いのちの水 10月号 第692号 2018年10月10日
畏れるな、私はあなたと共にいる。私はあなたを強くし、 あなたを助け、わが勝利の右の手をもってあなたを支える。 (イザヤ書41の10) |
目次
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秋空は澄んでいる。雲と青空のおりなす天空に描かれた絵画の清澄なる美しさに、見とれる。しかもそれは日々、刻々と変化する雄大な動画なのである。
青い色と、純白、きわめて単純なその二つの色であるが、見飽きることがない。その形そのものが絶えず移り変わって、しかも新たな美を生み出していく。
それらは、沈黙でありつつ、霊的なメロディー、ハーモニィをそこから地上へとあふれさせている。
地上の秋ー落葉樹は、さまざまの色合いに染められた葉となり、地上に落ちてしばし山道に立体的な絵を描く。
そして、草むらには、虫たちの賛美が響く。リーンリーンと鳴く鈴虫は、よく知られているが、自然の山野においての鳴き声は、最近では聞くことは少なくなった。
夜の集会からの帰宅時、大きな勝浦川の堤防道路を通るときに、そして潜水橋を通るために川べりに降りるとき、草むらには子供のときから耳にしっかりと刻みつけられている懐かしいこの鈴虫歌っているのが聞こえてくる。
かつては、山を少し登ったところにあるわが家付近にも毎晩聞くことができたが、いまでは、もういない。
しかし、現在でも、わが家の周囲の草むらに、松虫は多くいる。夕方から夜の更けるころに、繰り返し鈴のころがるような澄んだ声で歌う。
さらに、夜明けや昼間であっても、ジィジィといった地味な鳴き声で歌う、ミツカドコオロギや、ツヅレサセコオロギなどもよく耳にする。
ときには、金属をこすり合わせるようなクツワムシの大きな声も聞こえる。
そして、晴れた夜空、そうした虫たちのコーラスに耳を傾けつつ、空を仰ぐと、こんどは無数の星たちがそれぞれの輝きをもって、耳には聞こえない霊的な賛美を歌っている。 数千年も昔の詩人は、歌った。
…山々よ、すべての丘よ、木々よ
野の動物たちよ、地上に生きているものよ、
翼ある鳥たちよ、
主の御名を賛美せよ
主の御名はひとり高く
その栄光は、天地に満ちている!(詩篇148より)
混乱や苦しみ、涙に満ちたこの世にあって、幾千年、万年もこうした虫たちは賛美しつづけてきたし、空の星々はさらにはるかな永遠の昔からその輝きで歌ってきた。
混迷に満ちたこの世界に、こうした賛美は、ここに引用した詩篇に言われているように、聖なる賛美をこれからも流し続けていく。
台風や地震などによる大雨による洪水、土砂崩れ、強風、高潮…等々、今年は自然災害がとくに多い。
愛する家族や家を失い、途方にくれている方々、さらにその再建の道は著しい困難が伴う方々も多いことだろう。
新聞、テレビなどマスコミの報道もそうした方々の苦悩を報道するが、ごく一時的になってしまう。次々と新たな関心を引く事件が生じるからだ。
家族や家を失った人たちは、さらに資金もない場合には、今後ずっと困難な生活がつづく。
そうした苦しみや悲しみ、孤独に耐えていくためには、通常の努力や忍耐を越えて、人間を超えた力ー神の力を与えられたらどんなにかよいだろうと思われる。
そのためには、ただ愛の神、全能の神を信じ、キリストを信じるだけでよいと聖書には記され、じっさいその単純なことによってさまざまの困難や悲しみを乗り越える力を与えられてきた人たちが世界の歴史の中で無数に存在してきた。
たとえ苦しみ、悲しみが続くことがあっても、最終的には、ー復活の時には、いかなる涙もぬぐってくださるという確信と、希望が与えられるからである。
…玉座の中央におられる小羊(キリスト)が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。(黙示録7の17)
大きいものを求めるこの世
この世においては、大きいものが人々の目に触れるし、大きいほど注目を浴びるという傾向が強い。
オリンピックにおいても、勝利の数が大きいほど注目され、それが最大になるのは金メダルということである。同じように一生懸命に競技をしても、記録や点数が小さなものであれば、入賞もできず、メダルもとれないから全く注目されず、無視されてしまう。
そして金メダルを取るためには、国家が莫大な資金を投じて選手を養成していくから、アメリカ、ロシア、中国といった大国が当然メダルを多く取ることになる。
こうした何らかの意味で大きいものが重要視されるということは、私たちの生活の至る所で見られる。
収入も多額ほどよい、家や車も金額の大きいものがよい、成績も点数が大きいのがよい、会社も大きいのがよい、能力も大きいほどよいし、治療にいく病院も大きい病院ほど信頼できる…等々。政治においても、まず数が求められ、支持率という数が小さければ退陣することを余儀なくされる。
また数をもとに、特定の政党の都合のよいように決めていくことも多く見られる。太平洋戦争においても、国民に対して天皇が現人神であるとか、侵略戦争を聖戦であると教育の場でも徹底的に教え込んで、戦争を正しいものだという多数の人間を作り出した。
太平洋戦争が始まってすぐに真珠湾攻撃で圧倒的な勝利を得て同時に南方にも進撃していったが、そのころに多数決をとっていたら、圧倒的に戦争に賛成という人たちが多くなったであろう。しかし、その大多数が大いなる誤りを犯していたのだった。
