いのちの水 2019年 11月号 705号
主よ、わが力よ、私はあなたを慕う。主はわが岩、逃れ場。 悪の霊を相手にするものである。 (旧約聖書詩篇18の2〜3より) |
目次
・ 私たちの居場所 |
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・お知らせ |
船で愛媛県の西端の佐田岬から大分に渡った。珍しい快晴の日だった。
船窓から見える風景は、すべて青、青、青…。
大空一面に広がるのも青い空、そして水平線の真っ直ぐな線まで広がっている大海原もまた濃い青の広がりだった。
さらに、遠くの山々もまた青くかすむ山々がのぞまれた。
このように広大な空も海もまた遠くの山も、青い色…。
これが赤や、黄色、紫であったら到底耐えがたいものとなる。 緑であっても強すぎる色彩となるだろう。
青い色だけがこのように全空間を埋めつくしてもなお、さわやかな印象を与えるものとなっている。
それは、神が人間に与えようとするメッセージがこの青い広がりに込められているからであろう。
それは澄んだ世界、清められた世界を象徴的に指し示すものである。
そしてその深く、すべてを包むような広がりをもった青い色は、祈りの心をも指し示す。祈りの世界は限りなく深く、清い。汚れた魂も、神のどこまでも深く清いお心を見つめて祈るときには、赦しを受け、清めを受ける。
いつの時代にも、私たちの本当の居場所がないと感じる人たちが多いであろう。
経済的には豊かであっても、またタレントやスポーツなどで有名であっても、また政治家とか実業家として知られている人であっても、人知れずに苦しみや悲しみや精神的な不安をかかえている人も多くあり、立派な家で住む人たちであっても、だからといって心の安らぐ本当の居場所を持っているとは限らない。
それは、日本が全世界の中で自殺率がとくに高いし、若者の自殺率もきわだって高いという事実を見てもわかる。(*)
(*)日本での人口10万人あたりの自殺者数= 19.5人。 世界で 6番目。毎日約60人が死んでいる。 (毎日新聞 2018.1.21)
・「絶望の国 日本は世界一「若者自殺者」を量産している。15〜24歳の自殺率は、90年代以降ずっと上がり続けていて、しかもそれは、日本の特徴。(PRESIDENT Online 2016.1.12 教育社会学者 舞田敏彦)
家そのものーとくにトイレや台所は、戦前や戦後間もない頃と比べると、比較にならないほど清潔に、かつきれいになった。
しかし、そうした外側の状況がどのように変わろうとも、人間の心は清くされることにはならず、また魂の居場所は、家庭にもないという人たちは多い。
そして、病気やいじめ、あるいは家族や職場での問題などによって、心が揺れ動き、前途が見えないという暗い状況にある人たちにおいても、居場所といえるものがないことも多い。
さらに、老年という病気や孤独、人との交流のなくなっていく状況においては、病院や施設に移らざるを得ないことが多いが、そこでも到底本当の居場所とは実感できない人たちは多いし、自宅で療養していても、やはり日増しにつのる不安や不自由、病気の苦しみなどとともに、配偶者も病気、あるいは死別、ということで孤独に苦しむことにもなる。
そうした状況において、高齢の老人がますます増えていく日本の現状において、いかにして本当の魂の居場所を与えられるのかが、大きな問題となる。
聖書においては、その巻頭からその問題に答えている。この個所は、いろいろな物事を考えるとき常に重要であり、今月号でも別項目でも記した。
…はじめに神は天地を創造された。形なく、空虚であり(混沌としていて)、闇が深淵の面にあった。
そこに、神からの風が吹き続けていた。
神が言った。「光あれ!」こうして光が存在するようになった。(創世記1の1〜3)
最初の状況は天地創造のときの状況を描いていると同時に、人間が救いを得るまでの、心の世界の状況を映し出しているものともなっている。
聖書の記述は、このように、表面的にみると古代の記述にすぎないと思われるが、そこには驚くべきことに人間の深い魂の世界を暗示していることが実に多い。
この聖書の最初に記されている暗闇とか空虚、混沌といった状況は、魂の真の居場所を与えられない人間の心の世界を描き出している。
しかし、そこに神からの風(聖なる霊)が吹き続けていて、神の言葉によって命の光が与えられる。
その神の風(聖霊)と光を受けることで初めて人間の魂は、いかなる状況の人であっても、真の居場所を与えられるということを指し示しているのである。
このようにして与えられた魂の居場所は、どのような状況に置かれていても壊されることもなく、奪われることもない。
貧しさや愛する者を失った慟哭する魂も、また大きな罪を犯して、家族や周囲の人たちからも見下され、住むところもなくなったような深い孤独にある魂も、この聖書の記す聖霊といのちの光を受けることによって、真の居場所が与えられる。
それこそ、愛と真実の神とともにあることであり、神からの風(聖霊)と、神の光を受けることである。
こうした本当の居場所が与えられるためには、しばしば苦しい試練の道をたどらねばならないことも多い。
