「いのちの水」第684号2018年2月10日
目次
(以下は、去る1月6日~8日に、横浜市「上郷・森の家」で行なわれた冬季聖書集会における聖書講話。主題は「復活」) | |
今はわが家の庭には水仙があちこちに咲いている季節ゆえに、たまたま目にした次の俳句が心にとどまった。
水仙を見て水仙に見られをり
このような経験は、多くの人が感じたのではないかと思う。
単なる言葉の表現のおもしろさといったものでなく、じっさいに、万物を愛をもって創造した神がおられることを信じ、いまもその神が、万物を支えていることを信じるときには、じっさいに、このように感じられてくる。
水仙に限らず、黙してたたずむ樹木ーとくに大木ーであっても、そのさまざまの風雨に絶えた過去を見つめるとき、その堂々とした樹木が私たちに静かに語りかけてくる。
夜空の星も同様である。
闇のなかに汚されない光に輝き続ける星、それを見つめるときには、その永遠の光が私たちに語りかけてくる。
私たちは、苦しいとき、神を仰ぐ、祈る。そのとき、神もまた私たちを見つめてくださっているのをほのかに感じる。
私たちが神を仰ぎ見ていないときから、すでに神は私たちを見つめてくださっている。
逆に、憎しみをもって相手を見るなら、相手もまた憎しみをもって見つめてくるであろう。
人を傷つけても平気だというような悪しき人は、こちらが愛をもって心の目で見つめても、まったく変化もなにもない、ということが有りうる。
しかし、それでもなお、愛をもって見つめ続けるときには、相手の背後から神が私たちを見つめてくださる。
門をたたけ、そうすれば開かれるーこのキリストの言葉は、奥深い意味をなげかけている。
冬は雪、その純白に 心惹かれる。
雪国では、雪というと多大な積雪のためのさまざまの難儀を連想される人が多いのではないかと思われる。
しかし、徳島のような南国にあっては、雪が降る日は少なく、雪というとその白さを思い浮かべ、雪景色の美しさを思う。
聖書の記された地方では、雪はさらに少なく、雪景色の美しさというより、その純白が心に響いたのがうかがえる。
イエスの復活を告げる天使の衣は、雪のように白かった。(マタイ福音書28の3)
神の使いとは、神の御性質の重要な特質を表している。それは、雪の白さにたとえられている。言い換えれば罪がないことである。 罪とは表面的な悪い行動を意味するだけでなく、その行動の奥にある心の悪しき状態である。いいかえると、神のもっておられる純粋な愛や正義に背く心の動きを意味する。
そのようなことがまったくない状態は地上の人間にはありえない。
神の国に属するものだけがそのような完全な罪なき状態にあり、それゆえに天使は雪のように白いと表現されている。
…その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎。
…「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。(黙示録1の14、18)
ここでは、復活したキリストの頭や髪の毛が雪のように白い と言われている。
…六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
(マルコ9の2~3)
このように、イエスが近いうちに十字架にかけられることを知って、弟子たちを伴って高い山に登ったときに、イエスの姿は、人間と思えぬ姿となった。その特質がここでも、服が真っ白に輝いたということで表されている。
三千年ほども前の人が、つぎのように書いている。
…ヒソプ(*)の枝によって私の罪を除いてきよめてください。
そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。
そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。(詩篇51の7)
(*)植物名。清めに用いられた。
このように、聖書の書かれたパレスチナ地方では雪は稀であり、それゆえにいっそう雪の白さは神の完全な清さ、罪がまったくぬぐい去られた状態を実感させるものとなっていたのがうかがえる。
人間世界は、汚れている。いかにしても清くなれないーとの気持ちから、清くされることを求めない心になることもよくある。
この世では、清濁併せ呑む というように、不正なこと汚れたことも適当に暗黙のうちに認めていく姿勢がないといけないーなどと言われることさえある。嘘も方便といわれ、適当に嘘も必要だと考えている人もある。
このような心では、ここにあげた詩の作者のような、雪のように白くしてくださいーというような切実な願いは生まれない。
求めよ、そうすれば与えられるーこのキリストの約束は、このようなことにもあてはまる。
人間の努力や修養、知識、多様な教養、人生経験等々、いくら重ねても、心が、雪のように白く、罪からまったく清められることはない。
使徒パウロのような、もっとも聖霊を豊かに与えられたとみなされる人さえ、自分が欲していない罪をしてしまい、しなければならないことができないーこの死のからだをどうすればいいのかーと嘆いているほどである。
そのようなパウロにも、またそれ以後の無数の人たちに、雪のような白くされる道が与えられることになった。
それが、キリストの十字架を信じるという単純なことなのである。
キリストが私たちのそうした汚れー罪ゆえに死んでくださったと、信じるだけで、私たちの罪は赦されて義とされるー言い換えると白くなったものとみなしてくださるというのである。
そして完全に白くされるのは、御前にて復活させていただいたとき、天の国においてそれはなされる。
冬の寒さのただなかに大空から舞い降りてくる雪、その白さに、はるか数千年前から、聖書の人たちは、神の国の罪なき聖なる白さを思い浮かべ、またそのような状態を祈り求めていたのであり、じっさいに信仰によってそのような清さが与えられ、死後には完全な白さが与えられるようになったのである。
現代の私たちも、雪の白さに触れるときに、聖書におけるこうした記述、十字架による罪からの清められた状態を思い起こすようでありたい。
復活というと、一般的には、キリスト以後のことだと思われている。しかし、新約聖書で重要な教えやその内容は、たいてい旧約聖書からすでにその源流が見られる。身代わりの死、隣人愛、神の本質が真実と慈しみということ、罪の赦しの重要性…等々。
それでは、復活に関する記述も旧約聖書にあるだろうか。
まず、旧約聖書の冒頭に記されている、闇と混沌のなかで神が「光あれ!」とのひと言によって光が存在するようになった。
そして、死とは、闇と空虚であり何もないという状態だと言える。そのような中に、光を存在させた。その光は、単に物理的な光だけを意味するのでない。
