いのちの水 2019年 10月号 704号
主よ、わが力よ、私はあなたを慕う。主はわが岩、逃れ場。 悪の霊を相手にするものである。 (旧約聖書詩篇18の2〜3より) |
目次
・お知らせ |
10人のおとめのたとえというのがある。
10人の乙女たちが花婿を迎えに出る。そのうち5人はともしびはもっていたが油をもっていなかった、ほかの5人はともしびとともに油をもっていた。
さあ、花婿が来た!というとき、みんな眠っていたが、油をもっていなかった乙女たちはともしびを付けたがまもなく消えそうになった。そして、迎えられなかった。しかし、油をもっていた乙女は、花婿とともに席に着いた。ほかの乙女は遅れてやってきたが、扉は締められていて入ることはできなかったーだから目を覚ましていなさい。その日その時を知らないからである。 (マタイ福音書25章より)
このたとえは、世の終わりに与えられる最終的なキリストと一つになる恵みーそれは天の国に入れていただけるかどうかであるが、そのことについてのたとえである。
これは、キリストを信じていると見える人たちのなかに、まったく異なる人たちがいることを示す。
その分かれ目は何か。油をもっているかどうかである。それでは油とは何か。ともしびを燃やし続けるためのものである。そして霊的なともしびとは、聖霊の火である。パウロは、聖霊の火を消すなと言った。 (Tテサロニケ5の9)
聖霊の火がなくても、表面的な、人間的な信仰の人はいる。その典型的な例は繰り返し言われている律法学者やパリサイ派の人たち、祭司たちである。彼らは当時のユダヤ人の信仰の指導者的人物であり、ともしびをもって人々を照らし導いていると思われていた。
しかし、それは目先の利益や欲望のためであり、人々からの敬意や権力と結びついて安楽な生活ができるようにするための手段となっていた。外側はきれいだが、内側はあらゆる汚れで一杯で、白く塗った墓だと主イエスは言われた。
また、このことは、山上の教えの最後にも言われている。「私を主よ、主よというものが必ずしも天の国にはいるのではない。
父のご意志を行なうものがはいる。多くの人たちは、あなたの名によって悪霊を追い出したり病気を癒しましたと言う。
しかし私はきっぱりという。お前たちは知らない。」と。 (マタイ7の21〜23)
ともしびを燃やし続けるーそれは聖霊、聖なる風をいつも受けていることである。罪を犯しても十字架を仰いで、赦しを願うだけで赦され、正しい者とみなしてくださるという大いなる恵みをいつも受けていることである。
それはまた、絶えず祈っている状態、いつも主と結びついている魂である。
聖霊の火を灯し続けるための油とは聖霊であり、聖霊の油がつねに燃えていることーそれが聖霊の火を灯しつづけることである。
それをいつも持っているために主日礼拝も家庭集会もある。祈りもそのためである。「祈りの友」にあっても、遠くの人たちとの祈りを持続することで、相互に聖霊の風を送り合うことになる。
世の終わりでなくとも、日々の生活において、主は来てくださる。いつも祈りの状態にあるなら、その主をただちに受けいれることができるが、この世のこと、人間のことに心が支配されているとき、来てくださった主に気付かず入ってもらえない。
聖霊の風はいつも吹いている。心の戸を開いているとき、その風は入ってくる。そのために、聖書や祈り、集会、よき音楽としての賛美、そして、清く深い意味をたたえた草木、星や大空や雲、山々など自然に触れていることも重要となる。
一般的には、この世で最も大切とされるのは、健康、家族、お金 ーこの三つ一番大切と思われている。そして、これらはよく用いられるなら、数々のよいものをさらに生み出す。私自身も怪我や病気で病院、医者によって救われた与えられてきた健康のことを思いだすたびに感謝がある。
その病院や医者、看護師の養成にはそのための大学、専門学校が必要、それも多額の費用がいる。農業技術の向上、例えば寒さに耐える米などの研究、育成にも、肥料、薬剤の開発にも多額のお金がいる…等々、いたるところで、お金はよきことに用いることができるのはすぐに分る。
他者のためにー病人や貧しい人たちのためにはたらくためには強い体ー健康が必要である。また、そうした人材を送り出すためにしばしばよき家族ーとくに配偶者の支えが必要となる。
そして、これら三つの重要性は、でれにでもわかるし、 健康第一とはつねに言われていることである。
