いのちの水 2017年8月号 第678号
主をたたえよ。日々、私たちを担い、救われる神を。 (詩篇68の20) |
目次
この時代がどのように変わろうとも、つねにいつでも誰でもできること、しかも神に喜ばれることがある。
それが祈りである。
主イエスも、言われた。
…あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子(キリスト)の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。(ルカ21の36)
使徒パウロ自身はいつも他者のために祈っていた。
…わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝している。(Ⅰテサロニケ1の2、ピレモン 4もほぼ同様な表現)
…あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(ピリピ1の4)
…わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 (コロサイ 1の3)
よきものを見ればそれがいっそう主によって用いられるようにと祈り、悪しきものを見れば、その悪の力が神によって滅ぼされ、その人の心に聖霊がかわりに入って清められますように、新たな力を与えられるようにと祈ることができる。
また、朝夕の美しき大空の色彩や姿に接するとき、そのような美や雄大さが世界の人々に宿るようにと祈る気持ちになり、また黒雲がきて台風が来るかもしれないというときには、そのときの大雨が被害をもたらさないように、その豪雨で苦しむ人たちが出ないようにとの祈りとなる。
私たちが喜ばしいことに出会い、よきことが与えられても感謝の祈りとなり、また奪われても、神の国が与えられていることを感謝する祈りとなる。
そしていよいよ死が近づいても、死の彼方には、復活によって永遠の主の平安が与えられること、キリストを信じるものは、死ぬことはないというヨハネ福音書のキリストの言葉にあるように、そこでの希望を持ちつつ、天の国へと入れてくださいという祈りとなる。
このように、何を見ても、聞いてもまた事件や災害等々が生じても祈りだけは、つねになしうるようにできている。
祈りが不要なところはどこにもない。真実や愛、そして正義が昔から現代のいついかなる時代にも必要であり、それが大きく欠けるところから、盗みや憎しみや攻撃、戦争、破壊、等々が生じるのである。
今日の混乱した世界にも、もっとも必要なのは、こうしたいつどのようなときにも芽を出してそこからたえず広がっていく祈りである。
人間は弱いが強くされ得る。
聖書はそのことを随所で記している。
しかし、この世においては、何らかの能力が強い、大きい者は繰り返し、繰り返しとりあげられる。ことにプロ野球など、半年にわたって、同じ様な人物が大きな写真とともに大々的にとりあげられる。それは、打撃や投球にある種の特別な力を持っているからである。
しかし、ほかのどんな部門ー音楽、美術などの芸術、学問、農業や水産業、あるは教育、福祉等々の人が、このようなことがあるだろうか。
それらスポーツと並んで、政治の部門で首相とか一部の閣僚もまた、しばしば大きく取り上げられる。これは経済や安全、福祉等々にときる政治家の言動が大きく影響するからであるが、ここでも、力を持つものが大きく繰り返しとりあげられるというのは共通である。
このような報道や出版の状況から、私たちは力あるものが前面に出てくることはしごく当然だと思っている。
しかし、聖書の世界では、人間の弱さが実に鋭いかたちで表されている。
そして、一般の報道やマスコミ全体のように 、何らかの意味で強いものに焦点が遇わされているのでなく、まず人間の弱さ、罪深さが最初から記されている。
それは最初の人間として現れるアダムとエバが、神の言葉を守れなくて、せっかくの理想の場所であったエデンの園を追われたこと、そしてその息子のカインが妬みから突然弟に襲い掛かって殺すなど、人間の弱さが主題となっている。
預言者としてとくに重要な人物はエリヤである。エリヤは、当時の国王に対して直接に会いに言って、その政治がまちがっていることを直言したこともあった。
そして、天から火を呼び出し、偽預言者たちを集めて、神の力によって滅ぼしてしまうような力をも与えられていた。
さらに、死者を生き返らせたり、貧しい異邦人の親子のところで、わずかなものしか持っていないでもう自殺しようとしていたような人のところで、驚くべき力を神から受けて、彼らに食物を提供して救ったこともあった。
そして火の戦車に乗って天に引き上げられていったという、驚くべき人物であった。そのような特別に引き上げられた神の人であったため、旧約聖書の最後の書において、つぎのように言われている。
…見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日の来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(マラキ書 3の23)
メシアが世界に送り出される日、それは主の日、終わりの日、その時などいろいろな表現で表されている。
その歴史で最も重要とされるときに現れるのがエリヤだという。
さらに、主イエスもその最後が近づいたときに、高い山に登ってそこで深い祈りをささげていたとき、エリヤとモーセが現れてイエスとともに語り合っていたという出来事が起こった。このように、さまざまの点からみても、エリヤは別格であるというほどに、大いなる人であった。
そのようなエリヤであるにもかかわらず、聖書にはもう一つの彼の側面が記されている。
それは、天からの火を呼んで、偶像崇拝して人々や国をまちがった方向へと引っ張っていく人たちを滅ぼした直後のことである。
当時の国王もエリヤを憎んで国中を探索させていたほどである。しかし、すでに述べたようにエリヤはその国王のもとに直接乗り込んでゆき、神の言葉を語った。
国王も、偽物の預言者たちが滅ぼされ、大いなる神の業を目の当たりにして、エリヤのいう神のことが少しはわかってきたのかもしれない。
そして国王は妻のイゼベルにエリヤが神の力によってなしたことを伝えた。すると王妃は、それを聞いて驚いたり、神の力に敬意を表すなどでなく、その逆に激怒し、1日以内に エリヤの命をうばうことを確言した。
それを聞いたエリヤは、意外にもただちに逃げて、遠く砂漠地帯にあるオアシスとして有名な、ベエルシバまで逃れ、そこに従者をおいて、自分はさらに1日の道のりをあるいて、とある木のもとに座って、もう命をとってくださいーと主に懇願した。
