「いのちの水」2018年9月号 第691号
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、 主は彼らを苦しみから導き出された。(詩篇107の28) |
目次
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今年は、日本においてはとくにさまざまの災害が生じている。
被災者の方々は、日常の生活から突然に大いなる苦しみや悲しみに直面して途方にくれている方々も多いと思われる。
そうした方々の上に、神が御手を差し伸べてくださり、その闇のなかに光を見いだすことができますように、そしてその困難を乗り越えていく力が与えられますようにと祈り、願っています。
御国を来らせたまえ
神様のご意志が天に行なわれるように、地でも行なわれますように。
最近 次々と生じている 多くの台風、地震、火山噴火、大雨…等々によって災害も頻発している。
こうした災害をどのように受け止めるべきなのか。
災害と恵みーこれははっきりと分けられるように思われるが、必ずしもそうではない。
例えば、梅雨の雨がなければ、昔から日本では食生活の基幹であった米作はできなかった。ときどきその梅雨の頃に大雨があって稲が倒れたり、洪水を生じたりすることは昔からあった。
しかし、そこから少し離れた地域ではそのようなことなく、適切な降雨によって稲は潤い、農業や人間の生活に不可欠な米の収穫につながった。
台風も同様である。昔から台風のときの大雨によって大地はうるおい農作物が生育することができた。
夏の間に、台風の襲来もなく、梅雨も空梅雨となって、徳島県では、吉野川や那賀川の水が大幅に減少して、一部ではきびしい取水制限がなされたこともあった。そしてどうなるのかと心配していたときに台風で雨が降って、ようやく困難が除かれたことも繰り返しあった。
このように、台風で河川の氾濫や大風の被害が生じても、その台風がなく、雨もなかったら、国民の生活全体が脅かされる状態にもなってしまう。
大分以前に、何カ月もほとんど雨が降らず、きびしい取水制限がなされ、香川県では病院の水も不足して、患者の命が危険になるほどになったり、淡路島では島外から水を運搬したこともあったのを思いだす。
このように、梅雨や台風の雨は日本にとっては不可欠のものー大いなる恵みであった。その雨や風の強さが大きいときに、一部の地域では災害となってきたのである。
このように、大雨という災害は、別地域の者にとっては、農作物や電力を生み出すダムを満たす恵みとなる。
台風そのものは、どこにでも生じる低気圧の変種であり、雨も風も太陽エネルギーがもとになっている自然現象である。
これは、すでに述べたように、人間にとって良きこと、不可欠なものであったり、ときには大いなる災害、苦難をもたらすものともなる。
それゆえ、自然災害に出会ったときには、運が悪かったということがよく言われる。
それは、人間ではどうすることもできない、「ある力」によって災難に遭ったのだとあきらめることが多い。
しかし、万物を神が創造し、いまも神がそうした万物を支え、導いている、しかもその神は愛であるならば、単に得体の知れない力によって偶然的に生じたと考えることはなくなる。
そこには、大きな目で見るならば、必ず神の愛が背後に働いているということになる。神は愛であり、人間の考えや思いをはるかに超えた全能の存在であるなら、その全能によって人間には悲しみや苦しみ、災難だとしか考えられないことであっても、そこに深い意味のある良きことを生み出すことが可能となる。
旧約聖書のヨブ記には、信仰深いヨブという人が突然にして家族や財産を奪われる災難に出会う。そしてそれを引き起こしたのはサタンだという。そのサタンに許可を与えたのは神であった。
このヨブ記の記述から、考えられないような悲劇的な出来事も、サタンに許可を与えたのが神なのだ、それゆえ、その苦難も最終的には良きことにつながるようにと導かれていると信じ、受け止めることが期待されている。
それでは、キリストはこうした災害などに関してどのように言われたのだろうか。
…イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。(ルカ13の2〜5)
キリストは愛であり、神も愛である。それゆえにこの世界に生じる出来事は、人間には計り知ることのできない深い御計画によってなされていると受け止めることができる。
その御計画の内容としてはっきりしているのは、悔い改めである。
悔い改めとは、単に個々の罪を悪かったと謝ることでない。