…パウロは、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと励まして言った。
「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と言った。(使徒言行録14の22)
ここで言われている神の国とは、まさに私たちの最終的な魂の居場所であり、それは、聖霊といのちの光が与えられている状況を意味する。
主イエスのよく知られた言葉もそのことを示している。
…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ15の5〜6)
キリストにつながっているーその内に留まっていることとは、聖霊と光を受け続けることであり、それによって私たちの魂が真に居場所と実感できる。そしてその平安や力、希望が与えられる。それが実を結ぶということである。
しかし、人間の力や考えだけを頼りにしていくとき、最終的にはそれらはみな失われていき、その魂の力は枯れて焼かれてしまうように消えていくと言われている。
それは、人間しか見えないとき、裏切られ、その限界を思い知らされ、清い愛や真実などどこにもないことを知らされていき、現在や未来にどこにも頼るものなく、深い絶望感がとりまくということになって、生きていくこともできなくなるーみずからの命さえ断っていく多くの人たちがいる。
そこまでいかずとも、日々迫る老齢と病気、孤独に耐えられずに、魂の生き生きしたはたらきが枯れていく、ということになっていく。
そのような人間のために、私のところこそ、真の居場所なのだ、と語りかけてくださっているのが、神であり、神が使わしてくださったキリストなのだと知らされる。
本当の居場所を知らされたとき、死という事態となってもその居場所はますます光を帯びてくる。それは、キリストご自身が言われた言葉から感じる。
死というどこに行ったのか、存在さえしていないのではないかと思われる事態に対して、主イエスは言われた。
…わたしの父の家には住む所がたくさんある。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。
こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネ14の2〜3)
神の国には、どんな人にも居場所が備えられている。霊的世界ゆえに数えることもできない。無限にある。そこに安住することができる。
これは死後のことだけでなく、現在の私たちにおいても、キリストはつねに私たちの心の扉をたたき、迎えようとしてくださっている。
そして、キリストのもとにともにいることーそれこそ万人の居場所であることを示している。
私たちは、光と水ということの重要性は広く知られている。しかし、風の重要性はあまり感じないという人が多い。しかし、地上生活において水は必須であるが、その水は川の水から採取している。その川は雨によって生じるのであるが、雨は低気圧、前線などによる風の動きによって雲が生じ、それによって雨が生じる。そうした観点から見るときに、風の重要性がわかる。
この光、水、風の特別な重要性は、目に見えない世界においてもあてはまる。
現代の日本、先進諸国は、表面的にはさまざまの科学技術の産物が満ちあふれ、立派な建物、教育機関、文化施設、映像文化、交通機関の発達、各種スポーツの賑わい等々が至るところにある。
しかし、ひとたびこの世の表面から内部を見るときに、至るところに荒廃があり、虚偽が横行し、孤独や病気、家族の分裂ー深い悲しみや苦しみがあり、空しさに満ちている。
それは、すでに聖書の巻頭に深い洞察をもって描かれている。
はじめに神は天地を創造された。
地は形なく、空虚、荒涼とした状態(*)であって、闇が深淵の面にあった。
そこに、神からの聖なる風(**) が水の面を吹き続けていた。
神は言われた。
「光あれ」
こうして、光があった。(創世記1の1〜3)
(*)新共同訳では「混沌」。その原語は、トーフーとボーフーという二語であり、それはいずれも、空虚、空しい、荒涼としたといった訳語で用いられている。
(**)これも、現代の新しい世界的に知られた英訳では、「神からの風」と訳されている。なお、これら二つの個所について今月号の終わりに、より詳しい説明を別項で記した。
それは、現在の世界の状況を見ても、また日本の日々報道されるニュースに接しても、どこに変わらぬ真実があるのか、みな移り変わり、空しさばかりがたちこめている。
そして、過去数千年を見ても、人間は絶えず武力をもって戦い、殺し合うという荒涼とした状況が繰り返されてきた。
そして、そこには、不動の愛や真実はどこにあるのか、何もそんなものはないという空しさが覆っている。
そうしたただなかに、聖書は、確たる宣言をした。
天来の風がその闇と空しさ、荒涼たる現実に吹きわたっているのだ、というのである。
今からつい二百年ほど昔と比べると、それまでの長い人類の歴史では全く想像もできないほどに状況は激変した。
数千万というおびただしい人間が戦争によって殺傷され、無意味な発言が瞬時にして世界に発信される。至るところで機械、機器類が作動してそれなくば生活ができない状況となっている。
