いのちの水 2019年 5月号 699号
主の言葉を愛し、昼も夜も黙想する人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 時が来れば実をむすび、葉もしおれることがない。 詩篇一の2 |
目次
・ともしび |
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・壊れやすい未来と聖書ー 科学技術と未来 |
・お知らせ 北海道瀬棚聖書集会ほか |
毎週おとずれる日曜日は、何をもとにして世界的に休みとなったのか、それは、単なる仕事を休んで、自由に遊び、楽しむ日ではなかった。
それは、キリストの復活の記念として、その復活したキリストを礼拝し、その復活の力を新たに与えられるための礼拝のときとして始まった。
それゆえに、キリスト教を信じる人も信じない人も、また日本の伝統に固執するという人であっても、みんな日曜日を休むというキリストの復活の記念日を休むということになっているのである。言い換えれば、それほど復活ということは、大いなる力をもって歴史の流れにおいても信じられてきたのがうかがえる。キリストの復活とは、単なる昔の特定の宗教の信条ということでなく、今も世界を地下水のように変ることなく流れ続けている事実なのである。
イエスが神の力によって復活して、あらゆるものを呑み込む死の力に勝利された。
その復活ゆえに、イエスは神の子であること、言い換えると、神の本質が完全に与えられていることが証しされ、その十字架上での死によりて、すべての罪があがなわれたのが信じられるようになった。
それゆえに、復活はキリストの福音の中心にある。パウロも、「復活なくば、私たちの宣教もその信仰も空しい」といった。(Tコリント15の14)
イエスが捕らえられるとき、イエスを知らないなどと言って逃げてしまった弟子たちであったが、その罪が赦され、聖霊を豊かに注がれて、命がけで福音を宣べ伝えるようになった。その福音の出発点は、キリストの復活を伝えることであった。(使徒言行録2の24〜32)
イースターはその記念の日である。復活こそ、すべてを新しくする力がある。あらゆる闇の力を打ち壊していくことが復活である。
聖書には、復活について多く記されている。イエスは復活し、今も生きておられる。そして、わたしたちと共にいてくださる。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(Tテサロニケ五・10)
日本や世界の情勢、どこを見ても光が見えないような状況がある。この世のことだけを考えていたら、闇に包まれてくる。しかし、イエスの復活を信じるとき、光の翼が与えられて、神の大いなる力の世界へと導かれる。
イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」(ヨハネ十一・25〜26)
この言葉は、世の終わりに復活することは信じているーと言ったマルタの言葉を修正するように言われたのであった。
世の終わりまで復活しないのでなく、いまキリストを信じるだけで、決して死ぬことがないー永遠の命を与えられるのだと言われている。 復活したときの命は、永遠の命であり、神の持っておられる命である。その永遠の命が信じるだけで与えられるという、驚くべき言葉である。
それゆえに、イエスは「このことを信じるか」と言われた。
そのイエスの言葉を受けて、マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」と答えたのだった。
それまでは、いつか分からない世の終わりに復活するということは知っていたと話したマルタ、ただ信じるだけでいまその復活して与えられる永遠の命が与えられるということは、まったく知らなかったと見える。
しかし、イエスからの直接の言葉によってマルタはただちに信じるようになった。
現在の私たちにおいても、さまざまの学者や人間の意見、感想などによっては、復活や十字架による赦し、あるいは真理の永遠性や普遍性、悪の最終的な滅びなど、根本的に重要なことは信じるようにはならない。直接に生きて働いておられるキリストからの語りかけによって信じることができるようになる。
パウロというキリスト教史上最大の働きをすることになった人物も、キリスト教の真理をまったく受けいれられずに、キリストを信じる人たちを迫害しつづけていたのだった。
しかし、復活したキリストの光とその直接の語りかけを受けて、ただちに回心した。そしてキリストの最も大いなる働き人となった。
死んでも死なない、これはすべての人間を取り巻く死の力にうち勝つということである。
