いのちの水 2019年 8月号 702号
私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく、… 悪の霊を相手にするものである。 (新約聖書 エペソ書6の12より) |
目次
・お知らせ |
敵を愛し
迫害する者のために祈れ
(マタイ福音書5の44)
この有名なキリストの言葉は、非現実的なこととして、顧みられないことが多い。これは、一つには、愛するという言葉を、好きになる ということだと思い違いをしているからでもある。
しかし、ここで言われている愛とは、そのような感情ではなく、神の愛と相手の悪を見つめた理性的な祈りであり、 それゆえに、このキリストの言葉は、私たちの日々の生活においてもとくに現実的で重要なことである。
敵と言うほどでないが、私たちの良き意図をも認めようとせずに攻撃したり、いじめたりするようなことは、すでに子供時代からしばしば見られる。大人になっても老年になっても、職場やいろいろの人間関係ーごく身近な家族がそうした敵のようになったり…。
それゆえ、このキリストの言葉は、そうしたあらゆる人へのメッセージとなっている。
私たちが不当な仕打ちを受けたときには、怒りや悲しみ、憎しみなどが生じる。相手にもそれは伝わっていくことが多いし、それは何より自分自身にとって毒のようなものとなる。
しかし、ひとたび、そのような相手のために、祈ろうとするとき、私たちは変えられる。祈りとは神の愛を見つめ、その愛が相手に注がれて悪意が流され、清められるようにとの心であるから。
すでに触れたように、敵を愛し、ということと、迫害するもののために祈れ という二つの言葉は、実は一つを言い換えたものである。詩篇に多く見られる一種の並行法なのである。同じ内容を同じ言葉で繰り返すよりも、別の少し異なる表現で併置するほうが、より内容が浮かび上がり、聞くものにとってもより心に残る。
それゆえに、このイエスの言葉は、敵対する者のために、最善のことー神の賜物が与えられるように祈れ ということなのである。
だれかのために祈るときには、神におのずから心の目を向ける。そして敵対する相手の心に、その神の愛や清い霊を注いでください。彼が支配されている悪の力を聖なる霊の力で追い出してくださいーと願う心となる。
しかし、そのような祈りは、すぐには聞かれず、相手の言動はいっこうに止まないことも多い。
しかし、それでもなおも祈りを続けていくときには、祈らずに憎んでいたり単に嫌っていたりしたときには与えられない清い風が吹いてくるのを、自分自身のなかに、少しずつではあっても感じるようになる。
そしてそれが時がくれば相手にも伝わることがあるし、神ご自身がその時を定めて相手を変えてくださることを信じることができる。
真理というものは、相手にも自分にも双方によきことを生み出すからである。
この世界では、常に勝つか負けるかということが根本問題になっている。
子供の遊びから、高校の野球や大人のプロスポーツ、オリンピック等々、すべて勝つことに力が注がれる。
政治の世界も、選挙で勝つことが最大の問題となるし、会社の経営でも他社との競争に勝ち抜いていくことが不可欠となる。国家間の戦争においても同様で、勝つために、おびただしい殺し合いが生じてしまう。
しかし、こうしたすべてにおいて、勝利か敗北かは、多くは一時的である。 政治や会社の運営、スポーツなども、背後で動くカネの力で勝利が決まるなども多くみられる。戦争も、軍事力の増強というカネの力が大きく勝利にかかわる。
さらに、スポーツなどちょっとした風向きなどの天候や選手の怪我など偶然的なことにも支配されることもある。
このように、この世の勝利と敗北は常に一貫していない。いかにある時期において国家や会社が勝利しても、少し時間が経てば敗北していくことはいくらでも見られる。
権力者も、例えば日本では昔の平家、源氏の戦いも同様で、いかにある時期に決定的な勝利を治めても、まもなく滅びさっていくー信長や秀吉、あるいは徳川等々、みな同じである。
平家物語の冒頭にある次の言葉は広く知られている。
…祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。
栄える者、勝者は必ず滅びていくーそれは少し世の中のことを観察すれば、ごく当たり前のことと言える。
ここにあげた平家物語の冒頭には、何が永遠なのか、なにが最終的な勝利者なのかは記されていない。