このように、多数であるから正しいということは決してあてはまらない。
民主主義というのは、多数決で決めていくために、多数が正しいという錯覚を起こしやすい。しかし、真実がわかっていない人たちがいくら多数いても、ごく少数の真実を知っている人たちには及ばない。真理よりも数の多いほうを重んじるなら、真理でないものを重んじることになる。
こうした民主主義的な手法の弱点をすでにプラトンは今から二千四百年ほども昔から鋭く見抜いて、彼の主著「国家」ではその問題点をかなり詳しく論じている。
そのなかに次のような個所がある。
…多数を重んじるために、多数の機嫌をとるということが広く行われるようになる。
民衆に対して「ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、尊敬するようになる。」 (プラトン「国家」五五八C)
現代の政治もまさにこのように、大衆の一時的な好意を得ようと、力を注いでいる。
そのために、最も直感的に「大きなもの」としてのカネをちらつかせている。
先ごろの沖縄知事選において、政権与党が推した候補は、本来国や県にはそのような権限がないにもかかわらず、携帯料金を4割引き下げるなどと主張したり、以前からも辺野古工事と予算について、官房長官が、「工事が進まなければ予算が少なくなるのは当然だ」と言って、政府の方針に従わないと沖縄関係予算を減額すると、カネの力を全面に出している。
じっさい、辺野古への新基地移転のための埋め立てを当時の知事が認めた翌年の2014年度予算と比べて、2018年度の予算は、500億円近くも減額されている。
今も、また今後も難問であり続ける原発大事故も、もとはと言えば、多額のカネの力で反対する人たちをおさえていって、バラ色の未来があるなどと偽りの宣伝をした結果、生じたことなのである。
また、教師は、生徒に対してやはり多数の生徒の人気を得ようとして、生徒の機嫌とりのような姿勢が多くなっている。このことについても、プラトンは次のように書いている。
「…このような状態の中では、先生は生徒を恐れて機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。
一般に、若者は年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者をまねて機智や冗談でいっぱいの人間になる。」(同五六三A)
これは、今から2400年ほども昔の時代と現代の状況とが余りにも似ているのに驚かされる。
数が 大きいほど(多いほど)よい、という考え方は、子供から大人まで、ごく普通に見られることである。
それゆえ、小さきものに深い意味があるとか特別な祝福がある、などといったことは考えることもしない傾向がある。
まず神に聞く
こうした一般的な見方に対して、聖書は全く異なる見方をしている。
聖書には、最初から大きいものほどよい、といった考え方は全く見られない。
聖書の最初は、闇と混沌であって、それは世界がそのようなものであるということを暗示している。そして大切なのは大きいか小さいかの問題でなく、この世の闇の中にあって、それを越える、あるいはその闇の力に打ち勝つ力をもった光を与えられているかどうかこそが根本問題とされている。
また、もう一つの世界の創造に関する啓示は、創世記の二章にあるが、そこではこの世界は、渇ききったものであって、そこに命を与える水が流れているのであり、その水に気付いてそれを受け取るかどうかこそが根本問題であるということが暗示されている。
このように、聖書でははじめから、大きいものに執着するという人間の本性とは異なる道を指し示している。
聖書で唯一の神を信じる信仰の基本的な姿を示しているアブラハムにおいても、彼が大きいものに価値を認めたというようなことは全く記されていない。彼の生涯の決定的な分かれ目は、神からの語りかけを聞いてそれに従って未知の遠い地へと旅立ったということである。
彼は何か大きいものにあこがれて郷里の人々や財産を捨てて出発していったのでなく、場合によっては自分の命すら危ない状況があるだろうし、途中で何が生じるかわからない、また神が示す地に到着したとしても、すでにそこには別の民族の人たちが住んでいるのであって、生きていく保証もないのである。
現代では、大きな(上位の)得点、優勝、メダル、よい成績、有名大学、有名会社、多額の報酬、…等々、小さいころから、「大きなもの」を目指すのがよいことだという考え方は、あらゆる社会のなかにしみ込んでいる。
そうした状況を考えるとき、大きいものを目指して歩みをはじめるということとは全くことなる原理で聖書の代表的人物はその歩みを開始しているのがわかる。
神の力を信じ、小さくされることの重要性
このように、神に従うことが根本とされているから、そして神は愛であるゆえに、小さきものをも大切にする。そのことをはっきりさせるために、あえて少数を選ぶということも記されている。
今から三千年以上も昔、イスラエルのギデオンという指導者が、神によって呼びだされて敵との戦いにあたることになった。そのとき、三万二千人ほどの兵士がいたが、それでは多すぎるということで、その百分の一にあたる三百人ほどにまで選別したということが書いてある。
