いのちの水 2020年 1 月号 707号
私たちの戦いは、血肉を相手にするものでなく、… 悪の霊を相手にするものである。 (新約聖書 エペソ書6の12より) |
目次
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この言葉は、聖書の最後に置かれた書にある。 (黙示録21の5)
この世界は次第に古びていく。人間も植物や動物たちもそして地球や太陽さえも古びていく。
万物は古びていく、ということを多くのひとたちは信じている。
人間関係、家族や職場、こうした信仰の集いにあっても 古びていく。
そのような万物はふるびていくーと見えるただなかに私たちは置かれているゆえに、この神の言葉は驚くべきものがある。
しかし、ごく身近なところから、新しくされる道は開かれている。
心貧しきものー自分がいかに真実や愛から離れているか、そのことを深く知っている心にこそ、天の国,神の国が与えられる。
神の国とは愛と真実な神の永遠の支配のはたらいているところであり、それゆえに永遠に古びることはなく、絶えず新しい。
心貧しくあるのなら、神の国が与えられる、ということは、常に新しくされるということである。
悲しみにくれる者は、暗くなる。混沌としてくる、空虚な状態となることがしばしばである。
しかし、そこから神をもとめ、神の国をもとめるときには、神の慰めが与えられる。
「ああ、幸いだ。悲しむ者たちは。
なぜならその人たちは、(神によって)慰められ、励まされるからである」
(マタイ5の4より)
悲しみは心を暗くするが、そこに神の慰め励ましがあることで明るくなる。
「新しくする」ということは、聖書全体を貫いている。
全くの闇と空虚なる、混沌とした世界は古びた状態の究極的な状態といえよう。
その中に、神からの風は吹いて絶えず新たなものを吹き込んでいる。
さらに、神は光あれ!との言葉によって、その暗黒と空しさのただなかに、光を与えた。
その風と光こそは、神からのものであり、すべてを新しくする根源であった。
神の言葉によって光は地上に到来した。
神の光は神の言葉と密接につながっている。
アブラハムは、ふつうの羊飼いであったが、神の言葉によってそれまでの生涯を一新することが生じた。
彼は全く新しくされた。それは神の言葉の力による。
光があれば、すべては新しくなる。
私たちの心の深いところに、光が射してくるとき、新しくなる。
そしてそのような光は、命の光である。神の言葉が与えられるときには私たちは新しくされる。
キリストの12弟子たちも、イエスのことば、イエスの呼びかけによって新しくされた。
日々新しくされるためには、日々神の言葉を聞いていかねばならない。
自然の姿から光を受け、ことばをうけるためには、やはり、目を覚ましていなければならない。
目を覚ましているとは、神の言葉を聞こうとする姿勢であり、また神の光を魂にうけようとすることである。
神は愛である。愛とはつねに新しくするものである。悲しみは心を暗くさせ、それは魂を古びたもの、命なきものとする。
しかし、神は愛ゆえに、悲しみという古びさせるものを励まし、力を与えて新らしくする。
神の愛は、人間の根源を新しくする力を持っている。その愛は、敵対するものにも祈りを注ごうとする。
真実な祈りは、相手の魂が神の力によって新しくされるようにとの願いである。そしてこのことは、万物を新しくする全能の神の力のごくわずかを受けてはじめてそのような祈りが可能となっていく。
神の愛のまなざしを受けたい、誰しもこうした願いを持っていることであろう。この世の人間のさまざまの冷たい目、差別や見下す目、あるいは非難や無視するような目に出会って、傷つき、心の病になっていく人たちははかり知れない。
神は人をどのように見ておられるのか、主のまなざしがどのようなものであるか、それは、すでに創世記の最初から暗示され、さらに、アダムとエバに関する記述から、さらにカインへの神の言葉からも示されている。
神は全くの空虚、荒涼とした世界、まったくの闇と混沌のただなかに「光あれ!」との言葉によって光をもたらした。
それは使徒パウロが言っているように、人間の心の闇の中にも光を与えることである。
「やみの中に、光あれ!」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光がはっきりとわかるようにするために、わたしたちの心を照して下さった。(Uコリント 4の6より)
