いのちの水 2018年 8月号 690号
今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブル書3の13) |
目次
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聖書には、私たちが単独で何かをなす、ということとともに、共に、あるいは互いにすることの重要性がいろいろと記されている。
ともに心を一つにしてすることがよいことはたいていの人にとって、同感できることであろう。
ここでは、聖書ではどのように記されているかを見たい。
・互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。…
キリストの言葉があなた方の内に豊かにやどるようにし、英知を尽くして 互いに教え、諭し合い、詩篇と賛歌と霊的な歌によって、感謝しつつ、心から神を賛美しなさい。 (コロサイ書3の13、16)
この個所の直前に、キリストの平和をあなた方が受けるために、あなた方は招かれて、一つのからだ とされた。(同3の15)と言われている。
信じる人は、一つの体であるーそれゆえに、互いに重荷を負い、忍耐し合い、赦し合うことが求められているし、またそれは神の力を受けることで可能となる。
・互いに重荷を担いなさい。(ガラテヤ書6の2)
だれかの重荷ーそれが重い深刻なものであるほど、他者は担うことがほとんどできない。物理的な重荷ー荷物なら、二人で持てばたちまち負担は半減される。
しかし、心の重荷、体の病気や障がいからくる重荷は、それがひどくなるほど、そのような重荷のない人は担うことができない。
とくに離れたところにいるときには、ほとんど重荷を担うどころか、忘れてしまうのである。
それゆえに、パウロはこのように語りかけている。私たちができる重荷を共有すること、たとえほんのわずかであってもその道は祈りの道である。
・今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブル書3の13)
一日一日は二度と帰ってこないし、いつ私たちは、病気や事故、災害、あるいは事件や国際紛争等々で、死んでいくかわからない。今日を一日と思って大切にし、互いに祈りをもって、またできることなら直接に会って励まし合うことが求められている。
使徒パウロは、各地の多くのキリスト者たちのことをいつも思い起こし、祈りのうちで霊的なはげましを注いでいたことがつぎの文からもうかがえる。
…祈るときにはいつもあなた方のことを思い起こし、 あなた方にぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分かち与えて力になりたい。 またあなた方と私が互いに 持っている信仰によって励まし合いたい。(ローマ1の12)
このようにパウロが、たえず広い地域に住むキリスト者たちのことを覚え続けていたのは、キリストがパウロのうちに住んでいたこと、そしてパウロはキリストのうちに生きていたことによる。キリストがうちにおられるとき、そのキリストがともに祈れ、ともに歩め…とうながし続けたと考えられるからである。
「キリストが私の内に生きておられる。」(ガラテヤ書2の20)
キリストは分裂させる霊でなく、神の愛によって、一つにしようとする霊である。
それゆえに、共に担い合うための根源としてのキリストがうちに住むことをキリスト者に対しても求め続けた。
…キリストがあなた方のうちに形作られるまで、私はもう一度あなた方を産もうと苦しんでいる。(ガラテヤ書4の19)
パウロの活動の等々、すべて「主にあって」なされた。彼は「主にあって」あるいは、「キリストにあって」という表現を数多く用いている。(*)
主にあってー言い換えると主といつも共にあったからこそ、信徒たちにも、そのことを勧めたのである。
(*)この表現は、パウロ書簡において164回も使われている。(アドルフ・ダイスマンの「パウロの研究」199頁、なお著者はドイツの著名な神学者。)
「主にあって」というのは、ギリシャ語のニュアンスをそのまま表しているが、「主と結びついて」と訳されていることもあるが、ギリシャ語のニュアンスは、「主にあって、霊の主のうちにあって」であるから、大多数の英語訳などは、in the Lord と訳している。
