「いのちの水」 2017年9月号 第679号
悪をもって悪に報いてはならない。かえって祝福を祈れ。祝福を受け継ぐためにあなた方は(この世から)呼び出されたのである。(Ⅰペテロ3の9) |
目次
・ 静かなる細き声 |
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・お知らせ |
・集会案内 |
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九月になると、野山ではいっせいに虫たちが歌いだす。
夜の帰宅時、県下では大きな勝浦川の堤防を走ることがあるが、 左右から虫の音が、さわやかな風とともに車窓から入ってくる。
車からおりて、河川敷を歩くとそれらは、マツムシ、スズムシ、ツヅレサセコオロギ、ミツカドコオロギ、エンマコオロギ…等々、さらには、クツワムシの鳴き声も混じる。
柔らかな羽で、遠くまで響くような強く高い音を出すのには驚かされる。
小学低学年のころ、エンマコオロギをいくつかつかまえて飼育したことが何度もあった。羽をこすり合わせてあの澄んだ響きで音をだしているのを、実に不思議なこととして見入ったことを思いだす。
暑い夏に鳴くセミの季節が終わるとともに、夜には虫のこうした歌声が草むらから響くようになる。
私たちが、例えばエンマコオロギの羽をいかにすりあわせてもあのような音は出ない。
神の手によるとき、どうにもならないような弱い者も、大きなはたらきをすることがあるのを思いだす。
神は愛であり、全能ゆえに、いかなる人間の予想や考察、研究をも越えて、驚くべきわざをなされる。
私たちも、弱く小さなものであっても、神の御手が働くときには、御国への音楽を奏でるものとされる。
秋になると、わが家のある山では、クモが増えてあちこちで巣をつくっているのを目にする。
蜘蛛の巣、それは、ときには高い電線と近くの樹木に巣が造られていたり、離れている二つの樹木の枝と枝にかけられていたりする。
どうしてあのような位置に巣が造れるのか、子供のときからとても不思議であった。
羽があるものなら可能であろうが、ゆっくりとしか歩けないクモがなぜ、あのような空間に細い糸を張りめぐらすことができるのか。
それは、クモがまず片方の樹木の枝先に止まって、糸をたらす。風が吹いてとなりの木の枝にひっかかる。それをもとにして、造っていくのだという。
あの樹木の枝先まで、不器用な歩みで上っていく、そして糸をたらし、適当な風が吹いて別の枝にひっかかるまで待ち続ける。そしてそれがうまくいかないときさらに待ち続ける。
うまい具合に巣をはることができるようになるまで、どれほど待たねばならないことだろう。
そしてようやく巣づくりのもとができたら、せっせときれいに巣をはっていく。
そして、ふたたび待ち続ける。獲物がその巣にかかるまで。
クモはたいていの人には嫌われるものだ。
しかし、その待つ姿勢は、私たちにも語りかけるものがある。
ときが来るまで、待ち続ける。
神を信じて、希望を持ち、神の愛にあって待ち続けるー。 主の前にしずまって、み言葉を待つ。聖霊が吹いてくるのを待つ。病気の人たち、苦しみある人たちにいやしの力が注がれるのを待つ。
いっさいを変えてくださる再臨のキリストを待つ。
古代キリスト教徒たちが、夜明けに輝く明けの明星をみつめて、そこにその再臨のキリストを待ち続ける気持を託したように。
いかなる闇があろうとも、必ず時至って義の太陽は昇り、明けの明星は輝くのだから。
神はつねに私たちを招いておられる。
ここにあげたキリストの言葉は、おそらく、たとえ神やキリストを信じてない人でも、どこか心惹かれるものがあるだろう。
人間はすべてどんなに悩みなどないように見えても、一歩その人の魂の奥に入れば、だれでも、強い人、弱い人、大きなはたらきをしている人、地位や名声のある人、病院で寝たきりのひとたちー等々すべての人は、なにか重荷を負い、労苦し、心身の疲れを持っているからである。
いま、そのようなものを持っていないという人でも、必ずそうした疲れや重荷を感じるときが来る。 そのようなあらゆる人を見抜き、そのうえで「わたしのもとに来れ!」と招いておられるのがキリストである。
しかし、人間世界では、招かれるのは、能力のとくに優れた人、地位の高い人、有名な人、そして業績をあげた人ースポーツでは金メダル、学問の世界ではノーベル賞、文化勲章、また、大会社の社長…等々。例えば、天皇、皇后の主催する園遊会では、右のような人たち以外に、首相や大臣、衆参議院議長、知事、最高裁長官…等々である。
講師として招かれるのもその方面の業績ある人。テレビなどの解説者としては、深くなくとも幅広く知っている人…等々が招かれる。
大学に入るにも、一定の成績をあげた人とか、スポーツなどで特別な能力ある人だけが、入学者として招かれる。
このように、この世では「招かれる」ということは、何らかの恵まれた人たちが対象となることが一般的である。
これと反対に、この世で恵まれない人、また苦しみにある人、病気で一人苦しみにある人、自分の犯した罪で裁きを受け、世間からも見放されている人…等々、どんなにこの世から招かれるどころか、捨てられ、無視されている人であっても招いてくださるお方ーそれが聖書に記されている神であり、キリストである。
…疲れた者(*)、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。(マタイ11の28)
(*)「疲れた者」と訳されている原語は、コピアオーで、関連した動詞には、コプトー(打つ、切る)があり、体が撃たれ、切られるようなというニュアンスがあるために、コピアオー は、単に「疲れた」というのでなく、「労苦する、骨折って働く」というニュアンスを持っているので、口語訳では、「苦労する」、中国語訳は「労苦」、英訳は多くが labour(労働、骨折り)、 weary (疲れ切った)などと訳している。
労苦、苦労すれば、疲れるゆえに、この新共同訳では、「疲れた者」と訳されているが、単に少し作業して疲れた、といった日常的な軽い疲れを言っているのではない。
この世にあって、何かに疲れ果てた状況にある人は無数にいる。自分の病気や家族の病気、あるいは家族との不和、分裂等々は、もっとも身近な問題ゆえに日々それから逃れることができないゆえに、それらがもたらす疲れや重荷は解決のしようがないと感じることもあるだろう。