ベエルシェバ周辺はまったくの砂漠である。このようなところまで、行くだけでも大変であるがそこからさらに1日の道のりを歩いたーそれは数十㎞もさらに一人で砂漠地帯を歩いたということである。
そのようなところでは水も食物もなく、直射日光の厳しさと重なるときには、長くは生きておられない。 そのように、エリヤは死を目前にするほどになった。
このように、神から火を呼び寄せるほどの特別な霊を与えられていたのなら、このイゼベルにもそのような火を呼び寄せて滅ぼすこともできたはずだ。それにもかかわらず、すぐに祈ることさえせずに逃げて行った。エリヤのそれまでの姿とはあまりにも違った行動である。
偽預言者との悪とのたたかいで心身の力を注ぎ尽くしたゆえに、祈ることさえできなかったといえる。
こうして聖書は、エリヤを神の人、驚くべき奇跡を行なう特異な人物としてほめたたえるのでなく、神の力なくばいかに弱い存在となってしまうかをも、同時に明確に記している。
ノアという正しい人物も同様だった。当時ひどく乱れて堕落した人たちにあって、ただノアだけが、神の言葉に従って歩んでいたという。それゆえに、ノアとその家族が救われ、ほかの世界の人たちは大洪水で滅んでしまったという。
そのようなノアが長期にわたる大雨と大洪水のあと、やっと水が引いて陸地にて生活するようになり、安定した生活になったとき、酔っぱらって裸で寝ているところをこどもたちが見た、ということも記されている。
いかにすぐれた人間でも、神から目を背けて安楽な状態にいるときには、たちまちこのように、ただの弱き人間に落ちてしまう。
キリストの弟子たちも、3年間もキリストに従い、その奇跡を見聞きしてその教えを十分に知らされていたにもかかわらず、キリストがとらえられたときにはみんな逃げてしまった。
ここにも人間の弱さが如実に記されている。
しかし、ひとたび聖霊が与えられたとき、命がけでキリストの福音を伝える者と変えられ、じっさいに殉教死をとげた。
弱さと強さーこの落差を聖書ほどに明確に記した本はほかにない。
キリストさえも、あの十字架に釘付けられたとき、「神様、神様、どうして私を捨てたのか」(エリエリ、ラマ、サバクタニ !)と叫ばれた。肉体を持つ生身の人間はそのからだの非常な苦しみのときには、ひたすら、なぜこんな目にあうのか、と深い苦悩のなかから叫ぶことが唯一のなしうることになるーという状況がある。
エリヤは神の人、天に直接に登っていくような、通常の人間ではないようにもみえる。
しかし、ひとたび神の力が与えられないときには、権力者の力を恐れ、どこまでも逃げていく弱い普通の人間にすぎないことを示す。
モーセもまた、同様だった。疑いもなく彼は、世界の歴史で最も重要なはたらきをした人物の一人である。しかし、かれも自分の力で同胞を救おうとして失敗したときには、エリヤのようにはるかとおくの砂漠地帯を越えて逃げて行ったのだった。それは死を覚悟した逃避行である。ちょうど途中で食物や水のあるところ、あるいはそうした人間に会って助けられたからよかったものの、それらがまったくなしには、到底そのような砂漠地帯を逃げ延びることはできなかった。そのような助けもまた神が与えた。
そしてそのような弱さを思い知らされたうえで、神はかれに大いなる使命をさずけた。何らの武器も権力もなく、神の力を受けて、エジプトという古代の最強の軍事力や権力をもっている王のもとにいって、数々の奇跡を行い、ついにモーセの民族ーイスラエルの人たちを救いだしたのである。そして数々の苦難をへて40年という長い歳月を、砂漠地帯をこえて、神の約束の地へと導いて行った。その力はまさに人間わざではなかった。
神から力を与えられるときには、人は信じがたいような力を発揮して奇跡をなすこともできる。それは人間の驚くべき強さとしてあらわれる。 波涛万里1万キロから2万キロもの広大な海を越えて、しかも天気予報もなく、風まかせという危険きわまりない帆船でただキリストの福音を伝えるために日本にやってきたフランシスコ・ザビエルのような多くの宣教師たち、さらにやっと到達した国々で、厳しい迫害を受けて生きることもできないほどの状況である。それにも耐えて日本に来ようとした福音の伝道者たちーその強さはいったいどこからきたのか。
それは、人間わざでなく、神の業であり、聖なる霊がはたらき彼らを押し出し、彼らを導き、そしてその苦難に耐える力と希望を与えたのである。
また、キリストというたった一人の人物が全世界のあらゆる伝統や風俗、民族や国境を越えて、その真理を伝えいくようになさしめたことーそれも、人間に与えられた神の力が大きいほど、通常では考えられないような大きな業をすることが歴史上にも明らかであった。
たった一人の強さ、これは弱く一般的には弱さの極みのような全盲の人、足の動かない人、寝たきりの人等々もまた、神の力が与えられるときには、健康な権力や金の力をもっている人よりはるかに大きな影響力を人々に与え続けていく。
水野源三などもそうした一人であった。
私たちは現実には弱さに満ちているが、どんな弱さをも力に変えてくださる神を信じて歩みたいと願う。
この有名な讃美歌の中心にあるのは、神の恵みということである。原詩では、繰り返し「grace」という言葉が現れるので、これが中心だとすぐにわかるが、日本語訳では、恵みという訳語がわずかになっている。
また、日本語では、恵みといっても、雨が降ると恵みの雨、恵まれた境遇とか、健康に恵まれた…等々ごく普通に使われているために、特別に深い意味を感じることはない。
しかし、キリスト教における「恵み」ということを、近年において広く世界に知らせることに大きな役割を果たしてきたのは、論文や解説文などでなく、意外なことであるが、アメイジング・グレイスという一つの讃美歌であった。
恵みとは何か
聖書でいう「恵み」とは、英語ではgrace、聖書に現れる原語(ギリシャ語)では、カリス (charis)である。
この言葉は、通常の日本語の「恵み」とは大きく異なる深い意味をたたえている。それは、とくにこの恵みを最も深く体験したといえる使徒パウロが書いた手紙によって知ることができる。パウロは、キリスト教徒を迫害する中心人物であって国外にまで、キリスト者を迫害して追跡し、捕らえていたほどの人物であった。
しかし、突然その迫害に向かっているさなかで、復活のイエスにとらえられ、キリスト者たちを迫害してきた罪を赦され、キリストの福音を宣べ伝える最も重要な人物となった。文字通り一八〇度転換させられたその生涯は、まさに神の恵みによって変えられ、導かれたのであった。
