「いのちの水」2019年12月号

 

いと高きところに栄光神にあれ

地には平和、御心にかなう人にあれ。(ルカ福音書214

  目次

クリスマスを迎えて

クリスマスの意義

神の力と軍事力 ー詩編76 3

  休憩室宵の明星

 編集だより

お知らせ

冬期聖書集会、

春期四国聖書集会

 

リストボタンクリスマスを迎えて

 

キリストは太陽のよう

どんなに曇り、大雨や嵐となっても

再びその姿を現し、私たちに光と熱を与えてくれる。

この闇と混乱の世にあって、しかも確実に死というものが訪れる人間において、

いかに闇深くともそこに輝き、

死をも復活に変える力ある御方。

 クリスマスを迎えて、改めてキリストが私たちのところに来てくださったことを感謝しよう。

 そしてさらに、この世のあらゆる人たちのところに太陽のようにキリストの光が及び、人々がその光を受けいれるようになりますように。

 

 

リストボタンクリスマスの意義

 

クリスマスは、イエス様の誕生日だ、イエス様おめでとうございます、と幼稚園など幼な子たちのところでは言われることが多い。

 しかし、ふつうの人間の誕生日祝いとは本質的に異なるのが、イエスの誕生ー降誕を記念するクリスマスである。

 クリスマスとは、英語では、Christmas であり、Christ(キリスト)と mass(ミサ)の二つの言葉から成っていることからもすぐにわかるように、キリストを礼拝することであって、サンタ・クロースの日でもなければ、キリストにおめでとうということでもない。

 この世に来てくださったキリストを礼拝するーそのためにはどのような御方であるのかがわからないと本当の礼拝にはならない。

 礼拝と、心の真実と愛をもってすることだからである。

 まず、キリストがこの世に生まれたのは、何のためなのか。

 それは、明確であった。万人のもっとも深い問題である心のゆがみ、汚れ、愛なき状態(罪)を赦し、その罪の力から救いだし、さらに、そうして救われた魂に、聖なる霊を与え、神の言葉を与えて、本当の心の幸を与え、御国のために生きるようにさせるためであった。

 それは、人間の道徳的な力や教育や文化などでは不可能であるゆえに、神はキリストを極悪人と同じように十字架でさらしものとされつつ、処刑されるという、考えられないような道によってなされたのだった。

 そしてそのキリストの十字架での死は私たちの罪の赦しのため、救いのためになされたと単純に信じるだけで、不思議な魂の平安が訪れるーこれがキリストの福音と言われる根本となっている。

 私自身も、大学4年の5月末のころまではそのようなことは全く聞いたこともなく、およそ愛の神などには無関心であった。

 しかし、私の関心のあるなしにかかわらず、それは一方的な憐れみによりなされるので、私も本当の幸いを知らされるに至った。

 そしてこの魂の幸は、数千年間、世界の無数の人たちの心に流れてきたのも知らされた。

 スイスやイギリス、デンマーク、ギリシャ、スエーデン、ジョージア(旧名グルジア)等々ヨーロッパの国々に十字架を用いた国旗が多いのも、キリストの十字架の重要性による。

 

 そしてその十字架の真理は現代にも生き続けている。

 そのようなキリストであるゆえに、イエスはその誕生のときから、苦しみがつきまとっていた。

 主が生まれたのは、悪王として名高いヘロデ大王のときであって、イエスの誕生が新たな支配者、王になるかも知らないと恐れたヘロデは付近の乳児を皆殺させたと伝えられているほどである。

 そして最初のユダヤ人の会堂での説教から、ユダヤ人たちに敵対視され、崖から突き落とされようとしたと記されている。

 そして当時の支配者たとからも憎まれ、ついに捕らえられてののしり鞭打たれ、十字架で釘を打ちつけられてもだえ苦しみつつ地上の生涯を終えられた。

 キリストを礼拝するとは、そのような苦難の道をたどって人類のために死なれたキリストを思い、感謝をし、記念することであり、そこから新たな力を与えられることである。

 おめでたい、ということとはほど遠く、生まれたときからキリストは苦難の道を歩むことが示されていたのである。

 それはマリアも同然で、偉大な人間になる人を産んだというような誇りなどまったくなく、次のように予告されたのだった。

 

…この子は多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められている。

 あなた(マリア)自身も剣で心を参加者貫かれる。       (ルカ福音書2の3435より)

 

 クリスマスの讃美歌というと喜びと明るさに満ちたものを連想しがちであるが、そうした喜ばしい賛美とともに、こうしたキリストの苦難とその使命を歌うものもさまざまのものがある。