キリストの顔に輝く神の栄光の知識とは何を意味するのか。、キリストの顔には、神の栄光、すなわちあらゆる良きものー真実や愛、力、清いことー等々がある。そしてその御顔の中心は目にあり、キリストのまなざしには一切の良きものが含まれている。
それが、神の光あれ!との御言葉によって、人の心にもわかるように導かれた。そのことは、キリストの愛も実感することであり、主の愛のまなざしもわかるようになることである。
「光あれ!」という聖書巻頭に記された言葉、 それは、人間に主のまなざしがわかるようにすることをも含むのである。 神からの光なかったら、私たちは神のことも神の愛も、したがって主のまなざしもまったく分からないままであった。
また、アダムとエバの息子のカインは兄弟アベルを突然襲いかかって撃ち殺した。そのような悪事をはたらいた人間は、普通なら即座に裁きを受けるであろう。しかし、神は驚くべきことに そのようなカインに対して次のように言われた。
…今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺してしまうだろう。
主はカインに言われた。「いや、カインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受ける。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4章より)
赦しがたいような大罪を犯したカインは、当然裁きを受けた。その裁きとは、心身の平安を失い、さすらう存在となることだった。それでも滅ぼすことはされなず、かえって彼を殺されることから守り、ずっと見守るようになった。
このように主のまなざしは、決して甘やかすだけでなく、裁きも確実に与える。しかしそこから罪を犯した者の回復を待ち望むまなざしなのである。
エジプトにおいて長い間、奴隷状態でこきつかわれ、滅ぼされようとしているときに、神はその長い期間の苦しみをもずっと見ておられた。にもかかわらず何ゆえにそのような長期にわたって苦しみを与え続けたのだろうか。
それはわからない。しかし、それは長い苦しみを通して特別な神の民としての鍛練という意味がこめられていたことはうかがえる。
世界のあらゆる民族にあって、この宇宙に唯一の神ーしかも愛と真実の神がおられるということを示された民は、そのことを世界の民に証ししていくという特別な使命を与えられていた。
そのような重い責任に耐えるにはよほどの苦しみを通っていく必要があったと考えられる。
しかし、それでも神はとき至ってそこから人々を助け出された。主のまなざしとは、愛と真実であっても、私たち人間の感覚からはどうしても理解できないようなことがいろいろとある。
しかし、それでもそのような苦難もまた、神の愛から出てきたことだと信じることが求められている。
そして時至って神はモーセという人物をエジプトの民に送った。
それによって民はエジプトから出発し、安楽な生活が待っていたのでなく、荒野の厳しい生活であった。
水も食物もなく、生きるか死ぬかのぎりぎりのようなところを40年という長期にわたって、旅していくことになった。
しかも、じっさいエジプトから最短距離を行けば、そのような恐るべき砂漠地域を通らずとも、短期間で行ける距離であった。それはじっさいイエスが誕生したとき、マリアとヨセフが生まれたばかりのイエスをともにして、エジプトまで旅したほどであった。そのような道を行けば、はるかに簡単な旅であったはずである。
しかし、神はそれとは比較にならない困難な砂漠地帯を行き、目的地にちかづいてもなお、オアシス地域で長い年月を費やし、エジプトを出発してから、40年という歳月を費やして目的地に入る道を導いたのだった。
その間、火の柱、雲の柱をもって主がさきだって導いたという。それは主のまなざしがずっと存在しつづけたということをあらわしている。
そしてこのことは、そのまま現代においても、私たちを見つめる主のまなざしを指し示すことになっている。
朝焼けの美しい空の色合い、さまざまの色彩をもった雲ー大空を飛び翔る鳥たち、それらは神の愛によって創造され、いまも神によって支えられている。(*)