彼が書いた手紙が、聖書すなわち神の言葉として二〇〇〇年の間、ほかのいかなる人間よりも世界に圧倒的な影響力を持ってきたのは、神の恵みがそのようになさしめたのである。
パウロは生まれつき家柄もよく、能力に恵まれ、特別な教師についてユダヤ人の宗教を学んでいた。そのような恵まれた状況にあったにもかかわらず、キリストのことには全く目が開かれず、キリスト者こそ、ユダヤ人の長く信じてきた信仰を覆すものだとしてキリスト教徒を迫害することを真剣に行なっていたのである。
このことを見ても、生まれつきの能力がどんなにすぐれていても、また家柄や育った環境がよくても、キリストの真理を受け入れるとは限らないのが分かる。
キリストの生きて働く真理を受け入れるためには、まさに人間の努力や能力でなく、神の一方的な恵みが不可欠なのである。
聖書、キリスト教で言われる「恵み」とは、このように、それを受ける値打ちがないのに、一方的に与えられる神からの賜物を指している。
…事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。(エペソ書二・8)
このパウロの言葉は、キリスト教信仰において、「恵み」と「信仰」という二つのことが持っている深い意味とその関わりを簡潔に示している。キリスト(神)は、人間を救おうという愛のお心を持っておられ、一方的に罪の赦しや愛、いのちを注いでおられる。それは主イエスご自身が太陽にたとえられたように、人間の側で気付かずとも絶えず注がれている。私たちがそのような神のよき賜物を受ける値打ちもないのに注がれているのである。
その恵みを受けるには、人間の側からはただ「信仰」のみでよい、というのが、キリストの福音であり、キリスト教信仰の中心なのである。
キリスト者の信仰とは、自分はそのような神からのよきものを受ける資格など全くない、それどころか神の真実に背くような罪を犯してきた。それにもかかわらず、神がこの世のあらゆるものにまさる天の賜物を与えて下さった、という実感なのである。
これが使徒パウロという人間の根本にあったのは、彼の書いた手紙によってはっきりと知ることができる。
パウロは、その手紙のなかで、この恵み(xaris)という語を、およそ百回ほども用いている。ローマの信徒への手紙だけでも、二十回以上用いているほどに、彼にとってはその信仰の中心をなす用語であった。
それゆえ、その手紙のはじめにそのことをほとんど常に次のように祈って書き始めている。
…わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(ローマ一・7)
自分が受けたのは、神とキリストによる一方的な招きであり、罪の赦しであった。そこから神とキリストとの深い霊的な結びつき(平和)が与えられたというのがパウロの生涯を貫く実感であったからである。
そしてこの恵みという原語は、カリスであるが、これは、喜ぶ(カイロー)と語源的に同じなので、この恵みという言葉に、主にある喜びをも込めて用いていると考えられる。
この世界には、健康の恵み、家庭の恵み、それどころか日常の食物の恵み、病気のときの治療の恵みすら受けられない人たちがたくさんいる。飢えのために死にかかっている人たちが何億もいる現状、あるいは、毎日寝たきりという困難な生活の中に置かれている人たちにとって、この世の普通の恵みというものからは見放されていると言えるだろう。
しかし、聖書にいう恵みは、そのような人たちに対しても与えられる恵みなのである。この世のどんな壁をも越えて、与えられ、注がれるといった性質のものなのである。
死んだも同然の者が生かされ、過去に深い罪を犯した者、日常的に罪を犯してきた者も赦しという恵みを与えられ、あらゆるよきものを失い、希望を失った人も生かされる、そして死という一切を呑み込んでしまう力にも打ち勝って永遠の命を与えられる、それがこの恵みの中心的内容となっている。
人間にとって、神からの恵みがいかに大きいか、そのことを、使徒パウロは、次のように述べている。
… あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。…私たちも皆、以前は欲望の赴くままに生活し、行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者であった。
しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによる―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて下さった。
こうして、神は、キリスト・イエスにおいて私たちに示された慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた。
(エペソ諸二・1~8より)
人間は力強く生きている者、活躍している人はたくさんいると思われるのに、なぜパウロはこのように、「あなた方はかつては死んでいた」というような表現をとっているのだろうか。このような箇所を読みたくない、あまりにも極端な表現だと思う人は多いだろう。
これは人間の心のすがたを、神の清い真実なあり方と比べるときに初めて分かることであり、人間だけを見ているのなら、いくらでもよい人、活発に活動していると思われる人はいるので、この箇所のように、「以前は罪のために死んでいた」などというのは全く的外れだと思うのである。
しかし、もし、神の徹底した真実や無差別的な愛と比べるとき、人間の一体だれが、そのような真実や愛を持っているだろうか。どこにそのようなことを日夜心においても、実際の行動においてもなし続けている人がいるだろうか。そもそも、私たちは本当の正しさや愛すらわからず、自分の利益や自分が認められるようなことをどうしても考えてしまうような存在でしかない。
使徒パウロすら、次のように告白している。
…わたしは、自分のしていることが分からない。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをしているからだ。
わたしは、自分の内には、善が住んでいないことを知っている。善をなそうという意志はあるが、それを実行できないからである。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
わたしはなんと惨めな人間なのか。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるだろうか。(ローマの信徒への手紙七・15~24より)