しかもその選別にあたっては、兵士をまず、恐れているものを帰らせたのち、小さな水の流れへと残りの兵士を連れて行き、そこで水を自由に飲ませた。その飲み方によって三百人ほどにまで少なくした。
およそ、戦いということにおいて、三万二千人よりも、三百人のほうがよいなどと考えるものはまずいないであろう。しかし、神はあえてそのような少ない人数にすることを命じられた。
このことは、まず数の力を求めるのでなく、まず神の力を信じることの重要性を示している。
旧約聖書の創世記に現れる最も重要な人物の一人である、ヨセフは末っ子であった上に、特別にすぐれた能力を持っていたこともあって、父親に特に愛されたが、兄弟たちから憎まれて殺されそうになり、そのあげくにエジプトへと売られていく。そしてそこでも無実の罪で牢獄に入れられたり、苦しいことが重なることもあったが、そうしたことをも忍耐と希望をもって受けいれていった。そして彼の預言的な能力が用いられて、エジプトで起きる長い飢饉を神の啓示によってあらかじめ知ることができ、それによってエジプトは飢饉に備えて国の安定を確保することができた。それゆえに、ヨセフは国王に次ぐ地位まで上がることになった。
このようなことも、もしヨセフが苦難に遭遇しなかったら自分の能力を自慢し高ぶる人間になっていたであろう。
神はそのようなヨセフを打ち砕き、小さくすることによって神の祝福が豊かに流れ込むようになさったのである。
また、やはり聖書のなかでも特に重要な人物であるダビデは、若いときからすでに並ぶものもないほどの武力を発揮して、どのような兵士も対抗できなかった敵軍の巨人ゴリアテを石投げだけで、いわば素手同然で倒したし、楽器の演奏や詩作の才能も与えられていた。そして羊飼いの少年にすぎなかったダビデは王の側近のようになり、さらに王以上の働きをするようになって民衆からも支持された。
そのように類まれな実力を発揮していくとき、王によって妬まれ、憎しみを受けて命をねらわれる。そしてダビデは砂漠地帯をあちこちと逃げていく。そうした苦しい状況において詩が作られたがそれらは貴重なものとなって伝えられた。そうした苦難の歳月ののちに、王は戦死する。そしてダビデが王となった。王となったダビデは次々と周囲の国々を平定していき、王国は広大となっていった。このように王として頂点に立ったとき、ダビデは甚だしい罪をおかすことになった。夫のある女性に心を奪われ、自分のものとしてしまった上に、その女性の夫を激しい戦いの前線に送り出して戦死するように仕向けた。
このような悪事は神によって厳しく罰せられることになり、それ以後ダビデの家庭には醜い争いや混乱が生じ、兄弟同志の憎しみから命を奪うことや、父親のダビデに向かって敵意をむきだしにして王位を奪い取り、殺そうとまでする息子まであらわれた。ダビデはその息子アブサロムから逃れようと王宮を出て砂漠地帯をさまよい苦しみの日々が続いた。
このようなこともすべてダビデの犯した重い罪のゆえであった。
こうした苦難は単なる罰だけではない。それは若くして王の側近のように取り立てられたとき、そこからの傲慢が生じないようにとの目的があった。
また王となって最も広大な領地を獲得した絶頂期にあってそこで彼は神の絶大な力、偉大さを忘れ、自分の武力や権力の大きさに魂の目がくらんだといえよう。
そのような増大していく自我、自分の力に頼ることを根底から打ち砕くために、神は厳しい罰を与えたのであって、大きくなったダビデを小さなものに過ぎないということを徹底的に思い知らせるためなのであった。
人間はだれでも何も苦しいことや悲しむべきことが起こらないときには、神の無限の大きさを忘れ、自分がひとかどの者であるかのように錯覚していく。
神は小さきものへとするために人それぞれに思いもよらないようなことを起こし、その苦しみや悲しみの中から、小さくしていかれる。そして自分というものがいかに小さきものであるかを、思い知ったときに初めて神からの祝福が豊かに受け取れるようになる。
詩篇ー小さくされたものの叫び
旧約聖書においてとくに重要な内容を持っている詩編においても、困難や苦難における圧迫された状況から、みずからが砕かれ、小さくされ、そこから神への叫びをあげ、神との深いつながりを持つようになっていく例が多く記されている。
主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ
わたしに対して沈黙しないでください。
あなたが黙しておられるなら
わたしは墓に下る者とされてしまいます。
嘆き祈るわたしの声を聞いてください。
至聖所(*)に向かって手を上げ
あなたに救いを求めて叫びます。(詩編二八・1~2)
(*)至聖所とは、神の最も重要な言葉(十戒)を記した板を納めていた可動式の幕屋。(一種のテント)
ここには、もし神が自分に答えて下さらないなら、滅んでしまう、という追い詰められた心がはっきりと感じられる。自分はもはや何ものでもない。ただ神の答えを待ち望むだけだという気持がある。
このような魂の状態こそ、小さくされた姿である。そして神を全面的に信頼し、ただ神だけをまっすぐに見つめるというその姿勢は、主イエスが言われたような「幼な子」のような心である。
神を讃美し、神に心からの感謝を捧げるという心は、自分が大きいのだ、自分こそはほめたたえられるべき人間だなどといった思いを持っている人には到底できないことである。
