いのちの水 2019 年1月 号 695号
わたしたちの外なる人は滅びても、 内なる人は日ごとに新しくされていく。(Uコリント4の16) |
目次
・命の言葉 |
・休憩室 |
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旧約聖書の詩ー詩篇や預言書の一部に含まれる詩には、しばしば「新しい歌」という言葉がみられる。
それは、作られたばかりの時間的に新しい歌ということでなく、神によって新しくされた魂からの歌である。
この世の暗闇ー悲しみや苦難の数々あるただなかにおいて、そこから救いだされるとき、あるいは、直接その困難な状況が変わらずとも、その魂が新たにされるならば、そこにそれまで見えなかった神の愛が実感され、その力が与えられるゆえに、おのずと新しい歌が生まれる。
…主は、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
多くの人は 主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む。(詩篇40の4)
そしてその経験は、自分だけでなく、さまざまの人々が共有する体験だと知らされるゆえに、このように記されている。
じっさいこの詩は三千年ほども昔に作られたものとして伝えられているが、それ以来、無数の人々によって、新しい歌が歌われてきた。神を仰ぎ見、主をおそれ敬うこと、その主に信頼していきることが、さらに新しい歌を生み出し、世界に伝えられてきた。
…新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。(イザヤ書42の10)
この聖句も、神によって救われ、その光を受けた者は、地の果てー世界に増え広がることが言われている。二千五百年ほども昔にすでに預言されていた。
学問とか地位、この世の権力とか関わりのない漁業や船乗りたち、そしていろいろな都会的な文明から離れた島々にあってもこの新しい歌を歌うようになることが予見されている。
そしてこの新しい歌とは、人に聞かせるためでなく、大いなる救いの業をなしてくださった神に対して歌うことが言われている。
…神様、私はあなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたおう。(詩篇144の9)
…ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。(詩篇149の1)
キリスト教の讃美歌は、こうした古くからの新しい歌を歌おうということの流れから生まれたものである。
この世の歌が、人間的思いから出て、人に向かって歌われるのとは対照的に、神によって救われたものの魂から生まれ、神に向かって歌われるものゆえ、神から出て神に向かうというべきものである。
新しい年を迎え、私たちも数千年前から言われているこの「新しい歌」を日々 歌えるように導かれていきたいと思う。
この世界では、常に新しいものに関心が集まる。日毎に新たな政治や社会の出来事も起こり、事件、災害が生じる。
それらを知らせるニュースは、関心を引く。そしてまた次の日には別のー目新しい出来事に関心が集って、それまでのニュースはもはや関心は持たれない。
ニュースは事柄が重要でなくとも、珍しいというだけで、報道される。昔から言われるように、犬が人間を噛んだといってもニュースにならないが、逆に人間が犬を噛んだといえば、ニュースになるーといわれたりするほどである。
そうした新しさを次々に追いかけていっても、それを受けとる人間の本質は変わらない。 かえって、悲劇的な事件などを詳細に知らせるニュースなど、そんなことは、当事者たちにとっては、何の励ましにも力にもならないでかえって関係のない人たちによけいな詮索をされることで迷惑なことにもなる。
犯罪事件など、詳細に知らせるほど、かえってそのような悪の力やそのやり方を見せつけることになり、悪しき風が見る人の心の中に吹き込むことにつながり、心の病んだ人の犯罪を誘発することもある。
友情にも、見せ掛けの、一時的な友情と、何があっても変わらない本当の友情があるし、真理と思われているものも、やはり一時的に真理と思われているだけのものと、本当の真理ー永遠の真理がある。
美にも、化粧や衣服、あるいは生まれつきの美貌といった表面的な美しさと、そうしたことによらない、その人の魂からにじみ出る本当の美しさがある。