このように、私たちの心のあり方を神のみ前に置くときに初めて、自分が本当によいことをできない、力のない者、そういう意味で死んだような者であることがはっきりわかる。
このような状況からいったい誰が救い出してくれるのかということは、魂の最も奥深い疑問である。 それは、いかなる学校教育や経験、生れつきの性質や家柄、あるいは環境などによってもどうすることもできないことなのである。
この不可能を可能にしたのが、神の恵み、キリストの十字架による恵みであり、キリストの復活なのであった。
このような背景を考えるとき、パウロがなぜ、その手紙のなかで、百回ほどもこの「恵み」(カリス)という言葉を使っているかが、浮かびあがってくる。
このように、使徒パウロはみずからの命をかけて、彼の受けた「恵み」を伝えようとした。
その彼の祈りと行動は、彼の受けた啓示が聖書となって、世界に永遠に伝えられることとなった。
こうした恵みを受けた人が、キリスト者であり、この二千年間に、同様な経験を世界中の無数の人たちが与えられてきたのであった。私自身も人生の決定的な体験として、まさにこのキリストの恵みを若き日に与えられた一人なのである。
この恵みの経験は、多くの分野へと広がって行った。アウグスチヌスのようなキリスト教思想家、ダンテのような大詩人、アッシジのフランシスコのような特別に清められ神のしもべとされた人、ザビエルのように、宣教師となってすべてを捨ててこの福音の恵みを伝えようとした人、等々。
アメイジング・グレイス
そして音楽の世界でも、この恵みをまざまざと体験した人がキリスト教音楽を次々と生み出して現在も無数の人々の魂をうるおし、キリストの恵みを霊的に実感させる助けとなっている。
そのなかで、現在広くキリスト教と関わりない人たちにまでこの恵みをテーマとした讃美歌が親しまれるようになっているのがある。それが、「驚くべき恵み」(讃美歌21・四五一番、新聖歌二三三番など)すなわち、アメイジング・グレイスである。
この讃美歌は、現在のアメリカの数多くの賛美集、ルター派、カトリック、改革派、長老派、バプテスト派、メノナイト・ブレズレン、聖公会、メソジスト派、無教派、モラヴィア派 等々、アメリカのさまざまな教派の讃美集二十二種類を調べた結果、それら教派のすべての讃美集に選ばれて取り上げられているのは、わずかに二つしかなく、アメイジング・グレイスはその一つであったという。(講座 日本のキリスト教芸術 第一巻「音楽」一〇六頁 日本キリスト教団出版局 二〇〇六年四月刊)
この讃美は、以前にNHKテレビの特別番組にも一時間近い時間をあてて放送されたことがあり、キリスト教の賛美のためにNHKがこのような特別番組を放送するということは、前例のないことであり、また今後も恐らくなされないであろう。
それほどにこの讃美が特にアメリカにおいて、プロテスタント、カトリックなどを問わず教派を越えて採用されているというのは、それだけ国民的に特別な支持がなされていることを示している。
それは、歌詞が信仰をよくあらわしており、そのうえ作詞者ジョン・ニュートンの生き方が神の恵みそのものを鮮やかにあらわしていること、それに加えてメロディーが魂に浸透する味わいと美しさを持っており、さらにその歌詞が教派的な色彩を持つことなく、年齢を越えて愛好され、不思議な力をもって広がっていったからであろう。
作詞者のジョン・ニュートンは、一七二五年、イギリスに生まれた。母はキリスト者であったが、ジョンが七歳のときに召されてしまう。その後彼は、黒人奴隷を輸送する奴隷貿易を仕事とするようになった。当時、奴隷としてアメリカに連行される黒人たちは悲惨なもので、暗い船室に丸太のように詰め込まれ、病気になったりすると海に捨てられるといった状況で、家畜以下のひどい扱いを受けて輸送されていた。ジョンはこのようなひどい扱いを彼自身も行なっていた。しかし、二二歳のとき、責任を任せられた船が嵐に出会い、浸水し食糧もなくなり、絶望的状況となったとき、必死に祈った。そして奇跡的に救われた。
こうした経験がもとになって彼は、のちに奴隷船の働きを辞め、キリスト教の伝道者(聖職者)となった。
自分がかつてやったことは、到底赦されない重い罪であったことを深く知ったが、そのような者に神は、罰を与えて滅ぼすことなく、一方的な罪の赦しを与えて下さり、生かして下さったのを深く知ったのである。
それが、この有名な、「驚くべき恵み」という歌詞になった。それはいわば神が聖書の詩編のように、神ご自身がジョンをとらえて、彼を通して神の赦しの愛、恵みを体験させ、証しさせたものだと言えよう。
曲については、だれが作曲したかはわかっていないし、その起源も諸説あって確定されていない。こうしたところにも、みえざる御手が、ジョンの歌詞を支えるようにこの曲と結びつけられていったのを感じさせるものがある。
以前に、アメイジング・グレイスの作詞者、ジョン・ニュートンの自伝が出版されたが、その編訳者は次のように書いている。
…アメイジング・グレイスを聞いて、これほど美しい歌を一体だれが作ったのだろうと思ったことのある人は必ずいることだろう。私もその一人であった。
この歌の、大河がゆったりと流れるがごとき旋律を聞いていると、何か遠い昔に触れたことがあるような魂の原風景というべきものに回帰していくような気持ちになる。…(「アメージング・グレース物語」四頁 彩流社 二〇〇六年刊)
このように、この本の編訳者は、この讃美歌のメロディーが魂のふるさとに連れていくような力があると言っているのであるが、神の驚くべき恵みこそ、私たちを、最も深い意味で魂の原風景へと導いて下さるのであり、この讃美歌は歌詞と曲がともに相働いて私たちの魂のふるさとである愛の神へと導いて行く力を持っていると言えよう。
この讃美歌は世界的に有名であり、そのメロディーは広く知れ渡っているが、歌詞になると本来のこの讃美歌の歌詞をオリジナル版で知っている人は少ないと思われる。
そこで、以下に歌詞の全体を、原文とともに引用する。
驚くべき恵み ーその響きはなんとうるわしいことかー
その恵みは私のような哀れな人間を救って下さった。
私はかつて、失われた者だった。しかし、今は(主によって)見出されている。
私はかつて(何が大切なことなのか、何が悪いことなのか)見えなかった。
しかし、今は、見ることができるようになった。
(一)Amazing Grace! (How sweet the sound)
That saved a wretch like me!
I once was lost, but now I'm found,
Was blind, but now I see.