キリスト教世界は、この二千年の間に無数の賛美歌、聖歌を生み出してきたが、それは神の前に自らがいかに小さいかを知らされた魂からの叫びであり、また感謝なのである。
キリストと小さきものへの福音
主イエスの教えとして最も広く知られている次の言葉もまさにこうした小さくされることのなかにある祝福を指し示すものである。
ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。彼らは(神によって)慰められるからである。
ああ、幸いだ、心貧しき者たちは。天の国は彼らのものだからである。(マタイ五・3~4)
私たちが深い悲しみや苦しみに追いつめられたとき、自分の小さいことを思い知らされる。心貧しいとは、自分のなかに誇るべきもの、頼るものが何もないと深く知らされた心を言う。
また、次の言葉は、一見柔和な人が土地を受け継いでいくという意味に受け取られる。
「柔和な者は幸いだ、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ五・5)
しかし、この聖句は、旧約聖書の詩編三七編十一節の引用である。そこでは、
「貧しい人は地を継ぐ。」(詩編三七・11)
であって、これが本来の意味である。(*)
貧しく圧迫されているような人がかえって、神の約束の地を与えられるようになるという驚くべき神のなさり方がここには記されている。
日本語においては、「柔和な人」というのと、「貧しい、あるいは圧迫された、しいたげられた人たち」というのとは全く意味が異なる。柔和な人、というと一般的には、やさしい、物柔らかな態度を連想するのであって、貧しいとか落胆しているとか苦しんでいるといったニュアンスは全くないからである。
この詩編の言葉のすぐ前には、
「主に望みを置く人は、地を継ぐ。主に逆らう者は消え去る。」(詩編三七・9~10)
とあるので、「貧しい人が地を継ぐ」ということも、よく似た意味を表現を変えて言っているのだとわかる。
(*)この「貧しい人」と訳された原語(ヘブル語)は、「圧迫された、曲げられた」といった意味を持つので、ドイツの注解シリーズとして有名なATDは、これを die Gebeugten ((圧迫され)曲げられた、意気消沈した人たち)と訳しているし、英語訳にも、the oppressed(圧迫された、しいたげられた人たち)と訳している(NET)。 また、Oppressed people とも訳しているのもある。(GWN)
このように、主イエスの教えとして、最も広く知られている「幸い」についての教えは、その中心に「心の貧しい者、悲しむ者、圧迫された者たち」といった者へのメッセージが込められているのがわかる。
このような人たちは、自分自身の小さきことを深く知らされている魂の人たちである。こうして新約聖書の最初の書であるマタイ福音書では、山上の教えのなかで、小さき者たちが受ける祝福をそのはじめに置いていると言えよう。こうした配置も、聖霊が導いてなされたゆえであろう。
それに対して旧約聖書ではどうであろうか。
旧約においては、まず人間の基本的なあり方として、神に聞く、そして従うことが一貫して述べられている。すでにあげた信仰の父とも言われるアブラハムの生涯の記述は、彼が神の声に聞いて従うところから始まっている。
そして、アダムとエバが理想的なよき場所から追放されたのも、闇のなかの光のように、神によって完全に備えられたエデンの園にあって、神の言葉に聴こうとしなかったからである。ノアのはこ舟の記事も、また神に聴いて従った人と、聴こうとしなかった人たちが受ける運命が共に対照的に描かれている。
従おうとしないということは、神などいないとみなすか、自分は神の罰や裁きなどないし、また神からの罰などなんでもないとみなすほど自分というものを大きく見ているということである。
旧約聖書の預言者たちも、つねに神に聞くこと、従うことを語り続けてきた。
それは神にすべてを委ねることができるほどに、小さな者となれ、幼な子のように神をまっすぐに見つめよということであった。
神に聞け、という単純なことをもとにして、旧約聖書は書かれているといえるほどである。神の前にその正義の力を畏れないほどに自分を大きいものとみなしてはいけないということなのである。
新約聖書において、主イエスはすでに述べたように、心貧しき者、悲しむ者、圧迫された者をとくに配慮された。それはそのような状態に置かれたものはおのずから小さきものとなっているからである。
キリストがとくに心を注がれたのは、すでに述べてきたようなさまざまの意味において小さくされた人たちであった。
当時の世界で、生まれつき目が見えないとか、ハンセン病、あるいは足が立たない、耳が聞こえないがゆえに言葉もわからず、言葉を発することもできないような人たちは、周囲からの差別によって圧迫され、貧しく、また深い悲しみにある人たちであっただろう。福音書でも主イエスがまずそのように小さくされた人たちのところに出かけ、あるいはそのような人たちの必死の叫びを受けいれられたのであった。
そして、実際に幼な子を側に呼び寄せて言われたことがある。
…すると、イエスは幼な子(*)を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。
この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。
しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。…
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
(人の子は、失われたものを救うために来た。)(**)
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ福音書十八・2~10より)
(*)幼な子と訳された原語(ギリシャ語)は、パイディオンで、この語は、乳児のような幼な子、あるいは一般的な子どもをも意味する。例えば、新共同訳ではこの言葉を「子供」と訳しているが、イエスの誕生のときに東の博士たちが会いに来たイエスについては、「幼な子」と訳している。ヘブル書では生まれて三カ月の乳児であったモーセについても使われている。(ヘブル書十一・23)
(**)この節は、四世紀ごろのシナイ写本やバチカン写本にはない。しかし、五世紀のベザ写本やワシントンにある写本その他もいろいろな写本にもみられるので、カッコを付けたり、新共同訳ではこの福音書の巻末に付加しているが、古くからこの節も伝えられてきた。なお、この節は、ルカ福音書の19の10「人の子は失われた者を救うために来た」と同じである。
この箇所は、小さき者への主イエスの特別な関心を示すところである。このような小さきものへの深い関心は、深い英知を持っていたはずのギリシャ哲学の代表者ともいうべきプラトンの著作にも見られないことである。
自分を低くするとは、自分の罪を知るということである。そこからすべてが出発する。たしかに自分がいかに弱く、正しい道を歩けない小さな存在なのかを知らないなら、神に助けを求めることもしないし、救い主など不要と感じるだろう。
また、能力もなく仕事もできないー幼児はまさにそのような状態であるが、大人であっても、病気等のゆえにそのような状態にある人も多い。この世ではそのような人を軽視し、見下すことになる。しかし、そのような小さき人をも、主が愛されているのだ、主によって深い意味をもって存在しているのだと受けいれるときには、イエスをも受けいれることにつながっているという。
大きなものー地位や名声、あるいは芸術、スポーツなどで有名な人は、多くの人たちが受けいれる。それゆえにオリンピックのような競技は世界中が注目する。しかし、小さきものを受けいれるということは、神と結びついていなければ難しい。
小さきものには、特別に神と近い天使がついていると主イエスは言われた。
この世では人から無視され、捨てられることが多いが、神は決して見捨てないで、かえってそのような特別な天使がいると言われている。
…「これらの小さな者を一人でも軽んじないように心せよ。
私は真実を言う。彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。(マタイ18の10)
幼な子のような者にならなければ、天国に入れないという。天国とは、ほかの福音書では神の国と記されていることで、本来の意味は神の王としての支配というものである。その神の支配が及んでいる領域も意味するようになって、死後の霊的な世界も含むことにもなっている。
幼な子のような心、それは幼稚な心というのではなく、幼な子が、母親に心から信頼するように全面的に神に信頼するということである。そしてそれは、主イエスが山上の教えで話された、「心の貧しい者」でもある。
新約聖書でよく知られた放蕩息子のたとえがある。父が生きているうちから、自分がもらうことになっている財産の分け前をもらって仕事もせずに遠いところに出かけ、遊び暮らしていよいよ生きられなくなったとき、ようやく自分の罪に気付いて、父のもとに帰ろうと決心した息子のたとえである。
ここには、自分がどんなに遊んでも義務を果たさなくとも、罰を受けることもない、と、神の裁きなど全く気にも留めない態度があった。しかしそうしたいわば大きな態度が、根本から砕かれる必要があった。その息子は、自分の罪に気付いてから、「もう息子と呼ばれる資格はない。使用人の一人にして欲しい」という気持になった。
これは、自分が小さなものに過ぎないということに初めて気づいた、そのような意識へと変えられたということである。
そのように変えられたとき、父親は遠くから走り寄り、抱きしめ、今までにしたことのないような最大限の歓迎をしたと記されている。それは、いかに、そうした小さきものへと変えられた魂を神が愛しておられるかということを表している。
しかし、それまでずっとまじめに働いてきた兄のほうは、そのような遊び暮らしてきた弟が帰って来て、父親が高価な子牛をも調理して食べさせたりするのを見て、なぜそんなことをするのか、自分はずっと長い間、父親に従って働いてきたのに何一つそのようなものはくれなかったではないかと、父親に向かって不満を述べ立てた。
これは、自分はひとかどの者だ、自分こそ立派な者なのだ、という高ぶった意識が心の深いところにあったのを表している。このような自分が大きい者なのだという意識を持っているならば、そこには神の祝福はないということを、このたとえは示そうとしている。
この世はすべて大きいものへと向かっていこうとする。スポーツなどでも大記録を立てる、大きな会社を目指す、目ざましい業績をあげようとする、より収入の大きい方へ等々である。そしてこのような傾向は、子供から大人まで、ありとあらゆる人間の本性に深く刻まれている。
