いのちの水 2020年12月号 第718号
いと高きところでは、神に栄光があるように、 地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ福音書2の14) |
目次
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キリストはあらゆるものに勝利する存在としてこの世に生まれてくださった。
クリスマスはそのようなキリストをあらためて思い起こし、私たちの心、そして人々の間にきてくださるようにと願うときである。
今年は、コロナに明けてコロナに暮れるという異例の一年となった。そのコロナは大都市がとくに感染者が多く、それが地方にも波及している。
自然、田園は神が造り、都会はサタンが造ったということが言われたりする。
さまざまの欲望をもつ人間の罪ゆえに、大都会は生じてきたという側面がある。
新型コロナウイルスの蔓延もその都会で多く広がっている。それゆえに、このような状況も、人間の欲望のかぎりない増大とも関係している。
コロナ禍は、科学技術の進展や都会の問題点を指し示すことにもなっている。
都会とは自然の環境が大規模に破壊されたところであるが、現代は、さまざまの領域で環境問題が切実な問題となっている。
その環境問題の初期に大きな反響を世界的に生じさせたのが、いまから六十年ほど昔に発行されたレーチェル・カーソンの著作「沈黙の春」だった。
私は大学で生化学を学んでいたゆえに、この著(当時の書名は「生と死の妙薬」)は大学の卒業前後からとくに関心をもって読んだのだった。
化学物質(とくにDDT、BHCなどの農薬)が、大量に使われるようになって、自然に生息するさまざまの動物たちのからだをむしばみ、春になっても小鳥もさえずりを止めていくということから そのような題名がある。
その後、このカーソンの名著によって環境問題の重要性が世界的に言われるようになった画期的な書となった。
そしてこの著書以前から存在しはじめた巨大破壊の能力を持つ核兵器の大きな害悪ー人間、社会、自然を広大な領域で破壊し、汚染し、さらにそれから原発という計り知れない害悪をはるかな未来の人間社会や自然環境にも及ぼすものが生み出されるに至った。
今回のコロナ問題によって、こうした科学技術の進展の方向とは異なる方向の重要性がさらに浮かび上がってきた。
それは小さきもの、自然への配慮である。
科学技術は大都会、高速での航空機、新幹線、大規模娯楽スーパー、オリンピック、万博等々大規模の催し、それに伴う大型模施設…等々、大きなものを造り出し、そのような方向へと人間の目を向けていく。
しかし、それによって小さき規模での農業やさまざまの店は次々と失われていきつつある。田園地帯は次々と埋められて失われ、その周辺にあった自然の動植物もその犠牲となっていく。
また、現代は多数の人々が老年となっていきつつある時代である。
老年とは、概して、弱く小さくなっていくことであるが、そのための施設の数は増大しても、一人一人の心の寂しさや孤独には対応することは難しい。
そうした弱く孤独になり、小さくなっていく人生最後の段階で、心の通う人間同士の関わりなどは、施設においては確実に少なくなっていく。
一人で個室とか複数の人たちの部屋で話し相手もなく過ごす人、寝たきりの人も数多い。今回のコロナのゆえに、肉親とも会えなくなった方々も多くいる。
以前から、一人寂しく死んでいくひとたちも多くいたが、コロナの重症者の増大ゆえに、一層その傾向が強まっている。
そうした孤独な人間の最後の段階までも近くにいてくれる存在とは何なのか。それは、肉親も親族もいなくなって、いても遠くに住んでいるために時折しか来てくれないということが多くある。
そのような、小さく弱くなった者のところにでも、来てくださるのが何者なのか。
それこそは、キリストである。
昔からとくに忌み嫌われていたハンセン病の人、あるいは生まれつきの全盲や耳の聞こえない人々、精神障害者、中風で動けない人たち…等々、また貧しく人から見下されているような人をも愛のまなざしをもってみつめ、そこに来てくださったのがキリストであった。
元気な九十九匹の羊をおいてでも、一匹の迷える羊を探し求めて来てくださるのがキリストであり、そのことを現実の人生において自分自身のかけがえのない経験として与えられてきた人は無数にいる。
そのゆえにキリストを信じる信仰は二千年という歳月をとおして世界中に広がって言った。
