2020年 2月号 708号
神は真実な方である。 (Tコリント1の9) |
目次
主のまなざしということは、旧約聖書や新約聖書の全体に見られる。
旧約聖書の詩篇もそのことが随所に見られる。
そのなかで、とくによく知られているのは次の詩篇121篇である。
ここでは、「守る」「見守る」を意味する シャーマル(shamar) という言葉が6回も用いられている。
…わが助けは天地を創造された主のもとから来る
主は、あなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださる。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださる。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださる。
今も、そしてとこしえに。
この詩の作者は、とくに見守る主の愛を強く啓示されていたのがうかがえる。主のまなざしということについては、今から数千年も昔から、このように、どこに行くにも見守っていてくださる実感を与えられていた人がいたのである。
人間は、いかに愛ある人といえども、愛する者が目の前からいなくなれば、その者がどうしているのか分からない。
聖書で示されている神は全能であり、完全な愛の御方であるゆえに、どのようなところにいても見守ってくださっている。その愛のまなざしは、すべてに及んでいる。
一般的な考え方によれば、そのような私たち一人一人をいかなる場所にあっても見守っておられる神など存在しないとみなしているので、新聞、雑誌、多くの書物、テレビその他は、みなそのような愛の神がおられるということは言及しない。そのような現代において、この詩は、まったく別の世界からのメッセージとなっている。
配偶者もなくなり、子供たちも遠くに行ってしまった、毎日が一人の生活となったときの孤独の寂しさ、苦しみや悲しみが、現代の高齢化社会にあっていっそう際立っている。
若くて元気なときには、そうした老年の心の悲哀は実感ができない。
戦争、内戦などの直接的な恐怖のない平和憲法の日本、経済的に大きく恵まれている日本、さまざまの便利の器具のあふれる日本、しかしそれらがあってもなお、孤独の悲しみや寂しさなどは、いやされない。
そのような現代において、いっそう重要になっているのは、たった一人になって周囲から見放されてもなお、見放すことなく見守ってくださる愛の神との交わりを持っているということである。
万物を創造され、しかも愛の神ならば、その被造物たる青い大空や白い雲、身近な草木の一つ一つにも、心から求めるものには、見守ってくださっている神の愛を込めているのであって、私たちもそのことを信じて求めるなら、それらの自然の姿からも神の見守りを感じ取るようにしてくださっている。
そして、もう一つ有名な詩篇23篇も同様に、つねに愛のまなざしを注ぐ神の愛が主題となっている。
…主はわが羊飼い、私には何も欠けることがない。
主は私を緑の牧場に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
羊飼いは、羊を常に見守っている。同様に、神は、そしてキリストは、一人一人を常に見守り続けている。
そして、この詩に見られるように、牧草多きところー現代の私たちにとっては霊的な栄養となる所へと常に導いてくださる。 そのまなざしはさらに、一人一人を単に見守るだけでなく、困難にうち勝つ新たな力、命を与えてくださる。
たとえ死の陰の谷を行くときも
私は災いを恐れない。
あなたが私と共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それが私を力づける。
神が見守ってくださるといっても何ら困難に出会わないのではない。時として「死の陰の谷」というほどの危機、殺されそうになるほどのところへ行くこともある。
しかし、そこでも主のまなざしは注がれている。苦難の時にあっても、私たちが主を見つめることを止めないかぎり、必ずよきものを再び与えてくださることを信じることができる。
私を苦しめる者を前にしても
あなたは私に食卓を整えてくださる。
私の頭に香油を注ぎ
私の杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつも私を追う。
主の家に私は帰り
生涯、そこにとどまる
恵みと慈しみは常に私を追いかけてくる。それほどに主の愛のまなざしは、私を離れることがない。
