「いのちの水」2018年7月号 第689号
あなた方に真理を言う。あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。(マタイ18の19) 私の天の父はそれをかなえてくださる。(マタイ18の19) だれもこれを閉めることはできない。(黙示録3の8より) |
目次
・高き山に |
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・お知らせ |
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七月の北海道他 県外での 集会 |
・北田康広の讃美歌 CD「アメイジング・グレイス」 |
私たちは低いところにいるとき、さまざまのものは見えない。山に上るほどに、視界が開け、それまで見えなかったさまざまのものが見えてくる。
これは、目に見えない世界ー霊的世界においても同様であって、私たちがより高きへと導かれるにつれて、それまで見えなかったものが見えてくる。
自然の山において高きへと上るには、体力がいる。足が弱くては上れない。
しかし、霊的な山にのぼるには、そうした体力は不要であって、からだの弱い人、病人、また老齢の人であっても登ることができる。
しかし、その場合に必要なのは、やはり力が必要であって、霊的な力が必要となる。
その力を与えてくださるお方がいなければ、私たちは地上の低いところにさまようばかりである。
登山においても、高き山ほど、また登る人が少ない山ほど、すぐれた指導者がなければ、難しい。最も高きところへと登られた方に導かれていく必要がある。
霊的な高みへと登る道は、狭い。キリストは、「狭き門から入れ、命に至る道は狭く、そこを歩く人は少ない」といわれた。
霊的な高みへの道も同様で、導きなくしては歩めない。
主はわが牧者、羊飼いとは羊を導く人である。主すなわち、愛と真実の神が導かれるのでなければ、私たちは高き山への道はのぼれない。
登る足どりは、弱くて難しいときでも、神の力、キリストの力を与えられるときには、のぼっていくことができる。
「めぐみの高き嶺」(*)へと導かれるとき、そこには、霊的な光景が開けてくる。
そこで新たな語りかけを聞いた人たちが、書き綴っていったことが伝えられ、広められて聖書となった。
パウロは第三の天にまでひきあげられたという。
ダンテも地獄篇から煉獄篇を経て天国編への霊的な登りを大作「神曲」で描いた。そこでも、ダンテのような強固な意志を持っていた人であっても、なお、導きによらずば、高みへと上がれないことが、神曲全体をも貫く主題の一つともなっているほどである。
この世の山の光景は、目の見えない人にとっては、開けた風景や広大な見晴らしは与えられない。
しかし、霊的な高きへとひきあげられるときには、盲人も病人もあるいは、独房のなかでも、最初の殉教者であったステファノのように、石で撃ち殺されようとするときにも、その高みへとひきあげられて天の国が開けて、周囲の敵対する人たちへの祈りをもって地上の命の最後とした人もいる。
苦しい試練が降りかかってきた時、その苦しみゆえに高きへのぼるどころか、闇をさまよい、ますます落ちていくのではないかと恐れ、さらにそうした状態が、長く続くこともある。
すでに数千年の昔にかかれた詩に、「神様、神様、どうして私を捨てたのか!」(詩篇22)という叫びが記され、それはそのままキリストが十字架ではりつけの耐えがたい痛みと苦しみのなかから、叫んだ言葉となっている。
それは、高みへの道は、決して単純な道でなく、耐えられないと思われるような道でさえありうることを示している。
それにもかかわらず、そうした苦悩に一人あえぐ歩みの後で、神は高き嶺へと導かれることが、さきほどの詩篇にも記されて、キリストご自身も神のもとにて復活されたのだった。
私たちは、小さき者ゆえに、何十年という信仰の歩みにもかかわらず、人生の途上にあって苦しみや悲しみゆえに低いところをさまようようなこともしばしばである。
しかし、神の導きを受けるなら、毎日の生活において、そのような霊的な高みへと少しでもひきあげられ、この地上を去るときには、究極的な高みなる天の国へと復活させていただける約束を信じて歩みたい。