大きなものーそれは建物や道路、地位、権力、武力、スポーツで優勝とかオリンピックのメダリストになること等々何でも多額のカネがかかる。
そのためには、健康も必要である。大きな有名大学に入り、大会社に就職するにも同様であり、熾烈な競争に勝たねばそれらを手にいれることができない。
しかし、小さきものは至るところにある。
路傍の草や小鳥、昆虫等々の小動物、大空の雲やその色あい、動き、風に吹く木々、家々の木々、柿の木などの美しい実り、そして人間世界でもごく普通の人々…一冊のよき本、聖書全体でなくとも、小さき福音書や小さな讃美歌集などーみな小さきもの。
自分の指、手足などが動くことなど、うっかりすると本当に日々心にも留めないで無視しているような小さきことにも、心を留めることで神のまなざしがそのようなところにも及んでいるのを感じる。
キリストが暗く汚れた家畜小屋に生まれたということ、それはこうした誰も好んで行きたがらないような、目立たず、汚れた小さなところに来てくださるという神のご意志が表されている。
経済的には豊かであっても、さまざまの人間関係で押しつぶされそうになっていて、小さくされてしまった人、重い病気、不治の病でベッドとわが家の小さなところでしか生きられなくなった人たち、世間から忘れられたようなところに生きている小さき人たちへ、キリストは来てくださる。
コロナによって自宅待機とかの生活を強いられることが広がってその不便や不満がいろいろと出されている。 しかし、キリストは霊的存在であるゆえに、どのような制限されたところにも行くことができる。
じっさい、何十年もの間、ベッドで寝たきり、首から上しか動かない、しかも人口呼吸器によって生きておられるKさんという方が私たちのキリスト集会にもおられる。
それはコロナで自宅待機で退屈、憂鬱といったのとは比較にならない非常な制限のうちで生きておられる状況である。
そのようなだれしも耐えがたい状況にあってもなお、キリスト教の讃美歌、聖歌など膨大な量の伴奏データを長年にわたって作成してこられた。それは、パソコンや最近ではスマートホンでいつでも伴奏を演奏させ、それを用いて歌えるような伴奏データであり、それによって私たちのキリスト集会は、多様な賛美を用いることができるようになり、大きな恵みを受けてきた。
そしてそのようなきびしい状況にあってもなお、訪問者に笑顔で対応することができるのは、それは彼がキリストを信じてその力を受けているからにほかならない。
そうでなければ、とっくに体だけでなく、魂の力も萎えてしまっていただろう。
彼も次の主イエスの言葉のとおり、イエスのもとにて安らぎと、生きる力を与えられている実例であり、私も訪問するたびに励まされてきたのだった。
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11の28)
このイエスの語りかけは、万人に向って告げられている。
クリスマスとは、こうした約束をあらためて思い起こし、主イエスの御言葉が多くの人たちに届くようにと願う時であり、さらに、「私たちの貧しく弱いところに、主よ、生まれてください、 主よ、来てください」と祈り願うときである。
「求めよ、そうすれば、与えられる」ー 真実な心もて、キリストに向ってこのように求め続けていくならば、キリストが私たちの内に来てくださる。 そして、魂の平安や力が与えられる。
雨 ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ
夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニ ワラッテヰル
(雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだを持ち…)
これは、宮沢賢治が親しくしてその影響をうけた斉藤宗次郎のことが背景にある。
斉藤は、内村鑑三の書物を読んでから、非戦論を主張するようになり、小学校教員の職を追われ、新聞配達をして生計を立てるに至った。
新聞配達は早朝から仕事がはじまり、とくに昔は雨、風、雪などには非常な難儀をしての配達であったからそれがとくに宮沢賢治には最晩年にまで深く心に刻まれていて、この誰にも生前にはみせなかった手帳に覚書のように書いていたのだった。
宮沢賢治に限らず、誰でも現実の生活にあっては、 「雨にも負け、風にも負け…」という弱いものでしかない。