このように、広く知られ愛されてきた詩は、いずれも主のまなざしの力を実感してきたのがうかがえる。そしてその 主のまなざしはどこまでも愛のまなざしと感じられてきた。
しかし、そのように喜ばしいことばかりではない。人間はあるべき正しい道を踏み外すことはいくらでもある。その罪をそのままにしておくときには、悪の力の虜となり、滅びへと向う。
愛の神はそれゆえに数々の苦難を人間に与え、その罪深きことを知らせようとされる。
それは旧約聖書にも実に多く見られる。
出エジプトのときにも、人々はいとも簡単に唯一の神に背いた。そのことも神はすべて見守り、厳しい裁きを与え、滅びてしまった者も多い。
ダビデがバテセバという女性の犯した大罪において、なかなかそれに気づかなかった。預言者ナタンが神から使わされてダビデのところに赴き、ようやく自分の罪が途方もなく大きいことを思い知らされた。
そしてそのことで厳しい裁きを受けることになった。それは、わが子であるアブサロムが妹と不正な男女関係を持つようになり、さらに、父親であるダビデ王に反旗をひるがえし、命をねらうほどになり、ダビデは王宮から逃げ出していかねばならなくなった。
このようなさまざまの苦難によって、ダビデは自分の犯した罪がいかに重大であるかを徹底的に知らされることになった。そしてその生きるか死ぬかというような苦難によって再び神にたちかえることができた。
神が見守ること、愛をもって私たちの一切を天より見守っていることは、母親の愛とは大きく異なる。母親の愛は、それが深く純粋なものであっても、自分の子供しか及ばないし、大きくなって母親に背くようになれば、そうした愛も失われていき、憎しみや悲しみへと変質していくこともしばしば見られる。
そしてその愛は、苦しみから守ろうとするばかりである。
しかし、神の愛は、すでに述べたように、生きるか死ぬかのたいへんな苦痛や危険も与え、人の目を見えなくしたり、全身の障がいを与えて寝たきりとしたり、またかつてのハンセン病のような肉親や社会からも見捨てられ、手足も動かなくなり、さらには失明までするような耐えがたい苦しみにあわせることさえある。
そうした人が復活のキリストに出会って罪の赦しを受け、新たな命をいただくとき、初めてそうした苦しみもまた神の愛から出ていたのがと悟ることになる。
主のまなざしーそれは人間が想像もできないような深い意味をもってそれぞれに注がれ、苦難や悲しみの深い谷間にあってその愛を知らされたとき、そのキリストこそ救い主と実感し、従っていきたいという願いが魂の深いところから生まれる。
使徒ペテロは、漁師であった。そしてその仕事に従事しているときにイエスから呼びかけられ、すべてをおいてイエスに従う者となった。
ペテロもヨハネ、ヤコブたちもみな漁師であった。彼らに共通しているのは海(湖)という自然のただなかでときに夜通しはたらき、風雨や嵐の日にも直面する仕事であって、学校も行くこともなく、おそらく文字もかけなかったし、読めなかったと推察される。
そのような人物でも、主イエスに従っていくことに何の妨げもなかった。
しかし、三年間のイエスに導かれての歩みがあってもなお、彼の内に宿る深い自分中心の本質は変わらなかった。イエスが王となったときには、自分をイエスの右、左に置いて欲しいといった人間的な欲望を母親とともにさらけ出したこと、あるいはイエスが自分はまもなく律法学者、大祭司、長老といった指導的な人物によって攻撃され捕らわれ、殺されることを予告した。
しかし、ペテロはそのことを全く理解できず、イエスに向ってそんなことがあってはならないとイエスを引き寄せて叱ることさえしたが、その際、イエスから「サタンよ、退け! 神のことを思わず、人間のことを思っている」と一喝された。
それによって、自分という存在がいかに力なく、真実に徹することもできず、何より大切なイエスのご意志にも従えない、イエスへの愛もなく、真実もないということを思い知らされた。
しかし、そこからイエスの愛のまなざしを受け、イエスの復活ののちには、ひたすら復活したイエスが命じたこと、ー祈って約束された聖霊が与えられるのを待ちなさいーを忠実に守り、彼らは熱心に集まって祈り続けていた。
それは、イエスが殺される前夜に、目を覚まして祈れと命じたのに、弟子たちはみな眠りこけてしまっていたのと対照的な大いなる変化であった。
そのとき、大いなる風ー聖霊が豊かに注がれ、弟子たちは霊的に一新された。
そして、キリストが復活したことを自分自身の経験として語り始める。
キリストが復活しなかったのなら、イエスもふつうの人間と同じで死という力に滅ぼされたことになる。