後になって、ヨハネ福音書の冒頭において、ロゴスという言葉で表されたキリスト(地上に生まれる以前)は神とともにあり、万物の創造もそのキリストによってなされた。
そしてそのロゴスという言葉で表されたキリストは、命があり、その命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書1の2~3)
ここからわかることは、光あれ! という神の最初の言葉は、同時に 命あれ! という内容を持っているということである。 このように、この創世記巻頭の言葉は、死の世界から復活を最初に指し示しているのである。
次の記述にも永遠の命ー復活が暗示されている。
…エノクは三百六十五年生きた。
エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。(創世記5の22~24より)
これは、人間は死んだら終わり、消えてしまう。あるいは陰府(ヘブル語でシェオール)という暗い世界に行くといった考え方を越えて、死ぬことがなく、神のところへと引き上げられるということを閃光のように啓示されたのである。
このエノクのことは、後の世代にも強い印象を残したのは、つぎの旧約聖書の続編にある記述にも現れている。
…エノクは主に喜ばれて天に移され、後世の人々にとって悔い改めの模範となった。(旧約聖書・続編 シラ書44の16)(*)
…この世に生を受けた者のうち、だれ一人、エノクに並ぶ者はなかった。彼は地上から天に移されたからだ。(同49の14)
(*)シラ書は、紀元前2世紀(BC190~180頃)に書かれた旧約聖書の続編に含まれる書。旧約聖書の箴言と共通した内容を多く含み、現代の私たちにも有益な教えが豊富に記されている。新共同訳では90頁もの分量があり、当時の人がいかにこの書に記されている真の英知について強い関心をもっていたかがうかがわれる。
シラ書とは、ベン・シラクの書を簡略化した名称。ベンとはヘブル語で「息子」の意。シラクの子の書 という意味。神を信じる人々の集会にて用いられるべき書という意味で「集会書」という名称も使われている。(英語では、Ecclesiasticus)新共同訳のシラ書の1章からが本文であり、ギリシャ語訳のうち、バチカン写本では、この書名は 「シラクの英知」(ソフィア シラク sophia sirach) となっている。そしてシナイ写本やアレキサンドリア写本では、「イエスの子シラクの英知」(sophia iesou hyuiou sirach )と、より長い名称となっている。
いずれにしても、本来のタイトルは、「英知の書」という意味がもとにある。
旧約聖書の時代の人々は八百歳とか九百歳という信じがたいような年齢が記されている。しかし、いかに長寿であってもみな死んだ。
そしてそのただなかに、エノクが天に引き上げられたことが記されている。ここに、長寿を超えた永遠の命、天に召されることの原型がある。
また、エリヤも、火の車で天に上ったと記されている。ここにも、人間はみな死んで空しくなってしまうのでなく、逆に神のもとに導かれることが示されている。
じっさい、キリストが最後が近づいているときに、高い山に三人の弟子たちを伴ってのぼったが、そのときに、現れたのがモーセとエリヤであった。
そして、キリストは彼らと話しを交わした。このようなことも、旧約聖書の人物が死んで無になったのでなく、眠っているのでもなく、復活して神とともに生きていたことを示している。
アブラハムもイサクなども、じつは生きているとは、キリストが言われたことである。イエスは、アブラハムの神、イサクの神、といって、神は死せる者の神でなく、生きている者の神であるーと言われた。
このことは、多くのキリスト者たちも、あまり気に留めないで読み過ごしていることが多いようである。
イエスの当時におけるユダヤ教の一派であったサドカイ派の人たちは、復活などない、と断じていた。このような人たちに対してイエスは次のように言われた。
…復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイ22の30~32)
イエスが言われたのは、当時の人たちも読み過ごしていた「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」ということに深い意味を与えたのである。
彼らはもちろん読んだことはあったが、そこに込められていた深い意味は読みとってはいなかった。そしてこれは現代の多くのキリスト者も同様ではないかと思われる。
アブラハムの神というとき、単にアブラハムが信じていた神、死んで無になってしまった過去の人間の神、という意味でなく、今も天の国において生きているアブラハムの神なのだ、と言われたのである。
だからこそ、イエスは死んだはずのエリヤやモーセとイエスは語り合うことができたのであった。
旧約聖書の時代には、ここに引用したような個所はまだあまり知られていなかったようであり、一般的には死後に復活するという信仰はなかったし、そのような啓示もごく一部のひとにしかなされていなかった。
しかし、死後の復活を信じることなくして、いかにしてぜアブラハムやモーセ、ダビデといった人たち、あるいは預言書や詩篇を書いた人たちは満足できたのであろうか。
彼らは、詩篇にありありと記されているように、神の生きた言葉を受け、導かれていた。
夜、床についても神との霊的な交流を豊かに与えられて、満たされていたのが次のような詩からもうかがえる。
… わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし
わたしの心を夜ごと諭してくださいます。(詩篇16の7)
…昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある。
わたしの命の神への祈りが。(詩篇42の9)
そのように日々神の言葉を聞きつつ、それに従って導かれているときには、十分それで魂は満たされていたのだといえる。
神の言葉はいのちの言葉である。神からの語りかけを聞き、それに従って生きるときには、その神の言葉の命がいつも心にとどまることになり、それがすでに復活の命を生きているというほどであったと考えられる。
神の生ける導きがあれば、主とともにあれば、千年も一日の如し、一日は千年の如しであるからである。
そのことは、つぎの詩篇によく表されている。
…主はわが牧者
私には乏しきことがない。
主は私を緑の牧場に伏させ
憩いのみぎわに導かれる。(詩篇23より)
主がわが牧者であるとは、生きた導きをしてくださっているということであり、それは言い換えると、つねに語りかけてくださり、それを聞き取って従っていくという生きた交わりがなされているのを意味している。