…あなた方は以前は闇であったが、今は主にあって 光となっている。(エペソ書5の8)
それゆえに、信じる人たちは、深い魂のうちにあって共通の光を与えられているゆえに、ともに祈り、ともに生きることができる道をも与えられている。
ローマ書の最後の16章では、人々を思い起こすたびに、 「主にあって」思いだしている。ここだけで7回もこの表現が用いられているほどに、パウロは人間を思いだすたびに、同時にキリストの内にある存在として思いだしていたのがうかがえる。
私たちも、ただ自分の考えや自分と共通の考えの人間とだけ歩むのでなく、キリストの内に置かれつつ、多様な人とともに歩ませていただきたいと願っている。
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だれでも、気心の合う者同士がともにいることの喜びは経験している。一人でいると心が弱ってきて暗くなっていても、よき友来たりて語り合うときには、いっそう強められる。そのような友なら、一人よりも二人、三人集まるほうが、よりその喜びは増し加わるであろう。
神を信じる人たちが共にいる、その祝福は聖書においても記されている。
旧約聖書からは、つぎの詩を見てみよう。
…見よ、兄弟が共にいることは(*)、なんという恵み、
なんという喜びであろう。
それは頭に注がれた香油のよう。
ひげに流れ、その衣の襟に流れ下る。
また、ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。
シオンにおいて、主は祝福と、
永遠の命を与えてくださる。(詩篇133)
(*)「共にいる」原語は、ヤーシャブ であり、これは「住む、居る」という意味を持っており、大多数の英訳も、この個所は、 live together in unity (NRS) dwell as one (NAB) 、dwell together in unity (KJV)のように訳している。日本語訳も 「和合して共にいる」(口語訳)、「一つになって共に住む」(新改訳)。新共同訳だけが、「ともに座る」 と訳している。
〇参考(口語訳)
1見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう
2それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。 3またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。
兄弟がともに住むことの幸いが述べられている。
これは、祭司とかアロンのひげ、ヘルモン、シオンなどといった現代の私たちの生活には無縁のような言葉があり、それだけでもなじみにくい詩となっている。
しかし、ここで言われていることは、神を信じる人たちがともに居る、または共に住んでいる(*)ことの祝福を述べている。
(*)新共同訳のように「共に座っている」ことは、本来の意味である「共に居る、住む」ということを「同席している」というようにその意味を原文のニュアンスより狭く限定してしまうことになる。
病気で自宅から出られない人、同席できない遠くにすんでいる人たち等々はこの、ともに座る ということはできない。
しかし、祈りによって共に居ることはできるし、互いに祈られ、祈る関係であるなら、それは共に生きている状況でもある。
このように、訳語によって原文の意味が狭く限定されることもあるので、とくに詩篇のような文は一種の訳でなくほかの訳、英訳などをも参照することでより、正確な意味を受けとることができる。
神からの祝福を受けることーそれは、単独でも与えられることが他の詩篇では繰り返し言われている。
有名な詩篇23篇も、「主はわが牧者 私には乏しいことがない。主は緑の野に伏させ、憩いのみぎわに伴ないたもう」とあるように、主と私の関係から与えられる霊的祝福が言われている。
このように、詩篇は全体としてみるとき、個人と神との関わりが言われていることが多い。
しかし、この詩篇133篇では、信じる人たちの共同体として受ける恵みーとくに聖なる霊を受ける恵みが主題となっている。
この詩篇に見られる表現は、現代の私たちにはなじみにくいし、何の関係もないものと受け止められやすいが、ここで言われようとしていることは、信じる者がともに居る、集まることによって香油が注がれることが言われている。香油とは、聖霊の象徴として用いられている。