だからこそ、この詩の著者、宮沢は、終りのところで、次のように 人生の雨にも風にも負けないようなものになりたいと言っている。
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ
(皆にデクノボー(役立たず)と呼ばれ ほめられもせず、苦にもされず(相手にもされず)、そういう者に私はなりたい)
たしかに、我々は、たいてい日常の中での、ちょっとした心の動揺、苦しみ、悲しみにも負けそうになる。
ふきとばされ、つまずき、流されそうになる。
「人生の海の嵐」 という讃美歌がある。そのなかに、宮澤が願った、雨にもまけず、風にも負けないようになる道が歌われている。
私たちの生活のなかで遭遇する嵐のただなかで、力を与えられる場、励ましとなぐさめを与えられる魂の港がある。
それがキリストである。キリストのところに安らいではじめて私たちは降りかかる雨風にも打ち倒されずに神様の力によって支えられていく道があるのを知らされる。
…人生の海の嵐に
もまれ 来しこの身も
ふしぎなる神の手により 命びろいしぬ
いと静けき港に着き
われはいま安ろう
救い主イェスの手にある 身はいとも安し
悲しみと罪の中より
救われしこの身に
誘いの声もたましい
ゆすぶること得じ
(新聖歌248)
夕暮れの赤く染まった大空を、数羽の鳥が列をなして飛んで行く。
人間には、あのような空を自由に飛び翔る翼はない。
しかし、目には見えない翼が与えられている。それは祈りである。祈りは、翼を持つ言葉である。
どんな遠くの人にでも、一瞬にして届いていく。愛の神、全の能神を信じるときには、真実な祈りは神のもとに届いており、その神が相手に伝えてくださっていると信じることができる。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することだ。(ヘブル11の1)」と記されている通りである。
また、キリストの言葉は、神の言葉であるゆえに、いかに距離が遠くとも、届いていく。
歴史を越えて、地域、民族を越えて自由自在に飛びかける。
聖書の言葉は、そのような翼を持った言葉の集大成である。
そのような言葉のことは、旧約聖書の詩編にも示されている。
…昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19より)
物理的な音声はなくとも、霊的な響き、言葉にならない言葉がある。その神の国からの翼ある言葉であって、全地に向って飛び翔ていく。
翼を持つ言葉、このことは古代ギリシアの詩人ホメロスの作品にしばしば表れる。その一部を次にあげる。
…その時 母は涙にくれて身を起し、
右手で胸を開き、涙流して
翼ある言葉を彼に叫んだ。
「ああ、わが愛する子よ…」 (イリアス22巻81)
…私の心の痛みはそのたびにますます鋭くなった。
それで、声をあげて
翼ある言葉をかけた。
「なぜあなたは私のために留まってはくださらないのか…」(同上209〜210)
…母はただちに
私を認めて、なげきつつ
翼ある言葉をかけた。
「わが子よ、どうして暗い闇へと、生きながら、下ってきたのか」 (オデュッセイア 第11巻154)
このように、ホメロスは、普通の人間が語る言葉以外に、自由自在に飛んでいくー目的のところに届く翼ある言葉があるのを知っていたのがうかがえる。
そして、神々が与える言葉こそへはそのようなものだとみなしていたのである。
この世に氾濫している普通の人間の言葉ーそれは実にはかない。無力である。語られたと思ったらすぐに消えていく言葉が圧倒的に多い。
毎日膨大な数のそうした言葉がテレビ、インターネット、アニメ、映像、週刊誌、新聞、雑誌…等々でこの世に出て行く。それらはたしかに一時的に広がってベストセラーになったりして話題になる。
しかし、そうしたものの翼は、実に弱くはかないし、極めて限定したところにしか飛んでいけない。
時間が経てば、たちまちその翼は失われ、消えていく。
また、深い苦しみや悲しみに圧倒されている人の心の奥には届かない。
人間の存在自体がせいぜい百年足らずで、影のように消えていくものでしかないが、その人間の内から出てくる言葉も影のように実体がないのが大部分である。
それに対して、この宇宙全体を創造した神の言葉は、じつに壮大な翼を持つ言葉であった。
そのひと言ー「光あれ!」によって光が存在し始め、さらに続く神の言葉によって、万物が存在するようになったのである。
神の言葉は、宇宙全体に翼を持つ言葉となって響きわたり、その力を及ぼすことができるほど大いなる本質を持っている。