そのような歩みは、つねに命を支え、生き生きした生となるのがよく表されている。
神の言葉は命の言葉であるゆえに、御言葉を日々受けている魂は、それは後にヨハネ福音書でキリストが言われたように、もはや死ぬことがないのを深く実感しつつ歩むことが可能となる。
旧約聖書では、死後は無になったり、陰府(ヘブル語ではシェオール)に行って暗い地下のようなところにいると思われていた。
しかし、そうした一般的に何となく信じられていた、あるいは推測されていた伝承のようなところに行くのでなく、神のおられるところー天に引き上げられるということも、エノクやエリヤのように折々に示されていたことは、前回に話したとおりである。
今回は、旧約聖書のうち、とくにヨブ記、詩篇などにおいてどのように、死と復活の命のことなどが記されているかを見てみたい。
まず、ヨブ記においては、次の個所がある。
…神は一つのことによって語られ、
また、二つのことによって語られるが 人はそれに気がつかない。
人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると 夢の中で、夜の幻の中で
神は人の耳を開き 懲らしめの言葉を封じ込められる。
人が行いを改め、誇りを抑え
こうして、その魂が滅亡を免れ 命が死の川を渡らずに済むようにされる。
苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、
命はパンをいとい 魂は好みの食べ物をすらいとう。
肉は消耗して見えなくなり 見えなかった骨は姿を現し
魂は滅亡に 命はそれを奪うものに近づいてゆく。
千人に一人でもこの人のために執り成し
その正しさを示すために
遣わされる御使いがあり
彼を憐れんで 「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら
彼の肉は新しくされて 若者よりも健やかになり
再び若いときのようになるであろう。
しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。
わたしは命を得て光を仰ぐ」と。
まことに神はこのようになさる。
人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し
命の光に輝かせてくださる。
私の魂をあがなって墓にくだらせなかった。
私の命は光を見ることができる。(ヨブ記33の14~30より)
復活とは死んだものに関して言われることが多い。しかし、死んだと同様な状態から新たに命を与えられることも一種の復活であることは、新約聖書でもさまざまの個所で見ることができる。
この個所にもほとんど滅んだと思われる状況から、救いだされ、命の光に輝くようにされること、 死にうち勝つ力を神が与えられることが語られている。
詩篇における復活
詩篇においても、ヨブ記のように、滅びから、死の世界から救いだされることがいくつかの個所で示されていて、それは、キリストの時代によって明確に復活が世界に示されることを指し示しているし、復活ということについての預言となっている。
詩篇においてもそのような復活を指し示すことが記されている。
…あなたは 御計らいによって私を導き
後には、栄光へと私を取られる。(*)(導かれる。)
(詩篇73の24)
You guide me with your counsel(**), and afterward you will take me into glory. (NIV)
(*)「取る」 ヘブル語では、
ラーカハ 。これは、976回も旧約聖書で用いられているごくふつうの日常的な言葉である。
例えば、
・肋骨あばらぼねの一つを 取って 肉でふさいだ。
・人を取って(連れて)エデンの園に置いた。創世記2の15
・その木から実を取って、アダムにも与えた。創世記3の6
(**)counsel は名詞で、「(熟慮の上での)助言、忠告」の意味なので、カトリックの代表的な訳では、adviceと訳されている。(New Jerusalem Bible)
地上においては、その愛をもって、深い英知と御計画によって私を導いてくださり、死後は、私を取ってその栄光の世界(天の国)へと導かれるーということであるから、これは、創世記のエノクと同様なことが記されていて、復活を指し示す内容となっている。
次の個所も同様で、自分は、死でおわるものではないことが、確信をもって歌われている。
…わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし
わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし
わたしは揺らぐことがありません。
わたしの心は喜び、魂は躍ります。
からだは安心して憩います。
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。(詩篇16の7~11)
この詩では、神は昼間ばかりでなく、夜ごとに語りかけ、教えてくださる。そしてつねに主を前にし、主がそばにいてくださるということを日々実感して平安のうちにある。
そこから、神の慈しみと真実ゆえに、死という暗い世界、いっさいの望みもないような世界に落とすことはないということが、はっきりと示されている。
死の世界でなく、命の道、命の世界を示され、そこに入れて下さるゆえに、永遠の喜びを受けている。
生きているときに、日々神と交わり、神の言葉を受けて生きる者には、死後のことも神のもとにとどまり続けるということがおのずから啓示され、喜びのうちにおいていただけるのがわかる。
…彼らは陰府に定められた羊のように死が彼らを牧する。
彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなる。
しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。
(詩篇49の14~15)
この詩においても、真実で慈しみに満ちた神に従わないー言い換えると、偽りや憎しみ、差別や暴力など、真実や慈しみに真っ向からと反対のことを意図的に続けるものに関しては、確実に死が訪れる。
そして、それらいっさいができなくなる闇と無の死の世界へと落ちていく。
しかし、神に信頼する者は、神が受けいれてくださり、死の力からあがない取ってくださるのを啓示されていた。
…わが神、主よ、わたしは心をつくしてあなたに感謝し、とこしえに、み名をあがめます。
わたしに示されたあなたのいつくしみは大きく、わが魂を陰府の深い所から助け出されたからです。(*)
(詩篇86の12~13)
You have delivered my soul from the depths of Sheol.