(*)1、恵みの高き嶺(ね)
日々わがめあてに
祈りつ歌いつ
われはのぼりゆかん
※繰り返し
光と清きと
平和にみちたる
恵みの高き嶺
われにふましめよ
2、おそれのある地に
などかはとどまらん
ぎわくの雲をば
早く下に踏まん
3、さぎりのかなたに
あまつ日かがやく
うきよをあとにし
なおものぼりゆかん
4、けわしき坂をも
直ぐなる岩をも
み助けあるみは
遂にのぼりきらん(新聖歌339)
イエス(キリスト)を何者であると思うのか、それはキリスト教信仰においても決定的な重要性を持っている。イエスは、ソクラテスや孔子、ゴータマ・シッダルタ(ブッダ)などと並ぶ偉人なのか、それとも、偉人とはいえ罪ある人間とは根本的に異なる神にひとしい存在なのか、ということである。
私たち日本人は、子供のときから、キリストは、偉人伝の一つにあって、偉い人間なのだ、というのが自然な受け止め方であって、人間を超えた「神」に等しい御方であるなどということは、考えたこともないのが普通である。
イエスは、教えをしばしば語られたガリラヤ湖の北部から、直線距離にしても40キロ以上もあるような遠い丘陵地帯にあるフィリポ・カイサリア地方にまで行かれたとき、弟子たちに、自分のことを何者だと思うのかという重要な問いかけをされた。
なぜ、どこででも問うことができるこの問いかけをわざわざそのような遠いところにまで行ったときになされたのか。
ここは、ガリラヤ湖に流れ込むヨルダン川の主たる水源となっているほど、豊かな水が湧きあふれている重要なところである。そしてそこでは偶像をまつる場所でもあった。
しかし、イエスは、命の水があふれる水源は人間が作った偶像ではなく、イエスご自身であることを暗に指し示すためにも、このような遠くの特別な水あふれるところを選んだと推察される。
…イエスは、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問うた。
弟子たちは、洗礼者ヨハネだと言う人も、預言書エリヤだ、エレミヤだなどと言う人もあると答えた。
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスは答えた。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 (マタイ16の14〜18より)
岩とは、何か。ペテロという人間が岩であるかのように、この個所では見える。
じっさい、そのために、そのように受けとる人たちも多い。
しかし、すぐ後の個所で、イエスがみずからが聖書学者や長老、祭司といった指導的な人たちから憎まれ、捕らえられて殺される。しかし三日目には復活するーとイエスが地上につかわされてきた神の御計画を語った。
すると、ペテロはこともあろうに、イエスを脇に引き寄せて、そんなことがあってはならないとイエスを叱責したのであった。
しかし、キリストから「サタンよ、退け!」と厳しく叱責されたことや、その他の聖書の個所(*)が明確に示しているように、彼自身は決して岩ではなかった。
(*)「…ケファ(ペテロ)は、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」。(ガラテヤ 2の12)
ペテロは、異邦人を汚れたものとしてはいけないと、夢の中の啓示ではっきりと知らされた(使徒言行録10の9〜)にもかかわらず、後になって、割礼の者と食事を共にしなくなった。そのためにパウロから面責された。
さらに、次のように自分が上に立ちたいというこの世的な願望を持っていた。
…異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。(マルコ10の34〜38)
このように、聖書がペテロについて記している内容を読めば、人間ペテロが「岩」のような強固な人物、そこに後のキリスト者たちの集りの不動の根底(岩)となるようなものでは到底あり得ないのがわかる。
それでは何が「岩」なのか。それは、岩とは強固なもの、壊れない象徴であり、それは、イエスを神の子(神と同質)であり、それゆえに救い主であると信じる信仰である。信仰・希望・愛こそがいつもででも続くと言われているとおりである。(Tコリント13の13)
