いのちの水 2019年 3月号 第697号
目次
・天と地と |
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・お知らせ |
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目を見張る津波の猛威、地震の激しさ、そして原発の大事故…それから八年が経った。
その間、肉親を、また家や郷里を失った人たちの魂の傷はいかほどであろう。
とくに、原発の大事故においては、今なおその事故からの回復はほど遠い。
原発で溶け落ちた核燃料(デブリ)の放射能は著しく強く、近づくと短時間で死んでしまうほどである。
今から三十三年ほど前の、チェルノブイリ原発の大事故における燃料デブリは、巨大な石棺に閉じ込めたまま、今後も百年ほどは手を付けないといわれている。 その処理にも、巨額の費用が投入され続けていく。
津波で破壊された町々は、次第に高台などに再建されつつある。
しかし、愛する肉親や郷里、職業を破壊され、原発のあった福島では、郷里さえも帰れない、帰っても、放射能におびえ、かつての集落、村人との関わりは永久に断たれてしまった人たちも多くいる。
そうした心の傷を本当にいやすもの、再建するものは何なのか。心の深いところでの痛み、悲しみといったものは統計にも現れず、建物が再建されても、いやされることが難しい。
そうしたあらゆる破壊的な事態においても、なお力を与えるものーそれはお金や目に見える肉親とのつながりや住居、仕事等々を超えたもの、目に見えない神からの力のみがそれを可能とする。
すでに数千年にわたって、ありとあらゆる悲劇や困難、孤独をも越えて、生ける神はそうした深い魂の傷に手を差し伸べ、その傷をいやし、再生の力を与えてきた。
それは、身近なところでも人生の途中で失明し、職業も結婚も失われ、文字通り真っ暗闇の生活へと投げ出された人たちをも立ち上がらせてきたのを知らされている。
また数十年も寝たきりであって、首から下はいっさい動かすこともできないで人工呼吸器で生きてこられた方も身近におられる。そのような拷問の毎日といえる日々をも耐えてくる霊的な力を与え、生きる意味を与えてきたのは、医学でも人間でもなく、神であり、キリストであった。
また、人間の歴史においても特に深いといえるほどの絶望と苦しみと孤独、悲しみを与えてきたハンセン病の重度の方々、それは、家族や郷里からも見捨てられ、強制隔離とされ、その病の進行につれて、失明、手足の切断までに至るほどであり、その苦しみは計り知れない。
そのような方であっても、彼らがキリスト教信仰を得たときには、その心に神の愛の御手が差し伸べられ、見えない目にも生ける神とキリストの十字架が浮かび上がり、新たな生きる力を与えられてきた人たちの証言がある。
また、ローマ帝国や江戸時代の厳しいキリスト教迫害におけるすさまじい弾圧、拷問にも耐えてキリストを証しして息絶えていった人たちー彼らに与えられていた力には驚嘆させられるものがある。
あのような、人間の耐える限界を越えているような苦しみであってもなお耐える力を与えるのが証しされてきたのがキリストの真実であり、愛であった。
そしてそのような驚くべき神の力は、現在も変ることなく存在している。
そして、そのような力を与えられるには、ただ神とキリストを信じる、幼な子のような心をもって仰ぎ見るーというだけでその道へと招かれる。
大震災から八年、心身に深い傷を受けた方々は数知れずおられる。
そうした方々に対しても、その傷を魂の深いところでいやし、心の重荷を軽くしてくださるキリストが次のように語りかけている。
…疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。
…そうすれば あなた方は安らぎを得られる。 (マタイ福音書11の28)
この目に見える世界には、天と地がある。同様に目には見えない世界にも、天的なものと地的なものがある。
自然の世界ー大空の青さや浮かぶ白い雲、星々や月、また大空を悠々と旋回するトビの姿、地にある草木、そしてその花々…等々、みな天からのメッセージを私たちに送り続けている。
地的なもの、それは日々の新聞、テレビ、あるいはさまざまの印刷物などにあふれている。さまざまの人間の罪から出た事件、事故、腐敗、偽り…等々。
私たちの心の世界にも、天的なものが響くこともあれば、地的なものがよぎることもある。
そして、書物の世界にも、天的な香りのする書物と、地上の腐敗が漂うものもあり、あとのものが断然多い。
音楽にしても、天的なものと地的なものがある。
バッハやモーツァルト、ベートーベンといった大作曲家においては、しばしば天的なものからの響きが音楽で表現されている。そしてまた人間の側からの天への憧憬もまた、音楽で表されている。
私たちは、どこを見ても、その二つの世界に接する。地的なものに引っ張られつつも、それに気づいたときに、天を見上げるとき、私たちをそこから引き上げる力を受けることができる。
すでに、旧約聖書の創世記において、ヤコブは兄からの迫害を恐れて遠くへと一人で旅立ったとき、ある夜に、天にまで達する階段を見いだした。
そこを天使が上り降りしていたという。
そして、そこに主がそばに立って、ヤコブがどこに行こうとも、「私はあなたと共にいてあなたを守る」という祝福の言葉を受けた。(創世記28章)