(*)「助け出された」新共同訳では、助け出される。と現在形に訳しているが、原文のヘブル語は完了形であり、口語訳、新改訳なども、そして英語の数十種類ある訳もほとんどすべて右のように、完了形で訳している。新共同訳にはこのように、ほかの大多数の外国語訳や日本語訳と異なる訳しかたをしている個所がしばしばみられる。
さらに、キリストが十字架上で最期の苦しみのなか叫んだ言葉は、そのまま詩篇22篇の叫びである。
…わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるたのか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞いてくださらないのか。…
あなたは私を死の地に置かれた。…(詩篇22篇1~16より)
このように、イエスの最期の叫びと全く同じ叫びがすでにイエスよりも千年年ほども昔に体験され、記されていることに驚かされる。
イエスの十字架上での叫びは、詩篇が預言していたということになる。それは言い換えると、神が詩篇の作者を用いて、はるか後のキリストの叫びを予告したということもいえる。
そしてそれだけではない。この詩篇には、このような死の迫る状況から一転してつぎのような記述が続いている。
… わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
主は苦しむ人の苦しみを
決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださる。
地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められる。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈める。わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるであろう。(詩篇22の23~32より)
このように、キリストの最期の叫びにもそのままの言葉で見られるほどに、この詩篇22篇の作者の苦しみは絶望的状況であった。
しかし、それにもかかわらず、ここにあげた後半の22節以降は、まったくその内容が変容している。
それは、その深い闇と死の世界から救いだされた人の、深い喜びと賛美があり、その大きな救いの体験ゆえに、周囲の人たちに、そして世界の国々にこの喜びを伝えたいとの気持ちがあふれている。
まさに、この詩の作者は死から生への復活をとげたのであった。
…わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものは、みんなで
聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し
病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。(詩篇103の1~5)
神を賛美する心、それはこの詩にあるように、罪を赦し、病をもいやし、命を死の世界から引き出してくださる。
そして神の愛を注ぎ、新たな力を与えてくださる。
このように、詩篇はさまざまの個所において、死の力から救いだす神の力を知らされ、賛美し、あるいはじっさいにその命を体験していることを証ししている。
そして、詩篇だけでなく、預言書においても復活という重要な真理は預言され、あるいは証しされている。
…荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。…
荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。
(イザヤ書35章より)
このような、雄大な語りかけは、砂漠という水なき大地、死の大地にもいのちの水が流れ、命が復活し、ゆたかな花を咲かせるということを通して、人間の死せる状況においても、神からの命の水が注がれるならば、花開く、新たな命に復活することが含まれている。
次に、旧約聖書のヨナ書についてみてみよう。ヨナは、神からの言葉を受けたが、聞こうともせず、すぐにそこから逃げて行った。神が呼び出される人にはこのように実にさまざまである。モーセやエレミヤも、自分は神の言葉を語るなど、そのようなことはとてもできない、耐えられないと強くしり込みした。
しかし、神が強く彼らに迫って行ったゆえに、彼らは神の言葉を語る指導者、預言書とされていった。
ヨナは、神に反論とか哀願することなく、ただちに当時は世界の西の果てとみなされていたスペインのほうまで、船にのって逃れようとした。
しかし、途中で船が激しい嵐に遭遇し、船は海に呑み込まれそうになって死に瀕することになった。そのなかで、そうした原因はヨナが神の言葉から背を向けて逃げ出したからだと判明し、ヨナはそのことに深く悔い改め、自分を海に投げ込めと水夫たちに言った。そして逡巡する水夫たちもいよいよ暴風と荒波に呑み込まれそうになったとき、ヨナを海に投げ入れた。すると海は静まった。
ヨナは、大きな魚に呑み込まれ、ふつうなら当然死んでしまうのだったが、驚くべき神の力がヨナに働いたのだった。
… さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。
ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて 言った。
苦難の中で、わたしが叫ぶと
主は答えてくださった。
陰府の底から、助けを求めると
わたしの声を聞いてくださった。
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。
地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。
息絶えようとするとき
わたしは主の御名を思い起こした。
わたしの祈りがあなたに届き
聖なる神殿に達した。…
救いは、主にこそある。
(ヨナ書2章より)
ヨナは、その大魚のなかで死を覚悟した。まさに息絶えようとするとき、神を思い起こし、神に必死で祈った。死の世界から救いを求めて叫んだ。
神はヨナの全身全霊を込めた祈り、叫びを聞かれ、救いだされた。
これは、単なる子供向けの物語ではない。
神は全能であるゆえに、長い歴史のなかでその無限の英知による御計画によってなそうとされるなら、人間のふつうの常識的なことを越えてなすことができる。こうした奇跡ができないなら、神は全能でないということになるからである。
そして、キリストは、復活という最も重要なことのしるしとして、このヨナの大魚に呑み込まれて三日三夜ののちに、事実上死んだようなところから救いだされたことを用いられた。
復活などないと主張するユダヤ人のサドカイ派やパリサイ派の人たちからの攻撃に対して、イエスが言われたのは、教えや説得、議論でなく、意外なことにこのヨナ書に記されていることであった。
…邪悪で不義な時代は、しるしを求める。
しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられない。(マタイ16の4)
ヨナが三日三夜、大魚のなかにあって死んだような状態に置かれた後、神の力によって救いだされた。それがイエスが三日目に復活したことの、唯一のしるしなのだと言われた。
この一見とても信じがたいようにみえるヨナ書の記述が、十字架によるあがないと並んで、復活というもっとも大切なことを預言していると言われたのである。