○最初の、「その響きは、なんとうるわしいことか!」の原文、How sweet the sound は、挿入文となっていて、原文にはカッコが付いているが、カッコをはずして書いてあるテキストも多い。この sound(音、響き)とは、直前の「Amazing Grace」(驚くべき恵み)を指していると考えられる。「驚くべき神の恵み」というその言葉を思い浮かべるだけで、その恵みがいかに驚くべきものだったかが新たに心に迫ってくる。
そして sweet な感情、すなわち「心をやさしくし」、また「胸をときめかせる」(*)ものとして感じられるというのであろう。神の恵み、その言葉自体が、その恵みが何であるかを深く体験したものにとっては、うるわしい響きをもって魂に感じられるのである。
原文は、一行目の sound と、三行目の found 、二行目の me と、四行目の see が同じ響きの音(脚韻)が置かれている。そして、残りの歌詞も大体同様に脚韻が踏まれている。
(*)元恵泉女学園大学教授 大塚野百合氏は、その著書で、この第一行を「驚くべきみ恵みー何と胸をときめかせる言葉かー」と訳している。(「讃美歌・聖歌ものがたり」九二頁 創元社)sweet を「胸をときめかせる」と訳したのは、著者の感情をこめた訳語である。この例を見てもわかるが、sweet という語は、多くの人が連想する「甘い」といった味覚に関する意味だけでなく、「心地よい、やさしい、心を惹く、香りのよい、新鮮な、美しい」、といったさまざまなニュアンスを持った言葉である。
(二)私のこころに(神を)畏れることを教えて下さったのは神の恵み
そして、その恵みが、(この世の)恐れから救ってくれた
なんとその恵みは、貴くみえたことか、
私が初めて信じたその時に!
'Twas grace that taught my heart to fear,
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed!
(三)多くの危険、労苦、誘惑を
私は通ってきた。
神の恵みこそ、ここまで私を無事に導いてくれた。
そして恵みは私をわが家(天のふるさと)へと導いてくださる。
Through many dangers, toils and snares,
I have already come;
'Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.
(四)主は私によきものを約束された。
主のみことばが、私の希望を確かなものにする。
主こそわが盾、また分け前。
私が生きる限り。
The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my Shield and Portion be,
As long as life endures
○ 主が約束して下さるよきもの、それは信仰、希望、愛、そこから生れる喜びや忍耐、力、勇気、等々をすべて指している。二~三行が具体的なそのよきものを意味している。この世の希望はすぐに失せてしまうが、神に希望を置く者は決して壊されることがない。変ることのない神の言葉によって支えられているからである。
また、神こそは、あらゆる悪が攻撃してくることから守る盾となって下さる。それだけでなく、神ご自身を私たちの分け前として下さるというのである。神を分け前、といった表現で使うのは違和感があるであろう。これは、古代にイスラエルの人たちがカナンの地に住むようになったとき、神から分け前としてそれぞれの土地を受けたことが、背景にある。
人によっては、苦しみや病気、災害、あるいは貧困や家庭すらない孤独を「分け前」として受けて、その運命に悲しみ嘆く人も多い。どうして特定の人があのように重い苦しみを耐えなければならないのか、全く不可解にみえることが多くある。
しかし、そうした人たちにおいても、神を分け前として下さるとき、あらゆるそうした不満や悲しみに打ち勝って、霊的な喜びと平安を与えられると約束されている。
それが、主イエスの言われた「ああ、幸いだ、悲しむ者は! なぜなら、その人たちは神からの慰め、励ましを受けるからである」(マタイ福音書五・4)という意味なのである。
(五)まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は持つことになる。
隠されていた喜びと平和のいのちを。
Yea, when this heart and flesh shall fail
And mortal life shall cease,
I shall possess within the veil
A life of joy and peace.
○ 私たちは遠からず必ずこの世から去っていかねばならない。そのときは、一日一日と近づいている。著しい苦しみや悲しみ、困難の人生であった人も、ただ信じるだけで、神の驚くべき恵みを受けることができる。それはもはや何者によっても壊されない永遠の平和と喜びである。ここに私たちの最終的な希望がある。
(六)大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。
The earth shall soon dissolve like snow,
The sun forbear to shine;
But God, who called me here below,
Will be for ever mine.
○この世界、宇宙も仮のものである。科学的な結論からいっても五〇億年もすれば、太陽も地球も失せていくといわれている。しかし、神はそうしたみえる世界がいかになろうとも、永遠の存在であり、そのような無限の神ご自身をわがもの(分け前)と言えるような計り知れない恵みが約束されている。
(七)私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。
When we've been here ten thousand years,
Bright shining as the sun,
We've no less days to sing God's praise
Than when we'd first begun.
○天の国は永遠であり、そこでは、神への感謝と神ご自身を喜ぶことのみがあって、それゆえに神への讃美は尽きることがない。なお、この最後の節は、ニュートン自身が作詩したのでなく、少し後になって、ジョン・リース(一八二八~一九〇〇年)によって追加されたものである。
こうした永遠の讃美は、聖書の詩編一四五編~一五〇編にみられる、神への讃美の詩篇が源流にある。
ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。…
息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。(詩編一五〇より)
「アンクル・トムス・ケビン」におけるアメイジング・グレイス
