いのちの水 2019年 9月 703号
私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく、… 悪の霊を相手にするものである。 (新約聖書 エペソ書6の12より) |
目次
・生きることはー マザー・テレサの詩より |
||
・苦難と絶望の中から ー 詩篇74篇 |
||
・集会案内 |
生きることは美である。それを敬慕せよ
生きることは困難である、それに立ち向かえ。
生きることは悲しみである。それに打ち勝て。
生きることは、賛美である。それを歌え。
生きることは、苦しい闘いである。それを受け入れよ。
生きることは悲劇である。それに立ち向かえ。
生きることは、危険なことに直面することである。勇敢であれ。
生きることは、神の命に生きることである。その命を獲得するために闘え。(マザー・テレサ)
ここにあげたのは、次の原文を意味をとって訳したものである。
Life is beauty admire it.
Life is a challenge, meet it.
Life is sorrow,overcome it.
Life is a struggle accept it.
Life is a tragedy,confront it.
Life is an adventure,dare it.
Life is life,fight for it.
(Mother Teresa)
このマザー・テレサの言葉について
(英語に親しんでいない方々もおられると思われるので、読み方を付けておきます)
これらの言葉は、簡潔にしてそれぞれに読む人にとって響くものがあるであろう。一貫しているのは、この世に生きることの困難、悲しみを深く見据えたうえで、 神を信じ、神を仰ぎつつ、前進していこうとする姿勢が言われている。
これらの言葉にはあえて神やキリストという言葉を用いていないが、その背後には神からの語りかけ、神への導きを信じての歩みが浮かび上がっている。
Life is beauty admire it.(ライフ イズ ビューティ アドマイア イット)
Life とは、命、生きること、人生、生涯、生活…等々の意味を含む奥の深い言葉である。
このマザー・テレサの一連の言葉は、それらの意味を重ね合わせつつ語られている。
最初のこの言葉、生きることは美しいーそれを驚きの心、敬慕、感嘆の心をもって受け止めよ。ということである。
しかし、さまざまの人間の人生は、到底美しいとは言えないことがいくらでもある。人間は本質的に罪深く、汚れている。しかしそれにもかかわらず人間のなすことで美しいと感じることも多々ある。
そして、罪深い我々の人生をも愛をもって導いてくださる神がおられるゆえ、その人生もその神の愛ゆえに美しいものとなる。義とされるー正しいとされるということはまた、汚れを清められ、清いものとされるということであり、美しいものとされるということである。
そしてさらに、そのようにしてくださる神の命こそは、人間に愛の行動を生み出す美を持ち、広大な自然の数々の日々移り変わる美しさの源である。それこそは、永遠の賛美に値するし、じっさい数千年昔から、そのような美に触れた人たちはその美をたたえてきた。
Life is a challenge, meet it.
(ライフ イズ ア チャレンジ ミート イット)
生きることは、困難なことである。それに立ち向かえ。
(challengeは挑戦と訳されることが多いが、例えば、the biggest challenge という表現では、「最大の難事」を意味するように、ここでは、困難なことを意味する。)
日々の困難に、神を信じて、神の愛と真実の導きがあると信じて立ち向かえ。
ダンテの神曲の最初において、高き目前の山に登ろうとしたが、たちまち妨げようとする不気味な力が現れた。彼はあきらめようとしたが、神が導き手を送り、その難事に立ち向かって前進していくことが記されている。そのように、神の助け、その力を与えられつつ御国に向って歩みなさいーという意味になる。
Life is sorrow,overcome it.
