いのちの水 2018年 5月 号 687号
主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、 慈しみと真実の豊かな神、慈しみを千代までも与え、 罪を赦す御方… 。(出エジプト記34の6〜7より) |
目次
上に立つ者は、風であり、人々は草であるーこの詩的な表現は数千年前とは思えぬ新鮮さを感じさせる。
…もし、不正な者を殺して正しいことを守らせるようにしたらどうか、と問われて、孔子は答えた。
「政治をするのに、どうして殺す必要があるのか。あなたが善くあろうとするなら、人民も善くなる。
上に立つ者は風であり、人々は草である。草は風にあたれば、必ずなびくものだ」(「論語」顔淵第十二)
中国というと、現代で日本でまずイメージされるのは、広大さ、人口、経済、軍事力、そして日本への旅行者の急激な増大…等々である。
しかし、そのような時代の表面的なことばかりでは、中国の人たちの魂に深く流れてきたものはわからない。
ロシアに流れている深いものはトルストイやドストエフスキーなどがその優れた天与の才能で表現したその文学や思想によらねばわからないし、イギリスにおいては、ミルトンやシェークスピアなどの大詩人、あるいは世界で最も多く読まれてきた翻訳聖書としての欽定訳聖書(ジェームズ王訳)と言われる英訳聖書、そしてドイツの精神の深い流れは、カントなどの哲学、ルターの信仰、バッハ、ベートーベン、モーツァルト等々の音楽などによらずばわからないのと同様である。
中国の精神性の底流には、孔子や孟子、荘子、墨子などの思想が流れており、そうした思想家の言葉にふれてはじめて中国の古代の人たちの精神に息づいていたものの一端がわかり、人類共通の真理がそこにも部分的にせよ感じ取ることができる。
そしてそれによって、聖書の真理の広大さがより示されてくる思いがする。
この孔子の言葉は、人間世界のことであるが、聖書の世界では、上に立つ者とは神であり、キリストである。そして神は聖なる風という側面を持つ。ヘブル語やギリシャ語で風とは、霊をも意味するゆえに、神からの風とは聖霊であり、聖霊とは、神ご自身と本質は同じである。
その神の霊のことは、聖書の最初の書、創世記の巻頭に現れる。
闇と混沌のなかに吹いている風、それこそ万物を生み出す神の風であり、それが、後のキリストの時代となって、聖なる風(聖霊)であることが啓示され、その風が吹いていくところ、人々は風の源である神、キリストに従うように変えられていったのである。
使徒パウロもその一人である。キリスト教を撲滅せんと国外にまで繰り出していたパウロは、神の光により、根底から変えられ、さらに神の国からの風(聖霊)によっていのちをかけて福音を語り伝える使徒と変えられていった。
自分にとって不正だとみなす者を武力によって殺す(滅ぼす)、あるいは、厳罰に処して、正しいことを守らせるという方法ーそれは、どこの国でもやってきた。
戦争もそうした考え方から生じてきた。権力や武力を持つ者はたいていそのような考え方になる。
孔子は、世界的な戦争などを視野に入れているのではなく、国内の統治における心構えを説いているのであるが、上に立つものがまずよき者になれと教えた。
キリストは、自分がまず滅ぼされるべき者にすぎない罪人であることを知り、そこからの救いを与えられ、そのうえで敵対する者のために祈れと言われた。
その祈りによって天来の風がその敵対する者に吹きつけることを信じるのであり、それによってじっさいに数知れぬ人たちの心が変えられていった。
現代の日本は、上に立つものが悪しき風を送り続けている状況である。
人々もそのような風になびいていく傾向が強く感じられる。
政治の混乱、この世の人間世界の闇に、天の光が射し込み、神の風が吹いてくるように、 そして草ー人々がその真理の風になびいていくようにと願うものである。
復活と愛
ーヨナのしるし
私たちにとって最大のしるしとは何であろうか。
赤信号は、止まれのしるし、目は心の中のしるし、声の質というか響きも心のしるし…里山でのウグイスのさえずりは春のしるし…等々、私たちは何かが生じるときには、何らかのしるしをもって判断することは多い。
それでは、この世で最も大切なしるしとは何だろうか。
イエスは、メシアであるしるし(奇跡)を見せよ、と迫ってくるユダヤ人の指導者に対して、ヨナのしるしの他は与えられないと言われた。
夕焼けあれば、明日は晴れとわかる。夕焼けは明日のよい天気のしるしである。
それなら、メシアのしるしとは何なのか。
それは、復活である。
預言書ヨナは、神からの言葉を受けいれようとせず、はるか遠くの地まで船に乗って逃げていこうとした。
しかし、そのために、大嵐に遭遇しまさに死の寸前まで追い込まれた。
そのときに、ヨナは、自分の誤りを知らされ、その罪から立ち帰ってその罪の重さのゆえに自分は海に投げ入れられてもよいとさえ思った。そしてじっさいに船乗りたちによって投げ込まれた。
ヨナは、海に投げ込まれ、さらに巨大な魚に呑み込まれた。
彼の絶望的な叫び、そしてそこから全身全霊をあげての神への叫びは次のようであった。
…苦難の中で、