このようなこの世の勝利とは全く異なる勝利がある。
それが目に見えない世界での勝利である。 人生の敗北者だ、というとき、ほとんど誰からも認められず、生活も苦しく、人々からも見捨てられたような人を指す。
しかし、この世においていかに落ちぶれて敗北者のように見えてもなお勝利者でありうる。
キリストがその最も重要な例であり、真実と愛に生き、その言動は正しいことを貫いて生きたにもかかわらず、弟子たちからも捨てられ、また人々や権力者たちからも神を汚したという最大の悪名を受けてさらしものとなって十字架で処刑された。
それはどこから見ても、勝利者とはほど遠い、敗北者の姿だった。
しかし、そのような状態で生涯を終えたキリストこそが、最大の勝利者だった。それは死からの復活が与えられ、その後二千年にわたって全世界の至るところで、その力は個々の人間に新しい心を与え、勝利となる重要性へと結びついてきたからである。
また、キリストとともに十字架につけられて処刑された一人の重い罪人は、最期のときにキリストが死からも復活するような神と等しい力をもっている方だと信じて、それによって、死の直前に、キリストから「あなたは今日、パラダイスにいる」と救いの約束を受けた。それも周囲のあらゆる人たちから、見下され、完全な失敗と敗北の人生だったとみなされたにもかかわらず、勝利の人生となった例である。
さきにあげた平家物語の冒頭では、この世で栄えてもすべて滅びさっていく、というこの世の現実が記されている。
しかし、聖書においては、その冒頭において、全くの闇と空しさが満ちていたなかに、神からの風が吹きわたり、そこに光あれ!との神の言葉によって光があった。闇に勝利したということが、記されている。
このことは、四つの福音書の最後に書かれたヨハネ福音書の冒頭においても、取り上げられて、神の光、キリストの光は、闇に勝利したことが記されている。
勝利か敗北かーそれは最終的には、勝利に終わるということは、聖書の巻頭から、最後の黙示録に至るまで、一貫して聖書の根底を流れる内容となっている。
キリストの十字架の死も、勝利である。罪の力に対する勝利にほかならない。
人間はすべて、どうしても自分中心ということから離れられない、それを罪といっているが、その罪の力から解放され、長年の罪、日毎の罪もただキリストの十字架がそのような深い罪の赦しのためだったと、信じて見上げるとき、じっさいに私たちの積年の罪が赦されたという実感が与えられる。
ただそのことがキリスト者となったということであり、罪の力に対する勝利を与えられたということになる。
復活もまた死という最大の力に対する勝利である。すべてを呑み込んでいく死という力に勝利する力が、これもただ神とキリストを信じるだけで与えられるということである。
そのことについて、キリストは次のように言われた。
…わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。(ヨハネ福音書11の25〜26)
だれでも、とくに老年になる日一日と近づいてくる死ということ、それに勝利するなど、普通に考えるなら考えられないことである。死という恐るべき力の前には、いかなる大国の皇帝もヒトラーのような暴君も、また長年医学をおさめた医学者、医者であっても、すべて敗北していく。
しかし、ただの人間であってもただキリストを救い主として信じるだけで、すべての人を呑み込んでいく死の強大な力にうち勝つ力を与えられるというのである。
こんな喜ばしいメッセージ(知らせ)はない。福音とはまさにこうした罪の力や死の力に対する勝利が信じるだけで与えられるということである。
「福音」という中国語で訳された言葉のギリシャ語の本来の意味は、「よき知らせ」である。
アメリカの黒人解放のための働きで命をかけて、差別と闘ったマルチン・ルーサー・キング牧師は、こうした復活を信じ、最終的な勝利は必ず神がなされるとの確信をもっていた。
黒人差別と闘った人たちが、繰り返し歌ったのが、次の讃美歌だった。
We shall overcome
(私たちは 勝利する)
We shall overcome
We shall overcome some day(私たちはいつの日か勝利する
Oh, deep in my heart(ああ、私はそれを心の深いところで堅く信じている)
I do believe
We shall overcome some day.