そしてヤコブは、この場所に主がおられるのに、私は知らなかったと言ったという。
そしてヤコブは、そのような身近におられる神を畏れを感じ、ここは、まさに神の家であた、天の門だと悟った。
私たちのこの世での歩みのなかにも祝福がつねに備えられている。
それはこのはるか数千年前に起こった出来事が、本質的に同じようなことが起きることの預言ともなっている。
孤独なとき、死に瀕するような苦しみを一人で耐えねばならないときーそこから天を仰ぎ見るとき、そこから肉眼の目では見えない、天へかかる階段が見えるようにしてくださる。
天は遠くて近い。無限の高みにありながら、この弱く小さき自分のところへと大いなる階段(梯子)を備えてくださる。
聖書もその天への階段であり、大空の雲も同様である。また風に歌う木々の無数の葉ーそれも私たちを天へといざなう階段となりうる。
そしてそれらもまた、私たちが心開き、幼な子のような心もて見上げるとき、そこに主が立って、「あなたの罪は、赦された。私はあなたと共にいる」と語りかけてくださるであろう。
聖書のなかには、一見不可解な内容がいろいろとある。
そもそも、キリスト教において最も重要なことーキリストの十字架によるあがないとか、復活、あるいは再臨にしても、いずれも常識的には全く不可解である。だからこそ、大多数の日本人はそのことを信じてはいない。
しかし、すでにキリスト者となっている場合でも、不可解な記述はあちこちに見られる。
次もその一つである。
…朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
なぜイエスは空腹になったとき、道端のいちじくの木に実がなっていないことを見て、枯れさせてしまったのだろうか。単に自分が空腹になったからといってこんなことをするなんて…とだれもが不可解に思う個所であろう。
この個所はどんな意味をもって言われたのか。
その理解のためには、その前にイエスが神殿に行ったときに、両替している人や、売り買いしている人、あるいは、神殿での儀式のための鳩を売る人たちの台を倒れさせ、次のように言われた。
…「私の家(神殿)は、祈りの家と呼ばれるべきである。」と書いてある。
しかし、あなた方は、それを強盗の巣にしている。(マタイ福音書21の13)
神殿は、当時のユダヤ人たちにとって信仰生活の中心であり、特に重要な場所であった。その本来の目的は、「祈りの家」であるべきだと旧約聖書から言われていた。しかし、当時の神殿に関わる人や、一般の人たちは、その神殿が商売の場となっているのを何とも思わなかったのがうかがえる。
それをイエスは厳しく指摘され、そうした人たちの台や腰掛けをも倒すというほどの強いご意志を現された。そこまでされたのは何のためか、それは祈りの家であることを特に強調せんがためだった。
これは、現代においても重要なことであり、宗教上の建物もその儀式もみな 祈りということ、言い換えると神と人との霊的な交流こそが目的である。人間の側からのさまざまの願いを神に訴え、神からの言葉、力を受け、導きを与えられることである。
建物や衣服、儀式的なことではなく、「霊と真実をもって礼拝する」)ことこそ重要と言われた。(ヨハネ4の23〜24)
当時の神殿は、ヘロデ王が命じて建造させたもので、完成までに50年近くを要したという大がかりなものであり、その壮麗さは遠くからでも目立つものだったという。
しかし、いかに堂々たる建物であっても、肝心の「祈り」が中心となっていない。
それは、葉ばかり繁って実がならないイチジクがそれを象徴している。
イエスが空腹を感じて食べようと思っても実がない。それは、人々の霊的な空腹ー飢え渇きにも何らよきものを提供できない神殿の実体が暗示されている。
人はパンだけでは生きられない。神の言葉によって生きる とイエスは教えられた。その霊的食物である神の言葉をも提供することもない状態だったのである。
そのような状況を続けていくならば、必ずそれは衰えて滅んでいく。
いちじくの木がイエスの言葉によって枯れた。
神殿が、祈りの家であるべきなのに、そこを商売の場とする盗賊の巣となっているほどだ。それはいかに壮麗な神殿といえども、葉ばかり繁って実のならないイチジクの木と同じである。
そのような状態を続けているときには、時いたれば、ただちに滅びてしまう。これは、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって滅ぼされたことの預言でもある。
私たちも同様。信仰も形だけ、表面的なものだけでは枯れていく。実がならない状態ではいけない。そのためには、ヨハネ福音書で言われているように、キリストのうちにとどまり続けることである。(ヨハネ福音書15章)
現代の私たちにおいても、聖書に関するさまざまの書物を読み、聖書に関する知識が豊富であっても、また聖地旅行とかを繰り返し経験しても、聖霊を受けないならば、あるいは形式的に日曜日に礼拝に行っているだけでは、葉ばかり繁った状態と言える。
最初のキリストの弟子たちの最も重要な弟子であったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちが、本なども読めず、聖書の知識はおそらくほとんどなかったと思われる漁師たちだったし、外国を旅行などまったくしたことがなかった。