お金があれば、よい大学への進学も能力を伸ばすこともできる、大きな家に住めるし快適な車やよい環境にも住める。また学歴がよければ、有名会社に入れる、そこで多くのお金をえられる。それはよい結婚にもつながり、よい家族を持つことができる。
さらに、財力によって民族や国家もより強大な権力、武力、人間、領地などを得ることができる。
また、病気にならないようによい食物や健康管理にも役だつ。ということで、これら三つは子供から老人まで、だれもが日々その重要性を感じている。スポーツが人気あるのは、そこで成功しているものたちが、多額の報酬を得られる、人からも賞賛されるという側面がある。
しかし、他方、その限界も考えてみるとすぐにわかる。快適な大きな家に住んでいても、家族が真実の愛や信頼に生きているとは関係ないことが実に多い。
さらに、健康であってもその健康をもって悪事をなすこと、病気の人や弱い人、障がいを持った人たちへの共感や愛を持たずに差別したり、無視することにもなる。
この世の大きな悪事ー大量殺人をなす戦争を指揮したり引き起こしたりするのは、概して体の健康の人たちであって、病気で苦しんだり入院している人たちが引き起こすのではない。
お金があっても、それは権力と結びつき、しばしば悪用される。福島原発の大事故も、その危険性を指摘する人たちを権力で弾圧し、原発を設置しようとする県、町や村の権力者たちに多額のカネが流れることで誘致され、その危険性が伏せられ、あの大事故という結果を生み出した。
そして、健康、お金、家族ーそれらの限界は、一人の人が死に近いほど重い病気となっているとき、どのような生きる力や希望を与えることができるのか、考えるとすぐにわかる。
もはや健康は失われ、家族も医者すらもどうにもできない、お金がいくらあってもその病気は治らない。
そのような人間の最期の大切な時に、なお希望を与え、生き抜く力を与えるものは、何か。
それこそは、聖書で記されている信仰・希望・愛である。神の全能と完全な愛、すべてに打ち勝つ神の全能を信じることで、死のあとには必ず、完全な霊的なからだに復活させていただけるという希望がある。そして数々の生きてきた過程でおかした罪の赦しも与えられ、苦しみのなかにもある種の平安が与えられるのも多くの死に近い人たちを見て感じてきた。
この信仰・希望・愛は、お金や権力、健康がなくとも、生きる力と魂の平安、そして喜びを与えてくれるというほかにはない本質を備えている。
また、これら三つが与えられるとき、周囲の毎日接する自然や出来事を見る目もまた新しくされる。
大空の澄んだ青い広がり、そこに流れ、浮かぶさまざまの形と色合いの雲、しかもそれは日々同じものはまったくなくて、絶えず移り変わる。
そうして毎日のように見る自然の姿も神の私たちへの愛が感じられる。いったいどのような人間があの壮大な美しい広がりと多様な色合い、形を提供できるだろか。いかなる芸術家も科学技術も到底比較にならない。
それらを単なる偶然として受けとるか、それは私たちへの神の愛の表現だと受けとるかで大きく異なる。身近な植物、その花なども、あるいはそこにできる果実などすべて神の私たちへの愛だとして受けとること、そして実際そうなのだから。
病気や人間関係等々で苦しみや悲しみはだれでも持っている。それは運命がそうなったのだ、とか悪魔がそのようにしたのだ、とあきらめと絶望的な考えで受けとるのでなく、それも神の深い愛が背後にあって、ただそれを理解するだけの力がないのだと信じていくとき、徐々にその苦しみの背後に神の愛があったとわかってくることが多い。
信仰という言葉の原語は、ピスティスである。それは「真実」というのがその原意である。人間が神の愛や全能を信じる「信仰」という訳語としても用いられるが、他方、「真実」は、神の本質を表す重要な言葉でもある。信仰・希望・愛はいつまでも続くが、人間の持つ信仰ということなら、それは人間の生きている間である。死ねば信仰は必要なくなる。復活によって永遠の神の愛のもとに生きるのであるから。
しかし、神の「真実」は、その場合でも永遠である。それゆえ、この三つは、人間に与えられる信仰とともに、神の真実、神の全能を信じるゆえに生じる希望、神の愛ということになる。
神の愛などわからない、という人たちは多い。しかし、聖書に記されている神とキリストを知らされ、自分がいかに正しいあるべき道を歩めないかということ(罪)日々を思い知らされているとき、その罪の赦しは、キリストの十字架を仰ぎ求めるならば、すぐにも与えられる。そこに神の愛を感じることができるのであって、それは日常的に与えられることである。