そしてその信仰は啓示に基づく。啓示とは神からの直接の言葉であり、光であり、ときには、霊的に見えるものとしても与えられることがある。
それゆえ、神の言葉が岩であり、その神の言葉を与える神こそが岩の根源である。
詩篇では、この啓示、信仰がしばしば記されている。
…主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。
主のほかに神はない。神のほかに彼らの岩はない。
主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。
(詩篇18の3、32、47)
このように、繰り返し、神こそ私たちの岩であると告白されている。
このことは、こうした詩篇が書かれてから三千年ほどという長い時間の経過にあっても変ることはない。
人間の権力、支配などいかにある期間は強大であろうとも、またさまざまの評論家や学者、思想家などの人間の考え等々も、すべて長い時間の流れにおいて、たちまち消え去るか、あるいは徐々に消えていく。
永遠不動の岩といえるものは、天地宇宙の創造をされて今も万物を支えておられる神のみであり、その神と本質を同じくするキリストである。
そしてその神(キリスト)の言葉こそが、私たちにとっての永遠の岩である。
鍵ーこの言葉は、私たちにさまざまの暗示を与える。
私たちの生きる過程で、否、日常的にさまざまのことで鍵がかかっているという事態に直面する。
自分の心の世界さえ、いわば扉が閉じられていて開かない、自分の本質がどれほど罪深いか、愛や真実がないのかーということさえ見えていない。
人生の途上で、大きな苦難や悲しみがふりかかってきたとき、初めて自分というのがいかにいろいろな意味で弱く、愛や真実などのない存在であるかが示される。
苦難が鍵となる。
それは、ほかのことに関してもいえる。使徒パウロが、「神の国にはいるには、多くの苦難を経なくてはならない。」(使徒 14の22)と言ったが、苦難という鍵なくしては、神の国にはいることができないゆえに、神は人間にさまざまの苦しみや悲しみを与えられる。
さらに、神の愛がどれほど大いなるものであるのか、弱い人、絶望している人にも、驚くべき力を与えるものか、そうした神の愛に関する世界にも鍵がかかっているために、多くの人はわからないままである。
私自身もまったくそのような世界は21歳になるまでは知らなかった。完全に鍵がかかっていたのである。
しかし、当然その鍵が開かれて、神の国の世界というものが少しずつであっても知らされてきたのを思い起こす。
神の国と深くかかわるのが、周囲の自然の世界であり、青空や海、河、風の動き、雲のかたちやその色合い、無数の植物、花々の多様性やその美、星空の永遠の美、昆虫や動物たちの驚くべき能力やその姿ー等々、無限の世界がある。
そうした世界を開ける鍵ーそれは小さいものであっても、神が生まれつき各人に与えておられる。
しかし、その背後に愛と真実をもって創造された神を知らされるときに、初めてそうした自然の奥深い本質の世界が開かれていくーそれは私自身の実感だった。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 (マタイ16の19)
この言葉は、イエスを神の子ー神と等しい存在と告白したペテロに対していわれたが、次の個所からわかるように、これは単にペテロに言われたのでなく、「あなた方に」と言われ、そのように信じるすべての人たちに約束された言葉である。
…あなた方に真理を告げる。あなた方が地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなた方が地上で解くことは天でも解かれる。
また、あなた方に真理を告げる。どのような願いであれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださる。
二人または、三人が私の名によって集まるところには、私もそのなかにいるのである。(マタイ18の18〜20)
地上でつなぐこと、天でもつながれる。地上で解くことは、天でも解かれる。すなわち神の御前でも実現される。