しかし、悔い改めて聖霊が与えられてから、命がけの伝道がなされるようになった。
実を結ぶーそれは聖霊が与えられて、その聖霊によって少しなりとも生きていくことが実であり、それが職業や社会的にも生きた働きをすることになればそれも実である。
病気や高齢のため、寝たきりとか外での生活も難しい状況となると、通常は何もできない、と言われる。しかし、神の国のために働くことができるということは、それも実りである。
十字架で処刑されるという人生の最後のときに、イエスは復活して天に帰るのだと信じることができた重罪人、彼もまた人生最後のときに大いなる実りを結んだのだった。
事実、彼のことは以後二千年にわたって無数の人に、キリストの大いなる力を証しするものとして多大の影響を与えてきたのであり、それは時代を越え、民族や地域を超えた実りとなった。
私たちの祈りはしばしば 人間的な狭い視野でなされる。
しかし、神は、ご自身の御計画によって、私たちの真実な祈りを必ず聞いてくださる。
中風の人のこと、友人も本人も中風をいやしてもらいたいと切実に願っていた。
しかし、イエスは、友人たちの信仰をみて、あなたの罪は赦された、と言われた。
そのとき そはにいた律法学者たちは、罪赦すのは神のみだ、神を冒涜していると、怒った。
キリストは、そのようなかたくなな心に対して、ご自分が罪赦すことさえできる力を与えられていることを示すために、中風の人を立たせた。
人間にとって根本的な幸いは、罪の赦しであることが示されている。人間がのぞんだこととはまったく別のことが、イエスご自身の視点からかなえられた。
また、生きている間では、聞かれないと思われることがある。迫害の時代に厳しい拷問を受けた人たちーもだえ苦しみつつ死んでいった人たちはどうして、救いだしてくださいという命のかかった必死の祈りが聞かれなかったのか。
それはあの詩篇22篇の冒頭の言葉をイエスもそのまま叫ばれた。ついに聞かれなかったと思われたが、復活された。死後の復活をも視野に入れて初めて、その祈りは聞かれたということがわかる。
死後のことまでも含めて初めて、祈りは必ず聞かれるのである。
イエスは生きている間に、願ったことそのものが聞かれるとは言われなかった。
また、信仰によって思いがけないことが聞かれたのだと分ることも多い。
自分自身や家族、あるいは職場でとても耐えがたい病気、あるいは不和、対立等々があって、それは時には耐えがたいことも生じる。なぜ神はこのような苦しみや悲しみを除いてはくださらないのかーと日々苦しい中から祈る。
それでも、かなえられないことが10年、20年あるいはそれ以上続くこともある。
しかし、そのような膠着状態と思えるなか、思いがけない出来事が生じ、それは予期しない苦しいことであっても、それによって長年悩まされてきた別の問題がかなえられたり、解決の道が開かれたりすることがある。
神は信仰によって求めていくとき、必ず聞いてくださる。思いがけない問題の解決や、扉が開かれることがそれである。私たちが願ったことそのものでなくとも、必ず何か他の良きこと、予想もしなかったことが与えられる。
それは、神が完全な愛と真実の御方であり、かつ全能だからである。
イエスは、「信じて祈れ」といわれた。私たちは、神の愛とその全能を信じて祈ることが求められている。
人間にとってもっとも重要なことは何か。
それは、最もこの世で良きものと出会うことである。
さらにその良きものを見いだした、というだけでなくその良きものからの語りかけー心の交流がなされることである。
そして、その良きものが自分だけの体験や賜物として持っておくのでなく、他者にもそのことを紹介していくことである。
その最もよきものとは、神のことであり、その神の本質を完全に与えられて地上に来られたキリストのことでもある。
キリスト教史上で最大のはたらきをしたといえる使徒パウロは、旅の途中で、劇的な回心を与えられた。そのことと、それ以後のことは次の短い三つのことに要約できる。
それは、「主に出会い、主に語りかけられ、主によって宣教(証し)していく」ことであった。(使徒言行録9の27)
宣教というと、宣教師という言葉を連想して、特別なことのように聞こえる。しかし、それは何も特別なことでなく、ごく自然なことであり、使徒パウロにおいて、自分に与えられた何ものにも変えがたい良き経験をその通り語ること、証言すること、証しすることであった。
…主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ、エルサレムでも私のことを力強く証ししたように、ローマでも証しをせよ。」(使徒言行録23の11)
パウロ以前にキリストのことを命がけで人々に語りはじめた使徒ペテロにおいても、そのことは研究発表とか人間の意見、思想、知識などを語ったのでなく、キリストが復活した、ということを単純に証しすることだった。そこからキリスト教の伝道が始まったのだった。
ペテロの最初の宣教の言葉の核心は、つぎのようである。
…神は、イエスを死の苦しみから解放して復活させられた。…神はこのイエスを復活させられた。私たちはみなその証人なのである。(使徒言行録2の32)