そして毎日の仕事によって疲れ果て、消耗して、もう続けられないと思うほどになっている人たちも多い。残業時間が毎月100時間を大きく越えるような加重労働をやっている人も多数いるという。
また、老年になると、死という最大の重荷が迫ってくる。それは、私たちの生命を無限の深い闇に引き込むのであり、限りない重荷を背負わされるということである。
そしてこのような個人的、身近なことだけでなく、突然にふりかかってくる災害や事故、またシリアや南スーダンその他のたくさんの紛争や何らかの権力からの圧迫、差別に苦しめられている人たちには、住む家すらなく、死を覚悟してはるか遠くまで逃げていかねばならない、病気になっても医者にも薬にも恵まれない…数々の重荷がある。
さらに、そのような外からくる重荷だけでなく、うちからの深刻な重荷がある。それは、自分の罪ゆえの重荷であり、人を裏切ったり、軽率ゆえに事故で他者の生涯を破壊してその家族も悲嘆のどん底に突き落としてしまった―あるいは、人間関係のあやまちを犯して取り返しのつかない事態となった…等々、自分の罪ゆえの重荷は、それをみつめているときには、ますますその人を苦しめ、生きていけないほどにもなるだろう。
こうした一切の精神的な消耗、苦闘、重荷によっていまも無数の人が世界で倒れていきつつある。
そうした人間をみつめ、静かにときには、強く語りかけているのが霊なるキリストである。
しばしば本人が求めていなかったり、キリストなる助け主を知らないゆえに求めてない場合でも、キリストのほうから突然に近づいてくださってその重荷を軽くしてくださることがある。
魂の疲れを癒してくださることがある。
私自身、中学の1年のときに、足の骨がかなり重症の炎症を起こしたために、分厚いギプスを入れて歩くこともできなくなり、7カ月学校を休むことになったのが、自分のからだで実感した初めての大きな重荷だった。
そのとき、通院にも山の急坂を父がおぶっておりることになり、戦後10年余りしか経っていないときであったため、自転車で10㎞以上の道を乗っていく、歩けないゆえに一人で帰れず、帰りの便もなく朝早くから父の仕事が終わる夕方までずっと病院で待ち続けなければならなかった。
しかも、白いギプスをして自転車に乗せていくと周囲の人の好奇の目にさらされることから 父はそれをいやがって、私もつらい思いをしたことはいまだに忘れられない。
しかし、そうした重荷があとになって、私にとってとても重要な経験であったのが、キリスト信仰を与えられてはじめてはっきりわかってきた。
それは、神様からの苦いけれども大きな恵みの体験であって、本をいくら研究してもわからないことだった。
それは、客観的にみれば、小さな経験だったが、そこからそのようなこととは比較にならない重荷を負った人たちの苦しみが、いくらかでも感じるような気がしてきたのだった。
自分の心において犯した罪、それゆえに生じた重荷、そうした重荷は、キリストの言葉どおりに、キリストのもとに行けばいやされる。
とくに、キリストの十字架のもとに行くと、どうしてなのかわからないが、重荷が落ちていく。
このことを、「天路歴程」(*)という書物では次のように記している。
…重荷を背負ったキリスト者は、背中の重荷のために非常な困難があった。
やや上り坂のところに来た。そこには十字架が立っており、少し下の窪地には一つの墓穴があった。 キリスト者がちょうど十字架のところに来たときに、彼の重荷は肩からほどけ、背から落ち、ころがっていってその墓穴のなかに落ち込んで、見えなくなった。
そのときキリスト者は、喜びで心軽くなって言った、
「主はその苦しみによって私に平安を与え、その死によって命を与えられた。」
十字架を見たために、このように重荷から解放されるとは実に驚くべきことであった。それで彼は繰り返し十字架を見ていると、涙があふれ出て頬をつたわった。
(*)1678年刊行。プロテスタントのキリスト教関係の書物では最も広く読まれてきたと言われ、多数の国語にも訳された。(およそ200か国語)
著者のバンヤン(1628~1688年)は、若き日は、道に反するようなこともしていたが、はっきりとした回心を体験し、それ以降は、熱心な伝道者となり、資格なしに伝道したといった罪で投獄されたが、その獄中で書いたのがこの「天路歴程」。
キリストのこの「来れ!」との呼びかけは、ヨハネ福音書にも記されている。
…祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた
、「だれでもかわく者は、わたしのところに来たれ。そして飲め。
わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生ける水が川となって流れ出る。」(ヨハネ福音書7の37~39)
ここでは、とくに、祭の最後の大切な日に、わざわざ立って大声で言われたのである。「私のもとに 来れ! 」と。
この特別に強調された表現は、キリストがこの呼びかけをとくに重要だとされているからである。
疲れ果てた者、重荷を負う者とは、その状態がひどくなるときには、霊的に渇ききっている者であり、死ぬほどの苦しみを感じている人である。神からの水、聖霊なければ死んでしまう。
こうしたキリストの言葉よりはるかに古いいまから2500年ほども昔に、すでにこうした苦しみに対して次のように呼びかけられている。
…渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ。銀を持たない者も来たれ。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め、
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。(イザヤ書55の1)
神が美しい自然、何の不純なものも存在しない自然の草花の美しさ、野山の緑、日々の大空の青い広がりや雲も、完全な清さや美しさ、力に満ちた神からの招きであり、このような広大な世界、深い世界へと来れ!との呼びかけが込められている。
秋になって、野山の草地からはさまざまの虫の音が響いてくる。それらも心開いて耳をすませるとき、やはり神からの「われに来れ!」との呼びかけを含んでいるのである。
Stand by me (主よ、私のそばに立ってください!)