そして信仰も、神の愛がわからないときでも、わからないからこそ信じるという姿勢で生きるとき、いつまでも続くものとなり、そこから新たな啓示や力をも与えられる。さらに、神は全能であるからこそ、私たち人間にはいかにしてもできない、悪の力そのものを滅ぼすことなどでさえも、必ず成し遂げてくださるという希望も自然に生まれる。
日常生活のいつでも、心から求めるときには、この最も重要な三つの永遠的なものを与えられるーそういう点で、この世界は、不思議な驚くべき扉を万人の前につねに備えられているのだと知らされる。
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。
早速、 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
次に、二タラントン預かった者も言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
一タラントン預かった者も言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。』
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。…さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりする。』」
(マタイ25の14〜30より)
ここには、与えられたものを用いることの重要性が記されている。
天の国とは、神の国(*)であり、神の愛と真実による御支配のことであって、ここでは、死んでからのいわゆる天国のことを意味しているのではないことは、そのあとに続く内容ですぐにわかる。
神の地上における御支配のなさり方は次のようである、と言っているのであって、死後の世界はこうであるというのとは全くことなる。
(*)国と訳された原語のバシレイアは、日本語のように、領土、国民、統治のなされている領域を意味するのでなく本来は 王(バシリュウス)という言葉の派生語であり、王の支配、統治という意味であるから、このように現実の世界での支配を意味することにしばしば用いられている。死後の神とともにある霊的世界は、完全に神の愛の御支配にあるゆえに、死後の世界も天の国に含まれる。
タレントというだれでも知っている言葉は、このたとえから生まれているほどであるが、この内容そのものはほとんどの日本人は聖書を読んでないので知らないままとなっている。
このたとえでは、神から受けたものを用いることの重要性が記されている。
タラントンという言葉ーこれは当時の一日の賃金が1デナリとイエスのたとえにあり、また1タラントン=6000デナリと当時の単位表にある。そして現在の日本で1日分の賃金をおおまかに1万円とするなら、この1タラントンとは、6000日分の賃金、すなわち六千万円ということにもなる。 それはとても大きい金額である。
それゆえに、このたとえで1タラントンしか与えてもらえなかったーということでなく、少ないように見えても多大の賜物を委ねられているということを意味している。
その神の財産というべき賜物など、預けられていないと感じる人たちも多いだろう。
しかし、私たちが生まれてきたということは、それぞれに大いなる賜物を預けられて、ある使命を託されて生まれてきたということになる。
このたとえでのタラントンというと、いろいろな能力、スポーツや芸術、数学や英語などの能力、やさしさや勇気、頭の回転のはやさ、実行力…等々を思いだすことが多いと思われる。
しかし、この世で最も重要なことー信仰・希望・愛ということは、私たちに与えられ、委ねられた最も大いなるものである。これらはもともとなかったものであるが、信仰が与えられたときに、新たに賜物として委ねられたものである。
十字架で私たちのために死んでくださったそのキリストを仰ぐということ自体、それは最大の恵みとして与えられたことであり、その恵みを託されて生きていくことが期待されている。 それゆえに、日々十字架を仰ぐことも、その恵みを用いるということであり、この世というぶどう園でよくはたらくことにつながる。
パウロは、キリスト信徒を迫害することの指導的役割を果たしていて、キリスト者を殺すことさえしたと語っている。しかし、そのようなパウロは迫害のさなかに、復活のキリストの光と語りかけを受けて根本的に変えられた。 そして、キリストの福音を知ってただちにダマスコで福音を宣べ伝えはじめた。与えられたらすぐに用いていくという精神がここにも見られる。
