いのちの水 2020年10月号 第716号
悪に対して、悪をもって報いてはならない。帰って祝福を祈れ。… |
目次
私たちは絶えず死に向っている。それは人間だけでない。目で見える世界はすべて同様である。まわりの木々も生き物もまた、太陽さえも、遠くの星々さえも同様である。太陽もあと50億年も経てば終りを迎える。そのずっと前に地球も終りとなる。
目で見える万物は死んでいく。(*)
キリストも次のように言われた。
…天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。 (マタイ 24:35)
(*)このことについては、「万物の死」(講談社ブルーバックス)がある。この著書には、小原秀雄(動物学者、女子栄養大学教授)、小尾信彌(天文学者、東京大学教授)、堀 誠(生化学、昭和薬科大学教授)、松田重三(内科学、帝京大学助教授)らが、動植物の死、細胞の死、人間の死、そして宇宙の死について分担執筆している。
このキリストの言葉ですでに言われているように、万物が過ぎ行き、滅んでいくただ中にあって、永遠に存在するものー命の言葉というべきものがあるということは、基本的な聖書のメッセージとなっている。
死とはいろいろな意味で用いられている。 人間は銃の一発、剣の一つで命を断たれるはかない存在である。
このように、死ーそれは子供でもわかるような単純なことと思われている。しかし、生と死の境界はそのように単純ではない。
例えば、種はまったくそのままでは何も変化しない死んだような状態である。しかしそこに適当な温度と水分があれば、芽を出し成長していく。大賀一郎博士(*)は、二千年以上昔のハス(蓮)の種を見いだし、発芽させ花を咲かせた。種は、状況によっては二千年も昔のものであっても、発芽して花を咲かせるということが証明された。
もちろんすべての種がそのような長寿であるのではなく、種それぞれによって寿命が異なる。
それゆえ、何らかの種を見て、それが生きているのか(発芽しうるか)、死んだ状態なのかは判別はただちにはできない。
(*)大賀一郎は、1883年 岡山生まれ。第一高等学校、東京帝大理学部卒業後、岡山の第八高等学校教授。16歳の学生時代に内村鑑三の「聖書の研究」誌を読んでキリスト教に強く惹かれるようになり、一高入学後は、日曜日の内村鑑三の聖書研究会に必ず出席し、のちに名古屋の第八高等学校(現在の名古屋大学の前身の一つ)で教鞭とるようになって、学生たちを相手に、家庭にて聖書研究会を始めたことでもわかるように、熱心なキリスト者であった。
ウィルスは、細胞をもたず、代謝をしないという点、遺伝子とそれを包むタンパク質の殻のようなものをまとっているだけの単純な構造ゆえに、結晶にさえなりうるなどの点から、生物とはいえない側面を持っている。
他方、生きていると思われている人間も、実は精神的な面から見れば、生きているのか、死んでいる状態なのかは、明確にはわからない。生ける屍 という言葉もある。
それがわかるのは、霊的な実体をも見抜く神のみである。
聖書では、どんなに元気で活発に活動している人間であっても、罪ゆえに死んだ状態にあるという驚くべきことが言われている。
…あなたがたは、先には自分の罪とによって死んでいた者であって、…
…罪によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし… (エフェソ書2章2、5節より)
このように、愛と真実、そして完全な清い存在である神から見れば、人間はみな不信実であり、愛なく、汚れているゆえに死んでいるものだとされている。
それゆえに、私たちが 死から引き上げて命を得させるということは、単に危機的状況ー敵とか病気とかが迫っているところから救いだすということだけでない。
根本的には、すべての人間が罪による死の状態から引き上げられて、 滅びぬ命をいただくことである。
罪とは神の本質である愛と真実のあり方にそぐわない一切の心の動きであり、言動である。それは、闇の力から来る。
その罪の結果は滅びに至る。この世の道は広いが、滅びに至ると主イエスは言われた。
闇に対して滅びぬ命は光である。それゆえに、聖書の最初から 闇のなかに光あれ!との神の御言葉がある。闇、死の世界から救い出そうとする神のご意志がそこにある。
聖書は巻頭からそのように死から命へ、闇から光への道があることを宣言している。
キリスト以降の時代に、前面に現れた復活は、信じるだけで与えられる永遠の命への道であるが、十字架による赦しも、死と結びついた罪からの赦しであり救いであり、命への道である。 そして世の終わりにもたらされる新しい天と地ーそれも死からの最終的な脱却であり、万物に命を得させる究極的な預言となっている。
復活ということは、キリスト以降に前面に現れる。しかし、旧約聖書においても、さまざまの個所で、復活を指し示す内容が啓示として示されている。
次の詩はそうしたものの一つである。この詩において、繰り返し、神は死の世界から引き上げてくださるとの体験が記されてている。
そしてその途方もない大いなる力ゆえに、その愛ゆえにこの詩の作者は、神を讃美し、感謝せずにいられない心となり、それはさらに、周囲の人たちがそのような人生最大の体験といえることを与えられ、ともに神を讃美しようとの呼びかけとなっている。