ペテロやヨハネたち、キリストの使徒たちは、ただキリストが復活して彼らに語りかけたということ、その復活したキリストが聖霊となって彼らに与えられたゆえに新たな力を得て、その聖霊に導かれ、命じられて彼らにとって決定的な経験となったキリストの復活を証しすることになった。
… 神はこのイエスを復活させた。わたしたちは皆、そのことの証人だ。(使徒 2:32)
その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっている。(使徒13の31)
…あなたがたは、命への導き手である方(イエス)を殺したが、神はそのイエスを死者の中から復活させた。わたしたちは、このことの証人である。(使徒 3:15)
弟子たちの大いなる変化は、イエスの教えや数々の奇跡を直接に見ることでもなければ、それまで生きてきた人生経験でもなかった。
彼らの決定的な変化は、 聖霊が注がれることによってなされた。彼ら自身の意志や熱心、努力を注いでもできなかった。
弟子たちは、命をかけてもイエスに従っていくとその決意を示した。
しかし、それはあえなく崩れ去ってみな逃げてしまったのだった。
決意や決断、また勇気や実行等々もまた、神からの力、聖霊によらねばできないということを聖書は一貫して告げている。
彼らは、聖霊という復活したキリストによって全く新たにされた。それは後のキリスト教の世界への広がりにおいても同様だった。
キリストの最も重要な弟子たちであった、ペテロやヨハネ、ヤコブたちはみな漁師であった。学問などは全くなく、採った魚は貯えることもできないゆえに、富を貯えることもできず、嵐や雨など天候不純のときに、また自分たちの健康に問題生じたときは、仕事もできず、およそ富や権力とは縁のない人たちだった。
そうした人たちがキリストによって特に呼び出され、12弟子たちのうち最も重要な弟子として死に至るまでの三年間を過ごしたのだった。
そして彼らがイエスによって本当に新たにされたのは、その三年間のイエスのさまざまの奇跡や深遠な教えを間近に聞くことによってでなく、それらを豊かに受けたにもかかわらず、彼らはイエスが捕らえられるときにはイエスを裏切って逃げてしまうほど力なく意志弱き人間だった。
しかし、聖霊が注がれてからは、国の最も権力ある大祭司や長老、祭司長たちの命令(イエスが復活したということを言うなという禁令)にも動じず、逮捕されても鞭打たれて獄につながれてもなお揺るがぬほどの確信と力を与えられた。
そのような事態になった彼らがしたことはといえば、ただ彼らに直接体験したイエスの復活ということであった。
そして復活したキリストと同じ聖霊を与えられたことだった。
使徒たち、そして初期にキリストの福音を伝えた人たちがなぜあらゆる苦難を受けたのか、迫害、拷問、殺害、投獄、鞭打ち、家族との離別、家族も捕らえられることもあったーそうした数々のたとえようもない苦しみをもあえて受けてまでしたこと、それは単に、イエスは復活したという証言、証しのゆえだった。
そこには、この世が重んじる学問も経歴や家柄も経済的に恵まれているといったこと、また家族のことも一切関係なかった。
彼らのはたらきは、金もなく、権力も家柄も才能もなかった。それにもかかわらず、最初に彼らがキリストの復活を証ししたときに、たちまち数千人の人たちがキリストの復活を信じるようになったと記されている。
それは何がそうさせたのか、それはキリストの復活をペテロたちが証ししたからであるが、その証しに聖霊が伴っていたからだった。
使徒パウロは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちとは全く対照的である。パウロは、家柄もよく、生まれながらのローマの市民権を持っていた。それは金持ちであり、家柄がよくなければ与えられない。しかも能力もあって特別にユダヤ人の教師から律法(旧約聖書)を学んだ学問的にすぐれた人物であったのがわかる。
しかし、それでもなお、キリスト教徒たちを捕らえ、殺すことさえしたし、国外にまで大祭司の許可をもらってキリスト教徒たちを捕らえようと奮闘していたほどだった。
学問や経歴、また能力もキリストの真理を悟るためには、何ら役だたなかった。かえってキリスト教徒たちを迫害する熱心を生じただけだった。
神は、無学で権力も能力もなかったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちも選び、そして逆に学問あり、能力あり、地位もあったパウロをも選んだのだった。