わたしが叫ぶと主は答えてくださった。
陰府の底から、
助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。
あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み
波また波がわたしの上を越えて行く。
大水がわたしを襲って喉に達する。
深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
わたしは、地の底まで沈み
地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。
しかし、わが神、主よ
あなたは命を
滅びの穴から引き上げてくださった。(ヨブ記2章より)
イエスがヨナのしるしと言われたのは、ヨナの絶望的状況からの驚くべき救い、まさに死からの復活に他ならない。
ヨナを復活させた神のお心は何か。それは、愛である。ユダヤ人だけでなく、ニネベの大きな町の人々をも愛する。それゆえに、預言者を送ろうとされた。
しかし、ヨナは逃亡してしまった。それゆえに神は、ヨナを死の寸前に至るほどの苦難に遭遇させ、そこから光を与えて復活させた。
それは、ヨナへの愛であり、そのヨナを通してニネベの頽廃した町、死んだような町の人々を悔い改めさせるための愛であり、彼らを新たに復活させるためであった。
旧約聖書でみられる復活の記事は次のようなものもある。
かつてエリヤという預言者は、神から一人の貧しい女のもとに遣わされた。その女は一人の息子がいたが、もう食べるものがなくなった。
…わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。
わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。
わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。(列王記上17の12)
このような貧しく、もう生きていけないほどに追い詰められていた女の子供がその後死んでしまった。
その子供に対してエリヤは、復活させた。
ここにも、もっとも弱き者への愛が復活と結びつけられている。
同様に、私たちは死んでいた。
… あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのである。(エペソ書2の1)
そのような者をよみがえらせたのであった。
そしてその復活のしるしは、聖書にもあり、周囲の自然にも至るところにあり、また過去、現在のキリスト者となって大きく変えられた人たちにも見られる。
また、自分は死の体だ、と深く嘆き苦しんだパウロの罪が赦されたのは、キリストがすべての人の罪を担って十字架で死んでくださったゆえであり、生きたキリストが語りかけ、光をあててくださったからであった。
キリストは、万人の罪のあがないのために死んでくださった。それゆえに死んでいたと同然の私たちは、その十字架をただ信じるだけで救いを与えられたーそれは霊的な復活であった。
十字架は、神の愛のしるしであり、罪ゆえに死んでいたものを復活させてくださったしるしなのである。
人間にとって最大のしるしは、神の愛であり、その目に見えるかたちでの現れであるキリストの十字架である。
愛は復活させる。このことは、とくにヨハネ福音書においてはっきりと記されている。
キリストがじっさいに復活させたラザロに関して、その復活は、キリストが、兄弟を失ったマリアたちの深い悲しみを知り、その愛ゆえにラザロを復活させたことが記されている。
…マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤り(*)を覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
(*)イエスはマリアや周囲の人々の深い悲しみを見て心に憤りと興奮…とあるが、原語のエンブリマオマイは、激しい感情、叱責などを意味する言葉であり、一読したところでは、涙を流されたその心とはそぐわない感じがある。
これは、人間を深く悲しませる死という現実、その闇の力に対してイエスが激しく憤ったということである。この箇所は英訳では、deeply moved (深く心を動かされ)と訳しているものも多く、口語訳はその訳を採用している。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると死んでいたラザロが出てきた。(ヨハネ11章より)
キリストが涙をながしたという記述はほかにない。主は、愛する人を失った人たちの悲しみに深く共感された。そして、その悲しみをいやすためにラザロを復活させられた。
復活は、そのように失われた愛する人たちとふたたび再会できるように、という深い愛ゆえになされたことがわかる。
この世界では、絶えず愛は引き裂かれ、どんなに深く愛によって結ばれていた者も死によってその関係は失われる。