地上でつなぐ、罪ありとする、悪しき思いや行動を引き起こすサタンに対して、つなぐとは、さばきと結びつけることである。そうすることで、たしかにサタンはその働きがつながれる。「天路歴程」にも、天の国への道であるところで、ライオンがいた。それに恐れたが、よく見るとそのライオンは鎖でつながれていたという個所がある。
人々に対して働くサタンの力を神の正義の力、さばきの力に結びつけようとすることーそれは神の国がきますようにとの祈りと共通している。
そして、逆に、祈り、とくに二人三人で だれかを神の力と結びつけようとするとき、それは聞かれる。天においてもそのようになされるという約束である。
じっさい、中風の人は、運んできた人たちの祈りー病人を神の力に結びつけようとするときに癒された。人を打ち倒している病気の力、あるいは悪の力からの解放を祈るとき、それはかなえられるーその時は私たちには分からないがーということである。
すでに述べたように、天の国の鍵は、ペテロだけでなく「あなた方」とあるように、信じる人すべてに与えられることとして記されている。
そして、それに続くこと、二人三人集まるところに私はいるーすなわち私たちの祈りがキリストに聞かれていることである。
信仰により、祈りによって与えられる賜物のうちで最も重要なのは罪赦されることである。それは滅びと命を分けることであるからだ。
その最大の賜物が、共同の祈りと深くかかわっていることを示している。
天の国の鍵という大切なものーそれは信じる人たちが共同で使うのが期待されているものなのである。
旧約聖書の詩篇は、一般の人はいうまでもなく、多くのキリスト者にとっても全体としてどこかなじみにくい、わかりにくいというものが多い。
それは、敵への激しい言葉や、見慣れない地名や人名、言葉、オーバーだと思われるような、あるいは現代の日本では不可解な用語等々のためでもある。
しかし、そうしたものから キリストの時代へと流れ込み、さらには現代の私たちへと数千年という歳月を経ても流れ続けている真理の流れがあり、それを時として見られるわかりにくい表現からいわば、濾(こ)しとっていくことが求められている。
そこから見えてくるのは、その深き流れはいのちであり、それゆえに現代の世界においても、至るところで歌われ、演奏されている讃美歌の源流となり、また、バッハやベートーベン、モーツァルト、ブラームス、ドボルザーク、メンデルスゾーン等々が作曲したキリスト教にかかわる音楽にも流れ込み、いまも絶大な影響を与え続けている。
また、そこに記されている深遠な霊的世界は、例えば詩篇22の冒頭の「わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!」という叫びが、はるか後のキリストの十字架上での最も苦しい最後の叫びそのものであったことからもうかがうことができる。
キリストの苦しみは万人の罪を担って死なれた、比類のないものだったが、それをすでに千年ほども昔とされるダビデの詩が預言的に記していたのである。
このように、詩篇の内容は人間のもっとも深い魂の叫び、苦しみ、喜び、賛美等々の世界を指し示し、照らしだしていると言えよう。
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詩篇68篇より
神は立ち上がり、敵を散らされる。
煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。
神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。
神に従う人は誇らかに喜び祝い
御前に喜び祝って楽しむ。
神に向かって歌え、御名をほめ歌え。
雲を駆って進む方に道を備えよ。
その名を主(ヤハウェ)と呼ぶ方の御前に喜び勇め。(2〜5節)
神は聖なる宮におられる。
みなしごの父となり
やもめの訴えを取り上げてくださる。
神は孤独な人に身を寄せる家を与え
捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。
背く者は焼けつく地に住まねばならない。(6〜7節)
2節から5節までは、神の大いなる力を言っている。絶えず神の力をなくそうとする悪の力がこの世には満ちているが、神はそのような敵対する力を追い払われるという確信がまず書かれている。