それは、原語のメタ ノエオー(metanoeo)とは、理性的転換、方向転換を意味する。
(ノエオーは、ヌース(理性)に由来する語。)
人間や人間の起こした行動や罪深いことにばかり目が向いているのでなく、神ご自身に、キリストに、またその十字架に目を注ぐように方向転換することを言われている。
雨が田畑をうるおすときも、また大雨になって災害となるときも、つねに私たちが受け止める良き道をキリストは示されたのである。
神への方向転換をするように、とのことなのである。
生じたことが良いことなら、神に心を向けて、雨を活ける神の恵みと感謝し、苦しいこと、災害であっても、そこから神に心を向けて助けを求める。
苦難のときには、自分のかつての数々の正しくなかったこと、愛を欠いた言動などー罪を思い起こすことも多いが、そこから神への方向転換ができる。それによってその罪深い自分がよき道へと導かれるのを感じる。
立ち上がらせること
新約聖書には、「つまずかせないために」という考え方が折々にみられる。
つまずくとは、物事が、中途で障害にあってうまくいかなくなること、途中で失敗することであるから、聖書においては、神を信じ、キリストを信じて神の国への歩みを始めた者が、途中で挫折してその歩みを止めてしまうことを意味している。
イエスの弟子たちは、神殿のための税金を集める役目の人たちから、あなた方の指導者(イエス)は、神殿税を納めているのか、と問われた。
イエスは、神の子たる自分は、神と一つの存在であるから、本来納める必要がない。
しかし、神殿税を集めにきた人たちをつまずかせないようにしようと、税を納めよと言われた。(マタイ福音書17の24〜27)
つまずかせないようにー当時としては当然のことであった神殿への税のことで、私は神の子であるから、税は納める必要がないーといっても彼らは理解できない。それゆえに、税の問題で紛糾し、イエスや弟子たちへの強い反感が生まれて彼らがイエスに近づく道をあえてさえぎることにならないようにされた。
また、当時のギリシャでは、偶像に多量の肉を捧げていた。それが祭司にわたり、それが市場へと出回っていた。
それゆえ、肉を食べるときには、その偶像に捧げた肉を食べる可能性があった。
偶像を強く退けるキリスト者にとっては、偶像に捧げた肉を食べたりすれば、自分も汚れてしまうー と思う人たちが相当数いた。
しかし、本当は、偶像の神などいない。それゆえ偶像に捧げたといってもただの肉そのものにすぎないし、汚したりする力もない。
しかし、そのようにまだ受けとれないキリスト者たちをつまずかせないようにと、そうした人たちがいる状況においては、パウロは、肉を決して食べないと記している。
いろいろのものが、私たちをつまずかせる。教会や集会では、そこで語る人ー牧師や神父、集会の指導者たち、あるいは教会、集会の会員の言動によって 一部の教会員をつまずかせることもある。そのような言動で、信仰の歩みが妨げられ、 さらには信仰から離れてしまうことさえあるだろう。
論理的に考えて正しいからというだけで物事を処理していくとき、信仰的にまだそのようにはっきりと考えて処理できないキリスト者たちが、いろいろと疑問を持ち、疑いつつ肉を食べることで、キリスト教を離れてしまうということもある。
原理的に正しいかどうか、よりさらに上位の基準がある。それは愛にかなったことであるかどうかということである。
…だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。(Tコリント 8:13)
このパウロの言葉には、弱い人には、弱い人のように、強い人には強い人のように、歩調を合わせて生きようとしたパウロの姿勢がうかがえる。
また、主イエスは、小さきもの、弱き者への深い配慮から、次のように言われた。
…また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。(マルコ 9:42)
小さき者、弱き者が、神とキリストを信じて神の国へと歩もうとすることをつまずかせるー挫折させるようなことをする者には、さばきが必ずあるということをこのように強い表現で言われたのには、驚かされる。
このことは、言い換えると、小さき者を神への信仰の道に歩むように、助けるならば大いなる報いがあることを意味している。
イエスこそは、最大の助け手であり、御国への道をもっとも強力に導く御方であるにもかかわらず、当時のユダヤ人たち、とくに人々の指導者的立場にあった聖書学者、長老、祭司長たちが、イエスにつまずいた。