主とともに生きる。
これは、今年の北海道瀬棚聖書集会の主題である。
人間の根本問題は、主(神)でなく、闇の力が忍び寄ってきて、私たちのそばにあってあるべき道からそらしてしまうことである。
それゆえ、主よ、そばに立ってください! ということは、私たちの最も切実な願いとなり、祈りとなる。
それゆえに、次のような賛美がある。
…共にいてください。
おお、主よ、
悩めるわれらを支えて。
いつくしみ深いキリストよ、
われらにあわれみを。
共にいてください。
おお、主よ、
悩めるわれらを支えて。
(「つかわしてくださいー世界の讃美(2)」の7)
主がそばに立ってくださるならば、私たちはどのようなときでも力を与えられ、前進することができる。
このことは、すでに今から三千年ほども昔に書かれた詩に表されている。
…たとえ、死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。
(詩篇23の4)
死の蔭の谷という言葉によって、さまざまのことを現代の私たちに思わせる。
人間の生活の途上においては、死ぬかと思われるほどの苦しみ、あるいは死にたいと思うような絶望的な悲しみに陥ることがある。
そのようなときー医者も薬も、また人間的な助けの一切が空しくなるような事態も生じうる。
そうした状況を乗り越える唯一のことが、ここでいわれていることー神が共にいてくださるということである。そばに立ってくださり、その苦難も悲しみも一種の愛の鞭として受け止め、また神の力を杖として歩んでいくことができるようになる。その経験をこの詩は簡潔で心に響く表現であらわしている。
私たちのそばに何者が立っているのか、それによって私たちの日々は、そして生涯が決定されていく。
他方、自分一人立つ、ということがある。
しかし、その場合でも、まったく一人でいかなる助け手もいない、話し相手もいない、ということはあり得ない。家庭や近所、職場、病院、施設…等々どのようなところにあってもつねに何らかのかかわりある人間が私たちの側にあるいは近くに立っている。
そのような人間が全くいないーということは、人間の住まない離れ島でもないかぎりあり得ない。
けれども、精神的に一人ということはよくある。
人間はいる、しかし心のそばに立ってくれている人はだれもいない。みんな遠くに離れている。それは、無数の人間が生活し、その人間が住むビル、住居が林立し、人間に取り囲まれている大都会であるほど、そのような精神的に一人ーという孤独が至るところにある。
学校、家庭や職場にいて、人はたくさん周囲にいるにもかかわらず、心の深いところではまったく一人だ、ということは実に多い。
みずからの命を断つーそれはそうした深い孤独のゆえであっただろう。
年間数万人が命を断ち(*)、自殺未遂やそのような死に至るような孤独にある人はまた、無数にいるであろう。
(*)世界の自殺率は、170か国ほどのデータがあげられているが(ウィキペディア)、ヨーロッパや南北両アメリカで、日本より自殺率が高いのは、リトアニア、ハンガリー、ロシアのみである。日本の自殺率は、170カ国中で17位となっていて、文化や経済状態の進んだ国々の中では、最も高い状況にある。
天地創造をされた全能の神、しかもその神が愛や真実の神であるなら、そのような神を信じる者にとって、神がともにいてくださることはいっさいの解決の鍵となる。
しかし、人間はそのような単純な真理から離れ、みずから神から離れて行こうとする。
神はすぐ側に立って、いっさいのよきものを与えてくださろうとしているにもかかわらず、人間のほうから去っていくのである。
このことは、聖書では、アダムとエバが神によってあらゆるものが備えられたエデンの園が与えられているにもかかわらず、そこに「蛇」が忍び寄ってきて、神が禁じたことを破っても悪いことはない、とそそのかして神が示した道から背いてしまう記述によって示されている。
神の示した人間のあり方に背いてしまったアダムとエバに対して神はただちに彼らを責めることはしなかった。そして次のように語りかけた。
…アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
(創世記3の8~9)
神はすべてのことを見ておられるのであるから、どこにいるのかは当然わかっている。
しかし、このように言われたのは、あなたは神からどのように離れているのか、という心の問題として言われている。
真実な神に従わず、背いたゆえに神を恐れて隠れたアダムたちに、「どこにいるのか」という問いかけは、現代の私たちにもそのまま投げかけられている。神からいかに近くにとどまっているのか、あるいはどれだけ神の真実や清さから離れているのか、静まって洞察せよ、という語りかけである。
主イエスも、神から離れて遠くへ行ってしまわないで、イエスのもとにとどまれ! と繰り返し言われた。
…わたしのうちにとどまれ。わたしもあなたがたの内にとどまっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしの内にとどまっていなければ、実を結ぶことができない。(ヨハネ福音書15の4)
このような人間の根本問題のゆえに、最初の兄弟であるカインとアベルにおいて、アベルの捧げ物が神に受け取られたということへの妬みから、突然カインはアベルに襲いかかって殺すという目を背けたくなるような状況が記されている。
兄弟殺しという重い罪を犯したカインに対して、神がなされたことは意外であった。
それは、人間世界でも、そのような重罪をおかせばただちに逮捕され、刑務所に入れられ強制労働が長期にわたってなされる厳しい罰が課せられる。
しかし、神は、カインに対してただちに厳しい罰を与えたのではなかった。
…主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」
すべてを見通しておられる神は、ここでもあえて直ちに罰せずに、カインがした行動の結果を問いただすのであった。それによって立ち返る機会を与えようとされた。
しかし、それでも罪を悔い改めようとしないカインに対して、神はつぎのように言われた。
…あなたは、地上をさまよい、さすらう者となる。
(創世記4の12)
この言葉は、このようなはるかな昔の伝説的な物語だと思ってはならないのであって、真理に背き続けるものは、必然的に「さまよい、さすらう者」となる。
このことは、神が言い、カインがそれを言い、さらにカインが住んだ土地の名前にも「さすらい」という意味が記され、 三度も繰り返し言われている。
最終的な人間の目標、あるいは到達点がわからないままでは、確固とした歩みは難しい。だれでも、何か交通機関に乗ってそれが最終的にどこに到着するのかわからないままでは、落ちついて乗ってはいられないだろう。
それと同じである。人生の最終的な到達点が何かわからないなら、魂の深いところでは、静まることはできず、落ちつくことはできない。
カイン自身もその裁きを受けることで、さすらい続ける者になってしまうことを知っていた。そして私に出会う人はだれでも、私を殺してしまうだろうと、自分の運命が罪のさばきの結果であることを知っていた。
そのようなカインであるにもかわらず、神は意外なことを言われた。
