「いのちの水」第七〇〇号 記念号 2019年 6月号
極度の忍苦、艱難にも、行き詰まりにも… |
目次
「いのちの水」誌七〇〇号に寄せて (投稿された文) |
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・休憩室 |
・お知らせ |
地上のものはみなうつり行く。
ほとんど動かないと思われる大地や山々も、ーそして地球や太陽ですら変質していく。
ついには消滅してしまう。
万物は移ろい、過ぎ去っていく。
そのことを思うときには万事がはかなく空しくなる。
しかし、すでに数千年昔から、そうした目に見えるすべてと異なって、永遠に変質しないものがあると知らされている。
それこそは、万物を創造され、いまも支えておられる神であり、その神の愛と真実である。
そしてその神から与えられる神の言葉である。
いかに美しき自然といえども、生まれつき全盲の方々、また重い障がいや病気に伏している方々には、接することもできない。
しかし、神の言葉は、そうしたいかなる妨げや制限にもかかわらず、訪れてくださる。
永遠の励まし、その力をもって。
その神の言葉そのものでもある生きて働くキリストも同様である。
「天地は滅びる(過ぎ行く)。しかし私の言葉は決して滅びることはない。」
(マタイ福音書24の35)
『いのちの水』誌700号、感謝!!
森山 浩二(東京)
吉村孝雄 著者・発行人の『いのちの水』誌が、6月で700号を迎えるとのこと、その前の『はこ舟』を引き継いでいるとは言え、おそらく、無教会の個人伝道誌としては最長の記録でしょう。神様の御恩恵と導きによるものであり、その伝道のお働きと御愛労に感謝すると共に、心よりお慶び申し上げます。そして、主イエス・キリストの神様を讃美いたします。
1997年11月22日から23日、沖縄での「無教会キリスト信徒全国集会」に参加した時、23日の午後行われた「平和学習ツアー」Aコースに参加し、ひめゆりの塔などの南部戦跡を見学しでいて吉村先生と初めてお会いし、大学生の時、矢内原忠雄先生の『キリスト教入門』を読み、キリスト教信仰を与えられたことを聞き、私も大学生時代に同じ体験をしていましたので、親しさを覚えいろいろ話をしました。
そして、徳島聖書キリスト集会を主宰し、『いのちの水』誌を発行しておられることを聞き、定期購読するようになり現在に至っています。
その間、読者としての感謝の応答が少なかったことをお詫びすると共に、私にとっての『いのちの水』誌に感謝すべきことをいくつか述べさせていただきます。
一つは、勤務していたキリスト教主義の学校で、高校3年の「現代社会」の授業の資料として、憲法や原発、沖縄などの現代社会や政治問題に対する『いのちの水』誌に掲載された吉村先生の文章を何回も使わせてもらいました。 教科書や出版社の資料だけでなく、キリスト教的立場からの考え方など知ってもらうためでした。
そして、私自身がこの世の出来事についてキリスト者としてどう考え対処すべきか、いろいろ学ばせていただきました。
二つ目は、私の親族の何人かに『いのちの水』誌を購読するよう勧めたり、送ってもらったりしました。少しでも信仰生活の力となり、また、キリスト教について知る事ができればという願いからでしたが、それぞれがどのように受けとめていますか。
徳島聖書キリスト集会だけでなく、日本各地を伝道活動しておられる中での毎月の『いのちの水』誌の発行、大変な戦いであろうと思いますが、吉村先生に与えられた信仰の賜物をもって日本における福音伝道のために用いられ、主の聖名が崇められますようお祈りいたします。(渋谷聖書集会)
韓国での「いのちの水」誌の読書会から
張 維利 (ツァン ユリ Jang Youri)
韓国のある田舎にて「いのちの水」誌を読んでいます。
村の人6?7人が集まって開く「『いのちの水』読み会」に参加しているザン・ユリ(Youri Jang )と申します。
ここの村で出会った、若い時期に日本で留学したことがある一人の先生が、「いのちの水」誌をずっといただいて読んでいました。
いつから「『いのちの水』読み会」 が始まったかは覚えていませんが、いつの間にか週一回、村の図書館で1?2時間ほど読み続けています。
私は2012年の頃から参加しています。
最初は聖書の内容も難しくて、日本語も理解できませんでした。
それでも参加者のみんなで少しづつ翻訳し、発表してお互いに勉強しながら頑張っています。
私は子供の時から一般の教会に出てましたが、まだまだ神様を信じるというのがどういう事なのか、分からないのです。
それを自覚する際には自分のことが嫌になったり、周りの人たちと比べて落ち込んだり、
それにも関わらず読み会にずっと参加している自分が偽善者だと思う時もあります。
でも2015年1?2月頃に「『いのちの水』読み会」で読んだ内容の中で一ヶ所、すごく元気をもらうところがありました。
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「2014年10月 「いのちの水」第644号」より
キリスト教集会のあり方ー
聖書にはいかに示しているか
主を信じて集まる者たちのただ中に主イエスがおられる。 また私たちの集りそれ自体がキリストのからだである。それが私たちのあるべき姿を指し示している。
泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ、苦しむ者とともに苦しむ…それがキリストのからだとしてのエクレシアのあるべき状態である。
苦しい状況にある人を愛するとは、その人の苦しみを少しでも自分のことのように受けとってできることをしようという心である。祈る心である。
このように、あるべき集会の姿とは、互いに祈り合い、助け合うということになる。
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一人だったら神様を信じていない私の前に神様が来てくださる訳が無い。
しかしみんなと集まって聖書の歴史を勉強したり、イエス様の話を読んだり、日本での出来ことに共感したり…
そうする間、自分はまだ神様の存在に関して確信を持っていなくても、もしかするとこの中に神様がおられるかも!と思うことになりました。
今までは「日本語の勉強の時間」だったのが、仲間達との「『いのちの水』読み会」に変わったと思いました。
「信仰」と「信じる」という言葉にとらわれるだけじゃなくて、神様と主イエスのことを考え、誰かのために祈って、共感する時間になりました。
途中で他の町に引っ越しして参加できなくなったり、サボったりしていた時期もありました。
暮らしの中で辛い時もあります。
でも一ヶ月に一回「いのちの水」誌が届いて、みんなと読んでいたら、今月も皆さん無事に集まった、また一ヶ月分の話と言葉をもらう事が出来た、と海の向こうでありがたい気持ちになります。
内なるともしび、
流れる水のように
金 世彬(キム セビン Kim Sebin 韓国)
私は去年から「いのちの水」読書会に参加しました。まだ日本語も下手ですし、聞き取れる話も少ないですが地道に参加しようと努力しています。
初めて「いのちの水」の集まりに出る時に一緒に読んだ内容が思い出されます。2017年12月号だった気がします。「冬の訪れ」と「内なるともし火」という所でした。
寒い冬の日には流れる水も凍る。
私は、流れる水のように生きたいと思っています。水も凍って流れない時もあるように、心も冷えて活動もできなくなることがあるということが分かりました。
内面を照らす灯火をいつも忘れず、時には凍りつくようになることがあろうとも、水のように絶えず流れ続けなければならないとを 心に深く思いました。
これからも「いのちの水」誌を続けて作って下さい。海の向こうでも読んでいます。いつもありがとうございます。
記憶に残っていることから
西村麻津子(東京都)
2011年4月号で(第602号)特に原発のことを教えて頂きました。
わからない事は「いのちの水」から教えて頂いています。
しかも御霊のお導きによって書かれていますから、読む側にも御霊のお働きを感じることができるのです。感謝します。
恵みの源泉としての「いのちの水」誌
那須 容平(大阪)
いのちの水誌、700号に至るまで、どのような時も今日まで守られてきたことを喜びと共に感謝します。
600号記念号では徳島の内藤さんが、「はこ舟を 運ぶいのちの真清水の わきて絶えざる とわの祝福」と詠んでおられるとおり、「いのちの水」誌によって、私たちは天から流れてくる水にのどを潤し、霊的ないのちが与えられていることがはっきりと分かります。
私にとって「いのちの水」誌は常に、この世の渇きやむなしさに対して、汲めども尽きることのない恵みの源泉となってきました。
語られる範囲の何と幅広いこと!その視点の広さ、深さに、主の手の届かないところなし!ページ数の少ない時もありましたが、そのような時は、この世との戦いのいよいよ強く、主の霊に導かれて荒れ野へと行かれ、神の言葉を持ってして戦っておられるのだと、誌面からその厳しさを感じ取りました。
600号は2011年2月発行で、ちょうど東日本大震災の直前でした。その頃から多くのものが変わりました。多くの痛みや悲しみを通ってきました。それでも、我が身を振り返っても、自分はより良くなったのか、より善を増し加えているのか、社会は、世界は…。
そう考えると、将来に見通しが立たず、暗くて不気味な思いにかられてしまいます。そのただ中にあって、神の愛と救いの確信を、誰にでも分か
るように語ってくださる「いのちの水」誌によって、生かされてきたことを思い返し、感謝です。
「はこ舟」誌の思い出
宮田博司(大阪)
40年以上前になりますが、私は、結婚してしばらく経って、妻が近所の人たちと始めた「杣友さんや吉村さんの聖書講話」をテープで聞く家庭集会に参加するようになりました。
そして毎月送られてくる「はこ舟」を読むようになりました。
その頃の「はこ舟」は杣友さんと吉村さんが書かれていて、お二人の書かれたものはそれぞれの特徴があり、どちらも分かりやすく、当時の私にはとても新鮮でした。
また妻の実家に帰ったとき、徳島聖書キリスト集会に寄ると、いつも温かく迎えてくださった杣友豊市さん、博子さん、吉村さんご夫妻、集会の人たちを今も思い出します。