共通しているのは、キリストを信じるという人間にとって決定的に重要なことは、そばで親しく教えを聞くとか、また学問や能力に秀でているとかではなく、ただ、復活したキリストの呼びかけによる、あるいは復活したキリストそのものでもある聖霊を受けることによるのが明らかにされている。
それによってキリストの真理は、聖霊がはたらきさえすれば、どのような人間でも主の証し人となり、キリスト教の真理を伝えるという重要なはたらきに加わることができることを示すものとなった。
研究ということは、生まれつきの能力と時間、あるいは経済力が必要となる。これは自然科学、人文科学、社会科学などにおいても共通している。
研究のためには、さまざまの先人のまた同時代の研究結果を参照し、それらを理解し、分析し、あるいは総合していく知力が必要である。そのためには、複数の外国語について読み書きできる必要があり、それらを詳しく読み、内容を把握するには相当の時間と能力が必要であり、それを支える経済力も必要となる。
聖書の研究においても同様である。聖書を単に読むのでなく、研究ということになれば、当然、聖書の原語であるヘブル語、ギリシャ語さらには、翻訳も原語、原文の重要な受け止め方であるゆえに、ラテン語も必須となり、さらに英、独、フランス語などの主要な原語をも読んでそれらの翻訳や注解書を読み比較していく必要がある。
例えば、枕草子や万葉集などを研究するというとき、口語訳でするなどありえないことである。文語の原文を詳しい文語の辞典によって読み解かねばならないし、古今のさまざまの研究書をも参照せねばならない。
聖書の研究においても同様で、聖書はそうした日本の古典とは到底比較にならない膨大な英米などの聖書の注解書、研究書、辞典類があり、それらの一部でも参照せねばならない。
こうした作業は、ごく少数の人にしかできない。そしてそのような研究を重ねたとしても、それによってたった一人の苦しみにある人に伝えることができるとは限らない。
そうした研究の内容は、心身に多大の苦しみ人や今生きていけないほどの絶望や悲しみにある人たちには、何ら力を与えるものとはならないことが多い。真に苦しむ人は、知的な理解を深く必要とするような研究には、関心を示すことさえできなくなるからである。
それは、私たち自身の経験、また周囲の人たちの苦しみのただなかにある人たちのことや、旧約聖書の詩篇を参照すればすぐにわかることである。
そのような場合には、ただ神に向って叫ぶこと、必死で心を神に注いで助けを求めることしかできなくなる。
また、かつてそうしたことをこなせるほどの知力、能力のあった人も、老年となり病気が重くなり、家族もいなくなったとき、その孤独の寂しさが押し寄せるとき、小さな文字のつまった研究書などを読もうとする人がいるだろうか。
精密にみえる研究は、人間が本当に助けを必要とするような弱く苦しい状況になったときに、役に立たなくなるのである。
私自身は、研究によってキリスト教の真理がわかったのでなかった。一冊のごく簡単なキリスト教の真理、その福音について記されたわずか一ページで足りたのである。
それ以来、50年以上がすぎた。その間、多くの聖書関係の書物や研究書、ヘブル語やギリシャ語の学びや多くの翻訳聖書も参照することができてきた。そしてそれなりに、聖書のより正確なメッセージを受けとることができてきた。
しかし、体調不全の苦しいとき、罪に苦しむとき、職場での不正などに関して生徒に不利益がかかっている明白なことに関して発言、発表していくときに周囲からの圧迫…そうしたときに、聖書の緻密な研究が役だったのでなく、ただ祈りのなかで、主を真剣に仰ぎ求めることによって励ましと主の平安を与えられ、力を与えられてきたのを思う。
また、最初の赴任高校において、担当教科ー物理、化学、数学などを特別にできない生徒のために補習をずっと続け、できる課題を個人的に与え、また授業ではまずやらないような危険を伴う化学実験なども多くをやり、そのうえで、そうした授業のなかでも、重要な社会や政治の問題が生じたときには、それらの状況を折々に紹介し、それらの、本当の解決のためには、そして人間の魂の本当の安らぎや力は聖書に記されてていることを折々に指し示していった。
さらに、放課後において希望者に聖書やヒルティなどの読書会を始めたが、最初の赴任高校でも10人ほどが集まるようになり、四年間の勤務で5人を越える者がキリストを信じるようになった。
その次ぎに赴任した高校でも、さらにその後もそうしたことを続けて、退職までのすべての赴任校で神を信じるようになる生徒が与えられていった。