ここで、We will overcome でなく、We shall となっているのは、shallの本来の意味を表していて、主語のWe とは別の意志ーすなわち神の意志が勝利させるのだ、という意味となるのであって、必然の意味をもつ。
will なら、私たちの意志で勝利する、ということになるが、まったくそれとは異なって、私たちが勝利するのは自分たちの力によるのでなく、神の御計画、神のご意志なのであり、必然的なことだ、という確信を表している。
聖書は、その巻頭から「勝利」の書物である。
闇と空しさのただなかに、神からの風が吹き続け、そこに光あれ!との神のひと言で闇に勝利する光が存在するようになった。
このことは、聖書全体の要約といえる。闇の力に対する神の光の勝利を宣言しているのである。その後の聖書の記述も、神の勝利がその根底に流れている。
イスラエル民族が、エジプトにおいて奴隷として重労働を課せられ、滅びていこうとするときにモーセが遣わされて神の言葉を神の力とともに語り、まったくの軍事力もなしに、大量のイスラエル民族をエジプトから解放させることになった。
このことは、神の勝利であった。
さらに、その後、エジプト軍は追跡して、前方は海という絶対絶命の状況にあって、やはり神がモーセを用いて勝利を与えられた。民を追いかけてきたエジプト軍は海のなかに沈んだーここにも、どのような道もないという状況でも神が闇の力と闘われ、勝利へと導かれた。
旧約聖書に掲載された詩集ーそれは多くの古代民族が生み出した詩集とは全くことなる内容となっている。日本の万葉集、古今和歌集や中国の文選、詩経国風などには、男女の愛を中心としたものが実に多いのに驚かされる。
ギリシアのホメロスや、ローマのヴェルギリウスなど、古代民族が生み出した詩は、人間同士の戦いに関する内容を人間のさまざまの感情を織りまぜて歌いあげている。
しかし、聖書における詩集(詩編)では、その冒頭から、悪の力に対する勝利が主題となっている。
…いかに幸いなことか…
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
悪しき者はそうではない。
風に吹き飛ばされるもみ殻のようだ。
悪しき者の道は滅びる。
(詩編第一篇より)
また、モーセが受けた神の言葉として次のように記されている。
…しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。
心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会う。
これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、
あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聞き従う。
あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。(申命記4の29〜31)
これも、民の側がさまざまの悪の力に負けて滅びようとするとき、最終的には神が働いて、民は神に立ち返り(魂の方向転換)、救いに至ると預言されている。
人間の側の罪にもかかわらず、神はその愛ゆえに、民の心が変えられて神に従うようになるという。
それは、神の愛の勝利ということである。
現代の私たちにおいても、数々の私たち自身の弱さや人間的な限界にもかかわらず、悪の力に敗北することなく、最終的には神の愛によって立ち返ることができる。この世の誘惑や試練に勝利することが約束されている。
そして旧約聖書にある預言書、これも現実はいかに困難なことが生じようとも、勝利をさまざまの形で預言する内容となっている。
イザヤ書においては、民族として当時の大国に攻撃され、滅ぼされ、多数の民は死に、国外に逃げていく、あるいは捕囚となっていくという国の存亡をかけた状況にあっても、最終的には、必ずそうした数々の闇の力に勝利して、残された者が存在し、祖国に帰って来るーということが繰り返し記されている。
…その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。
残りの者が帰って来る。ヤコブの残りの者が、力ある神に。(イザヤ書10の20〜21)
イザヤ書において、この残りの者が必ずいかなる困難があろうとも、立ち返って神のもとに帰ってくるということが繰り返し強調されており、それは次の個所にも表されている。
…主はイザヤに言われた。
「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、アハズ王に会い、彼に言え。『落ち着いて、静かにしていなさい。恐れるな。」
(イザヤ書7の3〜4)
この息子の名前、シェアルとは、残りの者という語であり、ヤシュブとは、シューブ(方向転換する、帰る)という語の変化形であって、「残された者は(神のもとに)帰る」、という意味なのである。
息子の名前にまでこうした信仰にかかわる重要事をあらわす語を用いるということ、それは、イザヤが「残りの者」に関する真理を、神からいかに強く示されてかを示すものとなっている。そして力を尽くして魂を尽くしてその真理を民に伝えようとしていたのがうかがえる。