さまざまの事故、災害、あるいは犯罪や戦争によって断たれた命であっても、復活を信じるだけで、そうしたあらゆる死の力に勝利している。だから、勇気を出せ、とイエスは最後の夕食の時に言われた。過去にどんな罪を犯そうとも、どんな病気になろうとも、永遠の命の世界にうつしていただけるのである。
「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ四・14〜15)
復活されたキリストが、私たちの心の内に住んでくださるとき、そのキリストから活きた水が湧き出てくる。キリストを信じて集まるとき、そこに復活したキリストがいてくださる。ここから、命が湧き出ている。
それゆえに、その永遠に至る水を求める必要がある。じっとしているのではなく、求め続けていくのである。
日本の万葉集や古今集、平家物語や方丈記等々には、人間世界のこまやかな情や自然への共感などはさまざまに記されている。それとともに、しばしば世の中の移り変わりの空しさが記されている。 しかし、そこでは、未来における確固たる希望の光はない。
これらの文学においては、月はしばしば現れるが、星に関しては、ほとんど言及されないことは、意外と思えるほどである。
星の存在、その光の永遠性こそは、地上で見えるものの中で最も、神の光の永遠性やその清い本質を象徴的に表すものである。
それゆえに、聖書においても星はしばしば言及され、また、そうした精神を受けた世界的な大詩人として古来膨大な訳や注解書が記されてきたダンテの神曲には、その三つの大きな篇の最後に、星という言葉で終えられているほどに、重要視されているのと対照的である。
私自身、若き日に、漱石、?外、芥川、島崎藤村等々の日本の代表的な文学とされるものを次々と読んでいったが、それらによってはまったく永遠の光というものを感じることはできなかった。
そこには、人間を超えた存在ー天地万物を創造した神への魂の叫び、そしてその神からの愛と真実な語りかけというものをそうした文学からは全く知ることはなかった。
それと全く異なっているのが聖書の世界である。聖書全巻二千ページにわたって、いたるところで、神からの語りかけが記され、その愛や真実が記され、またとくに詩篇には、人間の側からの真実な叫びや祈りとその応答が豊かに記されている。
それは、単に人間の感情に留まらず、その背後におられる愛の神が語らせているのが感じられる。それゆえに、聖書の詩は、人間の感情の記述のように見えながら、実は、神の言葉だとして聖書に含まれているのである。
この世界が、いかに闇と混沌であろうも、そこに光あれ、と言われたらそこに光がある。その光は幼な子のように、信じるだけで、与えられるのである。そして神とキリストを信じるだけで、永遠の命が与えられる。
どんなに一人になっても「あなたは、ひとりではない」と言ってくださる神。人間に求めても、限界がある。しかし、神が共にいてくださるとき、それは、限界はない。共にいればいるほど、その良さがわかる世界である。
この世の、目に見えるものばかりみていたら、霊の目が閉ざされていく。日常身近に与えられている自然のなかで、また、御言葉に触れて、日々目を開かれる必要がある。
すべての人が、キリストの復活の命ー永遠の命をいただくことができますようにと願いつつ、わたしたちも常にその復活のいのちを求めていきたい。
(これは、4月21日のイースター特別礼拝で語ったことに加筆したもの)
戒めは灯、教えは光。
諭しのための懲らしめは、
命の道。(旧約聖書・箴言6の23)
これは、人間にとっての光は、神の言葉にあり、苦難も神の命へと導くという宣言である。 聖書で言われている戒め、教 えと訳された言葉は、詩篇や箴言に多くみられるが、それらは、単なる人間の戒めや教えでなく、神の言葉を意味する。(*)
人間の意見や思想といったものは、実に千差万別であって、どれが本当に永遠の真理を言っているのかまったく分からなくなることが多い。
とくに、多くの文学書、哲学書、あるいは学問的書物を読んだら、永遠に変わらぬ真理がわかるということでもない。かえって複雑になって迷い込んでしまうこともしばしばである。
そうした中で、天地創造をされた神の言葉のみが、星のように、永遠の真理、数千年を経ても変わらぬ真理を宿している。
それゆえに、聖書は世界中で、現在でも最も多くの翻訳ー一千を越える言葉に訳され、全世界において聖書を見ることができるようになっているのは、その証しである。
そこには、限りなく高く広い世界があり、無限の奥行きのある言葉で満ちている。