自然というものも、作られた自然と、人間の手の入っていない本当の自然がある。
愛という至るところで見られる言葉ーいろいろな歌や詩歌、小説などの文学、演劇等々でも繰り返し出てくる言葉も、そのほとんどは、本当の愛の影にすぎない。
そうした愛は、どちらかの側の不信実とか事故、病気などでたちまち変質し、あるいは憎しみに変ったり消えていくからである。
このように、この世のさまざまのことは、みなみせかけのものであり、影のようなものである。「本当の」という言葉を付けねばならない。
私たち自身も、せいぜい90年もすれば、みな消えていく影のような存在である。
ここでも、「本当の私たち」というものに変えられるならば、永遠に消えることのない存在となる。
このような新しい世界を聖書が指し示している。それは、過ぎ去っていくことのない、新しさである。
そのような新しさがあるということは、まったく私自身も知らなかったし、周囲の何人も語ったことはなかったし教えられることもなかった。
その真の新しさを知るためには、まず自分自身が、新しく生まれる必要があった。
自分が新しくなると 周囲も新しく感じられるからである。
その自分が新しくなるためには、私たちが自分の本質を知ることが出発点となる。
私たちが、その魂の深いところで、真理、良きこと、美しいことから大きくそれていることー言い換えると自分の罪を知ることが不可欠となる。
それは、聖書の言葉ー神の言葉によってなされる。私自身ふりかえってみても、人間の言葉ー思想や意見、考え、学問等々によっては、考え方が広くなったり、より正確にいろいろなことを知るようになったりしたが、魂の本質は全く変えられなかった。
しかし、聖書のほんのわずかの言葉に接して、私はそれまでの狭い自分中心の世界から、永遠の世界、人類の根底を流れてきた壮大な真理の流れを初めて知らされた。
それは、自分の罪深い本質を知らされるとともに、そのどうすることもできない罪深さを赦してくださり、ただ、キリストが十字架にかかって私たち人間の罪を背負って死んでくださったーということを信じるだけで、本当の新しい世界へと招き入れられたのだった。
そのことは、次の聖書の言葉に表されている。
… だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(*)(Uコリント5の17)
(*)「キリストにある」は、新共同訳では、「キリストと結びついて」と訳されていた。 しかし、原文のギリシャ語では、「キリストの内にある」en christo であるから、ほとんどすべての各種外国語訳でも、そのように訳されている。英語では、in Christ ドイツ語では、in Christus、フランス語 en Christ 。英訳で私が参照した、数十種のなかで一つだけが、次のように、新共同訳と同じ表現 「結びついて」と訳している。 united with the Messiah (The complete jewish Bible)
それゆえ、2018年12月に出版された新共同訳の改訂版と言える聖書協会共同訳では、以前のように「キリストにある」と訳が変更されている。
このようなことからも明らかなように、翻訳は、神学的な新たな知見から変えられるだけでなく、少数の翻訳担当者の考えによっても変えられるのであって、その訳だけをみるなら、どちらが正しいのかあるいはより原文に近いのかがわからなくなる。そのために、原語がわからずとも、英訳なども複数参照することで、原語のニュアンスにより近づくことができる。
キリストの内にあるためにはどうすればよいのか、それはただ、キリストを私たちの罪を担って十字架で死んでくださったと、信じるだけでよい。
あるいは、福音書に記されている例で言えば、キリストは絶大な力を持っている、神と同質の御方だと信じるだけでよいのである。
それは、つぎの記述からもわかる。
中風の人を四人が運んできて、イエスのもとに連れて行こうとしたができなかった。それゆえに、屋根をはがしてその中風の人をイエスの前につり降ろした。このような非常識とも思える仕方で、イエスは、人間にできない神の力を持っておられると信じるとき、イエスは、その中風の人の病を癒されたのだった。
…イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦された」(マルコ2の1〜5)