 次の讃美歌もその一つである。

 

1 この聖き夜に、

  われらに代わりて

  苦しみ負うため、

  御子は生まれたもう。

  キリエレイソン。

 

2 この夜 世界は

  よろこび祝えど、

  馬小屋の御子の

  ゆくては十字架。

  キリエレイソン。

 

3 こよい誰か知る、

  まぶねのかたえに

  墓は備えられ

  死の日を 待てるを。

  キリエレイソン。

 

4 貧しき ふしどに

  まどろむ みどり子、

  その身に負いたもう

  われらの審きを

  キリエレイソン

       (讃美歌21273

 

 私たちもまた、クリスマスを迎えて、私たち人間の究極的な救い主として来てくださったキリストを感謝して思い起こしつつ、この12月を過ごしたいと願っている。

 

 

リストボタン神の力と軍事の力ー詩篇第76編

 

神はユダに御自らを示され、

イスラエルの御名の大いなることを示される。 (2節)  

 

 この詩編では、冒頭に啓示の重要性を述べている。

 真理は、神が直接に示すことによって知ることができるということを最初に述べて、以下に述べることもそうした啓示によることが示されている。

 詩篇ではたびたび並行法が用いられて、一行目と二行目は言い方を変えてほぼ同じことを繰り返している。

 ここでもそれが見られる。ユダもイスラエルも、前者は南北に分裂してからは、南の王国、後者は北の王国を表すが、共に神の民を表し、御自らと御名も同じことを言っている。

 神の本質は、考えたり人間の経験でわかることでなく、天からの啓示を受けないと理解できない。これは現代も同じである。

 ほかのさまざまのことは、努力や生まれつきの才能があれば分かっていくことが多いが、神のご自身の本質は、そうした才能や経験、努力があっても分からない。かえって神の愛とか真実など存在しないとかたくなになる場合も多い。

 それゆえに、神の愛や真実、その清い本質を示されるということに関しては、上よりの啓示を待ち望まねば与えられないという同じスタートラインに立っているのである。

 学問もよい行いもなく、イエスとともに十字架で磔にされた男は、最期のときに、イエスこそは神の子であり、神の力を受けているゆえに殺されても復活して神のもとに帰ることを知っていた。イエスの復活は、3年間もイエスの奇跡や与えられる教えを聴いていた12弟子たちさえ、信じることができなかったのである。

 それが、十字架刑を受けても当然だと本人が言っているほどの悪人とされた人が深く信じることができていた。これこそ、まさに啓示であり、啓示はこのように、いかなる無学な人でも、重い罪人でも注がれるのである。神が直接に示そうとされたら、どんな人でもはっきりと分かる。この点で私たちには絶望はない。

 

…神の幕屋はサレムにあり、

神の宮はシオンにある。(3)

 

 幕屋とは荒野をさすらっていたときに立てた大型のテントである。さすらいの生活が終わって、エルサレムに固定した生活をしたときに神の宮を建てた。だから幕屋も宮も神の言葉をおさめてある礼拝の中心とみなされている。シオンはエルサレムにある丘の一角であり、サレムというのは、シャローム(平和、平安)という語と関係があり、これはその元になっている動詞シャーレム、完全に満たすという意味を持っている。

 聖書における平和、平安というのは、戦争がないといった消極的な意味ではなく、神の恵みによって満たされた状態が基本にあり、その中に神の豊かさ、静けさ、神の平安、国や地域の平和、繁栄などさまざまな意味を含んでいる。

 

…盾と剣を、そして戦いを砕かれた。(4

あなたが、光を放って力強く立たれるとき

力ある者は、皆 打つ手を失った。(6

ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、

戦車も馬も深い眠りに陷った。(7

 あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。

怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。(8

あなたは天から裁きを告げると、

地は恐れて鎮まった。  9

 

 ここには、武力の無意味が数千年も昔から明確に記されているのに驚かされる。昔から現代に至るまで、歴史を見ても、権力を持つ者、大きな帝国を支配する力はみな武力でなされてきた。

 現代においても、軍備競争が、かぎりなく続いていて、宇宙空間さえもその軍備の重要な場として用いられつつある。このように国を守るためには、軍事力が当たり前というのはあらゆる時代に広く行き渡っていて、いかに教育や文化が発達しても止める根本的な思想は生まれないし、ひろがらない。

 しかし、聖書のこの詩編の作者には、はるかな古代に、神こそは、そうした武力の効力を失わせる存在であることを啓示されていた。

 いかに軍事力を増強させようとも、その力を止めることができるのは神であり、全能の神は、そのような人間が作り出した兵器の力を常に完全に支配できる御方なのだと示されたのであった。