イエスへの道を備えるという重要な働きをした洗礼者ヨハネですらも、イエスがいつまで経っても、目の見えない人、ハンセン病やろうあ者、また精神の病にかかったような人たちを相手にして、ローマ帝国の不正、圧迫を止めさせようとしないように見える状況にあって、本当にイエスは救い主なのかとイエスへの疑問が生じてきたほどである。(マタイ11の2〜6)
イエスはそれについて「私につまずかない人は幸だ」と言われた。
日本人は、世界的に見てもイエスにつまずいている人たちが圧倒的に多いという特異な状況となっている。
イエスの生き方について、それがあまりにも、一般的な考え方とは異なるゆえに、つまずいて離れていく者、裏切っていく者も生じた。
イエスは、捕らえられる前に、「私は、人々の指導的人物によって悪人とされ、捕らえられる。そのとき、弟子たちはみな、私につまずくのだ。」と言われた。(マタイ26の31)
するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずいたりしない」。(同26の33)
しかし、このように確信に満ちて断言したペテロは、イエスの予告どおりに、逃げてしまい、イエスなど知らないと何度も強く言い張るほどにまで無惨なつまずきをしてしまう。
現在でも、イエスを信じているのに、さまざまの苦難、悲しみや不幸に遭遇するとき、イエスの約束など信じられないという気持ちが大きくなり、信仰から離れていく人たちは多くいる。 イエスにつまずいてしまうのである。
私たちの弱さ、また罪ゆえに、イエスにつまずいて信仰の道から離れていく人たちがいる。
このように、この世の悪しきこと、悪人の存在や悲劇的な事件、災害、戦争等々によって、神の愛など信じられないといってつまずき、聖書やキリストから離れていく人は多くいる。
他方、いかに良き御方と交わってもなお、ペテロたちのようにつまずくこともある。
この世は、そういう意味では、至るところ、つまずきで満ちていると言える。
しかし、そうしてつまずいたペテロたちも、イエスの愛のまなざしによって立ち返り、罪赦され、真剣な祈りにより、聖霊が注がれて立ち上がることができた。
深刻なつまずきを経験したからこそ、深い悔い改めとなり、聖霊が注がれたのであった。
キリストのつねに願っておられたことは、 つまずかせるとは逆に、立ち上がらせる、造り上げるということであった。つまずくようなことを言われたのも、そこから本当の意味で立ち上がらせるためだった。
神の愛こそは、さまざまのつまずきから立ち上がらせる力である。起き上がることさえできない者も立ち上がらせる。そして前進させる。
神の愛をいくらかでも受けることによって、人は互いに重荷を負い合う、祈り合う、互いに愛し合うことが可能となっていく。
信仰の道につまずきそうになっている者も、つまずきから救われ、立って歩めるようになる。
この世は至るところで、つまずきー信仰への道の障害物で満ちている。
神の愛があるのなら、なぜ悲惨な戦争や大規模な災害、いまわしい事件、テロ等々があるのか、現実をみたらそんな神の愛などない、と多くの人はつまずいていく。
しかし、それにもかかわらず、この世は至るところで、そのつまずきから立ち上がらせる神の愛が満ちている。
その愛がじっさいに存在するゆえに、ただ求めるだけで、目をキリストに向けるだけで、私たちはつまずきから立ち上がっていくことができる。
2 神様、速やかにわたしを救い出し
主よ、わたしを助けてください。
3 わたしの命をねらう者が
恥を受け、嘲られ
わたしを災いに遭わせようと望む者が 侮られて退くように。
5 あなたを尋ね求める人が
あなたによって喜び祝い、楽しみ
御救いを愛する人が
神をあがめよといつも歌いますように。
6 神様、わたしは圧迫され、貧しい。(*)
速やかにわたしを訪れてください。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。
(*)6節、新共同訳では「私は貧しく、身を屈めています。」と訳しているが、貧しいと訳された原語は、アーニィであり、これは単にお金がない、貧しいといった意味にとどまらず、英語では、afflicted (精神的にも身体的にも苦しむ、悩む)とも訳される言葉。もともと圧迫されているという意味の言葉から派生している。
「身をかがめている」ーこの訳では、この作者が置かれている切迫した状況がつたわってこない。原語は、エビオーンで、いろいろの意味で窮乏している状況を意味し、英語でいえば in want 、needy、poor などと訳される。英訳では次のように訳されている。I am afflicted and needy.あるいは I am poor and needy.