… 「カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受ける。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。 (創世記4の16より)
兄弟を殺すというほどの大罪を犯した者をあえてしるしを付け、だれからも殺されないように守るという。そのような神のなさりかたに、驚かされる。
ここにも、重い罪を犯したからただちに捨てられてしまい、滅ぼされてしまうーということでなく、そのような人間をもしるしを付け、悔い改めを待とうとされる神のお心が感じられる。
ここには、昔の伝説的な物語にこんな人がいたのだ、というだけのことでなく、このこともまた私たちのすべてにあてはまる真理が込められている。
私たちも神のあり方という高い基準から見るとみな同じように、罪ゆえに死んだようなものだと言われている。
(エペソ書2の1~5)
それゆえに、その罪のゆえに断罪され、滅ぼされてしまうということならば、だれも生きることはできないだろう。 そうした罪深い者であっても、やはりしるしをつけて、滅びから守られているということができる。
こうした神のなさり方は、そばに立っていてくださる神ということを思い起こさせる。
私たちのさまざまの流れのなかで、ときには重い罪をおかして魂がさすらう者となっても、なお神は私たちの側に立ってくださり、見守り、そしてその御計画のとき至れば救いだしてくださる。
このように、神はきびしく罰する神としてでなく、そばに立って人間の罪をみつめ、そこから立ち直るようにと語りかけ、悔い改めー神への魂の方向転換を待ち続ける神である。
これは、また新約聖書に記されたペテロに関することを思い起こさせる。
キリストの弟子たちは、イエスが捕らえられていくとき、みな逃げてしまった。使徒たちの代表者というべき地位にあったペテロも、あなたもイエスの仲間だった と言われたとき、激しく動揺し、そんな人など知らないと、誓うことさえしたと記されている。
(マルコの14の71)
私たちが、だれかに何年も特別に愛を注ぎ、生活のすべてを通して導いてきたとしよう。その人が、あるときに、それほどに愛と真実で愛されてきたのに、 その導いてくれた人に対して、そんな人など全く知らない、と言われたらどのような気持になるだろうか。
主イエスは、ペテロのそのような態度に対して次のように記されている。
…主は振り向いてペトロを見つめられた。
ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
ペテロは、じっと自分をみつめるイエスのまなざしを感じ、そこにすべてを見抜いておられ、それにもかかわらず、最後まで愛し、そしてイエスなど知らないと強く否定したような弱き者をもじっとみつめて、その弱さのなかから悔い改めることを、求められた。
そのイエスのまなざしは、意味深長だった。
そしてこのことは、単に昔のキリストの弟子の一人にあてはまることでなく、私たちが罪深き自分の現実を知らされて打ちのめされるようなとき、あるいは、病気や災害による苦しみ、また他者からの攻撃や中傷によって打ちのめされるようなとき、そこから主を仰ぎみるとき、キリストが、そばに立って私たちをみつめ、「我に来れ!」と、呼びかけてくださっているのを知らされるのである。
この世界には、物理的な音声とは別の、霊的な声というべきものがあるということを、私は今からちょうど50年前に初めて知らされた。
それは、1967年の5月末のことである。
その直前に、大学の裏通りにずっと並んでいる古書店の一つで、たまたま立ち読みしたキリスト教に関する一冊の本を手にして、初めて十字架による罪の赦しを目にして、キリスト教の真理が突然私の魂に入ってきた。
当時の学生運動に熱心であった学生たちは、たいてい無神論だったから、神などということはまったく議論も話題にもならず、私もまったく関心がなかった。
にもかかわらず、当時のとくに私の属していた理学部の学生たちがよく口にしていたマルクス主義というのが目にとまり、「マルクス主義とキリスト教」という本を手にとり、さっと一部に目を通したが心にはほとんど残らなかった。しかしその本と同じ著書(矢内原忠雄)が書いているというだけで 何の気もなく手にとったキリスト教にかんする小冊子によって私の生涯の方向が変えられた。
それは、キリストの十字架に関するパウロが受けた啓示を記した聖書の言葉をわかりやすい言葉で記したわずか1頁にも満たない箇所であった。
それによって、閃光のように罪とキリストの十字架による罪の赦しという聖書の言葉が私の魂の奥深くに入ってきたのだった。
それまでまったく知らなかった世界に突然目を開かれた私は、当時下宿していたすぐそばにあった「哲学の道」(*)にいつものように夕方に行って、サクラの古木にもたれて京都の夜景を見下ろしながらこの初めて知らされた信仰の不思議な世界を思いめぐらしていた。そのとき、生まれてはじめて、耳からのふつうの音声とは異なる、語りかけを感じた。
それは、予期しないことだったから、深く心に残されている。しばし目を閉じて静まっていたのを思いだす。
その後、しばらくして、大学の食堂に貼られてあったたくさんの安保問題やベトナム戦争反対など政治的なビラに混じって、ちょうど目の前に「矢内原忠雄記念講演会」というのが目に止まった。そして三人の講師の一人(富田和久氏)の演題が「静かなる細き声」(**)というのであった。
(*)京都市東山沿いに銀閣寺から若王子に至る疎水沿いの道。約1.5キロ。かつて、西田幾多郎・河上肇・田辺元ら著名な哲学者がこの道を愛し、思索しながら歩いた。
(**)今から二千八百年以上も昔の預言者エリヤに関して記されている。(旧約聖書 列王記上19の12)
私はその少し前に、その演題にある 静かなる細き声というべきものを聞いたという経験を与えられたために、ふだんならそうしたたくさんのビラなど目にも留めないのだが、驚いてさらに見るとその講師の名前が、当時のもっとも親しくしていた同じ理学部の友人のゼミの講師であった。その講師はほかの先生とは違うところがあるーとその友人から聞いていたこともあり、しかもその講演会場が、私の下宿から近くであったために、生まれて初めてキリスト教に関する集会に参加したのだった。
私にキリスト教信仰を与えることになったのは、キリストの十字架による罪の赦しに関する神の言葉によってであった。
そして、そのキリストが今も生きてはたらき、私たちに語りかけている存在であるということを初めて知ったのは、一人で疎水という川の流れのほとりで静まり、思いを目にみえない神やキリストへと向けているときに、与えられた静かなる細き声であった。
歴史におけるキリストの十字架という事実にもとづくキリスト教信仰の中心にあることー罪の赦しーそして、いま現在も生きて語りかける神、生きてはたらいておられる神(キリスト)の存在を直接的に実感させていただいたことーこの二つは、それ以来、現在にいたるまでずっと私のキリスト教信仰の中心にある。
信仰によって義とされるーこの聖書の表現だけに接しても私のたましいには響かなかっただろう。そもそも「義」とされる、などという日本語は、ほかにはどこにも見たこともなく、「義」がどうこうなどということは、まったく日常生活においても、新聞雑誌等々でもなじめない表現であったからである。
