「いのちの水」 2018年3月号 685号
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、 主は彼らを苦しみから導き出された。(詩篇107の28) |
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7年前に、激しい地震とそれに伴う大津波によって、長年親しんだ郷里の自然は破壊され、多くの人たちが命を失い、兄弟、家族のつながりも断たれてしまった。
突然にして夫婦や親子のきずなが失われた人たちにとって、その喪失感はいかばかりであっただろう。
さらに、その大地震と津波によって原発が4基も大事故を起こして大量の放射能が降り注いだことによって、福島の放射能の高い地域は、自然の山野が汚染され、生活ができない状況となった。
先祖代々の山や畑、そこで農業や酪農、林業等々、地域に深くしみ込んだ生活を続けてきた人々にとってその大地、自然が破壊され、職業も失われ、さらに人間関係も壊され…そして、なすべき仕事がなくなった虚脱感や郷里、家族を失った混乱し、受けとった多額の補償金によって、悪しき遊び、放蕩に身をもちくずしていった人もあるという。
そのように、原発の大事故は、人間関係も郷里も山野の広大な地域も、さらに精神も荒廃させていく。それだけでない。この事故は、はてしない歳月にわたって放射能の影響が残っていくという恐ろしい事態を生み出す。
目に見える山野は、緑美しい自然の宝庫である。しかし、そこには、抜き去りがたい放射能が深く大地に刻まれ、それが植物のなかに深く入り込んでいる。
百年以上もかけて育てた一本二百万円もするような特別な赤松林ーそれを調べるとその材の深くまで放射能が入り込み、それらが以前のような状態に戻るには、百数十年もかかるのではないかと言われている。
そのような長期になれば、現在までずっと代々受け継いできたそうした林業も受け継ぐ人もなくなり、その産業は崩壊し、荒れ果てていく。樹木の内部、植物の花や茎に入り込んだ放射能は、枯れたり、倒れて腐食していくと、地面に落ち、雨によって流されて下流にも放射能の影響は及ぶであろう。
チェルノブイリ原発事故によって、燃料デブリは、 事故後 三十年を経てもなお近づくこともできず、人が近づくと死んでしまうほどであり、放置されたままである。
燃料デブリとは、原子炉の事故によって溶け落ちた核燃料が原子炉のコンクリートや金属と混ざり合い、冷えて固まったもの。放射線量がとても高く、人が近づけない。
福島原発においても、燃料デブリには、人が近づくと短時間で死に至るほどの放射能神あると言う。
そしてそれを取り出す廃炉ということが言われているが、取り出してそのような高い放射能を含むものを日本のどこに移動させるというのであろうか。火山、地震も世界的に多い。アメリカや中国のような砂漠地帯もない。
そうした果てしない困難をふくむ原発は、大地震や大津波、大規模火山噴火対策、さらにはテロによる攻撃対象ともなるのであって、あらゆる点から見ても廃止するのが当然の道である。
そして、突然に、大地震、津波、原発事故、洪水等々の自然災害などが襲ってきても、それに耐えうる力を持つことがだれにとっても重要なことになる。
そのようなことは、単なる災害訓練では与えられない。
人間以上の力をもった神との結びつき、そしていかなる状況にあってもなお、励まし、悲しみや苦しみをいやしてくださる愛の神を信じてそこから神の力を受けることこそ、心の面において最善の備えとなる。
それは、たんに個人的な経験でなく、数千年の歳月、世界の無数の人たちが、ありとあらゆる困難に遭遇したとき、じっさいに支えられ、新たな力と命を与えられて生きてきた証しがある。
しかも、そのような力を与えられるためには、お金も学問や知識も必要なく、ただ神とキリストを信じるだけで与えられるのであるから、そのような道が日本にさらに広く知られていくようにと願ってやまない。
強い低気圧の過ぎ去るとき、大風が山の木々に吹きつけ、一夜の強風とともに降った雨のあと、美しい青色をたたえた大空を背景に山々が壮大なオーケストラを奏でていた。
無数の木々の数知れない葉や枝等々が、一斉に揺らぎながら、人間には到底できない音楽を生み出している。
大風も木々も葉もすべて人間の創造ではなく、直接の神の創造になる。
それゆえに、この大風による木々の讃美は、神の直接の指揮による、神の被造物による讃美である。
だれが聞こうと聞くまいと、その重々しい響きは四方に伝わっていく。
神は、最大の音楽家でもある。それゆえに、さまざまな人にその音楽能力を与え、彼らは神からの霊感によって独自の音楽を生み出してきた。
自然の奏でる音楽は、人間を介さない、直接の神の生み出す音楽であるゆえに、人間の演奏する音楽以上に霊的で、無限の神秘がそこにある。ひとときも同じメロディーはなく、同じハーモニィはない。
今のこの限りなく変化のある音楽は、一刻一刻同じでない、二度と全く同じ音楽は聞くことがない。木の葉の触れ合う風の力や向き、相互の状況は、一瞬一瞬変化していくからである。