罪赦されるときには、私たちがキリストの内にあるための妨げはなくなるゆえに、おのずからキリストの内に置かれる。
ーキリストは聖なる霊であり、どこにでも風のように吹いていく。ドアに鍵がかかっていてもそこから入っていくことができる。(ヨハネ福音書20の19参照)
私たちがキリストを救い主、全能の神の子と信じるとき、ただそれだけで、キリストの内に置かれる。
そして、新しくされた者は、新しい視点で、さらに普通の人には秘められた目には見えない世界ー霊的世界に目を開かれる。
それゆえ、殺されるという極限の状況にあっても、そこで開かれた新たな世界とそこから与えられる力と平安によって、その人の人生において最も光輝く瞬間にさえなる。
その実例が、人々の全くの誤解によって石打ちで殺されたステファノである。彼は、死ぬ間際に、天が開けて神と復活されたキリストが見えたと記されている。
そして、そこから新たな力が与えられ、憎しみと殺意に燃える民衆のただなかにあって、主の平安を保ち、そこから周囲の人たちへの祈りをもって地上の命を終えたのだった。
あるいは、水野源三のように重いからだの障がいを持ち、ものをいうこともできず、寝たきりであった人でさえも、霊的に新しくされたゆえに、つぎつぎと天の国からの清い風を受け止め、それを詩のかたちで周囲に注いでいくことができたのだった。
当時は車いすも車もなく、ただ家族、親族のごく一部の人が折々に持ってきてくれる野草の花や狭い部屋からのぞまれる田舎の風景や大空といった程度しかない。
それでも、数本の野草の花とか木々の枝に咲く星々、そのきわめて限定された自然であっても それが一つの窓となって数多くの詩が生まれた。
神、そして復活したキリストは聖なる霊となっていて、神と同質の存在であるゆえに、キリストは、愛であり、また無限に高く、清く、また美しい存在である。
そのキリストが私たちの内に住んでくださるときには、そのキリストが必要なことを教える。
…「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(Uコリント 4:6)
これは、聖書巻頭に記されている、闇と荒廃、空虚のただなかに、神が光あれ! 言われたときに、光が存在するようになったということが、たんに遥かな昔の天地創造のときだけのことでなく、いまも生きている私たちの内に実現する真理であると言おうとしている。
神が私たちの内に、光あれ!と言われるとき、それまでどんなに学んでも、経験してもわからなかったことがわかるようになる。キリストの御顔に輝く栄光とは、キリストが持っておられる完全な愛や清さ、力、真実などを意味していて、そういったものが、わかるようになるというのである。
無限のものに触れるとき、それは古びることのないものゆえ、つねに新しいものを感じる。
夜空の星は、数千年も昔から同じ輝きである。しかし、その光を見つめているときには、何か祈りに誘うもの、御国からの語りかけといったものが感じられるようになり、いくらそれを毎日見ていても見飽きることがなく、日々新たな何かを注がれる。
私たちの日常生活のなかで、キリストの十字架を仰ぐときも同様である。罪ふかき自分を思い、そこからキリストの十字架を仰ぐときには、その十字架上からキリストが「汝の罪、赦されたり」ーとの静かな細い声を聞くことができる。それは常に新しい感謝となる。
私たちの常識的な考え方では、私たちは次第に老化し、古びていき、動けなくなり、生まれたときの初々しさとは逆に、しばしば病気などのゆえに醜くなって、最終的には死んでただの灰、もしくは土にかえってしまう。
しかし、神の約束は、そうした無になるようなことが人間の最後の姿であるとはまったく言われていない。
私たちが死ぬとき、新たな復活が与えられ、キリストの栄光と同じ姿に変えられる。(フィリピ書3の21)言い換えると、完全な新しさが与えられると約束されている。
さらには、その私たちが新しくされるように、この世界、宇宙全体も、「新しい天と地」に変えられると記されている。(黙示録21の1)
そしてそのような状況において何があるのだろうか。
それは、つぎのような世界である。
「見よ、神が人とともに住み、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみも嘆きもない」 (黙示録21の6)
人間がたえず探し求める表面的な新しさでなく、いかなる深い悲しみや苦しみもすべてがぬぐい取られるという新しい世界なのである。