私の信仰の導き手となった「はこ舟」、今も送ってくださる「いのちの水」に感謝しています。(大阪狭山聖書集会)
700号記念に
高橋 浪路(岡山県)
私は2010年10月号(第596号)から、学ばせていただいています。徳島の地に打たれた杭は、ゆるぐことなく泉を探り当て「いのちの水」を流し続けています。
「良き知らせは骨を潤す」(箴言15の30)
これからもよろしくお願いします。(岡山聖書集会)
いのちの水700号によせて
藤井文明(徳島県)
私が「いのちの水」誌の前身の「はこ舟」誌との関係ができたのが1957年(昭和32年)秋でした。
当時、徳島療養所(吉野川市鴨島町西麻植)で肺切(左肺の部分切除手術)を受けましたが、術後7日目に左の肺全体に再び病巣がひろがりました。手術失敗です。個室に入り1ヶ月の安静療養にはいりました。
大きな期待をもって手術をうけましたが失敗に終わり失意のどん底に落ちました。私が育った家は、お大師さん信仰の家でした。地域全体もそうでありました。背景には支那(中国)、米国との戦争で我が家では父、兄が、隣近所でも召集されて多くの人が戦場で戦っていました。
それらの人たちの武運長久を祈り、無事、帰ってこれるように神社、札所(お寺)にお参りしていました。
お大師さん信仰の盛んな子供のときに年寄りから悪いことをしたり、嘘を言って他人に迷惑をかけたりすると地獄で閻魔さまの拷問をうけるという仏教的律法を、良く聞かされました。
私はこのようなことから良心の攻めを時々受け、自分の罪に苦しい思いをしていました。
手術失敗、個室、絶対安静という環境で病気の苦しみと共に良心の攻めの苦しみもありました。
このようなときに療養所伝道に来られていた服部 治先生(愛知県常滑市)が集会に出ていた女性のかたの案内で私の病室にお出でになりキリスト教のお話をしてくださいました。
それが、私が始めて聞いたキリスト教のお話です。
「イエス・キリスト」を、信じるなら、すべての罪は赦され平安が与えられる。力強い言葉で語ってくれました。すっかり楽になりました。
これがご縁で、「はこ舟」を送っていただくことになり「いのちの水」へと続くことになりました。
2011年6月に「はこ舟」、「いのちの水」を通して、無教会の徳島聖書キリスト集会に帰ることができました。
初めてキリスト教を知らせてくださったのが、無教会の 服部 治先生だったのでした。
杣友先生とは直接お会いする機会がなく、服部先生との関係で長年にわたり、「はこ舟」をお送りいただき感謝しています。
今年の7月に70周年を迎える「はこ舟」、「いのちの水」は少しでも聖書に記されている真理を伝えることができたらという願いをもって書かれています(451号・1998年8月号)返舟だより参照)。
聖書の真理を中心に、社会情勢、政治の動き等のなかに聖書の、み言葉が、どのように働いているかを、わかりやすく、著者・発行人 吉村孝雄さんが書いています。
また神の創造された天の星、植物、動物などを聖書にもとづいた吉村さんの説明も大きな魅力です
最近の記事で「いのちの水」第696号(2019年2月号)の「光と闇」は、人間の闇に属する悪魔性を聖書から指摘し同じく聖書から、その闇のただなかに光が存在するということを一貫して強調しています。
私は、この箇所に、自分の歩んできた、これまでのことを,ふりかえり感銘をもって読んでいます。
今から思えば、私が闇の世界から光の世界に、初めて入れられたのは1957年秋、肺の手術失敗で徳島療養所、個室で絶対安静のときであります。
以来、闇と光の世界を行き来していますが神様は闇のなかから救い出してくださる愛のお方であることを、再び教えていただき感謝です。
晩年になりましたが、著者に教えられました自然は光に満ちた青い空、雲、汚れを知らない花々に囲まれたなかで復活の希望をもって歩んでいきたいです。
(徳島聖書キリスト集会)
三代引き継がれた伝道誌
横井 久(佐賀県)
徳島聖書キリスト集会の伝道誌「いのちの水」誌が700号に至り、感謝の祈りを捧げます。
伝道誌は、一代目も、二代目の方も召され、編集発行責任者であられた吉村様が勤務のかたわら、三代目となられて、引き継がれ、このたび700号に至るという祝された珍しい無教会伝道誌と言えましょう。
誌名も、聖書が時代とともに改訳されてゆくごとく、三代目になり、旧約聖書的発想の「はこ舟」より、新約的発想に最も相応しい「いのちの水」に改名されて、今や「祈りの友」エクレシア同様に、教派を超えたキリスト教界の伝道誌として、用いられていることは、主が与え給うた賜物として喜び、感謝以外にありません。
書かれている内容は、易しく、しかも押さえるべき個所は、ピシャと押さえられた書き方は、まさに吉村様に与えられた賜物であり、人格がもたらすものでしょう。
これからは、老いの戦いも加わりますので、ご自愛のもと、主の支えと導きが吉村様、並びに徳島聖書キリスト集会の上に豊かにありますようにと祈ります。
つたない内容ですが、一言700号への私の感謝の祈りとともに書き送ります。
私は、「イエスの言」誌より解放され、今や終活に向けての余生と佐賀集会とともに歩んでいます。 ご自愛、ご平安、ご活動を祈ります。感謝とともに、主にありて。
(佐賀聖書集会代表)
〇「いのちの水」誌
700号によせて 加納 久子
1986年7月の、朝日新聞による杣友豊市さんの紹介記事が印象に残っています。
以下はその内容です。 杣友豊市さんが、結核療養所の伝道のことをよく話されていたのを思い出します。
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異色クリスチャン信じ働き60余年
福音静かに聞き涙
長男の死とともに生涯忘れられないのは、徳島寮養所での火の手のような信仰の広がりだ。
杣友豊市さんは息子を見舞うたびに、他の病室も訪ね歩いて枕元に寄り、聖書を読んだ。
内村鑑三の聖書の影響を強く受けて無教会に所属。
同志が寄り集まってひたすら聖書を読み、実践するこの会は、口下手で演説など苦手な杣友さんの性にも合った。
無教会には東大総長だった矢内原忠雄さんら学卒者が多いなかで、徳島の無教会は大工、豆腐屋、指圧師が集まる異色の存在、矢内原さんが訪ねて来て「キリストの原点を見る思い」と語ったと言う。
平和憲法を守ろう
「はこ舟」は31年に始まり40年に前任者が没してそまともさんが引き継いだ。近年は学校教師吉村孝雄さん(40)との二人が主になり聖書解説や日々の感想などを。政治面では「戦争を教訓に神から与えられた平和憲法を守ろう」がモットー。
(徳島聖書キリスト集会)
「いのちの水」誌とそれによって与えられた交流
加茂昌子
いつも届けて頂く日より遅くなると、先生、奥様ご無事だろうかと心配になる。ひと日も欠かさず、日曜日には、皆様に配れるようにと、土曜日までには届けて下さる「いのちの水」誌。
この世の心労に疲れた方、又、体調すぐれない方、孤独な老年を過ごしておられる方、厳しいこの世の旅路に、毎月清らかな、まさに福音の流れを、とめどなく届けて下さる「いのちの水」誌。
ある時期には、二人の姉妹と毎月読書会をさせて頂き、お互いに励みとなり喜びであった。今は充分な読解力がなくなり、申し訳ない読み方ながら、感銘を受けたところに傍線を引いて家族と巡回する。
「いのちの水」誌を、私がお送りしている方々から、読後感が送られてくる。それによって再び私は学ばせて頂く幸せを味わっている。
ただ今、私は88才になって、そのような読者の方々とは、もうお会いする事も出来なくなった。
けれども、そうした信仰の友と、一月一度の豊かな「いのちの水」誌によるお交わりのあること、神様が与えて下さったこのお役目、感謝です、喜びです。
先生ご夫妻に、お守りがいつもいつもありますように。
「いのちの水」誌を毎月待っている方達のために、心身共にお支え下さいと祈る日々です。
(*)なお、600号記念号に掲載された加茂姉の文を以下に参考に一部を再掲載しておきます。わずか8頁の「はこ舟」が山梨県に届いて、以後今日に至るまで五十数年にわたる関わりが与えられるようになったのは、不思議な神の御計らいを思います。
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「はこ舟」(「いのちの水」誌の旧名)山梨へ 加茂昌子
私の手許に、一冊の古びた手帳に記された1966年9月22日付のメモがあります。甲府における、三講師によるキリスト教講演会の内容です。最初の講師は、徳島から山梨県警本部長として転勤されたばかりの横山氏でした。
この手帳のメモには、「人を愛することが出来ない」、「生きていることも許されない人間」、「希望を求めていた」などと書かれています。そんな状態だった若き日の横山氏は終戦直後の1946年秋、矢内原先生の今井館へ通うようになりました。
氏は翌年1月26日に先生から、「罪人の救い主」の御話(ルカ福音書7章の罪深い女)を聞かれました。「イエス様は、みんな知っていて下さる。」そして「太陽の光に、氷が溶ける気持」で横山氏は涙を流して己の罪の赦しを体験した、という御話をされました。私は、とても感動しました。
その今井館で1956年のクリスマスに、罪に悩んでいた私にイエス様の愛と、矢内原先生の愛が一つとなって注がれ、あふれる涙と共に赦しを与えられました。私はこの共通の体験を、その講演会で横山氏にお話しました。
そのとき氏は私に、一冊の信仰誌を渡して下さいました。それが、徳島の「はこ舟」だったのです。同誌はこのような経緯で、遠く徳島から山梨の地へはるばる運ばれたのでした。同誌は杣友さん主筆の聖霊にあふれた内容で、難しい信仰誌と違って子育てに忙しい私も毎月楽しみに読ませて頂いていました。
そのうち、母(加藤美代)も友人たちに送りたいと、まとめて送って頂く様になりました。母が召された後も私はその遺志を継ぎ、その方々や更に私の友人ら、集会の方たちにもと、吉村さんに送って頂くようになりました。…
〇私を運んでくれた「はこ舟」
貝出 久美子
私が徳島聖書キリスト集会に導かれたのは、そこで土曜日に手話の学びがなされていたからでした。
別の単立の教会に通っていた私は、神様を見失い、心は渇き、生きていながら死んでいるようだ、と自分で感じていました。そんな中で一般の手話サークルに通うようになり、手話に魅力を感じるようになりました。ある伝道冊子に徳島聖書キリスト集会で手話の学びがあることが紹介されており、それを見て参加しようと思ったのです。