それによってかつては考えられなかった多様な犯罪、悪事もひろがりつつある。
こうした状況に人間はますます追い詰められていきつつある。
けれども、神はその全能ゆえにすべてそうしたことも見抜いておられた。
そしてその限りない混乱、荒涼とした精神世界と実体をつかめない空しさのただなかに、神からの風、聖なる風(divine wind)というものが吹き続けているという宣言なのである。
そして過去数千年という長い歴史の歩みのなかで、そうした聖なる風を受け止めて立ち上がった人たちは、その風から力を受けて全くことなる歩みをはじめ、周囲の人々にそうした風(聖霊)を指し示し、みずからが与えられたその霊の風を周囲の人たちへも分かつことをその使命とするようになった。
さらに、創世記巻頭には、その風のことと共に、光が創造されたことが記されている。神が光あれ!と言われたことによって光が存在を始めた。
物理的な光の重要性はだれもがすぐにわかる。光がなければ何もできない。歩くことも仕事もすべて光がない闇のなかではできない。また、昼間の光は太陽からきているが、その光がなければたちまち植物は育たず、穀物や果実は実らず、肉や魚も得られない。牛や豚などの肉もそれらの食物である植物は、光を用いて炭水化物を作り、それが生き物の食糧となっている。
こうした光の比類のない重要性は容易に理解できる。それゆえに太陽は、多くの国や民族で神としてあがめられてきた。
しかし、聖書は驚くべきことに、その太陽の創造以前にまず光そのものを創造し、その後に植物が創造され、さらにその後に太陽が創造されたという記述となっている。太陽の比類なき重要性は万人に自明のことであるにもかかわらず、聖書は植物の創造をそれより先に位置づけて植物の重要性を強調しているのである。
そして太陽の光は、最初に創造された光そのものを太陽も受けとったという位置づけとなり、ほかの多数の国々や民族が太陽を神として拝むということを明確に退けるという意図がそこに見られる。
こうした聖書の記述は、物理的な光は、きわめて重要であるにもかかわらず、それにもまして根源的な、霊的な光そのものの重要性をすでに聖書は示しているのである。
これは現代の私たちの状況を鋭く見抜いている。現代は太陽の光以外に人工的な光で満ちている。都会では夜通しさまざまの光が輝き、各自の家庭も不要な光もたくさんあふれている。夜通し開店している必要もないコンビニもわざわざ多量の光を用いて営業している。
そうした光がいかにあふれていても、人間の魂には全く届かない。物理的な光と神の霊的な光とは本質的に異なるものであり、科学技術のいかなる発達もかかわることのできないものなのである。
そして現代のさまざまの人間世界の混乱や腐敗、分裂や苦しみ、悲しみの根源は、そうした神からの霊的な光を知らないし受けとることがないゆえなのである。
使徒パウロは、キリストの弟子としては、ヨーロッパにキリスト教を伝え、それが以後の歴史を通じて、世界史に絶大な影響を与える結果となったのであった。現在の日本においても、その淵源をたどれば、憲法、さまざまの学問、教育、福祉、医療、音楽、絵画…等々広く深くキリスト教の影響を受けてきた。
そのパウロもまた、神の霊的な光を受けるまでは、キリスト教の真理をまったく理解できず、かえって徹底的に迫害していたのだった。それが神の光ー復活したキリストの光を迫害しているさなかに突然受けて、根本的に変えられ、以後は命をかけてキリストの福音をいっさいの武力などは用いずに、ただ神の言葉を武器とし、真理や神からの愛をもって伝えたのだった。
キリストは、「私に従う者は、命の光を持つー闇の中を歩くことはない」(ヨハネ8の12)と言われ、神の霊的な光は、同時に神の命ー永遠の命を持っているのを示された。
単なる長寿は祝福された状態ではない。もし人が、孤独や病気に苦しみつつ、誰からも心からの交流をしてもらえず、はやくその苦しみから終わりたいと願っても寝たきり、あるいは施設での閉じられた空間で影のように長く生きるーそれを誰が幸いだと言うだろうか。
しかし、神が持っておられるような命ー聖書ではしばしば「永遠の命」と記されているが、そのような命が与えられるとき、死後もその完全な滅びることのない命をもって神とともに生きるのだという喜ばしい希望がある。
創世記にはこのように、神からの聖なる風、そして神の命の光を指し示したあと、世界をうるおす水について記されている。
エデンの園はよく知られているが、まず記されているのは次のことである。それは、雨もなく荒涼とした大地の広がるばかりであったがそこに水が地下からわき上がり、地上をうるおすようになった。
さらに、エデンから一つの川が流れでて、園全体をうるおし、さらに四つの川となって世界を潤す流れとなった。(創世記2の6〜14)
ここに、水が水もなく植物もない砂漠のよう状況のただなかに、湧き出る水があったこと、それが世界を潤すものとなったことが物語のように記されている。