そのような、距離や時間を越えて飛び翔る言葉をしっかりと受け止めた人たちが、旧約聖書においても多く記されている。
アブラハムやモーセ、あるいは詩編作者、とくにダビデなどは、そのような人たちであった。
さらに預言書たちは、しばしば全く予期しないときに、神に特に呼びだされた人たちである。
アモスは羊飼いであって(アモス書1の1)、そのような信仰にかかわる使命など考えたこともなかったが、翼をもつ神の言葉が魂の内に届き、当時の人々、社会に、その神の言葉を恐れず告げ続けた。
そして預言者たちのところに突然やってきた翼持つ言葉を彼らが受けとったときから、彼らの人類における歴史への大いなる影響力が発揮された。
アブラハムは、神の言葉を信じたゆえに、義とされた、とある。この言葉は、それから千六百年ほども後のパウロのところへと飛び、パウロはその言葉の深い意味を知ることになった。
彼が自身で体験したこと、ただキリストを信じることによって人を殺すなどの重い罪であっても赦される、信仰によって義とされるという真理が、遥か昔にすでに預言されていたことに気付いた。
キリストがこの世に来られて以来、それまでの人間の歴史にはかつてない翼ある言葉が次々と出されるようになった。
パウロはそのような人たちのうちで、最も豊かに、キリストからの言葉を受けとって、それをまた世界の人々へと発信した。
ただキリストの十字架による罪のゆるしを信じるだけで、いかに過去に重い罪を犯したものでも、赦されて主の平安を与えられ、復活の命を与えられるという真理は、パウロの手から放たれた真理の鳩というべきものの翼によって全世界へと放たれたのだった。
私たちは、祈りという翼のある言葉を発することが与えられている。
真実な祈りは、神の力ある翼にのって届けられる。
狭い部屋にて、身動きできない人であっても、その真実な信仰と祈りは、翼をもって伝わり、その死後も、同様に羽ばたいて必要なところへと飛んでいく。
それは、次のように「走る」という表現であらわされることがある。
…主は御言葉を地につかわされる。
その御言葉は速やかに走る。 (詩編147の15より)
また、次のように、強く吹きすさぶ嵐は、御言葉をはやく運ぶものとして捕らえられている。
…火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ
(同148の8)
かつて、エジプトを脱出して苦難の40年を荒野で過ごした。そして、さまざまの苦難を経て本来ならとっくに滅びてしまっていたような食物も水もほとんどないところで、奇跡的に約束の地カナンまで導かれてきた。
それは、まさに全能の神の翼に乗せられて苦難を越えていくことができたからであった。
…あなたたちは見た。
私がエジプト人にしたこと、
また、あなたたちを
鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。(出エジプト記 19の4)
これは決して3千年余りも昔の単なる神話的物語とか伝説とか、ほかにはあり得ない奇跡的なことを書いているのではない。
現代の私たちも、長年信仰を失わずに持ってきたひとは、大なり少なりこのことを実感しているだろう。
どうしても越えることのできないと思われていた人生の苦難、危険を不思議な方法ーときには、思いがけない人物により、また信仰の教師や友人、医者や薬…等々によって道が開けていったという経験である。
それは、まさに翼をもった神のその翼に乗せられて深い滅びの谷を越えていくことができたのだった。
天使とは、神の使いという意味であって、特に羽、翼を持つものとしては記されていない。
しかし、荒野の長い旅において、移動式の神殿であった幕屋においては、その中心に神の契約の箱(モーセが神から直接に受けた神の言葉がおさめられている)があり、その箱の上部が、罪をあがなう場となっていた。その箱の上部の両端に、翼をもったケルブ(ケルビム はその複数形)が置かれてあり、箱の左右から向かい合う形となっていた。
いかなる像も作ってはならないという十戒にもみられる厳命があったにもかかわらず、この贖罪所であった契約の箱の上部には、翼を持っているケルビム(*)の像が置かれてあったということは、とても意外なことである。
しかも、そのケルビムは、贖罪の場を両側から見つめ、その翼を広げて罪をあがなう場を覆っている。
そしてそのケルビムの上に、神がおられると記されている。