そのさらに以前に、使徒たちのうちユダが脱落したため、その代わりと人が選ばれることになった。それもまた「主の復活の証人」(使徒言行録1の22)と言われている。
パウロは、ユダヤ人以外の人たち、異邦人へのキリスト教を伝えるという点で、もっとも大いなる働きをすることになった。彼の宣教、説教の核心もまた、キリストの証人となることだった。
彼自身が魂の最も深いところで与えられたことー復活したキリストとの出会いであり、そのことと深く結びついている十字架による罪の赦しであった。
パウロは、特別にユダヤ人教師について聖書(当時は現代の旧約聖書)を学び、指導者的人物であった。
しかし、パウロの学んでいた聖書でいろいろと預言されていたにもかかわらず、その預言どおりに現れたキリストを信じる人たちを迫害し、殺すことさえした。
パウロは、旅の途中に、復活したキリストと出会った。そして、そのキリストからの語りかけを受けた。そこから、自分の今までやってきたことが全くのまちがいであったことを思い知らされた。
そのときから、キリストのことを各地に証ししていくということが彼の使命となり、そのことを命じたのが神であったことは、以後の世界の歴史においてキリストの道がいかに深遠であったかがわかる。
人間のあるべき歩みがこの短い三つの言葉ー神と出会い、神から語りかけを受け、そのことを証ししていくーに凝縮されている。
もし、まだ聖書になじまず、神という言葉が日本の神々を連想してはっきりしないという場合には、それを真理、真実なもの、あるいは美といった言葉で置き換えると近づきやすくなると思われる。
私たちは生涯のなかで、最も大切なものに出会いたいと願う。
それは何か、永遠の真理、かつ愛そして正義であるものと出会いたい。
だれでも、嘘や不正、差別…等々と出会いたいと思う人はいない。汚れたものでなく、美しいものと出会いたいというのも共通している。
そして、冷遇やいじめでなく、清い愛、一時的な感情である人間の愛でなく、罪ふかき自分をも見捨てないような愛と出会いたいと願う。
それが、神と出会いたいということである。
この世にあって美しい夕焼けや小鳥の澄んだ声、あるいは広大な山なみ、そしてその渓流などに接するとき、私たちは人間を超えたものに出会っているという実感がする。
神やキリストを知らないときであっても、自然を通しても私たちは、ほのかな神との出会いを経験する。
そして、そうした自然にふかく心を注ぐときには、それらの自然からの語りかけを感じるようになる。
そうしたことからすすんで、じっさいにこれは神様だ、と直感するような出会いが与えられることがある。
そしてその神様からの自分に対する個人的な語りかけを実感することが与えられる。
私が初めてそのような語りかけを感じたのは、キリストの十字架の死の意味を聖書によって解きあかした言葉に触れ、そこから キリストの十字架を仰いだとき、「あなたの罪は赦された」との語りかけを与えられたのが、私にとっての初めての主からの語りかけを聞いたことであった。
そして、その日、私にとってそれまでまったく知らなかった世界の入口に立ったのだと感じた。
キリストからの語りかけは、そのまま神からの語りかけだった。
そしてその短い「汝の罪、赦されたり」とのひと言は、実に私のそれ以後の歩みにおいて大きな励ましとなり、力となり続けることになった。
この世のあらゆる問題の解決の鍵は、この一点にある。どんな災害や他者からの加害による苦難であっても、人間は誰一人、私には罪がない、と言える人はいない。
ここでいう罪とは、聖書で言われている罪である。それは完全な清さ、愛、真実である神を前にしたとき、私たちは毎日、清くないこと愛に背くこと、真実に背くことを考えたり、語ったり、行なったりしている。そのような心の深いところでの無意識な心の動きもみな罪ということになる。
他人との比較でなく、神のそうした完全なあり方を前に置くときには、私たちのいかなる言動も心の思いも、罪の陰りを持っているのを知らされる。
人生の途上でさまざまの苦しいことに出会っても、そこで私たちが、自分の見過ごしてきた罪を知らされ、そのとき初めて罪を赦す神の愛を知らされる。
そして、それとともに、その愛の神ゆえに、自分の弱さにもかかわらず、絶えず支え、導いてくださる神の語りかけを、立ち上がる力とともにも与えられる。それは、はっきりと聞こえないときであっても、聖書を通して、神からの語りかけとして受けとることができるようになる。
また、涙の中から仰ぐとき、いっそう神のみ顔を見る思いとなる。
そして、聖書という膨大な書物は、みな私たちへの神からの語りかけなのだと知らされる。
そこから、私たちの倒れそうになった信仰は支えられ、強めを受けてともに歩めるようになる。
そのような神との出会いと語りかけを受けるときには、黙っていることができなくなる。
そのことが、通常の人間との出会いや人間どうしの会話とはあまりにも異なる重要性を持っているのを知らされるゆえに、神からの語りかけー神の言葉、聖書を伝えたいと願うようになる。
使徒パウロの証言は、この三つのことに尽きるし、また、ペテロにおいても最初の宣教がそうであった。
この三つは、私たちがどこにいてもなしうることである。
たとえ、病気で寝込むようになっても、神(キリスト)と出会うことは与えられるし、その神に病気の苦しみを訴え、祈ることができるし、その祈りによって神からの静かな細い励ましや慰めの声を聞くことができる。