これは単なる神話といったものでなく、大いなる霊的な真実を預言したものである。はるか後に、キリストが現れ、まさにキリストご自身からこの世の砂漠に命の水をあふれさせ、それが確かに世界へと流れだしてこの二千年という歴史があった。
主イエスが、次のように言われたのは、この創世記にある記述は、みずからの出現によって成就されたということを示したのだった。
…私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。
(ヨハネ7の37〜38)
はるか数千年の昔から、人間にとって最も重要なものー風、光、そして水という三つのことが、かくも明確に記され預言されていることに驚かされる。
それはまさにこの空しく、真実のない混沌とした世界にあって、聖なる風、いのちの光、さらにいのちの水という三者こそ、私たちすべてが日々必要なもの、もっとも重要なものとなっているし、今後ともその重要性は変ることなく続いていく。
この三つのことを受けるために、必要なことは、ただ聖書に記されている愛と真実な神、変ることなき正義の神を信じ、その神が私たちの根源的問題である罪を赦し清めるためにキリストを地上に送り、万人の罪をになって死んでくださった、ということをただ信じさえすればよいというのである。
(ここでいう罪とは、いわゆる犯罪だけを指すのでなく、それ以前の間違った心の働きをすべて含む。ちょっとした妬みや怒り、差別、弱い立場の者を無視する等々、真実の愛なく、自分中心とその欲望中心といった心の動きをすべて含んだ言葉である。)
そして神からの風、光、水ーそれらこそ、主イエスがはっきりと約束されたように、「求めよ、さらば与えられん」ー私たちが切実に祈り求めるとき、必ず与えられるということは大いなる福音である。
私たちが最も求めているものは何であろうか。たいていの人間の心にあることは、自分が他者より上に立つことである。仕事にしても勉強にしても、スポーツなどにしてもである。
しかし、この今から三千年ほども昔に書かれたものとして伝えられてきた詩では全く異なるものが求められている。
罪を犯した苦しみ、悲しみ、とりかえしのつかない事態となってしまった。正しい道からはずれ、神の真実な道に背いたーという心の深いところでの実感は、神からの警告である。
決定的な悔い改め、方向転換をせよとのメッセージが含まれている。
この詩の最初は、叫びといえる痛切な祈り、願いから始まる。
… 神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。
わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。
あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく あなたの裁きに誤りはありません。(3〜6節)
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この詩は、原文では、まず、「憐れんでください」(ホンネーニ (*))から始まる。
(*)ヘブル語のホンネーニとは、ハーナン(憐れむ)という動詞の命令形であり、「私を憐れんでください」は、「私を」意味する接尾語が付くために、ホンネーニとなる。
外国語訳ではそれがはっきりと表されている。(Have mercy upon me, O God,…) 詩の作者が犯した罪があまりにも重いものであるとき、ただその単純率直な祈り、叫びがまずあふれるように魂の深いところから出てくる。
しかし、現代の私たちにとっては、「憐れむ」という言葉はあまりいいニュアンスをもっていないことが多い。憐れんでくださいーという言葉は、昔乞食が道端で多かったときに、通りがかりの人にお金や食物を願うときに言うような言葉として連想しがちである。
このように、聖書の時代とその人にとっては、きわめて重要な言葉であっても、日本語に訳されたときには、その力を感じさせないということがある。 それは言葉の壁である。時代がはるかに異なり、まったく異なる民族、国での言葉はどうしても現代の日本人には、ぴんとこないというところがある。
聖書においては、神に向っての「憐れんでください!」という祈りや叫びは、この詩篇のように、重い罪を犯したために、生きるか死ぬかという重大なときの祈りとして、また新約聖書では、悪の霊に極度に苦しめられ、火の中、水の中に倒れる、また異邦の女性の娘が悪の霊にひどく苦しめられているときに、医者やほかのあらゆる方法ではどうにもならないため、キリストへの全面的な信頼をもって、「主よ、憐れんでください!」という叫んだことが記されている。(マタイ15の22、17の15)
さらに、生まれつきの全盲の人が、道端に出してもらって、通りがかりの人の足音や話し声が聞こえたら誰彼かまわずに、施しをもらうために立っていた盲人の叫びとしても記されている。
イエスだけは神と同じ方だから、愛と全能の力を持っておられると信じて、周囲の人たちの妨げや、黙れという制止する声をも聞かずに、その積年にわたる祈りと願いを、「主よ、憐れんでください!」という一語にこめて叫んだのである。