…主よ、私はあなたをあがめます。
あなたは敵を喜ばせることなく、私を引き上げてくださった。
私の神、主よ、叫び求める私をあなたは癒してくださった。
主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
私に命を得させてくださった。
主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。(詩編30篇)
この詩において、とくに重要なことは、死んだような絶望的状態から、 命を与えられることが単に長生きして、安楽な生活をしたいのでなく、あるいは一時的な苦難から逃れたいということでもない。
作者の魂の奥深いところにあったのは、
「死の闇から救いだされた後、神を賛美し、神に感謝し続けるためにこそ、生かせてください!」という切実な願いがこめられていることである。
このような魂の願いは驚くべきことである。単に健康であって楽しみたいーというような狭いものでなく、神中心であり、神への賛美、感謝が生きているということの中心であり、目的であるのがわかる。
神への賛美なくば、生きていること自体が意味をなさないという強い実感がこの詩の作者にはあった。
詩編にも、その終りには、賛美すること、ハレルヤ!が中心となった詩が多く含まれている。
この苦しいこと、悲しみに満ちた世界、不信実や悪のはびこる世にあって、それらすべてに勝利されたキリストによってのみ私たちもそのような霊的世界へと導かれることは大いなる感謝である。
「空しい言葉に惑わされてはならない」(エフェソ書4の6)
この言葉は、ごく当たり前の言葉であるが、空しい言葉に惑わされないで歩むことは、相当に困難なことである。
それほどに、現在はインターネットによって、歴史上かつてない空しい言葉がはんらんしている時代だからである。
ニュースにしても、新聞では、日本や世界の現在や将来に重要なものがトップに大きな活字でしかも多くの紙面で記されていた。
しかし、インターネットのニュースでは、まったく知る必要も価値もない、それゆえにたちまち消えていくタレントのゴシップなどが重要なニュースと並べて、毎日大量にながされている。
そのような中にあって、数千年前から、古びることがなく、しかもつねに新たな力をもって私たちに迫ってくるのが、聖書である。
この世の空しい情報は、一時期に多くの人の耳目を集めてもたちまち次の大きなニュースにかき消されて消えていく。
しかし、いかなる大事件や感染症の感染、戦争、飢饉…等々があろうとも、かき消されていくことなく続いてきた本が聖書である。
聖書巻頭の言葉ーはじめに闇と混沌、空虚と荒涼とした世界があり、そこに聖なる風が吹いていた。神が光あれ! と言われると、光が存在するようになった。(創世記1章より)
この短いひと言の言葉がどれほど深い意味を持っているか、数十年にわたって何度読み返してもその深い意味をすべて汲み取ることはできない。
そのような深さと広がりを持つゆえに、旧約聖書の時代から数千年を経てもなお、この聖書に引き寄せられる人は世界で次々と生まれている。
他方、私たちの人生は、空しさで満ちている。空しさに耐えられずに生きていけなくなり、みずから命を断つ人も日本では、年間2万人ほどもいる。
しかし、自殺未遂の人はそれよりはるかに多く、年間で53万5000人もいるということが、最近の調査で判明した。(*)
(*)自殺未遂者は若者が特別に多く、23万人ほどもいて、40代の2倍ちかくもある。また、15〜34歳までの年代別死因トップは自殺で、20代では亡くなる人の半数を占める。他の先進国のトップは事故死。自殺が占める割合も10%ほどだから、日本はその5倍にもなり、日本では特別に若い世代の自殺が多いということになる。このことは、以前の「いのちの水」誌でも書いたことである。
こうした若い世代の驚くべき状況、それは字のつまってしっかりした内容の本を読まず、したがって、歴史を通して伝わってきた深い考えの人たちや、現代の深い思索からなる書物に接することなく、マンガやアニメ、スマホでの無意味なおしゃべり、ゲーム、といった内容の乏しいものー個人攻撃や暴力、爆発、多数の戦い、単なる空想の世界などの空しさに満ちた内容にどっぷりとつかってきたことがその大きな理由と考えられる。
そうしたただなかに永遠にわたって存在しつづけるのが、命の言葉、それは神の言葉であり、キリストの言葉である。
そして、その神、キリストが創造し、現在もそのキリストが万物を支えておられるゆえに、周囲の自然ー大空や雲、樹木、草花 …等々も キリストの言葉、いのちの言葉を語り続けている。
さらに、神も復活していまも生きておられるキリストは霊的存在であり、その言葉は、どのようなところにも入っていく。独房であれ、迫害をしている悪人の魂のなかにも、病気や障がいで死が近い人や十字架上で、釘打ちにされてもだえ苦しむ状況にある人の心にも、入っていく。
そして、そのような神の言葉をしっかりと魂に受け止めた人は、その永遠の神の言葉が光っているゆえに、「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(フィリピ書2の15〜16)と言われている。