(ライフ イズ ソロウ オウバカム イット)
人生は悲しみである。それに打ち勝ちなさい。
周囲の至るところに悲しみがある。表面に現れない悲しみがある。主イエスも、そうした世界に対しての深い悲しみをもっておられ、「悲しみの人」とも言われた。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」は、彼の代表作の一つであり、小さな文字の三段組で六百頁にもなる大著であるが、その冒頭に「幸福な家庭はすべてよく似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である。」から始まっている。
幸せな家庭ーそれは健康な両親がいて生活は安定し、子供たちもともにみな健康でまじめであるーといった内容でよくにている。しかし、不幸な家庭は、家族の問題、病気や仕事、人間関係、貧困、災害…等々実にさまざまである。
(なお、私はこの「アンナ・カレーニナ」を読んで、トルストイの真価を知らされた。その深い人間の心の動きへの洞察と、この世界の根底に流れている神の真実と悪への裁き、そして人間を導こうとする神の力を知らされた。ユゴーの「レ・ミゼラブル」とともに、これらの大作の完訳版を読んで、ヨーロッパの文学の本質がいかに日本の文学と異なるかを深く知らされた。)
何十年か昔、行きつけの自転車店に修理で行ったとき、その店の高齢のおばさんが、私と二人きりになったとき、「家の中ってどうしてこんなにうまくいかないんだろう。どないしたらいいんだろう…」と家族問題の困難さを私にもらしてその表情に深い悲しみをたたえておられたのを思いだす。
そして幸せと見える家庭も、たいていは一時的で思いがけないことが人生のうちでは生じて苦しみに巻き込まれる。
「どうしてこんなに、この世は悲しみに満ちているのか」ーとかつてヒルティが書いていたことをが思いだされる。
キリストも、山上の教えのなかで、とくにこの人生に深く流れている悲しみからの救いを指し示されて言われた。
「ああ、幸いだ、悲しむ者たちは!
その人たちは(神によって)慰められるから。」
打ち倒されるような悲しみー若い日々には想像もしなかったそのような悲しみに対しては、神の助けとその愛を受けるのでなければ、人の心は硬くなって、生き生きとした力を失っていく。他者には決してわかってもらえないその悲しみはただ神のみが、わかってくださると実感したとき、それに打ち勝つ道を見いだしたことになる。
Life is a song,sing it.
生きることは、賛美することである。賛美しよう。
聖書の詩編の最後の部分は、この世のさまざまの苦しみや悲しみがあるにもかかわらず、神への賛美、感謝で繰り返されている。
使徒パウロも、「すべてのことを喜べ、すべてのことに感謝せよ」と言っている。
主にすがる われに
悩みはなし
十字架の御許に
荷を下ろせば
(折り返し)
歌いつつ歩まん
ハレルヤ! ハレルヤ!
歌いつつ歩まん
この世の旅路を
(新聖歌三二五より)
(*)ここに引用したマザー・テレサの英語の詩は、韓国の元眼科医の具 本術氏から送られてきたものです。
具氏は、戦前の日本で学ばれ、無教会の指導者たちからキリスト教信仰を学ばれ、現在高齢ですが、以前から「いのちの水」誌を読んでくださっていて、時には電話を、また折々に協力費とともに感想や植物写真なども送ってくださっていて感謝です。
キリスト者は武装などしない。と思っている人にとっては意外であろうが、キリスト者も武装することが強く勧められている。
しかし、それは武装といっても、目に見える銃や砲弾、戦車などによる武装ではもちろんない。
それは、目には見えない神の賜物によって武装することなのである。
いかに新約聖書からこのことを記した個所から、キリスト者でない方々にもわかりやすいと思われる表現に変えて説明的に記した。
…最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くされなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。
私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく(目に見える具体的な人間とか国家、民族に対する戦いではない)、暗闇を支配する者、高いところまで及んでいる悪の霊を相手にするものなのである。