そして、自分の病気の癒しだけでなく、介護してくれる人や、医者、看護師、あるいは病院にいるたくさんの入院している人たちのために祈りを続けることができようになっている。そのような祈りへと導かれるときおのずから証しが生まれる。
信仰・希望・愛、これは広く知られている。信仰と訳された言葉(ギリシャ語でピスティス pistis)は、真実という意味がもとにあるゆえ、この「信仰」とは、神の真実をも含むものである。
神の真実は永遠であり、その神の真実や神の愛ゆえに、私たちの神にかかわる希望もまた永遠である。そしてそれらすべてを包むのが神の愛である。
この信仰・希望・愛という三つの重要なこと、その出発点に、最初にあげた三つのことが深く結びついている。
神に出会い、その神からの語りかけを聞く、そして力を与えられ、そのことを証ししていくーその過程で、神の真実、神への信仰、希望がさらに新たに体験され、いかに神が愛に満ちた存在であるかを知らされていく。
こうした三つの世界へと私たちはみな招かれている。
大空の澄み渡る青、ときに白く、また赤く燃える雲、また野山の木々に吹きわたる風による音楽、そして夜の星たちの輝きーそれらすべてもこうした三つの世界へと日々、招くものとなっている。
1 主よ、御もとに身を寄せます。
私を決して恥を見ないようにしてください。(*)
2 あなたの正義によって助け、救いだしてください。(**)
私に耳を傾け、救い出してください。
3 常に身を避けるための住まい、岩となり
私を救おうと定めてください。
あなたは私の大岩、私の砦。
4 私の神よ、あなたに逆らう者の手から
悪事を働く者、不法を働く者の手から
私を逃れさせてください。
5 主よ、あなたは私の希望。
主よ、私は若いときからあなたに依り頼み
6 母の胎にあるときからあなたに依りすがって来ました。
あなたは母の腹から
私を取り上げてくださいました。
(*)「恥を見ないように」とか「恥に落とすことなく」などと訳されているが、ここでは、前後の文から分るように、作者に敵対する力に圧迫され、非常な苦しみに遭遇している。そこから切実な救いを求める叫びと祈りがなされているのであって、単に日本語の「恥ずかしい目に遭わさないで」というのとは大きく異なる。
「恥じる」と訳された原語(ヘブル語)は、ボーシュ bosh であるが、この言葉は、例えば詩篇14の6においては、「…悩む者(貧しい者、苦しめる者)を恥ずかしめようとする。」と訳されているが、They would crush the hopes of the poor, (NAB) のように、貧しい者の望みを crush(押しつぶす、踏みつぶす、打ち砕く)、 The wicked frustrate the plans of the oppressed, (NLT) 悪しき者は、圧迫された人の計画を、frustrate(くじく、妨げる、だめにする)と訳しているのもある。このような原語のニュアンスを知ることによって、詩篇でしばしば用いられている「恥ずかしめる(られる)」ということは、日本語のニュアンスとは大きく異なるのが浮かび上がってくる。
日本語では、みんなが知っていることを知らなかったら恥ずかしいーというようにごく日常的な、必死になって祈るなどということとはおよそ無関係な状況で使われる。
戦前のアメリカでルース・ベネディクトの著書「菊と刀」において、欧米は、魂の深いところで、完全な真実である神に背いている「罪」の意識が根本にあるが、日本は、そうした神を知らないために人間関係のなかで「恥」を知ることが重要視されている、と書かれているのもそうした日本の状況を示している。
ここでは、敵、悪の力によって見下され、生きる力を打ち砕かれる、喪失させられるといったニュアンスで言われている。
この詩は、最初から神への信頼ということが書かれている。
御もとに身を寄せるとか、身を避けるための住まいとなってくださいとか、若いときからあなたに依り頼みなどと繰り返されている。
信頼と信仰は似ているところはあるが、かなり違うこともある。復活のイエスのことを信じていても、イエスに心から毎日信頼しているということはまた別のことである。また人間に対しても、○○さんを信頼していますとは言っても、信仰していますとは言わない。
十字架や復活を信じている、十字架や復活に対する信仰を与えられた、と言っても、十字架や復活を信頼しているとは言わない。
私たちにとってキリストは、信仰の対象であるとともに、全面的な信頼を寄せる御方でもある。
詩篇は、徹底した信頼を神様に献げている。心からの信頼があるからこそ、懇願がなされている。
(**)「正義」と訳された個所は、新共同訳では、「恵みの御業」と、特異な意訳をしていた。
しかし、このような訳語では、この詩篇の個所のように、悪の力に正義の力をもって報いを与え、悪の力を滅ぼすという意味が、受けとれなくなる。
恵みの御業という日本語からは、病気がいやされたり、悩み苦しむときに慰めを与えてくれること、罪を赦してくださること、苦しいときに思いがけない人に出会うとか、干ばつのときに恵みの雨が降る…等々を連想しがちである。