主イエスは、このヨナに起こった出来事を、いかに重要視していたかがこうしたことからうかがえる。
このように、創世記巻頭から、光あれ! という言葉にも命あれ!という意味が込められており、最初から、闇と混沌からの復活の力を預言的に指し示していた聖書は、その長い歴史のなかで、さまざまの人を起こして死にうち勝つ命の力、復活ということを指し示し、証ししていたのである。
深いところを流れる地下水が、折々に地表にあらわれて泉となって湧き出るように、ヨブ記や詩篇、預言書等々には、そうした復活というきわめて重要な真理が、深い真理の流れからおりおりに湧き出てこの世をうるおしていたのであった。
そしてその後、ユダヤ民族にとって大きな試練、艱難のときが訪れた。それは、エジプトでのきびしい迫害やアッシリア、新バビロニア王国による攻撃と滅びなどとともに、危機的な迫害が訪れることになったが、そのときには、こうした復活ということの真理の流れははっきりと歴史の表面に現れ、神の民を鼓舞することになったのであった。
それは、旧約聖書続編のマカバイ記、そしてそれと同時代のことを記した旧約聖書のダニエル書に見ることができる。
紀元前170年ころに、シリアの王アンティオコス・エピファネス四世が、ユダヤの国を支配し、厳しい迫害を加えた。そのときの記述が、旧約聖書の続編のマカバイ記に詳しい。
律法に従おうとするユダヤ人を徹底的に迫害し、拷問し、律法を焼いた。
ユダヤ人が豚肉を食べないと律法に従っていこうとする者を捕らえ、大鍋、大釜を火にかけ、舌を切り、頭の皮をはぎとり、体のあちこちをそぎ落とした。そのあげくに焼き殺した。
そのようなときに、殺される直前に彼らが言ったのは次のようなことだった。
…主なる神が私たちを見守り、真実をもって憐れんでくださる。モーセが 『主はその僕を力づけてくださる』と明らかに語っているように」。
また別の者は拷問にかけられて死ぬ直前に、そのシリア王にこう言った。
「あなたは、この世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王(神)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」
さらに、もう一人の者も次のように言った。
「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神がふたたび立ち上がらせてくださるという希望をこそ選ぶべきである。」
そして彼ら殺されていった若者の母親は、そのような恐ろしい死を迎えようとする息子たちに次のように言った。
「人の生死を支配し、あらゆるものに命を与える世界の創造主は、憐れみをもって、霊と命をふたたびお前たちに与えてくださる。それは今ここで、お前たちが主の律法のためには命をも惜しまないからだ。」(Ⅱマカバイ記7章より)
このような激しい迫害のなかで、マカバイと呼ばれたユダは一部の勇気あるものたちと共に、立ち上がった。そして神の力によって最終的に勝利した。その記録が、旧約聖書続編のマカバイ記である。
この書は前述のように、キリストの時代より175年ほど昔から10年余りの時代の状況が記されていて、キリストの時代に近づくときには、このように、死者は復活するのだという信仰を見ることができる。
その時代に記された旧約聖書の書物が一つある。それがダニエル書であり、それは黙示録のように、わかりにくい記述がいろいろとある。ともに厳しい迫害のなかで書かれた書である。
ダニエル書にも、マカバイ記と同じアンティオコス・エピファネス四世の迫害の時代であるので、復活の記述がある。
…その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時 お前の民、あの書に記された人々は救われる。
多くの者が地の土の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
(ダニエル書12の1~3より)
ダニエル書は、バビロン捕囚のときの時代から、ユダヤの人々に激しい迫害を加えたアンティオコス・エピファネス四世の死にいたるまでの400年にわたる歴史がその内容に含まれている。
冒頭にバビロンの王の時代のこととして記されているが、ダニエル書の多くの内容は、とくに、アンティオコス・エピファネス四世のユダヤ人に対する迫害に関連して、神の大きな御計画が背後にあることが記されていて、世の終わりの状況まで記されている。
この書の重要性は、主イエスご自身も世の終わりのときの状況を、次のダニエル書の表現を用いたことからもうかがわれる。
…人の子のような者が天の雲に乗り、
神から権威、王権を受けた。
彼の支配は永遠に続き、
その統治は滅びることはない。(ダニエル書7の13~14より)
こうしてキリストの言葉にも現れるような真理を啓示されていたが、それはまた復活の真理がはっきりと啓示されたことにもつながっている。
このように、復活という重要な真理は、世の終わりのときに来られるキリストのこと(再臨)とともに、ダニエル書に示されている。
それは、言い換えるなら、ダニエル書やほかの詩篇、ヨブ記などの復活に関する記述は、すべてキリストを指し示しているということができる。
新約聖書において復活はどのように記されているか。復活は、単にキリストの復活だけでなく、信徒の復活、そして生きているときにすでに与えられる復活の命、永遠の命、さらに、この宇宙全体の復活というべき新しい天と地ということまで、新約聖書の全体にわたってさまざまに記されている。
その復活に関することを、二回にわたって記したい。
まず、福音書のなかで、キリストご自身が、復活については、次のように明確に繰り返し言われている。
…イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。(マタイ16の21、ほかにも17の23、20の19など)
キリストは、生きているときになされた病者や苦しむ人たちを救うこと、また山上の教えなどに見られる数々の真理の教えーその過程で受ける迫害、そして十字架における死、そして復活…このことは、すべて神から直接に知らされていたのであった。
「キリスト教」という言葉は、中国語の訳語をそのまま用いているのであって、この言葉では、「教え」 がキリスト教といわれる信仰の内容の実体であるように受けとられる。
しかし、キリスト教信仰の内容の実体は、ここにあげたキリストの言葉が指し示すように、キリストが十字架で人間の罪を担って死ぬこと、そして神の全能の力によって復活したこと、信じる者には罪赦され、死にうち勝つ復活の力が与えられるということが中心となっている。
そして、このように重要な十字架と復活のときに、そばにいたのが、意外にも男性の弟子でなく女性の弟子であったことは、キリスト教の真理の世界における女性の重要性を暗示するものとなっている。(マタイ27の55~56、マルコ15の40~41、マタイ28の1~10、ルカ24の1~10、ヨハネ20章など)
とくにマグダラのマリア(*)は、七つの悪霊につかれていた女であると記されているが、それは絶望的な精神的な病の状態であったことが推察される。その女が、キリストの十字架の処刑に際しても最後まで見守っていたこと、また復活というきわめて重要な出来事の最初に出会った人として記されている。しかも、この女性は、四つの福音書においてすべて復活のキリストと出会った最初の人として記されていることに、いかに初代のキリスト者たちにおいて深い印象を残したかがうかがえる。