このみ言葉の真理をふつうの言葉で説明されたことによって私の心に、この真理が深く入ったのである。
その点では、聖書そのものの言葉では、日本語訳されたときに違和感があったり、すっきりと意味もわからないということがしばしばあるので、現代のふつうの日本語に説明的に話すということの重要性を思う。
「キリストが十字架の上から、お前の罪は赦されたのだーと語りかけてくださっている。」このわかりやすい言葉によって私は、信仰によって義とされるーというキリスト教信仰の中心にある真理が深く入ったのであった。
そしてそれ以後も、さまざまの日常生活のなかでの罪を知るたびに、十字架のキリストを仰ぎ、そこから最初に知らされたこの言葉を思いだす。そして罪の赦しを実感して平安を取り戻すということが繰り返し与えられてきた。
そのキリストの十字架からの 「汝の罪赦されたり」という語りかけ自体が、「静かなる細き声」なのであった。
キリスト教信仰とは、そして信仰に生きるとはこのような単純なことである。罪赦されたり、との御声を聞き取り、そこからさらに求めていくときに、私たちは罪赦された者が歩むための力を与えられる。それは聖霊といわれるものであるということが、のちに示された。
私がこのような人生最大の転機を与えられ、かつそれ以降も今日にいたるまで半世紀にわたって一貫して私のもっとも大切なこととして存在しつづけてきた真理は、学問や経験、あるいは生まれつきの家柄や能力などとかかわりがないのは容易にわかる。この真理は、学問のまったくなかった無学な人たちも無数の人が経験してきたのである。
そして、生まれつきの音楽や数学、体力等々の能力などにまったくかかわりなく与えられる。
また、私がこのキリスト教の真理を与えられるために、特定の人物の人柄、人格に接することも必要でなかった。だれかのすぐれた人格に接してキリスト教を信じたというのではまったくなく、ただわかりやすく説かれた聖書の言葉ー神の言葉に直接に接して私はキリストの真理を知らされた。それは啓示だった。
すぐれた人格の人に接してキリスト教になったーという人もいるだろう。しかしその場合でも、その優れた人格のキリスト者を造り上げたのは、生まれつきではなく、また知識や学問でもなく、その人が信じてきた神の言葉の力によるのである。
それゆえ、すぐれたキリスト者の人格に触れてキリスト者になったという場合も、つきつめれば、神の言葉によってキリストの力を示されたということになる。
使徒パウロにしても、キリスト者の人格に触れてキリスト者になったのではない。ステパノという最初のキリスト教殉教者の殺害にも加担していて、ステパノがユダヤ人たちによって石で撃ち殺されたときにもそばにあって、そのステパノの最後の姿ーまったく自分を殺そうとしている人たちを恐れず、憎まず、かえって彼らのために祈りを捧げて死んでいったーに触れていたがそれによってもキリスト者にはならなかった。なおも、迫害の手をゆるめず、国外にまでキリスト者を追跡して捕らえようとしていたのである。
そしてその迫害の行動のさなかに、突然復活したキリストの光とその言葉を受けて、パウロはキリスト者に変えられた。ここにも人格的なだれかに接してキリスト者となったのでなく、直接に復活のキリストによってであるが、そのキリストとは、ヨハネによる福音書でいわれているように、神の言葉そのものであるから、パウロも神の言葉によってキリスト者と変えられたといえるのである。
キリストの12弟子たちも、キリストの模範的な愛の行動、教え、奇跡に直接に三年間も身近に見聞きしてきたにもかかわらず、本当のキリスト者とはならず、キリストが捕らえられたときに逃げてしまい、さらに、イエスとのかかわりを指摘されたとき、イエスなどまったく知らないと言い張ってしまったほどだった。
そのようペテロが立ち直ったのは、そのような裏切りをした彼をも愛のまなざしをもってみつめるキリストであり(ルカ22の61~62)、そのキリストの復活した姿である聖霊が注がれたことによってであった。(使徒言行録2章)
使徒たちにおいても、単なる人格とのふれあいによっては、根本から変えられることがなかったのであり、キリストと同じ本質である聖霊によってまったく新たにされたのであった。
このことは、使徒言行録においても見られる。何人かの女性たちが、川のほとりの祈り場でいた。彼女たちに、パウロはキリストの真理を語った。
もちろんこれらの女性たちとパウロは初対面であって、パウロの人格とかはまったくわからなかった。
しかし、主は直接的にはたらかれた。
…主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。(使徒言行録16の14)
そして彼女の家族たちも主を信じるに至ったと記されている。
このように、私たちがうっかり考えやすいことー立派な人格でなければキリスト教は伝えられない、などといったことは、神の言葉の力を知らない、あるいは信じないからである。
私たちの人格ーそれが何十年たってもやはり罪深い数々があり続けるーそして愛といっても私たちの愛など限りなく狭い。そのような人格の力で人間を根本的に変えるなど到底できないのである。
神を知らない人を、十字架を知って、神の愛を知るように根本的に変えるのは、人間的なものでなく、神の言葉であり、その別の現れである聖霊なのである。
2 お前たちは正しく語り 公平な裁きを行っているというのか 人の子らよ。
3 この地で 不正に満ちた心をもってふるまい
お前たちの手は不法をはびこらせている。
4 悪しき者は 母の胎にあるときから背き続け
偽りを言う者は 生まれたときから迷いに陥っている。
5 彼らは毒蛇にも似た毒を持っている。
彼らは耳の聞こえないコブラのようだ。
6 蛇使いの指図の声にも聞こうとはしない。
7 神よ、彼らの歯を折ってください。
ライオンのような牙を折ってください。
8 流れ行く水のように、消え去らせてください。
9 なめくじのように溶け
日の光を見ない流産の子となるように。
10 茨が茂る前に
イラクサや雑草のように 一掃してください。
11 正しき人はこの裁きを見て喜び
悪しき者血で足を洗う。
12 人は言う。
「確かに、正しき者は良き報いがある。
確かに、この地を裁かれる神はおられる」
この詩は激しく、独特な表現で書かれている。2節は神がこの世の権力者たちの罪を指摘している。いきなり説明もなく始まっているのでわかりにくい。悪の力が公然とはびこっていることを、神がはっきりと糾弾しておられる。それをこの詩の作者が聞き取って、詩的表現を用いて書いたのである。
この詩は、作者の人間的な感情で、このような内容を言ったのではなく、神の言葉を聞き取り、それを受けて書いたのである。こういう点で預言書と共通したところもある。
4節からも驚くような表現があるが、これらの言葉を表面的に読むと、なんとひどいことが言われているのかーという気持になるのではないか。
幼い子どもは生まれたときは非常に純真な表情をしているので、生まれたときから迷っているとか、胎内にいるときから背いているなどという言葉は、私たちの通常の感覚とは合わない。
こういう点からも詩篇はどうも分からないと読まない人も多い。ヘビの毒は最も強力な毒と言われている。ここで言おうとしているのは、悪の根源的な深さである。母の胎に入ったときからすでに宿っているというくらいに奥深いものがあり、またそれは非常に危険なものを持っている。