それゆえにそうした自然のさまざまの姿は、主の愛のまなざしを反映している。
(*)キリストは、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる。(ヘブル書1の3より)
人間においても、深い精神性のある人は、深いまなざしを持っている。
荒れた心、闇に苦しむ心、あるいは浅薄な心、自分中心の心は、目は心の鏡と言われるように、それぞれにその心の世界を目に表している。
神は全能であり、完全な愛や真実、清らかさを持っているゆえに、神は無限の意味を込めたまなざしを持っている。
私たちが主への真実な愛をもって神を見つめるとき、神もまた愛のまなざしをもって見つめてくださる。真剣に祈れば、神様の祈りの心が伝わってくる。
神は愛なりーそれゆえに、主は愛のまなざしをもって常に私たちを見つめてくださっている。
愛の神がおられるのか、この世のさまざまの災害や荒廃、国々の争い、テロ等々などを見ていると、愛の神などいないという考えに傾くであろう。そのことは、科学や哲学、その他の学問、人間の思想などによっても分からない。 もしそれらでわかるようになるのなら、信じることは不要である。
それらいかなるものによっても分からないからこそ、信じることの重要性がある。万事よきことは、信じることからはじまる。
主の愛のまなざしが太陽のように私たちに注がれているということも、信じることから始まる。
苦難からの神の導き
ー詩篇第77編
神に向かって私は声をあげ
助けを求めて叫ぶ。
神に向かって私は声をあげ
神は私に耳を傾けて下さる。 (2節)
この詩ははっきり二つの内容に分かれている。
11節までを見ると、この詩を作った状況というのは追い詰められた状態にあることが分かる。生きる過程において、どう考えても祈っても助けがもうないと思われることがあるわけで、これは個人の悩みという問題と共に、歴史の中で見ても迫害の時代は長く、日本においても今のように自由にものをいえるようになったのは、ほんの75年ほどに過ぎない。
それまでの歴史を見ると、支配者に反対してキリスト教信仰を持つなどと告白するだけでも、たちまち逮捕され、そのために牢獄にいれられ、処刑されるという状況であった。
今の日本では、信仰のこと、キリスト教のことなど自由にいえるし、あるいは首相や天皇に関わる制度のことを批判してもなんともない。
このような状況は、長い歴史のなかでは、ごく最近のことにすぎない。
他の様々な国の人たちも、何千年もこの詩篇の冒頭にあるような叫びを共にしてきた。
現代はそんな時代ではないから、私たちには関係ないということではなく、重い病気にかかれば、たちまちこのような主に向って叫ばざるを得ないという状況となるのであって、この詩篇の叫びは、作られてから数千年経てもなお、なまなましいものとして感じさせる内容である。
最初に、神に向かって、声を上げる、叫ぶ、と繰り返されている。
現代の私たちは、祈りの中で叫ぶということは、よほどの強い願い、祈りが背後にあったのだと感じられる。
私たちは通常の生活のなかでさまざまの願い、祈りがあるが、繰り返し叫ぶというほどの真剣な祈りはなかなかできていないことを知らされる。
…苦難の襲うとき、
私は主を求める。
夜、私の手は疲れも知らず差し出され
私の魂は慰めを受け入れない。(3)
神を思い続けて呻き
私の霊は悩んでなえてしまう。
あなたは私のまぶたをつかんでいる。
心は騒ぐが私は語らない(5)
いにしえの日々を私は思う
とこしえに続く年月を。(6)
夜、私の歌を心に思い続け
私の霊は悩んで問いかける。(8)
「主はとこしえに突き放し
再び喜び迎えてはくださらないのか。
主の慈しみは永遠に失われたのであろうか。
約束は代々に断たれてしまったのであろうか。(9)
神は憐れみを忘れ 怒って、同情を閉ざされたのであろうか。」
私は言う。
「いと高き神の右の御手は変わり
私は弱くされてしまった。」(11)
3節に、夜、私の手は疲れも知らず差し出され とあるが、これは必死に助けを求めているということである。
そして、目が開かれたまま、閉じさせてくれないということで、眠ることもできず、安らぐことができないということをさしている。そして、疲れ果ててものも言えなくなった。
夜に歌を思い続けるー、神を賛美する歌を少しでも思い起こすことで、苦しみから逃れたいという心があらわされている。
