いのちの水  2017年6月号 第676号

 


あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らされたが、再び命を得させてくださる。深い淵から再び引き上げて下さる。(詩篇7120より)


 

目次

 ・命の満ちている世界

恐れるな

 万物を支えるキリスト

遣わされた者の使命

苦難のただ中での祈りと救い

人は死後どうなるのか

・編集だより

お知らせ 7月の北海道、 東北、~中部地方での

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 リストボタン命が満ちている世界

 

 5月から6月にかけての山野は、一面の緑、緑…である。

 無数の木々、野草たちの一つ一つの葉のなかでは、おびただしい化学反応が行なわれ、大工場でも到底できないような複雑極まりない物質が日夜生み出されている。

 土のなかから、初々しい緑の新芽を出してくるさまざまの草、樹木の新芽、そこからぐんぐんと成長していく茎や葉、花等々、すべて葉において生産されている。

 葉は静かなる命の大工場なのである。

 そして、そうした植物たちに耳を傾けるとき、それらが、みな いのち、いのち、いのち!と 喜びの叫びをあげているのを聞く思いだ。

 他方、この世は、至るところで苦しみや苦しみがあり、死の闇はすべての人に迫っている。

 しかし、そのようなただなかで、聖書は全体として、命、命、とわたしたちに語り続けている。

 

…園の中央には、命の木があった。(創世記2章9)

 

…御言葉を愛し、昼も夜も心に抱き続ける人は、

流れのほとりに植えられた木のようだ。葉もしおれず、時がくれば実を結ぶ。(詩篇1の2~3)

 

…主はわが牧者。主は私を緑の牧場に、憩いのみぎわに伴い、

魂を生き返らせてくださる。          (詩篇23の1~3より)

 

…これらのことが書かれたのは、イエスを神の子と信じて、命を受けるためである。

           (ヨハネ2031より)

 

 主よ、あなたのその永遠の命をこの世界に、人々に与えてください。


 

リストボタン恐れるな

 

 人間は常に何かを恐れている。子供から大人、死の近い病人、また貧しい人も金持ちも、そして大きな権力を持つ国家元首のような人たちもー。

 子供のときなら、友だちにいじめられるのでないか、目的の学校、会社に入れるのか、勉強がついていけるのか、あるいは、大人になっても、自分が誰かから悪く言われるのでないか、 病気を持っているときには、もっと重くなってさらなる苦しに向うのでないか、また、家族間の不和があれば、これからどうなるのかこれから老年になってどうなるのか、老年になって孤独や死が近くなるとどうなるのだろうかー等々。

 そして、社会的地位が高くなるほど、ひと言の発言の際にも恐れつつ言わねばならなくなる。たちまち日本中、あるいは世界を駆けめぐるからである。

 そのうえに、地震や津波などの自然災害、交通事故、温暖化やさまざまの環境汚染、人工知能や遺伝子操作など科学技術の発展によって何が起こるのかへの恐れ、そして核武装する国の増大、原発の事故など、個人的な小さなことから、世界全体の状況やはるかな未来に至るまで、何らかの恐れはつきまとう。

 こうしたありとあらゆる恐れに対処する道など、だれも考えつくことはできない。

 それは、こうした人間のかかわることは、何が起こるのか予測も着かないからである。自分は何も恐れることなどない、と言うような人こそ、他者から見下されたり、自分の罪、失敗のゆえに深刻な事態が生じたとか、さき程あげたようなことが生じるとき、たちまち人間への不安、恐れが生まれるであろう。

 このように人間はいかなる状況にあっても、裕福な人であっても健康そのものであっても、内なる秘かな恐れを持っている。

 そうした恐れがある限り、深い喜び、真実さ、清い心等々は生まれない。

 それゆえに、聖書はその最初から、「恐れるな!」という語りかけが繰り返し記されているのである。

 

 … わたしは主、あなたの神。

あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。(イザヤ書 4113

 家族や親族、あるいは医者などもどうすることもできないそれぞれの人に生じる恐れ、それはここにある預言者の言葉のように、神が私たちの右の手をしっかり握って、「恐れるな…!」と言ってくださるのを聞き取るときに、初めて本当の意味で恐れないようになる。 昔の厳しい迫害の時代、拷問を受け、とりかえしのつかない状態になることもあったり、ついには殺されることになろうとも、それでも恐れずに、キリスト者であると言い続けた人たち。

 それは、彼らの魂の深いところに、この御声ー恐れるな。私はあなたを助けるのだ! を聞き取ったからであったろう。

 それとともに聖霊が与えられ、死をも越える力となったのである。

 

… 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。(イザヤ書354  

 

 人間にとっての最大問題は、悪の力がどこまでも人間に入り込んでくるということである。子供のときから、大人、死の近い人、また学問や教養の有無にかかわらず、悪の力はどのようなところにも入っていく。地位や能力が高くとも、また人生経験を多く重ねてもなお、悪の力が入り込むのを防ぐことはできない。