 力ある者、戦士、戦車、馬の力を失わせ、眠らせる。啓示によって、実に強い神の力をこの詩の作者は見た。この世の戦争や支配、攻撃はたちまち神の力によって眠らされるという確信を得た。

 どんな強大な力でも、神のご意志によって必要とみなすときに 神は立ち上がり、力を奪い、悪しき力を眠らせてしまう。

 現代に生きる私たちにおいても、この詩のメッセージは生きてはたらいている。神は、このように神の力は絶大であるからこそ、その神を信じるなら、あなたに対抗できる者は一つもないということを語りかけているのである。

 この詩から千年ほども後になって、イエスは次のように言われた。

 

…「あなたの剣をもとの所におさめよ。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」

              (マタイ2652

 この詩編の作者にはイエスが語ったと同じように、武力の空しさと、武力を用いて権力を求めようとする者への神の裁きの力を啓示されていたのである。

 

…神は裁きを行うために立ち上がり、

地の苦しむ人をすべて救われる。(10

憤る者さえあなたをたたえ、

怒りを免れた者はあなたを祝う。(11

  

 神が立ち上がるときーその力を発揮されるときには全地は鎮まるが、その大いなる力をもって、苦しむすべての人を救われる。このように、旧約聖書からすでに、神は弱い者、苦しむ者を神様はずっと見てくださっていることが分かる。

 そして、新約聖書のキリストの時代以降は、このことが死後の復活ということが与えられることによって、いかなる苦しみや痛み、死を越えて、たしかに神は立ち上がってそのような人たちを顧み、復活させて永遠の平安のもとへと伴い行くことが約束されることになった。

 

…あなた方の神、主に誓いを立ててそれを果たせ。

神を囲む者たちは皆

恐るべき方に捧げ物を持って行け。(12

 

 誓いを立て、それを果たせ。というのは神様を礼拝し、与えられた御言葉にしたがって生きよ、ということであり、それは、イスラエルの民だけでなく、世界のすべての者に言われている言葉だとわかる。

 神への最大の捧げ物とは、砕かれた心、真実な心であり、神にそうした心のささげものをささげよ、ということである。それによってさらに神の力を新たに私たちもいただくことができる。

 

 

リストボタン休憩室

 

最近夕方五時半ころから、西空には強い輝きの金星が宵の明星としてみえています。

 長い間私たちを見つめ続けるように輝いていた木星が見えなくなってきましたが、そのかわり、金星がみえるようになりました。

 だれでも直ちにわかるほどの明るい星です。最近は空気が澄んでいるので、とくにその光が印象的で、夜明けに輝く金星を古代のキリスト者たちが、再臨のキリストを象徴的に示すものとして見つめていたのだと思うと、あの輝きの背後に、迫害を受けつつキリストを仰ぎつつ希望を持って耐えた無数のキリスト者たちの祈りと願いが浮かび上がってきます。

 なおその金星のすぐ上方近くに土星がみえています。金星の強い光に目立たないですが、金星のすぐ近くなので見つけやすい位置にあります。

 

 

リストボタン編集だより

 

    読者からの来信より

 

・詩編51編の悔い改めの詩編を、いのちの水誌で学ぶことができました。

 キリストの復活を知らせるために来た天使の衣は雪のように白かった。

そしてイエス様の変貌の山で衣が光のように白くなったと書かれていました。

 そして勝利を得る者はこのように白い衣を着せられる。

本当に自分の行いによらず神様の憐みにより白い衣を着せていただける、本当にありがたいことです。

 日々 主に感謝して御名を呼び 歩いていきたいです。(九州の方)

 

・…生きることに万策尽きたとき、神様は手を差し伸べてくださいました。この間、神様は、私のすべてを見守っていてくださったのです。

 状況はなにも変わらない最悪の状態なのに、心に満ちる不思議な平安。

 どん底こそ、苦しみのどん底に落とされることこそ、そのときこそ、神様にお会いできるとき、賜物を受けるとき。この満ちてくる喜びにあずからせていただくためにこの苦しみのときを与えてくださった。

 さまざまの闇が紙一重で、光が射し込んで平安と喜びに瞬時に満たされました。

 日々の生活のなかで、祈りを許されているさいわいとご恩恵に満たされています。明日のことを考えると不安に落とされますが、明日のことを心配せずとも、今日を、今を真剣に生きればよいのだ、と声なき声にはげまされます。(近畿の方)

 

 

リストボタンお知らせ

〇クリスマス特別集会…1222日(日)10時〜14時。会費(弁当代金)五百円。場所は徳島聖書キリスト集会場。問い合わせ 吉村孝雄(奥付にE-mail、電話番号などあります)