さらに、神殿の周囲の壁面には、ナツメヤシと花模様などとともに、このケルビムの絵が浮き彫りにされていた。
…主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる。
地よ、震えよ。(詩編99の1)
(*)単数のケルブは、27回、複数形のケルビムという言葉は、旧約聖書で64回、合計で91回と多く用いられている。
…一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う。… (出エジプト記 25の20)
神殿の周囲の壁面はすべて、内側の部屋も外側の部屋も、ケルビムとなつめやしと花模様の浮き彫りが施されていた。(列王記上 6:29)
そして新約聖書にも、このことが記されている。
…箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。(ヘブル9の5)
このように、聖書のなかで唯一、見える像が作られたのがケルビムであるが、全部で90回余りも用いられている。 それはちょっとした飾りというようなものでなく、二つのケルビムが向かい合い、それらが罪をあがなうところを見つめ、それを翼で覆うという特別に重要な役割がなされている。
罪のあがないこそは、キリストの十字架の死に直結するきわめて重要なことである。
こうしたところからも、羽を持った神の使いというべきケルビムが、とくに重く受けとられていたのがうかがえる。
このような記述から、後に天使という羽を持った霊的存在、神の最も近くにいる存在とみなされてきたのだと推測されている。
この新型コロナウイルスのためにさまざまの苦しい状況にある人たちは、世界中に広がっている。しかし、聖書に記された翼をもつ言葉は、いかなる人間の引き起こす圧迫、迫害などの問題やあらゆる自然災害をも越えて、世界に広がってきた。
現代の私たちも、そうした神の言葉を信じ、日々深く受け、週ごとの主日礼拝にも御言葉を受けとり、かつ私たちをその翼に乗せて苦難を運んでくださる神とその力をいっそう深く信じていきたい。
主は愛をもって私たちを見つめてくださっているーそのことは、旧約聖書や新約聖書の全体に見られる。
旧約聖書の詩篇もそのことが随所に見られる。
そのなかで、とくによく知られているのは次の詩篇121篇である。
ここでは、「守る」「見守る」を意味する シャーマル(shamar) という言葉が6回も用いられている。
…わが助けは天地を創造された主のもとから来る
主は、あなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださる。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
主が全ての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださる。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださる。
今も、そしてとこしえに。
この詩の作者は、とくに見守る主の愛を強く啓示されていたのがうかがえる。主のまなざしということについては、今から数千年も昔から、このように、どこに行くにも見守っていてくださる実感を与えられていた人がいたのである。
人間は、いかに愛ある人といえども、愛する者が目の前からいなくなれば、その者がどうしているのか分からない。
聖書で示されている神は全能であり、完全な愛の御方であるゆえに、どのようなところにいても見守ってくださっている。その愛のまなざしは、すべてに及んでいる。
一般的な考え方によれば、そのような私たち一人一人をいかなる場所にあっても見守っておられる神など存在しないとみなしているので、新聞、雑誌、多くの書物、テレビその他は、みなそのような愛の神がおられるということは全く言及しない。そのような現代において、この詩は、まったく別の世界からのメッセージとなっている。
配偶者もなくなり、子供たちも遠くに行ってしまった、毎日が一人の生活となったときの孤独の寂しさ、苦しみや悲しみが、現代の高齢化社会にあっていっそう際立っている。
若くて元気なときには、そうした老年の心の悲哀は実感ができない。
戦争、内戦などの直接的な恐怖のない平和憲法下の日本、経済的に大きく恵まれている日本、さまざまの便利の器具のあふれる日本、しかしそれらがあってもなお、孤独の悲しみや寂しさなどは、いやされない。