だから、神の武具を身に付けなさい。(神からの賜物によって武装せよ)
服をしっかり身に付けるために、真理をもって帯とせよ。
命を守る胸当ては、神の正義であり、履物としては、平和の福音を告げる準備をもってせよ。どのような戦いにあっても、つねに真理そのものである福音を伝える心をもって闘え。
盾は信仰である。それによって敵対する者たちが放つ火の矢をすべて消し去ることができる。
兜としては、救われたという確信とその事実であり、それが私たちを守る。
武装の中心となる剣としては、神の言葉がそれである。それは聖なる霊そのものである。これこそは、闇の力を根源的に打ち破り、愛や真実の心をもたらすものだからである。
それらすべてを整えて霊的な武装の根底にあるべきものが祈りである。
どんなときにも、聖霊に助けられ、導かれて祈れ。
私たちの戦いは、具体的な悪人とか特定の民族や国家という目に見えるものに対するものでなく、それらを支配する悪の力、悪の霊そのものとの戦いであるゆえに、私たちの戦いとしての祈りも、聖なる霊に導かれる祈りでなければならない。
いかに悪の力が強くとも、霊の目を覚まして根気よく、祈り続けよ。(エペソ書6章10〜18より)
世の終わり、あるいは、主の日はいつくるのか、という問いかけに対して、主イエスは、「人の子(イエス)も知らない、天使も知らない」と言われた。
肉体をもっておられたときのキリストは、人間でもあったゆえに、限界をもっておられた。空腹になり、疲れもあり、喉も渇く。
同様に、この世の終わりがいつくるのか、そのような遠大な出来事に関しては、人間として歩まれていたイエスは知らないと言われた。
(現在生きて働いておられる復活したキリスト、聖霊は、神と同じ本質の存在なので、それらすべてを知っておられる。)
いつ来るのか、それはわからない。しかし、いつ来てもよいように、備えをすることはできる。それが目を覚ましているということである。
…だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。(マタイ24の42)
しかし、目を覚ましていることが特に重要であるのは、世の終わりに備えるということと共に、毎日の生活において、不可欠のことであり、私たちが常に心注いでいなければならないことだからである。
使徒ペテロは次のように述べている。
… 身を慎んで目を覚ましていなさい。(*)
あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、
だれかを食い尽くそうと探し回っている。(Tペテロ 5の8)
(*)「身を慎んで」これは原語は ネーフォー nepho であり、酒に酔うと自分を制御できなくなるが、それとは逆に、みずから自分を支配する、理性的であり続ける(be self-controlled)といった意味。
この世界は、周囲の日々に接する自然を通して、神はいつも私たちに語りかけておられる。神は愛であり、生きて働く御方だからである。青い空、真っ白い雲の形を動き、その色合いを見ているだけでも、神様のさまざまのかたりかけを感じる。
他方、それとともに、この世には、そうした神の語りかけを分らせないようにする力、目を覚ますのでなく、眠り込ませる力が働いている。サタンの力、闇の力であり、それは常に私たちの魂に働きかけて真実なもの、清いものから引き離そうとしている。
飢えたライオンのように、サタンも吠えて獲物を得ようとして探しまわっているというのである。この世を表面的に見るだけなら、サタンの働きがそのように激しく人を呑み込もうとしているなど考えられないかもしれない。
しかし、神からの啓示によってペテロはそのことを知らされていた。
かつてペテロもそうしたサタンに呑み込まれようとした。それは、イエスが、自分は近い内に、民の指導的な人々から捕らえられ殺される。しかし三日目に復活するということを予告したことがあった。それを聞いたペテロは、こともあろうにイエスを脇に引き寄せ、「そんなことがあってはなりません」と、いさめ始めた。
そのときイエスは、「サタンよ、退け。お前は神のことを思わず、人間のことを思っている。」 (マタイ16の23〜24)と厳しく叱責された。