とくにマタイ福音書では、同様の記述が、二回重ねて記されている。(マタイ9の27〜31、同20の29〜34)これは、当時の生まれつきの全盲の人の苦しみや悲しみ、あるいは孤独がいかに深かったかをマタイは深く共感し、神がそのように、二重に記すように導いたと考えられる。
こうした人間の最も深い闇からの救いを求める祈り、願いとして、「主よ、憐れんでください!」という言葉がある。この言葉は、ギリシャ語では、「キリエ エレイソン」というが、 こうした聖書の背景のゆえに、ミサ曲では、この言葉が重要なものと位置づけされ、繰り返し歌われる。(*)
それは、ギリシャ語の、キューリエ エレエーソン が、短音となり、キリエ・エレイソンと言われるものである。
(*)キリエ・エレイソンとは、kurie eleison 。キリエとは、キューリオス(主)の呼格。「主は(主が)」という場合(主格)は、キューリオス、「主よ」というときには、キューリエとなり、さらに短い母音になったもの。
エレイソンは、エレエオー(憐れむ)の命令形。
主イエスがとくに取り上げられたのは次のような状況である。
…ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(ルカ18の13)
このように、憐れみを強く願い求める心は、自分の罪深さへの赦しであった。罪の赦しは、最も深い神の憐れみゆえに与えられることである。
「憐れみたまえ!」という祈りは、生きるか死ぬかという生と死をさまよっているような状況で発せられる叫び(祈り)であるから、このひと言の祈り「キリエ エレイソン」は、それを心にあたためつつ賛美するとき、この祈りだけで尽くされる。
憐れむとは、上から見下すようなニュアンスでなく、深い愛から出るまなざしである。長年の苦しみや悲しみをすべてすくい取る愛であり、そこに新たな力を注ごうとするお心である。
私たちはただ、神の一方的な憐れみによって救いを得たのであった。
私たちが何か、大いなる災難や災害、苦しみに出合ったときにも、長い祈りはできない。しかし、この祈りだけは、できる。
「主よ、憐れみたまえ」 と。
… わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。(7節)
この作者は、自分の罪というのは、あとからそのような状態になったのでなく、正しい道から絶えずはずれてしまう、ということは、生まれる前から自分の本性に深くしみついているものだとわかっていた。
人間は、正しいあり方というものや、真実な愛というものは、直感的にだれでもわかるにもかかわらず、実行することができない。嘘つきや盗み、いじめをする人、理由なく暴力や振るったりするのは悪いと知っている。そのようなことをしたらいけないのを忘れていたーなどという者はいない。
それほど、わかっていながら、守れないというところに、原罪といわれるほどに根深いものがある。
… 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。
それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。(*)(口語訳 8節)
(*)この節の訳は、外国語訳や日本語訳のほとんどすべてが、口語訳のような訳となっている。新しい聖書協会共同訳も同様である。
・あなたは心の奥底に真実を望み、隠されたところで知恵を授けてくださいます。(聖書協会共同訳)
・ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。(新改訳)
・You desire truth in the inward being; therefore teach me wisdom in my secret heart(NRS)
・ここで、心の内と訳された原語トゥーホートは、この詩篇の箇所以外では、ヨブ記38の36だけにしか用いられていない。そこでは、この箇所のように「心」の内に知恵を置く と訳されるが、別の訳は「雲」の内に知恵を置く とも訳されている。
しかし、新共同訳だけが、8節を「あなたは秘儀ではなくまことを望み 秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。」というような特異な訳にしている。
ここで、前後の内容を見ても、いきなり「秘儀」とか「秘術」などという聖書にも出てこない言葉が出るのはいかにも違和感がある。こうした訳語はこの箇所の訳を担当した人の個人的な解釈、考えが強くでていると思わせる。こうしたことは折々に見られるので、とくに詩篇のような一つ一つの言葉が重要な意味を持っている文書においては、一つだけの訳でなく、ほかの訳も参照することが重要になる。
… ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。(9節)
ヒソプとは、清めのときに使う植物。雪のように白くーという願いは、この作者が自分の罪による汚れを深く実感していたゆえに、それを根底から清められたいという強い願いがあったのをうかがわせる言葉である。