神の言葉こそは、霊的に暗い闇のただなかで、歴史を通じても、また人の心にあっても、常に星のように輝き続けているのである。
神は愛であり、それゆえに聖霊(復活のキリスト)は、深い祈りをもって私たちを導いてくださる。そして、ふりかかってくるあらゆる困難から救いだしてくださる。
そのことは、 ローマの信徒への手紙という特に重要な書でのクライマックスと言われる8章において記されている。
そこでは、聖霊が私たちのためにうめきをもって執り成して(祈って)下さっていることが強調されている。(なお、原文では、しばしば見られることであるが、聖霊を略して「霊」を用いている)
… 聖霊は弱い私たちを助けてくださる。聖霊ご自身が言葉にあらわせないうめきをもって執り成してくださる。…
聖霊は、神のご意志にしたがって、聖徒たちのために、執り成してくださる。
それゆえに、神を愛する者たちには、万事が益となるように共に働く。
…私たちを罪に定めるものはいない。復活したキリスト・イエスが私たちのために執り成してくださる。だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができようか。、艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、剣か。(ローマ8の26〜28、34〜35より)
ここで、繰り返し用いられている「執り成す」と訳された原語は、ヒュペル エンテュンカノー(26節)、エンテュンカノー(27、34節)である。(ヒュペルは、〜のために、でここでは強調をあらわす接頭語)
この原語は、旧約聖書の続編にある「知恵の書」でソロモンが叡智を求める長い祈りが9章からはじまるが、その直前の8の21では、「私は主に祈り、願った」と訳されている。 I prayed to the Lord and entreated him (Wis 8:21 NJB) また、中国訳でもこの部分は、 「祷告」 別訳で、「祈求」と訳され、やはり祈りと訳している。
日本語の「執り成す」という言葉は、「対立する二者の間に立って、うまくまとめる」ということであり、例えば仲違いした父と子のあいだに母親が入って対立をなくそうとするといった意味である。この日本語には、祈るというような意味は全くなくて双方を妥協させるという意味がある。
このローマ書の重要な部分において、聖霊が、私たちのために罪に定められないように、滅びることのないように、またどんな困難が生じても救いに至るようにとうめくほどに祈ってくださっている。それゆえに、万事が益となるようにしてくださるということである。
そのような聖霊の祈りがあるゆえに、艱難も苦しみや迫害、飢え、剣…あらゆる危険がふりかかっても神の愛から引き離されることはないと強い表現でしめくくっているのである。
このような聖霊(復活したキリスト)の祈りは、生前のキリストの次の言葉と同様に、現在の私たちにおいてもなされている。
主イエスは、捕らわれる直前、ペテロに対して「あなたの信仰がなくならないように祈った」(ルカ22の32)
聖書の記述は、たんに特定の人物だけにあてはまるのでない。これは、単にペテロだけでなく、困難な状況にある私たちすべてに対して言われたのである。
キリスト者が他者のために祈るーそれはごく自然なことであり、たえずその祈りは捧げられている。
そうした祈りをうながすものは、聖霊であり復活して生きてはたらくキリストである。
キリストが私たちのために祈っていてくださる、ということは、何とありがたいことであろう。
キリストは愛である。神の愛である、そのことをキリストは、地上に生きておられるとき、じっさいに目にみえる形であらわされた。
そして愛は祈りとなる。それゆえに、現在の私たちは、復活したキリストによって祈られている。
エゼキエル書の最後の個所は、主によって再生させられた神の町について記されており、この大きな預言書の最後の言葉は、「主はそこにおられる」で閉じられている。(*)
これは、神によって新しく生まれた人たちの集まりの本質をも指し示していて、個々の人においてこのことは成り立つ。
このような啓示による完成された町の姿は、聖書の最後の書である黙示録にも記されている。
…更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21の2〜4)
主はそのようにつねに共にいてくださる。それは私たちにとって、生まれる前からそして生まれて後、現在に至るまで、さらに今後もたとえいかなることが生じようとも約束されたことである。
愛ゆえに共にいてくださる、いかなることがあろうともー。そしてその愛ゆえに、単に共にいるだけの存在ではなく、愛から生じる祈りをもって現在の私たちをも支えてくださっている。
そのような神であるから、神に真実に祈るなら、そのことはすでに聞かれている。聞かれないようにみえても、神は愛ゆえに必ず聞いてくださる。それは見ないで信じるものは幸いだ、と言われているとおり、結果をみないで信じる者こそ祝福されている。
神の全知、全能、しかも慈しみと真実に満ちている無限の存在に比べるなら、私たち人間のゼロに等しい判断力をもって、祈りは聞いてもらえないと勝手に判断してはいけない。