アロンとは祭司であり、そこに共にいる人たちの代表として香油が注がれるということであるが、現代の私たちにとっては、神とキリストを信じる者はみな祭司であるといえる。それはとくにルターによって万人祭司ということで強調されてきた。
それゆえに、現代のキリスト者はみな何らかの意味で祭司である。祭司とは神と人との仲立ちとなって、神からの祝福を人に注ぎ、また人の思い、祈り、願いを神へと届けるという橋渡しのはたらきをする人のことである。
そのように受け止めるときに、二人三人集まるところには、聖霊が注がれるという祝福の約束を指し示すのがこの詩の中心にあるのがわかる。
祭司という人間とともに、この詩では、当時の人々からはるか北東方向にそびえるヘルモン山に注がれ、シオンにも注がれる天来の清い露のことが並べられている。
ヘルモン山は、標高2800メートルの高山であり、積雪がほぼ一年中見られるため、この詩にあるように、高き天からの露(水)が 純白の雪となって
いる姿が、パレスチナの一部からも望見される。
そしてその雪解け水のうち、南や西へと流れる水は西方の山麓で豊富な湧き水となって、ヨルダン川の源流となり、ガリラヤ湖へと流れ込んでいる。
主イエスが、ペテロたちを伴って、私は何者であるか、と問われ、ペテロがあなたこそは神の子ですと答え、イエスがそれは人間の考えでなく神からの啓示によると言われたことで知られているピリポ・カイザリアも、湧き水があふれているところであった。
イエスが、ガリラヤ湖畔から遠いその地までわざわざ行かれたのも、イエスご自身が復活し、いのちの水の源流となられることを象徴的に示すためであったと考えられるし、またその高峰の雪は、また天来の水を示すものでもあったから、ヘルモンの山が当時の人にとって 重要な地下水の供給源であるともに、霊的にも意味深い存在であったと考えられる。
この詩篇133の作者も、そのようなヘルモンに注がれる天来の水ー神の霊の祝福は神の民の住むシオンにも注がれているのだと示されたのであった。
神を信じる人たちの真実な集りには、神の霊ーキリスト以降では聖霊と言われるようになったーが注がれることの祝福が言われている。
人間の代表としての祭司に注がれ、それが広く周囲の人々にも流れていくように、またその地域の自然の代表的存在であったヘルモンの高峰に下る露のような雄大や視点にたって聖霊が神の民に注がれることを述べたものである。
主の名によって集まることの祝福にこのような広がりのあるイメージを用いて表現したのはほかに例がない。
そして、この詩が指し示すのは次のキリストの言葉である。
…あなた方に真実を言う。(*)どんな願いごとであれ、あなた方のうち二人が地上で心を合わせるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18の19〜20)
(*)真実と訳される言葉の原語は、アーメーンである。これはもともと、堅固にするというヘブル語がもとになっていて、その変化形であるエメス(emeth)やエムーナー(emuna)は、時代や状況によって変ることなき堅固なものーすなわち真理、真実をあらわす言葉として重要である。神の本質は、出エジプト記の34章6節にはっきりと記されているが、それは、「慈しみ(ヘセド)と真実(エメス)」であり、それはほかの聖書の個所にも多数見られる。
一人で神を求めるときにも、神は答えてくださる。それははるか旧約聖書の数千年昔のアブラハムの時代から一貫して言われている。
しかし、イエスはそれを霊的に深めて、共に祈ることー共同体の深い意味を人類に啓示されたのであった。
しかも、最小の共同体は二人であるが、そのような少数の者であってもともに祈ることに祝福を置かれたのである。
ここに、聖書で「教会」と訳された言葉(これは中国語の翻訳語で、日本語訳聖書はそれをそのまま取り入れたもの。原語はエクレシアで「集会」を意味する)は、会堂や組織を意味するのでなく、主によって呼ばれた集りであり、最も小さい集りというべき二人の集りであってもそこに主が祝福を置かれることを示している。
ここに、小さき者への祝福という新約聖書全体に見られる真理がある。
そして使徒パウロは、さらに、信じる人たちの集りはキリストのからだである、という啓示を主から受けた。
…あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。(Tコリント12の27)
…キリストの体である教会…(コロサイ1の24)
この世は、「数は力」という考え方が至るところにある。子供のときから、成績という点数の数が多いほど重んじられ、スポーツてなども優勝など回数が多いほど注目される。また、政治資金の数が多いほど権力さえも手に入れることにつながり、その権力も支える人間の数が多いほど強力となり、スポーツも部員が多いほど強くなる傾向があり、科学技術の研究、新製品の開発もそこに投入される費用が多額であるほど、高度の精密機器が購入でき、研究者の報酬も豊かにされ、研究も進展する…等々。
しかし、こうしたこの世を覆っている考え方と、まったく異なる視点をキリストは提示された。たった二人であってもキリストの愛と真実、そしてその全能を信じて集まるとき、その心は神によって祝福されるというのである。
共にいることの祝福ーそれは原語の意味からたとえ距離的に遠く離れていても、霊的に、心において祈りをもってともに覚え合うときには、そこに神は祝福を置かれることを意味する。
こうした原点は、神こそ、キリストこそ私たちとともにいてくださる存在であるからだといえる。
それは、キリストが誕生したとき、「その名前は、インマヌエルと呼ばれる」という預言が実現したと記されている。(マタイ1の23より)
インマヌエルとは、「神、われらと共におられる」という意味であり、それは、神が人となってあらわれたキリストは、私たちとともに生きてくださる御方であるーとの意味である。
キリストが私たち人間の弱さや醜さにもかかわらず、ともにいてくださる。そのように、私たち信じる人同士も、互いの弱さにもかかわらず、それを赦しあい、祈りあって共にあることが、神のご意志なのだとわかる。
「求めよ、そうすれば与えられる。」という有名な約束の言葉がある。それはさらに、イエスの言葉から、たとえ二人であっても心を一つにして求めるなら聞いてくださるということであるから、「二人、三人とともに求めよ、そうすれば与えられる。」というように、言い換えることもできる。
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2 神様、私を救ってください。大水が喉元にまできているゆえに。
3 私は深い沼にはまり込み 足がかりもない。
大水の深い底にまで沈み 奔流が私を押し流す。
4 叫び続けて疲れ、喉は涸れ
私の神を待ち望むあまり 目は衰えた。
5 理由もなく私を憎む者は 頭髪よりも数多く
いわれなく私に敵意を抱く者 滅ぼそうとする者は力を増して行く。
6 神様、私の愚かさは、知っておられる。
罪もあなたには隠れることはできない。
8 私はあなたゆえに嘲られ
9 兄弟は私を失われた者とし
私を異邦人とする。
10 あなたの神殿に対する熱情が 私を食い尽くしているので
あなたを嘲る者の嘲りが
私の上にふりかかっている。
14 あなたに向かって私は祈る。
神様、豊かな慈しみのゆえに
私に答えて確かな救いをお与えください。
15 泥沼にはまり込んだままにならないように
私を助け出してください。私を憎む者から
大水の深い底から助け出してください
16 奔流が私を押し流すことのないように
深い沼が私をひと呑みにしないように 井戸が私の上に口を閉ざさないように。
17 恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。
憐れみ深い主よ、御顔を私に向けてください。
18 あなたの僕に御顔を隠すことなく
苦しむ私に急いで答えてください。
19 私の魂に近づき、贖い
敵から解放してください。
21 嘲りに心を打ち砕かれ
望んでいた同情は得られず 慰めてくれる人もいない。
22 人は私に苦いものを食べさせようとし
渇く私に酢を飲ませようとする。
24 彼らの目を暗くして 見ることができないようにし
腰は絶えず震えるようにしてください。
25 あなたの憤りを彼らに注ぎ 激しい怒りで圧倒してください。
26 彼らの宿営は荒れ果て 天幕には住む者もなくなりますように。
28 彼らの悪には悪をもって報い
29 命の書から彼らを滅ぼしてください。
30 私は卑しめられ、苦痛の中にある。
神様、私を高く上げ、救ってください。
御名を賛美して私は歌い