申込先 

 なお、都合で午前だけの参加の方は、会費は不要です。

 いつもの日曜日の主日礼拝は、午前1030分からですが、クリスマスの集会は、10時からですのでご注意ください。

 

〇第22 回冬期聖書集会

・期日…2020年1月11日(土)14時開会〜13日(月・休日)13時解散の二泊三日

・会場…神奈川県 上郷森の家

・交通…JR大船駅より神奈川中央バス 金沢八景 行き、京急金沢八景駅よりJR大船駅行き、上郷ネオポリス行き、及び、庄戸行きで、「上郷・森の家」下車徒歩7分ほど。バスの所要時間は、約30分

・テーマ…「主のまなざし」

・講師…吉村孝雄 

・申込先…

電話 090-7183-1214

・申込締切り …2019年1214日(部分参加などはこの締切りを過ぎても参加できる場合がありますので、小舘さんに問い合わせてください。)

・会費…大人17000円(2泊6食)、学生5千円、日帰り参加 千円(一日)+食事代

 

〇春期四国聖書集会

・テーマ…「祈り・感謝・賛美ー主の導き」

 誰にでもあるさまざまの生きることにかかわる問題ー健康に関すること、学校、職場、家庭などにおける人間関係、仕事における悩み、愛する者を失った悲しみ、そして老後の病気や介護の問題、憲法や原発、沖縄などの社会的な問題、そして最後に死が近づくときの苦しみや悲しみ…この世は、つねに荒波が打ち寄せ、人間を呑み込もうとしている状況で満ちています。そのようないかなる状況にあっても、必要なこと、またそうせざるをえないことが祈りです。祈りによってそのような問題を越えていく力が与えられるからです。

 そして、祈りは他者との交流のもとになります。さらに、その困難や闇の中からでも感謝や賛美のできる心へと変えていただきたい。それは人間的な考えや思いでは到底できることではなく、主の導きによってのみなされます。今回の集会によって、一人一人が少しでも主に近づけられ、聖霊と御言葉を受けて、祈りと感謝、賛美がより深くされ、私たちが神の国のためにはたらくための力を与えられるのを願っての主題です。

 この集会は、キリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会の共催で、今回初めての開催です。従来は伝道会主催の集会としては、関東地域において、お知らせにも書いた冬期聖書集会、そして子供キャンプも併設した夏期聖書集会が続けられていましたが、今回初めて、関西地域に含まれる四国においてキリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会との共催で、キリストの福音を中心とした集会がなされることになりました。

 

・期日…2020年5月9日(土)130010日(日)1600

・会場…ホテル サンシャイン徳島  電話088-655-5252

(徳島駅から歩いて10分以内です)

 

・講師…秀村弦一郎(福岡聖書研究会代表)、西澤正文(静岡県清水聖書集会代表)、小舘美彦(春風学寮長)、吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)。

 それぞれ30分程度の短い時間ですが、テーマに関しての御言葉からのメッセージがなされます。

 

・内容…聖書講話、北田康広夫妻によるピアノと賛美の歌の時間、多くの方々による証し、交流、祈り、そして多様な賛美の歌を全員で歌うこと他。

 

・証しについて…最初のキリスト教の福音伝道は、イエスが復活したということの単純な証言でした。その単純な証しに聖霊の力が加わるときには、いかなる迫害をも越えて福音が伝わって行ったのでした。使徒パウロも、使徒言行録において、みずからが復活したキリストによって、キリスト教の迫害者から根本的に変えられ、福音の伝道者とされたことを証ししています。

 その意味でもキリスト教の集会にとって常に証しー自分が何をしたかでなく、主が何をしてくださったかーは重要な意味を持っています。

 証しは、単純であり、議論や研究発表ではないため、短い時間で可能ですので、今回は地元の人も含め、多くの方々にしていただく予定です。

 

・音楽プログラム… 9日(土)の午後には、全盲でピアニスト、バリトン歌手である北田康広さん(徳島県出身)のピアノと賛美の歌の時間が1時間あります。 また、キリスト教讃美歌・聖歌以外のだれもが親しめる日本の歌も一部含まれる予定です。

 

 以前には、東京での無教会の全国集会においても、北田さんご夫妻が歌とピアノで出演されたことがありました。

 歌の伴奏は奥様の陽子さんが担当予定。お二人とも、武蔵野音楽大学卒。北田さんは全国各地の教会・集会で多くの賛美やトークの奉仕をされ、さらにご自身の視覚障害という経験を通して福祉関係の講演などもされてきた方です。

