いのちの水 2017年12月号 第682 号
目次
・星の世界 |
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。 この子は、自分の民を罪から救うからである。(マタイ1の21) |
冬の訪れの時期となった。木々の多くは冬の厳しさに耐えられずに葉を落とし、かれたようになる。
人生にも冬がある。ガンの末期やさまざまの重い病気や災害、事故、そして、大きな罪を犯してしまったととき、他人からの攻撃や誤解、裏切り等々、そして最後の冬の厳しさというべき老年があり、その老年にこうした災害や病気等々がふりかかってくるとさらにその厳しさはひどくなる。
なかには、死に至るまで、家族もよく健康に恵まれるという状況にある人もいるかもしれない。
しかし、多くは、人生の晩年には、厳しい冬ー体だけでなく心も枯れていくような状況に陥ることも多い。
寒さゆえに、流れる水さえも凍る。
同様に、人生の厳しい冬にあっては、それまで行動的であった人も、その働きは止まる。それだけでなく、そのような活動的でかつ周囲にいろいろなよき働きをした人でも、病苦や老齢ゆえに判断は弱まり、生きていくのがやっとーという状況となって、心まで冷えていくと思われる状況にもなる。
人の愛を受けられず、心のなかには冷たい雨が降るというようなことも生じる。
しかし、それにもかかわらず、必ず冬のあとには、春が来る。枯れたようになり、死んでしまったような木々も新たな命の息吹がきざす春がくるのは、必然である。
同様に、私たちの人生の冬がいかに厳しくあろうとも、必ず春がくる。
使徒パウロも、そのことを次のように告白している。
…兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失った。
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いであった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また今後も救ってくださる。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。(Ⅱコリント1の8~10)
どんなに冬の時代が長いと思われ、これは終わりがないーと感じて、たとえようなく悲しみに襲われるときーそれでも、そこに静かな細き声で語りかけてくださる。
この冬は必ず終わり、いのちに満ちた春が訪れること、しかも今度の春は、永遠であり、自分の側から捨てることがない完全な状態として残っていく。
春には初々しい新芽が現れ、花開いていく。
私たちも厳しい人生の冬の時代を越えて、新しい天と地にあって、キリストと同じような御姿に変えてくださると約束されている。
…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(ピリピ書3の21)
ーマタイ福音書の最初の部分から
クリスマス、それは、キリストが地上に来てくださったことを記念し、感謝する日である。
キリストは何のために、地上にこられたのか、それはすでに旧約聖書から指し示され、新約聖書全体にわたってそのことが記されている。
ここでは、クリスマスを迎えて、イエスの誕生のことが記されているマタイ福音書の第一章に記されてていることから学びたい。
最初に記されているのは、聖霊のはたらきの重要性を示すこと、聖霊を与えるためにこられたことである。
マリアは聖霊によってみごもった。この記述により、人類の救い主の誕生は聖霊の働きによるのが最初から記されている。
そして、そのイエスが30歳になって福音伝道にすべてをかけようとするとき、そのさきがけとして現れた預言者、洗礼のヨハネは、つぎのように言った。
…私は水で洗礼をする。しかし、私のあとからこられるイエスは、聖霊と火によって洗礼を授ける。(マタイ福音書3の11)
火ーそれは聖霊が愛や真実を本質としつつ、燃えるような情熱を与えるということでもあり、悪の力を焼き尽くす力をともなっていることも象徴的に示すものである。
そして、じっさいに大工としての仕事を父親とともにして、それらをすべておいて、福音伝道の道に入るとき、イエスが洗礼を受けたときに注がれたのは、聖霊であった。
サタンに誘惑され、試みを受けたときも、聖霊によって導かれ、悪魔の攻撃に勝利されたことが記されている。(マタイ4の1~、ルカ4の1~)