しかしその悩みは去ることがない。永遠や代々(よよ)に という言葉が何度もあることから分かるように、自分には苦しみを味わう前のような状態はもう来ないのかという思いになるほど苦しみが続くときには、生きていけなくなる。
神を信じ、あくまで神に助けを求め続けることができない場合は、この苦しみはずっと続く。そこには死ということにつながる思いが生じ、自ら命を絶つということになっていくことがある。
そして前半の最後に、神様を見る目が変わってしまった。神の右手は変わった
ー神のいやしの力は私には与えられず、打ち捨てられてしまうのだとさえ思うようになった。この叫びがさらに深まるとき、詩篇22篇の冒頭にあるように、「わが神、わが神、なぜ私を捨てたのか!」という絶望的な叫びとなる。
キリストも十字架上でこの同じ叫びをあげたのだった。
現在でも、このような叫びが様々なところあるのが推察される。
この詩の作者は、いかにしてこのような恐ろしい状況から脱出できたのか。
この苦しみからどのくらいの日々が経ったかは分からないが、12節からは大きく変わっていったことが分かる。
…私は主の御業を思い続け
いにしえに、あなた(神)のなさった奇跡を思い続け (12)
あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら
あなたの御業を思いめぐらす。 (13)
神よ、あなたの聖なる道を思えば
あなたのようにすぐれた神はあるだろうか。(14)
あなたは奇跡を行われる神
諸国の民の中に御力を示された。 (15)
大水は神を見て、恐れ
深淵はおののいた 。(17)
雨雲は水を注ぎ 雲は声をあげた。
神の矢は飛び交い (18)
その雷鳴は車のとどろきのよう。
稲妻は世界を照らし出し
地はおののき、震えた。(19)
あなたの道は海の中にあり
通る道は大水の中にある。
踏み行かれる跡を知る者はない。 (20)
あなたは、モーセとアロンの手を通して
羊の群れのようにご自分の民を導かれた。 (21)
どんなに光がなく、八方塞がりであっても、そのときが来たら神様は全く違うところにおいてくださる。信仰の世界は不連続的である。突然にして思いがけない救いの道が開かれることがある。
私自身も小さいながらもそうした経験をしたことがある。
自分のことだけを思っていたら苦しみばかりである。その自分から離れて、苦しい中からでも主のなされてきた御業を思い巡らせていた。
それによって、数千年という長い歴史の流れのなかで、神は無数の人を助けてこられたことがまざまざと浮んできた。
自分から離れたときに、心が楽になるということは普段でも小さなことにおいても経験されることである。
この詩の作者は、今まで私のことばかりを考えていたが、大きく神の御業をみることへと方向転換をした。そうすると神の力がまざまざと見えてきたというのが17節以降である。
大水とはこの世の力である。得体の知れない深淵ですら、神を見て驚いたと記されているほどに神の力がひとたび発揮されるといかなるものも太刀打ちできない。
18節は勝利の声をあげるということである。そういうものが聞こえきた。今までは悪の力が自分に襲いかかってきて、おののいていたが、ひとたび神の力の前にはすべて恐れおののいていると全く逆になり、悪の力がおののいていると霊的に分かるようになった。
神の世界を知らされることは、悪の力に勝利することを知らされることにつながる。それは私たちの日常生活においてとりわけ重要なことである。最終的に悪の力が善の力を砕き、滅ぼしてしまうのなら、この世に生きていくことは無意味になる。
神は海ーすべてを呑み込んでいまうような力に直面してもそこにも道を開き、ご自分の民を導いていく。
この数千年前に作られた詩は、現代の私たちにも、直面するさまざまの闇にもかかわらず、たとえいかにその闇や苦難が大きくとも、最終的には、神の愛とその全能によって導いてくださるという確信へとうながしている。
新しくされるとは、広いところに導かれることである。狭いところとは、暗く、苦しく、悲しいところ、人間関係でも圧迫され、差別されるところである。そこから光があり、感謝や喜びのある世界、祈りのある世界とは広きところ。
聖書には、私たちを広きところへと導かれ、新しくされることが約束されている。