そうした根深い性質にまっこうから反対のあり方を聖書は指し示しているのがわかる。
このような小さきものへの重視と聖書で最も重要としている愛とはどのような関わりがあるだろうか。
私たちが自分は大きい者である、と思い込んでいるとき、それは罪を知らない姿である。自分がいかに正しい道や、真実な愛の実行が困難であるかを思い知らされたとき、また病気の苦しさや人間関係の解決がいかに困難であるかを知らされた者は、自分がほんとうに小さな存在であることを知らされる。
今の自分という存在そのものも、数年あるいは数十年、せいぜい六〇~七〇年ほどののちには必ず朽ち果てて病気となり死んでいく。そのことを考えただけでも実に小さなはかない存在である。
こうしたことを静かに思うとき、キリスト教の内容とか関係なく、理性的に考えても、自分が小さいものだと実感することこそ、ごく当たり前のことだと知らされる。その当たり前のことを深く知ることからあらゆるよきものへと通じる道が開けていく。聖書はそのことを詳しくさまざまの方面から記している書物だといえよう。
人間はどんなに大きいように見えても実に取るに足りない。それは死が近づくとだれもが思い知らされることである。学者も、天才もあるいはマスコミをにぎわしたような芸能人でも、老年となり、病気になり、死が近づくとき実に小さきものとなっていく。
そのような小さい存在になるとき、周囲の人間は多くが関心を持たなくなる。
しかし、神はいっそう心に留めてくださることを信じることができる。
キリスト教の中心となる真理は、十字架の死によって私たちの罪が赦されたということと、復活ということである。それらをもとにしての再臨ということである。
これらはみな、人間は無に等しいような小さき存在であるが、それを神の前で大きい存在として下さるための道であると知らされる。罪赦され、清められて私たちは日々新たにしていただき、最終的には、復活を与えられ、主イエスの栄光と同じ姿にまで変えられるという。主イエスの栄光とは神の栄光であり、それ以上に大きなことはない。それは、信じがたいほどの大いなることである。
それほどの大きなことを、ただ、自分の罪を知り、小ささを知り、そして十字架を仰ぐ、それだけで神はわたしたちに与えて下さる。そのためにはただ、神を見あげる心だけあればよい。
この世で大きい者(業績をあげるとか、有名になったり多方面で活躍する等々)になるためには、生まれつきの健康や能力、あるいは周囲の援助、金など、さらには運といったようなものまで実にさまざまのものが必要であり、ごく一部のものしかできない。
しかし、聖書に記されているような意味での、大きくされることは、だれにでも開かれた道であり、永遠に祝福される道なのである。
旧約聖書に記されている預言者エリヤやその後継者であったエリシャに関する記述には、さまざまの奇跡がみられる。ここでは、そのごく一部を取り上げたい。
そうした内容は、現代の私たちには、あまりにも特異すぎて信じがたいと思われるほどである。
しかし、それらの奇跡を、私たちの経験や科学的に考えたらあり得ないなどと、一蹴するのでなく、信じることが求められている。
それは、神の全能を信じるという単純なことである。この無限大とも思われる広大な宇宙、その無数の星々を創造し、地上のありとあらゆる植物、昆虫、動物たちをそれぞれすべて特徴を持たせ、その羽や花、葉、樹形等々なども、驚くべき無限の多様性や美を兼ね備えた神、そして私たちの体の内部のそれぞれの器官のきわめて精緻なしくみ、あるいは、1ミリの長さに1000個も並ぶほどの小さな細菌のなかのきわめて微細な構造と、そこで行なわれる複雑きわまりない化学反応…等々、どこを見てもその無限の力が感じられる。
さらに、愛や思索、創造、祈り、見えない存在を慕い求める能力、そうした人間の心、精神世界、霊的世界というこれまた無限の世界をも感知できるような能力も創造されたのである。
そのようなことを行なうことができるのは、まさに全能の神でしかありえない。
そうしたことができる神なら、どうして聖書に記されている奇跡が行なえないということがあろうか。奇跡が行なえない神なら、全能でないということは当然のことになる。
キリスト教において神を信じるとは、まさに全能の神を信じるということなのである。
奇跡など信じられないーというとき、それは、全能の神を信じていないことに原因がある。
聖書にある数々の奇跡については、いろいろな人間的な説明をするのでなく、主イエスが求められた幼な子のような心をもて、全能の神を信じることによってそれらの奇跡も行なわれたと信じる道が開かれている。
今から二八〇〇年ほども昔の預言者の記事が、旧約聖書の列王記下三章にある。
その当時、イスラエルとユダ国の連合軍が敵と闘おうとしていたとき、水がなくなった。雨がほとんど降らないユダ国南部地域にあって水がなくなるということは、ただちに死活問題となる。闘うどころか、死んでしまうという危機的状況となった。
そのような状況となって、王たちは預言者エリシャのところに行く。
預言者は、王たちや兵士たちが思いもよらないことを命じた。
「この涸れ谷に次々と堀を造れ。 主がこう言われるからである。
『風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水が溢れ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む。』これは主の目には小さいことである。主はモアブをあなたたちの手に渡される。」