雪よりも白いーそれは現実にはない、ただ神の完全な清い本質だけが雪よりも白い、と言える。雪は白くともすぐに汚れるが、神の完全な清さはいかなることによっても汚されることがない。
雪よりも白く、神のように完全な清いものとしてくださいーという願いである。
聖書の世界には、どこまでも清くー神はそのような本質を持っていると啓示されている記述がある。
主イエスがただ三人の弟子たちとともに高い山に登ったとき、イエスは太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。
ここで、イエスこそは、かつて預言者ダニエルが啓示のなかで見たことー神は雪のごとく白かったとあるのを、キリストも神と同じ本質を持っているゆえにこのように、十字架刑で死する前にはっきりとイエスの本質が啓示されたのだった。
(マタイ17の2、ダニエル書7の9)
また、キリストの復活を知らせるために来た天使については次のように言われている。
…その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 (マタイ28の3)
ほかにも、キリストの十字架の血によって白くされた人たちなどが、白い服を着ていることがつぎのように繰り返し黙示録で現れる。
…勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
(黙示録3の5)
こうした清められることへの強い願いと、それが実現されることが聖書の重要な内容となっている。
そしてその汚れない姿を常に人間に見せるために、神は罪に汚れないものを、世界の到る所に置かれた。それが自然の風物である。
いつも目にする大空やその雲、青空の青い色、夜もまた完全な清さを象徴する星の輝きを全天にちりばめてくださった。地上では至るところに見られる草木の姿も、それらに咲く花々も、人間にはない清いもの、美しさをまとっている。
山に行けば、そうしたそこで目に入るあらゆるものは、清いと実感する。山々のつらなり、そこに吹きわたる風、ときにたちこめる霧、そして谷川のせせらぎやその透明な水や真っ白いしぶき、高山にある雪、小鳥のさえずり、季節によって咲く高山植物や紅葉などの純粋な美…
人間は罪に汚れている存在であるが、そこから神の国の清い世界へと導かれようとされる神は、到る所にそのような清い世界を繰り広げ、かつその清い姿を無限の神秘で包まれている。
そのようにして清くー白くされることへと招いておられるが、それでも汚れからどうしても抜け出せない人間のために、キリストが来られ、そして十字架において死んでくださるほどに、神は人間を愛して、その汚れー罪からの救いを与えようとしてくださったのを思う。
… 喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。(*)
わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。(10節)
「骨が喜び躍る」このような表現をそのまま受け取るなら何か異様な表現と感じられる。それは骨という言葉が、数千年も昔の、日本と遠く離れたユダヤの地方では現代とは大きく異なるニュアンスを持っていたからである。
骨は体の内部にあって全身を支えるもの、それゆえ人間の奥深い本質を指して用いられることがある。骨が喜び躍るとは、心身が喜びにあふれる、という意味となる。
創世記の最初に、アダムのためにエバが創造され、そのエバを見て、アダムが、「これこそ、私の骨の骨」といったことが記されているが、これもそのままの現代の骨という生理学上の意味として受け取ると不可解な表現としかわからない。これは、このエバこそ、私の内奥で一致する存在だ、ということなのである。
罪のために、厳しい裁きを受けて、心身がたちゆかないほどになった。しかし、どうか神様、お前の罪は赦されたというみ言葉をください。そうすれば、私の喜びは回復するのですーという意味で言われている。
(*)わかりやすく訳された英訳の一つをあげておく。
Oh, give me back my joy again; you have broken me-- now let me rejoice. (NLT)
… 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。(12節)
この詩の作者の強い願い、それは自分の努力や他人の感化などでは到底かなえられないことー魂が根底から清くされることであった。
それは、いかなる人間の力によってもできない。
このような罪の本性は、どんなに科学技術が発達しようとも、教育や生活の豊かさがあってもどうにもならない。人生経験豊かであっても、またさまざまの外国旅行をして経験を積もうとも、それでも変えることはできない。
むしろ、科学技術も教育もなされず、貧しい昔の人々がかえって純真な清い心を持っていたと言えるほどである。
そのために、万物を創造し、かつ現在のそれを維持し、新たな創造を続けておられる神に、私の心のなかに、清い心を創造してくださいーという願いを訴えている。
ここで「創造する」(create)という動詞は、単に「作る」(make)というのとは根本的に異なる。