それは、単に活字を読むということから、翼を与えられて、真理の大空へと導かれ、生ける神からの語りかけとして感じ取ることができるようにまで導くからである。
読み始めたときは、無意味に思える言葉、あるいは反発を感じて読みたくないと思ったような個所であっても、のちになってその言葉に秘められていた真理に気づいてあらためて聖書の世界の奥深さを知らされるーということは、キリスト者なら誰でも経験してきたことだろう。
現在において、変わらぬ光、いかも命を与える言葉こそは何よりも求められている。単なる長寿は、しばしば孤独と病気の苦しみ、介護の重い負担、また、周囲からの侮蔑、差別や無視、絶望等々の最も苦しい状況を伴うことも多い。
すべての人が欲するのは、単に長生きすることでなく、生き生きとした命である。魂に光がある命であり、愛の神から私たちの弱さや罪をゆるし、励まし、語りかけてくださるような命である。
そして、私たちの直面する神からの懲らしめーさまざまの苦しいことも私たち自身の罪を知らせ、この箴言で言われているように、さらなる命の道へと導くための御計画の一端なのだと信じて受けとっていくーこの箴言の言葉もまた、現代に生きる私たちへのともしびとなっている。
「あなたのみ言葉はわが足の灯、わが道の光。」(詩篇119の105)
(*)神の言葉は究極的な戒めであり、教えであり、聖書の詩篇や箴言では一貫して神の言葉の重要性を記しているが、その際に、日本語訳では、戒め、律法、御言葉、教え、掟、命令、諭しー等々とさまざまの訳語で表されている。
それらの訳語は、別の聖書ではちがったように訳されていることも多く、全体的にそうした表現は「神の言葉」を指していると受けとるのが望ましい。
じっさい、この箴言で言われている、戒めは灯という表現は、最後にあげた詩篇では、神の言葉こそは、私たちの灯だと言われている。
また、詩篇第一篇の言葉として知られている、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も黙想する人。その人は、流れのほとりに植えられた木のようだ。時がくると実を結ぶ…」とあるがここで、「主の教え」と訳されている原語はトーラーであり、しばしば律法と訳されている言葉であり、ほかの訳では、「主のおきて」とも訳されている。
使徒言行録のなかには、パウロがどのような危険の中を導かれて行ったか。主の導きの具体的な内容の一部が書かれている。(使徒言行録23章12〜22)
パウロが、神殿の境内にいたとき、ユダヤ人たちが、彼を見つけ、群衆を煽動して次のように言った。
「この男は、律法や神殿を無視し、そのことを教えている。そして異邦人であるギリシャ人を境内に連れ込んで聖なる神殿を汚した」
律法を無視するというのは具体的には、ユダヤ人がずっと守っていてそれをしなければ救われないとしていた割礼という儀式をしなくても、ただキリストを信じる信仰によって救われるということを説いていたことである。
さらに、パウロは、彼らが何より重要としているモーセの律法を知らずとも、キリストの復活を信じるだけで救われるというような主張は、彼らの長い伝統を打ち壊すものだとみなした、
ユダヤ人のうち伝統を重んじるサドカイ派の者たちは、「復活に関しては、モーセ律法に書かれていない、だから、復活を宣教することは律法に背くことである」と考えていた。
しかし、それだけではない。 もしパウロが証ししているように、キリストが復活したのなら、それは神が復活させたのであり、神のご意志であったことになる。
そのキリストを殺したのがユダヤ人であり、かれらをそのようにそそのかしたのが大祭司や祭司長、律法学者、長老たちであり、ユダヤ人もみなキリストを殺すことに賛成したのだった。
ということになると、彼らが神のご意志に反することをしたことになるー。
そうしたことのゆえに、パウロを激しく憎み、すぐに殺そうとするほどの敵意となったのだった。
四十人以上のユダヤ人が、パウロを殺すまで、飲み食いはしないと誓いを立ててまでパウロを殺す陰謀を企てていた。
さらに、パウロは、復活したキリストに出会い、そのキリストから、直接に、「行け、私があなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」と言われたことをユダヤ人たちを前にして証しした。
ユダヤ人たちは、異邦人とは神が主の日に滅ぼされてしまう人たちだと、信じていた。 その異邦人のために、神が復活させたキリストがパウロに命じたということになれば、彼らがずっと考えてきたことが間違っていたことになる。 そのようなことも加わり、ユダヤ人たちはパウロを激しく憎んだのだった。