この言葉どおり、翌朝には、なんと水が死海南部の乾燥した地域から流れ込んで、その地は水でいっぱいになった。(列王記下3の16~20)
涸れた谷に堀をほっても水は出ない。しかし、神が全能であれば、それは可能となって水は湧いてくる。
これは、この時だけの奇跡ではない。今も、この神の力は続いている。
私たちは、昔のような武力による攻撃によって死ぬか生きるかの戦いにあるのではない。しかし、目には見えない霊的な悪の力は、たえず迫ってきて、私たちを滅ぼそうとする。
…身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるライオンのように、だれかを食い尽くそうと探し回っているからである。(Ⅰペテロ5の8)
このような状況にある私たちであるが、信仰によって神が備えてくださっている泉へと逃れることができる。そして私たちの求める心が熱心であれば、渇いた魂を、悪魔に悩まされている心を清め、励ましてくださる。
「だれでも渇いている者は、私のもとに来たれ」とイエスは言われた。
人は、霊的に渇いている。だから、イエスはわたしのところに来なさいと言われた。この世の水は、飲んでもまた渇く。この世の楽しみで、どんなに気を紛らわせても、また心は渇いてくる。しかし、渇かない水がある。それが、キリストの水である。
今あるわずかなものを用いられる神
預言者の仲間の妻の一人が夫を失い、その子供たちを奴隷にとられそうになって叫んだ。エリシャに助けを求めた。エリシャは「あなたの家に何があるのか?」と聞いた。そこには油の壷、ひとつだけしかなかった。エリシャが、壷を借りてくるように言った。妻は、従って、言われるままに借りてきた。そして、言われるままに、壷に油を注いでいった。不思議なことに、油はすべての壷を満たした。
この奇跡、これは、イエスがカナの婚礼でも、水を葡萄酒に変える奇跡をおこなったことにも通じている。イエスは、そこにある水を用いられた。今、あるものを神は使われる。今、その人に与えられているものを、いかにささやかなものであろうとも、それを用いてくださる。
人間の苦しみや悲しみをイエスは知っておられる。神は、イエスに苦しみを与えて、どんな人の苦しみも、わかってくださる道を開いてくださった。心を知ってくださる神様に、わたしたちは、信じて従い、今あるものを持っていくとき、水が葡萄酒に変えられ、壷に油が満ちるのである。
5千人のパンの奇跡においても、こどもが持っていた大麦のパンと小さな魚を、イエスが大きく増やされたのであった。(ヨハネ6の9~)
二匹の魚と五つのパン、これは、福音、神の言葉を象徴している。それが、世界中のおびただしい人々へと広がっていくことを指し示しているのである。
その重要な内容が、ここにも記されているのである。
いま、私たちに与えられているものは何か。たとえそれが取るに足らないようなわずかなもの、小さなものであっても、全能の神を信じて用いていくとき、神はそれを祝福される。聖書は、具体的な奇跡を通して、永遠の真理を示しているのである。
さまざまの災害の時、ボランティアの方々も献身的に手助けしているが、それ以前に、国がそのような災害時にただちに派遣できるような、災害救助隊というべき組織を創設するべきなのである。
自衛隊の戦闘機一機が一五〇億円以上もするが、それを来年度も6機、合計で一千億円近くもの巨額が計上された。
さらに、最近報道されているイージス・アショアという地上配備型の迎撃システムは、二基で二千五百億円、そのレーダーなど関連施設費や維持費を含めると、六千億円を越えるという予想がなされている。
このような膨大な軍事費をやめて、災害救助隊といった組織にその巨額の費用を注ぐなら、どれほど効果的であろうか。
災害救助にはそうした戦闘機や海陸のイージス鑑や地上のイージス・アショアなどは全く必要ないからである。
自衛隊の宣伝に、災害救助というのがよく用いられている。
しかし、本来は、日本のような特別な地震や津波、大雨、火山などの災害多発国には、そうした高価な戦闘機やイージスシステムなどより、そのような災害救助部隊の創設がはるかに現実の災害に対応できる。
ある国が高額な軍備設備を整えていけばいくほど、大国はそれに対抗するため一層軍備に力を入れるという悪循環となり、全体として世界の危険性を増大させていく。
しかし、災害救助ということのための組織なら、そのようなこととは逆に、直接に困難にある人たちを助け、さらに海外の多発する災害救助に派遣が可能となり、国際的にも
信頼がより高められるであろう。
(404)カール・バルトの祈りから
主なる神様、私たちのお父様!
あなたは光であり、そこにはどんな闇もありません。そして今やあなたは、二度と消えることのない光、最後には一切の闇を追い払ってしまう光を私たちの内にも点じられました。
あなたは、永遠の命への道を私たちにも開いて下さいました。
どうか私たちが、すべてあなたからのこの賜物と啓示について、敏感であり、深い関心を持つようにしてください。
あなたの慈しみの豊かさの内から、少しでも私たちが受け取り、私たちの心の深いところに入り、私たちを照らし、立ち上がらせ、さらに他者を慰め、励ますようにさせてください。!