日本語訳 では、貧しい、 乏しいと訳されることが多い。
非常に追い詰められた人の叫びがここにある。
詩篇の基本的な内容は、一般的などこの国にも見られる人間の喜怒哀楽の感情を表す詩とは違って、さまざまの苦しみや悲しみ、それがさらに国家や民族全体にわたってきびしい状況となっていく戦争など、敵からの迫害、攻撃、あるいは貧しさや病気、人間関係、親子の関係など追い詰められ、死が間近に迫っているという状況にあって必死の祈り、叫び、そしてそこから救われたゆえの神への賛美と感謝である。
それゆえ、私たちも何らかの人生の苦しみや悲しみに打ちのめされるようなことを経験して はじめて、詩篇を身近に感じることができるようになっていく。
旧約聖書では、非常に赤裸々に、敵や悪人を滅ぼしてくださいという心が詩篇にも表れている。
このような内容があるゆえに、詩篇が親しみにくいものともなっている。しかし、キリスト以降においては、悪人それ自体を滅ぼすというのでなく、悪人に宿っている悪の力を滅ぼしてください、悪の霊を追い出してください、それによってその悪人をもすくってください という祈りへと霊的に高められている。
このことを表すのが次のよく知られたイエスの言葉である。
「敵を愛し、迫害する者のために、祈れ」(マタイ五・43)
ここに言われることは、あらゆる時代の人間の究極的なあり方である。このあり方を超えるものはない。人間の精神の問題に関しては、すでに二千年も前から示されていて、このあり方を超えた人はだれもいないと言えよう。
この言葉が真理であるということは、科学技術などがいかに発達しようとも変ることはない。
「神によって喜ぶ」(5節)。これは、人間のもっとも深い喜びはどこにあるか、ということを示している。
それはこの詩がつくられて数千年を経た現在でも同様に成り立っている。
私たちは何によって喜ぶことができるのか、一般的には、こどもから大人、老人に至るまで、だいたいは共通している。
それは、飲食、あそび、家族や気心の合う人、愛する人との交流、旅行、趣味、学問、スポーツ、芸術…等々であろう。
しかし、そうした楽しみ、喜びは、病気になったり、事故災害などで致命的な苦しみに遭遇するときたちまち消え失せていく。
聖書に示された喜びは、そのような事態になってもなお、さらに深く与えられるというものである。
それが、神によって喜ぶということである。このようなことは聖書を知るまで、私自身もまったく分からなかったことである。
世間では、喜びや楽しみのためには、健康こそが一番、とよく言われるし、だれでもそれに無条件的に共感できるであろう。
しかし、その健康が失われたときには、どうなるのか、そうした喜び楽しみのすべてが一挙に失われてしまう。
健康というものは実に簡単に壊れやすいということと、その健康によって、悪事がなされるということも多い。この世の悪しき事件、犯罪等々は、病気で苦しみ、病床にある人が起こすことでなく、たいていは、健康な人が起こしている。
このように、体の健康だけでは、本当の幸いではないということが、世の中の事実を見ただけでもうかがえる。
その他、良い家族というのは大きな幸いであることは言うまでもない。しかし、これも簡単に壊れやすい。またこれらのものも得られない人もいる。
両親から見捨てられたとか、いなくなった、死去したなど、よき家庭の生活を、はじめから与えられない人たちも多い。
聖書では、健康やよき家庭、生れつきのスポーツや芸術の能力など、一部の人だけに与えられる喜びなどは記されていない。
そうではなく、誰もが求めたら与えられて、しかも生まれもお金も地位も関係なく、永遠に続くような喜びが記されている。
それが神によって喜ぶということである。本当に美しいものはお金もなにも関係ない。美しさを与えたのは神様なので、神を喜ぶことができる。また目の見えない人も、耳の聞こえない人も、神様を味わう、神様を喜ぶということは心の目や耳で感じることができる。それは霊的なものだからである。
私たちは何によって喜び、楽しみを得ようとするかは、その人の心の状態に関わっている。
神によって喜ぶーこれは、神と同じ本質である聖霊によって喜ぶことであり、聖霊の実として与えられることである。それゆえ、聖書では、「聖霊の実は、愛、喜び、平和…」と表している。(ガラテヤ五・22)
また聖霊による平安、喜びのことを、永遠の命に至る水が内部から、魂からわき出すと言われている。(ヨハネ四・14)
その人の魂の奥深いところから湧き出てくるから、他の人から奪う必要もなく、誰かにほめられる必要もない。そうではなく他者に注ぎたいという気持ちになる。
救われているというのは、内部からいのちの水が湧き溢れる状態を言っている。
このように、神を尋ね求めるだけで喜びが与えられるということは、今日までずっと続いていることである。
私たちが、永続的な喜びの源として尋ね求めるべきもの、そして求めるだけで誰にでも与えられるものは、神であり、キリストであり、聖霊である。
だれでも、喜びや楽しみの対象として気のあった人間を求めるが、人間は罪深く、永続的によきものを与えることはできない。
心の深いところにおいて自分の限界を知り、正しい道を歩めないものだと知っている人は、神を求める。そうすると神の国が与えられると約束されている。
…ああ、幸いだ。霊において貧しき者は!