 自分中心、愛のなさ、正義にむかって踏み出すことのできないー等々はみな悪の力が私たちのうちに入りこんでいるからである。

 それを聖書においては、罪 と言っている。

 しかし、そうした悪の力(罪の力)を討ち滅ぼし、私たちを救ってくださるときが来る。

 それゆえに、恐れるな! と力強く私たちに語りかけてくださっている。

 最終的には、キリストの再臨ということによって、最終的に悪が滅ぼされ、あなた方(信じる者)を救うー神を信じるものたちの最終的な救いが完成される。

 

 …ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。

恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ書431

 

 この箇所で、ヤコブとかイスラエルと言われているのは、現代のイスラエル国家を指しているのではもちろんない。

 イスラエルとは、アブラハムの孫であるヤコブの別名であり、ここでは、神に招かれ、神に選ばれた民(神の民)を意味している。

 それゆえに、現代の私たちにおいては、神(キリスト)を信じる人々として受けとることができる。

 私たちを創造してくださった神は、私たちを贖ってくださる。私たちは弱く醜いーそれにもかかわらず、その罪を赦し、私たちをその罪の力から買い戻してくださる。信じる者たちは、神のものとされ、神は、私たちにつねに語りかけてくださる。そこに、永遠に失われることなき深い関わりが与えられる。

 「恐れるな 」という表現は、新旧約聖書で80回以上もあらわれるほど、このはげましの言葉は、繰り返し神から私たちに投げかけられていると言える。

 そしてこの神からの励ましを、積極的な表現に言い換えるとき、それは、つぎのような表現になる。

 

わが愛に居れ!

        (ヨハネ福音書15の9)

 キリストの愛のうちにとどまるとき、私たちの内から自然と恐れは消えていくからである。

 


リストボタン万物を支えるキリスト

 

 キリストがいかなる御方であるかは、通常の偉人伝などからは到底わからない。

 聖書は、そのことについて最も深く記している。その愛や真実、力、清い本質等々、福音書には随所にそのことが記されている。

 そして、キリストの絶大な存在たることを、宇宙的な広大さを含めて記しているのが、ヨハネ福音書である。

 

…初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書1の1~4)

 

 ヨハネ福音書新約聖書におさめられた4つの福音書のうち、最後に書かれた福音書であり、どの福音書にも書かれていないことをとくに深く記している。その表現も内容も、ほかの三つの福音書とはかなり異なる。

 その深い祈りと聖霊に導かれて記されている福音書の最初におかれたこの内容は、それだけに特に重要だと神から啓示されたのがうかがえる。

 ここで「言」と訳された原語は ロゴス であり、ギリシャ語では、理性、言葉、法則、原理等々多くの意味を持っている。すでにギリシャの哲学者のヘラクレイトスは、ロゴスが万物の生成を支配する永遠の法であるとしている。

 ヨハネ福音書の最初のロゴスがキリストである、というのは、こうしたギリシャ哲学で言われていたロゴスが、実はキリストであるーと言おうとしているのがうかがえる。

 まだ本当の神を知らなかったギリシャの哲学者たちが探求して、ロゴスこそは、宇宙を整えているとしたが、キリストはそうしたロゴス論議の内容もすべて持っている存在であると言おうとしている。

 そして、旧約聖書の最初から、神の言葉によって光も宇宙も全世界も創造されたことから、神の言の絶大な力をも有する御方ということで、キリストのことをロゴス、すなわち、神の言葉そのものでもあるといおうとしているのである。

 

…御子(キリスト)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられるが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれた。(ヘブル書1の3)

 

 キリスト者もふつうは、万物を創造し、いまも支えているのは、神だと信じている。しかし、ヘブル書やヨハネ福音書、パウロ書簡(コロサイの信徒への手紙)などにおいては、キリストも神と一つであるゆえに、天地創造をもされと記され、ヘブル書などでは、現在もキリストがこの世界を支えていると言われている。

 

…天地にあるもの、見えるものも見えないものも、…万物は御子によって造られた。万物は御子により、御子のために造られた。

 御子はすべてのものより先におられ、すべてのものは、御子によって支えられている。(コロサイ書1の15~17)

 

 それほど、キリストという存在は、大いなる存在であったのがわかる。 そうした神に等しき存在であるというのは思索や知識の結果ではなく、聖霊の導きによって示されたのである。

 このように絶大なる存在だからこそ、私たちはキリストに全面的に信頼していきることができる。

 


 

リストボタン遣わされた者たちの使命ー漁師のように集める

 

 主イエスが多くの人たちのなかから、特に12人を選んだ。そのうちには、漁師が4人ほども含まれていた。

 現在では、古代よりはるかに多くの職業があるが、それにしても当時もいろいろな職業があったと思われるのに、とくに漁師を多く選んだことが意外に思える。

 それは、主イエスご自身が言われたように、「人間をとる漁師にしよう」(マタイ419) ということと関係がある。

 人間をとるーなどという表現は、現代の私たちは何となく違和感がある。

 しかし、イエスはこの表現に深い霊的な意味を込められたのである。海などに広くちらばって泳いでいる魚を網でとる、漁師のもとに集める。

 そのように、迷える羊のように、ばらばらに生きている人間を集めて、キリストのもとに連れて行く、そして一つのからだとする。

 そして、罪からの救いのために来られたイエスを指し示し、特定の王とか有名人、思想家等々でなく、地上に現れた御方で唯一完全な愛と力を持たれていたキリストのもとに集めるという重要なはたらきを含ませている。