手話の学びの時間には吉村さんが手話表現や植物の名前を教えてくださり、そして聖書の話もしてくださっていました。でも、聖書の話を聞いても、「私はもう、ほかの教会に通っているのだから」と神様の光を見失っていた私の心の耳も目も閉ざされていました。
手話の学びのとき、吉村さんから、「いのちの水」の前の「はこ舟」を手渡されていました。でも、難しそうで読むこともなく片付けていました。
しかし、あるとき、吉村さんが主イエスに対して、伝道に対して、命がけであることを感じたことがありました。このような姿勢は、キリスト教関係の本の中とかでしか出会ったことがなかった私は驚きました。そして、この真剣さの中でどのような文章を書いているのだろう、と今まで読もうと思わなかった「はこ舟」を読んでみたいと思うようになりました。
私が読んでみた「はこ舟」。そこにはマザーテレサのことが書かれていました。そして、それは真実に満ちた内容でした。ここには本当のことが書かれている、と感じた私は、文章だけではなく、メッセージを聴いてみたいと思いました。
その時に「夕拝に来てください」と、何度私が気のない返事をしても声をかけてくれていた杣友博子さんの誘いを思い出しました。それで、思い切って夕拝に参加し、そこで聖霊様に触れられて、私は生き返りました。死んでいた者が生き返ったのです。
「はこ舟」に書かれていた真理が、私を集会の夕拝に導いてくれました。「はこ舟」が私を主イエスにで出会わせてくださるための「舟」となったのです。主に感謝します。
(徳島聖書キリス集会)
〇わかりやすく説かれた福音
岩田 堯(愛知県)
手許にある「はこ舟」誌の旧号の綴りをひもといてみましたら、1995年11月号から始まっておりました。この号には、山梨県の加茂昌子姉の筆で、添え書きがありますが、私の記憶では、ずっとそれ以前から、静岡の加藤美代様(山梨県の加茂昌子姉のお母様)から、毎月「はこ舟」を送っていただいていたように思います。
従って三十年以上もずっと励まし、導いていただいてきたことになります。
「はこ舟」や「いのちの水」誌を通していただいてきた霊の恵みと糧は、数えきれませんが、今一番強く心に残っているのは、私のような不勉強で、無学な者にもわかり易いことばで、福音の真理、信仰の核心を説いてくださったということです。
そのことは、徳島聖書キリスト集会をはじめ、「いのちの水」誌や「祈りの友」につながる兄弟姉妹の中に、病気や障がいの重荷の中で主を仰ぐ方々が多いことでも証明されているように思います。
「幼な子のような心で主を信じ、主を仰げ」、それが私が「いのちの水」誌を通して、神様から示され、教えていただいた、最も大切なことのように思います。
これからも、神様が「いのちの水」誌を祝福し、この闇の深まる時代の中にあって、弱く小さくされた日々のところに福音の真理と喜びを届け続けてくださいますように、そして福音伝道のための先生のご愛労とそれを支えておられる奥様や徳島聖書キリスト集会の皆さまのご尽力の上に、主の慈しみと助けが豊かに注がれますように、切にお祈りいたします。(愛知県 岩田 堯)(名古屋聖書集会員)
〇黙想に役だつ
高橋 由直(愛媛県)
…まことに、その人は主の教え(御言葉)を喜びとし、
昼も夜もそのおしえを黙想する。(詩篇1の2)
ある牧師が着任早々、講壇で第一声として、この詩篇1の2の御言葉を引用して、御言葉の黙想の大切さを語ってくださいまして、私もそれ以来ずっとみことばの黙想を続けています。
とくに、「いのちの水」誌で書かれていますことは、御言葉の黙想にとても役だちます。
夜眠れないときなどは、朝までずっと黙想しています。
次の聖句もこの黙想と関連しています。
…私は、私の愛するあなたの言葉に手を差し伸べ、
あなたの言葉に思いをひそめよう。
あなたは私がそれを待ち望むようになさった。(詩篇119の48〜49)
心に残っていること
桜井 保子(徳島)
いのちの水誌が6月で700号を迎えることになったとのこと、今まで伝道のために、神様が守り祝福して用いられてきたことを改めて感謝です。
特に心に残っていること
@静かなる細き声。
静まって神様からの語りかけを聞きとることの大切さ。
A初めてキリスト教を知ったのは、大学の4年の時、古本屋で立ち読みした、矢内原忠雄の本の数行によって十字架の福音を信じたこと。
B日曜日は必ず礼拝を守ってきたこと。
「まず神の国と神の義をもとめよ」
礼拝を守る大切さを教えていただきました。
C応えて下さる神(2018年の無教会全国集会での吉村さんの証し。「いのちの水」誌の11〜12月号に掲載されていた内容)
神は生きて働くお方、自分の都合の良いことばかりでなく、耐えがたいようなこともある、長い歳月を通して願いを聞かれる。
D神の応え方は、広く深く、人間の予想をはるかに越えている。何があっても最後まで信仰を守られて歩みたいと思います。
E金星、木星、さまざまな星などが見える時期や時間、方位などを書いて下さっていたので、折々に見ることが出来て、神様の方に心を向けることができ励まされてきました。
以上、思いつくままに書いたので、まとまりませんが、心に残っています。ありがとうございます。
これからも「いのちの水誌」が祝福されて用いられますように。(徳島聖書キリスト集会)
「いのちの水」誌
七〇〇号に寄せて
中川 春美(徳島)
私は二四才の時から徳島聖書キリスト集会に参加するようになりました。
その時は杣友豊市さんが主筆で大体二か月に一回「はこ舟」という伝道誌が発行されていました。
救われた喜びで何もかもが新鮮に映っていた私は、み言葉を求め、小さい子供二人を連れて礼拝に参加し、熱心な「はこ舟」の読者でもありました。
「はこ舟」に吉村さんの文章が定期的に掲載されるようになったのは、一九七五年六月号の一八八号からです。
(最初の投稿は1970年6〜7月号の第159号、、以後しばらくは不定期の投稿)
一九七六年一月号には、クリスマス集会の感話集も掲載され、夫の中川啓や大坪義樹さんの感話、中本コトエさん、加納久子さんの感話が旧姓で載っているのも懐かしいです。宮田咲子さんの文章もその頃の事を思い出させてくれました。
またこの号には名簿があり、今集会に参加している娘が4才だったことが分かります。長い道のりを主が導いてくださった足跡を感じ、今までも、これからも導いてくださる生きて働いてくださる主に委ねて毎日生きてゆきます。
今まで掲載された吉村さんの文章の一つ一つが聖霊の流れを受けた瑞々しい文章で主に心を惹きつけられ、まだ見ぬ神秘的な霊的世界を垣間見る事ができました。
今、四五年前の文章を読んでも、古びない新しさを感じます。
中でも特に、自然の中に流れる風や雲、陽の光や星の輝き、小川の流れや、風にそよぐ木々等の事が書かれた文章に私の心も主に触れられ心の琴が鳴り出すのでした。
「いのちの水」誌二〇〇五年七月号、五三四号の巻頭に「真理の共鳴」という文章があります。
「同じ振動数の音叉なら近くで鳴らした音叉の振動がもう一つの音叉に伝わり鳴り始める。…
私達が同じキリストを信じる時、初対面であっても不思議と共鳴し始めるのである。その共鳴のもとは天にある。
天の国のいのちの水が私たちに注がれる時、私たちの魂は天の国のことに共鳴し始めるのである。 聖霊を受ける時には身近な自然も私たちの魂と共鳴し始めるのである。祈りとは神の心との共鳴である。」
この世界は神を信じるという周波数の祈りや賛美、また神の直接の被造物である美しい花々等の共鳴で満ちているのだと思わされます。
天に響き、地に満たされた美しい主のメロディを霊の耳で聞き取りたいと思います。
何か良い事、主に喜んでいただける事に励む事で、共鳴体としてよい音楽をこの世界に流していけるのだと思わされました。
「はこ舟」「いのちの水」誌が七〇〇号になり、毎月毎月、書き手を導き、書く内容を示してくださった生きた主を感じます。
今日まで続けられた陰には、助け、励まし、導いてくださった主がおられることを感じます。
そのキリストにある一つ一つの示しや教訓によって私の信仰の成長があったように感じる今日この頃です。
主筆の吉村さんの「いのちの水」誌が今後も祝福され、この世で乾く魂に聖霊の水を与え、たくさんの人が疲れから解放されますようにと祈ります。(徳島聖書キリスト集会)
心にしみこんだ
「いのちの水」
小林 典子 (福岡県)
何時も「いのちの水」を送っていただいてありがとうございます。
ポストに「いのちの水」が投函されてるのを見つけるとほんと嬉しかったです。
「いのちの水」を読み始めた頃は鬱病で苦しんでいました。
心は何時も孤独と暗い気持ち、無気力で一杯になっていました。
まだ集会に参加するようになったばかりで、書いてあることも多分理解できないまま読んでいたと思いますが、今でもそうですが、読み終わったらなんだか心が清められたような気がしました。
今月送ってくださった4月号を読んでいて美智子妃の最大の悲劇は話し相手がいないこと、「孤独」であったと書いてありました。
福音放送で今苦しみの中にある人から寄せられるメールに答えておられた牧師さんも放送が終わったとき、今の社会を「孤独」が覆っていると感想を述べておられました。
引きこもっている人がまったく誰の働きかけもなくしたとき孤独に押しつぶされると思います。
この牧師さんも引きこもりの経験者でした、彼を救ったのはふと行った教会の人がありのままの自分を受け入れてくれて居場所を見つけたことでした。
ありのままを受け入れてくれる御方イエス様がいらっしゃるそこに希望があります。
自分のことを心にかけて、郵便物を送ってくれる人が居る、そのことが嬉しかったのです。
毎月送られてくるいのちの水は石のように固くなった心に一滴ずつ染み込んできたのです。
それは「いのちの水」の中に働いている聖霊様、毎月文章を書く吉村さんの側らにいて
励まされてる聖霊様の息吹が私にも吹き付けていたに相違ありません。
もう一つの感謝は「主の祈りと聖書」という文章です。
主の祈りの意味と、それが聖書全体にどうかかわるかが詳しく書いてあります。
口先だけの祈りではなく心を込めて祈りたいです。
本当にありがとうございます。
これからも吉村孝雄さんのお働きと、御夫妻の日々の暮らしが神様に守られますようにと祈ります。(福岡聖書研究会員)