その悪の特質は、不思議なことにいくら良いことを言っても聞かない。悪の根に深く入り込んだ人は、蛇毒のような毒を持っている、それほど深い悪にとらわれた人間が与える害毒は深刻なのだと言う。
これは、この世の悪の現実を深く知った人の独自の表現である。戦争も耳の聞こえないコブラのように、正しいこや平和主義は犯罪で危険思想であった。このように世界全体が蛇毒のようなもので近隣諸国を次々と倒れさせていったり、あるいは反対する人、正義や正しさに一切耳を傾けない、謎のような悪の力の奥深さを言っている。
そうした悪の持つ破壊的な力に対し、この詩の作者は、真剣に神に祈り願う。
毒蛇のような毒をどうか神様抜いてください。悪そのものが水のように捨てられ、流れ去るがよい。また悪の力がなめくじのように溶け、またそれらが焼かれ、一掃されるようにと、激しい表現で言っている。
旧約聖書の時代には、悪しき者とその者に宿る悪そのものが、分けて考えられずに、一つになっているように受け取られていた。 それゆえに、悪しき者が滅び去るようにと、強い言葉で言われている。
このように前半は現実の深い悪の力を、次にだから神様それらを徹底的に滅ぼしてくださいということを驚くような表現で表した。竜巻のように言葉、感情が激しく渦巻いて、正義の力が発動されることを強く待ち望む心情が表されている。
それは、悪の力が滅ぼされるようにとの切実な願いが独特の表現を生み出した。
この詩のような表現は、キリスト者をも戸惑わせるほどでありー翻訳によってその表現は異なるがーもう読みたくない、というほどの気持になる人が多いのではないか。
しかし、それはここで言われようとしている真理を見逃すことになる。こうした過激ともいえる表現のなかに込められたのは、そのような表現を超えた普遍的な真理がそこに刻まれている。
主イエスは、捕らえられ、十字架で処刑される前夜に、ゲツセマネで徹夜で、血のような汗がしたたり落ちたほどに、悪の力と激しい戦いをされた。自分に迫りつつある悪の力ーサタンが退けられるようにと必死に祈った。
そうした悪との戦い、さらに最終的に主イエスはその霊的な戦いに勝利して十字架に向った。そして全人類に及んでいる罪の力、悪の力に勝利された。
人をいくら死刑にしたところで、そうした制度をいかに整えたとしても人間は善くはならない。悪そのものが一人一人の心から、そしてこの世から除かれるのがクリスチャンの願いである。そのために主イエスも、「敵を愛し、悪人のために祈れ」と言われた。敵を愛するとは、その内に宿る悪が除かれて神の真実な霊が注がれるようにと祈ることだからである。
最終的に悪が滅び去ったら本当に喜ばしい。悪人が悔い改めて神の方に向き直ったら、天で大きな喜びがある。正しき人、神に従おうとする人は、必ず実を結ぶ。
この詩は、この世がいかにさまざまの問題が生じようとも、愛の神、そして悪の力を裁く神は存在するという確信で終わっている。
この詩の精神は、すでに詩篇1篇で示されている。真実に逆らおうとするものは、どんなに一時的に勢力があっても必ず裁かれる。反対に神に従う者は、どんなに苦しいことがあっても必ず覚えていてくださる。詩篇第1編は詩篇の基調であり、それが58編にも流れている。表現があまりにも独特だが、根底に流れているメッセージは本質的に同じなのである。
このような詩篇に接するとき、単に言葉の上では、あまりにも聞き慣れないような違和感がある表現が並んでいるために、そこに内在する真理にも気づかないことがある。
しかし、私たちは、こうした厳しい、あるいは特異な表現の背後に込められた神のご意志を読みとることが求められている。
それは、驚くような表現であったりするが、それだけに、作者が与えられた強い願いが数千年の歳月を経て私たちに浮かびあがってくる。
現代の私たちにも、そのような心をキリストによって質的に高められ、主に与えられて、悪の力が滅ぼされ、悪人がよきものになり、この世界が変えられるようにとの願いを新たにさせられるのである。
今年の夏も、北海道 瀬棚での三泊四日の聖書集会にてみ言葉を語る機会を与えられ、その帰途も各地で集会が与えられ、あるいは教友訪問をすることが与えられた。
多くの方々が祈りにより、また協力費などもささげてくださったゆえに、その方々との共同で集会や出会いが与えられたといえる。それらの一部を記したいが、記録が何らかの理由でできていないものもあり、記述にばらつきがあるが、読む方々も少しでも各地の集会のことに思いを馳せて祈りに覚えていただきたいと思い記すことにした。
7月11日(火)に、徳島市を出発、4人を同行して舞鶴市の山間部にある愛農高校卒業生である添田ご夫妻やその家族、親族の方々も加わり、10人ほどの集りが与えられた。
舞鶴市の中心部からは25㌔ほど、山間部に入っているところで、こうしたところでの農業による生活で生きていくのは相当に困難を伴うと実感する地域だった。それでもその小さな集落が主によって覚えられ、若い世代の方々がそこに住み、子供たちも与えられていることをじっさいに知らされ、主のはたらきを実感することができた。
13日夜からの北海道瀬棚(*)での聖書集会は、今年で44回となる。
(*)瀬棚といっても一般的には知られていない地域であろう。私自身も、14年前に瀬棚の西川譲さんから、瀬棚聖書集会の講師をとの連絡を受けるまでは、瀬棚という場所は知らなかった。瀬棚は、北海道の南西部、日本海側にあり、奥尻島のほぼ対岸にある。
その間、幼少の子供で、集会の開催当初には、会場のなかを走り回っていた子供たちはもう高校や大学に進学、あるいは社会に出ている方々もいる。
その間、瀬棚のいろいろな方々と出会い、酪農や一部米作やブルーベリー作りの方もいるが、その仕事の厳しさの一端にも触れ、さらに、病気や家族の問題等々、いろいろの重荷を担いつつ歩まれている姿に直接に接して、一般の議論や話合い、講話を聞くだけのキリスト教の集会とは大きく異なる集会を体験させていただいてきた。
私が瀬棚にくるようになってからも、キリスト教とは関わりがなく、結婚で瀬棚にすむことになった方々もおられる。その方々が、それぞれの直面する困難をとおして、信仰を与えられ、その確かな霊的成長に接して、一年ごとに訪れる私には、主が背後ではたらいておられるのを感じてきた。
瀬棚のこの農業にかかわる方々全体に、現在までの歩みが主の守りと導きのうちにあったのを感じるが、私が瀬棚に招かれて以来の15年ほどにわたる期間を通しても強くそのことを感じさせていただいている。
主はどこにでもおられる。求めるところ、また主の御計画に応じてどのようなところでも、主はその証し人をたてられ、その御業をこの世に証しをされる。
今回の瀬棚聖書集会のテーマは、その集会案内によれば、次のように記されている。
… 私たちは今年のテーマを祈りを込めて「Stand by me」(側にいて下さい)そして、想いを込めて「主と共に生きる」としました。…
私たちの日毎の難しい問題、悩み、日本や世界の状況への不安等々に接するとき、私たちは、私のそばに、私たちエクレシアのそばに、そしてこの日本や世界の苦しめる方々のそばに立ってください!との願いが自然に生じる。
主は、「神の国はあなた方のただなかにある」と言われた。