さらに、さまざまの良いもの、清いもの、美しいものも、次々に科学技術や人間の罪、豊かさの追求ゆえに破壊されていく。大気や地上は汚染され、核兵器の危険、戦争に核兵器が用いられたときの想像を絶する破壊、原発の増大に伴う世界的な危険性の増大、廃棄物の永遠的な害悪のこと…等々、この世には、よきものが破壊されてしまう状況がつねに、前途に待ち伏せている。 そしてそれがひとたびそのような状況が現実に起こるときには、人間や自然を含めて、愛するもの全般におけるとりかえしのつかない分裂、破壊、喪失が生じる。
そうした計り知れない悲しみが、この世界と隣り合わせているのが現実である。
そうした現在及び将来生じるかも知れないあらゆる悲しみを根底からいやすものは、科学でも思想や人間の経験や知識や政治でもない。
それはただ、無限の神の愛とその全能によってのみ解決される。それこそ「復活」という真理にほかならない。
河に橋がなければ渡れない。
この世界に、人間の心と心を橋渡しするものがなければ、心は伝わっていかない。
敵対する者に橋を渡すことができるだろうか。
人間の本質は、心である。心を渡すのが霊的な橋である。
親子、兄弟、あるいは同じ学校や職場であっても、心は通じ合わないことはよくある。 民族や国であっても、互いに橋を渡すことができない。黒人などへの人種差別は今でも存在している。
そのような状況を見るとき、すでに二千年も前から、永遠の橋となって人間と人間を橋渡しをさせ、かつ、人間と神の間にも橋をかけた御方がいる。
それは、キリストである。
キリストは、大祭司であることが、新約聖書のヘブル書において繰り返し強調されている。それを要約すれば次のようになる。
キリストは神の子であったが多くの苦しみによって従順を学んだ。それによって完全な者となり、キリストに従うすべての人々に対して、永遠の救いの源となった。キリストは永遠の大祭司であり、永遠に生きている正義の王である。
キリストは罪は犯すことはなかったが、私たちと同じように試練、苦しみを経験し、激しい叫びをあげ、涙を流しながら死から救う力のある神に祈りと願いをささげた。
無知な人、迷っている者を救うことができる完全な大祭司となった。さらに、昔の大祭司は、みずからも汚れていたので自分のためにもいけにえをささげ、人々の罪のためにも毎日いけにえをささげていたが、キリストはご自身をいけにえとしてささげられ、血を流されたので、もう動物をいけにえとしてささげる必要もない。それによって万人を清め、救う源となられた。
(ヘブル書4章14〜7章)
大祭司という語のラテン語は、ポンティフェクス pontifex という。この語は、pons ポーンス (橋) という語と、facio ファキオー(作る、英語のmake)から成る。
すなわち、ラテン語では、大祭司とは、「橋を作る者」という意味なのである。
そして、たしかにキリストこそは、引用したヘブル書にあるとおり、歴史上で最大の、しかも永遠の大祭司である。男と女、そして健常者と障がい者、民族と民族等々の間に、さらに、敵対する者にも懸け橋を作った。橋となって、互いの心が通い合うようにした。
キリストは、私たちに対して、生まれる前から橋であった。愛のまなざしをもって神の国からの橋を架けてくださっていた。
それが人生のあるときに、私たちのほうで神の恵みによってその神の国に通じる橋があるのがわかり、私たちのほうからもその橋を通って神の国への思いがわたっていくようになった。
男女差別、障がい者差別、生まれつき、民族 等々の間にある深い断裂を、強固な橋を架けてくださってきたのが、キリストである。
敵に対しても、キリストが敵を愛し、敵のために祈れ と言われたが、それは敵対する者への橋を作るため、まず私たちのほうから、主にある愛を届けようとする。それは、キリストが私たちが神に背を向けていたときから、すでに橋をつくり、そこから神の愛を注いでくださっていたことを少しでも行なうためであった。
そうしていくたび、そこにどれほど双方向の魂が交流する橋が架けられたことであろうか。
さまざまのこの世の問題は、根本的には、人間と人間との間に橋渡しができないことから生じる。それは双方がみずからの間違っていたことを認めようとしないかたくなさ、傲慢さが生み出す。それゆえに、他者を憎み、非難し、一方的にあるよくない点だけを非難、攻撃し合うようになってしまう。
戦争という人間や自然、建造物を含めての大規模な破壊をもたらす出来事もまた、同様である。
いっさいの根本原因は、人と人との心の橋渡しができないこと、それを壊してしまうこと、さらにその原因は、あらゆる人間の心を創造され、永遠に変ることなき真実と愛の存在である神との橋がなくなることにある。
まず私たち一人一人が神から与えられている橋を受け入れ、そこから私たちの思いを神に伝え、その見えない橋を通って神の思い、そのご意志が伝わり、神の力が伝わってくることこそ、究極的な解決になる。
その神と人との橋は、永遠に朽ちることがない。キリストがその橋であるから。
大空に時折かかる虹ーそれはこの世界に清くて美しい橋があるということをさし示すものなのである。