霊の火を消してはいけません
ー「はこ舟」〜「いのちの水」 700号を記念して
那須 佳子
「はこ舟」、それから改称された「いのちの水」が通算700号、主にあって感謝です。700号という数字は単純に計算しても58年余りの長い歳月を毎月書き続け発行して来られたことになります。
一冊の本を執筆するとなっても大変なエネルギーを要すると思いますが、ましてこれは信仰を証しする出版物、主から聖霊を与えられ続け、霊の火が燃え続けていないととても筆が進むものではありません。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊(聖霊)の火を消してはいけません。」(1テサロニケ5:16〜19)
生きておられる主イエス、その復活の主がその人の内にはたらかれ、霊の火を灯し続けていないとできないことだと思います。
当初の主筆の杣友豊市さん、また続いて吉村孝雄さんに主が特別にその使命をお与えになったと思います。私は20代の頃 京都の北白川集会に数年参加していた時期がありました。当時、吉村さんもまだお若い頃だったと思いますが、集会に来られると机上に「はこ舟」誌を毅然とした表情で配っておられたのを覚えています。「はこ舟」との出会いはその頃からです。
「いのちの水」(679号)に「静かなる細き声」というタイトルで書かれたものがあります。吉村さんは学生時代、一冊の本の数行から「汝の罪赦されたり」という十字架による罪の赦しを知らされ、キリスト教の真理が魂に入り、以来伝道を使命として歩んで来られました。
このような事実は、復活したキリストの光とその言葉を受けて瞬時に目が覚まされ、命を懸けた伝道を始めて行ったパウロ、同様に神の示しによって全生活を懸けて伝道の道を歩まれた多くの先達がおられますが、それは光あれ!と言われるとき、ただちに光をあらしめる、神の言葉の力を示すものとなっています。
「キリストの十字架からの『汝の罪赦されたり』という語りかけ自体が、『静かなる細き声』なのであった。キリスト教信仰とは、このような単純なことである。罪赦されたり、との御声を聞き取り、そこからさらに求めていくときに、私たちは罪赦された者が歩むための力を与えられる。それは聖霊といわれるものであることが、のちに示された。」(「いのちの水」679号)
「いのちの水」誌は 天文、科学、古典、文学、歴史、植物、…その内容の範囲は多義にわたり、その一つ一つをみ言葉を通して語りかけられています。さらにこの世の中に起こる様々な問題も、み言葉を通して考えさせられ、解決の糸口を与えられています。
み言葉によるメッセージは確かに最終的にはこの世のことではなく天のことですが私たちが日々直面する問題は切実なことです。どう受け止めていいのかわからないということも多く、それ故に悩みが増し、罪を深めてしまうこともあります。
これまで毎号のように、苦しみはなぜあるのか、苦しみを与えられる神の意志を説き明かされ、高齢や予期せぬ病、災害、事故などから苦しんでいる方々をみ言葉をもって力づけられています。
私自身、集会にかかわる高齢の方を時々訪問する時は聖書と共に「いのちの水」誌から メッセージをお読みすることが多く、讃美、祈りを終えると、渇いていた魂が命の水を受け、本当に生き生きとした表情になられているのがわかります。
「自分がどのような戦いをせざるを得ないような状況に置かれているか、その霊的な戦いのことを主だけは知ってくださっている。私たちの苦しみを主は担ってくださり、さまざまの苦難や悲しみも最終的には祝福となり、悪に対する完全な勝利となる日が、全能の神の力によってもたらされる。
たとえ私たちが、いよいよ老化して判断もできなくなってもなお、そのような病気、老化を越えて、神の愛は注がれ、私たちの生きた全部の歩みを見てくださり、死後は復活して神のみもとに永遠に清められて新しくされ、生きることが約束されている。」(「いのちの水」672号)
“真理の一貫性”ということをよく言われますが、その時々で変わる人間的な考えではなく、ことごとく み言葉から示された真実が述べられています。世の中の状況がいかに変わり何が起こってもずっと変わることのない主にある真実。このことは弱く、世の煩いに翻弄されやすい私どもにとって大きな慰めとなって響いてきます。
さて、「はこ舟」ということで私はいつも思い起こすことがあります。中学2年生の頃「雲の中の虹」という本の読書感想文を書いたことが家庭集会に導かれたきっかけでした。
ノアが箱船から出た後、神様がノアとその息子達を祝福し言われました。
「わたしは雲の中に虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。…
これがわたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」(創世記9の13〜17)
神様は決して一人も滅ぼさないと約束してくださった。空に虹があがる時、それを思い起こせ、と。わたしは以来 虹を見るたびに その神様の約束を思い、しみじみとした感謝が溢れてきます。この雲の中の虹のみ言葉の記事は「はこ舟」464号でもワーズワースの「虹」という詩の紹介と共に書かれています。
また、いつも思っていることは「はこ舟」はイエス様そのもの、私たちはいつもイエス様の内にあって本当の平安をいただき、外に出て働き闘い、またいつでもイエス様のもとに戻っていくことができるのです。
自分というものをいったん捨てて、空っぽになってイエス様という「はこ舟」に入る、そこからまた新しくされてこの世の戦いに出て行く、「はこ舟」から“出て、入る”のです。
古いころもを脱ぎ捨て罪を赦されて、また新しい力を受け生かしていただく。若いときに受けたこのノアのはこ舟の記事は常に私にとってはそのようなメッセージとして示されています。そしてそのことは前記の「静かなる細き声」同様、私にとって原点となっているみ言葉でありメッセージなのです。
昨年、私を信仰に導いてくださった恩師が天に召されましたが、一貫して「十字架のイエスをもつこと」を言われていました。どんな話をしていても最後はそこに行く。「自分にとって大切な人を思うほどイエスキリストを慕わしく思っているか。
それがなくてはだめだと思うほど思っているか。キリスト教はキリストだ。イエスと共に十字架にかかりイエスと共に新しく生まれ変わる、苦難の中でしかキリストに会えない、イエス様を実感としてもつこと。」このことをずっと言われてきました。
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。」(Uテモテ2:8)
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
今後とも、このもろく弱い者が霊の火を燃やし続けられますように、そして十字架と復活、再臨の希望をもって生きていくことができますようにと願っています。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水がわき出る。」(ヨハネ4の13〜14)
「いのちの水」誌がこれからも主に祝福され、誌を通して、手にとった多くの方々に渇くことのない「命の水」が注がれますようにと祈ります。
(高槻聖書キリスト集会代表)
〇福音の証しとして
冨永 尚
「いのちの水」誌が七百号を迎えられますことを、神様の御恩恵に深く感謝申し上げます。
「はこ舟」誌から、「いのちの水」誌へと半世紀以上にわたり、休むことなく続けられた福音のあかしは、この不信の国、日本を導く灯火として、内村鑑三からはじまる無教会のキリスト教信仰の純福音を伝え続けられたことであり、すべては神のお名前が聖まりますようにとの、祈りによるものと存じます。
吉村様と奥様、そして徳島聖書キリスト集会の皆さまの御愛労に深い感謝を捧げます。 松山市松山聖書集会 前代表)
〇700号の記念に 古川 静
私の「はこ舟」との出会いは、2002年10月8日、信仰の恩人野崎忠雄さんが新旧七冊の「はこ舟」を送って下さったことに始まります。同年7月にキリスト教独立伝道会会員に出された吉村先生の案内文が同封されていました。
古いものは十年ほど前の1991年8月の371号、最新号は2002年8月の499号でした。この文章を書くために改めて読み直してみて、私は野崎さんの深い愛の配慮を感じ取りました。初めの4号は杣友豊市さんの編集によるものでした。
吉村先生の文章が前半を占めていましたが、後半に杣友さんの「ルカによる福音書から拾う」や「戦時中の安利淑」、「人の一生」など当時96歳だったとは信じられない実に力のある信仰、かつ愛と謙遜に満ちた文が掲載されていました。
次に1999年11月の466号がありました。「返舟だより」に「杣友豊市文集」の案内がありました。既に入手し読まれた方の感謝が数人分紹介されていました。そして残りの2冊は、いただいた2002年、吉村先生お一人によるものでした。現在と全く変わらない、わかり易く愛と確信に満ちた内容でした。
私は「はこ舟」がいかなる聖書雑誌であるか、先の編集者杣友豊市氏の信仰と生活・伝道がいかなるものであったか、吉村先生がそれを心から尊敬尊重して「はこ舟」を正しく受け継ぎ往かんとしておられる姿がよく解りました。添えられていた案内文には、次のように記してありました。
『…二人目の編集者杣友氏が、「はこ舟」を初めてキリスト教に接する人にもわかるようにという方針を打ち出し、現在の主筆・編集者である吉村孝雄もその方針を受けて、キリスト者あるいは無教会の人しかわからないような特別な用語などをできるだけ避け、また主イエスの模範にならい、誰にとってもわかりやすい言葉を用いることを心がけています』と。
また、後段には『費用は一応、年に五百円と書いてありますが、これは自由協力費と受け取っていただければと思います。…』、と愛ある説明がるると記されていました。
「はこ舟」はその後「いのちの水」と改められましたが、キリストの福音がより一般の人々に届いてほしいという先生のお気持ち、祈りが込められているように思います。案内文は更に「はこ舟」が「キリスト者」は勿論であるが、『いまだキリストの光と愛を知らない方々にも伝わっていくことを願いつつ、発行されています』とありました。驚嘆する熱い伝道姿勢は当初からのものであったことを知らされます。
