大きな転換となっている。 悪の力がぐんぐん迫ってくるのを見ていたら、恐れが生じてくる。しかしそこから目を転じて神をじっと待ち望む。これはどんな場合でも力になる。
神は私に慈しみ深く、先立って進まれる。
私を陥れようとする者を
神は私に支配させてくださいます。 (11)
口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に
自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に 彼らが捕えられますように。
怒って彼らを滅ぼし、ひとりも残さないでください。
そのとき、人は知る。
神はヤコブを支配する方 地の果てまでも支配する方であることを。 (13~14)
この詩の作者の願いは、悪人を単に滅ぼしてしまうことではなく、いっさいを支配する神の力が確かに存在するということを知らせることである。
13節以降は同じことを言い換えている。最終的に神の裁きによって、悪の力を持つ人間を絶やしてくださいと願っている。旧約聖書の詩篇には、このようなはげしい言葉で敵の滅びを祈りねがう言葉が見られる。それが詩篇を身近なものにすることの妨げにもなっている。
こうした表現は、三千年も昔のことであり、またこうした敵の滅びへのはげしい願いは、新約聖書においては、大きく変わっていった。 それは、悪しき人間そのものを滅ぼすのでなく、悪人のうちに宿る悪の霊(力)を追い出し、神の清い霊が宿るようにと祈る。敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われているのはそのことである。
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまでは眠ろうとしない。 (15~16)
しかし、私は御力をたたえて歌をささげ
朝には、あなたの慈しみを喜び歌う。
あなたは私の砦の塔、苦難の日の逃れ場。
私の力と頼む神よ
あなたにほめ歌を歌う。
神は私の砦の塔。
慈しみ深いわが神よ。
(17~18)
15~16節 すでに7節に現れた表現が再度見られる。神の力がはっきり分かれば、悪の力がどんなに迫ってきてもそれに打ち勝つことができるということを強調するためである。神の力こそ、地の果てまでを支配するからである。
悪の現実を間近にはっきり見ていても、尚揺るがされなくなる。だから最後は賛美で終わっている。このように悪との対決を信仰によって乗り越えていった人の心中がうかがえる詩となっている。
悪の勢力は、昼も夜も餌食を求めて迫ってくる。そうした危険と困難のただなかにあって、この詩の作者は、言うことができた。
しかし、私は、神の力をたたえて賛美を歌うことができるーと。
新共同訳では、この重要な「しかし」という接続詞を欠いているが、口語訳、新改訳、フランシスコ会訳、あるいは、英訳などはほとんど 「しかし」を入れて訳している。But I will sing of Your power.
現実は荒波が押し寄せるように、我々に間近に迫っていても、砦を知っていればそれに打ち勝つことができ、荒波や嵐のただ中で賛美ができる。このような深い闇の中での体験が、この詩の元になった。
わかりにくい部分もある詩であるが、そうしたことを越えて、この詩は、敵対するものーそれは人間であったり、病気や災害、あるいは事故等々であっても、それらがいかに迫って私たちの命が攻撃されているようにみえても、なおそこから、神を待ち望み続けていく。そこに神の力を与えられ、主の平安が満ちてくる。そして神への賛美さえ生まれてくる。
こうした詩篇の世界に、現代の私たちも招かれている。
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安息日については、モーセが受けた十戒に記され、それは、ユダヤ人だけのことではなく、他国から来た人、また、地位の高い人、低い人、奴隷まで守るように書かれている。
これは信仰上での守るべき言葉であるとともに、また、社会的な内容も示している。
「あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。
安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。
だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。」(出エジプト記三十一・13~17)
安息日を守らないということは、死刑になるほどの重大な罪とみなされている。これは、現代の私たちからすると考えられないような厳しい規定である。
何故にこのような厳しさが見られるのであろうか。これは、安息日を守って週に一度の神への礼拝をささげることによって、神との関係をつねに新たにし、その神が人々を守り、導くということを深く知らせるためであった。
安息日は、神が私たちをこの世から分けてくださったことを、あらためて知るときである。なぜ、選ばれ分かたれたのかはわからない。しかし、神は選んでくださった。それを、安息日ごとに、心に刻む必要がある。集まることを守らないと、霊的に離れていく。「安息日を守らないと死刑である」とまで書かれている。このような表現があるほどに安息日は重要であることが示されている。そして、このように厳しく安息日をまもり、神の言葉を聞き続けたからこそ、ユダヤ人は世界に散らされても、滅びてしまわなかったのである。
申命記には以下のように書かれている。