そして、初めて伝道をはじめたときも、イエスは聖霊の力に満ちてガリラヤに帰り、そこで福音を伝え始めたと記されている。(ルカ4の14)
さらに、最初に自分が育ったナザレのまちの会堂で、教えたときも、つぎのようであった。
…主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私を使わされたのは、捕らわれている人を解放し、見えない人を見えるようにし、圧迫されている人を自由にするためである」という、旧約聖書のイザヤ書からの引用から教えられた。
ここにも、聖なる霊がそうしたイエスの行動の根源にあることが、すでに旧約聖書から予言されていたのである。
また、キリストが十字架で殺され、しかし復活したキリストが、40日間使徒たちに現れ多くのことを教えた。そしてそのたくさんの教えのなかから、ただ一つのことが使徒言行録に記されている。
それは、つぎのことである。
…ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく聖霊による洗礼を授けられる。(使徒言行録1の5)
このように、40日ものあいだに語ったことのなかからとくに一つ選ばれた言葉が、聖霊を授けるということであった。
使徒たちは、キリストの逮捕のさいに逃げてしまって、イエスのことなどまったく知らないというひどい裏切りの言葉を吐いて逃げてしまったのち、キリストの愛によって立ち返り、約束された聖霊を受けるべく、待ち続けるようにとの命令を受けた。そしてみんなで祈り続けていて、与えられたのが聖霊であった。
その聖霊によって、弟子たちはそれまでの恐れおののいていた臆病な状態(ヨハネ20の19)から一新され、キリストの福音を命がけで世界に伝えていく大いなる出発点となったのである。
そして、イエスが十字架で処刑される前夜の最後の夕食のときに、語られた約束、遺言というべきことは、自分はこの世から去っていく、しかし、かわりに、聖霊がこの世界に来るーということを示された。( ヨハネ14の15~、16の5~など)
このように、キリストがこられた目的は、聖霊の重要性を世界に知らせるためであり、その聖霊を、キリストを信じて求める人たちに与えるためであった。
キリストが来られた目的として、第二に記されているのは、その名は「イエス」とせよと言われたことのなかに含まれている。それは「民を罪から救うためである」との簡潔な表現にある。
さきに述べた聖霊が与えられるーということも、その前に、人間の根本問題としての罪からの救い、罪の赦しがなければ聖霊は与えられない。
この世界のいっさいの問題の根本にあるのは、正しいことや愛の言動、真実な心、清い心等々がどうしてももてず、そこから離れてしまうということである。それを罪といっている。
その問題が解決されないかぎり、人間はいかに科学や文化、あるいは経済的によくなっても、心のなかには闇がある。
いっさいの問題の根源にある罪の赦しーそのためにイエスは生まれてくださった、この地上にきてくださったのである。
それが、イエスという名前に深く刻まれている。
さらに、第三に記されていること、それは 「その名はインマヌエル」ということにある。それは、ヘブル語で「神、われらと共にいます」という意味である。
キリストは人間の子として生まれた。しかし、死後は聖霊となり、神と同じ本質の存在となり、いまも私たちとともにおられる。
地上にいきておられるとき、思い病気や障がいに悩む人、苦しむ人、死に瀕する人たちのところに赴かれて、いやされた。
そして悪をなす人たちを厳しく指摘して、ただされた。
現在も聖霊となったキリストは、私たちとともにいて、たとえいかなる状況におかれても、私たちが心から求めるときにはその祈りに応えてくださる。応えがないと思われる場合でも共にいてくださっている。
生きている間も、死後も永遠にともにいてくださる存在がキリストなのである。
私は21歳の春までは、キリスト教というものに全く無縁であった。
その私が、キリスト者となったのは、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪のゆえだった。その十字架を信じるだけで赦される、という福音の根本を知らされたときだった。
その福音の真理が私の魂に点火されて以来それは消えることなく現在も小さき火であっても燃え続けている。
神からの火をいただくときーそれはかつてモーセが荒野で見たように、燃えているのになくならない、という不思議なことが生じる。