御名を告白して、神をあがめます。
32 それは雄牛のいけにえよりも
主に喜ばれるであろう。
33 貧しい人よ、これを見て喜び祝え。
神を求める人々には
健やかな命が与えられますように。
34 主は乏しい人々に耳を傾けてくださる。
主の民の捕われ人らを 決しておろそかにはされない。
35 天よ地よ、主を賛美せよ
海も、その中に生きるものもすべて。
この詩は現代の私たちから見ると驚くような表現もあるが、新約聖書でこの詩がいろいろと引用されていることから見ても、その重要性は新約聖書を書いた人たちにも深く認識されていたのがうかがえる。
新約聖書で、とくに多く引用されているのは詩篇であり、新約聖書とは深い繋がりを持っている。
例えば、詩篇22編は、その冒頭の言葉と同じ言葉が、主イエスが最も苦しい最期のときの叫びとして発せられている。神の子イエスが息を引き取ろうとするとき、手足を釘で打ちつけられて激しい苦痛にさいなまれつつ死んでいこうとするときに、叫んだ言葉がそのまま詩篇22篇の冒頭にあるということは、詩篇がいかに苦しみとそこからの絶望的な状況をすでに体験し、キリストの十字架での恐ろしい苦しみを預言しているものになっている。
その他にも詩篇22編の言葉がイエスの最期のときにはあちらこちらで引用されている。
この69編も22編に次いで多く引用されている。10節はイエス御自身の神殿に対する、激しい熱心というものを表わしているとして引用されている。(ヨハネ福音書二・17)
食い尽くすという表現から分かるように、並の熱心ではないことが分かる。熱心にもいろいろある。形だけの信仰ではなく、毎日求める。毎日神のことを思い起こす。イエス様のように、非常な迫害を受けるのを覚悟して熱心を優先させるような信仰もある。
5節「人々は理由もなく私を憎んだ」これは、主イエスが最後の夕食で述べた言葉に引用されている。(ヨハネ15の25)
イエスは、この詩篇の作者の体験は、ご自身を指し示すことであると言われたのであり、この詩篇とイエスとの深い関わりが浮かび上がってくる。
22節はどの福音書でも引用されていて(ルカ二十三・36)、最後まで侮辱し続けたのを示す象徴的行動として酢いぶどう酒が言われる。非常に苦しいときは清い水が欲しくなる。しかしそんな最期の時にもすっぱい腐ったようなものを与えるという悪意がここに示されている。
23〜24節は神に対してかたくなになってしまった人の状態が預言されている。これは、新約のローマ書11の9〜10に引用されていて、使徒パウロにおいてもこの詩篇69篇が身近なものだったことを示している。
この詩の作者が受けている苦しみの原因は10節にあるように、神に対する熱心であった。
その熱心な信仰に対して、神を嘲る人の嘲りがこの作者の上にふりかかっている。神に対して熱心、真剣であれば、それだけでしばしばその熱心を壊そうとする闇の力が働いてくる。
その他にも8,9節を見れば、身近な家族からも見捨てられた状態に置かれていたことがうかがえる。
また5節では、理由もなくたくさんの人が自分に敵意を抱いた状態である。
しかし6節を見れば分かるように、そのような状況にあっても、敵対する者たちだけが、悪いのだというのではなく、自分もまた罪があり、自分の愚かさも神は知っておられるーと記している。
7節に、私を恥としませんようにとか、屈辱としませんようにとあるが、これは自分にも罪がたくさんあるから、神を信じている人達が自分のことでつまずきのもとになりませんようにという意味で言っている。普通は苦しい状態にあったら、周りが悪いとしてしまいがちだが、そうではなく自分の罪や愚かさをもはっきり知っていたということが分かる。
15節、「泥沼にはまり込む」ということは誰にも起こりうることである。この世でも悪い友人や犯罪、薬物など沼にはまりこむことがあるが、この人は泥沼に入りつつも、神に叫ぶことができた。ここに大きな違いがある。ギリギリな状態に置かれたときに、どんな気持ちになれるのか。私たちも人生において苦しい状態に置かれたときのためにも、このような詩を覚えておきたい。神の憐れみを信じて祈る。
20節に、敵対する者も全て神の御前におり、それゆえに、その悪は見逃されることはなく、神の定められた時にはその悪に対するさばきがなされるのだということをこの詩人は確信していた。
23〜29節 には、現代の私たちから見ると、驚くような言葉が、敵対してくる人々に投げかけられている。