広いところは、自由であり、つばさを与えられることであり、いのちの水を自由に飲めるところ、また、聖なる風をうけるところである。
この世は狭く暗い、しかし、神によって導き出されるとき、そこは広いところである。
〇主はわたしを広い所につれ出し、
わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。詩篇 31の18
〇わたしを敵の手にわたさず、
わたしの足を広い所に立たせられたからです。詩篇 18の19
〇人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。
われらは火の中、水の中を通った。
しかしあなたはわれらを広い所に導き出された 詩篇 66の12
〇わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、
主は答えて、わたしを広い所に置かれた。詩篇 118の5
春季四国聖書集会
キリスト教独立伝道会と徳島聖書キリスト集会との共催で行なわれます。
・期日…2020年5月
・テーマ…「祈り・感謝・賛美ー主の導き」
・期日…2020年5月9日(土)13時〜10日(日)16時
・会場…ホテル サンシャイン徳島 電話088-655-5252
(徳島駅から歩いて10分以内です)
内容
・聖書からのメッセージ…秀村弦一郎(福岡聖書研究会代表)、西澤正文(静岡県清水聖書集会代表)、
小舘美彦(春風学寮長)、吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会代表)。
それぞれ25分程度の短い時間ですが、テーマに関しての御言葉からのメッセージがなされます。
・北田康広夫妻によるピアノと賛美の歌(一時間)
・証し…大内信一(福島、農業)永井信子(東京、いずみの森聖書集会代表)、小舘知子(東京)那須 佳子(大阪、高槻聖書キリスト集会代表)、宮田咲子(大阪狭山聖書集会代表)
地元の徳島聖書キリスト集会からは、米田武子(イラスト、デザイン)、加藤久仁子(美容師)、高橋ルツ子
・賛美の時間
、楽器による演奏、県内外の参加者有志による賛美の歌やコーラス、地元徳島集会の人たちによる手話讃美などによって主を賛美する時間です。
これらは壇上での一部の人の歌や演奏を聞くだけでおわるのでなく、それらの演奏や歌を会場の参加者全体も歌うというかたちで、全員参加型の賛美の時間です。
〇参加申込は、左記の吉村 孝雄まで。
★前月号でも書いておきましたが、宿泊は 東京での無教会全国集会のように、各自で申し込むことになっています。
これは、 従来から行なわれてきた四国集会や徳島での全国集会とはことなりますのでご注意ください。
・参加費
両日参加(9日夕食、10日昼の弁当代金含む)
7千円
・食事なしの場合、1日の参加料金 千五百円、 二日間では三千円。
これらの会費は、「いのちの水」誌奥付の郵便振替番号を使って申込時にお送り下さい。
(*)証しについて
キリスト教の最初の伝道は、イエスは復活した、という単純な証しであり、弟子たちのうち代表的とされたペテロ、ヨハネ、ヤコブたちはいずれも漁師でした。彼らは学問もなく、文字も読めなかったのではないかとも言われます。
しかし、「イエスの復活の証人だ」という使命を与えられ、命がけでその証しを続け、さらにその人たちに続く証し人が次々と主から呼び出されて証しを続け、キリストの福音は驚くべき速さで広大なローマ帝国に伝わっていったのでした。
またパウロは、キリスト教徒を迫害し殺すことまでしたのでしたが、その迫害のさなかに突然復活したキリストからの光と呼びかけを受けて、回心しキリストの復活と十字架の福音を伝える使徒となったのでした。
そのはっきりした復活のキリストの証言を使徒言行録でも繰り返し語っています。
このように、主が復活されたというじっさいの出来事を体験したことでその事実を語るという証し、そして主が何をしてくださったか、ということを語る証しこそは、そこに聖霊がはたらいてキリストの復活と十字架の福音が伝わっていく根源となったのです。
それゆえに今回の春季四国聖書集会も、自分が何をしてきたか、でなく、主が何をしてくださったか、という主の証しの時間を重視しています。
訂正 12月号2頁 最後 参加者貫かれるー刺し貫かれる |