あるいは、この世のさまざまの自然の事物ー大空や白い雲、美しい花々、堂々たる大木、可憐な野草の花…等々も私たちが心を開きさえすれば、それらは、神との架け橋なのだと感じられてくる。
感謝することの重要性は、ごく常識的にわかる。子供でもわかる。何かものをもらったら、ありがとうと言いなさい、といったことは、幼児の頃から言われるであろう。
そのくらい基本的なことであるが、その感謝がいつもできている、という人はごく少ないと思われる。
感謝しないということは、自分が受けたものを当然と思っているからである。
そこには、自分の弱さや、視野の著しい狭さがある。
自分自身を静かに振り返っても、本当にごくわずかしか感謝ができていないのに気づかされる。
普通、「感謝」とは、人間に対してするものだという常識のようなものがある。
しかし、聖書、キリスト教の世界では、感謝はまず神に、そして人にも…ということが記されている。
本来受けるべきでない、受ける資格もないにもかかわらず、良きものを受けたという意識が深いほど感謝も深くなる。
一日の目覚めからはじまり、眠る際に使うベッド、布団等々から、住居、食物…衣食住のすべては与えられたものであるし、あらゆる生活とそれに使うさまざまのものも同様である。
職業も給料も同様である。
そしてそのような人間に直接にかかわるものだけでなく、美しい夕空や星々、また野山、またそこに生育している無数の植物、花々、あるいは鳥類や昆虫などの生物もみな、与えられたものである。私たちが努力して生み出したものではない。
多くのものが与えられたと実感すればするほど、感謝が多く生まれる。自分にはよいものが与えられていないとか、私たちの日毎の食事や生活のいっさいがあって当然だと思っていたり、人から悪い仕打ちを受けた、自分の罪が誰かを傷つけた、あるいはとりかえしのつかない事態を生んだという罪の意識が心につねにある場合、あるいは、憎しみを持っているほど、感謝は少なくなる。
人間から与えられたと思うのは、多くの人にとってまず両親、そして祖父母といった肉親である。じっさいそうした人たちの世話によって私たちは、生まれたときから世話をされて成長していったからである。
しかし、両親や祖父母といった家族だけでは決して成長しない。産着や産婦人科の施設、医者、看護師等々、また日毎の食事、衣服、住居等々、いっさいはそれらがなかったら成長できないがそれらはまたそうしたものを生産し、輸送し、販売する店や会社といったものがあって可能となる。
親が育ててくれたーそれだけでなく、そうした無数の網の目のようなものによって私たちは、成長してきた。
それを思うとき私たちの感謝は、たんに家族や親族に留まるのでなく、限りなく広がっていく。
しかし、自分の病気や家族に関する分裂や悩みなど、他人には相談しにくい問題、あるいは相談してもどうにもならない状況にあっては、感謝することがなく、すでに述べたようないろいろな恵みをも感謝する気持ちになれないこともある。
悲しみや苦しみ、あるいは悩みにうちひしがれることもある。
そのようなときに私たちに残された道は、信じる ということである。そうした苦しみや悲しみもきっと最善にしてくださる、と信じることであり、またすでに与えられていることを理性的に数え、思いだしてそれらを感謝することから始めることができる。
そして人間の根本問題である罪の赦しを受けたと実感できる人にとってはそれはどのようなときにあっても 感謝が湧いてくることになる。
そのようなことを思うとき、使徒パウロが、次のように説いているのを思いだす。
… すべてのことにおいて感謝せよ。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることである。 (Tテサロニケ5の18 )
聖書には、実に多くの感謝という言葉が用いられている。以下にその一部を記しておく。
なお、日本語では、讃美と感謝は、大きく異なるものを意味する。しかし、この二つは深く結びついている。それは言葉の面からもわかる。
聖書の最初の創世記において、ヤコブの子供の一人の名前は ユダであるが、それは、ヘブル語では、イェフーダー であり、これは、ヤハウェを讃美する(ほめたたえる)という意味を持っている。イェ とは ヤハウエの省略形であり、フーダーは、讃美する、感謝するという言葉(ヤーダー)の変化形だからである。
神のさまざまの驚くべきわざに感謝することはすなわちそのわざを讃美することにつながる。また、神の創造のはたらきをすばらしい、とほめたたえる(讃美する)心が生まれるとき、おのずから私たちは、そのような良きものを与えてくださった神に感謝する心が生まれる。
以下は、聖書の中の数多い「感謝」にかかわる個所の一部である。
◎旧約聖書より
@主に感謝をささげて御名を呼べ。諸国の民に御業を示せ。(歴代誌上 16の8)
・深い感謝の心は、おのずからその神のわざー働きは、自分たちだけのものでなく、世界に広がっていくものだと、予感していた。このような精神こそ、伝道の精神であり、新約聖書の時代になってキリストの福音が世界に伝えられるようになったが、それはすでにこうした詩篇にその萌芽が見られる。
A恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。
(歴代誌上 16の34)
・神の愛(慈しみ)が、永遠であることを深く感じると、おのずからそのような絶大な価値を持つ神に感謝するようになる。
B神々の神である主を礼拝するすべての人よ、主を賛美し、感謝せよ。その慈しみは代々に変わることはない。」(旧約聖書続編 「アザルヤの祈り 1の67」)
・旧約聖書続編を読む人はごく少ないが、他方、新聞や雑誌、週刊誌などはたくさんの時間を費やして読むーという方々もある。それらよりはるかに重要な内容を持っているのが、旧約聖書続編である。この引用はそこからである。
ここにも「感謝」という言葉があらわれる個所は多くあるがこれはそれらの中の一つである。
C感謝を知らない者の希望は冬の霜のように解け、無用な水のように流れ去ってしまうからである。
(旧約聖書続編 知恵の書 16の29)
・神と結びついた希望は、信仰、愛とともに、永遠である。(Tコリント13の13)しかし、人間に関して持つ希望などは、跡形もなく消え去ってしまうことが多い。
Dわたしの父祖の神よ、感謝と賛美をささげます。知恵と力をわたしに授け、今、願いをかなえてくださいました。」
(ダニエル書 2の23)
Eそこから感謝の歌と、楽を奏する者の音が聞こえる。わたしが彼らを増やす。数が減ることはない。わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。(エレミヤ書 30の19)
Fその日には、あなたたちは言う。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。 (イザヤ書 12の1)
・ここでも、主への感謝の心が深いとき、おのずから、自分だけにとどまらず、周囲の人々ーここでは諸国の民へとそれを証しし、伝えるべきことが言われている。
G その日には、あなたは言う。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められる。 (イザヤ書 12の4)
H主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ野を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。 (イザヤ書 51の3)
I《詩篇より》
1、わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。 (詩編 9の2)
2、主よ、国々の中でわたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌おう。
(詩編 18の50)
3、感謝の歌声を響かせ、驚くべき御業をことごとく語り伝えます。(詩編 26の7)
4、主はわたしの力、わたしの盾わたしの心は主に依り頼みます。主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌をささげて感謝いたします。
(詩編 28の7)
5、主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。(詩編 30の5)
6、わたしの魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よとこしえにあなたに感謝をささげます。 (詩編 30の13)
7、琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。(詩編 33の2)
8、わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす喜び歌い感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。
(詩編 42の5)
9、我らは絶えることなく神を賛美し、とこしえに、御名に感謝をささげます。
(詩編 44の9)
**********************
◎新約聖書より
@そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
(Tテモテ 2の1)
A神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない。
(Tテモテ 4の4 )
Bわたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 (Tテサロニケ 1の2)
C どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 (Tテサロニケ 5の18 )
D なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。(Uコリント 9の12)
E わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝していますエペソ 5の20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