ところで、しかし私が実際に「はこ舟」を読むようになったのは、上記の紹介をいただいたずっと後のことでした。2004年6月3日夜9時ごろ、野崎さん(当時85歳)に電話で、贈って下さった武祐一郎先生のテープ二十本のお礼を申し上げたら、折り返し電話で『「はこ舟」を読みなさいよ。武先生は日本に七人の吉村先生のような方がいれば、とおっしゃっている』と言われました。
それがキッカケだったと記憶します。大いに恥じ入った私でしたが、「いのちの水」を送っていただくようになってからも、数年間はしっかり読む事をし得ませんでした。学校の仕事や親の介護に追われ、それらを優先してしまっていました。
けれども、愛なる神様は非常手段をもって私から仕事を取り上げられました。おまけに家庭にも大きな苦難が生じ、前途は本当に真っ暗になったのです。形だけは毎日聖書を読み祈りおりましたが、無力に打ちひしがれていました。
もう2010年になっていました。今までのどんな時よりも鋭く、信仰生活のあり方が問われていることが自覚されました。「いのちの水」も新しい気持ちで読み始めました。すると、ああ、毎号何という深い真理の説き明かしがなされていたのだろうと思い知らされました。
身近に与えられていた宝を、長い間発見できないまま過ごしてきていた愚か者の私でした。神様と吉村先生に、そして天に帰られた野崎さんに、主にあって心からのお赦しを願っています。
700号に達した「いのちの水」が、今後とも神様の御旨に適い、闇に呑み込まれようとする我ら小さい人々に、主イエス・キリストが文字通り真の明けの明星である事を力強く示し続け真の生命に導いてくれますように。そのために、主の恵によって奥様の体調を含めて先生の霊肉が守られますように。そして恩恵に与っている私たちが、器に応じ与えられた所でただ御名の栄光のために生きることができますように。ヨハネ16の33。(鹿児島聖書集会代表)
変っても変わらぬもの
陳野 守正
私が初めて「はこ舟」誌を拝見できたのは、1982年2月号ですが、それは求めたのではなく、杣友豊市様より贈呈されたのでした。
私は改めて2月号巻頭言、吉村孝雄氏の「日ごとにフレッシュに」を37年ぶりに読み返しました。
冒頭に、Uコリント4章16節が記されています。この聖句は前日の集会で私が選んだ聖句でもありましたので、いっそう心に響きました。(所属しているキリスト教集会では、開会の祈りの後、各自が選んだ聖句を発表し、3分前後のコメントをしています。)
吉村様は、老人とは何かと一般的な老人の実態を述べ、けれども、人がもし、神様にキリストに結ばれているなら、人間には老いていくどころか、日ごとに新しくされていく、何と不思議なことだろうと述べ、続けて、「春になって、日々草木が新しい装いに包まれていくように、我々は神の光を受け、〈いのちの水〉をくみとるとき、日々フレッシュなものへと変えられていく。 〈傍線筆者〉」
私が37年前に初めて手にした「はこ舟」誌の最初に、「いのちの水」という言葉が刻まれていたことに、思わず目を見張りました。
「はこ舟」誌が本質を変えることなく、「いのちの水」誌となったのは、「すべてに時あり」で、自然の流れであったと思っています。
原子力の危険性について
「はこ舟」誌一九九九年10月号は、茨城県東海村の核燃料加工会社で生じた大事故に関連した原子力の危険性について述べています。
それから、12年後、東日本大震災により、世界歴史上前例のない、福島原発の大事故が発生しました。
以上の事柄についてわかりやすく記述した貴重な著書「原子力発電と平和ーキリスト者の視点から」(吉村孝雄著)が、いのちの水社から発刊され、原発、放射能に対する啓蒙書となりました。
以上のことについてはこれまでの伝道誌からは読むことのなかっただけに、忘れることのできない印象をうけました。 (いずみの森 聖書集会員)
祈りつつ、喜びながら歩む
杣友 博子(京都)
「はこ舟」とその名前を変えた「いのちの水」誌が、60年あまり私の手許にあることを、今さらながら感謝します。今まで、太田米穂、杣友豊市、吉村孝雄三氏の御愛労を得て続けられてきたことを、心から感謝します。
かつての「はこ舟」、「いのちの水」誌を読みながら心に残っていることを思いだすままに記します。
1987年9月号で、無教会の「キリスト教四国集会に参加して」の吉村さんの文章が思いだされ、深く心に残っています。
その中で、集会の内容について参加できなかった人たちにもわかるように書かれているが、「祈りの力」が大切だと思う、そのことが心に残っています。実際に四国集会に参加して学ぶことは大切だが、そうしたことのもとに、祈りが重要だということ。
2歳から92歳までの人たちの参加、こどもとか若い人たちの集りがあった。話しを聞いただけでは分からないが、少しそうした集りを手伝ったこともあり、そのなかで、祈りの大切さを改めて学んだからだった。
祈る力の大切さは、誰もがわかっているが、改めて強く思った。
次に、使徒言行録、8章のピリポの記述(*)が心に残っています。
とくに、聖書の解きあかしを受けて、エチオピアの人が、喜びあふれつつ旅を続けたーそのところが、大好きで、私の心も喜ばしくなってきます。
この個所は、ふと何かの折に思いだされます。
聖書に関しては、適切な解きあかしの大切さをこの個所から思います。ーそれは誰でもキリスト者となって聖書を読むのだけれど、聖書の言葉の深い意味を教えてくれる人がなければ分からないのです。
聖書の解きあかしを受けて、イエスを神の子として信じ、喜びながら旅を続けていくことが思いだされます。
それは、私たちの姿が重なってくるところがあります。
「いのちの水」誌の700号記念に際して、祈りの大切さ、そして御言葉の適切な解きあかしを与えられ、意味を深く知らされつつ、喜びながら歩んでいくことーまずそのことを書きたいと思いました。 今後とも、神様に祝福されて読まれますようにと祈ります。
(*)…霊(聖霊)がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。
そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。
彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。
そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。
宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。
そこでピリポは、この聖句から説き起して、イエスに関する福音を伝えた。 …(エチオピアの人は)「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。
ふたりが(バプテスマの後)水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。
宦官はよろこびながら旅をつづけた。(使徒言行録8の29〜39より)
いのちの水、福音
藤沢 コトエ 横浜市
「いのちの水」誌を読むごとに、心に響き、いのちの水で体がいっぱいに満たされております。ありがとうございます。感謝です。
以前の3月号に「新約聖書における罪の赦し」というお話しはとくに心に響きました。なかなか奥底にある自分の罪を見つめることが分からない私ですが、罪を赦していただくために祈る、その祈りに応えて主は赦しを与え、他者をも赦せるようにしてくださるーとありましたが、そのように導かれたいと思います。
また、罪の赦しは復活とともに福音の中心にあるということも教えていただきました。これらを心に留め、歩んで行きたいと思います。
これからも「いのちの水」誌を信仰の糧として学ばせていただきたいと思います。
永遠にあふれ出ている水 関 聡
新聞やテレビやネット上では昼夜雑多な情報が氾濫していますが、「いのちの水」誌はわたしの霊の渇きに真の潤いを与えてくれます。
イエスは、ユダヤ人の仮庵の祭りの最後の日に立ち上がって大声で言われた。「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」
昼夜氾濫している新聞、テレビ、ネットなど、人間が発するものは一時的には華やかで騒ぐが、時が来れば枯れ落ちて土の中に埋もれあとかたもなくなる。
しかしイエス様の言葉は永遠に私たちに降り注いでいる。今も生きていてとどまることなく私に注がれている。(ヨハネ福音書7の37〜39。)
命そのもの、復活そのもの、罪の赦しそのものであるイエス様を信じ、拒むことなく彼につながっていることができますようにと願います。
いのちの水は永遠の過去から現在、そして未来へ向けてとどまることなくあふれでている。しかも価なしで飲めるように。
無数の石ころや海の砂粒、無数の天の星の一つ一つが神を賛美しているように、私もそれらとともに彼をほめたたえよう。
屠られた子羊であり、王たちの中の真の王たるキリストを…。
〇垣塚 千代子姉(高槻聖書キリスト集会員)が、2019年5月14日に召されました。 垣塚さんは、「いのちの水」誌の前身である「はこ舟」の創刊号をガリ版で書く役目を受け持たれた方でした。
第2号からは、活字印刷されるようになりましたが、記念の第一号作成にかかわったその垣塚さんが召されたのが、ちょうど「いのちの水」誌が始まって700号を迎えるという時でした。
垣塚さんは、戦後まもない頃、最初の徳島聖書キリスト集会の旗揚げの集会に参加されていました。それが、ちょうど70年前(1949年)の5月で、神の導きを思ったことです。
以下に、そのことを記した垣塚千代子さんの文を掲載しておきます。
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〇垣塚千代子姉の文章から 「野の花」文集(徳島聖書キリスト集会 2009年1月発行)より
1949年5月、徳島の無教会のキリスト者たちの集りが、「徳島聖書研究会」という名のもとで旗揚げした日でした。
その会が終わると、一人一人の名前と住所を聞きながら、ノートに記している人がいました。なぜかそのときの光景が今でも鮮明なのです。その方が杣友豊市さんで、このときが、言葉をまじえた最初であり、自分の名前を告げたときが出会いだったのです。