 過去二千年という長い間、キリストからの導きを受けてこの世につかわされた人たち(*)は、みなキリストのもとに集めようとしてきたし、事実、無数の人たちが世界中で、キリストのもとに、さまざまの遣わされた人たちによってキリストの十字架のもとへと集められてきたのである。

 

*)使徒と訳されているが、これも日本語訳以前に成立した中国語訳聖書でこの訳語が採用されたのをそのまま日本語訳でも用いている。この原語は、アポストロスであり、アポステローとは、遣わす、というごく普通の言葉である。アポ は、「離れて」を意味する接頭語、ステローとは、「置く」、それゆえアポステローは、離れたところに置く、派遣する、送り出すというような意味で、これも物を送る、家畜や人を送るなど、ごく普通のことに用いる。それゆえ、その名詞形である アポストロスは、送り出された者という意味で、12使徒以外に、各地に活けるキリストにうながされて福音を伝えた人たちにも用いられる。(ローマ167

 

 地上におられたときのイエスは、異邦人やサマリア人のところには行くな、失われたユダヤ人のところに行けーと命じられた。そしてご自身も、カナン(フェニキア)の女に対して「私はイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない。」(マタイ1524)と言われた。

 しかし、復活されたキリスト(聖霊となられたキリスト)は、全世界に宣べ伝えるようにと言われた。

 

…主は言われた。「行け。あの者(パウロ)は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。(使徒915

 

…主は言われた。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』(同2221

 

 このように、パウロには、はっきりと異邦人への伝道が中心的使命であることが記されている。

 このように、同じキリストであっても、生前のキリストと、聖霊となったキリストとは言われることにおいて、表面的には異なると見える場合がある。

 キリストとは、地上にて30年余り生活されていたときのキリストと、十字架での処刑後に復活したキリストがある。

 霊的なキリストとなられたとき、神と同じとなり、もはや喉が渇くこともなく、口から入る食物も不要となり、瞬時にどこにでも行くことができ、すべてを見ることができ、神と同じく万物を支える御方でもある。

 イエスは、ユダヤ人のなかの失われた羊に対して遣わされていると言われた。失われた羊とは何か。

 イエスが言われたのは、とくに重い病気、しかも人々から見放され、差別され、絶望的状態にあるハンセン病(らい病)のような人たち、また目が見えないゆえに、まったく無能だと見なされ、路傍で乞食をすることしかできない、という文字通りの暗黒に住む人たち、耳が聞こえず言葉も出せないゆえに、人間の顔をした動物のようにみなされて、単純な肉体労働だけにこき使われる人たち、貧しく差別されたひとたち…等々の最も暗く悲しみや苦しみに満ちた生活を送り、ただ何とか生きているだけだーといったような人たちを特別に対象とされていた。

 それは、イエスがどのような人たちのところに出かけられたかを見るとわかることである。

 他方、そうした現実の生活で生きることの困難に日々さらされている人たちー貧しく、悲しみや食物すら満足に得られない人たちだけでなく、より霊的に見るときには、人間はすべて失われた羊である。

 主イエスは、「大勢の群衆が、飼うもののない羊のようであるので、深く憐れんだ」(マルコ634)と記されているように、本来人間はすべて飼う者のない、失われた羊なのであり、そうした人間全体に深い憐れみを持っておられた。

 人間がみな失われた存在であることは、すでに次のように詩篇でも二つの詩で繰り返し言われ、パウロもロマ書のなかで、人間の救いに関しての啓示を述べる出発点として人間の深い罪を指摘するために引用している。人間はそのような失われた羊の状態であるからこそ、そこからの救いが必要なのである。

 

…だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。(詩編 143534

 

 このように、深い心の奥まで見る能力があるなら、人間は神の完全な正義や愛などから限りなく遠いところにあるのが示される。

 だからこそ、私たちは救われる必要があり、そのために、まず12弟子たちを選び、キリストのもとに集めることを仕事とするに至ったのであった。

 


 

リストボタン苦難のただなかでの祈りと救いー 詩篇55

 

神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。

嘆き求めるわたしから隠れないでください。

 わたしに耳を傾け、答えてください。

わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。

 敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。(1~4節)

彼らはわたしに災いをふりかからせようとし

憤って襲いかかります。

 胸の中で心はもだえ 

わたしは死の恐怖に襲われています。…

 

「鳩の翼がわたしにあれば  飛び去って、宿を求め

 はるかに遠く逃れて  荒れ野で夜を過ごすことができるのに。

 烈しい風と嵐を避け  急いで身を隠すことができるのに。」(7~9

 主よ、彼らを絶やしてください。彼らの舌は分裂を引き起こしています。(10)…

 

 わたしを嘲る者が敵であれば  それに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば  彼を避けて隠れもしよう。

 だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。

 楽しく、親しく交わり  神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。(1415

 