人間世界では、人間の自分中心の本性(罪)によって神からの火を消してしまうことがよくある。
罪のない自然の世界には、神の直接の御手によって創造されたゆえに、神の火は燃え続けている。その夕焼けや星空の美、雲や青空の深みのある美しさ、野草の無数の変化ある美等々、それらは神の手からある種のともし火を受けて燃え続けている。
しかし、人間は自然の事物のようではない。人間的な感情や知らず知らずのうちに自分中心となったり、正しい道や言葉でなく、よくない言葉をだしたりすることもある。
それでも、内なるともしびは燃えている。
地上のいかなる存在より、断然キリストが私にとっては第一であり、すべてである。
その小さな灯火があるからこそ、私は日曜日ごとの主日礼拝や、各地での家庭集会、県外各地での集会で福音を語ることが可能となってきた。
「はこ舟」、「いのちの水」と続いている福音伝道のための印刷物の継続も与えられてきた。
それもみな小さなともし火であっても、内に燃え続けるようにしてくださった神とキリストのおかげである。
内に燃えている真理のともし火が強く燃えているほど、その人の言葉にも表れる。
その人の言うこと、書いたもの、行動、表情、まなざし、声の調子等々に表れてくる。
日常的な言葉にも表れるが、文は人なり と言われるように、その人の書いたものによっても表れる。そして、そのともし火ー聖霊の火がもっとも完全な形で書かせるとき、それは聖書となって、神の言葉とされるほどになった。
その火を永続させる力となるのは、福音の力である。
福音と関わりはあるが、福音そのものではないことに惹かれてキリスト教に近づくだけでは、その火は燃え続けない。
それでは、ともし火が燃え続けるためには、何が必要なのか。
はじめはキリストを信じていると言っていても、最終的には、キリストを捨てる人、そして捨てない人の違いについて、内村鑑三はつぎのように書いている。
… 国のためにキリストを信じた者は、ついにはキリストを捨てる。
社会人類のために、また、自分の教派を大きくするために信じた者、キリストの人格にあこがれて信じた者、あるいは、よき思想を得ようとして、また、艱難や苦痛を慰められようとしてキリストを信じた者も 最終的にはキリストを捨てる。
しかし、自分の罪を示され、その苦しみに耐えられず、「ああ、私は何とみじめな者なのか! 」との声を発し、そこから、キリストの十字架を信じることによって神の前に正しいものとみなされる、という唯一の道を見いだし、その喜びにあふれてキリストを信じている者は、たとえ宇宙が消失することがあろうとも、永遠より永遠までキリストを捨てることはない。(原文は文語、「聖書之研究」一九一六年三月 岩波版内村鑑三全集第22巻205頁)
ここには、キリスト教信仰の単純、しかも永遠の強さがある。学問や経験、あるいは多才、博識…等々いっさいは救いのためには必要ではないのはすぐにわかる。
力は神と結びついた単純から生じる。キリストは、幼な子のような者でなければ天の国に入ることはできないーという驚くべきことを言われた。
神は、人間がさまざまの弱さや置かれた状況があることをすべて見抜かれていた。そして、のようないかなる状況にあっても、真の幸いへの道はきわめて単純な道を備えてくださった。
キリストの十字架、その一点によって私たちは信仰のともし火を燃やし続けることができるようにしてくださっている。
救いはただ信じるだけ、一人で信じるだけでも与えられる。パウロもキリスト者を迫害していたとき、突然、復活のキリストの光を受け、その語りかけによって救いを受けた。
キリストの弟子たちも、イエスのひと言ー「私に従ってきなさい」のひと言によって、すべてを捨てる力が与えられ、救いに入れられた。
また、一人の女性は 川岸の祈り場でたまたまパウロと出会って、神の言葉がその内に入ってキリスト者となった。
このように、救いは、個人的に与えられていく。
けれども、ひとたび救いを与えられた者は、おのずから単独ではなくなる。
苦難において、どのように今から二千年も昔のキリスト者たちはそれを受け止め、耐え、乗り越えていったのであろうか。
その一端が、聖書に記されている。
使徒パウロは、ひどい迫害、圧迫のために、死を覚悟し、絶望的な状況となったほどであったが、そのようなとき、そのただなかで神の力が与えられ、救われたと記している。
神はあらゆる苦難において、私たちを励まし、慰めてくださる。それゆえに、神こそ賛美されますように!ーと、次のようにその手紙のはじめの部分で強調している。