神は愛であり、全能ゆえにこのようなことが可能になる。
この世には、さまざまの言葉がある。それはいのちの言葉か、それともときが来たら死んでしまう言葉であるかである。
言い換えると、影のように一時的な言葉か、もしくは、いかなる状況にあっても命を失うことなく、人間に力を与え、はたらき続ける言葉であるかである。
例えば、戦前は、大東亜共栄圏、八紘一宇(世界を一つの家とし、その支配者として天皇を位置づける考え)、またアメリカやイギリスを鬼畜米英、侵略戦争のことを聖戦、普通の人間である天皇を現人神と称したこと等々。
こうした言葉は、学者、政治家、教育家等々が、その本質を見抜くことができず、侵略戦争を正当化するために氾濫させていた。 しかし、このような言葉は、敗戦後は、一部の人間以外には、通用しなくなった。
あるいは、ソ連やアメリカの原発の大事故を見ても明らかなその危険性にもかかわらず、福島の大事故以前には、日本の原発は絶対安全、大事故など、隕石にあたるくらいの確率だなどと、原子力の専門家の学者たちさえ主張していた。それらが影のように消えてしまったことは明らかである
このような、政治や社会的な言葉と異なり、日常の雑談という形の言葉、また、いろいろな知識の言葉がある。それは、学びの言葉である。学校教育では、さまざまの知識の言葉を教えられ、さまざまのことに対してより深く、正しく考えるようにと導かれる。 また、それらの学びで得た言葉(知識)を暗記して成績をよくしようとする。
また相手を傷つける言葉もあれば、相手を喜ばす言葉、そして哲学などの論理的な言葉、科学の法則、数学などの数式も一種の言葉でもある。
さらには、言葉にならない言葉もある。私たちが、誰かを見下したり、怒り、憎しみなどをもって相手を見つめるとき、そこには、何も言わずとも、それが伝わる。
愛のまなざしもただそれだけで伝わる。言葉以上の言葉であり、目は口ほどにものを言う、といわれるほどである。
犬やネコなどもーとくに野良犬や野良猫は、人間の目をじっと見つめる。それによって相手が、敵対するのか、そうでないかを読みとろうとしている。
言葉にならない言葉ーそれは多くの自然が発する光景や音もそうである。星のまたたきは、言葉にならない言葉を発している。そこには、人間の言葉以上の深い天来のメッセージが込められている。
自然のさまざまのたたずまいーそれは万物の創造者である神のご意志を表している。「神は愛である」(*)なら、絶えずその愛のこもった言葉で、かたりかけようとしているということになる。
(*)Tヨハネ4の16
神は愛のなかの愛であるゆえ、人間の根本問題である罪ーどうしても正しい道を歩けないという罪の束縛から解放するために、言い換えると罪の赦しの喜びを与えるために、キリストを送り、十字架に付けてまでその愛を貫かれた。
しかし、神の愛は決してその罪からの救いに終わるのではない。その愛は無限であるゆえに、人間の根本問題から、到る所にひろがり、包んでいる。
神が創造され、いまも支えられているその自然には、その愛ゆえにさまざまの神の愛のメッセージが込められている。
孤独に悩む者にとって、夜空の星は、天地の創造者は、お前を愛しているのだーという神の静かな細い声を伴っている。
静かに人知れず咲く野山の花々も、神の大いなる御手によって生かされ、支えられていることを伝えようとしている。
主イエスも、「野の花を見よ!」と言われた。それらは、神が守っていると言われたのであり、神の愛がそれらを美しくしているのだと言われたのである。
こうしたさまざまの自然が語りかける言葉は、学識も経験もあるいは富や権力などいっさいを要しない。ただ、全能の神、愛の神を信じて仰ぐだけで足りる。
ここに人間にとって根本的に重要なものは、不思議なほど平等に備えられているのであるのに気づかされる。
私自身、困難な問題に直面し、苦しいとき、悲しみに沈むとき、しばしば山に入った。そしてじっさいにそこで「静かなる細き声」を聞き取り、新たに力を受けてきた。重い問題が前途に立ちふさがったとき、大きな松の木にもたれかかって、祈り続けたとき、闇のなかにも、かすかな光の一点が見えてきて、それがしっかりと私を照らしているーという実感を与えられたこともしばしばであった。
こうした自然のさまざまのところから響いてくる言葉ーそれはいのちを与えようとしている。