使徒たちも、イエスを裏切って逃げていったが、それにもかかわらず悔い改めて祈って待ち続けていたとき、大いなる聖霊が与えられた。そして直ちに、イエスの復活の福音を命がけで宣べ伝えはじめた。
私たちに与えられ、委ねられたもっとも深くてよきもの、しかも万人に与えられるものとは、信仰・希望・愛であり、神の国である。
それに対して この世にもそれらと似たものがある。
私たちは、他者から日常的に信頼と愛を、また希望をもって関わりを受けている。だれでもそうした愛をーときにはそれがいかに乏しく見えようともー親や家族、親族、施設、学校、職場、地域の人、病院…等々から受けてきたからこそ、現在がある。まったくそれらを受けなかったら生まれて生きていくこともできない。
しかし、そうした人間世界の 信頼や愛、希望というのは、しばしば弱くてもろく、不純であり、自己中心であり、続かない。
そうした現実の状況ゆえに、キリストが来られたのだった。
キリストを信じることによって、はじめて そうしたはかない信頼や希望、愛といったものが、まったくことなる永遠性を持つものだと知らされ、ただ信じるだけで与えられているのをしらされていく。
神の国が与えられるとは、神様の御支配の力、それがわかるようにしてくださること。
信仰・希望・愛が与えられるとき、それらとともに生きる力が与えられる。そこから、いろいろの具体的能力ー日々の健康も含め、それらを用いること、すなわち、家庭や職場での日々の真実な働き、出会う人間との関わり、また文をもって書くこと、伝道、 美術、会社経営、スポーツ、映画、福祉、あらゆる方面で、その信仰・希望・愛といういただいたものを用いてなすように導かれる。そしてさらにその周囲にこの信仰・希望・愛を広げていく。
日曜日の礼拝(主日礼拝)や家庭集会に参加することも、信仰・希望・愛を深め、また他者へと広げることになる。自分自身を深めることとともに、そこに新たな人が加わることを祈り願いつつ、参加する。それによって自分に与えられた信仰という賜物を使うことになる。
自然を見て、それらが偶然でなく神の愛によってその全能によって存在している、その美や清さ、力を感じ取ることも 神様からいただいた信仰を用いることであり、日常的に、神様からの信仰という賜物を用いる場が与えられている。
信仰・希望・愛を用いる日々の営みは、祈りというかたちでも現れる。祈る心も私たちに与えられ、委ねられた神の国の賜物である。
そうした賜物を使いはじめるなら、必ず増やされる。それぞれがタラントンを与えられてすぐに使いはじめた。主人(神)が来られたときに決算したらその人は五タラントン差し出したという。与えられた賜物と同じものは使って増やすことができるという。このことは分かりにくい。現実の社会では、与えられたものを使っても何もよいものが生まれなかったり、それどころかマイナスや大きな損失となったり、ときにははるかに大きな財産を築く人もいるからである。
これも人間の目から見たらそうなるが、神の目から見るなら、与えられたものをすぐに使いはじめるとき、いかに人の目には小さくとも、必ず与えたものと同じほどは増えるようになっているということを示している。
それは考えられないようであるが、例えば、信仰・希望・愛という賜物について考えてみるとき、神とキリストの十字架の赦しを本当に信じたとき、私自身それまでまったく考えたことがなかった罪の赦しということがただちに与えられたのを実感したし、現在でも罪を感じるときごとに赦しを祈り願って十字架を仰ぐときに赦しを与えられる。
神様の全能と愛を信じようとしても、いろいろの苦しみや悲しみの状況に陥ったとき、すぐには希望という光が与えられないときもあって闇のなかに落ち込んだ気持ちが続くこともある。しかし、あきらめることなく祈りつつ待ち望んでいるなら、時を経て必ず何らかの希望が与えられる。
他者への愛ということ、それは祈りであるけれど、今までに生きてきた過程で、人間同士に大きな溝ができてしまい、暴力をもって向ってくるようなことにも直面したが、それでも反感や憎悪、恐怖でなく、真剣に祈りを続けていくとき、予想しなかった道が開かれたこともあった。
祈りは、そのように直接的に相手の反感なども変えてくれることがあるが、そのような変化が見られずとも、真剣に祈りを続けるときには、魂の深いところに平安が与えられる。