そのような現代において、いっそう重要になっているのは、たった一人になって周囲から見放されてもなお、見放すことなく見守ってくださる愛の神との交わりを持っているということである。
万物を創造され、しかも愛の神ならば、その被造物たる青い大空や白い雲、身近な草木の一つ一つにも、心から求めるものには、見守ってくださっている神の愛を込めているのであって、私たちもそのことを信じて求めるなら、それらの自然の姿からも神の見守りを感じ取るようにしてくださっている。
そして、もう一つ有名な詩篇23篇も同様に、つねに愛のまなざしを注ぐ神の愛が主題となっている。
…主はわが羊飼い、私には何も欠けることがない。
主は私を緑の牧場に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
(詩編23より)
羊飼いは、羊を常に見守っている。同様に、神は、そしてキリストは、一人一人を常に見守り続けている。
そして、この詩に見られるように、牧草多きところー現代の私たちにとっては霊的な栄養となる所へと常に導いてくださる。 そのまなざしはさらに、一人一人を単に見守るだけでなく、困難にうち勝つ新たな力、命を与えてくださる。
…たとえ死の陰の谷を行くときも
私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それが私を力づける。
神が見守ってくださるといっても何ら困難に出会わないのではない。時として「死の陰の谷」というほどの危機、殺されそうになるほどのところへ行くこともある。
しかし、そこでも主のまなざしは注がれている。苦難の時にあっても、私たちが主を見つめることを止めないかぎり、必ずよきものを再び与えてくださることを信じることができる。
…私を苦しめる者を前にしても
あなたは私に食卓を整えてくださる。
私の頭に香油を注ぎ
私の杯を溢れさせて下さる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつも私を追う。
主の家に私は帰り
生涯、そこにとどまる(詩編23より)
恵みと慈しみは常に私を追いかけてくる。それほどに主の愛のまなざしは、私を離れることがない。
このように、広く知られ愛されてきた詩は、いずれも主のまなざしの力を実感してきたのがうかがえる。そしてその 主のまなざしはどこまでも愛のまなざしと感じられてきた。
しかし、そのように喜ばしいことばかりではない。人間はあるべき正しい道を踏み外すことはいくらでもある。その罪をそのままにしておくときには、悪の力の虜となり、滅びへと向う。
愛の神はそれゆえに数々の苦難を人間に与え、その罪深きことを知らせようとされる。
それは旧約聖書にも実に多く見られる。
出エジプトのときにも、人々はいとも簡単に唯一の神に背いた。そのことも神はすべて見守り、厳しい裁きを与え、滅びてしまった者も多い。
ダビデがバテセバという女性の犯した大罪において、なかなかそれに気づかなかった。預言者ナタンが神から使わされてダビデのところに赴き、ようやく自分の罪が途方もなく大きいことを思い知らされた。
そしてそのことで厳しい裁きを受けることになった。それは、わが子であるアブサロムが妹と不正な男女関係を持つようになり、さらに、父親であるダビデ王に反旗をひるがえし、命をねらうほどになり、ダビデは王宮から逃げ出していかねばならなくなった。
このようなさまざまの苦難によって、ダビデは自分の犯した罪がいかに重大であるかを徹底的に知らされることになった。そしてその生きるか死ぬかというような苦難によって再び神にたちかえることができた。
神が見守ること、愛をもって私たちの一切を天より見守っていることは、母親の愛とは大きく異なる。母親の愛は、それが深く純粋なものであっても、自分の子供しか及ばないし、大きくなって母親に背くようになれば、そうした愛も失われていき、憎しみや悲しみへと変質していくこともしばしば見られる。
そしてその愛は、苦しみから守ろうとするばかりである。
しかし、神の愛は、すでに述べたように、生きるか死ぬかのたいへんな苦痛や危険も与え、人の目を見えなくしたり、全身の障がいを与えて寝たきりとしたり、またかつてのハンセン病のような肉親や社会からも見捨てられ、手足も動かなくなり、さらには失明までするような耐えがたい苦しみにあわせることさえある。