聞き入っていると、魂のさまざまの部分に響きが流れこんでくる。
これほど、独創的な音楽はない。それゆえに、人間の創った音楽はいかにすばらしい音楽といえども、何回も聞いていると飽きてくるが、自然から生み出される音楽には飽きるということがない。
無数の木々の枝やさまざまの形、固さ、大小の大きさなどあるにもかかわらず、それらのおびただしい木々とその葉の演奏は、まったく不調和でなく、驚くべきハーモニィがある。
旧約の預言者エリヤは、大風のあとに、神の静かなる細き声を聞いた。
大風と木々の生み出す音楽の背後には、神の静かなる語りかけが隠されている。
青く澄んだ大空、そしてところどころに浮かぶ白い雲、それらは視覚的ハーモニィであり、音楽である。
激しい雨のあとの強い風の吹き募る早朝、地上と大空全体が、人間には到底不可能な視覚と聴覚による音楽が奏でられている。
これらは、すでに数千年も昔に歌われたことー音なくして世界に響きわたる神の言葉を思い起こさせる。
…話すことも、語ることもなく
その声は聞こえなくとも
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに及ぶ。 (詩篇19篇より)
この世においては、人生の途上においてさまざまの大切なものを失っていく。
自分自身の病気、また、老年になって大切な家族が重い病気になったり、大きな事故や災害などにあって次第に、かつての健やかな状態が失われていくこともある。
それが愛する家族であれば、日々接しているゆえに、忘れることはなく、その悲しみや苦しみは次第につのるであろう。
そして神への祈りは、心の叫びとなり、ときとして深い悲しみとなる。
失うことからくる心の痛みがある。
しかし、そうした悲しみのなかから主を仰ぐとき、静かに言葉が響く。
さいわいなるかな、悲しむ者。その者は、主によって慰められるのだからーと。
失うものあれば、与えられるものがある。
健康がひどく失われていくとき、その悲しみは深まる。
そのときはじめて、聖書にある深い悲しみや苦悩が初めて実感されてくる。
そこから切実な祈りが生じ、求めることによって その苦しみに耐える力が与えられる。
神からの慰めーいのちの水の雫(しずく)が落ちてくる。
そのような悲しみに耐えてきた、あるいは耐えている人たちのことが近くなる。
そして、そこに人からでは与えられない、神による励ましと慰めの世界へと近づけられる。
一粒の麦が死んで、豊かな実りがあるという。
また、 「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒14の22)と記されている。
時として死ぬかと思われるほどの苦しみや悲しみの経験によって私たちは古い自分に死んでいく。
そのことを通して、人は、よき実りを生じるし、神の国が与えられる。
復活、この言葉だけをみると、一般のキリスト者ではない人々は、キリスト教の特殊な教義だと思う人が多数を占めているであろう。
しかし、この復活すると訳された原語は、立つ、立ち上がる、起きる、目覚める、などごくふつうにたくさん用いられる言葉である。
そうした中で最も決定的な重要性を持っているのが、死者からの復活である。 この原語が持っている意味ー眠ったり、倒れた状態から、立ち上がる、起きる、目覚める等々は、私たちの日常生活においてだれもが重要なことと感じている。
キリスト教は復活ということを罪の赦しとともに中心的な内容として持っている。
私たちが倒れたまま、眠ったままの何もできない状態から、立ち上がらせていただくことーそれはだれにとっても喜ばしい状態である。
精神的に倒れ、絶望的になって死のうと思っている状態から、立ち上がることができたなら、その人にとって生涯最大の出来事となるであろう。
また、何が真理なのか、価値あることなのか、生きることは何のためなのか…
永遠に続くものなどあるのか、絶対的な正義はあるのか…等々で何ら確信がもてない状況は、揺れ動く波のようであるし、他方、真理に対して眠っている状態である。
イエスがこれから逮捕され、そのあと十字架に釘付けられるという恐ろしい苦しみが待っている状況にあって、ゲツセマネで必死になって祈られた。そのとき弟子たちにも、少し離れたところで祈っておれ、と言われた。
しかし、弟子たちはみな眠ってしまった。
このじっさいにあった出来事は、現代の人間も、みな眠った状態なのであるーということを思わせるものがある。弟子たちに生じていることは、私たちにも生じることだからである。
三年間もイエスに従っていくー家族や職業をも捨ててそうすることで弟子たちは、多大の教えを受けたであろう。
しかし、それでもなお、師であり先生であったイエスの最期に近い時期のイエスの命令にもかかわらず、弟子たちはみんな眠ってしまった。
一人も目覚めていることができなかったーこの記述のなかに、人間はこの世の真理に対していかに眠った状態にあるかが暗示されている。