 この詩は、死の恐怖に襲われているというほど、敵対する人が迫ってきており、嘆きと苦しみのただなかに置かれている。そのような耐えがたい状況にあって、助けをも求める祈りを聞いてくださいーと全身の力をこめて祈る。そしてそこに、主の助けが与えられ、死の苦しみであってもその重荷を主に委ねることができる恵みをじっさいに体験する。

 この詩の作者ーダビデとされているーに敵対する人は何者かというと、1415節にあるように、以前は親しく交わった友であった。

 同じパンを共にするという言い方があるが、ここでは、神殿の群衆の中を共に行き来したとあるように、神を礼拝するために共に神殿にも行っていた親しい間柄であった。 かつては親しかった人が、ここまでも変わる、裏切りがあったというわけである。このような状況に対して、この詩の作者は神に叫んで助けを求めている。

 仲間だった人が敵になるということは、日本でも古代からしばしば生じたこととして伝えられている。大河ドラマにもそうした出来事がみられる。たとえ肉親であっても、激しい敵になるということがあった。しかし、これは特定の時代に限ったことではない。

 現代の私たちにもこのようなことは起こり得る。そうしたときに動揺したり、憎しみに燃えたりすることのないように、人間は突然に変わってしまうというのを、この詩を通して知っておくことができる。

 信仰の世界でもそうで、神やキリストを信じていると言っていた人が、イエスに対して裏切り行為をするということが実際にある。かつてキリシタンの中でも、相当なキリスト教の迫害にもかかわらず、信仰を守った人が、とらえられて牢獄の中で全く変わってしまって、今度はキリスト教を攻撃するよう、幕府の指示で、信仰を持っている人がどこにいるかなどを密告したり、手先になってキリスト教迫害を手引きするようになった人も実際にいる。

 詩篇の中にも同様なことが言われている。

 

…わたしの信頼していた仲間

わたしのパンを食べる者が威張って

わたしを足げにする (詩篇41編)

 

 このように、人間は、考えられないような豹変ぶりを示すときがある。詩篇はしばしば預言になっている。詩篇は、人間の苦しみや叫びが詩で表現されているのに、なぜ神の言葉と言えるのか。

 それは人間を通して、神が未来に起こそうとしていることや、永遠の真理を告げているからである。このように人間はどんなに親しくても考えられないくらい変貌することがあるからこそ、人間でなく神に頼れということを、この詩を通して預言し、また警告している。

 人間のつくった詩でありながら、それは神によって動かされて記した内容であり、永遠的な真理がある。それゆえに神の言葉と言うことができるのである。

 この親しい仲間の裏切りということーこれがとくに重要な問題となったのが、新約聖書におけるキリストの例である。

「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった。」(ヨハネ十三・18

 この言葉は、詩篇の41編から引用されていて、詩篇の言葉が、預言にもなっているのがわかる。

 

「鳩の翼がわたしにあれば  飛び去って、宿を求め

 はるかに遠く逃れて  荒れ野で夜を過ごすことができるのに。(7~8節)

 烈しい風と嵐を避け  急いで身を隠すことができるのに。」

 

 翼があったらこの世の中から飛び去っていきたいと思ったことがある人も多いだろう

 旧約聖書にあらわれる重要な人物、エリヤは力ある預言者で神に支えられていた人であるが、そんな彼にも大きな動揺が生じた。王妃の悪魔のような、激しい敵意によって 遠いベエル・シェバという砂漠地帯にあるオアシスにまで、逃げていった。灼熱の暑さと水もないところに入れば、確実に死ぬ。そしてもう死にたいと言った。

 このように、エリヤのような信仰の厚い人、神に用いられた人でも、時として非常な動揺と恐れに襲われることがある。

 この詩の作者は、大いなる苦しみや動揺のなか、何とかして踏ん張ろうと祈るわけだが、ここの祈りが旧約聖書の状況をよく表している。

 10節にあるように、「彼らを絶やしてください。」さらに最後にも、「滅びの穴に追い落としてください。」と激しい言葉も出されている。

 今から数千年も昔のことであり、神を信じて歩もうとしている自分を理由なく攻撃し、苦しめ、裏切りを働くようなものは滅ぼしてくださいーというのは自然な感情であっただろう。

 しかし、敵に対する心のあり方ーこの点が新約聖書で大きく変わったところである。

 

「隣人を愛し、敵を憎めと言われてきたが、

わたしはこう言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ五・43

 

 キリスト教の本当の力は、敵対する者でも愛して、心からその人が良くなることができるように祈ることができるようにまで導かれるということである。そしてそのように求める者には、そのための力も与えられる。

 キリスト者が悪に勝利してきたのはこうした神の愛の力によるのであって武力によってではない。

 武力や権力、脅迫、テロリズムなどの力によっては、いかにしても愛の力は打ち壊すことができない。武力は、それよりもさらに勝る武力があれば、簡単に打ち壊すことができる。

 しかしイエスが言われた思い、敵のために祈るほどの強い神の心を与えられたら、どうしてもそのような心を滅ぼすことができない。ある意味で一番強力なものを、憎しみよりもはるかに強いものを与えてくださった。憎しみは非常に強そうに思うかもしれないが、ある意味非常にもろく、その人自身を蝕んでいく。