…彼らの悪には、悪をもって報い、恵みの御業に決して彼らをあずからせないでください。
命の書から彼らを消し去ってください。…
このような表現を現代の私たちはどのように受け止めるべきか。
まずこの作者が置かれていた状況を知る必要がある。
そのために、この詩篇の最初から記されていることを振り返ってみる。
…大水が喉元に達した、深い沼に落ち込み、その底まで沈んだ。救いを求めて叫び続け、疲れ果てた。 理由なく私を憎む者が多数私を取り囲み、滅ぼそうとしている…。
このような敵意は、次のような理由から生じていた。
…あなたの神殿に対する熱情が
私を食いつくしているので
あなたを嘲る者の嘲りが
私の上に降りかかっている。…(10節)
これは、次の福音書の記述でここにもイエスとの深い関連を知らされる。
…主イエスが、神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っている者たちと両替している人たちを見て、それらを境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒して言われた。
「このような物をここから運び出せ、私の父の家(神殿)をここから運び出せ。私の父の家(神殿)を商売の家としてはならない。
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と(旧約聖書に)書いてあるのを思いだした。」(ヨハネ2の13〜17より)
このように、この詩篇の作者の受ける迫害、憎しみ、敵意は、彼の神への熱心からであったが、それはキリストご自身を指し示すものであった。
このように、この詩の作者の敵対者への強い感情は、神への熱心に対する侮辱、あざけりを行なう人々へ向けられたものであるが、それは、神への冒涜がなされていることと同じであると受け止められたゆえに激しい言葉で、この作者は悪人たちへのきびしいさばきを願っているのであった。
このことは、新約聖書になって大きく変えられ、敵対する人々のうちにある悪そのものが除き去られ、そこに聖霊が注がれるようにーとの祈りとなった。
悪の力そのものに対しての強い拒否感は旧約聖書以来一貫してつづいているのであって、主イエスはそれを高い霊的な祈りへと引き上げられたのであった。
主イエスが「敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ」と言われたことがそれを
明確に指し示している。このイエスの言葉は、敵対者への祈りであって、敵対者を好きになれ、などといっているのでは全くない。
この詩の作者には、神への特別な熱心が感じられ、周囲のあらゆる悪意や中傷、あざけりにも屈することなく、神への祈りを続けていった。そしてその結果、この詩の最後の部分に記されているような神への賛美へと導かれていった。
…31 神の御名を賛美して私は歌い
御名を告白して、神をあがめる。
32 それは雄牛のいけにえよりも
主に喜ばれるであろう。
33 貧しい人よ、これを見て喜び祝え。
神を求める人々には
健やかな命が与えられますように。
34 主は乏しい人々に耳を傾けてくださる。
主の民の捕われ人らを 決しておろそかにはされない。
35 天よ地よ、主を賛美せよ
海も、その中に生きるものもすべて。
神への熱心は、必ず応えられる。闇の力に圧迫され、絶望的状況にあった作者が、このような境地へと導かれていったことに驚かされる。
そして長い歴史のなかに、こうした神からの祝福を受け、神への感謝、賛美を捧げる人間へと変えられていった人たちは数知れない。
この作者は、いかなる悪の力をも打ち破り、そこからすくい上げる神の力を実体験しし、そこから、神は弱く貧しい人たちの叫びを必ず聴いてくださることを確信するようになった。
現代の私たちも、悪の力が席巻するとみえるこの世のただなかにあって、このように神への感謝と賛美を捧げ、万物をそうした神への賛美へと呼びかけ、さらにじっさいにそれらが賛美しているのを聞き取るーそのような状況へと導かれたいと願っている。
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原発に関して、その最も困難な問題である汚染度の高い放射線廃棄物をどうするのかに関して、次のような記事が掲載されていた。