(Uテモテ 1の3)
F それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ 22の19)
G どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
(ピリピ 4の6 )
H わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。 (コロサイ 1の3 )
I キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ 3の16)
J 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。
(コロサイ 4の2)
1 全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
2 御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。
3 神に向かって歌え
「御業はいかに恐るべきものであろうか。御力は強く、敵はあなたに服する。
4 全地はあなたに向かってひれ伏し
あなたをほめ歌い 御名をほめ歌う」と。
1から4節までは全地に向かって呼びかけている。全地というのは全世界のことを表している。神はいかに素晴らしいかということを全世界が深く知って、神に向かって喜びの叫びをあげようという。
これは、単に自分だけが神のわざに感じて感謝して喜ぶ、という個人的なこととは大きく異なる。
それは、この詩の作者が、天地の創造者である神のすばらしさは、全世界が知るようになるということを啓示されていたからである。
旧約聖書は、キリストを指し示していると言われる。
たしかにキリスト以後には、全世界で唯一の愛と真実の神を知る人たちが増やされ、かれらによって神のわざは賛美され、喜ばれてきた。この詩は、そのような長い歴史を預言する言葉となっているのである。
そのことは、長い歳月を要するし、世界の多様な民族に伝わっていく必要があり、そうしたことを主にあって見つめたうえで歌われているのであり、スケールの大きい賛美である。
世界には事件や災害など様々なことが起きていて、神の真実や愛、あるいは正義が蹂躙されているようなことが至るところにあるゆえ、この詩篇のように、神を喜び、賛美するなどと言われるのはとても意外に思われるであろう。
それゆえ、このような詩を見て、あまりにも現実とかけ離れているのではないかと思ってしまう人も多い。
これは黙示録の中にある賛美と共通する内容がある。世の中がいかに暗く困難な状況であろうとも、神のことを深く知らされ、霊的な啓示を受けた人は、神は素晴らしいことをなさっていると実感することができる。
…この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、神と小羊(キリスト)の前に立って、 大声でこう叫んだ。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と小羊とのものである。」
また、天使たちは皆 神のみ前で神を礼拝して、こう言った。
「賛美、栄光、英知、感謝、力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように。 (黙示録7の9〜12より)
この黙示録が書かれたのは、ローマ帝国による厳しい迫害が行なわれつつある時代であって、キリスト者は捕らえられ、さらしものにされ、十字架で処刑、あるいは大競技場にて猛獣に襲われて殺され見せ物にされるなど、悪の力があふれている状況であった。
にもかかわらず、黙示録の著者は、神からの啓示によって、ここに引用したような、あらゆる民族、国民のおびただしい人々が清められた姿で、神とキリストを賛美し、祈りを捧げていた状況を示された。
いかに悪の力が支配しようとも、その背後では、神の正義に満ちた御支配があるのを啓示によって知らされていた。
詩篇のこの冒頭の個所もまた、こうした状況を預言するものにもなっている。
5 来て、神の御業を仰げ 人の子らになされた恐るべき御業を。
6 神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。
7 神はとこしえに力強く支配し 御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。
8 諸国の民よ、我らの神を祝し 賛美の歌声を響かせよ。
9 神は我らの魂に命を得させてくださる。
5節の原文は「来たれ、見よ。」で英語では Come and see.となる。
これは12節までを含んでいる。
それでは、どこに来たれと言われているのか。それは神、キリストのところであり、そこに来ると見方が根本から違ってくる。