(*)この印象は後代においても続いていて、復活という特別に重要な記述を聖書において読むときには、つねにマグダラのマリアのことも同時に連想することになった。
なお、マグダラのマリアは、フランス語では、マリー・マドレーヌという。フランス語のマドレーヌとは、 ラテン語の マグダラ Magdaleneから、フランス語にも同じ語が入り、その後、フランス語では、Madeline、Madeleine(マドレーヌ)という変化形となって、女性の名前として広く用いられるようになり、その名をもった女性がつくったお菓子の名前ともなって知られている。 こうした現象も、マグダラのマリアに対する特別な印象が福音書の4人の著者たちに刻まれ、その名前という形であるにしてもマグダラのマリアのことが世界に波及した一例だといえる。
次に使徒たちの信仰とその行動を記した使徒言行録においては、復活したキリストが40日にわたって弟子たちに現れて、神の国について話された。しかし、40日もの間語り続けられたにもかかわらず、そのときに話されたことは、次のただ一つの内容にしぼられている。
…前に私から聞いていたことー父(神)の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく、聖霊による洗礼を授けられるからである。(使徒言行録1の4~5)
私たちとしては、復活のキリストが40日にもわたって語られたことが何であったのか、知りたいと思う。しかし、神はあえてそのようなことは記さず、ただ一つのこと、ー復活したキリストが与えるのは、聖霊であるーということだった。それがいかに重要なことであるかを指し示すことになった。
キリストを裏切り、逃げてしまった使徒たちは、その罪赦され、新たに聖霊を受けた。彼らが、宣教をはじめたときの、メッセージの中心が復活だった。
イエスを計画的に売り渡したユダは、そのさばきを受けて死んだ。そのユダの代わりの使徒を決めるさいに、「いつもイエスとともにいた人の中から一人を選び、主の復活の証人になるべきだ」(使徒1の22)と記されている。
このように、キリストを宣べ伝えるということは、キリストの復活を宣べ伝えることであったのがわかる。
さらに、聖霊をあふれるばかりに受けた使徒たちは、それが旧約聖書のヨエル書に預言されたとおりであったことをのべ、力強く宣教をはじめた。
その最初のメッセージの内容は、次のようであった。
…神はイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた。イエスが死に支配されたままでいるなどは、あり得なかったからです。…
神はイエスを復活させられた。私たちはみなそのことの証人です。(使徒2の24)
このように、使徒たちによるキリスト教宣教の最初の出発点にあったのは、キリストの隣人を愛せよとか、悲しむ人たちは幸いだといった教えでも、十字架のあがないでもなく、単純にキリストが復活した、という事実を証言することだったのである。
このことは、キリスト教信仰はいかに事実を重んじる宗教であるかを示すものである。
哲学や思想、あるいはさまざまの考えや研究というものでもない、復活したことを現実に体験したそのことをただ証しするーという驚くべき単純さが中心にあったのである。
この復活を証ししたということは、ほかにも次のように繰り返し記されている。
…ペテロとヨハネが民衆に教え、イエスに起こった死者のなかからの復活を宣べ伝えているので、…二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男だけでも五千人ほどになった。(使徒4の3~4より)
…使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、人々から非常に好意を持たれていた。(使徒4の33)
…神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前にあらわしてくださった。…そしてイエスはご自分が生きている者と死んだ者とを裁く者として神から定められていることを、人々に宣べ伝え、力強く証しするようにと命じられた。イエスについて、この御方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。(使徒10の40~43より)
そして、12使徒たちより後からキリスト者となったパウロも、聖霊に送り出されて異邦人への伝道へと出発した。そのパウロが最初に会堂に入って語ったメッセージは次のようであった。
…イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬った。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださった。…私たちもあなた方に福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、私たち子孫のためにその約束をはたしてくださった。…
神が復活させたこの方(イエス)は、朽ち果てることがなかった。
だから兄弟たち、知ってほしい。この方による罪の赦しが告げしらされ、あなた方がモーセ律法によっては義とされなかったのに、信じる者はみな、この方によって義とされる。 (使徒13の29~39より)
この個所で、初めて「信じることによって義とされる」という福音が告げられた。
この後も、パウロは、アテネの哲学の愛好者たちの多いところでもイエスと復活についての福音を伝えていた。(使徒17の18)
そして後に捕らえられたとき、総督フェリクスの前でも次のようにのべた。
…彼らの中に立って、「死者の復活のことで、私は今日、あなた方の前で裁判にかけられているのだ」と叫んだだけなのです。(使徒24の21)
以上のように最初のキリストの使徒たちの宣教においては、まずキリストの復活ということを証しするという単純なことが中心にあり、それから、キリストによる罪の赦しの福音も合わせて語られるようになっていったのである。
そして、その代表的な著作といえるローマの信徒への手紙においては、復活と十字架による赦しとがともに強く語られている。
キリストが私たちの罪をになって死んでくださったと信じて義とされる。(ローマ3章、21~)
そして、救いを得て魂の平安を与えられ、聖霊が与えられる。(ローマ8章1~17)それは、「キリストが死者の中から復活されたように、私たちもまた新しい命に生きるためである。…
自分自身を死者の中から生き返った者として神にささげなさい…。」
…(神の)霊があなた方のうちに宿っているなら、キリストを死者から復活させた方は、あなた方の死ぬべきはずの体をも生かしてくださる。
(ローマ6の4、13、 8の11より)
そして、よく知られた復活のことを詳しくのべた個所で、つぎのように書いている。
…もっとも重要なこととして伝えたことは、キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして復活したことである。
キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は空しいし、あなた方の信仰は空しく、いまなお罪の中にいることになる。(Ⅰコリント15章より)
このように述べて、十字架による罪の赦しと復活は不可分に結びついていることが強調されている。
現代の私たちにおいても、罪の赦しを与えられてはじめて、新たな命を知らされる。それは死んだような者が、復活したということができるほどの決定的な変化である。