… 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを励ましてくださるので(*)、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる。
(*)励まして…この個所は、新共同訳では、「慰めてくださる」と訳されている。この原語は、パラクレーシス で、パラ(そば)+カレオー(呼ぶ) すなわち、側で叫ぶ、はげます、慰める 等々の意味となる。
英訳では、consolation(慰め) encourage(勇気づける) exhortation (強く勧める)、等々に訳されている。
例えば、 …それを読んだ人は、その励まし★によって喜んだ。(使徒言行録15の31)…we were glad for its encouraging message. (NIV)
日本語においては、「慰める」というのと、「励ます」とではかなり大きな意味の違いがある。慰めの神 と、励ます神、いずれが原文の意味に近いといえるだろうか。
常に前進的な意味をたたえているキリスト教においては、単に慰めるという静的な意味よりも、力づけるという積極的意味を持っている。
主イエスも、最後の夕食の終わりに、「勇気を出しなさい。私は世に勝利している」と言われたのもそうした意味である。
パウロは、もう死ぬほどであったという。それほどの迫害のなかから神の救いを体験したと記している。(Ⅱコリント1の10)
どのような人が、そのような困窮にあったパウロを助けたのだろうか。その一端は彼自身がローマの信徒への手紙の末尾で記している。
…
…教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。(ローマの信徒への手紙16の1~4)
プリスカとアクラというのは夫婦であって、ここでは、妻のプリスカが夫よりも先にあげられている。ほかにも新約聖書では何度かこの夫婦は表れるが、妻のほうが先にあげられていることが多いのも、女性であっても、命がけでパウロの命を守ったほどの主にある勇気が与えられていたのがうかがえる。
そして第一に名前のあげられたフェベという女性も、多くのキリスト者たちを助け、ときにパウロを援助したことが記されており、バルナバやテモテ、テトスといった男性の同労者だけでなく、こうした女性たちの献身的な働きによっても、パウロの伝道はささえられていたのがうかがえる。
これらの人たちだけでなく、多くの人名が、ローマの信徒への手紙の最後の部分にあげられていて、そのなかに、「主のために苦労して働いているトリファイナ、主のために非常に苦労した愛するペルシス…」といった記述もあり、迫害も受けるような危険な状態のパウロや福音のために、多くの真剣な労苦がなされていたのがわかる。
そうした共同体によって福音はローマ帝国の広大な地域に、驚くほどの短期間で伝わって言ったのである。
3 神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。
4 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。
どうか砕かれたところを癒してください
大地は動揺しています。
5 あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ
よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
6 あなたを畏れる人に対してそれを警告とし
真理を前にしてその警告を受け入れるようにされた。
7 あなたの愛する人々が助け出されるように
右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください。
8 神は聖所から宣言された
。「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。スコトの野を測量しよう。
9 ギレアドはわたしのもの マナセもわたしのもの
エフライムはわたしの頭の兜 ユダはわたしの采配
10 モアブはわたしのたらい。エドムにわたしの履物を投げ ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」