とくに夜空の星々は、いのちの言葉のメッセージを送っているゆえ、二千年前のローマ帝国の迫害のもとに置かれたキリスト者たちは、早朝に礼拝に急ぐ途上で見かけた明けの明星(金星)を、再臨のキリストを指し示すものとして受けとったし、じっさい、黙示録の著者は、「私は輝く明けの明星である」という復活したキリストからの語りかけを聞いたのだった。(黙示録22の16)
また、ダンテの神曲の地獄篇、煉獄編、天国編のいずれの巻においても、イタリア語の原文ではその最後の言葉は、「stelle」(星の複数形)という言葉で終えられている。
神曲は一万四千行を越える膨大な詩を、3行ごとに韻を踏み、各行もリズムを整えているという詩という観点からも完璧なものと言われ、かつその内容が、人間の罪、暗黒の力、男女の愛情の力とその罪と限界、権力者と宗教界の腐敗、それに対しての預言者的な洞察と批判、そして悔い改めー魂の方向転換の重要性、そしてそのようなこの世の闇と戦いのなかから、人間の意志の力では滅んでしまうのみということを思い知らされ、そこから「導かれる歩み」が不可欠であることも示されている。
そして清めを受ける煉獄編において、より高い段階へと登っていくときに、讃美歌を響いて導くなど、音楽あるいは芸術的な深い世界が、魂の清め、救いへの道でいかに重要であるかなどの霊的直感がちりばめられている。
さらに、神との深い霊的な交わりの世界も描かれ、ダンテ自身の経験からくる描写と考えられる。
このダンテの世界の深さ、広さ、詩的構成の卓越性によって、ドイツ語訳だけでも、百数十種類もあるという。(日本語訳は、6〜7種類)
翻訳には、大変なエネルギーと学識を要するが、神曲においては、とくに、それ以前のローマの大詩人ヴェルギリウスの文学、哲学、社会、天文、キリスト教のとくに傑出した人々のこと、ローマ帝国の歴史、当時のカトリック教会の腐敗等々の深い素養がなければ翻訳や注解はできない。
それにもかかわらず、これほどまでに多くの文学者を引きつけて翻訳という多大の労力を要する仕事に向かわせたのには、驚かされる。
こうした深く広大な世界である神曲において、地獄篇、煉獄編やそのあとに続く天国編でも、最後に「星」という言葉で終えるようにダンテが構想したのは何故だったろう。
それは、神は最終的には、その愛をもって人類を歴史を通して導こうとしておられるのを、彼自身の現実の体験からも深く啓示を受けたからである。
そして、地獄のようなこの世のくらい現実にあっても、そこを神の導きによって歩むときには、必ず行く手には、永遠の星ー真理の光が見えてきたのであるし、その星々からのメッセージ(言葉)をダンテも深く聞き取ったゆえにこのように、重要な詩の各篇の最後に「星」という言葉を置いたのだと考えられる。
現代の私たちにおいても、神によって清められる歩みの到達点にもまた、聖なる星の輝きー神の光がいっそう鮮やかに見えてくるのであろう。
清い永遠の光がだんだん見えなくなっていくーそうした人生がいかに多いことであろう。それは大きな波に呑み込まれるごとくである。
しかし、詩篇23篇にあるように、たしかなる羊飼いたる神、キリストに導かれるときには、行く手には必ず清めがまっとうされた象徴としての星が見えてくる。
このように、人間の目に見える自然のうち、最も永遠的でしかも光に満ちている星が語る言葉を聞き取ったゆえに、ダンテはこのように神曲で重要な位置づけをしたのだと考えられる。
このようなさまざまの言葉が私たちの世界にはある。そうしたものの根源にあるいのちの言葉とは、何か。
キリストの12弟子たちは、捕らわれて牢に入れられたが、主の天使が現れて彼らを外に出した。そして命じた。
「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。(使徒言行録5の20)
この命の言葉とは、聖霊をうけて語り始めた内容であるし、この個所のすぐあとにもみられる。
それは、キリストが人々の罪により殺されたこと、しかし復活して神の右に座して神と同じであることを示され、それゆえに、人々の罪を赦すことができるのだということである。
言い換えると、十字架と復活ーそれこそは,命の言葉の中心にある言葉であり、そこからあらゆる良きことがあふれ出ていったのであった。
この命の言葉は、すでに旧約聖書のときから、部分的にせよ告げられていた。モーセが受けたのもそうした言葉だった。最初の殉教者であるステファノは、 モーセは、シナイ山で、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれた、と語っている。(使徒言行録7の38)