現代がいかに危機的状況にあるかをも知ろうとせず、気づかず、自分中心の考えのなかに生きている。
それを目覚めさせ、この世に流されていくのでなく、埋もれてしまうのでもなく、立ち上がらせるのは何か、それはまさにキリストである。
キリストが受けていた復活の力ーそれは、どのような生活をしている人においても、必要なものー。
キリストは、言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネ11の25)
春になって花々が次々に咲き こうしたあらゆる現象も、眠っていたものが目覚めることを象徴的に示すものである。
自然界の植物たちは復活をつねにあらわし、いたるところで新芽が出て、復活の叫びをあげるごとくに咲き誇る。
人間もそれと同様に、つねに復活の力をあらわし、霊的な新芽が出てくるのを示すーそのような道が前途に開かれている。
キリストを忘れるな!
真珠湾を忘れるな!(リメンバー パールハーバー! Remember Pearl Harbor! )
これは、1941
1941年12月8日、太平洋戦争の開始となった日本軍の真珠湾(Pearl Harbor)攻撃によって、甚大な被害を受けたアメリカにおいて、その攻撃を忘れるな! 覚えていこう、という合い言葉のようなものとなった。
これは、復讐とか反撃のスローガンとなったが、新約聖書にも Remember…!というのがある。リメンバー(remember)という英語は、新約聖書の原語であるギリシャ語と同様に、忘れない、覚えておく、という意味とともに、思いだす、思い起こすという意味も持っている。
…イエス・キリストのことを思い起こしなさい。
わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、死者の中から復活されたのです。(Ⅱテモテ 2の8より)
…Remember Jesus Christ, who was raised from death, as is taught in the Good News I preach.
キリスト教の最初の宣教のときに語られた福音(*)とはこのように単純明解なものだった。
キリストは死から復活し、いまは聖霊となっておられ、その復活の命を私たちもただ信じるだけで与えられる! という喜ばしいメッセージがこの単純な言葉に込められている。
そしてその福音を受けるためには、難しい学問も、経験も修行も、あるいは地位や肩書もいっさいが不要であり、人の命を奪うような重い罪を犯してもなお、ただ、キリストは復活された、そしてそのことを言い表し、信じるだけで救われるというのである。
…口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10の9)
私たちは、歩いていても、電車やバス、あるいは車の運転中であっても、キリストを思い起こすことはできる。苦しいとき、悲しみや罪犯した涙のなかにもキリストを思い起こすことができる。
死に瀕しても唯一できるのは、そこから救ってくださる復活したキリストを思い起こすことである。
この福音が語られた時代は、多数の人たちが文字も読めず、本もなく、多くは一日中、労働をせねばならない状況にあった。さらに、ローマ帝国においては迫害がなされ、恐ろしい拷問や猛獣に食わせられたり、十字架での処刑などもなされていた。そのような、状況にあっても常になしえたことは、復活のキリストを思い起こすことであったし、それが直接に救いにつながるという何よりも重要なことなのである。
現代の私たちも、このことはだれにでもできる。万人に開かれている道である。
福音とは、この英訳(Good News)であらわされているように、その原語(ギリシャ語)では、ユー アンゲリオン であり、ユー(良い)+アンゲリオン(知らせ)であるから、「良き知らせ」というのが本来の意味である。
ゴスペル(gospel)という言葉も福音を意味する英語である。これは、もとの形が godspell、すなわち god(神)のspell(言葉、説教)であり、「神の言葉」を意味する。
この世は悪しき知らせで満ちているが、この世界全体に、しかも数千年を経ても変わらずに良き知らせであり続ける内容ゆえに、良き知らせ といわれている。
「福音」という語そのものは、聖書の中国語訳の用語をそのまま取り入れたのであり、現在も中国語訳聖書でそのまま使われている。
「福」とは、幸いを意味し、「音」は、おとずれ、音信、知らせを意味する語であるから、中国訳の聖書で福音と訳されたのであった。
そして、この個所にあるように、二千年前に、まず第一に宣教されはじめたキリストの福音とは、「復活」を中心としたものであった。
そして、その復活あるゆえに、キリストは、神と同じ力を与えられた御方であること、現在は神と同じ、聖霊となって働いておられる。
そして、キリストの死が私たちの罪を担って死なれたということが、旧約聖書(とくにイザヤ書53章)によってすでに預言されていたことであり、このこともともに根本的に重要な真理として、良き知らせとして告げ知らされるようになった。