悪の力、滅ぼす力がすべてのよきものを呑み込もうとして迫ってこようともそれらすべてにうち勝って、神が残りの者を生み出し、立ち返らせ、その人たちが後の時代の基となっていくーということを、この預言者は神の啓示によって確信していたのであった。
そして数千年の歴史においても、この残りの者が起こされ、神に支えられて激しい迫害や攻撃にもかかわらず、神とキリストの真理が伝えられてきた。それは神の力の勝利を示すものとなってきた。
いまから2700年余の昔に、アッシリアという大国が攻め入り、イスラエル王国は滅ぼされた。その後、百数十年後には、南部のユダ王国がバビロンからの大軍に攻撃されて、神殿も破壊され、多数の人が殺され、多くの人は、遠い異国のバビロンへと捕囚となって連行され、もはやユダの国は滅び、神の民も消え失せると思われたであろう。
しかし、神は深い御計画によって、それから半世紀の後に、その遠いバビロンからユダの民が無事エルサレムに帰国できるという驚くべき道を備えられ、その後新たに神殿も建設され、残された民が基となって神の民として続いていくことになった。
それから数百年後、イエスよりも160年ほど以前には、アンティオコス・エピファネス四世という異国人が支配し、ユダヤ人たちから彼らの信仰を根底から奪おうとする大規模の迫害が生じた。聖書を持つものはそれを焼き捨てるように命じられ、彼らの律法に従おうとする者は、生きながら大鍋に入れたり、皮を剥ぐなどの拷問、処刑をするという手段を選ばない残虐なことをも行なった。(旧約聖書続編 Uマカバイ書6〜7章)
しかし、それでもなお、信仰に生きるものたちは残されて、彼らの信仰も受け継がれ、後にイエスの誕生へとつながったのである。
キリストの時代においても、キリストご自身が迫害され、殺された。弟子たちもイエスなど知らないと言って逃げ去った。
それでも、その人間の弱さに新たな力を与えて、そうしたこの世の誘惑の力に勝利していくことになった。
聖霊が注がれ、それが勝利をもたらしていった。
ローマ帝国の長く厳しい迫害の時代にあって、預言者イザヤなどが繰り返し強調した「残りの者」が起こされ、最終的にはその迫害の力に勝利してキリストの真理はヨーロッパ全体に広がっていった。
それはまた、世界の各地でキリストの福音が伝えられていく過程では数々の迫害があり、真理がつぶされそうになったことも生じた。中国や日本においても同様である。しかしそれにもかかわらず、神はそうした事態にあってもつねに残りの者が起こされるようにされ、今日までキリストの真理は続いてきている。
そして、今後はどうなるのかについて、キリストは、次のように預言されている。
世の終わりに近づくにつれて、この世には、偽の預言者ー偽りを言って支配力を強めようとする政治家、あるいはイスラム原理主義者のようにテロすら神のためと称する人たち、また、戦争や地震などの予兆、そして人間関係にも大きな楔が打ち込まれて愛が冷えていくーという。
そのような荒涼とした状況となろうとも、神は残りの者ー最後まで耐え忍ぶ者を残されていく。(マルコ福音書13章など)
そして、この世の終わりには、最終的に悪の根源的な力が打ち破られ、新しい天と地となり、そこではあらゆる涙はぬぐわれ、悲しみも嘆きもない。神が永遠に彼らとともにいてくださり、神とキリストが太陽となり、命の水が流れ続けるところとなると、深い霊的な言葉をもって語られている。(黙示録20〜22章)
このように、聖書は最初の創世記のはじめから、最後の黙示録に至るまで、数々の闇の力、悪の力が襲いかかろうとも、そのときに常に神は勝利を与え、最終的にはいっさいの闇の力に勝利されるということが記されている。
この世は、真理や正義、真実な愛が最終的に勝利するということはどこにもみられないで、その逆ばかりではないかと思われるような状況がはるか昔から続いている。
神の勝利ということは、アニメの世界にみられるような単なる空想でなく、人間の作り事でもない。
しかし、聖書に示された神の真理は、愛と真実の神こそが、最終的な勝利であることを一貫して人類に語り続けており、過去の数千年の歴史のなかにそのことが、刻み込まれてきたのである。
神はイスラエルに対して
心の清い人に対して、恵み深い。
それなのにわたしは、あやうく道を誤り
一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。(1〜2節)
詩篇の第3巻の最初に置かれた詩が、この第73編である。第3巻は、第89編まで続いている。こうした詩篇の区切りの最初と最後には、それにふさわしいものが書かれている。
この詩はどういう目的で第3巻の始めにおかれたのか。それは1〜2節にこの詩の基本的なメッセージが込められている。
1節にある、イスラエルというのは神を信じる人達であり、現代の私たちは霊的なイスラエルということができる。
心が清いということは、真っ直ぐに神を見つめているということであり、神という真実なもの、変わらないもの、永遠的なものを真っ直ぐに見つめているということで、神以外の人間の思いや欲望や、自分中心のさまざまな願いといったものを求めると、途端に人間の心は汚れた状態になる。
2節は、「足を滑らせる」というのが原文であるが、信仰に関わることで、私の足を滑らせたというような表現はほとんどわれわれは使わない。ここで言おうとしているのは、正しい道を歩いていたのが、途中で間違った道へと向かい始めた、ということである。