このように、神の示す真理を全く受けとろうとせず、人間的な考えを全面に出すといったことにおいても、サタンによって呑み込まれているのだと言われたのである。
これは、驚くべきことで、それなら私たちの日常生活に絶えずそのことは生じていることになる。
主イエスのたとえにあるが、清められた家のたとえは、家をきれいにして掃除してかざりつけまでしても、そこから一時的に汚れた霊(悪霊)は出て行くが、またほかの七つの悪霊を連れて入り込む。そうすると前よりも悪くなる。 (マタイ12の43〜45)。
そのように、単なる一時的な決心とかで正しく歩もうとか、やさしくしようなどと決心してもそれは束の間で、自分の内に巣くう罪の力はそうした人間の決心など簡単に吹き飛ばしてしまう。
それゆえにそのたびにその罪からの赦し、罪の力からの解放を与えられる必要がある。日々新しくされることが必要でそのために、聖霊の風を日々受けて悪霊の力を追い出していただかねばならない。礼拝もそのためにある。御言葉と聖霊によって入り込もうとする汚れた霊を追い出す力を与えられるためである。
目を覚ましているーこのひと言の重要性は、一見したところよりはるかに広大な世界を含んでいる。(*)
(*)バッハに「目覚めよと呼ぶ声あり」(Wachet auf, ruft uns die Stimme.英訳では Awake, the voice is calling us)という有名な作品がある。これは、マタイ25章の10人の乙女とキリストの再臨に関する記事があり、そこでキリストは、目を覚ましていることの重要性を強調された。その記事をもとにして1599年にフィリップ・ニコライが作った讃美歌(詩)があり、バッハはそれを用いた。
この曲は、神が私たちに直接に語りかける呼び声を思い起こさせるし、神に召された多くの人々、そして御使い、さらには、私たちの周囲にある大空や白い雲、さまざまの草木など自然そのものが私たちに「目覚めよ」と呼びかけているのを思い起こさせてくれる。
あるイギリスのバッハ研究者は、「バッハのこの作品は、弱いところがなく、単調な個所もなく、技術的にも、情緒的、心を揺さぶるといった面においても、霊的にも 最も高い内容をもっている。」また、別のドイツのバッハ学者は、この曲について、「非常に美しく、成熟したものであり、同時に、最も広く知られたキリスト者のためのカンタータである」と述べている。
戦前の日本においても活動的な人たち、さまざまの芸術や学問、商工業などに熱心な人たちは数知れない。
しかし、そこに悪の霊、汚れた霊が入り込み、政治家や軍部、また学者や教育者、そして社会のあらゆる分野の人たちをも巻き込んで、中国への侵略戦争をこともあろうに聖戦と称して、国家全体がその方向へと突き進んでいった。 その結果一千万をはるかに越えるおびただしい人たちが殺傷された。
目を覚ましている、それはこのように、単に個人の心の問題ではない。人間が霊的に眠ってしまうとき、ありとあらゆる罪深いことがなされていく。戦争などその最たるものであり、集団殺人、略奪、脅迫、性に関わる犯罪、放火、差別、徴用工や従軍慰安婦といった弱者虐待、自然破壊…等々。
こうしたことが生じるのは、政治家や軍部、また企業の経営者など、そして国民も、霊的な目が見えなくなって、正義も愛もわからなくなってしまった結果であった。
目を覚ましていなさいーというキリストの言葉は、こうした歴史的、社会的、政治的方面にまで広くあてはまる言葉なのであり、単に机上の本を読んで、狭い自分の精神世界だけを見て、自分は目を覚ましているなどと、自己満足に陥ってしまってはいけないーそういうこともこの短いひと言は指し示している。
また、人間を見る場合でも、表面的に、プロスポーツで優勝したとか、オリンピックで金メダルをとったとか、大会社の社長、政治家、ノーベル賞とかに関する人たちは多くの人たちがほめたたえる。テレビや新聞なども、それらの人たちには大画面を提供し、あたかも何かとても偉大なのだーというような雰囲気を作り出している。
しかし、そうしたことの背後にいかにカネの力や、権力、人間のさまざまの欲望、競争心等々があるかを知るならば、それらは、清い美しさとか真実とは遠いものだと知らされる。
こうした日々、テレビやインターネット、新聞などで大きく報道されていることも、霊的に目覚めていなければそうしたこの世の風に巻き込まれていく。
目を覚ましているならば、どのようなことが期待できるのか。