これは、私が学んだ聖書の研究によるより、はるかに重要だと感じるのは、そうした研究を越えるもの、神の聖なる霊のはたらきによるということである。
実際、私が一冊の本の立ち読みで福音の本質を知り、神とキリストのことに目を開かれたが、そのときは大学四年であって卒業研究ということで日夜授業、実験とアルバイトとともに余分の時間など全くなく、その後、卒業してすぐに高校教員となったのであり、聖書の研究などほとんどする余裕もなかったまま、教育にたずさわるようになった。
聖書の原語も知らず、注解書も矢内原忠雄の一部のものしか読んでなくて、翻訳聖書も口語訳と文語訳、外国語訳としては、英語訳二種とルター訳ドイツ語聖書を参照できるくらいだったが、それでも福音は伝わっていったのであり、それはまさに聖霊の力による。
聖書の研究はほとんどできてなくとも、私がキリストを信じるように導かれてから何が与えられたのか、いかにしてそれまで全く無関心であったキリスト教とか聖書の世界に導かれたのかという証しは十分に語ることはできた。
神はその証しを用いてくださったのである。そこに聖霊がはたらいたのだった。
あることが真理であることを確信をもって証言すること、そのことはとても重要なことである。研究とはしばしばその真理の周辺をぐるぐるまわるだけで、当事者やその研究結果を聞く人に、細かな知識は与えても何ら力を与えないことも多い。
これは、戦前において、あの膨大な死者や大怪我をして生涯が狂わされるような悲惨が日本で数百万、中国や東南アジアにおいては数千万人といった人たちを生み出したが、そのような侵略戦争の本質を知ってそれを何らかの形で指摘したゆえに、大学を追われたとか、迫害されたという人は、政治学者、社会学者、あるいは哲学者、文学者など含めてごく少数であった。
かえって、あの戦争を聖戦と称してたたえ、人々を駆り立てることになった。
福音書のなかにも、証しの重要性が記されている。
サマリアの女は、水汲みに来たとき出会ったイエスとの短い会話によって、イエスが女の過去を見抜いたということで、この人こそメシアだと感じて、水汲みの仕事をおいて、人々にイエスのことを単純に証しをした。それによって多くのひとたちがイエスを信じるようになった。(ヨハネ福音書四章)
また、生まれつきの盲人がイエスによって癒されたが、その盲人は、イエスを迫害していたユダヤ人たちに呼び出された。イエスをメシアと信じる人がいたら会堂から追放することになっていたのである。
その盲人であった人は、こう言った、「ただひとつ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」(ヨハネ9の25)
証しとはかくも単純なことなのである。主が私たちに、ほかにはない平安を与えてくださったこと、あるいは聖書のある言葉によって助けられたこと、思いがけない人との出会い、あるいは病のいやし、…等々、何でもイエスがしてくださった、と感じることをいかに小さくとも率直に語ることが証しなのであって、そうした率直な証言を主は祝福してくださる。
使徒パウロも、証しを重んじた。それは、彼の行動を記した使徒言行録において、キリスト教徒を熱心に迫害していた自分ががいかにして突然に変えられたかを記し、それが復活したキリストによってなされたことを証ししている。(使徒言行録13章、17の31節〜、22章、26章)
彼の学識や経験、あるいは家柄など、キリストを知るためには全くつながらず、かえってキリスト教徒
を迫害することにつながっていたのだった。
そこにパウロは、この世の知識や学問とまったく別のところ、神から直接の語りかけ、天からの光を受けることで一方的に救いを与えられたことを証ししている。
それは単純な内容である。
証しは繰り返しなされるべきことである。新聞やテレビのニュースはいかに内容が無意味であっても、単に新しいこと、珍しいこと、視聴者が興味本位であれ関心を持つようなことがつねに重んじられる。
しかし、神が関心をもたれるのは、私たちがいかに小さき日常のことであっても神がなされていること、主の愛と導きによるものとして受けとっているかどうかであり、そのことをたとえ多くの人が耳をかさなくとも、主にあって語る、証しすることを求めておられる。
その単純な証しが聖霊がはたらくときには大きな力を発揮する。証しとは、主がなしてくださったことを単純率直に語り、あとは神に委ねることである。