作るとは、すでに存在するものを用いて別のものを生み出すことである。人間の科学技術はすべて「作る」である。鉱石から鉄などの金属を取り出して、鉄製のさまざまの便利な器具を生み出すこと、これは鉱石も神が創造したものであり、それから鉄という金属を取り出すことも、人間の存在以前からこの宇宙に創造されていた 物理や科学的法則を用い、さらにそうした技術を生み出し、考える頭脳や手足が動くこと、人間の存在そのものーそうしたすべては人間が作ったものでなく、神が創造したものである。
創造とは、無から生み出すことであり、ただ神のみがなす。それゆえこの創造するという動詞 バーラー(ヘブル語)は、聖書の巻頭にある、天地創造のところで用いられている。
イザヤ書においては、つぎのように用いられている。
… 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
以前にあったことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する(イザヤ書65の17〜18)。
この世界がいかに混乱や空しさ、悪に満ちていようとも、時いたれば、神はそれら一切の古きもの、悪の支配を根底から打ち破り、新しい天と地を創造される。
人々は、以前にあったことー昔の罪ふかい人間のこと、悪に満ちたこの世界のことなどを思いだすことはなく、すべてのまなざしは神が創造されようとしている新しい天と地へと向けられる。
そのように、この詩の作者は、自分の心に神の全能の力によって新しい清い心を創造してください、と祈る。そして神の力を堅く信じるゆえに、そのことを確信している。
そして清い霊を創造するのは、神であり、新たな霊を与えられることであるのを知らされていた。
それは、はるか後に現れたキリストのなさったことを預言するものでもあった。
キリストは、復活してまもなく、使徒たちに聖霊を与えることを約束され、そして実際に信じるものに、聖霊を与えて、その魂の変革をされ、力を与えて新しい道へと導かれるようになった。
…ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方はまもなく、聖霊による洗礼を授けられる。(使徒言行録1の5)
このように当時の多くの宗教的指導者が重んじていた、捧げ物とかに関する儀式ではなく、神の霊の重要性を深く啓示されていたこの詩の作者は、同時に、本当の献げものは何であるかを深く示されていた。
今から 数千年も昔から、真の神への献げもの、神の喜ばれるものは、目に見えるいろいろなものでなく、砕かれた心、ただ神のみに向う幼な子のような心であることを知らされていたのである。
…主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。
もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。(17〜19節)
この詩篇51編は新約聖書のあり方と深い共通点を持っている。三千年たっても今の私たちに深く当てはまる。
現代の私たちにおいても、様々な目に見えるもの、あるいは目に見える活動などを神に献げることはできなくても、みずからの罪を知り、神の前にひざまずく心、砕かれた心は誰でも献げることができる。
そして、その罪を赦していただき、清めていただく。このためにキリストが来られたのである。
この詩の作者は、死刑にも相当するような重い罪を犯したため、本当に自分の心の中には良いものがないことを思い知らされた。しかし神様は万能で愛のお方だから、何もない私の心にも清い心を創造してくださる、そして聖なる霊を与えてくださる。
清い心を創造していただき、聖霊を与えられることーこれは私たちの日々の祈りでもある。神が私たちを見られるなら、どんな人間も清くない。パウロも自分のことを土の器と言った。でもどんな汚くても壊れやすくともだからといって絶望することはない。
神は、私たちがただ心を神に向けて、真実に求めるとき、そこに清い心を創造してくださる。
この古き詩は、そのまま現代の私たちの願いや祈りと重なって、私たちを励まし、生かすものとなっている。
〇従来毎年二回発行してきた「祈りの友」の会報(「祈りの風」)は、つぎの春季四国集会の準備のために、今年は、年に一度の発行とし、来年10月発行となります。
「祈りの課題集」は、現在の祈りの課題を会員が知るために、従来通りに今年の4月発行となります。
〇「聖夜ー歌とピアノで綴るクリスマス」CD
北田康広の賛美とピアノ演奏のCDが発売されました。北田康広のクリスマス関係の賛美の歌声と北田自身によるピアノ演奏とを交互に収録しているめずらしいCDです。
曲目は、「もろびとこぞりて」、「ヘンデルのラルゴ」、「ああベツレヘムよ」、「シチリアーノ」、「神の御子は」、「樅の木」、「きよしこの夜」、「主よ人の望みの喜びよ」、天なる神には 新聖歌80番、『G線上のアリア』 作曲:J.S.バッハ 編曲:井上詩織1、天には栄 新聖歌79番、「来れ、異邦人の救い主よ」、「牧人羊を」、「シューベルトのアヴェ・マリア」、「マリヤは歩みぬ」、「グノーのアヴェ・マリア」、「ふるさとを離れて遠く」、「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」、「まぶねのかたえに」、「村の教会」、「みつかい歌いて」、「鳥の歌」、「いざ歌え いざ祝え」です。