11 包囲された町に 誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは 我らと共に出陣してくださらないのか。
13 どうか我らを助け、敵からお救いください。
人間の与える救いはむなしいものです。
14 神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。
--------------------
この詩は少しわかりにくく、さらに私たちの知らない地名がいろいろと出てくるので、私たちには関係のないように思われやすいが、それだからこそ、なぜこういう詩が聖書に神の言葉として記されているのかを考えつつ読みたい。
この詩は非常に厳しい戦いの中に置かれていることが12節以降からうかがえる。個人的な苦しみを言ってる詩ではなく、イスラエル全体が危機的な状況で、敵が間近に迫ってきていて救ってくださいと必死に祈らずにはいられないような状況である。
この詩のはじめの部分には、「神が私たちを突き放された」と記されている。敵から攻撃されて滅ぼされようとしているのに、それを通常私たちが考えがちな、作戦が悪かったとかリーダーの考え方が間違っていたというように受けとっていない。
太平洋戦争でも、敗戦の要因となったのは、天皇や軍部、政治家たちなど指導的立場の人たちの判断が間違っていたからだと言われるが、それは、あの戦争のいきさつを知ればごく当然のことである。
しかし詩篇の作者においてはさらにそうした指導者たちの誤りの背後に、神が突き放されたのだ、と示されたのであった。
だからこそ神に祈っている。どうしてこのように突き放されたのかというと、この詩には書いていないが、他の多くの詩では神に信頼をしていなかったから、または他の偶像的なものに信頼していたなど、人間的なものに信頼をしているからというのがしばしば出てくる。
自分たちの国が引き裂かれ、大地を揺るがせるほどに、神が大きな力を加えて、神の民が突き放されて散らされたとある。それは確かに何らかの罪があったということは考えられる。罪の裁きということだけではなく、6節にあるようにこの非常な苦しみは警告するためだとある。神はどんなことでもできる。敵の軍隊をも命令通り動かすことができる。
自分たちが非常な苦しみを味わったのは、敵の攻撃のゆえであるが、その背後には、いっさいを見つめておられる神の許可があったのだと知らされたのである。
太平洋戦争のときには、アメリカやイギリスに対して、鬼畜米英と言うののしりを浴びせることを、国家の指導者が先導して国民に言わせるようなやりかたをしていた。
しかし、当時のそうした指導者や国民の大多数には、そうした戦争による苦難は、神が日本の罪ゆえに神があたえた大いなる試練であったという受け止め方はなかった。
この詩は、いろいろななじみのない地名などが現れ、現代の私たちには縁遠いような感じがするが、この詩の内部に込められた真理は、現代の私たちにも通じるものを持っている。
私たちもひどい苦しみに遭遇したときには、直接関係のある人間のせいにしたり、敵視したり憎んだりしがちである。
しかし、この苦しみは神が与えたことである。自分たちが罪を忘れて、自分は正しいなどと思い込むと、神はその大いなる力でもって私たちを突き放す。このようなことを学ぶために苦しい経験があると、苦しい出来事の背後に、神がおられることを思い起こすようにとさし示している。
神と自分との関係に思いを深めるとき、私たちの苦しみに関して、他人が〇〇をしたからだ、といった他人のせいにするという考え方から脱却することが可能となる。
神がいっさいの出来事の背後でおられるからこそ、そうした苦難のときにも、みずからの罪を知り、そこからどうか救ってくださいと願うのである。
そうした切実な祈りの結果はどうなるか、それが8節に記されている。これは敵が攻めてきた危機的な状況からみたら、どうも関係なさそうに見えるが、そうではない。
8,9節の地名はヨルダン川の両側にある。そこに住む民は神がしっかりとらえていると言っている。 だから敵が神の領域を侵すことはできないと言っているのである。
そして、10節は絶えずイスラエルに敵対してきた地名があがっている。エドムにわたしの履物を投げるなど、非常に特異な表現で、詩的な直感というのは独自にひらめくものなので、普通の人には思いもよらない表現で示されている。
モアブという国が敵対しょうとする武力などは、汚れたものを洗うときに使うたらいのようなもので、なんでもないものである。