しかし、そばにいてくださっても私たちの方で常に求めていくことが必要である。主は、「求めよ、そうすれば与えられる。扉をたたけ、そうすれば開かれる。さがせ、そうすれば見いだす」と約束してくださったからである。
木曜日夜から土曜日まで、瀬棚での三日間の翌日は、そこから20キロ弱離れた、日本キリスト教団の利別(としべつ)教会での、主日礼拝であった。
瀬棚と、この教会でのメッセージと合わせて4回の聖書講話において、「主よ私たちのそばに立ってください、主とともに生きる」 という主題に沿った内容を語らせていただいた。
その内容の一部は今月号にも掲載した。
この瀬棚の聖書集会で、このように教会の方々とともに礼拝をさせていだだけるのも、大きな恵みである。
これは、以前からのこの教会の牧師や教会員のご協力、ご支援があってのことであり、ここにも主の導きが感じられる。
酪農、あるいは一部米作などの農家の方々の生活に触れ合いながら、そこで3泊し、そうした仕事の時間をやりくりしてこの夏期の聖書集会に参加される方々の姿に接することは、外部からの参加者にとっても強い印象に残ることである。
そのような生活は、生きてはたらくキリストがそこにおられるのを感じさせるものがある。
キリストの支えがなかったら、44年もの間、さまざまの生活の困難のなか、夏期の農業の仕事の忙しいさなかに、四日間にわたる聖書集会が続いていくことはなかったであろう。
瀬棚聖書集会に参加されている方々で、酪農に従事されている方々は、キリスト教独立学園の出身者が多くおられる。その方々と結婚して瀬棚にこられた女性たちは独立学園卒業でなく、信仰も知らなかった方々が何人かおられる。
また独立学園以外の方で米作やブルーベリーなどの栽培に従事しておられる方々もあって、そうした多様な方々がキリストの名によって、御言葉中心としてあつめられるということが続いてきた。
今回の瀬棚聖書集会には、徳島から私を含めて5名、横浜市から1名が、北海道外から参加。そのうち3名は視覚障がいがあり、今回はその人たちと、瀬棚からの20キロ近く東にある、日本キリスト教団今金教会牧師である石橋香代子さんの短い証しも語られた。
瀬棚聖書集会が終わると、その翌日7月17日(休日)に札幌交流集会が札幌市で開催された。釧路市からの参加、また札幌独立教会の方や教会からの参加者もあった。
札幌での交流集会は、今年で14年目となる。そのきっかけは、札幌聖書集会の大塚寿雄兄が、中途失明者であり、私どもの徳島聖書キリスト集会には中途失明者も数人おられ、その方々との関わりから始められた。それが、大塚さんの呼びかけにより、釧路や旭川、苫小牧からの信徒も集まる交流集会となり、小樽の「祈りの友」会員である日本キリスト教団の教会員も、体調や家庭状況が可能なときは参加されている。
現在では、旭川の集会は、代表者が召されたためになくなったり、苫小牧の集会は、私が札幌の帰途、立ち寄って別箇に集会が持たれるようになったので、札幌交流集会への参加はなくなったが、代わりに、近年では札幌独立教会の方々が、何人か参加されるようになり、また大塚さんの紹介で別の教会のご夫妻も参加されるようになった。
また遠い釧路からご夫妻で参加される岡田利彦さんは画家であり、キリスト教、聖書を題材とした絵画を多く描かれて私どもにも寄贈してくださった。そのなかで、「黎明」と題する絵は、夜明けが近いガリラヤ湖にあって小さな船にある弟子たちと夜明けを背景に湖上に現れたキリストが描かれたもので、多くの人たちにこの世の闇に揺れ動く私たちと、そこに現れてくださるキリストが、私たちの日々の生活それ自身を象徴的にあらわすものとして共感を呼んできた。
原画を写真にとってハガキ大などにする許可を得て、希望の方々にお送りしてきた。
浦和の関根義夫氏は、この絵を新しく建てた家にステンドガラス風に組み込まれておられる。
札幌から岩尾別や旭川の教友を訪ね、さらに苫小牧の集会にて、御言葉を語らせていただいた。
一年に一度であっても、直接にお会いすることは、主がそのつながりを強め、高齢となった方々も、そうした集会で新たな力が与えられるようにと願いつつ、御言葉を語らせていただいた。
その後、青森では市内の教会で、去年と同じく集会がなされる予定であったが、弘前市の対馬兄の希望があり、その地での開催となった。
新たな人は参加されなかったが、対馬さんの福音が語られる集会が生まれるようにとのつよい願いが、主によって聞かれますようにと願っている。
青森から、山形県の鶴岡に向う途中、盛岡市の田口宗一兄を訪ねた。夜の突然の訪問でご迷惑となるかと思われたが、パーキンソン病となって、体調にも問題が生じておられることを知らされていたので、直接にお会いしたいという願いがあった。主の守りと支えを祈ってお別れした。
鶴岡市では、佐藤周治氏宅にての集会で、いまから10年近く前の徳島での無教会の全国集会にご夫妻で徳島に来られたことがあって、それ以来の交流が続けられている。
そして佐藤さん宅での集会も、9年目になった。最初のときから、10人前後の少数の集りであるが、平日の暑さのなか参加される方々に働く主の御手を思う。
参加者のなかには、もう聖書もずっと読んでなかったが、家に帰ったら聖書を探して見ようといわれた方、また、キリスト教独立学園を初期に卒業したが、この世に神様などいるはずがないーという思いがずっとあった。
はっきりと救われたという実感がないままできた、が、今日の集会においては、初めて聖書に接したときのような気持ちで聞くことができたーといわれた方もあった。
神の言葉が心に入って、愛の神、活ける神を確信するようになるかどうか、それは人間の思いを越えてはたらく神のわざであるので、主が参加した一人一人の心にさらに働きかけてくださることを祈り願った。
佐藤よし姉は、若いころはまったく周囲にキリスト教の人はいなかったが、その後、友人に連れられて教会に行ったとき、突然 み言葉に直接接して変えられたとの証しを語られた。
その集会の後、山形市の山口賢一兄宅を訪問した。山口兄は新潟大学医学部を定年退官され、現在は両親が経営していたキリスト教主義の幼稚園長となっておられる。
山口さん夫妻のほか、その幼稚園で長く勤務されてきた方が同席されていて、その方は、聴覚障がい者と結婚され、手話通訳をもなさっている。私が聴覚障がい者教育の経験があったので、山口さんがとくに招かれたのだった。その日の夜は、山形市での集会を予定していたため、ゆっくりとお話しをうかがうことができなかったが、交流の機会が与えられて感謝であった。
なお、山口さんから1991年に、新潟での講演を依頼され、それを終えて、その翌日、遠い山形県の山間部にあるキリスト教独立学園まで、車に乗せていってくださった。到着して車から降り立ったときに、最初に出会ったのが、現在も勤務しておられる直木さんで、牛の世話をしておられた姿が印象的だった。
そのときは夏休みであったが、まだ学生寮も改築されてなくて古いままであって、机なども板を用いて自作のようなものを用いていて、一般の高校とは随分異なる状況にあることをじっさいに接して知ったことだった。
その日の夜は、山形市での集会。今から13年前に、いまは召された山形県の寒河江市(さがえし)の、黄木(おうき)さんが、山形市周辺のキリスト者の方々のところに車で案内してくださったことが、山形で長く信仰を持ち続けて導いてこられた白崎吉郎、赤間道義、小関 充といった方々との出会いとなり、その方々を長い歳月にわたって支えてくださった神のわざに接する機会が与えられた。