それはキリストの12弟子たちや、使徒パウロにおいても同様であった。彼は、豊かな啓示を受けたゆえに新約聖書の多くの内容となったほどである。
私たちも、毎日の生活のなかで、罪深き自分の罪を十字架のキリストを仰ぐことによって日々赦され、そこから新たに聖霊を受けて霊的な復活が日々なされていくようでありたい。(次号に続く)
神様、あなたは私の神。
私はあなたを捜し求め
私の魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、私のからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。(2節)
2節からのところでは詩篇の中でも特に、信仰の末、神様との関係が非常にクリアに内面を浮かび上がらせている、数少ないものに入る。
渇くというのがこの詩の出発点になっている。詩篇の特徴は深い渇きを持っているという点である。人間は誰でも何かにある種の渇き、熱望をもっている。
一般の動物も、まず食物を求める。こどものときに、鶏を飼っていて、日中はしばしば放し飼いにしていた。夜には小さなニワトリ小屋に入る。
そうして一日の状態を観察していると、ときどき休んでいることはあっても、朝から日の暮れるころまで、一日中何か食物を探している。
人間もその点では食物に対する渇きは第一にあるので、戦後数年はとくに食べ物がなかった。そのころは、バナナはとても高価なものだった。また卵さえなかなか買えない状況だったので、 四才か五才頃の節句の時に、1時間以上山を越えて行った海岸で食べたゆでたまごが非常に美味しかったことを今でも覚えている。
その頃、戦争映画がよくあり、父に連れられて見た映画では、飢えて食べ物がなかった焼け野原で、人々がよろよろと歩いていたとき、横切ろうとしていた一匹のヘビにその人たちが群がっていった光景をいまだに覚えている。へびさえ食べたいというほどに食物がなかったのである。
その他、動物にない渇きを人間は持っていて、母親が居ない場合は、母親に対する渇き、友達が居ない場合には、友達に対する渇きがある。また上に立ちたい、権力、支配したい、それからお金への渇きもある。
そうしたさまざまの渇きのなかで、最も深い渇きは愛に対する渇きである。全く愛されなければ、人間は生きていけず、精神的にも肉体的にも衰えていく。
それが人間の愛、何かあるとすぐに変質したり消えてしまうようなものであっても、何かそうした愛の影でもなければ、生きていけないほどである。
このように誰でもが至る所で渇きを持っているが、共通しているところはどこか満たされないということである。
人間に特有な渇きがある。それは、愛、真実、正義、清い…等々への願いであり、求めである。そうした 人間の特有な渇きを満たしてくれるものとして神様がある。
ここにあげた詩の出発点は、人間はさまざまなものに渇きの対象を持っているけれど、それらを満たしてくれるのが神様という事で、神を必死になって求める。この詩を見て、私たちは神様に対してこのような強い渇きと求めを持っているのかということである。
キリスト者になっても、さまざまな欲へと引っ張り降ろそうとする力が働くが、そうした誘惑にもかかわらず、キリストをこのように求めていこうとするのが、現在のキリスト者としてのあるべき姿だと知らされる。
キリストは、「義に飢え渇くものは幸いである」と言った。義(正義)の根源は神であり、神を基準として見るときには、自分の中には、本当に正しいものはない、世の中にもない。
そこから、自分の中にどうか正しいものを、もたらしてください、と願う心、あるいは罪が清められて義とされる、罪への赦しを求める心もまた、義への渇きである。
クリスチャンでも神への渇きがなくなったら、本当の信仰者でなくなったということになる。神への切実な渇きが日々あるときには、神の霊的なものをいつも求めて、それを受ける。 そうした神に対する強い渇きが、私たちの信仰が絶えず生き生きとしたものであるためには不可欠なものだといえる。
この世的に恵まれた状況が続くと、そうした渇きがなくなる。ペトロのような聖霊を豊かに注がれたような人でも、エルサレムのキリスト教の集まりで、割礼のものを恐れて無割礼の者と一緒に食事をしなくなった。(*)
夢に神様が現われて、異邦人だからといって汚れていると言ってはいけないとはっきりと示されたのに、渇きを持たなくなって、ゆるんでしまったら逆戻りすることもある。
(*)ガラテヤ信徒への手紙2の11~14
ダビデは、当時のイスラエルのサウル王に追われて殺されそうになって苦しんでいた時には、神への強い渇きがあったから、詩篇の中でもそのような切実な神への叫び、祈りがしばしばみられる。
ここにあげた詩篇63篇も、その前書きに「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」とあるように、そうした状況につくられたものとして伝えられてきた。
私たちもまた、人生の荒野におかれたとき、人間にも頼ることができず、だれにもその苦しみや悲しみを分かってもらうこともできない状況におかれるときには、神への切実な訴え、祈りが生まれ、心のなかで神に叫び続けるような状況におかれる。
しかし、ダビデにおいては、時の経過とともにそのような苦しい状況を通り越して、自分が王になり、周囲一帯を平定して、安楽な生活となったときに、神への渇きが薄れてしまったゆえに、女性に対する欲望が強まって重い罪をおかしてしまった。
「求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイ福音書7の7)このキリストのよく知られた言葉は、すべての人たちに対して言われている。
そして、そのように飢え渇く魂に対して、その渇きをいやし、深く満たすものがある。
…この水を飲む者はまた、渇きを覚える。しかし、私が与える水を飲む者は、決して渇かない。私が与える水はその人のうちで、泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。
(ヨハネ福音書4の13~14より)
このキリストの約束以前に、すでに預言するように、この詩では、渇きのなかからの切実な求めには、必ず神が応えて下さり、ほかのものでは決して満たされない魂の満足を与えてくださることが記されており、この詩は、そのことを預言しているということができる。
この詩の作者はこのように求めたからこそ、3節からあるように、よきものが与えられた状態が書かれていて、そこからおのずと神を賛美するようになった。与えられたもので満たされた。
3 今、私は聖所であなたを仰ぎ望み
あなたの力と栄えを見ています。
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
私の唇はあなたをほめたたえます。
5 命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。
6 私の魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。私の唇は喜びの歌をうたい
私の口は賛美の声をあげます。
6節のような表現は今日の私たちは全くしないが、髄とは栄養的に最も優れているもので、魂がもっともよきものを受けたということの象徴的表現である。
このように真剣に求めたから、最高のものを受け、賛美の声をあげるようになった。神様はそのときの社会的状況や政治的状況、年齢や教養などに関係なく与えられる。渇き求める気持ちさえあれば。