 

…わたしは神を呼ぶ。

主はわたしを救ってくださる。

夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。

神はわたしの声を聞いてくださる。(17~18節)

闘いを挑む多くの者のただ中から 

わたしの魂を贖い出し、

平和に守ってくださる。

神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。

神はいにしえからいまし

変わることはない。

その神を畏れることなく

彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。…

 

あなたの重荷を主にゆだねよ 

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え 

とこしえに動揺しないように計らってくださる。…(19~23)

 

 夜も朝も昼も神に叫ぶ。その中から確かに聞いてくださって、贖いだしてくださった。悪意、敵意、攻撃からどうしても出られないけれど、神がそこから贖いだしてくださる。死の恐怖の中でも、確かに必死に叫ぶ声を聞いてくださる。このような経験をこの詩の作者は与えられた。

 信仰を持たない場合は、とにかく逃げたいという気持ちから、酒や薬に頼ったり、自ら命を絶つこともある。そして敵を憎む。

 しかし一番良い道というのは神に向って叫ぶこと、神を呼ぶことである。それは祈りである。

 この詩の中にはこの三つの道(逃げる、憎む、神に祈る)が書かれている。クリスチャンでもうっかりしたら、二つ目の道ー憎しみや赦さないーという心に留まってしまい、あんなに悪い人どうにかしてくださいと、人間的な感情になることもある。古い人間が残っているほど、このような感情が出てくる。

 三つ目は、神に祈る道である。敵の力のただなかに置かれていても、敵の牙や毒が刺さらないで、攻撃にさらされるただ中から引き出してくださり、神の愛のうちにおいていただける。

 そうすると敵対するもののただ中でいるにもかかわらず、憎しみが生まれず、その中に、主の平安を与えてくださる。ことは本当に大きな恵である。それがなければ、相手をどうにかしてください、滅ぼしてくださいと、憎しみや攻撃心、敵対心がでてくる。 これに似たことが詩篇23篇にも記されている。

 

…私の敵を前にしても、

あなたは私に食卓を整えてくださる。

私の頭に香油を注ぎ

私の杯をあふれさせてくださる。(詩篇23の5)

 

 敵対する者を前にしていても、なお、神は、霊的な食物ーすなわち力や平安を注ぎ、霊の賜物をあふれるほどに与えてくださる、というのである。

 これは実に、奥深い霊的体験であり、またいかなる厳しい状況にあってもなお、神は私たちにその厳しい状況に呑み込まれてしまわない力を与えてくださり、しかも魂に喜びと満ち足りた平安を与えてくださる。

 これは、人間が導かれうるもっとも高い状態を指し示す内容となっている。 

 このような境地は、使徒パウロが言う、「いつも喜べ、常に感謝せよ、すべてのことについて祈れ」という言葉の指し示すところと共通したものがある。

 言うことや外面的なことは穏やかに見えても、心には剣を持っているということがある。人間は本質的にこのようなところがあり、それが罪である。 怒りや心が不安定など、ふとしたときに目には見えない剣が抜かれることがある。

 こうした人間のうちに内在する罪の力、闇の力に勝利し、これらのことを超えて、この作者は深い平安を得るという経験を与えられた。

 そこから、神への深い信頼こそが、こうした境地に導かれるために不可欠なのがわかる。

 それゆえに他者に対して「あなたの重荷を主にゆだねよ」と、語りかけることができる。これは頭で考えたり、他人からの受け売りなどでなく、みずからの主と結びついてなされた経験を通して言っている。

 朝も昼も夜も、神に信頼して、この重荷をどうか軽くしてくださいと主にゆだねるならば、必ず支えてくださる。

 

…すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。

 あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11の28)

 

 このキリストの言葉ーこれが広く知られる言葉となったのは、この御言葉が確かな事実であることが無数の人々の経験するところとなってきたからである。

 どこにも持っていきようのない心の重荷、それを委ねる唯一の場所がある。それが、キリストのもとである。

 


 

リストボタン人が死んだ後、どうなるのか

 

  だれもが必ず向っているものとは何か。

 それは、「死」ということである。死んだらいわば眠った状態となって、終わりのラッパが響いたときに、復活するという箇所がある。(Ⅰコリント155152

 

 この箇所をとくに重んじる人は、死んだらそのまま何も反応もない状態となって土の中で眠っているというようなことを言う人もいるが、土のなかにそのまま放置しておけば、次第に風化して長い時間ののちには、跡形もなくなくなってしまう。それは、人間なら体重の6割前後を構成している水分は、小さな昆虫や土中生物に食べられたりしてそれらのなかに取り込まれ、また大気中に蒸発、あるいは土のなかにしみ込む。

 またタンパク質や脂質などは、土中の生物、細菌類によって食べられ、気体となって空中に飛散し、あるいは、別の生物の体を構成する材料となる。骨などもその成分は、雨水に含まれる炭酸や、土中にあるさまざまの化学物質と反応して土中に溶け込み、消え失せていく。