正義の神の力の前には、いかなる悪の力が煙のようにたちこめても、必ず吹き払われるし、固い蝋が火によって、水のように溶け、流れ落ちていくように、悪の力は、神の力の前には、いかに強固に見えても溶け去っていく。
こうした確信は目に見えるものから得たのでなく、神からの直接の啓示によるものであった。
「敵」とは、キリスト以降の現代の私たちにとっては、具体的な人間や民族、国家などでなく、神の真実や正義を踏みにじろうとする悪の力、目には見えない闇の力を意味している。
新約聖書では、次のように記されている。
…わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、暗闇の世界の支配者、悪の諸霊を相手にするものである。(エペソ書6の12より)
旧約聖書ではこのように直接的に特定の敵対する者に対していわれるが、私たちは新約聖書の世界に生きる者として、こうした旧約聖書を受け取っていく必要がある。
旧約聖書のこうした表現は、キリスト以降の霊的な戦いを預言的に記したものと言えるからである。
雲を駆って進む方、また荒れ果てた地を行進される神、そして神の戦車は幾千、幾万とある。神は悪の力と戦いながら前進していくさまが記されている。
さらに、神よ、あなたの行進が見える。わたしの王は聖所に行進される。というふうに、この詩は周囲に敵対する力、闇の力を打ち破って前進していく神がここにあるというのがうかがえる。
神というと、静かな山のように動かない存在として受け取ることも多いが、この詩は動的で、絶えず前進して止まない神の姿を表わしている。
神が立ち上がって、敵を散らされるという、普通の文としても解釈できるが、これは祈りの文とも読むことができる。
だから訳も両方に分かれている。日本語では命令文と平叙文とが同じ表現であるということはないが、原文では重ねていうこともある。
このように詩篇を読むときは一つだけの訳を見ているだけでは、意味が狭くなるということがある。
外国語訳では立ち上がって敵を追い払ってくださいという方が多い。しかしこの祈りの前には神はそうしてくださるという確信があるからこそで、それがなければ祈ることはできない。
このような詩を読んで、私たちも神はどこかにおられてじっとしているだけのイメージではなく、立ち上がって大きな闇の力を排除しながら進んでいく、力ある動的な姿を受け取ることができる。
また雲に乗ってという訳もある。雲は自由にどこにでも動き回るということで言っている。こうしたことから、再臨のキリストも雲に乗って(雲とともに)来られるというような表現が用いられている。
このような力強い神と、人間に対して愛をもつ神の姿が並列しておかれている。非常に大きな力を持っているものは、小さな物を無視するということが多い。大きな力を持っている者は、それだけいっそう、部下がいるし、関わる者がいるから、いちいち小さいこと、弱い者に目をとめられない。
しかし聖書の場合は非常に大きく宇宙的な神であるのに、6節にあるように、みなしごの父となり、やもめの訴えを取り上げてくださり、孤独な人に家を与える。このように弱い者に安らぎを与えるお方だということが並列して置かれている。
…神よ、あなたが民を導き出し 荒れ果てた地を行進されたとき
地は震え、天は雨を滴らせた
あなたの民の群れをその地に住ませてくださった。
恵み深い神よ あなたは貧しい人にその地を備えられた。(8〜)
この箇所は過去の歴史である。出エジプトのことを関係づけて言っている。
神の大いなる力とそのはたらきは旧約聖書ではこのようにしばしば出エジプト記のときのことが記される。その時に、神がさまざまの奇跡を起こしてイスラエルの人々を救いだしたことを思い起こし、汲めども尽きない力としていた。
ここでも弱きものを顧みる神ゆえに、貧しい人に地を与えたと特に書かれている。
…主は約束をお与えになり 大勢の女たちが良い知らせを告げる
「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。
全能者が王たちを散らされるとき ツァルモン山に雪が降るであろう。
バシャンの山 峰を連ねた山よ、なぜ、うかがうのか
神が愛して御自分の座と定められた山(エルサレムのある山)を