同様に、エドムという国も、履物を投げるような何の力も脅威もない。長く敵対しているペリシテ国も大いなる声で威圧するだけでその力は失せるほど取るに足らないものにすぎない。
このように、追い詰められて神から見放されたような状況で必死に祈ったら、何を恐れるのか、おまえたちの住むところは全て私のもので全て守っていて、敵の力は取るに足らないということを特異な表現で言っている。
今の私たちにこのような地名を使って言われてもどうもピンとこないが、当時の人から見たら、非常に生き生きと伝わってきた。
しかし、他方では、このように神の力の大きさと敵対する勢力の力など恐れる必要はないという御声を聞いたにもかかわらず、人々はこれによってさえも十分に確信を持つことができなかった。この詩ではこのように絶えず神の声を聞きながら恐れと闘う姿がうかがえる。
しかし時が来たら最後には神の声を聞き取り、非常に厳しい現実のただ中にあっても神の声がしみ通って14節のように神への信頼をもって終わっている。
最初と最後は対照的である。絶望的な状況から、神の声を聞くということが転換点となり、様々な波、動揺もありながら、神と共に力を振るうことができ、神が悪の力を滅ぼしてくださるという確信で終わっている。
現代の私たちにおいても、数々の悪しき出来事に悩まされ、苦しめられる。神が私たちを見放したのかーと思われるほどのことが次々と起こる。
しかし、そうしたなかで神の声に聞き、あらたな力を与えられ、いかなるこの世の悪であっても、最終的には、神がそうした悪の力に勝利してくださるのを信じる道が開かれている。
私たちの敵とは、具体的な人間や組織ではなく、真実や愛を踏みにじろうとする悪しき人のうちに宿る悪そのものである。
…私たちの戦いは、血肉を相手にすることものでなく、…悪の諸霊である。(エペソ書6の12)
そのような悪そのものが滅ぼされるときには、そうした悪に動かされて悪しき言動をしている人たちも、新しい人にされる。
現代の私たちにとって、そのように祈ることが求められており、それがキリストの言われた、敵を愛し、その迫害するもののために祈れーということの意味だと知らされる。
私たちは、病気や事故、あるいは自分の罪ゆえ、また災害や事件などによって、いかにしても助けが与えられない、神が私たちを突き放し、滅ぼそうとしているのではないのかーと思われるほどのことに遭遇することがある。
はるかな昔から現代にいたるまで、そのような状況に置かれている人たちは数知れない。そのような状況にあって、いかに神に向うのかーその深い苦しみと悲しみ、あるいは絶望からの叫びと祈りがここにある。
早朝5時ころに起床して、東の空のよく見えるところへと出ていった。まだ大空は全くの闇であってそこには、満天の星があった。
やや西よりの南の空には、シリウス、プロキオン、ベテルギウス、双子座のカストルとポルックス、御者座のカペラ、牡牛座のアルデバラン、等々が、大きな円状に、目を見張るばかりに 輝いていた。
東に目を向ければ、低い東の空には、金星があり、その左上方にはアークトルス、右上方には、乙女座のスピカ、さらに右上には、しし座の一等星レグルスが輝いていた。
いまから、三七〇〇年ほども昔、神はアブラハムに語りかけた。
あなたの子孫は星のようになるーと。単にテントの中とか、日中のどこかで語りかけるのでなく、夜中にしかもテントの外に出て見よ、と言われた。
そして、見渡すかぎりの夜空に星が無数の輝きをちりばめていた。
そのようにアブラハムの子孫は無数にひろがるといわれた。しかもそれは単に数がそのように増えるというのでない。その星の輝きは永遠的であり、いかなるものによっても汚されない。人間のさまざまの思惑や思想、欲望、妬み、怒り、憎しみ、あるいは悲しみや絶望等々、あらゆる人間的なものによっていかなる変化も起こさないほどの不動の安定した輝きなのである。
そのような星々にあって、一段と早朝の東空に明けの明星たる金星の輝きがあった。
古来、この星の光の強さは広く知られていた。そしていつもは見ることはできず、特定の期間のみ現れる。明け方や夕方にしかみられない、といった特異性がある。
とくに明けの明星としての金星は、夜明け前、闇の中にあるとき一段と強い輝きで現れ、だれの目にも特別な星として感じられるであろう。
二千年前のキリスト者にとっても同じだった。苦難のなか、迫害により礼拝に集まることも困難な状況は随所に生じていったであろうが、そうした時、まだ暗いうちから集会のために足を急がせるキリスト者にとって、明けの明星の姿は、そのまま再臨のキリストとなって浮かびあがってきたのである。