 無数の人間が、過去に死んで骨も埋められたが、ほとんどすべてそのような過去の人間の骨などは見つからないのはこうした理由による。特別な乾燥したところとか雨水の混入などがないような容器に入っていたような稀な場合にかなり古い時代の骨などが見いだされたりするがそれは特別な例にすぎない。

 このように、死んで土中に埋められたなら、長い年月のうちには、人間の体を構成していた成分は、大気や大地、あるいは川や海などのなかに拡散し、あるいは、動植物のなかに取り込まれていくのである。

 そして死体そのものは、全く跡形もなく消えてしまうのであって、土のなかに眠っているなどということではない。

 死者の体はそのように地上に拡散していくのであるが、それがすべてなのか。もし死者の魂や霊というのもが死んだら完全になくなるのであれば、死者は、物質的にも、霊的にも消滅するということになる。

 一般的に死んだら、無になってしまうということはこうしたことから来ている。

 しかし、無になるのでなく、何らかの目に見えない存在として存在し、人間にかかわってくるーというのは、おそらくたいていの民族が古代から信じていたことである。

 幽霊とか亡霊等々はそうしたものである。恨みや怒り、悲しみをもって死んだ人ー災害や事故、殺害などされた人はとくに、死んでも消えてしまったのでなく、何らかの目に見えない存在ー怨霊(おんりょう)、あるいは幽霊のようなものとなって生きているものにたたりをもたらすと信じられていた。そのような死者の霊を慰め、またその怒りや乱暴狼藉を抑えるために、鎮魂ー怨みを持った霊(怨霊)を鎮めるーことが行なわれてきた。

 体は死んでも、魂(霊)は、残る、というのは、このような意味で、ギリシャ哲学に固有のことではなく、世界のたいていの国々で、これに類することが信じられてきた。

 

 人間が死んだら、キリストの再臨まで「眠った状態」であり、再臨によって初めて復活すると言われることがあるが、すでに述べたように、眠っているなどというのは、死んで無になっているということを言い換えただけである。

 空気中や土あるいは、川や海等々の中に分子やイオンなどとなり、拡散していったものを、死者が眠っているなどということはありえない。そうした科学的事実を知らなかった古代の人たちが、死を婉曲に表現するために「眠っている」と言っていたのである。

 そうした無に等しいどこにも存在していなかったものが、キリストの再臨のとき、最後のラッパとともに、よみがえるーというように言われることがある。

 この点に関して キリスト教ではどうか。生きている人が死者の供養をしなければ、災厄が起こるなどという考え方は全くない。

 旧約聖書の世界では、人が死んだら、シェオール(ヘブル語)といわれる暗い世界に行くとみなされていた。しかし、一部の預言書(エゼキエル書、ダニエル書)や詩篇、詩的著述(ヨブ記)などには、死者からの復活ということが記されるようになっていく。(*

 

*)旧約聖書では、次のような箇所で復活に関することが記されている。

①主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。(詩篇303

 

②あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。(詩篇1610

 

③こうして人にその悪しきわざを離れさせ、高ぶりを人から除き、その魂を守って、墓に至らせず、その命を守って、つるぎに滅びないようにされる。(ヨブ記331718

 

④あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。(イザヤ書2619

 

⑤見よ、私はあなた方の中に霊を吹き込む。そうすれば、あなた方は生き返る。…霊よ、四方から吹き来れ。これらの殺されたものの上に吹きつけよ、そうすれば、彼らは生き返る。(エゼキエル書37510より)

 

⑥その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。

多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。

目覚めた人々は大空の光りのように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書1213

 

⑦…拷問にかけられて息を引き取るまぎわに、彼は言った。「邪悪な者よ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王(神)は、律法を守ったがゆえに死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ。」(旧約聖書続編 マカバイ記Ⅱ79。マカバイ書とはキリスト以前の170年ころにアンティオコス・エピファネス四世の激しい迫害にあった時代に書かれた書。旧約聖書続編(アポクリファ)とは、旧約から新約の時代に至る四百年ほど期間の歴史を知るためには不可欠の書。)

 

 このように、復活に関して旧約聖書の最初の創世記、出エジプト記、申命記等々には、記述がみられないが、後の書物には神からのより深い啓示がなされ、死にうち勝つ力が示されていく。

 こうした経過を通ってキリストの時代となった。

 キリストは復活に関してどのように言われただろうか。

  ある重い犯罪人が、イエスとともに並んで十字架で処刑されるとき、イエスの復活を信じて、殺されても神の国に行くことを信じていた。そして、その罪人は、私を思い出してください、とイエスに願った。ただそれだけで主イエスは、あなたは今日、パラダイスにいる、と言われた。

 

 …十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

 するとイエスは、「私は真実を言う。あなたは今日わたしと一緒にパラダイス(楽園)にいる」(*)と言われた。(ルカ2343

 

*)パラダイス という原語(paradeisos)は、新約聖書で右の箇所以外には、あと2回あらわれる。

・ 私は、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っている。(Ⅱコリント124

・勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。(黙示録27より)

 