主が永遠にお住みになる所を。(12〜17節より)
12節からはわかりにくいが、神と神の力を与えられた人達が前進していくときには、この世の力を持った人達はみんな逃げ去っていくということである。
14節は、神が自由に宇宙空間を飛び翔る、この世界のいかなるところへでも自由に、ただちに行くことができるということで、神が雲に乗ってくるという表現で書かれている。
15節、ツァルモンの山とはどこか分かっていないが、王たちが散ると雪が降るというのは不思議な言い方である。これは敵対した者が散らされていった印として雪が降らされるという、雪が降るという自然現象も神の現れと受け取れる。
私たちで言えば、自分を非常に苦しめた悪の力が、信仰によってそれを勝利したら、梅の花を見ても、これは神が勝利のしるしとして寒い冬の中にも梅を咲かせてるんだと受け取る人には、そう感じることができる。
私たちが、万物を創造した神を信じ、すべての現象の背後には神の正義と愛の力があるのだと信じていくときには、このように一見単なる自然現象と見えるもののなかに、深い意味を感じ取ることができる。
バシャンの山は死海の東から北東方面に至る広い領域を言い、そこにヘルモンに続く山々がある。そこから山々を見たら、たかが800メートルほどしかないエルサレムの山を見て、うかがい見る、あるいはねたむというのはどういうことか。
それは、神の力が非常に大きいから、周囲のさまざまな権力や支配をもった者も、妬みをもっていつも神の力を見つつ、隙があればつけ込もうとしているという意味で、周りの者がいつも取り囲んでいるという状況を、このように山々の連なりからも連想している。
自然現象と人間の歴史の現象とが絶えず結びあって、作者の眼前に浮かんでくるさまがうかがえる。
…神の戦車は幾千、幾万。
主はそのただ中におられる。
主よ、神よ あなたは高い天に上り、
人々をとりことし 人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。
彼らはそこに住み着かせられる。(18〜19節)
このように、神の力と周囲の様々なものが、いろいろな意味を持って次々と浮かんでくるので、この詩を書いた人には神の戦車がありありと見えてくる。シナイの神は聖所にいますというのは、たくさんの戦車を従えて、聖所に進んでこられたという意味である。ここでも動的な神が書かれている。神が悪の力と闘う武器は、さまざまのものがあり、この詩の作者にはそれがはっきりと見える。
高い天に上ってとりこにしたというのは、悪の力との戦いの最中で、さまざま人々を屈服させ、それを神への献げ物として受け取ったというようなことである。神の大きな力をあらわしている。
主をたたえよ
日々、わたしたちを担い、救われる神を。
この神はわたしたちの神、救いの御業の神
主、死から解き放つ神。
神は必ず御自分の敵の頭を打ち
咎のうちに歩み続ける者の
髪に覆われた頭を打たれる。(20〜22節)
このような大きなスケールから、20節からは再びわたしたちの、個人的なことも含めて書かれている。
その神とは日々、わたしたちを担い、救われる神である。
私たちの毎日の生活で、病気や人間関係、事故、災害、みずからの罪からの苦しみ…さまざまの苦しみがふりかかってくるが、そうした重荷に悩む人間を担ってくださるという。このことは、知識や学問でなく、いかに無知なものでも実感として与えてくださることであり、現在もまさにそうした日毎の実感ゆえに、キリスト信仰から離れることをしない人たちが世界中に無数に存在する。
またここでは神は死の力から解き放つとも書かれている。これは、人間の根本問題である。最大の力は死の力であって、いかなる権力者も、すべて死の力に呑み込まれていく。その力からの解放がすでに数千年前に記されている。
戦争があれば、たくさんの人が次々と死んでいく。死んだらすべて終わりというのが現代の日本でも常識的な受け止め方である。
そしてこの詩のかかれた数千年昔は、まだはっきり復活ということはあまり啓示されていなかったけれども、この詩の作者は非常に大きな神の力を啓示されていたので、死の力からも解き放つということを霊的に示されていた。一種の予言的な啓示である。