 音楽の響きは言葉では表現できない天の国からの霊的メッセージを伝えてくれることがしばしばです。言葉では入らない天の国からの風が暗い心、悩める魂に吹き込んでくることがあり、それによってそこから立ち上がることにつながることもあります。

 そして賛美の歌は、神の言葉が中心となっているために、音楽と御言葉の双方によって私たちの心に入ってくることができます。

 聖書にも、この世界には神からの響き、霊的音楽というべきものが世界に流れていることが今から数千年も昔から次のように記されています。

 

…話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19より)

 

 なお、北田さんが今までに出されたCDには「小鳥が空を」「藍色の旋律」「人生の海の嵐に」、さらに今年11月に発売されたクリスマス関係の讃美歌・聖歌とピアノ演奏を内容とした「聖夜」他があります。このうち、「人生の海の嵐に」は、東日本大震災で被災された方々への励ましをも込めて作成されたもので、多くの方々からの申込があったCDでした。

 

〇「聖夜」クリスマスCDのお知らせ

 前月号にすでにその内容を記しましたが、北田康広さんのピアノ演奏とクリスマス関係の讃美歌・聖歌が内容です。クリスマスの讃美歌として世界で広く親しまれているもの、また心にさわやかな流れを注いでくれるピアノ演奏が交互に含まれる異色のCDで、すでに購入して聞いた方々から好評を受けています。

 ピアノ演奏が半分の内容なので、クリスマス以降も、単に地上にイエスが家畜小屋で生まれたことの記念の歌としてでなく、キリストが私たちの内に生まれてくださることを願って聞くときには、いつでも聞けるCDとなります。

 定価は三千円ですが、吉村孝雄に直接に申込されるときには、特価でお送りすることができます。

◇CD「聖夜」の感想から (CDに同梱の冊子から引用させていただきました)

・きき終わった瞬間、心に喜びにふるえて思わず「なんてすてきなCDなんだ!」と叫んで一人で拍手をしていました。北田さんの讃美歌とピアノ演奏が交互に響いて… 讃美歌の選曲と配列は私にとって申し分なく、神の御子イエスさまの誕生を物語、その聖誕劇をつなぐように、選び抜かれた名曲のピアノ演奏が心地よく心に響いてきます。 私にとってクリスマス讃美歌集のゴールデンディスクとなりました。(阿佐光也/ 日本盲人キリスト教会伝道協議会副議長、日本キリスト教団新泉教会牧師)

 

・このたび、北田 康広さんが出されたクリスマス向けのCDはほとんどの人たちが一度は聞いたことのあるなじみ深い曲目ばかりです。また歌とピアノ演奏が交互に収録されていますので、とてもききやすい構成になっています。

 拝聴させていただいたなかで、とくにシベリウスの作品は北田さんの豊かなピアノの音色が美しく、ほっとさせてくれるもので、殺伐とした人の世に神様の平和を持って来てくださった主イエスの存在を思わせてくれました。クリスマスシーズンにぜひ聴いていただきたいCDです。(安藤能成/いのちのことば社理事長/福音讃美歌協会元代表理事)

 

・北田康広さんの演奏を聴くと、「明るさ、楽しさ、心地よさ、平安、喜び、安心、包容力、感謝」といった気持ちが湧いてきます。…このアルバム(CD)には、ご本人による声楽とピアノ演奏とが交互に収録されていますが、どちらも一流なのです。

 北田陽子さんと全国各地で演奏活動を展開しておられます。その息の合ったアンサンブルに高い定評があるのは、「音楽」と「障がい」の二つを神様からの贈り物として感謝をもって受け止める、北田さんの信仰が基盤にあるからです。

 ご降誕を祝う楽曲を集めたこのクリスマス・アルバムは、神の自愛と恵みを届けてくれることでしょう。(東京都新宿区 牛込キリスト教会牧師/ カリフォルニア神学大学院日本校学長)

 

〇春期四国聖書集会に参加希望の方は、春の過ごしやすい季節なので、宿舎がはやい段階で予約できなくなる可能性が高いので、早めに、宿舎を各自で予約されますようにと願っています。

 今回は、従来徳島での全国集会や四国集会とは異なり、東京での全国集会のように、宿舎は各自が予約することになっていますので、ご注意ください。

 

〇今月号、一頁のイエスの誕生のカットは、大分市の秋月正明さん作です。

 

〇クリスマスを迎えて、聖霊と御言葉の祝福が豊かでありますようにと祈ります。

 この一年間、多くの方々からの協力費、そしてお祈りをありがとうございました。

                   

 リストボタン徳島聖書キリスト集会案内