当時私は、23歳で、迷いのただなかにあえいでおりました。敗戦で、何も誰も信じられなくなっていました。貧困と飢餓と、肉親の病、兄二人との死別、非情や空しさという闇に翻弄されていました。そういう中で何かを求め続けていました。不変、不動のものがあるなら、すがり付きたい。空しさを埋めてくれるものがあるなら手に入れたい。
そのころ勧めてくれる人があって、矢内原忠雄先生のイエス伝を講読しましたが、私には難しすぎました。もっと手近なものはないかと求めていた矢先、徳島新聞にキリスト教集会の小さな案内を見つけ、不思議に心が動いたのでした。
集会の二回目は、政池 仁(***)先生の「ルターの信仰」というテーマの特別講演。このあと、市内に足場を築いて月一回の定例集会が開かれるようになり、今日の徳島聖書キリスト集会の源泉となりました。三人、四人が集まる細々とした集会と見えたときもありましたが、神様はしっかりと慈雨を注いで下さっていたのです。このことは、私個人についても言えることで、祈ることもできない私をお捨てにならず、愛を注ぎ続けてくださいました。
私の信仰の養い親ともいえる杣友豊市さんとのお別れは、死の直前2日前でした。ちょうどお見舞いをした私には、杣友さんが小康を取り戻していたように見えましたので、「ご気分はいかがですか。ご不安はありませんか」と問いかけました。
すると杣友さんは、死の直前であったにもかかわらず、「私には永遠の命があります」ときっぱり、一言がかえってきました。はっとして「私もあとから参ります」と言ってしまいました。
徳島の最初の無教会の旗揚げの日の集会で名前を杣友さんに告げてから、およそ50年、その時に同時に、天に戸籍といえるものを書き込んでいただいた絆は長い年月の日々に、生きた支えをいただき、地上の最後のときに聞いた別れの言葉ー「私には永遠の命がある」は、私の未来にも直結していて、現在の私の望みとなっています。
私の若い日に切実に求めたことは、徳島聖書キリスト集会の最初の責任者だった太田米穂さん、杣友豊市さん、杣友さんを引き継いだ吉村孝雄さんと三代にわたるお導きで、遂に不変の真実と正義と愛、十字架のあがないによる救い、永遠の命へと満たされようとしています。
五十年の歳月、荒波もすべて御心のうちにあり、なにひとつ無駄はなかったと、この頃つくづく思います。神様の御計画と愛にただただ、本当に真実なことだったと思うばかりです。
余命を数えるようになったこの時に、まったく図らずも高槻という地で若く、瑞々しい信仰に囲まれ、新しく生かされ、支えていただいている喜びが与えられています。
ここで讃美歌511「みゆるしあらずば」
を心をこめて歌い感謝を捧げます。
「はこ舟」から「いのちの水」誌へ 第七〇〇号の感謝」 吉村孝雄
「いのちの水」誌がこの六月号で、七〇〇号となった。
この小冊子の創刊号は、太平洋戦争後十年余りを経た、一九五六年四月であった。それから、63年という歳月、「はこ舟」そして、二〇〇五年の一月号から「いのちの水」と改称した後も続いてきたのは、ひとえに神の助けと導き、そして多くの方々による祈りや協力費(献金)であり、またこの小冊子を福音伝道のためにと用いて下さる方々の支えによるものである。
最初の編集者は、太田米穂(よなお 編集期間 一九五六〜一九六五年)、次の編集者は、杣友豊市(そまとも とよいち 編集期間一九六五年〜一九九三年四月号)、そして現在の吉村孝雄は、一九九三年四月号から著者・編集者となっている。(編集交代時の四月号のみ共同編集)
私は、一九六七年の5月下旬に一冊の本(*)からキリスト教信仰を与えられ、それまでの考え方が根本的に変えられた。そして、所属していた理学部の学生たちの目指す方向とは全くことなる道を示された。
それは、私を自分自身を含む人間や世界の前途に関する暗い予感、何のために生きるのか、死んだらどうなるのか、この世界、宇宙は最終的にどうなるのか…等々の問題で苦しんでいた私を、救いだしてくれたのが、キリストの福音であった。
それゆえに、この福音を伝えることのために生きたいと願うようになり、大学を卒業して、理科教育をしながらキリストの福音を伝えるという目標を与えられた。そのために高校教員となり、半年後に徳島に無教会のキリスト教集会があるのを知らされて加わった。
初めて参加した徳島のキリスト教集会は、五人前後の人が集まっており、月に一度の集会をしていた。そしてその次に参加したときに杣友さんがひとり言のように言われていたのを思いだす。
…「はこ舟」をもう止めようと思うことが何度かあったが、神様から、止めるな、と言われて続けている…。
自分で自分に言い聞かせるような静かな口調で言われたことが今も記憶に残っている。
私が初めて「はこ舟」誌に投稿したのは、その2年後、24歳のときであった。当時「はこ舟」誌は二カ月に一度の発行であった。
その最初の原稿は、1970年6〜7月号 (第159号)「社会的平和と心の平和」その次の号には「ストア哲学とキリスト教の相違について」などが掲載された。
それから、49年という歳月が過ぎた。
その後、杣友さんと話し合って、それまでの「はこ舟」が隔月発行であったのを、毎月発行とし、原稿と費用を杣友さんと私とで半分ずつ負担しあって発行していくことになった。そのため定期的に「はこ舟」誌に書き始めたのは、その年の6月号(1975年)からになる。
その時の書いた原稿のタイトルは、「未信仰の友への手紙から」、「憲法および教育基本法の宗教観への疑問」などで、その次の号には、「科学と信仰」、「定時制高校での勤務の中から」などを書いている。
その後、杣友豊市さんと、18年ほど、ともに「はこ舟」にかかわることになる。杣友さんは「はこ舟」誌8頁のうちの半分弱の原稿を書くのに力を注いでおられた。
書いては消しを繰り返し、不要な部分をはさみで切り取ったり、別のところに貼り付けたり、苦心して原稿を書いておられた。 私は原稿を書いてそのまま原稿用紙で杣友さんに渡しておいたら、それを杣友さんが取捨選択して掲載されるという方式だった。
編集の苦心は杣友さんが一人でなさっていた。私は一度だけ、杣友さんから「もう少し文章は練って書いたほうがよい」と言われたことがある。私は次々と書いてそのまま推敲もほとんどせず、文章表現などもあまり考えないでいたので、そのひと言が心に残った。
しかし、20年近く「はこ舟」に共に原稿を書き続けて、注意されたのはただその一度だけであった。それほど、50歳も年下の私の自主性を重んじてくださっていたのを思う。
「はこ舟」の創刊号(一九五六年)には、次の聖句が巻頭に置かれている。
…人われに向かいて、いざ主の家に行かんと言えるとき、我 よろこべり。
エルサレムよ、われらの足はなんじの門のうちに立てり。(詩篇122の1〜2)
とくにこの聖句が選ばれたのは、創刊した「はこ舟」誌が、ともに主の家に行こうとする呼びかけをその使命としていたのがうかがえる。
キリスト教はつねに共同体として歩むという特質を持っている。互いに愛し合え、互いに祈り合え、互いに足を洗い合え、互いに励まし、教え合え…等々の言葉が聖書に見られる。
ともに遠くからエルサレムに向かって、その神殿にて神と出会うことを願ってはるばる旅をしてきた。そしてようやく到着した、という喜びがこの詩から感じられる。
それと同様に、「はこ舟」誌によって、ともに御国へと歩み、ともに御国の門へと到達できることを願っての刊行だという願いがここに感じられる。
それは言い換えると、救いの船にともに乗り込もうという呼びかけである。そしてこの願いは700号を迎えた現在においても変ることはない。
人間は弱くて力なきものであるが、ひとたび神とキリストに結びつくときには、驚くべき力を発揮することがある。パウロもキリスト教の真理が分からなかったときにはそれを滅ぼそうと無益な努力をしていたのであるが、ひとたびキリストに受けいれられたときには、世界の歴史に大いなる変動をもたらすほどの力を彼の書いた手紙が発揮したのであった。
人生の荒海で沈もうとしている人、あるいは暗黒の森で迷い込み、力なくし、疲れ果ててもう歩けないといった状況の人、あるいは突然の事故、重い病気などのためにそのまま滅びていこうとする人たち、そのような人たちにキリストを指し示し、ともに御国に向かって行きましょうと呼びかけること、それはとても大切なことと思う。
じっさい、当時の主筆であった太田米穂は次のように刊行の目的を最初に書いている。
…私どもは、今 ノアの時代にも劣らぬような堕落した世界の中で生活し、この世の人と同じく悪の道を歩いている以上、私どもはどうしても自滅する他に道がありませんが、ただ一つ幸いなことは、イエス・キリストを信じることによってのみ、神さまの前に正しい人であると認められ、その救いのはこ舟に助けあげられることが約束され、この世の終わりの滅亡のときがきても、キリストの恵みによって新天地に住まう資格が与えられるので、私どもはノアのように正しい人でなくとも、ただ、キリストの名を信じるだけで、正しい者と認められる。
これがすなわち、真の福音というのであります。
それゆえ、この救いの「はこ舟」に早く乗り込んで、まさに来たらんとする恐ろしい滅びの世界から救いだされるように、みなさんにお知らせする手紙代わりのプリントの名と致しました。
わたし共はこの新天地に住まうべき望みを確信し、まだ見ぬその事実を確認して、一歩一歩それがまことであることを聖書と日々の生活から体験しつつ、前へ前へと進むのであります。(「はこ舟」創刊号 1956年4月8日発行)
「はこ舟」誌の発刊と関わりのあるのは、当時東京大学総長であった矢内原忠雄である。「はこ舟」創刊は1956年4月であるが、その4月の20日に矢内原忠雄が、大学関係の会に参加のため初めて徳島を訪れ(最初で最後の訪問であった)、徳島の無教会集会主催の集会で講話をされた。
「はこ舟」のレイアウトは、矢内原の出していた「嘉信」という月刊の冊子にならって作成されている。そしてその矢内原忠雄の講演を聞いてまず心に浮かんできたことを、書き綴ったと、「はこ舟」の編集者であった太田は、次のように記している。
…はこ舟を造ろう、はこ舟を造ろう!! 一日も早く、一人でも多くのノアが出現すべきだ。そしてこのはこ舟に乗り込むべき人々を探して行こう。…滅亡から救われねばならぬ時は今である。その救われるべきはこ舟はどこにあるか?