キリスト教の礼拝や集会でも何を求めて参加しょうとするのか、神様を求めずに、単なる人間的な交流のようなものを求めたら、決して霊的な深いものは与えられない。
主イエスも、「私の名によって集まるところに私はいる」と約束されている。イエスの名によって集まるとは、キリストの本質的な愛や真実、永遠の命といったものをもとめて集まることであり、そのとき、キリストがその集りにいて下さる。
そして、キリストとはまた聖霊でもあり、御言葉そのものでもあるから、そのような心で参加する者には、聖霊といのちの言葉である神の言葉が与えられる。
7 床に就くときにも御名を唱え
あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
8 あなたは必ず私を助けてくださいます。
あなたの翼の陰で私は喜び歌います。
9 私の魂はあなたに付き従い
あなたは右の御手で私を支えてくださいます。
7~9節は、求めに応じて与えられたことを、また別の表現で言っている。
昔は電気さえなかったから、夜が本当に長かった。その夜をこの詩を書いた人は霊に満たされた過ごし方ができた。神様は助けてくださる。現実の生活においても、霊的に満たされるだけでなく、実際に敵や困難から支え助けてくださる。この詩は魂がいかに深く満たされるかということを他の詩ではあまり見られないほど、豊かに表現されている。私たちクリスチャンの霊的生活もこんな風に満たされたらと願う。これほどに満たされたら、人のことを悪く言ったり、おとしめたりすることが自然になくなってくるであろうから。
10 私の命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ
陰府の深みに追いやられる。
11 剣にかかり、山犬の餌食となる。(*)
(*)新共同訳では、「陰府の深みに追いやられますように。山犬の餌食となりますように」という祈りとして訳されている。しかし、口語訳、新改訳、関根正雄訳、カトリックの重要な訳であるフランシスコ会訳、 等々は、いずれも、ここに訳したように、必然にそうなる、という意味で訳されている。口語訳をあげてみよう。
…しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は、地の深き所に行き、つるぎの力にわたされ、山犬のえじきとなる。(口語訳)
外国語訳も同様で、例えば英訳やドイツ語訳(ATDも含め)の大多数はそのように訳している。プロテスタントの代表的な訳であるNew International Version、New Revised Standard Versionなどでもそのように訳されている。
They who seek my life will be destroyed;
they will go down to the depths of the earth. (NIV)(NRSもほぼ同様な訳)
日本語としては、滅ぼされますようにという「祈り」と、必ず滅びるという「未来への確信」とは、かなりニュアンスが異なる。
なぜこのように異なるニュアンスに訳されるのかといえば、原文は、未完了形であり、このように未来のことを確信して言うときにも、また未完了という用語のように完了していないことをあらわすので、未来のことを祈る状況の場合にも用いられるということから、この新共同訳の訳者は、祈りとして訳した。
けれども、多数はやはり、悪の迫りくる状況においても、必ずその悪は滅びるという神の力への確信を言っていると受けとっている。悪の力が必ず滅びると確信するからこそ、その悪がすみやかに滅びるようにとの祈りも伴うといえる。
9節までで、この詩の作者は、いかに神様が愛と真実の、しかも豊かな満たしを与えるかをということを深く体験したのがわかる。そのような神の愛を人生の長い経験のなかから学んできた人は、またそのような神の真実や愛に敵対視、それを滅ぼそうとする闇の力がこの世に存在するのをも直感的に深く知っている。
それだけでなく、そのような力が時至れば、必ず滅ぼされるという確信を与えられている。
その確信があるからこそ、またそのような悪の力が迫るとき、それが滅ぼされるようにという自然な願いが生まれる。
キリストが12弟子たちをこの世につかわそうとするときに与えた力とは、そのような悪の霊を追い出す権威、力であった。(マタイ福音書10の1、8)
神の愛や真実を全面的に否定し、悪をなしてもさばきはないなどという力がこの世界で数々の問題を引き起こしている。戦争という大規模な殺傷がしばしば生じてきたのも、やはり神はたった一人の弱い人間をも慈しまれるという神の愛を本当に信じないことがその根底にある。
悪の力が必ず滅ぼされるーこの確信は旧約聖書から新約聖書にいたる聖書の内容の深いところを一貫して流れている。
すでにこの詩において記されていた喜びの世界、満たされる世界があるから、支配する場合にも王自身も神によって喜び歌うことがあるように。7節にあるように、あなたへの祈りを口ずさんでとか、喜びうたうということに口は使うべきなので、偽り語ることに使うべきでない。
どうか本来の口、言葉の働きが保たれますようにというのが、賛美と偽りを非常に対照的に書かれている。光に満ちた霊的な満たしを与えられたから、それが周囲の人にも与えられるようにと願う。だからこそ、それを妨げ壊そうとする力が滅ぼされるようにという強い願いがうまれてくる。このような悪の力そのものが滅ぼされるように、という強い願いは、キリストそのものが持っておられたことであり、新約聖書の内容にも通じている。
パウロがいつも喜べ、いつも感謝せよ、いつも祈れとあるが、この詩を作った人の引き上げられた境地は、まさにこういう段階になっていた。
…神によって、王は喜び祝い
神によって誓う者は、神を讃美するようになる。
というのは、偽って語る口は、必ず閉ざされるからである。(*)
(*)新共同訳は「誓いを立てた者は誇りますように」であるが、この訳文をさっと読んでよくわかるという人は少ないと思われる。この部分は、次の英訳による。
But the king will rejoice in God; all who swear by God's name will praise him (NIV)
(**)原文のヘブル語では、「というのは、なぜなら」を意味する接続詞があり、英訳などはほとんどすべてその意味を持つ for を入れて訳している。
…for the mouths of liars shall be silenced. (NJB)
〇 一分か二分のほんのわずかな時間でも、何か善い事や有益なことに使うことができるものだ。
だから時間が足りない、忙しいという口実で、何か善いことを延ばしてはならない。
それと同じ機会は、もう二度と来ないことが多いものだ。
(カール・ヒルティ 「眠れぬ夜のために」第二部2月二九日より」)
〇1月6日~8日に、横浜市の「上郷・森の家」で開催された冬季聖書集会(キリスト教独立伝道会主催)の録音CDがありますので、希望の方にはお送りできます。
・MP3版…聖書講話とそれに関する感話、自己紹介等々が含まれています。価格300円(送料込)
・ふつうのラジカセでも聞けるCD版…これは聖書講話だけで3枚のCDとなり、感話など含むと全部で7枚となります。これは1枚200円なので、聖書講話だけでは600円。感話など合む7枚では1400円です。
今年のイースター特別集会は4月1日(日)です。
午前10時から午後2時まで。徳島聖書キリスト集会にて。
訂正 1月号
・1頁4段目 右より4行 未知→道
・14頁4代目右より4行 善→全