購入希望の方は、吉村孝雄まで、メール、はがき、FAX、電話などで申込ください。定価三千円ですが、吉村に申込される場合には、特別価格で提供できます。
(なお北田康広さんが徳島盲学校生時代に、私が放課後に行なっていた聖書を読む会に参加され、短い期間ですが、私たちの徳島聖書キリスト集会にも参加されていました。)
〇春季四国集会のお知らせ
春季四国集会について
以前から「キリスト教四国集会(無教会)」あるいは、無教会四国集会という名称で最初は四国4県、後に香川以外の3県の持ち回りで集会が続けられてきましたが、去年の高知での44回目の集会が最後になる予定でした。
四国集会という名称でしたが、徳島聖書キリスト集会主催のときは、無教会全国集会を兼ねての開催も三度あり、広く北海道から九州までの参加者も加わる集会となっていました。
来年から、キリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会との共催で、新たな合同集会(「春季四国集会」)としてはじめられることになりました。
キリスト教独立伝道会は、以前から、1月に伊豆半島や横浜で数日の期間で、冬季聖書集会、夏には、子どもたちのためのバイブルキャンプ、そして大人の夏期聖書集会が開催されてきました。 しかし、それは関東地域でしたので、来年から関西地域にも開催場所を新たに設けてはじめることになりました。
そこで、以前から四国集会という名称で長く続けられてきた徳島での開催ということになり、新たな集会の名称は、従来からの独立伝道会主催の冬季、夏期の集会に続く春季の集会ということと、以前から続けられてきた四国集会の延長上にあるという意味を兼ねて「春季四国集会」という名称が、キリスト教独立伝道会によって決定されました。
・日時…2020年5月9日(土)13時〜5月10日(日)16時
・場所…サンシャインホテル 徳島(2016年5月に無教会のキリスト教全国集会が開催されたのと同じ会場です。)徳島市南出来島町2丁目9
電話 088-622-2333
・まだ、プログラムの概要が決まった段階ですが、従来の四国集会との違いの一つは宿泊は、各自が直接に、会場のホテルあるいは、航空機の場合は、ホテルとセットでの予約など、都合のよいホテルなどに予約していただくということになったことです。そのため、参加希望の方で、ホテルでの宿泊を希望される方は、早めに宿舎の予約をしていただいたほうが確実と思われます。
それから、会場の都合などもあり、ほとんどのプログラムは、全体会場のみで開催する予定です。(今後、若干の変更はあるかもしれません。)
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(参考)春季四国集会を共催することになったキリスト教独立伝道会の活動について
http://www7b.biglobe.ne.jp/~dokuritsudendoukai/
各地の集会に、随時伝道者を派遣して集会がなされていますが、昨年2019年の、キリスト教
独立伝道会主催の講演会、夏期、冬季の集会については次のようなものがあります。
@公開平和講演会 ■講演者 崔 善愛(チェ ソンエ)氏
崔 善愛(チェ・ソンエ)は、在日韓国人のピアニスト。父は牧師で人権活動家の崔昌華。 北九州市出身。愛知県立芸術大学、および大学院修士課程修了。 後に米国インディアナ大学大学院に3年間留学。 現在、ピアニストとしての演奏活動のかたわら、全国各地で「平和と人権」をテーマに講演をおこなっている。
■日時 2019年9月23日(月・祝) 13:30〜16:30
■会場 日本キリスト教団 信濃町教会 (2F)
A2019年第22回夏期聖書集会…テーマ「主を喜ぶ」
8月10日(土)〜12日…
■会場 日本バプテスト連盟 天城山荘
■主催 キリスト教独立伝道会
■聖書講話−わたしの杯をあふれさせてくださる主−講師 関根義夫(浦和キリスト集会代表)
B2019年公開講演会
「過剰の時代をこえて」…■日時 2019年4月29日
D第21回冬期聖書集会…テーマ「赦し」
2019年1月12日(土)〜14日(月)
垣塚 千代子姉の納骨式
十一月十七日(日)の主日礼拝とそのあとの納骨式に、召された垣塚 千代子さんの親族の方々9名が、神奈川や大阪、徳島から参加されてよき記念のひとときが与えられて感謝でした。
垣塚千代子さんはこの「いのちの水」誌の前身であった「はこ舟」誌の創刊号をガリ切りで印刷してくださったことでした。最初号から深い関わりをもっていた方でした。
その後、七十年近くたってそのご親族が私たちの主日礼拝に参加され、納骨のときを集会員とともに眉山の山中にある、県下の教会の合同の納骨堂の前で、御言葉と賛美と祈りをもって納骨することができ、その長い歳月をとおして導かれた神に感謝です。