そしてまた悪の力のことが書かれ、不正な道に歩み続けてやめようとしない者には、その悪が裁かれる。悪の力の頭というのは悪の根源という意味で言っている。
…主は言われる。「バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう。(23節)
これは、躍動的な表現で、はるか遠くの山々のことに触れ、次には海の底というふうに、自由自在に書かれている。海の底、敵の力に置かれた、または闇の中にいた人々を連れ帰るということである。
…神よ、あなたの行進が見える。わたしの神、わたしの王は聖所に行進される。
聖歌隊によって神をたたえよ。
エジプトから青銅の品々が到来し
クシュは、神に向かって手を伸べる。
地の王国よ、共に神に向かって歌い
主にほめ歌をうたえ
いにしえよりの高い天を駆って進む方に。
神は御声を、力強い御声を発せられる。
力を神に帰せよ。
神の威光はイスラエルの上にあり
神の威力は雲の彼方にある。
神は御自分の民に力と権威をくださる。
神をたたえよ。
この詩の作者には、シオンの聖所に神が行かれるのが見えた。これは神がさまざまな場所で、さまざまな戦いを終えてシオンに勝利の行進をしているということである。
最後の段落では、この詩の作者に示された未来の姿が記されている。
神のもとにさまざまの国の王たちが献げ物を携えてくるのが見える。このように、将来的にはイスラエルの神の民の周りにある、さまざまの敵対する力ーキリスト以降の私たちから言えば、じっさいの国とか民族でなく、悪の力そのものを、神が滅ぼして、最終的に未来においては、偶像崇拝していたところ、エジプトからも神に向かって献げ物をするようになるというように、将来を展望している。
クシュという地名であらわされているのはエチオピアのことで、この国は世界でも最も早くキリスト教の入った地域の一つともなっていて、今日も国民の多数がキリスト信徒であり続けている。(*)
(*)2007年の国勢調査では、キリスト教が62.8%と最も多く、続いてイスラームが33.9%(インターネットの辞典「ウィキペディア」による)
再び最後に、神は聖所にいまして、ご自分の民に力を与えるので神をたたえようと、 この詩は、最初から最後まで、神のもつ非常に大きな力、支配をさまざまなイメージを絡ませながら言っているので、わかりにくいところもあるが、自由自在に世界のさまざまな現象、表象を用いて述べている。
このように物事を非常に大きく、時間も歴史も、宇宙も、過去、現在、将来も何もかもひっくるめてこのような詩を作る大きさというのは、神そのものが無限に大いなるお方であるからである。
この詩の表現が一般的には親しみにくいものがあるが、ここに込められた内容は、この詩の作者が霊的に示され、深く実感したことが書き綴られている。
現代の私たちは、この詩の内容とは逆に、真実と愛に満ちた神、全能の神などいない、という風潮がとくに日本では広く浸透しているが、そうしたただなかで、私たちは、心の耳を澄ませ、霊の目を開いて、数千年にわたって伝えられてきた真実の神がいかに大いなる存在であるかを、学ぶ助けとしたい。
キリストは、弟子たちを遠い地へとわざわざ連れていき、「私のことを何と思うか」と尋ねられた。
ペテロは、イエスのことを「あなたこそ、神の子」と答えた。神の子という意味は、人間ではなく、神と同質の存在だということであり、イエスは優れた預言者たちの仲間でもなく、優れた宗教家でも、学問を修めた人でもない。
ペテロの告白は、イエスは、そうした人間ではない、「神と同じである」と告白したのであった。
そのようなことを告白できるのは、人間の思索や伝承とかでもない。それは神から選ばれ啓示されたのだと、言い換えれば、神から直接知らされたのだ、といわれた。
そしてそのような信仰の上にエクレシア(教会)を建てると言われた。そして、ペテロに天の国の鍵を授ける、つまり、祈りが聞かれると言われた。
その直後のことである。イエスは、弟子たちに、これから起こること、つまり、いよいよ、律法学者などの指導者から捕らわれ、殺されることを伝えた。
イエスは、わたしたちの罪をあがなうために殺され、三日目に復活する。それが、福音の根本である。その根本を聞いて、ペテロは、厳粛な気持ちになることなく、イエスをわきに引き寄せて叱った。