私たちは復活してどのようになるのか。
それは、「死者の中から復活するときには、結婚することもなく、天使のようになる。」(マルコ12の25)と言われている。
また、次の記述は、より明確な表現である。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる。」(フィリピ書3の21)
キリストの栄光あるからだとは、何か。それは、神と同じ霊のからだであり、聖霊であり、愛であり、正義や真実そのものであり、美そのものでもあり、しかも永遠…そうしたいっさいを兼ね備えているのがキリストの栄光のからだである。
それは私たちが考えうる究極的な高い霊的な姿であるが、そのようなことが私たちに復活ののちに与えられる姿であるというのは、驚くべき約束である。
また、使徒パウロに示されたことは、次のようであった。 現在の地上のからだとは別に天上のからだがある。 私たちは、朽ちるものとして生まれ、輝かしいものに復活する。 ひと言でいえば、復活のからだとは、霊のからだである、ということである。
(Ⅰコリント15の35~49)
復活を意味する原語は、アニステーミ とエゲイロー の二つが用いられている。
この二つとも、ほぼよく似た意味である。立つ、立ち上がる、起きる、復活する、よみがえる 等々に訳される。
日本語で、「復活」というと、キリスト教の死者の復活に関して用いられる著しくキリスト教的な用語であるが、その原語は、ごく一般的な言葉なのである。
エゲイローの用例。
・ヨセフは 眠りから覚めると(マタイ1の24)
・天使が現れて言った。「起きて、子供と母親をつれてエジプトに逃げよ」(マタイ2の13)
・イエスが手を触れると、起き上がり…(マタイ8の15)
・国は国に敵対して立ち上がり(同24の7)
・三日目に復活する(同17の23)
このように、ごく普通の目覚める、立ちあがるなどに用いられるため、旧約聖書のギリシャ語訳や新約聖書を通して224回も使われている。
アニステーミは、アン(強調の接頭語)+ヒステーミ(立つ)であり、そこから立ち上がる、復活する、起きる等の意味に用いられている。
・立ち上がってイエスに従った(マタイ9の9)
・三日の後に復活する(マルコ8の31)
・寝ているから、起きて何かをすることは…(ルカ11の7)
この語も、やはりごく普通の言葉として旧訳と新約聖書では647回も用いられている。
このように、私たちが、聖書にかかわることで復活といえば、ただちに死者からの復活を連想するが、この原語は二つとも、立つ、起き上がるの意味でも多く用いられている。 さらにエゲイローは、さきにあげた引用でも示したように「目覚める」 という意味でも用いられる。
じっさい、パウロの書簡にも、私たちは罪のために死んでいた。しかし、キリストによって共に復活させ、共に王座につかせてくださった。(エペソ書2の1、6)と言われており、罪赦されて新たな生活に入ることも 復活 という語が用いられている。(シュネゲイロー これは、シュン共に+エゲイロー)
これと同じような表現は、コロサイ書にも見られる。
…あなた方は、キリストとともに復活させられたのだから、上にあるものを求めよ。(コロサイ書3の1)
さらに、「自分自身を死者のなかから生き返ったものとして神にささげ…」(ローマ6の13)とも言われていて、死も復活も、現在の私たちの生活のなかで、見られることだと霊的にも言われている。
このように、死も復活も、私たちの肉体が死ぬこととその後の復活だけを意味しているのでなく、霊的な意味においても用いられていることをみるとき、新約聖書は、その全体が、死と復活を主題としているのが浮かび上がってくる。
「狭き門から入れ、滅びに至る門は広く、命に至る門はなんと狭く道は細いことか」(マタイ7の13~14)と言われているように、これも、命とは滅びることのない永遠の命のことであり、死と復活の命のことが言われているのである。
キリストご自身も明確に言われたことー再び来るということは、再臨と言われる。そして、新しい天と地になるという。
そのことも、古い天地が死ぬー滅びるからこそ、新しい天地となるといわれるのであり、再臨ということも、この宇宙全体の死と復活が意味されているということができる。
このように、私たち全世界を取り巻く死の力に抗して、復活の力が、キリスト以前のはるか昔のアブラハムやイサク、モーセ、エリヤの時代から働き、現代の私たちの世界の一人一人の人間の間に、さらにこの世の終わりに至るまで、死の力に対してそれに勝利する復活の力が滔々と流れているのである。
2 神様、悩み訴えるわたしの声を聞いてください。
敵の脅威からわたしの命を守ってください。
3 わたしを、悪しき者の計画からかくまってください。
4 彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