その人たちには天の国(神の国)が与えられる。(マタイ5の3)
神そのものが喜びの源泉であるーという深い体験は数千年も昔からすでにはっきりと体験されていたのは驚くべきことである。
…私は床の上で、あなたを思い起こし、夜ふけてあなたを思う。
あなたは必ず私を助けてくださる。
あなたの翼の陰で 私は喜び歌う (詩篇63の7)
(*)新共同訳では「床に就くときにも御名を唱え」 とあるが、原文では、ザーカル(思い起こす、覚えておく remember )であるから、ほとんどすべての英訳は 次の訳のように、remember を用いている。 On my bed I remember you; I think of you through the watches of the night. (NIV)
また、「あなたへの祈りをくちずさんで…」と訳されているが、原文には祈りという語はなく、「あなたのことを黙想して」I meditate on you あるいは、 I think of you. などと訳される表現である。
…昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、
夜、主の歌がわたしと共にある。
わたしの命の神への祈りが。(詩篇42の9)
本当の信仰の姿は非常に単純であり、神様を信じ仰いで求め続けるだけで、この世でもっとも良きものー神の国であり、神そのものを喜ぶという恵みを与えられる。
キリストも、自分がとらえられて殺されるということがはっきりとわかっておられたが、その最後のときを見つめつつも、聖霊によって喜びをもっておられた。神を喜ぶとは、聖霊によって喜ぶということと同じである。
…そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。(ルカ10の21)
使徒パウロも、この聖霊による喜びを深く与えられていた人であった。
人間に与えられる究極的な良きものとは、神の愛、真実、永遠、清浄…いっさいを含むのが神の国であり、それゆえに次のように言われている。
…神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのである。(ローマ14の17)
私たちも何か苦しいことに直面したときに、こうした聖霊を求め、聖霊による喜びを神に求めていくということを深く覚えておきたい。
この世界、さらに宇宙は最終的にどうなるのか。これは誰しも心に浮かぶ問題であろう。
近年の世界の情勢、また自然のさまざまの異変ーそして人間の弱さ、学問や科学技術のそうしたことへの無力のゆえに、それらは解決のできない問題で、この世界はだんだんと闇に沈んでいくのではないのか…といった漠然とした不安が広がっている。
聖書においては、この世界の究極的な問題にも神からの啓示が記されている。
それが、キリストの再臨という真理である。
二千年前に死んだキリストが、再び来られるーこのようなことは、一般的には信じがたいことと思われるであろう。
しかし、キリスト教の中心となっている死者からの復活や、キリストが十字架にかかって私たちの罪を担って死んでくださったと信じるだけで、いっさいの罪が赦されるという十字架の信仰についても、やはり同様に、到底信じられないと思う人が、日本ではとくに圧倒的に多い。
キリスト教というと、「愛」だと一般的には思われている。
ただし、キリスト教における愛とは、親子の愛、男女の愛、友人の愛といった人間的な愛とは大きな差がある。
敵のためにも祈るような無差別的な愛は、キリストの力を受けて初めて可能となる。人間の努力や経験、あるいは学問や旅行等々などからでは決して生まれない。
それでも、愛というと大事にされること、という連想があり、キリスト教を全く誤解して内容を知ろうともしない人たちにとっても愛は大切と感じている。
キリスト教では、無差別的な愛を受けるには、自然のままではできないということをはっきり示している。愛だけでなく、正義も清い心、また真実といったものも、同様である。
そうした本当によいものは、復活、十字架、再臨という信仰がもとになっている。これこそは、聖書に記されている真理であり、それがキリスト教である。
復活とは、死の力に勝利する神の力があること、十字架とは、人間の根本問題である罪の赦しである。
この世界は、いかなる権力者もすべて死の力の前には消え失せていく。死といういっさいを呑み込んでしまう力がもっとも強いのでなく、その死すらも滅ぼして永遠の命を与える神がおられるーそれを信じることが復活を信じるということである。
そして、十字架とは、人間はみな、本当に正しいこと、真実なこと、愛を行なうことができない。それを罪というがその罪の赦しが、ただ信じるだけで与えられることである。
キリストが私たちの罪を担って十字架にかかって死んでくださったと信じるだけで、実際に 自分自身の犯してきた罪、また現在も犯してしまう罪の赦しを実感させていただける。
私たちが悩まされ、苦しみ、悲しむのは、死である。いかに愛している子供、夫や妻、あるいは友人であっても、事故、災害や病気等々で簡単に 死に呑み込まれてしまう。そしてそれは永久に回復できない。愛が深ければ深いほど、致命的な傷を受けて生きる力をも失うほどにもなる。