パウロは、殺害の計画がなされ、もう殺されるのは目前という状況におかれることになった。
そのパウロを、だれがどのようにして助けたのか。ユダヤの国は、ローマ人によって支配されていたので、パウロを罪に定めるためには千人隊長に願い出る必要がある。しかし、ユダヤ人たちは、そこに連れてくる途中でパウロを殺そうと計画していた。
そのとき、パウロの甥が、この策略を聞き、パウロに知らせたのである。もし、この甥が知らせなかったら、パウロは殺されていた。この甥は名前も知らされていない。このように、神のご計画のためには予想もしない人を神は用いられる。神が用いようとするときには、不思議な方法で、守り導かれるのである。
旧約聖書の中でも、イスラエルの民が導かれるとき、だれも予想もできなかったことであったが、遊女ラハブが用いられた。
それは、わたしたち、信じるものにも言えることである。人間の想定する導きとは違って、まったく意外な人、また敵対するような人をも用いて神は導かれるのである。
ここでも、ユダヤ人たちは絶対にパウロを殺そうとしていたのに千人隊長は五百人近い護衛を配してパウロを総督のもとに連れて行った。それは、ただの若者のひと言からであった。
それでパウロは守られ、後にローマにも行ったのである。わたしたちも、守り導いてくれるのは誰かわからない。
しかし、神を信じていたら必ず導いて守ってくださる。これから、何が起こるかわからない。しかし、今までも多くの人に守られてきた。
わたしたちが神を信じることができるということは、神に選ばれたということである。神は選んだ者を守り導いてくださるのである。
私たちは、パウロのような特別に召された人だから、人間の助けなどなくとも生き抜いたのだと思いがちである。
しかし、パウロはさまざまな人に助けられた、ということがローマ書十六章で名前を連ねて記されている。
「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。
彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。 命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。…」
これらの人たちの他にも、多くの、主にあるひとたちが、パウロの伝道を助け、共に歩んだことが、それらの人たちの名前をあげて記し、感謝していることからうかがえる。
神の国のための働きは、神の民の共同体としてなされていくのである。
神は、神を信じる者たちを個々の人々を個人的に守り導くことのほかに、全体として信じる人たちを用い、福音のために守り導き、そして神のご計画を進められるのである。
すでに旧約聖書の項で述べたように、新旧の聖書全体は、罪の赦しという人間にとっての最も大いなる恵みに関して記している。
新約聖書においても、イエスという名前そのものが、罪からの救いを意味しているのを記して、その重要性を最初から示している。(マタイ1の21)
そして、万人にとっていつでもどこででも祈ることのできる最も深い内容の祈りとして「主の祈り」を示されたが、そこにおいても、私たちが他者の罪を赦したように、私の罪を赦したまえーとの祈りが示されている。他者の罪を赦そうとすればーそれが深い罪であるほど、神からの助け、聖霊の力なくしては赦せない。そこから、自分の罪に気づき、その罪を赦していただくために、祈るーその祈りに応えて主は、赦しを与え、他者をも赦せるようにしてくださる。
山上の教えにおいて、まず最初に記されているのが、「ああ、幸だ、霊において貧しい人たち!」であった。
霊において貧しいとは、すなわち、みずからの罪を深く知って自分には、本当の愛や真実、正義を行なう力がまるでないことを思い知らされている人たちのことである。
そのような人たちは、罪の赦しを求めて幼な子のようにまっすぐに神を仰ぐ。そこに大いなる赦しがあり、祝福が与えられるー罪を知り、その赦しを受けることの重要性はここでも、山上の教えの最初におかれていることで示されている。
イエスの当時、異邦の民であるローマ人の部下となり、同胞であるユダヤ人から税を取り立てて自分も不正な利益を得ている者が多かった徴税人は、ユダヤ人からは汚れているとされ、異邦人の手先となって自分たちを苦しめているとして、一般のユダヤ人からは見下され嫌悪の心を持たれていた。
しかし、そうした徴税人の中にも、本当に罪を知り、赦しを願って神殿にきて祈る人がいたことを、イエスは知っておられた。