 パウロは、パラダイスに引き上げられたというのは、彼が特別に霊的に引き上げられ、第三の天に引き上げられたことを言い換えたものである。そこでは言葉では表現できない深い霊的な言葉を聞いたという。

 また、黙示録の箇所は、この世にて霊的な勝利を与えられた者が導かれる完全な場所を意味している。

 いずれにしても、パラダイスにイエスとともにいる、と約束されたのは、パウロがロマ書で述べたように、死後もキリストとともにいることを示すものである。

 そしてこうした箇所も、十字架の重い犯罪人が処刑されてそのまま無になってしまったのでなく、イエスとともに霊的な高い場所に導かれたことを意味している。

 

 さらに、イエスご自身、体を殺しても、魂は生きていることを次のように言われた。

 

…体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。

むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ1028

 

 また、黙示録にも次のように記されている。

 

…小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。(黙示録69

 

 「肉体と魂の二元論はギリシャ哲学の思想であって、キリスト教とは違う」と言われたりするが、聖書はそのような単純な図式では説明できない広がりと奥行きを持った書である。

 

・また、主イエスご自身、殺されて三日目に復活し、40日は地上で語られ、その後天に引き上げられたとある。そしてステパノが見たように、天において神とキリストがともにおられるのを見た。

 キリストは、復活したことを、目で見えるかたちで表すために、一時的に体においても復活された。しかし、それは一時的であって、その後は、天(霊の世界)において神とともにおられる。

 

 さらに、復活に関しては、イエスの深い霊的洞察によって、旧約聖書の預言書たちにも啓示されていなかったことを初めて示された。それは、アブラハムやイサク、ヤコブといった旧約聖書の信仰者たちについても、死んで葬られた、先祖の列に加えられた、といった単純な記述のみで、死後どうなった、どんなところに行ったという説明などはみられない。死後の世界は、シェオール(ヘブル語)と言われて光なきところといった漠然とした記述にとどまっている。

 

 しかし、イエスは、次のように、アブラハムやイサク、ヤコブたちが死んで、生きていないのなら、神がモーセに対して、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』というように言われることはないと教えられた。

 

…死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイ223132

 

 律法学者たちは、モーセ律法には、死者の復活などどこにも書いてないとして、死者の復活を否定していた。そのようなユダヤ人たちに対して、主イエスは誰も考えたことのない独自の内容を神からの啓示によって語られたのである。

 もし、アブラハムやイサク、ヤコブたちがまったく死んで無になっているのなら、神がアブラハムの神ーということはあり得ない。それは、神は、石ころの神、鉄の塊の神…などというように無意味である。

 アブラハムやイサクなどが神のうちにあって生きているからこそ、神はこのような表現をされたのである。

 このように、イエスは、アブラハムやイサクなどが神との結びつきのなかで生きているーとイエスは言われた。この記述は、マルコ、マタイ、ルカの三つの福音書にすべて記されていることからみても、とくに重要とされていたのがうかがえる。

 このように過去に死んだと思われていた人が、じつは生きているーということについて、主イエスは、誰も考えたことのない視点で答えられた。それは神と完全な結びつきを与えられていて、主イエスが語ること、なすことはすべて神から言われるままになす、といわれたことからもわかるが、神の究極的真理が啓示されていた御方であったからである。

 神と結びついて生きた人は、死んで無になってしまうことはなく、いまも生きているのだということである。

 このことに関連して、エリヤやモーセといった重要な人物もまた、死んで無になっていたとか無意識の状態になっていたのでなく、主にあって生きていたのを示しているのが次の箇所である。

 

…六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。(マタイ1713

 

 モーセとエリヤはすでにはるか昔に死んだ人である。しかし、その存在は無になって消えてしまっている、あるいは、全く死んで何の反応もないままの状態でなく、霊的に著しく高く引き上げられたイエスと語り合っていたというほどに、天使のごとき存在となって生きていることを示している。

 

 パウロ書簡においても、次のように、死後すぐにキリストと共にいることを示す箇所がある。

 

… 私の願いはこの世を去ってキリストと共にいることであり、実はその方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることはあなた方のためにはさらに必要である。(フィリピ書12324より)

 

 ここでは、この世を去るー死んでキリストと共にいる、ということがごく自然に語られている。死んで世の終わりまで無の状態であるーということはこの文面からは考えられない。

 さらに、パウロの主著たるローマの信徒への手紙のクライマックスといわれる箇所に次のような内容が記されている。

 

…わたしは確信しています。

 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。(ローマの信徒への手紙83839

 

 この世に存在するさまざまの力を述べるさい、最初に死の力をあげたうえで、現在、未来にわたっていかなる権力や暴力、あるいは災害等々も、キリストによって示された神の愛から引き離すことはできない、神の愛、キリストの愛の計り知れない強固さを示したのがこの箇所である。

 死によって、神とキリストの愛から引き離されることはないーこれは、死んでも神(キリスト)の愛のうちにあるということである。そして活ける神の本質たるその愛と固く結ばれている魂が、無の状態であるということは考えられない。