しかし、原語はそうしたニュアンスではなく、この詩篇の個所などにおいては、この世界全体にはびこっている悪の強大な力への正義の裁きを意味する言葉である。この原語は、セダーカー(ツェダーカー)であって、これは「正義」を意味する聖書の中でもとくに重要な言葉の一つ。
ギリシャ語訳、英訳、独訳、仏訳、ラテン語訳など、ほとんどすべて「正義」を意味する言葉で訳されている。英語では、「righteousness」( 一部には justice)が用いられている。ただ新共同訳だけが、「恵みの御業」と訳していた。
去年12月に30年ぶりに新共同訳の改訂版が刊行された。これは、聖書協会共同訳という名称になった。この改訂で、この「恵みのみ業」という訳語は本来のこの原語の持っている「正義」と訳し変えられた。(従来の口語訳、新改訳は「義」という訳語を使っていたが、私たちの現代の世界では、悪を裁く力を 義 というようにはほとんど言わないゆえに、今回、最も日本語として普通の「正義」という訳語となった。)なお、この個所は、ラテン語では、iustitia(イユスティティア、 これは英語のjusticeの語源ともなっている)、ドイツ語 Gerechtigkeit、フランス語 justice。
このように、聖書の翻訳も、当然のことながら、訳する人、その聖書個所の担当者の主観によって変えられることがあるので、原語を理解しない多くの人にとっては、他の訳(外国語訳も含め)を複数参照することが、より原語の本来の意味を知る助けになることがしばしばある。
神は大岩、砦としばしば詩篇では言われている。私たちは、このように神様を実感することは少ない。大岩などに直接触れることがないこともある。聖書が書かれた地域では、砂漠的な地域が多く、草木がわずかしかないというところも多いために、岩がよく目立つこと、シナイ半島のシナイ山(標高2,285m)やその付近の山々は岩山で、草木はごくわずかしか見られない。かつてシナイ山頂に立ったとき、はるか彼方まで延々と岩ばかりの山なみが続いているのを今も鮮やかに思いだす。
人間は岩のようでなく、ちょっとしたことで揺り動かされるので、信頼するに足りない。しかし神様だけは大岩で、動かないからこそ頼ることができる。
日本では、「寄らば大樹の陰」という言葉がある。身を寄せるならば、大木の下が安全であるという意味で、山や低地にも大木はよく見られるためにこうした言葉があるのと対照的である。
このように、神がどのような御方であるか、そのイメージも、その地域の自然環境にも関わっている。
悪しき人、悪の力という闇がどれだけ迫っても、希望は失われない。かえってそのような困難にあるゆえに、いっそう真剣にそこからの救いを確信して祈り願っている。その希望は覆すことができない。
5節では神は「我が希望」と言っている。徳島市の眉山には、県下の教会の多数が加わっているキリスト教霊園(納骨堂)がある。その前の壁面上部には、次の言葉が刻まれている。
「主こそ我が望み。栄光とこしえに神にあれ」
「主こそ我が希望」というのは、たとえ病気になっても、どんな大きな失敗をしても、いかなる事が起こっても、神は、私たちを見捨てないと信じるときに、そのことがそのまま希望となる。信仰、希望、愛はいつまでも続くとあるが、全能でしかも完全な愛の神が希望の源であれば、神は永遠なのであるから、その希望も永遠である。
信仰・希望・愛は、とこしえに続くと言われているとおりである。
ヘブライ語で「希望」と訳されている言葉は、ギリシャ語訳(70人訳)(*)では「忍耐」と訳され、希望は言い換えたら忍耐することができ、あきらめることがないと旧約聖書のギリシャ語訳者はとらえた。単に我慢ではない。聖書に置かれる忍耐は、必ず希望と結びついている。本当の希望を持つ人は忍耐ができ、希望のない人は忍耐できないということである。
(*)旧約聖書のギリシャ語訳は、紀元前3世紀から1世紀にかけて訳された。使徒たちが用いた聖書はこのギリシャ語訳であった。
このギリシャ語訳では、日本語訳で 希望と訳されている原語が、ヒュポモネー hypomone(忍耐)、「より頼む」は、「希望」を現す エルピス elpis というギリシャ語で訳されている。
このことからも分るように、聖書では、希望は忍耐であり、また忍耐とは、単にがまんして仕方なく耐えている、というのでなく、必ず神が助けてくださるという確信と希望を持って耐えていることを意味している。
全能の神、しかも愛の神であるからこそ、そのような神により頼むということは、必ず救ってくださるという確信と希望を伴う。
依り頼むというのは若いときからだった。しかも6節には母の胎にあるときからとある。これは神に依り頼むということは、それほど自分にとって奥の深いことと示されていた。地上に生まれる前からその状態にあったといえるほどであり、神が自分をはじめからそのようにしてくださっていたという神の御計画の深さを暗示している。
神は、若いときから依り頼むことができ、応えてくれるからこそ常に賛美することができるようになる。
…私は常にあなたを賛美します。
多くの人は私に驚く。
あなたは私の避けどころ、私の砦。
私の口は賛美に満ち
絶えることなくあなたの輝きをたたえます。(6〜8節)
希望と依り頼むこと、賛美が結びついて溶け合っている、驚くべき精神の世界が書かれている。この大きな精神の世界に比べたら、我々一般の人間は少しのことで賛美ができなくなり、感謝ができなくなり、何となく希望に陰がついたりと本当に小さいと思わされる。