1,2節では神の現実と人間の現実とを対比させて、この詩のエッセンスになる部分が先に挙げられた。私たちもイエスキリストの十字架を仰いで、心から赦しを願えば、汚れていても赦していただける。どのように至らないものであっても、恵を注いでくださる神はずっと変わらないのに、私たちは絶えず御国への道を踏み誤って歩けなくなって、別の道に行ってしまったり、あるいは逆戻りしてしまう。
なぜこの詩の作者は、神を深く知っていたはずであるのに道を間違った(足を滑らせてしまった)のかが、次の3節以降に書かれてある。
それは、悪しき物(神に逆らう者)、不正なことを平気でしている人達が苦しいことや裁きだと思われることに遭わないで、安楽な生活をしているということを周囲で見せつけられてきたからだった。
そうした状況を目の当たりにして、本当に神はおられるのか。神の正義はどこにあるのか。死ぬまで彼らは、苦しいこともなく、食べ物も富もある。だれもがかかる病気や、苦しみになぜ出会うことがないのか。
… 悪しき者が安楽に過ごすのを見て
わたしはおごる者をうらやんだ。
彼らは苦しみを知らず
だれにもある労苦すら彼らにはない。
だれもがかかる病も彼らには触れない。 彼らは侮り、災いをもたらそうと定め
高く構え、暴力を振るおうと定める。
そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
見よ、これが悪しき者の実態である。(3〜12節より)
わたしは心を清く保ち
手を洗って潔白を示したが、むなしかった。
日ごと、わたしは病に打たれ
朝ごとに懲らしめを受ける。(13〜14節)
今の私たちにも、至る所で起きている問題が、13,14節にあり、さらにスケールを大きく、長く引き延ばしたものが、ヨブ記とも言える。
ヨブは神を信じて、子ども達がおかしたかもしれない罪の赦しのために祈ったり、捧げものをささげていた人だが、病に打たれ、徹底的に苦しめられた。そして彼もどこに神をいるのかと分からなくなった。
この詩とヨブ記は深いところで共通している。この現実の矛盾。正しく生きようとしてもなぜか苦しい嫌なことが振りかかってくる。
神はおられるはずなのに、悪しき人たちは、苦しみも罰も受けないで、あるいは楽々と過ごしているではないかという謎は、いかにして解けたのか。それは哲学の本を読んでも、知識を増やしても分かることではない。
…「彼らのように(神などいないと無視して)語ろう」と望んだなら
見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう。(15)
このように12節まででこの詩を作った人が何によってつまずいたかを様々な表現で言っている。この世の現状は、悪をなす人たちが裁きを受けずに、豊かであり、安楽に過ごす、そして神などいない、何をしていても神は見抜くこともできないーと神の全能と英知を全面否定する。
そうしたこの世の人間のただなかで、心を清く保とうとしたが周囲の人たちは何らそれを見て悔い改めることもしない。そればかりか、私は病気に苦しみ、朝ごとに裁きを受けているかのように苦しまねばならない。
このような現実に置かれるとき、ますます人間はつまずいてしまう。これは今も昔もそうである。そして愛や真実の神、正義の神などいるのかと、深い疑いに落ち込んでいく。
教育や、医学、科学技術などがいかに発展しても、神の真実や慈しみ、清らかさを受けとる心は増えていくことはない。
このような状況にあって、この詩の作者は自分がもし、道を踏み誤ったら、自分以外の人達にも霊的な悪影響を及ぼすのだと広い視野を持っていた。だから自分も大きな流れの中にいると考えるならば、例え少数でも、神の真実に踏みとどまるということは、後の世代にも重大な影響を及ぼすのだという認識をはっきりと示されていた。
人間は周りの人からさまざまな影響を受け、また互いに与えあっているだけでなく、後の時代にも良いもの、悪しきものを残していく。時間的な繋がりの中で、生きているということをこの人はよく分かっていた。
この人が何によってこの世の矛盾から回復したのかということが次の16〜17節にある。
… わたしの目に労苦と映ることの意味を
知りたいと思い計り
ついに、わたしは神の聖所を訪れ
彼らの行く末を見分けた。(16〜17節)
神の聖所とは、礼拝であり、祈りの中でも神の聖所である。そしてイエス様自身が内に住んでくださるから、私たち自身が神の神殿だとパウロが言ったように、祈りの中での神との交わりによって、啓示される。
そして悪というものの末路がはっきり見えた。これは経済、科学が発展しても、学問をしても、豊かになっても分かることではない。これは祈りの中で神に示されなければ分からない。
…神は、彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし
災難によって滅ぼし尽くされる
わたしは愚かで知識がなく
あなたに対して獣のようにふるまっていた。
あなたがわたしの右の手を取ってくださるので
常にわたしは御もとにとどまることができる。
あなたは御計らいに従ってわたしを導き
後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。(21〜24節)
神の定めた時が来たら、悪の力は、一瞬のうちに裁きを受けて、落とされる。
神からの啓示を受けると、13節にあるようにどんなに心を清く保とうとしても、神の前には自分は獣のようだと自分の正体がはっきり見えてくる。