大事件や災害などを見て、神などいない、神の愛など存在しないと考えることは、私たちがあたかもそうした背後の遠大な神の御計画を知っているかのようにふるまうことである。
「主はそこにおられる」 (エゼキエル書48の35(*))
主は、神によって新しく生まれた人たちのところにおられる。
(*)エゼキエル書最後の個所、48章35節
「この日から後、この町の名は『主そこにいます』」これは、原文のヘブル語では、「主はそこ(におられる)が最後に置かれている。」
シェーム(名) ハー(冠詞 英語のthe) イール(町) ミッヨーム(ミ 〜から、ヨーム 日) ヤハウェ(主) シャマー(そこ) shem ha ir miyyom YHWH shamma (Eze 48:35 )
「祈りの友 合同集会」について
以前は、四国グループ集会として各県持ち回りで開催されていましたが、ほかの三県が開催できなくなって、近年は徳島市で年に一度、秋分の日に開催されていました。
県内の教会に属する方々、そして徳島聖書キリスト集会員に加えて、県外からは近畿のいくつかの府県からの参加者が加わって開催されていました。
今年は、コロナのために、初めてオンラインでの開催となり、そのために従来の枠を越えて多くの県外からの方々の参加がありました。
(参加者は60数名)
以下の三人の講話は、そのときの聖書からの祈りに関するメッセージです。
希望への道「わたしはよろこんで歳をとりたい」 深山政治(千葉)
現在は、新型コロナウィルスの問題で、人々の心は暗くなろうとしています。そのような時、人々の心を明るくするものは「希望」でありましょう。
先日ある友人からハガキを頂きました。そのハガキの端に、ドイツのイェルク・ツィンクという神学者が、晩年に書いた祈りの言葉が書かれていました。 「人生の秋は 新しい命につながる
神が わたしたちのうちに始めようとしておられる
新しい命に すべては向かっているのだ
『わたしは よろこんで歳をとりたい』」 (イェルク・ツィンク)
歳をとるということは、時として私共に敗残の思いを抱かせます。しかし、ツィンクのこの言葉は、年をとることに対して、喜びを与えてくれます。『わたしは よろこんで歳をとりたい』。この言葉を読んだ時、爽やかなそよ風が流れて来ました。それはまた歳をとることが、希望につながることをも教えてくれました。
この時代に、私共が待ち望んでいる言葉は、それは「希望への道」でありましょう。今日は、皆さんと共に希望への道を、聖書の言葉を中心として尋ねたいと思います。
始めに、旧約聖書のイザヤ書四十六章4節の言葉を拝読します。
「わたしはあなたたちの老いる日まで、
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。」
私どもを創造された神は、「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」。そう語りかけて下さります。私の髪が白髪になるまで背負って下さる。その神様の優しい言葉を聴きます時に、日々の重荷にあえいでいる、私共は本当にホット致します。
そして、神様は 「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い救い出す。」そう語りかけて下さるのです。旧約聖書というと、厳しい言葉が多いと思われますが、神様の心の優しさが溢れております。
神様のこの言葉を聴きます時、イエス様の言葉が浮かんで参ります。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ伝11章28節)
私どもが年老いて行く時も、イエス様はともに重荷を担い、共に歩んで下さるのであります。共に歩んで下さるイエス様、その姿を思います時に、ツィンクの言うように、「人生の秋は 新しい命につながる」という言葉が、よく分かります。「新しい命に、すべては向かっているのだ」。その思いは、私どもに新しい希望と力とを与えてくれます。そこから湧いてくる思い、それこそが『わたしは よろこんで歳をとりたい』という思いです。
また、箴言十六章31節には「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される。」と書かれております。私どもに与えられる白髪、それは実に頭に輝く冠であり、それこそは、神に従う人の道に見出されるものである。白髪を頭に頂くまでには、人生で多くの苦難を経て来たでありましょう。しかし、それはまさしく、神に従って歩んで来た証しであり、その冠として与えられたものである。そのように聖書は語ります。
人生の秋、それは新しい命につながるものである。白髪を頂くこと、それは新しい命を生み出すものである。その思いを聖書の言葉は伝えてくれます。年を経て老いることを、どこまでも讃える言葉、それが聖書から響いてくる言葉です。
次に、生涯をキリストを宣べ伝えるために生きたパウロの言葉を聴きたいと思います。パウロは、自らが立ち上げたコリント教会に生じた多くの問題の解決のために全力を捧げました。多くの困難の中にあって、パウロはこう語りました。
「だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、
わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二・4章16節)
パウロは、どのような困難があっても「わたしたちは落胆しません。」と語ります。
どうして、パウロはそのように生きることができたのか。そのことを次のように言います。「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、
わたしたちの『内なる人』は日々新たにされています。」
私どもが年老いて、『外なる人』は衰えていっても、『内なる人』は日々新たにされています。パウロがこう語り得たのは、パウロの内に復活のキリストが生きていて下さったからであります。
パウロはまさしく、ツィンクの言葉を、二千年も前に語っていたのです。
「人生の秋」が「新しい命につながる」ということは、パウロの言う『外なる人は衰えていくとも』『内なる人は日々新たにされています』を、そのままに語っております。そこから、自ずから出てくる結論は『わたしは よろこんで歳をとりたい』という言葉でありましょう。
カトリック信徒であった渡辺和子先生は、歳をとることを次のように書いております。「若い時には、他人のためにできていたことが、今は、していただく立場になっていること、三十分でできていたことが一時間かかるなど、自分のふがいなさを感じています。八十六年も働いてくれた目、耳、その他の痛んだ部品に、「今までありがとう」といいこそすれ、責めない自分でありたいと、しみじみ思います。老いてなおできること、それは、ふがいない自分を、あるがまま受け入れ、機嫌よく感謝を忘れず生きること。忙しかった頃、疎かにしがちだった神との交わりを深めてゆくことでありたいと願っています。」
そして、聖書は最後に,何ものにも換えがたい希望と恵みを私どもひとり一人に与えて下さります。それは「復活の希望」であります。いつの時も、復活されたイエス様が、共に歩んで下さる。そこから力を頂きながら、祈りつつ歩んで参りたいと思います。
復活のイエス様から与えられた命が現在の私どもに伝わりました。復活こそ、キリスト教の初めであり、終わりでもあります。イエス様、本当にありがとうございます。
今日は、皆さんと共に、『わたしは よろこんで歳をとりたい』という言葉を学ぶことができました。どうもありがとうございました。(ツィンクの本は、同じ題名でこぐま社から出版されています)
犬養 光博(長崎)
おはようございます。祈りの友の皆さん、はじめまして。犬養光博と言います。今、長崎県の松浦市にて日本キリスト教団 平戸伝道所の協力牧師をさせていただいております。
9月4日に、徳島の吉村さんから電話いただきまして、「犬養さんは、祈りの友に加わっていたですね」と聞かれました。
突然のことで、そしてほんとうに昔のことで、頭が回らなかったのですが、吉村さんが、現在の「祈りの友」の代表となった経過などをうかがっているあいだに、僕は 松尾達子さんを通して祈りの友に入会させていただいたことを思い出しました。
古くからの会員の方の中には、 松尾達子さんのことを知っておられる方がおられるかもしれません。吉村さんから、「祈りの友」のために何か話してください」と言われて、引き受けたのですが、電話を切った後、 松尾達子さんとのことを調べてみました。
いま僕は隔月に熊本にあるハンセン病療養所菊池恵楓園に寄せていただき、聖書の学びをしています。コロナ騒動でここ2回はお休みになりましたが、普通は第四木曜日の午後1時から3時まで、3時に終わるといつも、「祈の友」の「午後三時の祈りの歌」をみんなで歌って終わります。
そうなったのは、 松尾達子さんが恵楓園に来られて、教えてくださったからです。そのとき、4人の方が祈りの友に入会されましたが、いまは3人の方がご健在です。
松尾達子さんは1981年5月5日に福岡で開かれた「祈の友」の集会である、「清流集会」に集う人々の昼食の弁当を買うために出かけ、歩道を歩いておられたときに青年の無謀な運転の車にはねられて、しばらくして亡くなられました。46歳でした。
僕に祈ることを教えてくださったのは、この 松尾達子さんです。葬儀のときに僕が読んだ弔辞をちょっと長くなりますが、読ませていただきます。
最初に聖書の箇所ですが、第一コリント15章53節から55節
「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(口語訳)
僕の妻、 素子さんは「私が死ぬときには 松尾さんに付き添ってもらおうと決めていたのに」と泣きました。夫の僕より、あなたに付き添ってもらいたいと言うのです。悔しいけれど、 素子さんの気持ちは分かります。あなたがそばにいてくだされば、まるでイエス様がそばにいてくださるように安心なのですから。
松尾達子さん、4月29日の夜、あなたにお会いし、翌日からずっと仕事の都合でどうしてもお見舞いできずでした。4月30日に、僕はほんとうに生まれてはじめて一日中祈りました。祈る者とされました。そのとき、走り書いたものを読ませていただくことによって、弔辞とさせてください。