…徴税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。神に義とされて帰ったのはこの人である。(ルカ18の13〜14より)
心貧しき人とは、このような人を指す。
それをさらに、強調するために、幼な子のような心を重視された。幼な子のような心なくば、神の国を見ること、そこに入ることはできないと言われたほどである。
言い換えれば、それは罪を知り、罪の赦しを幼な子のように神を見つめて求めるのでなければ、神の国には入れないということなのである。
このことは、すでにイエスよりはるか昔に、預言者によって言われていた。
…世界のあらゆる人たちよ、
私を仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。(イザヤ書45の22)
とくにペテロは、使徒のなかでも代表格であったこともあり、イエスの逮捕直前まで、たとえ殺されるようなことがあっても、主に従っていくと言ったほどであった。しかし、じっさいにイエスが捕らわれるときには、逃げてしまい、その後、イエスが大祭司のところで尋問されているとき、その中庭でいたが、そこで大祭司に仕える女中から「あなたもイエスとともにいた」と言われた。
ペテロはそれを強く否定し、その後も繰り返しイエスの仲間であることを否定した。
そのような裏切りの言動をしてしまったペテロは、いかにして赦されたのか。
それは、ルカ福音書によれば、遠くからのイエスのまなざしを受けたが、そのとき、ペテロはすべて見抜いておられたイエスの深い洞察を思い知らされ、かつその見つめる愛のまなざしを受けて、自分のそれまでの深い罪の本性を光に照らされたように悟り、それをも知ったうえで、赦しを与えようとされるイエスの深い愛に接して激しく泣いた。(ルカ22の54〜62)
また、イエスは、中風で寝たきりの人を、人々がベッドに乗せたままイエスのもとに運んできたが、そこには多くの人たちがいてイエスの前に連れていけないのを知って、屋根を剥いで患者をイエスの前につり降ろした。そのような大胆な行動、ひたすら友人のために、イエスの愛と類ない力を信じての行動がなされた。イエスは、その友人たちの信仰を見て、中風の人にむかってあなたの罪は赦された、と言われた。(マタイ9の2)
中風を癒してもらおうとして来たのであったが、体の癒し以上に重要な罪の赦しを与えようとまず言われたのだった。
使徒パウロも、彼の人生の根本的に重要な出来事は、キリスト教徒を迫害していくさなかにおいて、復活のキリストの光とみ言葉が注がれたことだった。そして、キリスト者を迫害し、殺すことさえした重い罪の赦しを受けることによって、ただ信仰によって救われるというアブラハム以来流れてきた神の愛の真理を深く体得するに至ったのであった。
そのことが、ローマの信徒への手紙の中心として、3章から5章にかけて詳しく説かれている。またガラテヤ書は、その最も大切な罪の赦しー神によって正しいとされることーはただ信じることによって与えられるという内容で満ちているほどである。
パウロの大いなる罪の赦しは何によって与えられたのか。
それは、何かの善行あるいは苦行とか捧げ物などによらず、ただ天からの光を受けて復活のキリストからの言葉を受けて、キリストを信じただけでその大いなる罪からの赦しが与えられたのである。
そのような経験から、パウロは赦しということについて深い啓示を与えられたが、それは聖書に随所に記されている。
…互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互いにゆるし合いなさい。(エペソ書4の32)
ヨハネ福音書やヨハネの手紙において、繰り返し説かれている、互いに愛しあいなさい、ということは、互いに赦し合いなさい、ということを含んでいる。それは、神を仰ぎ、キリストの十字架を仰いで、みずからがまず赦されているものであることを実感しつつ他者を赦そうとすることである。
それこそは、互いに愛し合うということである。愛とは赦しを内に含むものだからである。
…互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。(コロサイ書3の13)
他者から何らかの不正ー無理解、欺き、裏切り、侮辱、差別等々の愛なき言動を受けたとき、それは心に深い傷となって残ることがある。そして、そのようなことをした相手をどうしても赦せない、という心となる。
その赦せないという心が、また自分自身の心の傷を深くしていき、さらにその赦せない状態が持続していくことになる。
そうした悪循環を断ち切ることは、単に忘れようとする意志だけではどうにもならない。それは、神を仰ぎ、十字架のキリストを仰ぎ、そして聖霊を与えられることによってはじめて赦しの心が湧いてくる。