霊的に目を覚ましているなら、神の愛が感じられるようになる。
私自身、学校の勉強をいくら熱心にしたところで、霊の目は開けることはなかった。知識は増えるし、考える世界も幅広くなる。しかし、霊の目は開かれなかった。かえって、大学に入学して1年過ぎたころから、歴史上最も激しい学生運動のさなかにあったこともあり、次第にさまざまの問題に関して解決の道筋の見えない迷路に入り込んだような苦しい状況に直面することになった。それは私の健康上のことや家庭の問題も深く関わっていた。
どうしたらそうした苦しいところから脱することができるのか、いくら考えてもわからなかった。
大学の教養課程の社会学、教育学、哲学…など受講しても、また専門教科につながる物理や数学、化学関係の学びや実験など重ねても同様で、まったくそのような苦しい状況は変わらなかった。
そうした状況のなかに、姉が大学在学中、教授の推薦があって購入して本棚に置かれていた一冊の小さな本(「学生に与う」河合栄治郎著)によって、初めて真理とは何か、善とは美とは、勇気とは、教育(パイデイア)とは、さらに国家や法とは何かということを探求していくソクラテス、プラトンの哲学に目が開かれ、戦前に発行されていたプラトン全集(全国書房版)などを求めて読み始め、初めて真理愛、英知への愛(フィロソフィア)の広大さを知ることになった。その追求の仕方、思索は私の以後のものの考え方に関して今なおその探求の精神が私のうちで持続しているほどの重要性を持つことになった。
それでも、苦しみや悩みは終わることはなく、魂の深いところでの根本問題は解決しなかった。そのようなとき、キリストの真理と出会った。それも一冊の小さな本(「キリスト教入門」矢内原忠雄著)によってであった。それが、霊の目が開かれることにつながった。
こうして霊の目が開かれることによって、十字架や復活の真理、そしてそこに込められた神の愛が実感できるようになった。
さらに、信仰を与えられる以前から、私が深い霊的影響を受けたのは、山を代表とする自然の世界であったが、キリストによって目が開かれて以来、そこに愛の神が創造されたゆえに、それらの自然に込められた神の愛や真実、そしてその全くの汚れなき清さにも目が開かれていった。
自然の美や清さは、キリスト者でなくとも、大多数の人たちにその程度の差はいろいろとあっても、感じられる。キリスト者との違いは、前述したように、その美や清さは、神の愛から出ていると信じることができることにある。
人間が何らかの音楽、絵画や彫刻など芸術作品を作るときには、そこにその人の気持ちを精一杯込めて作り上げようとする。神は愛であるゆえ、その神が創造した作品たる自然も一つ一つが神の愛が込められていると信じることができる。愛は一つ一つをその心を注ぎだす。人間は愛する力がごくわずかしかないので、愛の対象はごく一部に限られている。
しかし、神は全能であり、それゆえに一つ一つに無限の意味と愛を込めることができる。
神は愛である、という聖書の言葉を信じるならば、その愛なる神が創造したものもまた愛が込められているというのは必然的である。
自然のなかには、到底神の愛があるなどと受けいれられないような生き物や現象も数々ある。しかし、そうしたことも私たちには分からないが、その背後に時間や歴史を越えて深い神の愛の御計画が存在するのだと信じるように、導かれる。論理や言葉でみなわかるのなら、信じる必要はない。不可解だからこそ、信じるのである。
そして、神の創造されたもののうち最も愛を込めて創造したのが、人間である。神のかたちに似せて創造したと言われているとおり、ほかの動物には存在しない霊的な能力がある。「祈り」、「目に見えないものを信じる力」、目には見えない過去や未来をも考えること、あるいは天よりの啓示を受ける能力などさまざまのものが与えられている。
目覚めているーそれは学問や地位が高いとか、何らかの賞をもらったとかとは関係がない。福音書には、ある盲人が、道端に座って物乞いをしていたが、通りがかったのがイエスだと知って、必死で「ダビデの子よ、憐れみたまえ!」と叫び続けた。周囲の人たちが、叱りつけて黙らせようとしたが、その盲人はますますひどく「ダビデの子よ、憐れんでください!」と叫び続けた。