松尾達子さん、僕は今日、 病院のベッドの上で必死に戦っておられるあなたのことを思って、一日を過ごしました。昨日、 Aさんから、あなたの事故のことを聞いて、びっくりしました。ちょうど僕の42歳の誕生日の日で、家族そろってささやかなお祝いが始まろうとしていた時でした。
あの 松尾さんがどうして…もう十分苦しみを味わいつくされた 松尾さんがどうして…そんな思いを抱きつつ、Aさんご夫妻と 病院へ駆けつけました。Bさんと付き添いの方が両側からあなたの両手を抑えておられました。祈るときのように、あなたの手は組まれていました。小さな、小さな、あなたの体。 Bさんが「達子さん、 達子さん、手を握って」と言われると、あなたはぎゅっと手を握られました。酸素吸入器を当て、点滴をし、頭に大きな包帯を巻いて、眼のふちは紫色になり、顔全体が大きく腫れていました。「松尾さん、犬養です。しっかり。」と呼びかけたら、あなたは「はい…」と答えられました。「意識があるのか、ないのか、よく分からない。」 Bさんはそうおっしゃっていました。「 松尾さん、みんなが祈っています。安心して。イエス様が一緒だから。安心して任せて。」そう呼びかけましたが、あなたに聞こえていたでしょうか。
病院へ車を走らせているとき、空は真っ黒でした。まだ7時前だというのに。もう辺りは真っ暗でした。空に向けて黒い墨汁を一面にこぼした、そんな感じでした。空の下のほうだけ、夕焼けが残っていました。
どうしてあなたがこんな目に遭わなければならないのですか。18歳の少年の無謀な運転が歩道を歩いておられたあなたを突き飛ばしたと言います。街路樹も根こそぎになっていたとか。楽しみに両立する計画して別れた清流集会のお食事の買い物に出られた時だったと聞きました。
神様は恐ろしい方です。神様は罪を決してそのままにされません。どこまでもどこまでも追及されるのです。もうこれ以上、手術ができないと医者に見放されたときに、不思議に沸き起こってきた賛美について、あなたは 阿賀野聖書講習会で証ししてくださいました。 熊本の恵楓園盲信徒会でもあなたは「神様は決して罪を放置されません。しかし厳しい苦難で打ち砕かれて、罪が赦されるのです。」と証しされました
今度のことも、あなたは「厳しい神様の罪の追求。したがって、これも感謝だ。」と受け止めるのでしょうか。受け止められるのでしょうか。きっと、そうだと思います。あなたの口から、今度のこともまた厳しい神様の愛であったと、直接お聞きできることを願って祈ります。
しかし、僕にはまた僕の思いがあります。熊本のあの集会で、Cさんがあなたの存在に触れて、どんなに心が開かれたか。聞けば、自分の一生の苦しみをテープに吹き込んで、わざわざあなたに送られたそうですね。僕は何回もCさんにお会いしておりながら、Cさんの心を開けなかったのに、あなたはわずか2時間ほどでCさんの友になってくださいました。どうしてそんなことが可能になったのだろうと考えてみました。
あなたは苦しんでいる人を黙って見過ごすことができなかったのです。免田栄さん(冤罪事件で無罪になった人)のことにずっと関わられたのも、その見過ごしにできない、あなたの愛であったと思います。
そしてあなたは見過ごされないだけでなく、つねにその苦しみをわが身に負おうとされました。あの弱い小さな体で、あなたがそこでも心をえぐり出されるような思いをされた沖縄。その沖縄に美しい言葉があります。
「ちむぐりさ」(苦しみを負う)というこの言葉はあなたにこそ、ふさわしい言葉です。とうとうあなたは、もっとも悲惨な交通事故の犠牲者という、その苦しみを引き受けられました。ひょっとしてあなたは、日々起こる交通事故の悲しいニュースを見つつ、あなたのあの優しい心は黙っていることが出来ず、「神様。どうかあの苦しみをわたしに負わせてください。」と祈られたのではないでしょうか。僕にはそんな風に思えるのです。
あなたから電話をいただいたのは、28日の夜だったでしょうか。免田栄さんの福岡での世話人を引き受けられたこと、西川賤(しずか)先生の「続・祝福は限りなく」が出来上がったことを報告してくださいました。
あなたが選ばれた「祈の友」の4月の暗唱聖句の日課を使わせていただいていることを告げると、とても喜んでくださって、こう言われましたね。「私、神様に祈っているのです。T先生と犬養先生が祈りの友に加わってくださること。神様は必ず聞いてくださいます。」
僕は今日、ずっと祈ったのです。祈る者とさせられたのです。ひょっとしてあなたは、不信仰な祈りのない僕に祈りを教えるために、あんな苦しみを引き受けられたのではないでしょうか。あなたはあの苦しみ、あなたを犠牲にして、僕を祈る者とさせ、祈りの友へ参加することを勧めてくださったのでしょうか。
松尾達子さん、今日は一日、あなたの闘いのことを思って祈りました。祈る者とさせられました。「神様、 松尾さんを助けてください。 松尾さんの苦しみは僕の不信仰です。神様、赦してください。1981年4月30日 松尾さんありがとう。」
お祈りをさせていただきます。主なる神様。本当に 松尾さんのどんな思いで、僕が祈りの友に連なることが許されたかを思うと、このときまで思い浮かべることもしなかった罪を思わずにおれません。また僕に対してあなたが厳しい咎めを与えてくださったことを感謝します。どうか祈りの友の集会が交わりが、あなたによって祝福されて、続けられていくことができるよう、導きと見守りとを与えてください。小さな小さな感謝と祈りを主イエスキリストの御名をとおして御前におささげいたします。アーメン