それゆえに、私たちは聖書を開いて、あるべき姿はここにあると、立ち返る必要がある。
…老いの日にも見放さず
私に力が尽きても捨て去らないでください。
敵が私のことを話し合い
私の命をうかがう者が共に謀り、言う
「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕えよう。
彼を助ける者はもういない」と。
神様、私を遠く離れないでください。
今すぐ私を助けてください。
私の魂に敵対する者が 滅ぼされますように。
私に悪しきことが降りかかるようにと計る者たちが、辱めに包まれますように(裁きを受けるように)。
私は常に待ち望み
繰り返し、あなたを賛美します。
私の口はあなたの正義を、あなたの救いを
絶えることなく語り継ぎます。 そして、決して語り尽くすことはできない。
私が老いて白髪になっても
神様、どうか捨て去らないでください。
御腕の業、力強い御業(*)を
来るべき世代に語り伝えさせてください。
神様、あなたの正義は高い天にまで、至ります。
あなたはすぐれた御業を行われました。
神様、誰があなたに並びえましょう。(9〜19節)
(*)御腕の業、力強い御業などと訳されている個所の原語は、腕、力を現す言葉であるから、英訳では、strength、power、might などと訳されている。
この世でのさまざまの問題は、つきつめると、悪の力により、それが権力やお金、また目に見えるさまざまの物への欲望となり、憎しみ、妬み、争い、それらが大きくなると戦争などとつながっていく。それゆえ人間の根本問題はそうした悪の力を滅ぼすことであり、それはただ全能かつ正義の神のみがなしうることである。
この詩の作者は、その神の正義の力を深く啓示されていた。それゆえにそのことを自分だけ、自分の世代だけに終わることなく、未来にまで語り伝え、証言していきたいと神に願っている。
そして、表面的にみれば正義の力などなく、悪の力こそ強大と思われているが、実は、神の正義の力は、地上だけでなく天にまで達するのだと。それほど、強固であり、かつ私たちを包んでいるのだと実感していた。
これは驚くべきことである。いかに現実の悪の支配や力の背後に、神の正義の力を見つめていたかがうかがわれる。
… あなたは多くの災いと苦しみを
私に思い知らせられましたが
再び命を得させてくださる。
地の深い淵から 再び引き上げてくださる。
私を力づけ
すぐれて大いなるものとしてくださる。(20〜21節)
この詩の作者は、単に机に向って文学的な詩を書いているのではない。生きていく過程でさまざまの苦難、悲しみにも遭遇してきた。その一端、あるいは本質が悪との戦いとしてこの詩にも記されている。ふつうなら絶望となるところだが、神を仰ぎ続けることによって絶望の淵に沈むことなく、そこから救いだされたという体験が与えられてきた。
それは、現在の私たちにとって、死という最も深い淵からの救い、復活ということを指し示すものとなっている。
そして生きている内からすでに復活の力が与えられ、死後は、ここで言われている「大いなるもの」となる。キリストと似た姿になると約束されている。キリストとは神と同じ存在であり、神のように変えてくださるというのであって、これ以上に大いなるものはない。
…神様、
私もまた、琴に合わせてあなたの真実に感謝をささげます。
イスラエルの聖なる方よ
私は竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。
私の唇は喜びの声をあげ
あなたが贖ってくださったこの魂は
あなたにほめ歌をうたいます。
私の舌は絶えることなく
あなたの正義を歌います。
私が災いに遭うことを望む者が
恥と辱められたゆえに。(22〜24節)(*)
(*)原文は、この最後の個所で、作者が神への賛美を絶え間なく続けるのはなぜか、という理由を示す接続詞がある。それゆえにほかの外国語訳では、ほとんどそれを訳している。
例えば、次のように訳されている。
My tongue will tell of your righteous acts all day long, for those who wanted to harm me have been put to shame and confusion. (NIV)
私の舌は、あなたの正義の業を、一日中語り告げる。(歌う)
それは、私に悪をなそうとする人々が、恥と混乱となったゆえに。
これは、単なる復讐的な気持ちでない。人間を脅かす悪の力、闇の勢力に神の正義の力による裁きが行なわれたことを指しているのであって、そのような大いなる神の力を賛美し続けるのである。
人間は結局、どんな状態にあっても、いかなる国や時代にあっても、健康、病気等々、いっさいの状況にあって真に苦しめられ、魂の滅びへと引き込まれるのは、特定の人間の悪意や自然災害などではなく、それらの背後に働く悪の力による。事故や災害で苦難に直面したとき、そこで絶望するように仕向けるものが闇の力である。
そのような闇の力に勝利された神とキリストを信じるときには、この世のさまざまの苦難のただなかに光を見いだし、苦難から救いだされ、永遠の命へと導かれるからである。