イエス・キリストのエクレシアに、その家族として乗り込む以外に道はない。
もちろん我々は、そのエクレシアのはこ舟に乗り込むことだけで終われりとする者ではない。
この世の滅亡から救われるためには、神に祈ると同時にその十字架を負い、いのちをかけて働かねばならない。(「はこ舟」第2号6頁)
また、この第2号には、杣友さんも短文を書いている。
それは、つぎのような内容である。
…敗戦後4、5年ほど経ったころ、徳島の結核療養所に折々訪ねていた。 そのときに数人が病室の一室で聖書の会をしていた。それに加わっていた人が郷里の病院に転院した。その地では信仰の友もなく、また家族も老母を残して次々と失われていたが、とうとうその老母さえもなくなった。
その後、なんとか病気はいやされて仕事につくことができたが、信仰のみちびきがなかった。それで矢内原忠雄が発行していた「嘉信」を何カ月分かを送った。それによって支えられたという。その感謝のしるしとして、はこ舟協力費を送ってきた。
「嘉信」は、8頁の身軽さで社会のすみずみまで入り込んで友なき者の友となり、導く者のない信者をも導いて、一人立ちの地を養ってくれるので有り難く思っている。…
このように、太田さんも杣友さんも福音を何とかして伝えて、初めての人が救いを得るようにと心を砕き、またすでに信仰を与えられている人がその信仰を失わないようにとの主にある配慮をつねになしていたのがうかがえる。
はこ舟はこのように、創刊のはじめから、み言葉を伝える福音伝道ということを主眼としている人たちによって支えられてきた。
それは自分がいろいろな書物を読んで研究したから、それを発表するとか、自分の知的探求を他者に知ってもらいたい、という姿勢とは大きく異なっている。
福音伝道の出発点は、すべての人間的なものが打ち砕かれたときに注がれた聖なる霊にあった。キリストの弟子たちが、主イエスを見捨てて逃げ去り、ペテロは三度も主を知らないといって否定したという大きな挫折から、待ち望んでいた聖霊が注がれることによって初めて福音を伝える力が湧いてきた。
そしてその福音の根本とは、キリストは私たちの罪のために十字架にて死なれた、そして復活した、という単純なものであり(*)、学識や研究、あるいは人生経験といったものとは関係なく語ることができるものなのである。
(*)使徒言行録2章24〜33、3の15、4の10、33、5の30、32、10の40〜43 、13の30〜39 他。
この「はこ舟」の創刊に重要な刺激を与えたと考えられるのは、その創刊より6年前の一九五〇年一月に、堤 道雄が徳島にて「真理」というキリスト教の伝道冊子を創刊したことである。それは、堤が徳島学院に赴任して二年がすぎたころであった。彼は、三年近くの間徳島に住んでいたから、一九五〇年十二月までには、徳島の地で「真理」が発行されていたのである。
この「真理」誌が、「はこ舟」創刊のためのさきがけとなったと言えよう。
そして、現在の徳島聖書キリスト集会の原型である「徳島聖書研究会」が、その堤道雄によって一九四九年六月に創立されている。(「真理」創刊号 一九五〇年四月刊による)
この徳島聖書研究会が、堤が3年後に徳島を去ってからも継続され、そこから「はこ舟」も生まれ、「いのちの水」誌となっていったことを思うとき、堤の果たした役割は大きなものがあったのがわかる。
それは彼もそのようにして、徳島の地で発刊した聖書冊子が、別の形で生まれ、以後半世紀を越えて継続されていくということは予想していなかったであろう。
神は人間の想定を越えてその御計画を実現されていくのを感じている。
私たちは小さいころから実に多くの人に出会ってきた。しかしその間、いったいどれほどが私たちの魂の成長によい影響を及ぼしているだろう。
無数の出会いがありながら、自分の魂にいつまでも印象に残るよい影響を与えたという出会いは、数えるほどしかないであろう。
私は小学校時代には心に残る同級生などとの出会いはあまり思い出すことができない。
しかし、小学4年のときの担任のN先生が、1学期の終わりころに、両親をとくに呼び寄せて、ぜひ徳島大学の付属中学に進学させるようにと強く勧められた。
私は敗戦直後の混乱期に中国の満州で生まれ、たいへんな困難を伴いつつ、翌年になって帰国できたが、帰国後も困難はつづき、生活が大変で、母は、その心身の苦しみのゆえに重い肺結核となり、療養所に入院していたが、難しい事情が生じてまだ手術後の経過も十分でないのに突然家に帰って来た。
そのため母は病臥していることが多く、経済的にも困難であったから、父は私を付属中学校に進学させるようにとの勧めを断った。しかしその先生は繰り返し強く勧めたので、最終的にはしぶしぶ同意したのだった。
しかし、そのN先生は、二学期から病気で休職、その後も教師として復帰せず、二度とお会いすることはなかった。どうなったのか心にかかりつつも、ほかの先生方もそのN先生のことに触れることはなかった。亡くなられたようだった。
その先生のおかげで、私はそれまでその小学校では誰も入学したことのない付属中学校に入学して、そこで私は英語や数学、理科、国語、音楽等々、優れた教師と出会い、とくに英語を初めて教わった先生は、アメリカから帰った特異な教え方をする教師であり、私はそのおかげで、英語の学力が大きく伸びることにつながった。
それが後にキリスト者となって、さまざまの英訳やドイツ語等々の外国語訳、そしてヘブル語、ギリシャ語などの学びや、米英の聖書注解書や、そうした聖書の原語のさまざまの詳細な辞書類に直接に触れることにつながった。
大学時代に第二外国語でドイツ語を学んでいたので、信仰を与えられてすぐに、ルター訳聖書を求めて比較参照することに用いることもできるようになった。
聖書の内容をより正確に知るための語学の学びなので、スペイン語やフランス語、中国語等々で会話するとか経済や政治に関する用語の知識も必要もなく、キーワードや重要個所をいかに原語と各種外国語での訳し方で受け止められているかを知るためであるから、それらの言語の初歩を学ぶだけでも、十分に役に立ってきた。
さらに、アメリカの特にすぐれた聖書ソフト(Bible Works)に出会いーそのソフトは、カセットテープでインストールするという数十年前から、現在に至るまで、ほとんど毎日そのソフトを使わないことはないほどとなり、聖書の真理について語り、また書くことに計り知れない益をもたらすものとなった。
そのソフトには、ヘブル語、ギリシャ語の本文やそれらの複雑多様な変化形とその文法的解析、その意味も付属している多様なそれら原語の辞書等々、じつに精密かつ膨大な内容であった。
さらに、翻訳聖書に関しては、400年ほども昔の現代も使われている重要な英訳聖書(King James Version 欽定訳)から、現代の英訳まで40種類ほども収録され、そしてドイツ語やフランス語、スペイン語訳の聖書もそれぞれ10種類近く、さらに、中国語の聖書も複数おさめられており、聖書のなかの重要な言葉が、どのように受け止められているかを特定の団体や個人の訳という狭い範囲でのみ受けとるということでなく、はるかに広い視野からその聖書の言葉や、個所を原語、原文を参照しつつ理解できるということは、後々の学びや聖書講話、さらに「いのちの水」誌など印刷物に書くときには、きわめて重要なものとなった。
そのソフトには、さらに各種のーとくに英米の分厚い聖書辞典や注解書、また一つの原語ー例えば agape(愛)や sophia(英知)などが、どの聖書の文書のなかで、何回使われているか(コンコルダンス機能)、その前後の文とともに、その使用頻度も即座に見ることができ、一つのヘブル語やギリシャ語がどこでどのように用いられ、いかにそれぞれの英訳やほかの言語で訳されているかが一目瞭然となり、ある言葉がいかなる意味を持っているかの正確なニュアンスを知るためにはとくに有用だった。それまでは分厚くて重いコンコルダンスを広げていたけれど、はるかに容易にかつ詳しく精密にわかるようになった。
このアメリカでつくられた聖書ソフトは、その後かなりの年月の後に日本でも教文館やいのちのことば社で発売された聖書ソフトとは比較にならない有用なものだった。
「はこ舟」、「いのちの水」誌や、主日礼拝その他の家庭集会や県外集会などで聖書の言葉からのメッセージを語ったり、書いたりするときに、このソフトは不可欠なものとして、現在に至るまで、数十年比類のない役割を果たしてきた。
そのもとはと振り返るとき、小学校4年のときの担任が、強く両親に勧めたことで入学できた付属中学校での学びがあったので、神がそのN先生を私に使わしてくださったのだーと折々に心から感謝してきた。
その中学のとき、国語の物静かな先生が、ヒルティの「眠れぬ夜のために」という本を紹介して、自分が眠れないときにこの本を読むのです、と言ったことが今も頭に残っている。
そのときは、ヒルティに関して、またキリスト教に関してその先生は全く説明もなかったが、後になってヒルティは、ほかにほとんど類を見ないその大量の聖書からの引用があり、その哲学や文学さらには実践的な生き方においてもとくに心惹かれる著作家、生徒たちや、集会、また友人たちとその後長く繰り返し読んできて、聖書を広く深く読むということへの霊的栄養を与えてくれる著作家となった。
入手できるかぎりのヒルティの著作の各種の訳も求め、彼の主張、思想の原意を知りたくて、ドイツ語原文を入手したくて当時インターネットのなかった時代で、洋書専門店などにあたってみたが、一部の論文しか入手できず、白水社のヒルティ著作集の訳者の一人でもあった高橋三郎氏に手紙を出して、ヒルティの「眠れぬ夜のために」の上下の原書を貸していただいてコピーして使うことができ、初めてヒルティの肉声に触れる思いがした。
そして大学に入学してからは、たくさんの学生との出会いがあったなかで、同じ理学部のある友人S君とは特別に親しくなり、なんでも話せる間柄となった。当時激しい活動が繰り広げられていた学生運動や政治社会的な問題についても、専門の学びについても下宿に相互に行っては長時間語り合った。一緒に旅に出て、隠岐島にしばらく滞在、山陰の大山登山もしたりした。