このアメイジング・グレイスという讃美歌が、とくにアメリカの人たちの心に深く浸透していたと思われるのは、一八五二年に刊行されたストー夫人が書いた「アンクル・トムス・ケビン」にすでに引用されているからである。
悪魔のような人間、レグリーのところでトムはひどい取り扱いを受ける。それは最終的には死に至る激しい暴力を受けるのであるが、そのためにトムは心身ともに痛めつけられ、祈りもできないほどになっていく。
以下に、どのような文脈で用いられているかを明らかにするために、この讃美歌をトムが歌うという箇所の手前の部分から次に引用する。
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…非常な重荷が耐えられないくらい魂を圧迫するとき、その重みを払い落とそうとしてただちに肉体と精神は必死の力を出すものである。そして最もひどい苦しみはそれゆえに、再び喜びと勇気の波が上げ潮のごとくに打ち寄せてくるのである。
この場合のトムがちょうどそれだった。彼の残酷な主人レグリーの侮辱は、前から打ちしおれていた魂を引き潮の底まで沈めてしまっていた。そして信仰の手はなおも、永遠の岩にしがみついていたけれども、その手はしびれ、絶望的になっていた。トムは火のそばに、ぼうぜんとして座っていた。
その時、周囲のものがことごとく消えていくように思われた。そこに茨の冠をかぶり、打たれて血を流している人(キリスト)の幻が彼の前に現れた。
トムは恐れおののいてその顔に現れた崇高な忍耐をじっと見た。
その澄みきった、悲愴なまなざしは彼の心の底までさし貫いた。
彼の魂は感激の潮に打ち寄せられたかのごとく目覚めた。そして両手を差しのばしてひざまずいた。幻は次第に変化していった。茨の冠は栄光の冠となった。
そして想像もできないほどの輝きと光のなかに、トムは憐れみ深いまなざしを彼のほうに向けている顔を見た。そして一つの声がこう言った。
「 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」(黙示録三・21)
どんなに長い間そこにいたか分からなかった。我に返ったとき、彼の着物は冷たい露にぬれていた。
しかし、恐ろしい魂の危機は過ぎ去って、喜びに満たされ、もう彼は飢えも寒さも失望も不幸も感じなかった。彼はその時、自分の意志を永遠の神に捧げたのであった。
トムは、静かな無数の星を見上げた。永遠に人間を見下ろしている天使の群れ。夜の静けさは、勝利をたたえるトムの讃美歌の歌声で高らかに鳴り響いた。その歌は彼がもっと幸いであったときによく歌ったものであったが、これほどの感激をもって歌ったことはかつてなかった。
大地はまもなく雪のように溶けていく。
太陽も輝きを失うだろう。
しかし、私をこの世から呼び出す神は
永遠にわたしのもの。
まことに、この体と心が衰え
この世の命が終わるとき
私は手にいれるだろう。
隠されていた喜びと平和のいのちを。
私たちは、天の国にて一万年を経ても
太陽のように輝きながら、
日々、神への賛美を歌うだろう。
最初に(賛美を)始めたときと同じように。
…ほの暗い夜明けが、眠っていた奴隷たちを起こして、畑へと駆り立てていった。震えながら歩いていく哀れな日々のなかに、ただ一人、喜びの足どりで歩いていく者があった。
全能の神、永遠の愛を信じるトムの強固な心は、踏みしめる大地よりもなお固かったからである。…
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このように、暗黒の力に打ちのめされて絶望的になろうとしていた奴隷トムの心が、キリストの生ける姿の啓示に触れて再び立ち上がり、あらゆる苦しみをも受けていこうと、主イエスに似た決意を与えられたのであった。
そのとき、「アメイジング・グレイス」の最後の部分がトムの心に浮かんできた讃美歌として取り上げられているのである。
この著作の著者、ストー夫人の生きていたとき、すでにこのアメイジング・グレイスが、苦しむ黒人奴隷たちの魂の歌になっていたのがうかがえる。
こうして、世界の文学史上、特に歴史的な影響力をもった「アンクル・トムス・ケビン」(*)の著作のなかで、すでにこのアメイジング・グレイスが生きているのに驚かされる。
ここにも、使徒パウロがキリストによって示された、「驚くべき恵み」が流れ込んでいるのを知らされるのである。
(*)ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範」として、この「アンクル・トムス・ケビン」を、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。
「あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 (「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)
このアメイジング・グレイスという曲は、アメリカの黒人たちの深い悲しみや絶望のなかにある魂の内に鳴り響き、それ以外の無数の人たちの心に反響しつつ、歴史を流れてきたと言える。
そして今日では、アメリカ第二の国歌とまで言われるほどに定着し、アメリカのキリスト教世界の最も広く採用されている讃美歌となっている。
これは、世界の背後におられる神が、そのようにキリストの恵みを世界に知らせようとなさったその神のわざなのだと知らされるのである。
(アメイジング・グレイスのことは10年ほど前に書いたが、今回北海道や各地でもこの賛美を用い、その重要性ゆえに再度掲載した)
主よ、憐れみたまえ (キリエ・エレイソン)
ー 詩篇57篇
2 憐れんでください
神よ、わたしを憐れんでください。
この詩は8節から全く違う内容になっている。前半はホンネーニ・エロヒームという簡潔な叫び、祈りから始まっている。神様の持っているあらゆる力をくださいということである。日本語でいう「憐れんでください」とは、意味が大きく異なっている。日本語では、憐れみとは、上から見下すニュアンスがある。それゆえに、「憐れみなど欲しくない。求めるのは共感だ。」と言われたりする。
それは、神の存在そのものをまったく信じないゆえに、神の憐れみもまったく信じられない。そのため、憐れみというと人間の憐れみしかわからないゆえにこのように感じてしまうのである。
聖書において、神やキリストに向って「憐れんでください!」と叫ぶのは、人間の憐れみを求めるのとは本質的な違いがある。
日本語では、憐れみを! と誰かに言うときには、何かものを恵んでくださいという意味で使われることが多い。いまから60年以上も昔に、時折物乞いの人が家々をめぐってそのときに、憐れみたまえ!などといっていたのを思いだす。
私たちは日常生活のなかで、誰かに、私を憐れんでくださいーなどということはまずない。
このようなことから、このように最初から「憐れんでください!」と繰り返し言うような詩には、親近感がもてない人が多くなる。
これは、聖書の言葉を、日本語の通常の用法のままに受けとってしまうからである。聖書においては、「憐れんでください!」とは、旧約聖書では ホンネーニ! という。(*)