周囲の人たちは、盲人の孤独や苦しみ、だれにも聞いてもらえない深い悲しみが見えなかった。言い換えると、そうした弱い人たちの心に対して、人々の霊の目は眠っていたのである。さらに、自分たちもキリストの本質が見えていなかったのが露呈された。
それに対して、あらゆる人たちから、おそらく家族からもうとんじられて街角で乞食をしていた盲人は、霊的に目覚めていたゆえに、イエスがダビデの子孫として現れるメシアであり、神の力をもっておられるゆえに、見えない目も見えるようにしてくださると直感し、「ダビデの子よ、憐れんでください!」 と叫ぶことができたのであった。
このように、盲人ゆえに何ら仕事もできず、地位もなく、権力もお金もないような思いがけない人が、かえって霊的に目覚めていたことを示している。
目覚めていたゆえに、イエスに関するわずかの情報であっても、イエスこそは、神の子(神と同質の御方)であるという根本的に重要な真理を敏感に感じ取ったのである。
また、水野源三という詩人は、子供のときに赤痢で高熱を出して、脳性マヒとなり、以後は言葉も発することもできず、起き上がることもできなくなった。そのような著しい重度の障がいを持つようになったが、のちにキリスト者となり、あふれるいのちの水のようなみずみずしい詩を書くようになった。
それは、まさに日々霊的に目覚めているところから生まれたものだった。
「目覚めている」とは、祈りの心であり、呼吸のごとくーと言われるほどに深くなっていく。それはまた聖霊によって導かれている歩みでもある。
言い換えれば、イエスが言われたように、まず神の国(神の愛や真実による御支配)と神の義を求める心であり、そこから、身近な自然の大空に生じるさまざまの雲や空の姿や色、形、みじかな草木のすがた、形、香り…などに接してもつねに心を向けてそこから人間にない清いもの、美しいものに触れていることである。
また、感謝できることを数えて感謝をつねにする。みずからの罪を知り、十字架を仰ぎ罪の赦しを受ける。復活の力を与えられる。
主ご自身が示された祈り(主の祈り)を単に唱えるのでなく、その意味を思いつつ祈る心でもある。
毎日の朝、目覚めなければ何もできないと同様に、霊的にも目覚めなければ、人間は自分中心に万事を考えてしまう。そして、本当に真実なこと、隣人を無差別に愛するとか弱き者、あるいは敵対するような者に対してもその人の魂がよくなるようにと祈るような、神の愛にかなうことは何もできない。
それゆえに、私たちはみずからの心の弱さや罪深さを知りつつ、絶えず神を仰ぎ、目覚めて歩めるようにと祈り願っていきたいと思う。
…従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んで(神の力を受けて、人間的な思いや欲望に支配されないようにして)いよう。
(Tテサロニケ 5の6)
神様、なぜ、我らを永遠に捨ててしまうのか。なぜ、あなたの羊に怒りを燃やされるのか。(1節)
昔あなたが手に入れられた部族の群れを、(2)
あなたが住まわれたシオンの山を思い出してください。
永遠の廃墟に、あなたの足を向けてください。敵は聖所で、すべての物を破壊した。
あなたに敵対する者は聖所の中でほえるように叫び、彼らのしるしを立てて、しるしとした。
彼らは上の入口では、おのをもって
木の格子垣を切り倒した。
また彼らは手おのと鎚とをもって
聖所の彫り物をことごとく打ち落した。
彼らはあなたの聖所に火を放ち、それを汚して、地に倒した。
彼らは心のうちに言った、「我らはことごとくこれを滅ぼそう」と。
彼らは国のうちの神の会堂をすべて焼き払った。
我らはもはや自分たちのしるしを見ることができない。預言者も今はいない。(9)
いつまで続くのか、我らの中には、知る者もない。
神様、敵対する者はいつまであざけるのか。
敵は永遠にあなたの名を侮るのだろうか。
なぜあなたは手を引っ込めておくのか。
なぜ、あなたは右の手を、ふところに入れたままにしておられるのか。
神は、昔からわが王。この地のただなかで、救いの業を行われる方よ。(12)
あなたは力をもって海を分け、大水の上の龍の頭を砕かれた。
あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
あなたは泉と流れとを開き、他方では、絶えることのない大河をも涸らされた。
昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光る天体と太陽とを設けられた。
あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られた。
(17)
主よ、敵はあなたをあざけり、愚かな民はあなたのみ名をののしる。この事を心に留めてください。(18)
どうかあなたのはとの魂を
野の獣にわたさないで下さい。
苦しむ者たちの命を永遠に忘れないで下さい。
あなたの契約を顧みて下さい。地の暗い所は暴力のすまいで満ちている。(20)
苦しめられている者が、再び辱められることのないように、
苦しむ人、貧しい人が、あなたの名を賛美できるようにしてください。
神さま、立ち上がって、ご自分のために争ってください。
愚かな者が日夜あなたをあざけるのを心に留めてください。
あなたに敵対する者の声を忘れないでください。
あなたに敵対する者たちが絶えず起こす混乱を
忘れないでください。
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この詩は、歴史上で実際に生じた大いなる民族全体の苦難のときに作られた。それが、この詩全体にその背景として置かれている。
それは、はじめの部分ー3節によってもうかがえる。神に逆らってユダヤの民に襲いかかってきた敵が、聖所すなわち神殿の内部の最も重要な場所にまで侵入し、破壊し尽くした。
6節にも武器を持って神殿の大切な飾り物を全て破壊し、聖所に火をつけて燃やしてしまったとある。このように神殿を徹底的に破壊し、さらに他の会堂を全て焼き尽くした。
イスラエルの歴史上、このようなことは二回程起こっており、そのうちの一回は紀元前587年の新バビロニア帝国が攻めてきたときである。バビロンから軍隊が来て、ソロモンの神殿を徹底的に破壊し、王が連れ去られたり、殺されたり、遠いバビロンまでたくさんの人が連れて行かれた。
それから400年ほどもあと、紀元前168年になって、アンティオコス・エピファネス4世がユダヤの民に襲いかかり、厳しい迫害を行なった。
これは旧約聖書続編のマカベア書に詳しく書かれている。
そこでは、神殿を焼き尽くし、聖書を持っている者がいたら、全て焼いてしまった。また、彼らが絶対に口にしようとしなかった豚肉を、口に押し込んででも食べさせようとしたり、安息日を守ったら殺してしまうような迫害があった。
この詩はこれらふたつのうちのどちらかのことを書かれたとされている。どちらにしても、民族的、国家的に存亡な危機の中で作られた詩である。
日本は、太平洋や日本海に囲まれ、世界の文明の中心地や広大な領域を支配した歴史的な大国からは遥かに遠く離れていたこともあって、外国から日本の国土に敵が大挙して日本に侵入、攻撃されて、日本民族や国家そのものが滅ぼされようとするような危機は、ほとんどなかった。
外国の侵入、攻撃といえば、1274年と1281年に蒙古が襲来した時があるが、九州本土に上陸しての大きな戦いにもならなかった。
太平洋戦争のときにおいては、アメリカが沖縄を徹底的に爆撃、攻撃を加え、地上での激しい戦闘となったが、九州本土での陸上の戦いにはならなかった。
このような地理的に特別な状況にあるために、イスラエル民族が経験した国家存亡がかかる戦争というものはなく、この詩に記されたような状況を具体的に実感をもって思い浮かべることが難しいと言えよう。
この詩は、自分たちが経験している恐ろしい苦難に直面し、長く唯一の神を信じ、神ご自身が選んだのに、どうしてこのような民族存亡の危機に遭遇させるのかーという深い問いかけから始まっている。
そして、これがこの詩篇全体を貫く思いとなっている。
1節、この詩は冒頭から、切実な叫びから始まっている。「なぜ我らを永遠に突き放し、捨てたのか」これはもう回復不可能ではないかというような状況だった。
にもかかわらず、その背後には神がおられて、神が何らかのことで怒られてこんな裁きを与えられた。でも、どうしてそんなにまでされるんですかというように、どんなことがあっても、それを神様と結びつけようとしている。
はるか昔から神様の民であったではないですか。荒廃した現状を見て、何も変化が起こらなかったら、神様はおられるのかという気持ちになる。
しかし、神などいないとは言っていない。ここが聖書の民の、神をどんなことがあっても、見つめ続け、訴え続け、叫び、祈り続けるという姿勢である。