何かいやなことをされた時にも、自分中心の考え方に立っていれば、どうしてあの人はあんなことをしたのかと人間的な感情ばかりが起こってくるが、神様のところへ行き、静まれば、自分が未熟だから、あるいは弱いから、あるいは罪深いから、神様がその人を用いてあのようなことを起こされたのだ、あるいは試練のためにされたのだと、より高い視点から見ることができる。
「来たれ、見よ」というのは、新約聖書では特に、ヨハネ福音書の始めの部分に、深い霊的な意味をたたえて繰り返し現れる。(ヨハネ1の29、 36、 39、 46節など)
テレビや新聞、あるいは書物などでいくら調べても、そのほとんどは、この世のことしかわからない。
しかし、神(キリスト)のところに行けば、平凡な中に、あるいは様々なことがあるただなかに、神の業が見えてくる。
その一つが神が創られた麗しい自然である。これも神あるいはキリストのところに行けば、さらに深く感じられる。
単なる美としてでなく、その美も清さも、また力強さも、神の私たちへの愛であり、その語りかけであるとして受けとることができるようになる。
神の民は、かつて彼らになされた驚くべき神のわざを長く記念し、それを思いだすことによって新たな力を得てきた。
黙示録の記者のようにはっきりした啓示が与えられない人でも、過去を静かに振り返れば非常に大きな導きがあったことがわかる。
過去を単に悲しんだり、自分のしたことを後悔するだけでなく、さまざまなことをも全体として神様が導いてくださったと受け取ると、神様は生きて働く素晴らしいお方だとわかり、9節にあるように、我らの魂に命を得させてくださるということがわかる。
イスラエルの人々は、エジプトをモーセの導きによって脱出したあと、エジプト軍が大挙して押し寄せてくるのを背後に見て、しかも前は海であるという絶体絶命の状況から、大いなる神の力によって道が開かれ、救いを得た。
それは、彼らの民族の根源的な救いの体験であり、神の生きた力をほかのいかなることにもまして深く知らされることになったので、この詩の作者もまた、そうした民族全体の記念として、力の源としての出エジプトをここに記している。
ここでも、こうした経験は、単に自分たちだけのことでなく、その神の大いなるわざは、世界に及ぶことを知らされたゆえに、「諸国の民よ、我らの神ー真実な愛の神を覚え、賛美せよ」と呼びかけているのである。
真理は、特定の個人や民族だけのものでなく、おのずから世界の人々に伝えられていくのを啓示により知っていたことがうかがえる。
10 神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。…
12 我らは火の中、水の中を通ったが あなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた。…
これは、紀元前586年に、バビロンからの大軍の攻撃にあってユダヤの国が滅ぼされ、遠くバビロンへ捕囚として連れ去られたことを思い起こさせる。
彼らの祖国は破壊され、信仰の中心であった神殿も町々も焼かれてしまった。それは、火の中、水の中を通らされたような滅びるほかはないような苦難の経験であった。
しかし、そうした歴史的な苦しい経験に遭いながらも、それでも滅ぼされずに、それから50年を経て導き出された。
このことは、単に特定の民族の経験だけでおわらない。私たちもみなそれぞれ、その程度の多少はあれ、火の中、水の中を通るような苦しい経験をすることがある。
そうした中から、神の憐れみによって救いだされたというのが、多くのキリスト者たちの実感であろう。
13 私は献げものを携えて神の家に行き、誓いを果たそう。…
16 神を畏れる人は皆、聞け
神がわたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
17 神に向かってわたしは声をあげる。
18 わたしが心に悪事を見ているなら 主は聞いてくださらない。
19 しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け 聞き入れてくださった。
20 神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく
慈しみを拒まれなかった。
16節もまた原文の表現と違っている。ここは、原文は「来れ、聞け」という簡潔な表現ではじまる。 英語など外国語訳では、その原文の表現がそのままに表されていて、Come and listen … となっている。
5〜12節は民族全体の証であるが、13節以降はわたしとあるようにこの詩の作者の証である。神様に献げものをせずにはおれないほど、神様が大いなることをしてくださった。
そのみ業に接した者は、黙ってはいられない。語らずにはいられないという気持ちが現れている。
こうした神のなさったことに関する証しは、次々と伝えられ、世界に広がり、今日に及んでいる。
このように、最初は全地という非常に大きなスケールから始まり、そして民族全体、そして個人というふうになっているが、全世界を見ても、過去の我々の歴史を見ても、個人的なことを見ても、主にあって、過去現在を見つめるならば、神のわざは、さまざまのところにあるのが示される。そして、神を賛美することができる。それがこの詩の作者に示された啓示であり体験である。