(*)これは、ハーナン(憐れむ)というヘブル語の動詞の命令形に、「私を」を表す語(人称接尾辞)が付いた形である。「神様、私を憐れみたまえ! 」は、ヘブル語では、ホンネーニ エローヒーム となる。
この叫びは、生きるか死ぬかという切実な状況、追い詰められた困難な状態において、おのずから発せられる叫びである。「神様、どうかあなたの愛をもって助けてください! 」という一点に注がれた祈りである。
これは、詩篇には多く見られる。そしてその真実な叫びは、神の愛と真実という本質にひたすら目を注ぎ、そこに魂からの叫びを向ける。
この単純な叫び、祈りは、もうなすすべもないほど追い詰められた状況の人、病気や敵対する人々、あるいは災害などで死に近いほどの状況の人がそれでもなお、発することのできる祈りであり、叫びである。
そして、弱き者を顧みてくださる神は、そうした単純な、魂の深みからほとばしる祈りを聞いてくださる。
それゆえに、この詩よりはるか500年以上も後の時代であるキリストが現れたとき、ハンセン病や生まれつきの盲人、ひどい悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘のため、また、てんかんの重症者で火の中、水の中に倒れ込むような人の家族、あるいは、自分の深い罪ゆえに、顔を神に向けることもできずに胸をたたいて憐れんでください!と心から祈った人たちもまた、この詩の作者と同じく、「憐れみたまえ!」という祈りをキリストに向って注ぎだしたのだった。
イエスはこうした最も弱く、苦しんでいるひとたちに向けて最大の関心を持っておられたのは福音書を見るとすぐに分る。
そのひとたちの「憐れんでください!」という祈りは、自分たちの最も苦しい状況、人間ではいかにしても解決できない悲しみやみじめな感情、死にたいと思うほどの絶望感…そうしたものを打ち明けることができるのは、ただイエスだけだと直感的に分ったゆえに、彼らは心からの叫びを、ただ 主よ、憐れんでください!(ギリシャ語の発音では、キューリエ エレエーソン となるが、ミサ曲では、長音を短くしたキリエ・エレイソンと言われる。)というひと言に凝縮させて言ったのだった。
祈りは長々と祈っても神の心に届くとはいえない。単純率直、心の真実をもって注ぐ祈りが届く。
この重要性のゆえに、ミサ曲には「キリエ」が、ギリシャ語のままで必ず含まれている。(*)
(*)ミサ曲の他の部分、グローリア、サンクトゥス、クレド…等々は、ラテン語である。
ミサ曲も讃美歌の一種であり、賛美は祈りであることを示す。キリエ・エレイソン と歌いつつ、人間皆に対する祈りを賛美のかたちで祈っているのである。
小さな困難や悲しみのとき、また死ぬか生きるかというとき、また死に近づいているときも、意識あるうちは、私たちは主よ、憐れみたまえ! と祈ることができる。
人間の憐れみではない。それは何の解決にもならない。必要なのはいかなる困難も死すらも越えさせる神の愛ー神の憐れみなのである。
2 わたしの魂はあなたを避けどころとし
災いの過ぎ去るまで
あなたの翼の陰を避けどころとします。
〇「み翼のかげに」という本がある。それはこの詩篇の箇所をもとにしている。ニワトリが雛を育てるときには、周囲にネコやイヌなどの危険が迫るとき、急いでヒヨコを呼び寄せる。また、眠くなると昼間でも雌鳥の翼のかげに入って眠る。夕方になると、母鳥の翼の中に入ってやすむ。その安心しきった姿は、子供のときに繰り返し目にしたが、いまでも思いだす。
この数千年も昔の詩の作者もまた、そうしたじっさいの光景が心に焼きついていて、おのずからこのような詩文となったのであろう。
こうした愛に満ちた逃れ場を持つものは何と幸いなことだろう。
3 いと高き神を呼びます
わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
4 天からつかわしてください
神よ、つかわしてください、慈しみと真実を。
〇この詩の作者も現代の私たちも、しかもだれでも本当は最も必要なものは、この詩で言われていることである。
すなわち、私たちのために、ご意志にかなうことなら何事でも成し遂げてくださる神、そしてその神の真実と愛である。
人間には、その真実と愛というものがない。人は弱い。いくら嘘をつかないと思っていても、真実でないことを言ってしまう。例えば、日常的にあることで、他人をほめたり、批判、悪口を言ったりすることは、必ず真実に反し、また愛に反することになる。だれかをほめるときー例えば、ある人がやさしい人だ、というとき、状況によってはその人は決してやさしくはできないことがある。死に瀕する人、敵対する人、あるいは、裏切った人、中傷する人等々に対して、やさしくできるだろうか。
なじみある子供や親しい人、ときどきしか会わない人たちにはやさしくとも、家族にはやさしくないということはいくらでもある。
このように考えてもすぐにわかるのは、だれかをやさしい人だとほめたとき、その人の優しさはごく限定された人や状況においてでしかないのに、いつでも優しいというように、聞く人に受けとらせることになりかねず、それは真実ではないことになる。
このように、人間にとって必要なのは、人間の優しさでなく、神の優しさー神の愛なのである。それゆえ、この作者は、神の慈しみや真実を私たちにください!と願っているのである。
それが、主イエスの教えられた主の祈りの最初の部分「御国を来らせてください!」 という祈りにも通じる内容となる。
…わたしを踏みにじる者の嘲りから
わたしを救ってください。
5 わたしの魂は
獅子の中に、火を吐く人の子らの中に伏しています。
彼らの歯は、槍のように、
矢のように舌は剣のように、鋭いのです。
〇この人の置かれていた状態は、これらの言葉にあるように、踏みにじられ、あざけられ、ライオンの群れの中にいるような状態である。
現代では用いられないような特別なたとえで書かれているが、これはこの世の現実を鋭く表現しているのである。
じっさい、この世には、霊的な意味で、噛みつこうとするようなものがたくさんある。火を吐く人というような表現はまずしないが、悪意の火を吐いて、良いものを焼き尽くそうとすることは、いくらでもある。
人間は一般的にいえば、互いに噛み合うというようなところがある。会社という大きな組織でも、ちょっと油断したら、別の会社に統合されたり、絶えず新しいものを作らないと、別の会社が別の珍しい商品を出して、それまでの商品が売れなくなってしまう。いわば、噛みつかれてしまい、会社がやっていけなくなる。
現実の社会は子どもの社会でも、いじめという形で、噛みつかれて学校に行けなくなったり、心が切り裂かれたりする。
このように霊的に受けとるとき、これらの表現は一見私たちにはなんの関係もないあまりにも特殊な言葉のように見えるが、少し立ち止まって考えると、この世は本質的にはこういうものである。
6 神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
7 わたしの魂は屈み込んでいました。