しかし、後に私がキリスト信仰を持ったとたんにそれまでの親しさにもかかわらずたちまちその友人とは話しが合わなくなってしまった。
人間の友情というもののはかなさを知らされたことだった。
大学2年から3年にかけて、私は激しい学生運動に次第に関心を深めて行ったが、そのとき、一人の同じ理学部化学科の学生運動にかかわっていた一人の女子学生Mさんから熱心に理学部学生自治会委員になって欲しいと頼まれた。当時の学生自治会は、学生運動の中核を担っていた。彼女は自分が継続してやりたいのだが、白血病だとわかってできなくなった、寿命はそんなに長くはないと思う、それで私にぜひともなって欲しいというのであった。
私は民青系でも、その他の左翼系でもなく、当時の学生としては珍しくギリシャ哲学に傾倒しつつあった学生なのにどうして私に繰り返し依頼してきたのか不思議であった。彼女はそれまでの、学生間のいろいろの議論や討議での私の発言などに関心を持つようになっていたようだ。
私はほとんど、アルバイトと奨学金で学生生活を送っていたから、実験や勉強の時間がほかの学生と比べていつもかなり少なくなっていたので、時間がなく、そんなことはできないと断ったが、何回も、しかも時間もかけてその重要性を語りかけてきた。
彼女は左翼系(民青系)の学生であったが、ベトナム戦争や安保問題が日本にとって重要な問題であるから、学生こそそうした問題を真剣に考え、行動せねばならないと熱心に語る真実な姿勢が心に残っている。
私は彼女のその熱意によって大学3年の1年間だけ、自治委員として学生運動にかかわることになった。
それによって個々の学生と長時間、そうした政治的問題で議論することが増えたが、そのなかでとくに残っているのは、物理学科の坂田という学生と文字通り徹夜で、一度夜中にうどん食べに外に出た以外、明け方まで議論し語りあったことがだった。彼は、湯川秀樹、朝永振一郎という二人のノーベル賞学者と並んで、理論物理の代表的な学者として知られていた名古屋大学の坂田昌一の息子さんだった。 政治的問題となると激しい議論や敵意をもって反対者を論駁することも多かった当時の学生たちとは全く異なって、彼は、穏やかでその長時間の議論、話合いはいまも思いだす。
こうした学生自治会委員としてさまざまの考え方の異なる学生としばしば激しい議論しつつ、独自に考えていき、特定の思想的立場に呑み込まれることがなかったが、そうした経験は、後に聖書を読むにあたっても、ある特定の学者、先生などの解釈や読み方に追従せず、たえず独自に原典やさまざまの内外の聖書訳や海外の注解書にあたって、その聖書からのメッセージを受けていくという姿勢を培ってくれた。
なお、Mさんは、残された短い命なので、少しでも弱者のために働きたいと、弁護士になると言ったので私は驚いた。しかも実際に理学部卒業の後に、法学部に入学して弁護士となっていたのをかなり後になってインターネットで確認することができたが、その後何年か経って、その名前が見えなくなった。病気の進行のゆえだったのだろう。
そうして学生自治会委員となったために、すでに述べたように、しばしば左翼系の学生と長時間の議論する必要が生じた。そのためもあってマルクス主義関係の本も以前にもまして関心をもって読むようになっていた。
大学4年になってしばらくして、「マルクス主義とキリスト教」という本をたまたま古書店で見出した。その著者が矢内原忠雄であった。そのとき初めて矢内原という名を知った。その本の内容自体は少し立ち読みした程度で、何も記憶に残らなかったが、著者の名を覚えてしばらくしてやはり本を探していて古書店でたまたま同じ矢内原忠雄のが著者である「キリスト教入門」という古びた新書本を何気なく手にとっていくつかのページを何の気もなく立ち読みしていたとき、十字架のキリストのことを書いたある頁の数行が、私の魂に深く入ってきた。 私はその時にキリスト者となった。
私は当時、キリスト教とか宗教全般にわたってまったく関心もなく、学生や教授たちも誰一人キリスト教のことや宗教にかかわることを話題にするものなどいなかった。
当時の理学部においては、勉強もして政治や社会問題にも真剣に考えようとする学生たちが多く、彼らはマルクス主義的な考え方が多く、無神論が当たり前であった。そのような状況のただなかで、私はそれと全くことなるキリスト信仰に出会い、神を信じるように呼び出されたのであった。
それまでキリスト者とは出会ったことがなく、だれからもキリスト教について説明を聞くこともなかったにもかかわらず、一冊の書物のわずかの個所で信仰が与えられた。学生自治会委員とならなかったらマルクス主義とキリスト教の著者の矢内原忠雄にも出会わず、キリスト教にも触れることがなかったことになる。
神が用いられるときには、いかに小さきものーたった一頁でも大きな働きをするということを深く感じさせられた。
そのゆえに、後に勤務高校で、印刷物を作って同僚の教職員全体に「生活と読書から」と題した印刷物を作成して配布し始めたり、「はこ舟」や「いのちの水」誌といった印刷物の発行に力を注いできたのも、そうした自分の与えられた経験がもとになっている。
あのMさんが私に嵐のような当時の学生運動の混乱のただなかで、学生運動をリードする自治会委員になって欲しいと不思議に思うほどに嘆願してきたのは、なぜだったのか、はじめのうちはわからなかった。
しかし、現在ではそれらもすべて驚くべき神の御手によってなされていたのだということを感じるようになった。 こうして私はまもなく、キリストは今も生きておられる方であることを確信するに至った。
そしてそのキリストを伝えるべく、高校の理科教員となって生きたいと願うようになった。そして教員となって赴任して二カ月後に生徒に呼びかけ、放課後にヒルティや聖書の読書会を始めることになった。不思議なほどすぐに生徒たちが集められた。それは信仰を与えられてちょうど1年後だった。
それからさまざまの信仰の人に出会い続けて今日に至っている。
キリストは出会いをあたえて下さる御方である。
私は教員として、一般的な全日制高校だけでなく、昼間、夜間の二種類の定時制高校に勤務し、家庭の事情などからとくに困難のなか、8時間の仕事をしながら高校に通うという定時制高校の人たちと接して多くの学びを与えられた。神は驚くべき困難な状況にあってもじっさいに生きて働いて応えてくださるということをいかなる書物にもまして知らされたのはその定時制高校勤務のときであった。
そのことの一部は、2018年10月の無教会のキリスト教全国集会において「応えてくださる神」ということで語らせていただき、その内容は去年11月号の「いのちの水」誌に掲載した。
さらに当初はまったく考えていなかったが、導かれるままに盲学校やろう学校、養護学校などの教員ともなって、さまざまの障害者とも出会いが与えられ、同僚の教員や生徒たちにもキリスト信仰を中心としてさまざまの出会いが与えられてきた。
キリスト信仰を与えられるまでは、いくら求めても真の出会いはなかったのに、神を信じるようになってから、求めずして次々と与えられていった。
まず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものは添えて与えられる、という主イエスの約束はこのような方面においても真理なのである。
そして身の回りの自然においても、以前には感じなかった出会いを、感動を与えられることが続いている。自然との真の出会いは、その背後におられ、それらの自然を創造された神とのいっそう親密な出会いにもつながっていく。
そして最終的には、私たちは万物の根源であり、あらゆるよき人間や美しい自然の根源である神とキリストに顔と顔をあわせてお会いできるということが約束されている。
(これは、「いのちの水」2004年8月号に一部補足したもの。今回の記念のためにと、この「出会い」の文に言及された方があり、私が出会いのなかで理科系の科目以外に語学にもとくに関心が生まれ、そこから開かれた聖書原語やほかの語学の世界につながり、聖書の正確な学びにおいていかに語学が重要な役割を果たすかーそこからアメリカのすぐれた聖書ソフトへの道も開けていったーを知ってもらい、せっかく学んだ英語や第二外国語などを単に会話や実業的方面だけに用いるのとは全く異なる用い方ー聖書の真理をより深く知るための道具として使おうとする人たちが増えて欲しいと願って、とくに語学関係のことを今回追加して掲載した。)
〇木星の輝き
6月の中旬を過ぎる頃には、木星は夜8時ころには、南東の空からその強い輝きを見せ始めます。
そして、夜通しその光が目にとまります。この頃には明るい月の光があるので、木星の光もそれほど目立たないのですが、20日を過ぎるころには、月の出るのが遅くなるので、夜8時ころには、木星の強い光が東から上がってくるのがはっきりと見えてきます。
金星が「明けの明星」と言われるのに対し、木星が「夜半の明星」とも言われるように、日没後も夜通し輝いて見えることがあるために、とても見つけやすいものです。もし見ていない人があればぜひ見てほしいと思います。
星の輝きは、惑星であっても恒星であっても、その光は、人間に汚されることなく、何万年でも続くことであり、また地上の遠く離れているところからも、晴れているなら同じ星を見つめることができます。木星のすぐそばに(右下方)赤く輝くのは、さそり座のアンタレスという一等星です。これは、非常に遠いところにあるので、小さな赤い輝きに見えますが、太陽の700倍ほどもあるという私たちの想像をはるかに越えるような赤色巨星です。
星々を見つめるとき、私たちの存在の限りなく小さいこと、しかしその小さき取るに足りないものをも深いを愛を注いでくださるという驚きを感じるとともに、どんなに私たちが相互に離れていても、同じ神様を霊の目で見つめ、仰ぐことができるのと似たところを感じるものです。
★7月の北海道 瀬棚聖書集会と以後の吉村孝雄が御言葉を語らせていただく集会の日時、連絡先などをお知らせします。 時折、友人からもらった「いのちの水」誌とか、インターネットで知ったということで参加される方もあるので、書いておきます。