この10数年にこうした高齢の方々は天に召されたが、残された人たちによって集会は継続され、私が年に一度訪問するときにも集会が続けられ、主の恵みを受けてきた。
翌日の主日礼拝は、仙台での集会。田嶋誠、恵子ご夫妻が、祈りをもって準備してくださった集会だった。ご自分の集会の日曜の礼拝を、この集会に替えて参加されていた方々もあって、感謝だった。
感話のなかで、無教会ではなぜ水による洗礼をしないことがほとんどであるのか、についてはっきりした理由がわかったと言われた方もあった。また、それは次のような聖書の記述によるところが多い。
・わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」 (マルコ1の8)
・ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1の5)
また、「自分で考えて行動するということは 聖書で言われていない。」と言われて、どきっとした。自分で考えるといっても、だれかの考えや見方に影響されて言っていることが多いのに気づかされた、と言われた方もあった。
翌日は、福島県のあだたら(安達太良)聖書集会。湯浅鉄郎兄宅であるが、礼拝室として特別に造られた部屋があり、木造の芸術性を感じる場であった。
感話のなかで、湯浅兄は、つぎのように言われた。
…最初から自分にとって大切なのは何かなと…。
それは 「神は愛である」。 それは神の属性のひとつでなく、神の本質を表す。神は愛である。神様ってどんなかたですかといわれると、愛だ といってよいし、 愛とはなんかといわれると 神様だと、言ってよい。
私たちを造ったのはどなたか、と問われるなら、 愛 である、といってよい。
歴史上のキリスト者たちは、とくに迫害のなされていた厳しい時代には、さまざまの困難をとおしてー たとえ殺されることがあっても、 死んだあとも すべてのよきものをあたえてくださると信じて生きた。
肉体の死は 本当に必要なものが与えられ、必要でないものが取り去られることなのだ…。
奏楽は奥様の理恵子さんによってなされ、賛美の歌声が、神のもとへといっそう引き上げられるような思いがした。
無教会では特定の会堂を持たないところが大多数であり、会館の一室を借りていることが多いため、ほかの利用者の妨げにならないようにせねばならず、大きな声で自由に歌うことが難しいところも多い。さらに、そうした借り物の場所なので、ピアノ、オルガンなどの楽器を設置することもできず、また、人数が少ないところが多いために、音楽の賜物を与えられている人が集会員にいるところも少ない。そうしたいろいろな制約があって、多くの無教会の集会では、賛美の力が発揮されにくい状態にある。
このあだたら聖書集会は、その点では恵まれていて、理恵子姉は、子供のときから楽器演奏に親しんでこられ、キリスト教独立学園に在学中も奏楽をされていたとのこと。 自分は器としては穴だらけだが、それでも神様は愛を注いでくださっているのだと実感した。そして 音楽をとおして賛美することの重要性を教えてくれている。本当に音楽をとおして天を仰ぐ、賛美ささげるという思いを強くさせられてそのお役目をそのために生涯ささげたいと言われた。
また、湯浅宅からは、60㎞ほどもある白河市から、平日であるにもかかわらず、毎年参加される若い参加者もあり、毎年この集会を楽しみにしていると言われていた。
そして、福島において昔から農業を続けてこられ、各地で講演もなさるという大内信一兄も参加され、最近出された農業に関する本をもいただいた。
その本を自宅に帰ってから読むと、たくさんの農作物を随分ていねいかつ詳細にその育て方、有機農業のさまざまの工夫などが記されており、これだけの本を書くには長い年月の経験と、旺盛な研究心を感じさせられた。この集会のある午前のなすべき仕事を息子さんにやってもらって参加しているとのことだった。
私が北海道からの帰途に与えられる福島県での集会は、最初は2008年に、郡山市の富永国比古氏が院長をされているロマリンダクリニックでの集会だった。
その最初の集会のとき、そこに至る高速道路で激しい雷雨に遭遇し、車線もわからず、車の前後左右もまるで見えない状況で、ほとんど前進できないほどで、歩くような速さで最徐行しつつ進んだが追突されはしないかとはらはらさせられた。ようやく高速道路を降りて、クリニック近くの駐車場に着いて、富永さんが迎えにきてくださり、集会がなされるクリニックに入ったそのとき、雷がすぐ近くに落ちたようで、その轟音が響いたのでいまだに忘れられない。神の大いなる創造の力を直接的に知らされた思いだった。
その後は場所を湯浅宅でのあだたら聖書集会場に移して続けられてきた。
福島での集会ののち、私どもの徳島聖書キリスト集会で50年ほど昔に会員であった若井克子さん宅を訪ねた。
ご夫君の病気のことは以前から聞いていたので、以前からお訪ねしたいと思っていたが、日程の都合でできなかったが今回与えられた。半世紀ぶりに主にあって再会の機会が与えられ、ベッドにあるご夫君のそばにてしばしの交流のときが与えられた。
夫君は、言葉は発することはできなくて、寝たきりの状態であるけれど、耳は聞こえるので私たちの会話も聞き取り、また賛美もいくつか歌わせていただいた。目も意図するものに焦点を合わせることができないようであり、克子姉や私が語りかけても、話者に向ってみつめることもできない状態だったが、一時的に数分間であったろうか、じっと私のほうをみつめられた。
それは生きたまなざしであって言葉にならない何かを伝えようとするようなーそんな感じがして心に残っている。
そのようなまなざしに接して、目や体は自由に動かせなくなって、声も出せなくなってもなお、心の目で神様をみつめておられるのだと思われた。
私たちもいずれ、病気や高齢のために衰弱し、ものも言えなくなっていくという状況になっていくことがある。しかしそのときでも、言葉にならない言葉で、主をみつめるときに、主はその時の万感の思いをくみ取ってくださるであろう。
困難な状況にあるご夫妻が、弱きを顧みられる主のさらなる力と支えを祈ってお別れした。
その後、茨城県水戸市へと向う途中で、田嶋嗣雄さん宅を訪問。今回の仙台の集会を主催してくださった田嶋誠さんの実兄宅であり、「いのちの水」誌の読者であった田嶋幸吉さんが召されたあと、その奥様が継続して「いのちの水」誌を読んでくださっているとのことだったので、お訪ねしたいと思っていた。
継雄さんご夫妻とお母様といろいろお話ししていたら、継雄さんの奥様(緑さん)が、松山市出身とのことでそのご父君も無教会のキリスト者だったとのこと、それなら私も知っている人かもーと旧姓を訪ねると、河本さんだとのこと、それなら、50年近く前に 四国の合同集会で何度かお会いして存じあげていた故河本勇氏の娘さんだとわかった。
さらに、田嶋さんの前に訪問した若井さんは、田嶋さんとかつてその地域の信仰の指導者であった方の録音を使ってともに聞いておられるとのことで、ご両家の方々は主にあって親しい間柄だとわかった。
50年も前のつながりが、よみがえったような気持になり、不思議な神様の導きに感謝だった。 (以下次号)