ヨハネ福音書にあるように、聖霊があなたたちに全てを教えるとあるが、そのように教わったときには私たちは取るに足らないもの、愚かで明日のことさえ分からない。このような自分に対して、神に求め祈る気持ちがあるならば、神が右の手を取ってくださるから、常に御許に留まることができる。
最初はまっすぐ行こうと思ってもつまずき倒れて滑ってしまう。それは未だ自分の考えが相当残っていて、自分の力で心を保とうとしたり、自分の努力で潔白であり続けることができるなどと考えるからである。
このように自分の力に信頼して、その根本的な弱さ、罪に気付かない限り、周囲の様々な不正や汚れに対しても、絶えず誘惑され、動かされる。
しかし、神に啓示されて、神に頼るようになれば、倒れそうになる自分の右の手を神がしっかり取っていてくださって、留まることが出来る。
そして導いてくださる。滑っても転んでも、神を仰げば手を取ってくださって導かれるということがわかる。
聖霊に導かれる生活がローマ書8章に記されているが、そのように、最終的には神の御許へと導いてくださる。 これは、神に導かれる生活を指し示すものであり、ダンテの神曲のメインテーマもまたこの神の導きということである。
… わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが
神はとこしえにわたしの心の岩
わたしに与えられた分。
見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。
御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。
わたしは、神に近くあることを幸いとし
主なる神に避けどころを置く。
わたしは御業をことごとく語り伝えよう。(26〜28節)
26節には理性的な判断力や記憶力は衰えていくが、霊的なところでは神がしっかりと私の岩になってくださる。神の国を相続してくださる。昔は土地が与えられた分であったが、このようにすでに古い段階から、目に見える土地や富、武力ではなく、神そのものが信じる者に与えられるという深い啓示を受けていた。
このように神によって心の転換、幸い、導きを実感したが故にだまってられず、御業をことごとく語り伝えようという気持ちになる。伝道、宣教というのは、組織から命令されたり、数を増やすとかいうことではない。
神からいのちの水を受けたら、泉のようにわきあふれる。これが御言葉の伝道である。
どうしてこの詩が詩篇第3巻の最初におかれたかというのは、神の御性質とこの世の現実、この世の現実に打ち倒された人間が、いかにそこから立ち直って、新しい生活に導かれるのかという、いつの時代でも最重要課題となるからこそである。
科学が与えるこの世の最終的な状況は、太陽が大きく膨張して地球もその熱のためにまず水が蒸発し、最終的にはいっさいの生命は滅びるーといった状況である。
科学技術というものは、よきものとともに、あるいはしばしばそれ以上に悪しきものを生み出すというのは過去の歴史が至るところで示している。あるときにいかによいものだと言われていても、それは一部の見方にすぎず、必ずさまざまの悪しきものが生まれてくる。
人間が罪に満ちた存在であり、必ず自分中心、利益中心に用いようとすること、そして、科学技術そのものに、破壊的な面を内在しているからである。
それは、原子力科学に関して見てもわかる。ただ目に見えない放射線の追求を真実にしていっただけであるのに、その見いだされていった放射線のために病気となり、死に至ったキュリー夫人の例があるし、そうした研究の産物である原爆、水爆、原発によって世界は危機に瀕している。
身近なところでも、車一台が走れば、それだけ交通事故の危険性や道路建設のための自然破壊は生じ、大気汚染は必然的に増大する。
私たちの生活のいたるところに深く入り込んでいる各種の金属ー例えば銅にしてもそれを鉱石からとりだす過程で必ず有害物質が生じる。自然の鉱石のままなら何ら有害ではないが、科学技術の力でたくさん取り出そうとしていく過程でかつての足尾銅山の悲劇的な大規模公害となったこともある。
現代でも金を取り出す過程で水銀を用いるために、世界の地域によってーとくにブラジルなどにおいては広い地域の住民の生活を破壊するような被害が生じている。
ウランにしても、それを原発の材料にするためには、天然にあるウラン238は、自然界にあるままの状態なら、ほとんど害はない。しかし、それを核兵器や原発に使うためには、核分裂を起こしやすいウラン235の含有率を増やさねばならない。そうして得たウラン235は、放射線が強くそれ自体が危険となる。
さらにそれを分裂させてエネルギーを得るという「良い目的」のためであっても、そこからおびただしい放射性物質が生じていく。しかも半減期が何万年といったほぼ永遠的といえるものもいろいろと含まれている。
このように、エネルギーを得るというそれ自体良い目的であっても、必然的に制御しがたいほどの危険な物質がしかも永遠的と言えるほどの期間持続する危険物質を生じてしまう。
水俣病も、もともとは肥料を作る会社であったがその後の発展から、化学工業に不可欠のアセトアルデヒドという物質を作るようになってその化学反応をよくするための物質(触媒)として水銀が使われ、それがメチル水銀となってたくさんの人たちを長期にわたって苦しめ、死に至らしめた例も多くなった。