この一年ほど、政治の世界での虚偽、不真実があからさまになったことはなかった。
昔から政治の世界には、腐敗がつきものであったし、それは日本にかぎらない。
しかし、今回の日本の政治の、とくに支配者層の状態はあまりにもひどい。
どう見ても、はっきりした証拠だとみなされるものが明るみに出てもなお、それを認めようとしない。
政治の「政」とは、正しいという文字に、打ちたたくことを意味する 旁 から成る。このつくりは、教、攻 などにみられるように、打ちたたくことを意味する。
政治とは、正しく打ちたたく、言い換えると正義がその本来のあり方であるというのは、中国の古代の人が考えた漢字のその成り立ちからもわかる。
そして中国の最大の思想家とされる孔子は、その政治の根本を、次のように簡潔に述べている。
「政は、正なり」
(「論語」顔淵第十二)(「中国古典選 論語下 」朝日新聞社92頁)
この一言に添えて、「もし、上に立つ者が、正義によって導くなら、だれがあえて不正を犯すであろうか。」とある。
現在の日本のこの一年の政治や、官僚の問題は、真実を覆い隠そうとすること、公文書まで書き換えてしまう、しかもそれが明るみにだされてもなお、いろいろと言い繕って、あるいは調査中と称して追求を免れ、そのうち事故、災害、国際的な別の大きな出来事が起こってマスコミがそちらの方に関心を向ける、国民もそれにつられていくのを待っている。
しかし、そうしたことは必ず裁きを受ける。彼らが虚偽、偽りをやっていることは、明らかになり、その腐敗は時間の流れのなかに歴史にきざまれる。
人々が忘れ去ろうとも、その当事者の心は偽りを多くの人の前で主張したということのゆえに、魂の清い状態が失われ、純粋なもの、本当に美しいもの、真実なものからは、見捨てられていく。
こうした目に見えないところでの裁きは確実になされる。
信じないものはすでに裁かれている。(ヨハネ3の18)
真実の力が存在する、永遠に不変な正義や真実が存在する、ということを信じないものはすでに裁かれているといわれている。
それはどういう意味であろうか。
もしそのような永遠の真実を信じないなら、「真実」そのものを受けることができないし、信じて歩むときに与えられる喜びや平安は決して与えられないという裁きである。
そうした真実の力、清い世界、目には見えない美しいものの存在、それはいかなる人間の意見や生きざま、またそれらの人が書いた文書、小説などを限りなく超えて存在している。
そのことを文書として記したのが聖書である。
聖書に記されている世界ーそれはいかにこの世が不信実であろうとも、また策略や欺きで満ちているように見えてもなお、それらの背後に、あるいはそれを超えたところに真実が存在することを一貫して述べ続けている。
その真実な世界、それは当然愛の世界であり、清い世界であり、美しい世界である。
水野源三(*)は、身動きできないうえに、ものも言えない重度の障がい者であったが、キリストによって深く、かつ清い感性を与えられてつぎのように歌った。
来る年も来る年も
さわやかな初夏には
スズランの花が咲くように
神様の真実は変わらない
神様の真実は変わらない
来る年も来る年も
澄み渡る秋には
リンドウの花が咲くように
神様の真実は変わらない
神様の真実は変わらない
花のとき過ぎゆき、
人のこころ移り
約束を忘れ去るとも
神様の真実は変わらない
神様の真実は変わらない
(*)1937〜1984年 長野県生まれ、9歳の時赤痢による高熱のために重度の障がい者となり、声も出なくなり、起き上がることもできなくなったが、後にキリスト者となった。母親の愛は50音表を指さしてまばたきで源三が合図するという方法で応答する道を見いだし、源三は、信仰を与えられてからの魂の感動を言葉にしていった。その心の波動は周囲へと広がっていき、多くの作曲者がその詩に曲を付けて讃美歌とし、現在も各地のキリスト者によって愛唱されている。
真実といえば、人間同士のあるべき姿ということがまず連想されるであろうが、水野は、毎年季節が来れば必ず美しい花を咲かせるスズランやリンドウの花を見て、そこに神様の変ることなき真実を感じ取ったのであった。
自然の姿に接して、美や力、そして清さを感じる人は多い。しかし、そこに神様の真実を感じ取る人は少ないのではないか。
人の世には真実はなかなか見られない。しかし、神の国には、永遠に変わらない真実がある。その真実は神の直接の被造物であるそうした自然にいつも私たちの眼前にある。 植物の世界や大空の姿、星々などに変わらぬ神様の真実が刻印されているさらに、神の真実は、聖書に写し取られていて、世界で最も真実に満ちた書としていつでもふれることができる。
2018年7月12日〜15日、北海道での瀬棚聖書集会と札幌での交流集会のあと、例年のように、主の許しあらば、東北、関東、中部などの各地で御言葉を語らせていただく予定です。小さな集りであっても主が働いてくださって、神の言葉の真理が表されますようにと願っています。
(なお、10日(火)は、北海道へ行く途中での集会です。)