そうした死の力に勝利し、キリストのような栄光の姿に復活させていただけるーこの信仰は、そした死という闇と悪魔的な力に勝利したのだという喜びが伴って与えられる。
特に愛する者が、犯罪などで殺されたりすれば、いかにしてもその残された者の傷、衝撃、悲しみは癒されないであろう。その深い傷と悲しみを癒し得るのは、ただ復活の信仰だけである。
日本の伝統的な信仰では、犯罪や事故、災害での死は、死者がずっと悲しみ、恨みをもっているとされ、死者の魂を慰めるのでなければ、死者の霊が生きている者たちにたたってくる、何か悪いことをする、ということが言われる。
それゆえ、慰霊とか鎮魂ということが言われる。鎮魂という言葉は、どういう意味なのか。
「鎮」とは、金属の重しということで、語源辞典には、「重みをかけて、ずっしりとおさえる」と説明されている。
それゆえに、鎮圧、鎮火、鎮痛などいずれも 暴徒を押さえつける、火の力を滅ぼして消す、痛みを押さえる…等々に用いられている。
それゆえ、鎮魂という意味は、死者の魂が怒りや憎しみで生きている者にたたって害悪をなすことがないように、押さえつけておく、という意味がある。
しかし、キリスト教においては、神を信じている人は、たとえ殺されても、死者が殺した人を憎み、恨んでいるとか、悲しんでいる、といったことはない。
殺されても復活するのであり、しかも完全な存在、永遠の存在となるというのであるから、恨みや悲しみはあり得ないものとなる。
キリストの例をみてもこのことは明らかである。キリストはまったくの無実の罪で捕らえられ、神を汚したとされ、ののしられ、最悪の犯罪人として手足を釘で打ちつけ、恐ろしい苦しみ、痛みを多くの人たちの目の前でさらされつつ、死んでいかねばならないような極刑を課せられた。
しかし、だからといってキリストは自分を殺した人たちを憎み、恨んでいるとか、殺されたことを悲しんでいるー等々はまったくなく、逆に、「彼らは自分が何をしているのかわからないのです、彼らを赦してください」ーと神に祈りつつ、息絶えていったと記されている。
そして三日目に死から復活して、神のごとき永遠の存在として神とともにおられるようになった。さらに、聖霊という目に見えないかたちで、この世に来られて人々の魂の変革に関わっておられる。
このように、復活信仰は、どんな苦難の生涯を送った人にもまたあらゆるこの世の幸から見放されたような苦難の連続で終わったような人にも、大いなる恵みを与えることになる。
このように、十字架と復活ということは、人間の根本問題、世界の根本問題を解決する道となっている。
私たち一人一人はキリストを信じて罪赦され、死しても復活してキリストの栄光の姿となり永遠の存在と変えてくださるのであるから、これで簡潔したように思われる。
しかし、それでも重要な問題が残る。世界に昔も今も満ちている悪はどうなるのか。悪そのものは霊的なものであって目には見えない。そのような悪の力が人間にはいることによって、さまざまの悪しき思いや言動が生まれる。
特定の悪人を処刑しても、悪そのものが滅びないかぎり、別の人間にと次々とその目にみえない悪の力が入っていく。制度をより人間的なものに変え、教育を普及させ…そのような社会的によきことを推進していくと、ある種の悪は表面から見えなくなる。
例えば、障がい者を差別し、見下し、嘲ったり、あしざまに言うなどは、昔に比べて相当に少なくなった。
しかし、子供(小学〜高校)の自殺は、近年ーこの10年ほどは、毎年300人ほどもある。子供同士のいじめも多くあり、親による子供の虐待もこの20年間、増加の一途をたどっている。
このような状況を見ても、悪の力は、思いがけないようなところに侵入していくのがわかる。
また、いかに科学技術によって便利な機器がつくられても、人間の真実や心の清さ、あるいは真実な愛などは、そうした科学技術は生み出すことはできない。
世界的に見ても、第一次世界大戦では、3700万人ほどの死者、第二次世界大戦では、その二倍ほどの8千万人ほどものおびただしい人々が命を落としたとされている。
そのなかで、ヒトラーによるユダヤ人の大量虐殺、日本による中国や東南アジア諸国の人々の大量の殺害ということもあった。
さらに戦後になっても、ソ連のスターリンによる大量処刑、ベトナム戦争では、800万人を越える人たちが犠牲となった。
いまから24年ほど前に、アフリカの中央部の内陸国ウガンダで生じた大規模な虐殺は、わずか3カ月あまりの間に、50万〜100万人もの人々が、虐殺された。
さらに、そのウガンダの大事件の前には、隣国のブルンジでも、何十万人が殺害される悲劇が生じていた。…
このように、現代になっても、さまざまの問題は一向に止むことはなく、ある問題が解決され、あるいは相当部分が解決されても、またかつては想像もしなかったような門外が次々と生じてくる。
それは、すべて悪の力、悪の霊の働きのゆえである。
人類の最初から、このような悪の力が強く働きかけるということは、聖書の最初から、アダムとエバを誘惑して神に背く生活をさせようとすること、その子供たちであるカインとアベルの兄弟において、カインがアベルを撃ち殺すなどー悪の力がいかに深刻であるかが記されている。