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」マタイ6の10
清水 勝(大阪)
この祈りを、まさにゲッセマネの祈りにおいて、イエス様が祈られた。
マタイ26の42
「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、御心が行われますように。」
「御心が行われますように」というこの祈りは、天に神様の全き平安があるように、私たちの住むこの地上にも神様の安らぎがすぐに来ますように、私たちの苦しみが早く過ぎ去りますように、という祈りではない。
この祈りは、主イエス様が歩まれたように、神様の御心への献身を私たちができますように、と祈っている。苦しみが迫ってくるにもかかわらず、神様の摂理を受諾するキリスト者は、「主よ、御心が行われますように」と祈っている。
神様の御心とは一体何であろうか。
神様が望まれ、導かれるものは、神様の永遠の決定から来るのである。
「神は天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を私たちがほめたたえるためです。」(エフェソ信徒への手紙1の4〜6)
神様の御心、それは、私たちが悟ることの出来ない、最も深いものである。神様が全世界、全人類に抱かれる、神の救いの御心である。神様の御心は、決定的なもので、もはや決して取り消されないもの、永遠に変わらないものである。
この御心は、私たち地上に生きる人間の救い、すなわち罪の贖いと赦し、永遠の命と天の御国への招き、神様の愛の抱擁と祝福の充満である。
…私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。(ヨハネ6の39〜40)
率直に言えば、「御心が行われますように」とは、「神は愛である」ということが、人の世に知れ渡ることを祈っているのだ。
…神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3の16)
〇祈りの友 合同集会
9月22日(火・休日)の午前11時〜午後4時半まで、途中40分ほどの昼食時間をはさんで、例年徳島市で開催している祈りの友 合同集会が、コロナのために、オンラインでの集会となりました。
そのために、従来参加されなかった方々も、多く参加され、北海道から九州まで、部分参加を含めて67名が集うことができました。
この集会は、祈りが中心であり、祈り、祈りに関する御言葉を聞き、全員の自己紹介、そして9名の方々による祈りに関する証しを聞き、午後三時に全員が短く祈るひとときを与えられて感謝でした。
長時間でしたが、オンラインであり、途中退席や部分参加、あるいは疲れた方はベッドに横になって参加を続けるといった自由な参加のかたちがとれる集会となり、病気や高齢者で疲れがちの方々には、こうした集会の利点が感じられたことです。
また、オンラインでは距離が関係なくなり、遠いから参加できないとかがなく、インターネットのない時代では考えられないようなかたちで同時参加が遠隔地の方々ともに可能となったことも恵みでした。
この祈りの友 合同集会の録音がMP3形式で作成されていますので、希望の方は吉村宛に申込してください。なお、MP3形式のCDの再生機器やパソコンを持っていない方は、wave形式(一般の音楽CDの形式)のCDも作成していますので希望のかたは申込してください。ただし、この場合はCDが3枚ほどになります。
価格は、MP3形式…300円、wave形式…600円(いずれも送料込)。
なお、今回の祈りの友 合同集会での聖書講話の部分は、今月号の「いのちの水」誌に掲載しましたが、それ以外の9名の証し、自己紹介、「祈りの友」会員の自由投稿などは、「祈りの友」の通信誌である「祈りの風」(10月発行)に掲載してあります。
希望の方は、吉村 孝雄まで申込してください。一部300円(送料込)です。
〇瀬棚聖書集会…10月21日(水)〜22日(木) 従来は、北海道の南西部にある瀬棚で三泊四日の日程で開催されていますが、今回はコロナのために、オンラインでの開催となり、時期も7月から10月と変更になっています。
基督教独立学園卒業の酪農家の方々(一部米作農家)が続けてきたこの瀬棚聖書集会は、今年で47回を迎えています。この長い歳月を導かれたのは、瀬棚の方々の信仰が深く根付いていたためであり、それをなされたのが神であり、聖霊なるキリストだと感じさせられています。以下に主催者から送られてきた瀬棚聖書集会の要項をあげておきます。
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第47回 北海道 瀬棚聖書集会
主催 瀬棚聖書集会 協賛:日本キリスト教利別教会 、キリスト教独立伝道会
主題「神様に立ちかえる」
皆様お元気でしょうか。昨年12月、世界に、また日本に新型コロナウイルスが発生し、
今までに経験した事のない状況を私達は体験しています。
しかしながら、いつの時代においても小さく、また時には大きな脅威になるものはあり、その中で私たちは神様の声を聞き、時に見失い迷いつつももがきながら生きています。