そうした人が復活のキリストに出会って罪の赦しを受け、新たな命をいただくとき、初めてそうした苦しみもまた神の愛から出ていたのがと悟ることになる。
主のまなざしーそれは人間が想像もできないような深い意味をもってそれぞれに注がれ、苦難や悲しみの深い谷間にあってその愛を知らされたとき、そのキリストこそ救い主と実感し、従っていきたいという願いが魂の深いところから生まれる。
愛は祈りである。敵を愛せよとは敵のために祈れということである。とすれば、神は愛であり、キリストも愛である。それなら、キリストは私たちのために祈って下さっているということになる。
祈りなき愛は、真実の愛でなく、単なる好き嫌いの感情の延長上にあるのみ。
イエスは愛、神は愛であるゆえ、私たちをすべて祈りの心をもって見守っておられる。主のまなざしは常に注がれている。愛は止まることがないからである。
祈りは、私たちの方が神にまなざしを向け、そして神の愛のまなざしを受けることである。
ヨブ記にあるように、また十字架のイエスの叫びにあるように、神の愛のまなざしが全く見えなくなることがある。それは人間の弱さであり、激しい肉体の苦痛にさらされたとき、自分の苦しみや悲しみの周辺にしか私たちの思いは届かない。
しかし、神は愛のまなざしを送り続けている。
それゆえに、ヨブも深い神の愛と永遠の命にふれて復活したのである。
いかに深く考えても祈ってもなお 主のまなざしがわからなくなることがある。
それほど、神のまなざしは、人間の思いを越えている。
次の詩編においても、主のまなざしとはどういうものか、その一端を知ることができる。
…主は天から見渡し
人の子らをひとりひとり
見ておられ、
御座を置かれた所から
地に住むすべての人に目を留められる。
人の心を全て造られた主は
彼らの業をことごとく見分けられる。(詩編33より)
神は全能であり、また愛であるゆえに、神は地上のすべてを愛と正義の観点から見ておられ、主に従おうとするものには良きことを報い、真実や愛、正義に背き続ける者には、その御計画に応じて適切な裁きを与え、導き、全体としてこの世界を導いておられる。
★クリスマス特別集会
今年のクリスマス特別集会は、日曜日の主日礼拝と同様、集会場と、インターネットのスカイプでの参加を併用します。
・日時 12月20日(日)
午前10時〜12時ころ
・内容
@聖書からのクリスマスメッセージ
A参加者による証し、1年間の心に残ったできごと、聖句、書物からの言葉など。一人2分以内で語る。(聞いているだけでよい方は、パスできます。)
B有志の方々による賛美、演奏など。
スカイプで参加希望の方は、次の申込先に申込してください。
なお、参加できるかどうかはっきりしない方々は、前日でもメールや電話で申込されても大丈夫です。
・申込先 林晴美
★元旦礼拝
例年は、早朝に集会場に集まるのですが、今年は、スカイプで行います。
開会は、1月1日(金)午前時6時30分〜。開会までに、従来からの主日礼拝や家庭集会にスカイプで参加してこられた方については、そのスカイプがログイン状態(緑色のアイコンになっている)の方は、担当が呼びだします。
主日礼拝…毎日曜日10時30分〜
徳島市南田宮1の47の徳島聖書キリスト集会場と、スカイプの併用で行なっています。夕拝、元旦礼拝なども含めスカイプで初めて参加希望の方は、集会代表の吉村孝雄まで(左記)連絡ください。
〇夕拝…毎週第一、第三、第四火曜日の午後7時半?9時スカイプでの開催。
参加申込は従来どおり。初めてのスカイプ参加希望の方は、吉村まで申込してください。
〇家庭集会…下記の各家庭集会に、スカイプで初めて参加希望の方は、主日礼拝、夕拝同様に、吉村 孝雄までメールで申込してください。
@ 北島集会…毎月第二、第四月曜日の午後1時から。
スカイプでの集会です。参加申込は従来どおり。
A天宝堂集会…毎月第二金曜日の午後8時〜、
綱野悦子宅(はり治療院天宝堂) スカイプも参加可能です。
B小羊集会…毎月第一月曜日の午後1時から鈴木益美宅(はり治療院)にて。
スカイプも参加可能です。
C 海陽集会…毎月第二火曜日 午前10時から。スカイプによる集会。
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編著者・発行人 吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)
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