聖書はそのことを最初から一貫して伝えている。
創世記の最初から、人間は兄弟すらも殺すような悪意、悪の力が深くしみ込んでいることが記されて、それらを克服していくのが、神の愛であることが記されている。
復活も十字架による救いも、みなその悪の力への勝利を意味している。
そして聖書の最後にも、最終的に悪の力が滅ぼされる、新しい天と地となることが記されているのはそのことを指し示すものである。
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〇3月中旬の早朝五時すぎの星(徳島県での場合)
夜明け前に、ずっと見えていた明けの明星(金星)は、だんだんと見えなくなりつつありますが、木星は以前として夜明け前の南東の空に、強く輝いているのがとくに目にとまります。
東南東の空に明けの明星(金星)、それから南にかけて、土星、木星が並んで見えています。
土星と木星ー特に木星は強い輝きがあります。この二つは四月ごろになっても、朝4時過ぎから明るくなるころまで南東から南にかけて見えています。
夜明け前の、澄んだ大気のなか、まだ多くの人々が寝静まっている頃に、東の空に明るく、神からのメッセージをたたえて輝く星たちを見るのは、私たちの心にもすがすがしいものを投げかけてくれます。
少し前に、県外の方から、90歳を過ぎて初めて、明けの明星(金星)を見たと知らせてこられた方がいました。
明けの明星とか、金星という名前は、子供のときからだれでも聞いていると思いますが、じっさいに明け方の空で見た人になると、驚くほど少なくなるようです。
目に見えるものとしてはもっとも神の永遠の光を象徴するものであり、暗い夜に強い光を投げかけてくれるその姿は、私たちの魂にも光を与えてくれるものになりますので、まだ見ていない人はぜひ早朝に起きて見てほしいと思います。
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〇森 祐理コンサート
前月号でも紹介しましたが、福音歌手、森 祐理(ゆり)さんのコンサートが次のように開催されます。以前の徳島市民クリスマスでも、賛美がなされた方です。
森 祐理さんは、2010年の3月に、徳島聖書キリスト集会員が責任者をしている障がい者の作業所「いのちのさと」の主催で賛美をされ、その翌日には、徳島聖書キリスト集会の主日礼拝にも参加されたことがあります。
そうした関わりから、私どもの徳島集会員の一部の方々との交流が続いてなされていましたが、その方々が今回主となってこのコンサートを主催することになりました。
・日時…3月23日(土)
開演14時(開場13時30分)
・会場…ホテルサンシャイン徳島アネックス
徳島市南出来島町219)徳島駅から高徳線路沿に歩いて約7百m。従歩10数分。
・入場料…無料。
・定員…二百名。超えた場合は、会場のスペースが可能なら立ったままで聞いていただくか、それも超えた場合には聞くことができませんので、お早めにお越しください。
森 祐理 プロフィール
京都市立芸術大学音楽学部声楽専修卒。NHK京都放送局を経て、 NHK教育TV
「ゆかいなコンサート」歌のお姉さんを務める。 現在は福
音歌手として世界中を飛び回り、心に響く美しい歌声で、世代を超えて多くの方々へ希望のメッセージを届けている。 2002年大阪矯正管区長賞、2007年法務大臣顕彰を受けた。 阪神大震災で弟を失う体験を通し、以来国内外の被災地にて心の救援物資を運ぶ働きを継続。神戸市追悼式典にて独唱(2010年より6年連続)。 東日本大震災被災地での支援コンサートは、130回を数える。
ラジオ関西(558KHz:毎週木曜夜9時30分〜)「モリユリのこころのメロディ」パーソナリティ。 日本国際飢餓対策機構親善大使。茨木ロータリークラブ名誉会員。 CD22枚、
著書「希望の歌と旅をして」等4冊、トラクト、DVD7枚等好評発売中。
公式HP
なお、コンサートの前に、徳島聖書キリスト集会代表の吉村孝雄による聖書からの短いメッセージと集会員による手語讃美があります。
・手話通訳あり
・無料駐車場あり。
・主催…徳島聖書キリスト集会問い合わせ
〇「いのちの水」誌は、前身の「はこ舟」誌が、一九五六年四月に発行を開始、後に「いのちの水」と改名して続けられ、今年の6月号で七百号を迎えることになります。
感謝を込めて、七百号記念号としたいと思います。
それで、「はこ舟」誌から現在の「いのちの水」誌に関して、何らかの記憶に残っていること、あるいは、そのなかのひと言とかある文とか、何でも結構ですので、お送りくだされば幸いです。
インターネットができるかたは、メールの添付ファイル、短いものはメール本文に書いてくださって結構です。メールなどしていない方は、ハガキや封書でも結構ですので、奥付の吉村孝雄宛てお送りください。
〇多くの方々からの祈り、協力費、お手紙、メール、その他のご配慮等々をいただきありがとうございます。
そうしたことによって長い歳月をこの「いのちの水」誌が支えられてきたことを思います。
また問い合わせ、申込なども折々にありますが、いろいろの事情のためになかなかお返事もできないことが多く申し訳なく思っています。
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