…原子力規制委員会は1日、原発の廃炉に伴い、原子炉内から出る汚染度が高い廃炉廃棄物の処分場の規制基準案を了承した。
活断層や火山の影響が想定されない場所で、深さ70メートル以上の地下に埋め、放射線の影響がほぼなくなる約10万年後まで保管する。(毎日新聞2018年8月1日)
世界で唯一、高い汚染度のこうした放射性廃棄物を半永久的に保管する施設として、フィンランドのオンカロ(「洞窟」の意)が知られている。
そこでは、地下300メートルに全長45キロに及ぶ洞窟が掘られ、そこに10万年ほども保管するという。
人類の歴史といっても数千年前からしか、具体的なことは分からない。
そうした現実から考えて、10万年も管理せねばならないものを作るなど無謀であり、未来の人間への重い罪というほかはない。
フィンランドでは花崗岩でできている強固な地盤に埋設するから、その程度の年月では安全だというが、そのような科学的な根拠というものも、いままでにどれほど覆されてきたことだろう。
日本においては、火山、地震などの多さは世界的に知られていて、全国でそのような長期にわたって、絶対安全などというところはどこにもないはずである。いったいだれが、10万年も、しかもわずか70メートル以深といったところに置いた保管物が安全などと保障できようか。
フィンランドのこの施設も、作るためだけで4500億円ほども要するという。後々の管理費用、何らかの予想外の事故や漏出等々などを考えるときー10万年という歳月、いったいどれほどの費用がかかるのか予想はだれもできない。
このように、人類の歩みから考えてほとんど永久的に放射線という害悪を出し続けるものをわざわざ、人間が科学技術を用いて、莫大な費用をかけて作ってしまったのである。しかもこの原子力エネルギーを取り出し、原爆や原発などを造り出す研究においては、その最初の発端から、大学や研究所などの特に能力あると考えられる人たちがその中心を担ってきた。
ここに、人間の知識ー科学技術の限界がはっきりと浮かび上がってくる。
こうしたことに対して、著しい対照をなしているのが、聖書の真理である。それは、何千年を経ても古びることなく、しかも莫大な金をかける必要もなく、永久にそこから真理を放出しつづけている。
しかも、知的に優秀な人間である必要はまったくなく、どんな学問のない人でも、病者でも死に近い人でも、子供でもーその真理の光を受けとることができる。
私たちは、現代の世界を脅かしている核兵器や原発に関するものからの本当の救いを知るために、愛と真実の神の言葉への魂の方向転換を迫られている。
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7月10日〜28日(土)まで、北海道の3泊4日の瀬棚聖書集会、札幌交流集会などからはじまり、苫小牧や青森県弘前市、山形県鶴岡市、山形市、仙台市、福島県本宮市、千葉県内の二つの集会、八王子市、山梨県長坂、長野県の千曲市、上伊那での集会等々、各地での集会にて御言葉を真理の一端を語らせていただくことができ、そのための多くのお祈り、また具体的な準備等々のご支援を深く感謝します。
また、予定には書いてなかった個人訪問に関しては、可能な範囲で訪れることができ、そのことも感謝でした。
体調も十分であったとはいえず、 多くの方々の祈りと主の支え、赦しなくば、とても終えることはできなかったことを思います。
最初の舞鶴市での愛農高校関係の方々のおられる地域での集会は、大雨の連続のあとであったので、そこにつながる道路が通行が難しいとのことで、休会となったこと、帰途には台風の接近で、明石大橋、鳴門大橋などの通行止めの可能性があったため、1日はやめに予定をきりあげたことなど、一部に予定どおりになされなかったこともありましたが、天候不順のおり、無事に帰宅でき、多くの各地の方々との交流をも与えられ、初めての方とも出会いの機会が与えられて感謝でした。
今後とも、訪れることができた各地の集会とそこに集っている方々に、真理の御言葉が与えられ、聖なる霊が注がれますようにと祈っています。
今月号は、右に書いたことのために、一部しか内容にすることができませんでした。
また、多くの方々への返信も滞ったままになっていることをお許しください。
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