 ヨハネによる福音書においては、私を信じるものは、死んでも死なない。と生死の断絶は克服されたと言われている。

 このことは、死んだら、まったく無の状態になり、最後の審判のときにラッパの音とともに初めて復活するーということとは大きく異なっている。

 

…はっきり言っておく。(*)わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ52425

 

*)新共同訳だけが、「はっきり言っておく」と訳しているが、原文は、「アーメーン、アーメーン レゴー ヒューミーン」である。アーメーンとは、真実、真理を意味するので、英訳はほとんど 真理、真実に という意味で訳している。 In all truth I tell you, New Jerusalem Bible

I tell you the truthNew International Version

 なお、独仏他の外国語訳もほぼ同様で、「真実に」という訳語を用いているか、原語のamen をそのまま用いている。 ・文語訳、新改訳は原文の意味を汲んで「まことに、まことに」と訳している。

「はっきり」 というのは、曖昧というのと逆で、明瞭性をあらわし、子供が口をもごもごさせて答えようとすると、はっきり言いなさい、というのであって、真実とか真理とかとは本来関わりのない言葉である。主イエスが繰り返し用いているこのアーメーンは、真実を込めて、真理を語られたのであって、単にはっきりと言ったのではない。

 

 ここで、主イエスは、イエスの言葉を聞いて信じるだけで、永遠の命が与えられること、すでに死から命へと移されていることを真理として強調されたのがわかる。霊的に死んだ状態の者であっても、キリストの声を聞いて信じるだけで、生きる、というのである。

 このことにさらに念を押すように、繰り返し強調して表現を変えて述べているのが次の箇所である。

 

… イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ112326

 

 ここでは、マルタが、当時の人たちの信仰ーすなわち、世の終わりに復活するということは知っていると言っているが、イエスはそれを訂正して、終りの日になって初めて復活するのでなく、今イエスを神の子であり、神と等しい御方であると信じるだけで、死んでも生きる、決して死ぬことはない、と二重に述べて強調された。

 そしてイエスは、このことを信じるかーとマルタに問いかけた。マルタはただちに、信じますと答えている。

 これは、死からの復活について、キリストによる新しい時代を明確に示す箇所である。

 人間が死んで、肉体は大地や空中等々に飛散して消滅し、さらに霊的なものも死んだ状態となってしまうーそして世の終わりに初めて復活するーこのような信仰とは異なるゆえに、キリストも「このことを信じるか」と問われたし、現代の私たちにも向けられている問いかけである。

 生きているときに、キリストを信じるだけで、私たちは永遠の命が与えられ、死の力から解き放たれる。

 そのことの重要性ゆえに、ヨハネ福音書では、その最後の部分に総結論として次のように記されている。

 

…これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ2031

 

 ここで、命とは、永遠の命のことであり、それは神の命を言い換えたものである。

 そして神がもっておられる命とは、あらゆる力ー愛や真実、清らかさ、英知、永遠性等々、いっさいのよきものを兼ね備えた命である。

 そのことは、パウロ書簡においても次のように記されている。

 

…キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。

         (フィリピ書321

 

 キリストの栄光のからだーそれは、ヨハネが述べている永遠の命を与えられた体を意味している。

 このように、私たちは、死んだらどうなるのか、ということについて、これらの聖書の箇所によって、キリストを信じるだけで、すでに地上において永遠の命を与えられ、死の力から解き放たれたものとされるゆえ、死後もそのキリストの命にあふれたものとされ、「キリストと共にいる」(フィリピ書123)のだと、信じることができる。

 


 

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〇種まきのこと

 「種まきとその祝福」の短文を読ませていただきました。

表紙の大分県の秋月様が描かれた「種まきの絵」もあらためて見なおしました。

「種とは福音であり、聖書の言葉でありそれらを生み出されたキリストである。」とありましたが、私には、いつ、どこで神様が種をまいて育ててくださるのかわかりませんが、落ち着いて自分の足跡を振り返ってみると、そのことが分かります。

 私が中学生のころ、ある夜、同じ市内に住む父の先輩のクリスチャンが、わが家へ来られて、種まきの話をされました。種まきをして様々な場所に落ちた種が、枯れてしまったり、いろいろな育ち方があって、あたり前の事であるので、何が重要なのかさっぱりわかりませんでした。

 しかし「種まきの話し」そのものと話された人の優しいまなざし、人柄の印象は非常に鮮明に覚えております。その後年を重ねて大人になり、中学生の時に受けた最初の種まきが単なる偶然ではなく、神様がその方を通して蒔かれたのだとはっきりとわかるようになりました。

 「種まきは、誰でも可能」である。「私たちの毎日が種まき」となるーとのことばを信じて、迷うことなく大胆に証しして行きたいと思います。(中部地方の方)

 


 

お知らせ

 

 例年のように、今年も私(吉村(孝)は、7月に北海道の瀬棚聖書集会にて御言葉を語る予定です。その後も、主の許しがありましたら、次のような予定で各地の集会にて御言葉を語らせていただくことになっていますので、関心のある方は、ご参加ください。

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 これらの集会において、少しでも、神の言葉が語られ、聖なる霊がはたらきますようにと、ご加祷くだされば幸いです。 

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