どうして突き放したのか。どうして捨ててしまったのか。戦争のあとの時代に生きる私たちは、国の中心の町が敵軍によって徹底的に攻撃され、焼かれ、多くの人々が殺されるところを目の当たりにしていない。だからそのときにどんな気持ちになるかというのは、とても直観的に想像することは難しい。
この詩に接するとき、このような絶望的状態から、作者がどのように神に気持ちを向けていったのかが分かる。今から2200年の前の人の心をそのまま現代に残したものであり、いわば心の世界がそのまま保存された化石のようなものである。
9節以降、今は神の言葉が存在しないかのように、現在と未来にわたる真理を語ってくれる預言者もいない。しかしこの時にはエレミヤがおった。9節にあるような嘆きは、しばしば私たちももつ。神様がおられるのは分かるけど、いつまで、あるいはどうしてこのように放置しておられるのかという切実な問いである。
12節から、大きな転換になっている。
… 神は、昔からわが王。この地のただなかで、救いの業を行われる方よ。
あなたは力をもって海を分け、大水の上の龍の頭を砕かれた。
あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
あなたは泉と流れとを開き、他方では、絶えることのない大河をも涸らされた。
昼はあなたのもの、夜もまたあなたのもの。あなたは光る天体と太陽とを設けられた。
あなたは地のすべての境を定め、夏と冬とを造られた。(12〜17節)
天地創造の永遠の昔をこの作者は見つめる。13節に海を分けたとあるが、これは創世記の一番最初のことで、海は荒れ狂う。海は日本人の一般的なイメージと全然違うことを知っておく必要がある。そんな海、悪魔的な力をもそれを支配、制御したお方である。また海の中にすんでいると思われた悪魔的な力を竜やレビヤタンと見なしていた。このような竜やレビヤタンなどという言葉が出て来ると、神話的な感じがして、私たちと関係がないように思わされがちだが、当時の人の宗教観を知っていないからそうなってしまう。今で言えば、サタン的な力も打ち砕いたということである。
泉や川を開かれたというのは、エデンの園のことである。絶えることのない大河の水を枯らされたというのは、出エジプトの時である。川ではないが、川のように見立てて言っている。光を放つものというのは星のことである。
このような人間には絶対出来ない、壮大なことをはるか昔になされた。その創造の神に立ち返ったら、今直面する非常に困難な問題でも、必ず神様が最善に導いてくださるという確信に導かれる。
このように過去の神様の万能の力に立ち返った上で、再び祈りを始めている。私たちも神の万能と、神の愛を信じ切れないときにこのような気持ちになる。この人も精神的に非常に危ないところまで来ていたが、万能の神に立ち返ることが出来た。
18節にある、御心に留めてくださいというのは、「思い出してください、覚えてください。」(Remember me!)といった意味を含んでいる。
19節の貧しいは、単に経済的に貧しいだけでなく、圧迫されている、苦しむ人である。鳩の魂。鳩は柔和なイメージでカラスのように攻撃的でない。
20節に地の暗い隅々には不法の住みかがひしめいているとある。これは追い詰められ、破壊された世界には、どうも闇の力がひしめいている。要するに敵の攻撃と共に、霊的な闇の力で非常に追い詰められているという感情が表われている。
私たちも、覚えていてください、憐れんでくださいとしか言えないときがある。そして神の真理に逆らう人達をどうか滅ぼしてください。
この詩はたくさんの詩の中では、国家的、民族的な大いなる苦難という特別な時代の状況の中で生まれた、切実な叫びであって、すべての者が闇の力、残酷なサタンの力に流されそうなところから、天地創造の神に留まり、どんな状況であっても神を聖とし、全能の神は、時が来たらその力を振るおうとしていると信じ、ただ一点に寄りすがって、困難な状況の中で信仰によって祈り、神に向って叫び続けている内容となっている。
それゆえに、現代に生きる私たちにあっても、それぞれ直面する苦難や悲しみは異なるが、こうした数千年前の人の切実な信仰の姿勢に強く励まされる思いがする。
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