死という最大の敵ともいえるものに勝利されたキリスト、神は、こうした世界の深い病根に対しても勝利される。
それが、キリストの再臨である。
キリストが神の力をもって再び来られて、世界に満ちている悪の力、悪霊を最終的に滅ぼすということである。
それは、この世界の根源的な悪そのものを滅ぼすゆえに、そうしたいっさいに対して支配する力をもって来られるということから、王として来られると言われる。
日本語では 王、あるいは将軍とかの支配者というと、昔の弱い人たちを圧迫して豪勢な生活を楽しみ、権力をほしいままにするような、よくないものというイメージがある。
しかし、キリストが王として来られる、というとき、それはすでに述べたように悪そのものを徹底的に、最終的に滅ぼすゆえに、悪や死の力をさえ支配し、さばき、滅ぼす存在ということで、王と言われるのである。
自分の権力や支配欲、快楽のために弱者を圧迫するのが、昔の王たちであるが、あらゆる人を愛し、しかも完全な支配の力をもっておられるのが、王としてのキリストである。
王としてのキリストがきますように、という祈りは、キリストの愛と正義の支配がなされるようになりますように、という祈りである。
それは、主の祈りに含まれる「御国を来らせてください」という祈りと本質的には同じ内容をもっている。
御国とは、すなわち、神、キリストによる愛と正義による御支配のことである。悪霊が追い出され、キリストの力、聖霊の力が変って人々を導くーそれが御国が来るということである。
最終的にこの世界、宇宙の変革という記述がある。
…その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。
(マタイ24の29)
これは、言葉をはるかに超えた出来事を象徴的に指し示すものである。
現在の地球の環境汚染、温暖化の行き着く先はどうなるのか、そしてそれらをはるかに超えた長い未来の彼方には、太陽の膨張と地球の高熱化によって地球上の生物はみな滅んでしまうとされている。さらには、地球は消失し、太陽も最終的には光を失い、寿命を終えるという。
こうした遠大な未来のことまですべて最終的に解決するのが、再臨なのである。
さきほどのキリストの言葉ー太陽が暗くなり、星は空から落ち…ということがどのような状況を表しているのか、何がそこで言われているのか、言葉では到底そのようなことは表現できない。
これは、現在の世界、宇宙が根本的に変えられて、神が、完全な良きものにされるーということを表しているのだと信じるほかはない。
そもそも言葉というのは、きわめて大きな限界を持っている。
例えば、私たちが苦しく弱っているときに示された愛、美しい大自然の姿、あるいはうるわしい音楽の感動、また深い悲しみ、死を思うほどの苦しみ…等々は、到底言葉では言い表せない。
目で見えるものが基本であって、見えない深い悲しみや苦しみ、感動といったものは本来言葉を超えたものである。
それゆえ、人間の復活した姿などという誰も見たことのない状態がどんなものなのか、これも言葉を超えたものであるゆえに、聖書では、キリストの栄光の姿のようになると言われているだけである。
この世界、宇宙が最終的に変えられるといっても、それは、本来言葉では、言い表せない出来事であって、ただ、「新しい天と地になる」(黙示録21章)ーこうした表現でしか言い表せないのである。
このように頭で理解しようとしても決して分からない、霊的な真理が再臨である。
この再臨によって、この世界のあらゆる問題は究極的な解決に至る。いかに、核兵器や悪魔的な戦争、災害等々に悩まされ混乱した世界であろうとも、それらすべてが消失し、爆発や融合等々といった変化もなく、ただ存在するのは、神の言葉であり、神の愛、真実だという世界となる。
…天地は滅びるー過ぎ行くが、私の言葉は決して滅びない。 (マタイ24の35)
そして聖書の最後の書である黙示録には、その新しい天と地の世界でのことが次のように記されている。
…神が人と共に住み、人は神の民となる。
彼らの目の涙をことごとくぬぐい去ってくださる。
もはや死もなく、もはや涙も労苦もない。
(黙示録21の3〜4より)
今月の星空から
現在の夕方の夜空には、今まではなかなか見られなかったような星空が見えていて、晴れているときには毎日見入っています。
それは、夕方日暮れ時にまず西の空には、強い光で輝く宵の明星と言われる金星が見え、その位置からほぼ水平に左の方向ー南寄りの空には、やはり澄んだ輝きでただちに目にはいる木星が見えます。
さらに、その木星から左方向ー南へと視線を移しますと、赤い色に輝くアンタレス(さそり座の一等星)が見えます。
そこから、さらに左方向ー南の空には土星が見えます。そしてその土星からさらに左よりー南東方向には、強く赤い輝きの火星が見えています。
火星が15年ぶりの大接近ということで、新聞やテレビなどでも報道されていてこのことについては多くの人が知って、実際に見ているのではないかと思われます。
7月から8月いっぱいは、晴れていたら南の空を見たらただちに火星とわかるような赤くて大きい輝きが見つかる状態がつづきました。
あとしばらくは、このような明るい火星が見えますが、そのうち次第に遠ざかっていくとともに今までのような明るい火星ではなくなっていきます。