5 隠れた所からよき人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしない。
6 彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言う。
7 巧妙に悪を計画し
「我らの計画は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言う。
8 神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれる。
9 自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮る。
10 人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚める。
11 正しき人(主に従う人)は
主を避け所とし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって喜ぶ。
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これは 短い詩であるが、はっきりとした一つの内容がある。
敵というのは、実際に人を傷つけたりというものや、奪いとったりとさまざまな敵があるが、ここでは特に4節にあるように、舌を鋭い剣として、毒を含む言葉を矢としてつがえて突然射かけるということである。
言葉にも非常に悪い力があるということを、この作者はよく知っていた。言葉にはいろいろな働きがある。私たちにおいても、人間関係が壊れる原因のひとつとして言葉がある。
一言でも余計なことを言ってしまうと、それが後に響いて、壊れてしまって元に戻らないこともある。反対に良い言葉は何十年もその人の中に残り続けて、良い働きをすることもある。
聖書はこのような言葉の両方の力を最初から書いてある。神の言葉は絶大な力と影響力を持っている。人間の言葉ではなく、神の言葉があり、それは宇宙をも創造する力がある。
この神の言葉の力を知らない場合には、存在するのは人間の言葉だけということになる。そこから、人間同士が、悪い言葉ー批判、非難、陰口などを投げつけ合うという状況が生じる。
この詩篇においては、敵が悪い言葉、毒のある言葉を反対者に投げつけている。
それに対して8節にあるように、悪意の矢を射るならば、神様はその者に裁きの矢を射って討つ。5節と8節は対比して書かれている。神様は全く何もしない神様ではなく、御心であるならば全く同じ事を同時にすることができるということを、この詩を作った人は、経験から知っていた。
人を殺すほどに、言葉は鋭い力を持つ。子どもにおいても、殴られたりはしなくても、悪意ある言葉によって学校に通えなくなることもあるし、実際に暴力を受けるよりも、もっと深いところで傷つくことがある。
言葉は矢のように飛んでいき、心に突き刺さることもある。間接的に誰かが自分のことを悪く言っていたと聞き、傷つくこともある。
だが、他方で、神様の言葉も遠くに飛んでいく。この詩篇も三千年も前に書かれたものだが、時間も空間も超えて人の魂に矢が命中するように入り込むとき、そこに命が芽生える。
私たちが他者への悪しき言葉などを続けているとき、時が来たら裁かれて、周囲の人たちからも見下されるようになる。そして神の働きをみなが認めるようになり、御業に目覚める。それほど言葉の問題についても神は裁きをなされるということを、8,9,10節で強調している。
神がその御言葉の矢、あるいは光の矢を射ると、その矢を受けた人は、突然変えられる。パウロは迫害者のリーダーだったが、神が福音の火がついた矢をぱっと放ったら、パウロの魂に突き刺さって、燃え上がり、福音の最大の伝道師になった。神は裁くことも、また生かすこともおできになる。
この詩人は4~5節で分かるように、悪しき人からの毒のこもった言葉の矢を受けて、苦しい状態にあったが、神の助けによってそこから解放されたという経験を持った。
そして、神が、そのような悪しき人に対して、その悪を滅ぼし、悔い改めるようにと、愛の矢を射てくださるのを待ち望む。
聖書に記されている神ー悪を必ず裁かれる正義の神であり、愛と真実の神を信じない場合には、テロリストたちのように、自分たちが武力でもって滅ぼすという考えになる。そこが非常に大きな違いである。
悪い人は非常に巧みに悪を考えるから、見抜けないということが6、7節にある。しかし神は全てを見抜かれているから、時が来たらどんな秘密でしたことでも見抜かれる。
この詩の終わりにおいては、神がなされることは何が目的であるかが、記されている。
… 人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚める。
正しき人(主に従う人)は
主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって喜ぶ。