現代でも、金を採取する過程で、ブラジルなど多くの国々で水銀を用いる方法が使われており、それが、水俣病と同じメチル水銀が生じることにつながり、多くの人々の健康が損なわれていくようになった。
これも、もともとは、科学技術上、必要なことであり、人間生活に役だつことを求めてのいとなみであったが、それがそのように人間の健康に重大な被害を与えることにつながっていったのである。
また、薬は必ず副作用がある。抗生物質のようにいかに良い目的で使おうとしても、必然的にそこから耐性菌という悪しきものが新たに生み出されてしまう。
さらに、科学技術は、資源なくしてはありえないが、その資源は有限であるということも致命的である。(*)
(*)その資源を求めて月にまで到達しようという考えもある。しかし、月の世界とは、真空であり、重力が地球の六分の一と弱く、危険な放射線が大量に降り注ぐ。そして昼は、摂氏百度前後にもなり、夜は零下二百度前後まで下がるという人間の永続的な生活など本来考えられない世界である。
このような世界に人が住んで資源をとりだすなど、ちょうど原子核のなかに秘められたエネルギーをとりだすことで、核兵器や原発などが世界に生み出されて、人類への最大の危険な問題となっているのと共通した危険を感じさせる。人間に与えられているものを越えて求めようとすることでますます全体としての危険度は高まっていく。
本来、月の世界などで生きるなどということは考えてはならないのであって、この地球での生活をよりよくするように、人間は創造されているのである。
このような、科学技術の人類に与える将来について、最終的には人類は科学技術によって滅びていくのではないかとの、暗い予想を述べたのが、日本で最初のノーベル賞を受けた湯川秀樹だった。(「人間にとって科学とは何か」中央公論社1987年)
こうしたはるかな未来に至るまで、たちこめている暗雲は、科学技術や学問、政治、教育といったものを通しても、ぬぐい去ることはできない。かえってそうしたものを知れば知るほど、湯川秀樹のように、この世界の根底に横たわる問題の困難さを思い知らされていく。
これは、目先のことしか見えない人間の弱さ、さらには、自分中心、利益中心という人間の罪の本質が根底にあるからである。
こうした未来の困難な問題への解決の道は、あらゆる人間の弱さ、罪を超えた全能にして愛の神の力を信じる以外に道はない。
それは人間の復活と共通したところがある。人間も老年となり、次第に心身が衰え、最終的には動けなくなって死んでいく。それで終わりとなるという空しいものでなく、復活してキリストと同じ栄光のからだとされる。
言い換えると、すべてに勝利して、キリストの愛や真実、永遠の力等々が与えられるという輝かしい約束がある。
それと同様に、この世の終わりには、キリストの再臨があり、この世界、宇宙全体が「新しい天と地」とされ、神とキリストが太陽のごときものとなるという科学的な考え方とは全くことなる希望に満ちた霊的世界が約束されている。
このように、過去、現代、そしてはるかな未来において、人間を敗北させ、滅びさせるいっさいの力に勝利するというのがキリスト教の最終的な預言となっている。
このような聖書に記されてた広大無辺の未来に関しての約束を信じるかどうかが、復活に関して言われた次の言葉と同様に、現代の私たちにも語りかけられている。
…イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」
(ヨハネ福音書11の25〜26)
〇北海道から東北、関東、中部など各地での集会と交流
7月9日に徳島を出発し、その夜に舞鶴市とはいえ、かなりの山中にある西方寺という地域で、愛農高校出身の添田さんご夫妻や霜尾さんご夫妻、その協働者の方々、さらに愛農高校からの実習生の二人の方などとともに、御言葉を学び、賛美と祈りをささげる機会が与えられた。
7月11日(木)〜14日(日)までは、北海道の南西部の海岸近くにある瀬棚において、瀬棚聖書集会。今回は、「祈りと実行」という主題。最後の14日(日)は、瀬棚から20キロ近く離れた日本基督教団の利別教会での教会との合同礼拝。
瀬棚集会は、基督教独立学園卒業の方々を主体とする酪農家が中心だが、一部米作農業の方もおられ、集会に参加された方々には、日本基督教団の利別教会員でもある方々も含まれている。
利別教会は、さまざまの困難を越えて、創立百年を越える歩みを記してきた教会であり、無教会において育った方々とともに共同でこうした三泊四日の聖書を中心とした礼拝がなされること、また夏期のこの瀬棚聖書集会は、今年で46年目を迎えてその長い期間の神の導きをあらためて感謝だった。
それは、また瀬棚聖書集会に属する方々の不断の祈りと生活に対する神からの恵みだと感じたことである。
その翌日7月15日(月)の休日には、札幌市内にて札幌交流集会がなされた。札幌聖書集会主催で、この集会の開催には、大塚さんご夫妻にとくにお世話になった。
札幌独立教会やほかの教会から、また遠い釧路からキリスト教画家の岡田利彦ご夫妻での参加もあって、年に一度のよき御言葉の学びと交流のときが与えられた。
その後、苫小牧市、青森県弘前市、鶴岡市、山形市、仙台、福島、千葉県、八王子市、山梨、長野、岐阜など各地での集会が与えられて、年に一度、主にあってともに礼拝が与えられることの恵みを深く感謝した。