そしてそれまでの赦せないという何らかの怒りや憎しみのような感情とはちがって、自分にも相手にも神からの清いものが流れていくようにとの祈りと変えられる。
イエスが、次のように、他者の罪をゆるせ、と言われたのは、そうしたことを意味している。赦しは神の愛にそのもとがあるゆえ、相手をゆるそうとする心は、相手に神の愛が伝わるようにと祈る心である。
…人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがない。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがない。ゆるせ。そうすれば、自分もゆるされる。(ルカ6の37)
罪の赦しは、根本的に重要なことであるゆえ、旧約聖書からさまざまに預言され、キリストの十字架が指し示されていたが、キリストが現れる直前に宣教したバプテスマのヨハネについても次のように言われている。
…子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである(ルカ1の76〜77)。
バプテスマのヨハネはキリストの先駆けとなり、その道を備える存在であり、かれのこともまた、旧約聖書ですでに預言されていたのである。
このように、神は、旧約聖書を通し、またイエスが宣教する直前においても、罪の赦しの福音が伝えられることをバプテスマのヨハネを用いてキリストの道を備えとされたのである。
キリスト教と無関係なところでは、愛ということと罪の赦しということとは深くつながっているとは思われていない。愛とは、一般的には、好きという感情のことであるという思い込みがある。
そして罪とは、やはり一般的には、逮捕されるような悪事を意味している。それゆえに、愛と罪のゆるしなどは関係がないとみなされる。
しかし、人間の最も深い心の世界を見抜いておられる神とキリストは、本当の愛と罪の赦しは不可分に結びついているのを示している。
私たちは、神の愛を知るのは、何か私たちの思ったとおりのことをしてくれた、ということによってではない。そのようなことは、思いがけない苦しみや周囲の事故、災害などによって、たちまち神の愛などはないのだ、という思いへと転じるであろう。
しかし、人間の根本問題である罪ー本当に良いことや愛を行なえないこと、また、正義への力(勇気)もない実体を思い知らされ、そこからそのゆるしを与えられたとき、私たちは、周囲のいかなる状況にもかかわらず、神の愛を知らされる。
…私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して、その罪をつぐなうために、御子キリストを遣わされた。ここに愛がある。(*)
(*)ギリシャ語の原文では、「ここに愛がある」あるいは「これこそ、愛である」という表現が最初に置かれている。英語などの訳ではそれが原文どおりに表されている。
In this is love, not that we loved God but that he loved us and sent his Son to be the atoning sacrifice for our sins.(NRS)、あるいは、 This is love: not that we loved God, but that he loved us and sent his Son as an atoning sacrifice for our sins. (NIV)
キリストの使命は、単によい教えを語るということではなかった。それは、罪からの解放、罪のゆるしを与えることであった。
それゆえに、イエスが聖霊を受けて、福音伝道をはじめられたとき最初に行った会堂において、次のような預言が今日成就した、と言われたのである。
…「主の霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。
主はわたしをつかわして、捕らわれている人たちに解放を、目の見えない人たちの目が開かれることを告げ知らせ、圧迫されている人に自由を得させるためである。(ルカ4の18より)
ここで、捕らわれている人たち、目の見えない人たち、圧迫された人たちーそれらはみな、罪の力によって捕らわれ、圧迫されていた人たちのことであり、その罪からの解放のためにキリストは来られたということなのである。
罪のゆるしは、復活と共に、福音の中心にある。それゆえに、復活したキリストは次のように言われた。
…そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、あらゆる国民に宣べ伝えられる。(ルカ24の47)
今年のはじめ、「脆弱な未来」というタイトルのコラムがあった。(毎日新聞1月7日)
そのコラムは、科学技術による社会全体のもろさ、不確定さについての短い文であった。
そのことに関連して、科学技術に関する言説の脆弱さと、この世界において脆弱でないものとは何かを考えたい。
フロンは、かつて無毒であり、化学的にも安定で変質しない、たいていのフロンは酸素と結合しない(燃えない)といった性質から、はじめの頃は、「夢の化学物質」と言われたほどで、冷蔵庫の冷媒、消火剤、エアゾール等々として大量に使われた。しかし、40年ほど経ってから、オゾン層破壊の原因物質と判明したために、各国で使用、製造の禁止令が出されるようになって現在では、一部の開発途上国以外では使われなくなった。
また、PCB(ポリクロロビフェニル PolyChloroBiphenyl)も、熱に対して安定で、化学変化も起こしにくい、電気絶縁性も高い…といったさまざまの望ましい性質ゆえに、変圧器やコンデンサなどの電気機器の絶縁油として、また冷却用熱媒体、溶剤や塗料等々、さまざまの領域に重要な用途があった。
しかし、これが、カネミ油症のような深刻な公害を引き起こす重大な毒性を持ったものだと判明した。
また、現在世界的な問題となっているプラスチック汚染の問題である。プラスチックは、安価で大量に石油から作られる。包装や各種容器、文房具などの身近な用具、食品容器などさまざまの器具、家具、自動車関係…生活の到る所で用いられている。
これが、かつては予想もされなかったことだが、微細なプラスチックとなって広大な海を汚染し、それが魚介類、海草などにも取り込まれたり、それらに付着している有害物質とともに、人間にも入り込む。
国連の広報センターから出されている次のようなメッセージがある。
「… 実はプラスチックごみの9割が、リサイクルされていないこと。毎年800万トン以上のプラスチックがゴミとして海に流れ込んでいること。すでにその数は銀河系の星の数より多く、2050年には魚の量より多くなると予測されていること。
そして、一部は紫外線・海流・波で、マイクロプラスチックと呼ばれる細かい破片となり、有害物質が付着しやすくなり、鳥や魚がエサと間違えて食べ、その魚を私たちが食べていること。買い物で、飲食店で、あらゆるところで、必要ないプラスチックを使うのはやめましょう。そのプラスチックは、使い捨てになるだけではなく、この地球を汚す可能性が高いのだから。」
これは、現代の最大の環境汚染問題の一つとして、ますますクローズアップされつつある。
プラスチックは、生活のあらゆる分野に入り込み、生活を便利に、かつ清潔にもしてきたと考えられてきた。
しかし、それが、誰もかつては想像できなかった難問を内に秘めていることが明らかになってきつつある。
このように、これら三種は、その実用化が推進されていったときには、理想的な科学技術の産物で、世界にその用途がたちまち広がっていった。
しかし、後になってその有害性、あるいは毒性が明らかになり、決して理想的な産物でないことが判明していった。
こうしたものの最たるものでもあったのが、原発である。
原発が取り入れられた頃には、原発は、ビルの地下でもできる、船、飛行機や列車などにも取り入れることができる。ごくわずかで驚くべき長時間の運行が可能だ、などと、現在から考えると全くの夢物語のようなことが、宣伝されていた。原発こそは、明るい未来を開くエネルギーだとされ、そのような看板が町に設置されていた。
しかし、2015年に、福島第一原発がある福島県双葉町で、「原子力 明るい未来のエネルギー」と書いた大きな道路看板が撤去された。
明るい未来のエネルギーどころか、原発の大事故は、闇と絶望をもたらすエネルギーであることが判明した。
人々の分断、田畑森林の自然破壊、放射能汚染と廃棄物処理の途方もない困難をもたらしてしまった。
すでに、今から140年ほど昔に、ノーベルによって発明されたダイナマイトは最初は道路工事、トンネル工事などに安全をもたらすものとして宣伝されたが、たちまちそれは、第一次世界大戦で膨大な爆弾としてかつてない多数の人間の命を奪い、また体に生涯残る重い障がいをも残す悪魔的な兵器となった。
日本においても土木工事ートンネルや琵琶湖疎水の工事などに用いられる有用なものとされたが、 すぐに、日露戦争で、巨大な爆発物として攻撃に使用され、戦争での有用性が明確になり、さらに大量殺人を引き起こすことにつながっていった。