神のさばきとは繰り返し神を意図的に否定し、真理を踏みつけようとするものに対してその悪の力が滅ぼされることである。
そのようなことも、人々が神のなされることを見て、いかに人間のわざをはるかに越えてなされるかを思い知らされ、生きた神、正義の神、そして愛の神がそのようなことをなされているのだと知らされる。
そして主を幼な子のように仰ぐ者には、主によって喜ぶという祝福が与えられる。
私たちの究極的なさいわいは、健康や家族、あるいは災害や政治の腐敗や社会状態にあるのではなく、天地創造をされた全能の神、愛の神ご自身を喜ぶことができることである。
そのような喜びは、いかなる事態となっても取り去ることはできないからである。
それは言い換えると聖霊による喜びであり、キリストもご自分が十字架の激痛を受ける苦しみの果てに殺されることを知っていて、なお聖霊によって喜びあふれたと記されている。
またパウロが、「いつも喜べ、いつも祈れ、感謝せよ」と説いたのも、そうした主によって喜ぶことをはっきりと啓示とみずからの体験によって知っていたからであったし、この言葉は、自分の病気や家族の不和や争い、孤独、仕事の不調等々によって喜ぶことができなくなっている人への福音である。
いかなることになっても、なお「主によって喜ぶ」という道は開かれているのを知らされる。
主イエスが五千人に食べ物を与えられたという奇跡の記事が福音書にある。
このような内容は、初めて読む人にはとても不可解で、常識的には、およそ事実とは思われないから、古い書物にはよくある単なる伝説とか作り話だ、とおもって読み過ごされてしまうことも多い。
じっさい、わたし共の徳島聖書キリスト集会の以前の代表であった杣友豊市さんも、次のように言われたのを思いだす。
自分が初めて聖書に触れたときに、すばらしい教えだと驚嘆したのは山上の垂訓であった。これこそは、真理だと思った。しかし、そのあとに続く、海の上を歩いたとか、一声で風や波を静めた、あるいは盲人の目に触れるだけで見えるようにした等々の内容については、なぜこんなことを書いてあるのか、こんな内容がなかったらよいのに…と思ったとのことだった。
この五千人のパンの奇跡は、四つの福音書にすべて書かれているうえに、五千人が四千人になるなど、よく似た内容でも書かれてあり、計六回も書かれている。このように繰り返し記されている奇跡は、ほかにない。
それは、この五千人のパンの奇跡が特別な重要性を持っているからである。
「これを聞くと」ということばで始まっている。それは十四章最初からの出来事、洗礼者ヨハネが、殺されたことを指す。
特別な神の預言者であったヨハネが、無残に殺された。なぜ、このようなことが起るのか。神に特別に用いられる人物だからといって、安楽な生涯で終わるということは約束されてはいない。
神の長い時間にわたる、大いなる御計画のうちにあり、その過程で、私たちにとってはどう考えても分からない、不可解なこともよく生じる。分からないからこそ、信じるのである。
目に見えない神など信じていない、という人たちは多い。しかし、そういう人も、毎日の生活のなかで、さまざまのことを信じて生きている。
例えば、今日、大地震、大津波が生じるなどと本気で思ったなら、地下鉄や高層ビルなどには入らず、仕事などにいかずに安全なところへと逃げるであろう。しかし、そんなことは信じていないからこそ、ほとんどすべての人は通常の生活を続けている。
また、飛行機や列車に乗る場合も、途中で災害や事故があるなどと信じないで、安全だ、自分が乗っているこの便には事故などない、と信じればこそ、それらの交通機関を利用している。
食物にしても、それに毒などはいっていないと信じるから何の気なしに美味しく食べているのであって、あるいは毒がはいっているかもーなどと疑ったら食べられなくなる。
それゆえに、信じるということは、人間のあらゆる行動に深くしみ込んでいるのであって、そのようなさまざまのことを信じているにもかかわらず、目には見えない神を信じようとはしない。それは目に見えないからだ、という人もいるが、それなら、心というものの存在はどうか。心は目には見えない、だからそんなものがあるのを信じない、という人はいない。
それゆえに、表面的な出来事を見て、神はいないというべきではない。神は目には見えない、しかし、その愛はそれを求める人にははっきりと実感できるようにしておられる。
イエスはヨハネが殺されたことを聞いて、そのヨハネがイエスのために備えた道ー十字架の死に至る道を歩まれ始めたのである。
イエスは、地位も権力もない。しかし、驚くべき力を発揮した。その力の源はどこにあったのか。
それは一人離れて祈るーその絶えざる祈りの中でなされた。
「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山に登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」
(マタイ十四・23)
祈りの中で悪と戦う。キリスト者の戦いは、悪の霊との戦いである。そして祈りは悪との戦いに勝利する力を受けるときである。