そのなかで、岐阜県の「山のハム工房 ゴーバル」での主日礼拝のときに知らされたことー豚コレラが発生して、今後の運営にとても難しい問題が生じたことーそのために、神の助けと導きを祈ったことだった。
そのほか、予定していた一部ではあったが、「いのちの水」読者や、重荷や問題を抱えた方などを個人的に訪ねる機会も与えられた。
長距離であり3週間という長い期間だったけれど、体調も守られ、天候不順や地震や大雨といった自然災害にも遭うことなく、さらには交通事故などのいろいろなことから守られて、予定していた大部分の集会や訪問が与えられて感謝だった。
青森県弘前市での集会から、900メートルを越える峠を越えて、狭くて多数の屈曲のある道路を進んでいたとき、その道はほとんど車の通行がなかったが、突然前方に熊があらわれ、立ち止まってこちらをじっと見つめているのに出会った。
こちらに向かって来たら…と思うとどうすればよいかと一瞬困惑したが、まずライトを強く照射点滅し、クラクションをならしたところ、しばらくして谷のほうにおりていったのでホットしたことも忘れられない。
地元の徳島集会の方々、それから集会予定の各地の集会の責任者の方々のさまざまの準備と祈り、そして神の支えと守りに深い感謝をささげます。
真夏の暑い日々ですが、夜に戸外に出ますと、山を少し登ったところにあるわが家では、涼しい風に吹かれることもあります。
夜九時ころに南の空をみますと、南西には、木星が輝いていて、断然明るいので一目でその光を認めることができます。
またその木星より左、ほぼ南の方角には、木星よりも明るさは弱いけれども、瞬くこともせず、じっと光っているのは、土星です。
木星、土星など、名前は子供のときからなじんでいても、多くの大人の人たちでも、じっさいに見たことがあるという人は、意外なほど少ないです。
夏空には、それらの惑星とともに、わし座の一等星アルタイルは南に見え、こと座のベガ、は、頭上やや西よりに強い輝きを見せ、天の十字架と言われる白鳥座の一等星デネブは、頭上に見えています。
暑い日々のなか、戸外にでて、無限に広がる宇宙とそれらすべてを創造し、いまも支えておられる神の全能の広大無辺を思います。
〇7月28日(日)に、岐阜県の山中にある「山のハム工房 ゴーバル」にて、主日礼拝をする機会を与えられました。
多くのゴーバルで働く若い方々や子供さんたちとともに折々に賑やかな子供たちの声が響くなかでの礼拝でした。
そのような明るい雰囲気にもかかわらず、その二日前の26日に、ハム工房においては重大な出来事が生じていました。
ハムの原料となるゴーバルの豚に豚コレラが発生したとのことでした。
さしあたりどのように事態が進んでいくのか、将来的にはどうすべきなのか、まだまったくわからない状況であるにもかかわらず、意外なほどに明るい雰囲気でした。
これは、やはり、山のハム工房ゴーバルにて仕事をしている人たちが、全体として神を信じる人たちの集りであるからだと感じたのです。
インターネットをやっていない方々もおられるので、以下に、ゴーバルのホームページに掲載されている記事を左にコピーしておきます。
なお、豚コレラという名称ですが、人間が感染するコレラは、コレラ菌という細菌による病気ですが、豚コレラの場合は、ウイルスによるもので、コレラという名称は誤解を生じる名称となっています。
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緊急のお知らせ
本当に残念なことですが、ゴーバルの肉豚を育てている農場(岐阜県恵那市の石原弦農場)で、2019年7月27日豚(トン)コレラが発生しました。そのため当分の間、石原弦の農場からは原料としていた肉豚が入荷出来なくなりました。
ゴーバルでは現在在庫として確保してある商品は、これまで通り販売させていただきます。その後の原材料や製造販売などについては検討中のため、決まり次第お伝えいたします、
なお豚コレラは、豚やイノシシの病気であって人に感染することはなく、仮に豚コレラにかかった豚の肉や内臓を食べても人体に影響はありません。また、感染豚の肉が市場に出回ることはありません。
(発生の状況)
2018年9月9日岐阜市の農場で豚コレラが発生して以来、岐阜愛知長野大阪三重の5県で33例目となりました。昨年来、野生イノシシに豚コレラが蔓延しており、この間、農場では飼養管理の徹底により対策をしてきましたが、2019年7月26日豚9頭が食欲不振で発熱し、東濃家畜保健所の検査により豚コレラ陽性と判明しました。8月1日までに防疫措置が完了する予定です。
2019年7月27日
山のハム工房ゴーバル
代表 石原潔
御注文はお盆前まで(8/12)の発送としてお受けいたします。20日までお盆休みを頂き、その後あらためて商品のご案内をさせて頂きます。
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近畿無教会
キリスト教集会
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(スマホで左のQRコードを読みとれば、徳島聖書キリスト集会ホームページを見ることができます。)
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徳島聖書キリスト集会案内