聖書においても迷い、また神様の元に戻る様子が様々な場面を通して語られています。
今、また、「神様の元に立ち返る」その事を学び直し、日々の生活の中で実践する力を得たいと思います。
2020年10月21日(水) 10:00( 接続など準備があるので10時から開始となります)〜10月22日(木)
方法 Skypeを利用したネット集会
(初めての試みです。時間が前後する可能性があります。部分参加も可能です。具体的な接続のしかたや集会中の決まりごとは参加申し込みをされた方に随時連絡させていただきます。)
内容 1日目 第1講 10時半〜12時 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)と感話。
昼食後 第2講 13時〜14時 吉村孝雄
休憩後 第3講 14:10〜15時 石橋隆広(日本基督教団利別教会牧師)
2日目 特別講話 10時半〜11時半 吉村孝雄
感話 11時半〜12時半
会費なし
申し込み、問い合わせ先
野中信成宛 (確実に居るのは20時〜となります)
〒049−4431 北海道久遠郡せたな町北桧山区小倉山731
メール、またはファックスでお名前、住所、電話番号、連絡可能な時間帯(Skypeの事前練習を行うために連絡をさせていただくことがございます)、メールアドレスを記入の上お申し込みください。
* 今回 Skype 集会というネット集会の形をとることでこのせたなの聖書集会を続けてゆけること感謝です。「Skype」は徳島聖書キリスト集会において様々な理由からなかなか集会に参加できない方のためにインターネットを利用して共に礼拝をするために10年ほど前から使われてきたツールです。ぜひこの機会に触れてみてはいかがでしょうか。(なお、9月末までに申込ということでしたが、オンラインなので、この「いのちの水」誌が届いた時点で申込されても可能と思われます。野中信成さんに問い合わせてください。)
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〇九州地区と徳島聖書キリスト集会との合同礼拝
11月中旬には、毎年吉村孝雄は、大分、鹿児島、福岡などでの集会が与えられていましたが、今年はコロナのために、福岡聖書研究会(秀村弦一郎氏代表)の日曜日の礼拝に徳島聖書キリスト集会も参加するという形で、各集会場とオンラインを併用しての共同礼拝となりました。九州の福岡聖書研究会関係の方々には、秀村さんがZOOM を用い、徳島集会関係は、スカイプを用います。
秀村さんから送られてきたプログラムを次に記しておきます。
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・主題 「 主のまなざし 」―詩篇33 篇 他 ―
吉村孝雄 氏(徳島聖書キリスト集会代表)
日時:2020年11月8日(日) 10時 〜 11時45分 礼拝(聖書講話)約1時間 と参加者の感話など。
・福岡会場:アクロス福岡 2Fセミナー室 2福岡市中央区天神1の1の1
・徳島会場:徳島聖書キリスト集会場
徳島市南田宮1丁目1の47
ZOOM、SKYPEについて:テレビ会議システムですが、パソコン(又はスマホ、タブレット)をお持ちであれば比較的簡単に接続が出来ます。
ZOOMやSKYPEの接続方法などご疑問の点はお問い合わせください。
費用:無料(自由献金)
主催:福岡聖書研究会・徳島聖書キリスト集会
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この合同礼拝に参加希望の方は、福岡聖書研究会関係の方は、秀村 弦一郎氏に申込、問い合わせしてください。
なお、徳島聖書キリスト集会関係の方で、いつもの日曜日に徳島聖書キリスト集会の礼拝にスカイプで参加している方々は、そのまま当日にスカイプを起動していたら、参加とみなして呼び出します。それ以外の方々で希望の方は吉村まで申込ください。
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〇時間がなかなかとれなくでて、返信もできていないことがしばしばあって申し訳なく思っています。
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@主日礼拝 毎日曜午前10時30分(二)徳島市南田宮の徳島聖書キリスト集会場にて。スカイプも併用。
A夕拝 第一、第三、第四火曜日。夜7時30分から。
(スカイプのみ)
〇家庭集会のうち、次の二つもスカイプのみ。
・北島集会(スカイプのみ)…(第 2、第4の月曜日午後一時より)
・海陽集会…、 第二火曜日午前十時より)
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〇以下の二つは、それぞれの会場で開催し、スカイプも併用します。
・天宝堂集会…徳島市応神町の綱野宅にて。毎月第2金曜日午後8時〜。
・小羊集会…徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会。毎月第一月曜午後一時〜。