夕空に、西から、金星、木星、アンタレス、土星、そして火星と、明るい惑星が四つとも同時にほぼ横並びに見え、かつ赤色巨星として有名なアンタレスとともに見られるということは、今後もかなりの年月みられないことです。
アンタレスは、太陽の700倍ほどもある巨大な恒星ですが、光の速さで550年も要するという遠距離にあるために、小さく見えています。
そして、土星と火星の中ほどから少し上に目をあげると、わし座の一等星アルタイル、頭上には強い光で輝くこと座の一等星ベガ、さらに北寄りには、白鳥座の一等星デネブも見えていて、この頃の夜空は、南を見ても、西から東へと、また上方に目を向けてもさまざまの強い光の星が見えていて飽きないものです。
星々については、このような科学的な事実を知るだけでも、無限宇宙の広大さを知らされ、人間の小さき存在であることをはっきりと示してくれるものです。
さらに、そうした科学的な知識が全くなくとも、古代からさまざまの民族にいろいろな感動や思いを引き起してきました。星々は見る者へと何らかのメッセージをたたえて輝いています。
永遠性がその最たるもので、その清いこと、光、色あい…等々。
そして、万物の創造主たる神がその星々も創造し、しかもその神の御性質が、真実であり、その愛とは弱い者、見捨てられたような者、病気や障がいで苦しみ、孤独である者にも豊にそそがれる愛の神であるゆえに、万物もその愛と真実が込められているという信仰をもって見るときには、そうした科学的な知見による知的満足とは大きく異なるさまざまの良きものを私たちに投げかけているのに気づかされます。
(404)本当の幸福
私たちは、すでにこの世において次のような幸福を知らねばならない。
それは、どんな事情のもとでも、まただれでもみな、手に入れることのできる幸福である。
そして私たちを常に喜びをもって心を満たしてくれるような幸福である。
それは、神への信仰、神と共にあることの実感、そして、働くことである。
(ヒルティ著 眠られぬ夜のために上1月31日)
・ヒルティ(1833‐1909)について
スイスの法学者,キリスト教思想家。代々医師の家に生まれ,ドイツの大学で法学や哲学を学んだ。故郷に帰って弁護士となる。ギリシア・ローマの古典に親しみ,30歳のころ,深い精神的回心とともにキリスト教を再発見した。その後ベルン大学の国法学教授,同大学総長,国会議員,ハーグ国際仲裁裁判所判事などを歴任。そうした中で、「幸福論」、「眠られぬ夜のために」、「書簡集」などのキリスト教の著作を多く生み出した。)
・本当の幸福とは、さまざまのこの世の重荷、問題を持ちつつも、そのただなかにあっても、その闇のなかに一点の光を感じさせるところがある。 そのような光を実感するのは、全能と愛の神、そして真実な神を信じることが出発点となる。
そして信じて与えられるのは、聖なる霊であり、それが少しでも与えられるとき、神がともにいてくださっているという実感が与えられる。
そしてその実感はこの世に流されない力を伴う。
その力によって何らかのよき働きが可能となってくる。
よい働きとは、ごく小さなことであっても、神のためと、神を見つめてするときになされることであって、病床にある人、高齢で外へも出られない状況にあっても 、祈ることはできる。
真実な祈りこそは、全能の神の働きにつながることゆえ、大いなる働きとなる。
このヒルティが言っている本当の幸福は、聖書が繰り返し語っていることで、だれでもが与えられ得るものだと言える。
神は愛であるゆえ、年齢、性別、才能、健康、民族ーまた大きな罪を犯してしまった人でも、社会的ち知られるような人であってもーみな真剣に求めることで与えられる。
(405)ただ一つの祈り
私たちは、ただ一つのことしか、あなたを喜ばせることはできないのです。
それは、聖霊を、真理を、そしてあなたの助けと導きを真剣に、真実に求めることです。(カール・バルト「祈り」83頁より。新教出版社刊。なお、バルトは、スイスのプロテスタントの神学者。ヒトラーの台頭に際して、反ナチ教会闘争の中心となり、ボン大学教授の職を追われた。)
(406)試練と信仰
私は生涯のうちで、多くの試練を受けてきたが、おそらく今回の試練が最も厳しいようだ。
試練は好むところである。
厳しくなればなるほど、神との交わりは緊密になり、神の限りない愛への信仰はますます深まる。(「ガンジーの言葉」朝日新聞出版 84頁)
I have passed through many an ordeal in my life. But perhaps this is to be the hardest. I like it. The fiecer it becomes,the closer is the communion with God that I experience and the deeper grows my fdaith in His abumdant grace. (Gandhi: ALL MEN ARE BROTHERS)
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(スマホで左のQRコードを読みとれば、徳島聖書キリスト集会ホームページを見ることができます。)