知識はかぎりなく存在する。目の前の樹木、それがいかなる特徴をもっているのか、花は、果実は、またそれはいつごろ、そして何年たったら花が咲く用になるのか…等々、また小石ひとつとってもそれの由来、成分、それらを調べる方法は…、また、現在の世界の国々一つ一つの由来、特質、人口、産業、面積…等々、何をとっても知識は限りなく存在する。
宇宙や地球の起源、人類の起源、生命の起源…等々、これらもいくらでも知識は広がり詳細になり、さまざまの異説あり…。
聖書一冊にしても、ひとつの聖句がいかなる意味を持つのかーといったことでも限りなく広がっていく。
言葉にしても、聖書の言葉ーはじめにロゴスがあった、というヨハネ福音書の最初の言葉の原語は、ギリシャ語のロゴス(logos)であるが、これも、ホメロスからプラトン、アリストテレスの著作に現れた用法、そしてローマ時代のマルクス・アウレリウスなどのギリシャ語の著作などに用いられている用法…等々を詳しく見るなら、驚くべき内容となり、世界で最大の新約聖書のギリシャ語辞典(THEOLOGICAL DICTIONARY OF THE NEW TESTAMENT 英語版)においては、ロゴスの元の動詞形 lego からその関連語も含めての記述となっていて、大型本で小さな文字での印刷で百二十頁にわたって極めて詳細に解きあかされている。
こうした限りない知識は、時代とともに増大し続ける。
しかし、叡智は決してそれに伴わない。叡智とは、真理を見抜く洞察力であり、何が価値あるかという直感的能力であるからである。
嘘を言うことには価値がない、真実な清いものこそが価値があるといった価値に関する正しい直感、武力や権力、金の力などを押し進めると最終的には人間を滅びに至らせる等々を深く見抜く力こそが叡智(*)である。
(*)英語ではwisdom。これは知識 knowledge とは全く異なる。しばしば wisdom は知恵と訳されるが、知恵という言葉は、入れ知恵するとか、知恵がついてきたとか、知恵を付けてやるというと状況によって適当に嘘をつくのもよいのだなどということに使ったりするし、知恵の輪という遊び道具にも用いられる。
しかし、叡智 ということは、漢字の叡 は、深い谷をえぐるように鋭く見るという語源的説明が漢字語源辞典にはなされていることからわかるが(その漢字に目や谷の一部がみられる)、知恵 という言葉のような軽い意味には用いられない。 叡智 という漢字が難しいので、英知と書かれる場合があるが、英と叡とは意味が異なる。
創世記の最初の部分に、エデンの園に見てよく、食べてよい実のなる木がいろいろと生育していたが、園の中央にある「善悪の木」(善悪とは、原語のヘブル語では トーブとラァ)の木の実は食べてはいけない。食べると必ず死ぬと言われた。
しかし、「善悪」を知る木の実を食べてはいけない、言い換えると善悪を知ってはいけないということは考えられない。神に従うことは善であり、盗みや殺人は悪であることは当たり前なのに、そんな善悪を知ったら死ぬーというようなことはありえないからである。
この個所は、「善悪」と訳されているが、漢字の 善 という語は、道徳的なことに限定して使われる言葉である。 この花は善であるなどとは言わないし、この車は善であるなどとは言わない。
しかし、善と訳されたヘブル語のトーブは、「美しい、愛する、かわいい、貴重、きれい、行為、幸福、親しい、幸い、善行、宝、正直、正しい、反映、福祉、恵み、安らか、豊か、良い、喜び、立派」など、およそ五〇種類もの訳語があてられているほど豊かな意味を含んだ言葉である。
悪と訳された ラァ も同様で多様な訳語が用いられている。
このことからわかるように、漢字の善悪より意味がはるかに広いのである。
それゆえに、トーブ と ラァ を知る という語句の意味は、道徳的な善悪を知るということに限定された狭い意味でなく、あらゆるよきもの、悪しきものの総体である。以下に引用したように、英語でいえば、everything ということになる。
それゆえ、この個所の意味は、道徳的な善悪を知ったら死ぬという不可解なことを言っているのでなく、あらゆることを知るということだけを求め続けていくことをどこまでも続けていくなら、死に至るーということなのである。
人間は、罪深い存在である。善きこと、愛や真実という基本的なことも いくらさまざまの本を読んだり、教育を長くうけても、また人類が何千年経ってもまったく本当の愛や真実を行なうことができないほどに無力な、限界を持った存在である。
そうした致命的な限界をもっている存在であるにもかかわらず、 人間の自然的な欲望に従ってどこまでも「知識」という世界へと進んでいくことを第一としていくなら、必ずそれは死、滅びへと向うのだという深い洞察がここに示されている。