「 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」(申命記五・12~14)
牛や馬、外国人、奴隷も休ませるとある。昔は、ほとんどの人が農業、漁業、林業であった。それは一日中働く必要がある。しかし、このように人間も、動物も奴隷もすべてを休ませるという、世界に例のない発想であった。
さらに、安息日の厳守は、次の重要な目的のためでもあった。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命記五・15)
人は誰も、この世の罪、汚れの霊的な奴隷になっている。そこから神の見えない手によって導き出された。そのことを忘れないために、安息日を守る必要がある。罪の奴隷であった状態から解放された。これは、今の私たちには「イエス・キリストの思い起こす」ということである。
また、イザヤ書には以下のように書かれている。
「いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。
宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ五十六・2~5)
この時代、宦官は、欠陥がある人とされていた。しかし、それでも、このように祝福してくださる。
「また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならわたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザヤ五十六・6から7)
主イエスがエルサレムの神殿が商売の場となっているのを見て「祈りの家」と呼ばれるべきである、といわれて、商人たちを追い出されたことがあった。それは、この箇所を示されたのであった。
また、エレミヤ書では
「もし、あなたたちがわたしに聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入るならば、わたしはエルサレムの門に火を放つ。
その火はエルサレムの城郭を焼き尽くし、消えることはないであろう。」(エレミヤ十七・27)
という厳しい裁きが書かれている。安息日を守らない、神の言葉を守らない事に対する裁きである。それほど、神に従い、安息日を守ることの重要性を示しているのである。
エゼキエル書では
「また、わたしは、彼らにわたしの安息日を与えた。これは、わたしと彼らとの間のしるしとなり、わたしが彼らを聖別する主であることを、彼らが知るためであった。」(エゼキエル二十・12)
「しかし、イスラエルの家は荒れ野でわたしに背き、人がそれを行えば生きることができるわたしの掟に歩まず、わたしの裁きを退け、更に、わたしの安息日を甚だしく汚した。それゆえ、わたしは荒れ野で、憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを滅ぼし尽くそうとした。」(エゼキエル二十・13)
「わたしの安息日を聖別して、わたしとお前たちとの間のしるしとし、わたしがお前たちの神、主であることを知れ「(エゼキエル二十・20)
安息日は神が与えてくださったのである。それは神と信じる者たちとのしるしとなる。神の国のために与えられた。単に休憩するためではない。神をあらためて知るためであった。
しかし、イスラエルの民はその安息日を汚して、偶像を礼拝した。だから、裁きが下され、かずかずの外国からの攻撃を受け、滅びに瀕した。
それは、安息日をまもらず、神でない偶像礼拝に陥ったからであった。しかし、神は滅ぼし尽くさなかった。
ユダの国が滅ぼされ、捕囚として連れて行かれたのは、神に背き、安息日を守らなかったことにもよる。
それほど、安息日を守る、ということは重要なこととして旧約聖書を流れてきた。その大きな流れを受けて、新約の新しい流れになった。
「人の子は安息日の主なのである。」(マタイ十二・8)
安息日が形式的なものになり、安息日であるから病気で苦しんでいるものも捨てておけというほどになっていた。そこまで形だけになった事に対して、キリストが安息日の主となると、告げられたのであった。
今、日曜日に、主日礼拝が行なわれている。主のために集まる。目に見えるかたちで、キリストを主とするために集まる。わたしたちも、まず、安息日である礼拝を守る。そこに祝福があるのである。
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〇明けの明星として知られる金星は、この頃早朝5時半ころに東の空にその強い光を見せてくれますが、高く上がらない内に明るくなってきますので、東の空が山や建造物でさえぎられていれば見えない状態です。
なお、このとき、金星と木星がすぐ近くに見えるという珍しい位置関係となっています。
そして、火星は東のやや高い空に見えていて、少し下方東寄りには、乙女座の一等星スピカも見えています。 火星、スピカ、そして接近した木星、金星 の順に並んで見えます。
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〇クリスマス特別集会
・日時…12月24日(日)午前10時~14時
・会場…徳島聖書キリスト集会場
・内容…こどもとともに。子供向けのミニ劇、楽器演奏、いのちのさと作業所による賛美など。
クリスマスメッセージ、7~8名による一年間の証し、感話、コーラス、手話賛美など。
昼食と交流。
・会費(弁当代金)…五百円。当日でも可。
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