イエスは、通常の偉大な人間とか預言者ではなく、「神」と等しいお方であると告白したペテロが、その直後に、イエスの言葉を信じようとせず、そんなことがあってはいけないと、イエスをわきに引き寄せて叱った。
ペテロには真理がうけいれられなかったのである。それが、イエスが神である、と神からの啓示を受けて告白したそのあとであった。
ここにいかに啓示を受けてもそれは部分的なものであることを示している。私たちは、信仰を与えられていても、限界がある。イエスは神と同じと、信じても毎日なお、信じ切れない弱さがあるのが人間である。
しかし、その弱さのただなかに力を与えるのが聖霊である。
福音は、よき知らせ、という意味である。人間は普通の良い知らせー勉強とか仕事で周囲からほめられた、赤ちゃんが誕生した、よい大学に合格した、スポーツで一番になった… 等々は、誰でも受け入れるが、キリストの真理の良い知らせは、不思議なほどに受け入れないで拒むことが多い。
キリストも初めてユダヤ人の会堂で真理を語ったとき、聞いていた人々は初めのうちはその霊的な力のこもった内容に驚いたが、すぐに人々は、キリストを会堂から追い出し、崖に連れていって突き落とそうとした(*)ということが記されている。
(*)…人々は、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ4の29)
この世においては真理は必ず敵を持つ。
今日まで、世界に多大の影響を及ぼしてきたギリシャ哲学の基盤となったソクラテスも、真理を語ったゆえに憎まれ、ついに死刑とされた。
キリストの福音という、良い知らせを妨げようとする力がある。それは、創世記に、アダムとエバが必要を全て満たされていたのに、たったひとつ食べてはいけないという木の実を誘惑されて、食べてしまった。その力が今も働いているのである。
良いものに従おうとするとき、そこから、気持ちを離そうとする力が働く。サタンの力である。
イエスはペテロがイエスを叱ったとき、「ペテロ、そんなことを言ってはいけない」と言うのではなく、「サタンよ、ひき下がれ」と言った。イエスは、目には見えないサタンが働いたことをはっきりと見たのである。
根本はサタンの力であり、サタンの力を引き下がらせ、その闇の力を追い払えば、よい状態にもどる。
誰の心にも、悪霊がはいることがある。そうすると悪を行なう。
しかし、イエスは、弟子たち、つまり信じる者に悪霊に勝つ力を与えた。人間には、感情があり、神の力が見えなくなることがある。このようなときにサタンが働く。こころにはたらくサタンを、追い出してもらう必要がある。日曜日の礼拝もサタンをおいだしてもらうためでもある。
主イエスの12弟子たちが、この世へと送り出されるときに、主が与えたのは何であったか。それは悪の霊を追い出す力であった。
…イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。
汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マタイ10の1)
人間は、すぐに、神のことを思わないで、人のことを思う。イエスの清さ、広さ、高さ、長さ、それを思わないで、人間のことを思いがちである。何が起こっても、神の愛、神の正しさをまず、信じて、受け入れることが求められている。
すべてのことについて、神を思う。背後で、よきことをなされた、神に感謝する。つねに、「サタンよ、引き下がれ」とのみ言葉を待ち望み、そこから、「聖霊よ、来てください」と祈ることが求められている。
求めよ、さらば与えられるーとの約束があるゆえに。
七月に、 吉村孝雄が、み言葉を語らせていただく集会の案内。
北海道の瀬棚、札幌での集会、それ以降の各地での5月号でお知らせしましたが、その後の追加、修正、などがありましたので、再度ここに掲載します。
7月12日〜15日は北海道での瀬棚聖書集会、その後は札幌での交流集会、苫小牧での集りの後、例年のように、主の許しあらば、東北、関東、中部などの各地で御言葉を語らせていただく予定です。小さな集りであっても主が働いてくださって、神の言葉の真理が表されますようにと願っています。
(なお、10日(火)は、北海道へ行く途中での集会です。)