聖書全体が、広い意味において命の言葉の集大成なのである。
この世には、テレビ、新聞、雑誌、インターネット…等々、ありとあらゆる言葉が発せられている。
しかし、そうした泡のように消えていく言葉でなく、数千年を経ても変ることのなき、命の言葉がある。
ペテロはイエスに次のように言った。
…シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたこそは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ6の68)
私たちもまた、同じように、キリストこそ、永遠の命の言葉を持っておられる御方だと信じて、ほかの何者にも魂の深いところにおいて従ってはいかないようでありたい。
明けの明星
現在、東の空に早朝まだ、暗い午前5時〜6時ころには、
明けの明星として古来有名な金星が輝いています。その後から、木星も現れてきます。
そして、金星と北の空に見える北斗七星の間の高い空には、橙色で強い光のアークトゥルスも見えています。
毎朝、明けの明星を見ては、黙示録に記されているように、再臨のイエスのことを思い浮かべていると言われる方もいます。
以前の「野の花」文集を調べていたとき、いまは召されたU・Mさんが書いているのに出会いました。
「明けの明星を見上げて」
十月十八日午前五時、肌寒いので、上着を肩に掛けそっと、外に出てみました。
未だ、夜明け前の空は、暗く、小さな星々がはるか遠くに見えました。その星々を守るかのように、大きな星が燦然と輝いておりました。
「あっ金星だ!」この八十七年間も生きてきて、初めて見上げる金星でした。
[いのちの水]十月号の明けの明星の記事を読みまして、今夜こそ折っておりました。
「わたしイエスは輝く明けの明星である。」とイエス様が仰せになったとヨハネ黙示録に書かれています。すると、周りの小さな星々は、天に昇られたキリスト者の方々でしょうか。
そしていつか、私も、あの小さな星々のようにイエス様のおそぱに行けるのかしら。
ふつうは、身体が弱り、孤独になることが多い「老い」も、私にとっては孤独ではありません。あの小さな星々の所に行ける日か近づきつつあるのですから。
強い感激のひとときでした。
((2008年1月発行「野の花」))
〇87歳になるまで、明けの明星を見たことがなかったとのことですが、私の周囲にも、明けの明星としての金星は見たことがないと言われる方々は多くいます。。
これだけ世界に情報が氾濫しているにもかかわらず、あのすばらしい暗夜にかがやく明けの明星としての金星をだれも、見るようにすすめなかったのだと思われたことです。
よく似たことが、キリストに関しても言えます。老年になってもなお、キリストの光を見たことがないーといわれる方々が日本には圧倒的に多いのは、本当に残念なことです。
キリストの光ーそれは目には見えないけれども、私たちが死んでも輝きを止めないし、信じるだけで私たちは、その光のただなかへと導かれていくことを知っていただきたいと願うものです。
旧約聖書の続編は、一般のプロテスタントのキリスト者には、従来ほとんど顧みられてこなかった。
しかし、これらは、二千年ほども昔から伝えられてきた聖書に準ずる書であるゆえに、深い内容を持ったものも多くある。 ここではその一部を紹介する。
〇すべてに心を配る神はあなた以外にはおられない。
あなたは、万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方となられる。(知恵の書12の13、16)
・私たちのあらゆる心の動き、悲しみや苦しみ、そして喜び、あるいは傲慢や不正な思い…等々いっさいにわたって見通しておられる。しかも、本当に神に向かって祈り、たすけを求めていくものには、神の愛のお心によって、とき至れば救いをあたえてくださる。
神の全能は、無慈悲な力を振るうのでなく、愛によってその全能を表してくださる。 さらに、自然の世界においても神は心を配り、野草や動物たちのすべてにも心配っておられる。そのような神は、たしかに、聖書で記されている全能か、愛の神以外にはない。
〇 主よ、彼らを癒したのは、薬草や塗り薬ではなく、
すべてをいやすあなたの言葉であった。(同16の12)
人を養うのは、もろもろの収穫物でなく、信じる人を守るあなたの言葉である。