主イエスは、群衆が飼う者もない羊のようにさまようありさまをみて、深く憐れんだ。この「深く憐れむ」(*)ということばの名詞形は「内臓」を現す言葉でもあり、内臓が痛み苦しむほどに憐れんだという意味。
中国の故事に由来する「断腸の思い」(**)という言葉は、やはり非常な苦しみや悲しみを内臓が断たれるほどだとする表現である。それほどに深く憐れまれたのである。
この五千人のパンという重要な奇跡の出発点は何か。それは、主イエスが群衆を見て「深く憐れんだ」からである。このことばは、原語の意味からは内蔵を現すことばであり、主イエスは深い痛み、悲しみを体全体で共感された。
そして、その肉体だけではない、魂の飢えや渇きを癒すため、満たすためにこの奇跡を行なわれたのである。
(*)深く憐れむと訳された原語は、スプランクニゾマイ。それはスプランクノン(肺臓、肝臓などの内臓を意味する語)の動詞形。
(**)昔、中国の武将が船で行く途中、ある山峡を渡ったとき、従者が子猿を捕らえて船に乗せた。母猿が連れ去られた子猿の後を岸伝いで長い距離を追い続けた。ようやく船が下流の岸に近づくと、母猿は船に飛び移ったが、そのまま死んでしてしまった。母猿の腹を割いてみると、腸がずたずたに断ち切れていた。この故事から、はらわたがちぎれるほどの耐え難い悲しみを「断腸の思い」と言うようになった。
そして、弟子たちに「自分たちでパンを与えなさい」と言われた。弟子たちは、パン五つと魚2匹しかない、と言ったのに、それを持って来なさい、と言った。そして、主イエスが祝福され五千人が満たされた。これは現代の科学的な観点からは到底あり得ないと思われるであろう。しかし、神は宇宙を創造した全能者である。奇跡を起こしうる方である。全能なる存在には、不可能はない。不可能だというなら、そのような神は全能ではないということになる。
そしてこの奇跡にはもうひとつの側面がある。それは、誰にでもなしうる、ということである。
主イエスは「あなたがたがパンを与えなさい」と弟子たちに言われた。主イエスと同じように、弟子たちにもできるからである。主イエスはできないことはいわれない。パンを弟子たちに与えると、弟子たちが人々にそのパンを与えた。そしてつぎつぎとパンは増えた。
主イエスこそがパンそのものである。主イエスが祈って弟子たちにわたしたパン。それが多くの人を満たしていった。
そのような目に見えないパンのことは、以下の箇所で示されている。
…人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
(マタイ四・4)
口から入るパンをどれだけ食べても、真実や愛は満たされない。かえってこの現代の日本の飽食の時代にあって、全体としてみれば家族の愛は冷えていきつつあると言える。
人間にとって本当の食べ物は神の言葉である。そしてその食物を提供していくことは、わずかのパンを持っていれば足りる。神の祝福を受けるなら、その手持ちのわずかのパンー神の言葉は驚くべき仕方で多くの人たちを満たしていくからである。
こうした真理を示すためにこの五千人のパンの奇跡は、四つの福音書で合わせて6回も書かれているのである。
キリストから受けた神の言葉、いのちのパンを弟子たちは他者に与えた。まず、神様からのパンをいただく。神の言葉をいただく。そして、それを他者にも渡していく。そこに神が働き、霊的に飢えていた人が満たされていく。歴史的に二千年間、主イエスからまず受け取った人がまた、他者に受け渡していった。
神の言葉はわずかに見える。力なきものに見える。しかし、神の祝福があれば大きな力を発揮する。それは五千人どころではない。過去二千年を見てもわかるとおり、無数の人を満たし続けてきた。
このように、五千人のパンの奇跡は、その以後の長い歴史における出来事の預言となっている。この神のことばの無限の増殖力は誰でもが受け取ることができる。
主イエスは弟子たちに「あなた方が与えなさい」と言われた。しかし、彼らが持っていたものは少しのパンと魚である。それでは到底おびただしい人たちに与えることはできない。単なる人間の力では、そのようなことができなくて当たり前である。
しかし、主イエスは不可能なことをいわれない。できるから言われたのである。「あなた方が、与えなさい。」これが長い歴史を現している。主イエスは歴史を通じて、パンを与え続けてきた。どんなに少なくても、神様の祝福を受けたら、増えるのである。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネ六・9)
とある。大麦は特に貧しい人たちの食事であった。そしてそれを持っていたのは、権力もお金や財産などのない子どもであった。はじめから、そのようなことには、まったく役に立たないものというほかはない。
しかし、その小さきものを神様が用いられるのである。
イエスから持っているわずかのパンと魚を差し出すように言われて、弟子たちは何をしたか。何もしていない。差し出しただけである。