彼らはわたしの足もとに網を仕掛け
わたしの前に落とし穴を掘りましたが
その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。
〇神の栄光が全地に輝くようにーという祈り、これは、神の力や清さ、またその愛や真実が全地に広くつたわり輝くようになってください、という願いである。
この世は、人間の栄光がはんらんしている。何かスポーツやその他の分野で優勝とかよい結果を出すと、とたんにその人物の栄光は、至るところで宣伝されるようになる。
聖書の世界では、人間の醜さや弱さを深く見抜いているゆえに、人間に栄光を帰することはいっさいしない。その背後の神にのみ、栄光をたたえる。
7節には、「かがみ込んでいまいました」とあるが、このような表現をするだろうか。これは、苦しみや悲しみ、あるいはさまざまの困難のために、うちひしがれ、倒れこんでしまうような状態であるということである。
このような状況の中で、神様の愛を知って、6節に 栄光を全地に輝かせてください とあるが、原語では「輝かせてください」という部分はなく、それゆえ英語訳でも Thy glory above all the earth.である。
天の上に高く、地にあなたの栄光 このように非常に苦しいところに追い詰められても、あらゆるものを超えたところに神の栄光、力、清さというものをこの作者ははっきりと感じていたから、そこに絶えず目を向けて、新たな地を受けて、迫ってくる周囲の悪意、中傷に屈しないように歩むことが可能となったのである。
8 わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
9 目覚めよ、わたしの誉れよ目覚めよ、
竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。
10 主よ、諸国の民の中で
わたしはあなたに感謝し
国々の中でほめ歌をうたいます。
11 あなたの慈しみは大きく、
天に満ちあなたのまことは大きく、雲を覆います。
12 神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
〇8節からは全く違う表現である。
生きるか死ぬかという困難な状況から、神に憐れんでください!という単純な祈りに全力を傾けたこの作者の祈りは、たしかに神に聞かれ、そして悪の力にはるかにまさる神の救いの力を深く体験した。
それはまた、真実と愛に満ちているものだった。
心を確かにするというのは、心が定まったという表現のほうが分かりやすい。今まで絶えず周りのものに恐怖や動揺、不安を感じていて、だからこそ死にそうだと叫んでいたが、そのような恐れ、おののく心がやっと定まって、今度は非常に力を与えられて、賛美の歌が歌えるようになった。
それだけでなく、いろいろなものを目覚めさせていこうという力があふれてきた。 新共同訳では、「誉れ」と訳されていが、ほとんどの訳では「わが魂」と訳されている。
イエスがこの世に来られたのも、人々を霊的に目覚めさせるためである。神によって確かにされたものは、周りの人々に対しても霊的な目覚めをもたらそうとする。
楽器まで目覚めさせよう、というほどに、この詩の作者は、大いなる霊的目覚めを与えられたのがわかる。
楽器にまで目覚めよという。これは楽器も目覚めさせて、新しい賛美を歌おうということである。曙は夜明けであり、放っておいても勝手に目覚めるが、それを呼び覚まそうということである。
神から与えられた光によって、闇を開こうという気持ちがあふれてくる。
さらにそれが諸国の民へと広がっていった。単に自分と同じ民族、仲間同士だけでの賛美ではなく、諸国、諸民族のなかで、神を賛美し、感謝するという気持ちがあふれてきたのである。
神から与えられた救いの力、そして平安、それを深く実体験した者は、この真理は、民族や国々を越えて普遍的なものだと目覚めさせられるのである。
そしてそれは、キリストが来て確かに全世界、ありとあらゆる民族へと広がっていったのであり、この詩の作者はそうしたはるか後の時代のことまで啓示されていたことがうかがえる。
これは一種の証である。自分が与えられた経験は、どんな国の人にも証しすることができる。たくさんの神様を知らない人のいる国の中で、神様は素晴らしいと神様の力を黙っておられなかった。一度神様から与えられたら、それはぐんぐんと広がっていく。この限りない膨張のエネルギーは、イエス様の言ったからし種のパン種のようなもので、最初は目に見えない小さなものがふくらんでくる。私たちの心が小さかったら、神様の慈しみも小さなものでしかないが、心が広げられたら、それらは大きなものとなる。人間の精神的視野はどこまでも広がっていく本質を与えられている。
〇祈りの友・合同集会
例年のように、9月の秋分の日に祈りの友・合同集会を開催します。ふだんは離れている方々も、顔と顔をあわせてともに祈りのときを持つことができますようにと願っています。なお、「祈りの友」にまだ入会していない方々も参加自由です。
第5回 「祈りの友」合同集会
日時…9月23日(土)休日
午前11時~午後4時
会費…500円。(お弁当代金)
内容 聖書からのメッセージ、感話、昼食
・参加者による自己紹介と近況報告
・参加者による祈りの課題
・欠席者からの近況、祈り
・私にとっての祈り…若干名
「祈りの友」新規入会者紹介
・午後3時の祈り
(*)高齢とかその他の理由によって、じっさいに参加できない方々であっても、インターネットのスカイプによって参加できる方々もいます。
〇「祈りの友」の通信誌(「祈りの風」)や、「祈りの課題集」の発行、送付は、来月になります。
〇第17回 近畿地区無教会 キリスト集会
・期日 8月26日(土)午後~27日(日)
・会場 関西セミナハウス
・主題 「復活」
・聖書講話講師 香西信、小舘美彦、清水勝、吉村孝雄
〇北海道やその他の集会のこと
7月11日から7月30日に徳島に帰着するまでの、北海道から東北や関東、中部にかけての各地の集会に関して、多くの方々の準備とお祈り、また地元徳島の集会や各地の集会関係の方々の祈りやさまざまの支えをありがとうございました。
大雨、また交通関係で難しいこともありましたが、健康も支えられ、はじめの予定どおりにほぼ行なえたのは、主の守りと多くのかたがたの祈りによると感じます。
それらの内容については、次号に記したいと思っています。
〇北海道瀬棚集会での4回の聖書講話、そしてその集会終了後の札幌交流集会での聖書講話の録音を希望される方は、
左記の吉村あて申込してください。MP3CD1枚で、代金は300円(送料込)です。
なお、MP3対応プレーヤをお持ちでない方は、一般のCDプレーヤ(従来型CDラジカセなど)CDの枚数が4~5枚になり、代金は千円ですが、お送りできます。
〇今月号のアメイジング・グレイス、日本語や英語での賛美の歌を希望者も左記に申込んでください。私どもの集会員の賛美のCDをお届けします。(100円(送料込)これらCDの代金はいずれも古い切手で可。但し200円以下の少額切手でお願いします。