私たちも、この地上には実にさまざまの、それぞれの人、家庭、そして国全体が戦争や混乱のただなかにあるところもあり、それぞれに異なる重荷があり、悲しみや苦しみがある。
そのような闇と困難のなかに、光を注いでくださるものーそれがキリストである。とくにこの世全体の悪の力を滅ぼすために来られるキリストを待ち望むのは自然のことである。
星のようにひろがるーその永遠の光をたたえて、しかもそれはかぎりなく広がって数を増していくという預言。それは彼らが与えられている信仰であり、さらに神の言葉であり、生きて働くキリストであり、うちにすみ続けるキリストであり、聖霊である。
…あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(ピリピ書2の15)
アブラハムの子孫が星のように増えるーあの星のように永遠の光を輝かせつつ、しかもふえていくという。なぜか、それは、神の言葉が彼らに宿っているからである。神の言葉は神ご自身のご意志であり、神でもあるとさえ言われている。
また、星々は万軍の主という言葉にも含まれている。万軍と訳された原語は、万象とも軍とも訳される。あの広大な夜空に無数にきらめく星々は目にみえる天使とも言われるが、それらもまた、神が悪とたたかうための戦士だとみなされているゆえに、それらの星々全体が神の軍勢なのだという考えがある。
神は夜ごとにこうした大空全体に、そのみえる戦士たちをちりばめ、人間に、壮大な神の霊的な軍を示しているといえる。
星は神秘的であり、何にも増して清い、そして永遠である。 しかしそれだけでなく、そのような星々がこの世界をつねにおびやかしている悪の力との戦いの霊的な天使であると信じることも与えられており、それは夜ごとに見る星からの意味深いメッセージともなる。
〇元旦礼拝…一月一日午前6時30分~8時。
新しい年を迎えて、ともに祈り、御言葉と聖霊を受けたいと願っています。
〇冬季聖書集会
・主催…キリスト教独立伝道会
毎年一月に、横浜市郊外の森の家にて開催されています。
以下、伝道会から送られてきた案内です。
-----------------
…イエスは言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11の25~26)
「このことを信じるか」とイエス様は問いかけます。
日々の生活が辛く、苦しくても、希望があります。寿命はせいぜい100年ですが、復活の命は永遠です。
冬期集会でみ言葉に満たされて、 復活の希望が確かなものになることを願っています。 皆様のご参加をお待ちしています。聖書を読んだことのない方も是非 誘いください。
◆日時…2018年1月6日 ( 土 ) 13 : 30 受付 14:00開 会 8 日( 月)13:00解散
◆会場 上郷(かみごう)森の家 横浜市栄区上郷町1499-1 TEL045-895-5151
◆講師 吉村孝雄氏
l945年生まれ。 1967年1冊の本からキリスト教信仰を与えられる。徳島聖書キリスト集会代表として働くが、1994年教職を辞し福音伝道に専念。「祈りの友」代表。月刊「いのちの水」誌主筆。
◆会費 大人19,000円 学生5,000円 日帰り参加1,000円/日+食事代
食事代は、昼食は800円程度、夕食は2,400円です。
参加費は、当日受付でお支払いください。
* お申し込み後のキャンセルは、後日、キャンセル料を戴きます。
・申込締切… 2017年12月16 日(土)
〇時間がとれなくて、今月の集会だよりは、「いのちの水」誌に組み込むことになりました。
〇この一年、多くの方々から、お祈りや、いろいろと協力費やお手紙その他をお送りくださいましたこと、ありがとうございました。そうしたことによって私も支えられて日曜日やその他の家庭集会、そして県外の各地での集会も与えられています。
また、そうした手紙その他に関して、返信などもできないことが多く申し訳ないことですが、おゆるしください。
〇「野の花」文集、余分を希望される方は、一冊送料込で三〇〇円です。代金は「いのちの水」誌の末尾の郵便振替、または二〇〇円以下の少額切手(古いものでも可です)でお送りください。
〇よきクリスマスと新しい年の祝福を、そしてこの闇と混乱の世界のただなかにキリストの光が射し込むようにと祈ります。
---------------------------------