その単純なところに主イエスの力が一方的に現われる。わたしたちは受け取るだけである。そしてそれは、食べてなくなるものではない、永遠に続く恵みである。
主イエスは「天を仰いで」祝福の祈り(*)をされた。
これは原語では「ユーロゲオー」であり「祝福する」ということである。これは聖書で五六〇回(**)も使われていることばである。神が人間にしてくださることは「祝福」なのである。
(*)新共同訳では「讃美の祈り」と訳されたが、大多数はここに記したように、「祝福して」と訳される言葉である。
(**)旧約聖書のギリシャ語訳と新約聖書を合わせての数。
「神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」(創世記一・22)
「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記二・3)
神の祝福は今に続く。そしてこの安息日の祝福も、主日礼拝として世界中で続き、そこに祝福がおかれている。主の名によって集まるところに、主イエスはいてくださるからである。聖書はすべてが祝福の書である。
主イエスが天を仰ぎ祝福の祈りをした。そして、そのパンを弟子が受け取り、つぎつぎと、手渡されていった。キリストの福音が、世界に伝わっていき、貧しい人が、癒され、救われていくことの預言となっている。与えられている小さい信仰であっても、神様が祝福されると、無数の人が満たされることになる。
一番になる必要もない。自分の弱さ、小ささを知り、何もできないものです、と主イエスを信じて仰ぐ。それだけで祝福され死んだあとまでも永遠の世界に連れて行ってもらえるのである。
このパンによって、すべての人が満たされた。主イエスのパンは人を満たす。
…主は我が牧者。わたしには何も欠けることがない。
主は私を青草の原に休ませ、
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく私を正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいてくださる。…
。私の敵を前にしても
あなたは私に食卓を整えてくださる。
命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。
主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまる。」(詩篇二三篇)
人は、さまざまの娯楽、快楽、、スポーツ、旅行、学的研究…どんなことをしても、満たされなかった心が、主が導き手となれば、満たされるようになる。
「主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。」(詩篇三四)
このように、主に求める人には欠けることがない。
残ったパンは12の籠にいっぱいだったという。それは12という完全数であり、神さまに祝福されたものは絶えず残り、それがまた、完全な形で伝わっていくということの預言ともなっている。
「私の肉がいのちのパン」と主イエスは言われた。この言葉の意味は、主イエスを霊的にいただく。言い換えれば、聖霊をいただくとき、何かが欠けているーという気持ちが消えていく。そのような欠乏感は、どのように人々からほめられてもまた健康や家庭に恵まれたとしてもやはり魂の奥深いところで存在しつづけるのである。
しかし、キリストが私たちの導き手であるなら、いかに重荷があっても、経済的に欠けていても、病気でも、その苦しみのなかにありつつ、心の深いところで何か満たされている、と感じる。イスラエルの民が砂漠を歩むときの食べ物はマナだった。それは、今、今は 霊的なキリストそのものとなっている。それが、私たちのいのちのパンになっている。そして、それがなくなったと感じたとき、この世の表面的な食物によってかえって欠乏感を強められるとき、求めたら、天からのマナ、パンをいただけるのである。それは歴史を通して現されてきた。
私たちの生活の中にも、日々、そして生涯、このいのちのパン、主イエスの霊を受けて歩んでいきたい。
… 渇きを覚えている者は皆、水のところに来たれ。銀を持たない者も来たれ。
穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。…
私に聞き従えば、良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむ。」(イザヤ55・1~2)
命のパンはただで与えられる。そして深く受け取った人は、他者に分かとうという思いが与えられる。このパンの奇跡で、二千年も昔に、キリストが「あなた方の手で与えよ」といわれた言葉が、現在の自分自身に言われたもののように、私たちの心の内で響くときが来る。
飽食の時代、しかし、神のことばの飢饉、今の日本がまさにそのような状態である。私たちも、この命のパンを求め、そして他者に分け与えていく者でありたいと願う。