(同16の26)
・薬や医学は私たちのからだの病気を癒すことに大きなはたらきをしてくれる。私自身もその恩恵を忘れることはできない。
しかし、魂にかかわる病気は、そうした医学によっても薬によってもいやされなかった。ここに記されているように、たしかに、永遠の神の言葉によっていやされるのを実感してきた。
私たちが生きていくために、収穫物は不可欠であることはいうまでもない。しかし、主イエスの言葉にあるように、人はパンだけでは生きることはできない。神の言葉によって生きる。
そのことが、ここにある聖句によって暗示されている。
〇誠実な友は、命を保つ妙薬。主をおそれる者は、そのような友を見いだす。(シラ書6の16)
・たしかに、神を信じ、キリストを信じるようになって、主をおそれることを知らされ、
真実な友が与えられてきたことを知らされる。
かつての大学時代の友人たち、それ以降に出会った人たちはみな過ぎ去っていく。〇言葉の露は、物を与えるより、効き目がある。
親切な言葉は、高価な贈り物にまさる。
(同18の16)
・ 小さな贈り物であっても相手の心に届くことがあるだろう。
しかし、何よりも適切な言葉こそは、私たちの魂に届く贈り物となる。
そしてその最たるものが、神の言葉である。御言葉が深く入っていくとき、最大の贈り物となる。
〇あなたは全能ゆえに、全ての人を憐れみ、回心させようと、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、造られたものを何一つ嫌われない。
憎んでおられるなら,造られなかったはずだ。(知恵の書11の23〜24)
・この世のさまざまの悲劇や混乱にもかかわらず、このように、すべての人を憐れんでおられるという啓示が与えられてきた人たちは存在してきた。
新約聖書の「神は愛である」というよく知られた言葉もこの言葉の延長上にある。
そのような神とか神の愛など信じられないーそれはだれでもはじめはそのように感じるだろう。
しかし、神からの光を受けると不思議なことにこの神は愛なり、という言葉が実感をもって受け止められるようになる。
〇神の御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、
朝早く地に降りるひとしずくの露にすぎない。
・神は全能であり、無限に大きく、広く深い御方であるゆえに、このように言える。
かつてパスカルが言った。
「無限大の前には、いかなる多きものも厳密にゼロとなる」、と。
(パスカルは、フランスの数学者、物理学者、キリスト教の著作家。)
それゆえに、この世のいかなる悪も、必ず最終的には神が滅ぼされるということも信じることができるし、この世の終わりは無ではなく、荒廃でもなく、神とともにある「新しい天と地」であって、そこでは、涙も悲しみもなく…ということも信じられる。
〇森 祐理 コンサート
・日時…3月23日(土)
・開演14時(開場13時30分)
・会場…ホテルサンシャイン徳島アネックス(徳島市南出来島町2ー9)徳島駅から高徳線路沿に歩いて徒歩10数分
・プロフィール
京都市立芸術大学音楽学部声楽専修卒。NHK京都放送局を経て、 NHK教育TV
「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんを務める。 現在は福音歌手として世界中を飛び回り、心に響く美しい歌声で、世代を超えて多くの方々へ希望のメッセージを届けている。2002年大阪矯正管区長賞、2007年法務大臣顕彰を拝受。 阪神大震災で弟を失う体験を通し、以来国内外の被災地にて心の救援物資を運ぶ働きを継続。神戸市追悼式典にて独唱(2010年より6年連続)。 東日本大震災被災地での支援コンサートは、130回を数える。ラジオ関西(558KHz:毎週木曜夜9時30分〜)「モリユリのこころのメロディ」パーソナリティ。 日本国際飢餓対策機構親善大使。茨木ロータリークラブ名誉会員。 CD22枚、
著書「希望の歌と旅をして」等4冊、トラクト、DVD7枚等好評発売中。公式HP http://www.moriyuri.com/
・コンサートの前に、徳島聖書キリスト集会代表の吉村孝雄による聖書からの短いメッセージと集会員による手話讃美があります。
・入場無料、手話通訳あり
・会場は定員二百名程度
・無料駐車場あり。
・主催…
徳島聖書キリスト集会
・問い合わせ