そうした経験は、キリストを信じて生きてきた人たちすべてがその程度の差はあれ、経験してきたことであろう。それがなかったら、キリスト教信仰は続かないからである。
1タラントンしかもらわなかった人は、使わずに土を掘って埋めておいた。それは自分に委ねられたものの大きさを全く悟らず、感謝もなく、これだけしか与えられていないと、不満を持っている状態である。それは、主人(神)は、蒔かないところからも収穫を取ろうとするーまるで愛も真実もない、と思い込んでいる心である。
そのようにこの世界におられる愛の神様などいないー言い換えると本当の愛や変ることなき真実、正しさなど存在しない、みな移り変わり最終的にはなくなっていくものだと信じ、与ええられている健康も能力、仕事、お金…等々をもよきことに用いないでいるなら、最終的には、何もよいことは増えないで、与えられたものまで取り去られる。
それらのお金や健康、家族なども実際になくなっていくし、心の世界においても、真実な愛や友情というものも与えられないままとなり、じっさいそうした友情とか家族、知人もみな病気になり、死んでゆき、友情も消滅していく。その現実に接するたびに、暗い心になって死へと向っていくことになるーそうしたことを「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりする」という、現代の私たちには、何か違和感のある表現となって言われているのである。
これは、たとえであって、「罪を犯すのが目であったら目をえぐりだして捨てよ」、とか「私を信じるこれらの小さきものをつまずかせるものは、石を首にくくりつけられて海に沈められるほうがましだ」、といった驚くべき表現も当時の人たちに直感的にそのことの重要性を悟らせるための表現だった。目を取り出して捨てたところで人間の罪そのものは変わらないことからもこれらの表現が比喩的なものだとすぐにわかる。
与えられたものに常に感じ続けて、それを用いていくために、「常に祈れ、すべてのことにおいて感謝せよ、喜べ」と言われている。
私たちは、あなたに感謝します。 神様、私たちは感謝します。 (*)
御名は、近くにあり、 人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。
わたしが、時を選び、 公正にさばく。
地とそこに住むものすべて揺らいでも、 わたしは地の柱を堅く立てる。
わたしは、高ぶる者には、「高ぶるな」と言い、 悪しき者には、 「角を上げるな」と言う。
人を高く上げるものは、東からも、 西からも、荒野からも来ない。
神こそが、裁く方。ある者を低くし、ある者を高く上げる。
杯は、主の手にあり、
主が、これを注ぎ出されると、 地上の悪しき者は、飲み尽くす。
私は、とこしえまでも告げよう。 ヤコブの神を、ほめ歌おう。
「悪者どもの角を、ことごとく切り捨てよう。 しかし、正しい者の角は、高く上げられる。」
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この詩は、感謝で始まり、最後は、悪の力が最終的(世の終わり)には滅ぼされ、正しき者が高くされるというこの世界における神の御計画、あるいは霊的な法則が記されている。
感謝ではじめているこの詩の作者は、いかなることが身辺で生じようとも、すでに与えられていることや、すべその背後にのこうした神の御計画を信じて感謝する姿勢がうかがえる。
しかし、私たちの生活はうっかすると、まず不満や心配、悩み、あるいは新聞、テレビなど、単なるこの世のニュースに接することから始まることになる。
そうした現状からこの詩に接するとき、まず与えられている多大なものに感謝をすることの大切さに気付かされる。
次いで「御名は近くにあり」と記されている。御名とは、神の本質そのものである。言い換えると、神は近くにあり、ということになるが、神の本質とは、出エジプト記にはっきりと記されている。
…憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。(出エジプト記34の6〜7)
このように、憐れみ、慈しみを幾千代にも与える神、しかし、罰すべき者に裁きを与えるーこの詩の作者においても、神は人間を正しく見て、あるものを引き揚げ、高ぶるものを裁くーこれは基本的な認識であり、実感であった。