ノーベル自身も、ダイナマイトが戦争に用いられることは知っていたのであり、ノーベル賞という輝かしいイメージとは裏腹に、ノーベルが資金を提供したその世界最高とみなされる賞の背景には、おびただしい人命が爆発物によって失われたのであった。
このように、科学技術の産物は、最初はよいもの、人間にとってとてもよいものだと宣伝されるが、まもなく人間にとって大きな害悪を及ぼすものでもあるということが判明するーという経過をたどってきた。
今日のコンピュータや、それと結びついているインターネット文明も同様である。世界をおびえさせているテロもインターネットがなければとてもあのようにはなされなかった。AI(人工知能)もまた、同様である。
いろいろと便利なことが言われているが、それが人間にとっていかなる害悪をもたらしていくか、そのはっきりした未来像を捕らえることは、それが導入されはじめた頃においては、至難である。
はじめに述べた記事に、次のようなあるコンピュータ企業につとめている人の発言も記されている。
「情報技術が進んで、情報がすべてとなり、非常に脆弱な社会になった。
自動運転も、金融システムも、元の情報が間違っていたら全部壊れる。…いまは情報に頼ってますます脆弱な社会をつくろうとしている。」
けれども、そうした社会の脆弱さは、いまにはじまったことではない。
人間そのものが、きわめて脆弱である。ちょっとした事故で重傷を負ったり、食物でも中毒、あるいは目に見えない細菌やウイルスによって重病となり、また死に至ることもある。仲良くしていたと思った人間関係はたちまち憎しみに終わる。アメリカとロシアや北朝鮮のような国家関係も、家庭のような小さな単位においてもそれは同様である。
一人一人の人間の心や考えは、他人のひと言でも大きくぐらついたり、激しい憎しみや落胆、絶望したりすることもある。
正しい道、真実な歩みなどまるでできない弱さがある。
そうした弱さをもった人間が集まった社会も国家もまたどこまでいっても脆弱であるのは必然である。
そうした脆弱な本質を持つ人間が生み出した機器は、またその人間の弱さー悪しきことであっても利得のために使おうとする罪深い本質ゆえに、脆弱なものであり続ける。
こうしたこの世の本質的な脆弱性のただなかにあって、永遠の書たる聖書においては、それとは全く別の強固な本質が、一貫して示されている。
神の真実は永遠であり、その愛も同様である。神こそは、不動の存在ー岩であるということは、旧約聖書の詩篇にも繰り返し記されている。
人間の生物としての命はきわめて脆弱であり、ごく少量の毒物によっても、また小さな弾丸や剣の一突きでも失われるし、日常生活の一瞬の油断によっても交通事故で死に至る。
しかし、そうしたはかなさのただなかに、神は私たちにいかなる事態によっても破壊されない「永遠の命」の存在を明確に示している。
事故や剣など、また災害などによって肉体は死すとも、神の命である永遠の命が与えられている者は死することがない。
この世のあらゆる脆弱性のただなかにあって、聖書は、永遠不動の真理を示し続けている。
そしてそれを目に見えるかたちで、指し示し続けるものとして星がある。たとえ、AI技術の進展で人間生活がますます脆弱になっていこうとも、星の永遠の確固たる存在は微動もない。
それは、神ご自身の永遠性を指し示すものなのであり、そのような永遠性を受けるには、ただ神とキリストを信じるだけで足りる。
そして最終的には、この世の終わりを経て、「新しい天と地」となるという。それはどのようなものか想像つかないものであるが、そこではあらゆる涙も苦しみもないという象徴的な言葉が聖書の最後の黙示録に記されている。
そして、やはり信じるだけで、私たちはその新しい天と地の前味というべきものを、たとえわずかであっても魂の内に経験させていただける。
現実の世界の脆弱性、私たち自身の弱さを見つめつつ、それに巻き込まれて弱さのなかに沈んでしまうのでなく、その弱さを越えて永遠に不動不変の神の国を仰ぎ、そこからの力と導きを受けて歩むことが私たちの願いである。
今年の北海道の瀬棚での聖書集会のお知らせが、担当の野中信成さんから届きましたので、次に転載しておきます。
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第46回 北海道瀬棚聖書集会
〇6月に、吉村孝雄が県外で聖書講話を担当する集会予定です。
〇3月に、徳島市でコンサートをしていただいた森 祐理さんと音響担当の岡
兼次郎さんの証しの録音CD、それから、前回(2010年)徳島に来られたときの賛美などの録音CDもありますので希望の方は申込下さい。