(「祈り」バルト著 新教出版社80頁)
・バルト(一八八六―~一九六八)は、二〇世紀最大のプロテスタント神学者と言われる。ドイツのヒトラー政権が成立すると教派を超えた抵抗運動を主導した。
(405)ルターの祈り
私たちは自分の罪を認めます。どうか恵み深き父であってください。私たちを裁かないでください。
私たちが生きていくとき、あなたの尊い御名が聖とされますように。
あなたの栄光と、賛美とならないものは、一切思わず、語らず、行なわず、持たず、また始めることがありませんように。そして自分がほめられることでなく、あなたの栄光と御名を求めさせて下さい。
私たちがあなたを愛し、畏れ、御名を聖とすることができますように。(「改革者の祈り」新教出版社24頁)
・ルター(1483~1546) ドイツの宗教改革者。1517年、ローマ教皇による免罪符販売に反対して、九十五箇条の論題を発表し、宗教改革運動の発端をつくった。そこからプロテスタントというキリスト教の新しい流れがはじまり、世界の歴史にも多大の影響をもたらした。
〇祈りの友 合同集会
8月24日(休日)11時~16時まで、徳島聖書キリスト集会で行なわれました。
地元徳島の参加者を主体として、30名余りの参加者があり、賛美、聖書からの祈りについての短いメッセージが4人によってなされ、参加できなかった人たちへの寄せ書き、昼食と交流、さらに午後3時の祈りを全員で行い、よき祈りと交流のときが与えられました。
県外からは、大阪、岡山、香川、京都などからの参加者があり、スカイプでも若干の参加者がありました。
今回はとくに若い中国人夫妻が、香西信さんに伴われて参加されて、よき交流を与えられ、感謝でした。
★「野の花」文集原稿の募集
毎年、発行している文集です。これは私たちの集会から発行しているものですが、どなたでも投稿できます。
「野の花」文集を発行する目的は、福音のために神に用いていただくためです。手にとる人が、何らかの意味で神のこと、キリストのことを思い、より近づけられるようにとの願いから発行しています。
・締切り… 10月31日。
・二千字以内。
・送付方法…メール、添付ファイル、原稿用紙、あるいは、コピー紙に印刷するなどの方法でお送り下さい。
ワープロで入力できる方は、それをテキストファイルにして、添付ファイルとしてメールでお送りくださるのが一番好都合です。なお、FAXでは、文字が見えにくくなって、しばしば問い合わせねばならないことがありますので、原稿は、FAXでなく、郵送でお願いします。
なお、添付ファイルにするのが難しい場合は、メール本文に書いて下さっても結構です。
・原稿の末尾には、住所、E-mail:、電話番号などを書いておいてください。原稿の不明瞭なところなどがある場合、問い合わせする必要があるためです。
ただし、文集に掲載するのを望まない場合には、その項目に × 印をつけておいてください。
文集にそれらを書き添えるのは、書かれた内容に関しての応答、感想などを届けて、より主にある交流が深められるようにとの目的です。
〇無教会全国集会…
・日時…10月27日(土)13時30分 受付12時30分
~28日(日)16時45分
・会場…千葉県市川市の山崎製パン企業年金基金会館
主題…「応え給う神」
・講師…講演 友寄隆静、
主日礼拝 吉村孝雄
費用:参加費・食事代・宿泊費が必要です
参加申し込み:締め切り10月12日(金)
・問合せ:
★11月に、県外各地で、吉村孝雄が聖書からのメッセージを語らせていただく集会の予定は次のとおりです。
〇11月7日(水)大分市
・集会時間 19:00~21:00
・場所…大分市東津留1の7の21 梅木宅・問い合わせ…
〇8日(木)…19:00~21:00 宮崎市での集会
・場所…宮崎市南宮崎駅前 レンタルスペース束なる(南宮崎駅前ビルD棟1号)
・問い合わせ…
〇9日(金)…14:00~16:00 県老人福祉会館(鹿児島市鴨池2-30-8)
・問い合わせ…
〇11日(日)…10:00~12:00福岡市での主日礼拝集会
・会場…C&M(福岡市中央区大名2-12-9)
・問い合わせ…
〇11月12日(月)…17:30~19:00 島根県浜田市津摩町590
〇11月13日(火)
・時間 10:00~14:00
・場所…島根県雲南市木次町寺領687の1(土曜会館)
・今回の集会は、故広野和政氏の記念会を兼ねて行なわれる予定。
・問い合わせ…
〇11月14日(水)15:00~17:00
鳥取市 白兎会館
・問い合わせ…
〇11月15日(木)岡山での集会 13時半~16時半、
・会場…ピュアリティまきび
(岡山市北区下石井 4162)
・連絡先
★10月に神戸市、高槻市で吉村孝雄私が聖書講話をさせていただく集会
〇阪神エクレシア…・10月14日(日)午前10時~12時 兵庫県私学会館
元町駅から徒歩5分 ・
(スマホで右のQRコードを読みとれば、徳島聖書キリスト集会ホームページを見ることができます。)