(*)感謝する、この原語はヤーダーで、本来は「賛美する、ほめたたえる」という意味であるが、このように感謝するという意味でも用いられている語である。
このヤーダーという言葉からつくられた人名がヤコブであり、歴史の中でも重要な名前になった。
…彼女(ヤコブの妻レア)は男の子を産んで言った。「私は主をほめたたえる」それで、その子をユダ(*)と名付けた。(創世記二十九・35)
ユダとは、イェフーダー の略であり、「ヤハウェをほめたたえる」という意味。イェ とは、ヤハウェの省略形。この個所は、英訳でも、私は主を賛美する(We praise you, God, we praise you )と訳されているのもある。
感謝してなければ、ほめたたえることができない。そういう意味で、日本語では賛美と感謝は関係ないように思うが、ヘブライ語では同じ言葉である。
ユダという名は、もともとは個人の名前だったが、国の名前となり、ユダヤ人というように民族の名前ともなり、一人の名前が何千年にもわたって大きな意味を持ち続けてきた。しかし日本人は、アブラハムの子孫の一人がユダであり、その名前自体は、ヤハウェ(神)を賛美する、という良い意味を持っているのだということを知らない人がほとんどで、裏切り者のユダの名前だとしてマイナスのイメージで知られている。
感謝する理由が1節の3行目にある。それは神様はいつも近くにいて、驚くべき御業があるからである。その驚くべき御業は、自然界にもいたるところに見ることができるが、この詩においては、とくに悪は必ず滅ぼされ、神に従おうとする者は引き上げられるということに焦点がおかれている。これは、長い歴史のなかで必ず生じているのであって、とくに神からの啓示を受けるときには、そのことがはっきりと示される。地上的なものはすべて崩れていくが、神はこの世界を真理によって固くし、驕る者、逆らう者を滅ぼされる。そして真理が残される。
そうした神からの視点が与えられるとき、それは人間というはかない存在がなしえない驚くべき御業として実感される。
旧約の時代においても、神は民とともにおられたが、他方、一部のアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ、それから預言者たちといった特別な指導者とともにおられたという印象が強いが、詩篇は違う。
ダビデの名前が作者として書いてあるのも多いが、作者不明であってもダビデのものとして伝承されているのもあり、だれの作品か不明のものもいろいろとある。そうしたものも含め、詩篇全体が、神がどんな人の近くにもいてくださることを実感させてくれる内容に満ちている。
7節以降はとても興味深い表現である。人間は何が正しいかでなく、一般的なものに押し流される。天の高みから来る神だけが、人間を高くする。この世は一時的なことで、持ち上げたり、下げたりする。
一般的には神の裁きなどは見えない。しかし、神からの啓示を受けた人は、神の裁きは、悪を行い続ける者には、まさに注がれようとしているのが見える。
この詩の作者の、神への深い感謝と賛美の心は、このような世界の秩序に関する啓示と深くつながっている。
この世のさまざまな敵対する力は必ず折られる。滅び去る。消えていく。
反対に強固にされていくものは神の国の力である。これを語り継げずにはおられないと書きとめられたのがこの詩であり、この心は今日まで、数千年も続いてきた。
こうした真理は、聖書全体にみられるが、ここでは、新約にもマリア賛歌として引用されている内容と深い関係のある旧約聖書の個所とともにあげておく。
…主は、弱い者を塵の中から立ち上がらせ
貧しい者を芥の中から高く上げ
高貴な者と共に座に着かせ
栄光の座を嗣業としてお与えになる。
正しき者の足を主は守り
悪しき者を闇の沈黙に落とされる。
主は悪しき者を打ち砕き
主は地の果てまで裁きを及ぼす。
(サムエル記上2の8〜10より)
…その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ… (ルカ福音書1の50〜52)
〇毎年発行している文集「野の花」の原稿をお送りください。
二千字以内で、それを越える場合には、適宜短縮します。内容は、。ごく短い文、聖句、讃美歌、聖歌などの心に残っている歌詞でも可です。
送付先 吉村孝雄(住所、電話番号、E-mail:はこの「いのちの水」誌の奥付にあります)
〇11月の吉村孝雄の県外の集会予定を記しておきます。(インターネットなどで見られた人が参加することがあります。)