このことは、次に原文を少し短縮して引用するケンブリッジ大学出版局の注解に記されている。
…「善悪と訳されている言葉は、ヘブル語のイディオム(慣用句)として読むのが最善であり、それは「すべてのもの」を意味する。それゆえ、人間が食べるのを禁じられた トーブとラァの木とは、知識の全体を意味する。人間は、与えられた限界を知るようにと警告されているのである。
人は、創造された存在として神の権威に従うこともできる。また、何でも知っている者であろうとすることもできる。
しかし、後者の結果は重大である。それは、「その木の実を食べるなら、あなたは必ず死ぬ」 からである。
人間中心、自分中心の道は、死に至る道となる。」
…The phrase good and evil is best taken as Hebrew idiom used to convey the idea of 'everything '
The knowledge of good and evil,forbidden to man therfore, is the totality of knowledge.
Man is being warned that he is subject to certain limitations.
He can choose to accept his lot as a creature under the authority of God or he can attempt to be 'Mr Know All'.
He can acknowledge his dependence from God - or he can assert his independence from God - and accept the consequences.
The consequences are momentous : 'for in the day that you eat from it you will certainly die.'
The way of self is the way of death.
(The Cambridge Bible Commentary : Genesis Vol1.35p CAMBRIDGE AT THE UNIVERSITY PRESS 1973)
このことは、現代にあって切実な問題となりつつある。現代の最大の脅威となっている核兵器は、人間の限りない知識の探求の結果である。
それは、今から百年余り前からはじまった未知の光線(X線)の研究に端を発した。
そこから、原子にかかわる研究が驚くべきはやさで進展し、神の尊厳への敬意とか無関係に核兵器を生み出し、一発の爆発で何十万人が死傷し、生き延びた人たちも何十年と苦しまねばならなくなるほどの大量殺戮兵器をうみだした。
広島型の原爆よりさらに規模の大きい核兵器ならば、東京都心に爆発したときには、死者二百万、七百万人が負傷とも言われているほどである。
さらに、それから七十年ほどを経た現在は、さまざまの宇宙兵器が出現しつつある。
核兵器の副産物としての原発は、現在も多くの人々を苦しめ続け、とくに日本においては、世界で地震や火山の密度のもっとも高いところに原発が立ち並び、その大事故の危険性をはらんでいる。
しかも、その廃棄物は、10万年もの期間、地震や火山その他の影響を受けない深い地中で管理せねばならないというほどに、人類に重い負担をかけるものになっている。
さらに、現代では、人工知能(AI)を搭載したドローンやロボット技術の発展によって、まったく新たな戦争道具が開発されつつあり、かつては考えられなかったような宇宙兵器も出現しつつある。
こうした科学技術にかかわる知識を、神の存在、そして私たちがその神によって創造されたことを無視して増大させていくことでどうなるか。
人類ははるか昔にここにあげた創世記で言われていたこと、ー知識の実を食べることによって死に至るーということの深遠な意味を思い知らされていくことになる。
これに関連して、イギリスの桂冠詩人として有名なテニソン(*)の有名な詩「IN MEMORIAM」にも次ぎのように記されている。(岩波文庫の入江直祐訳による)
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知識とは まだ成人しきっていない頼りない子供ー
死の恐怖とは戦えないもの
知識とはなにか、それは愛と信仰から切り離されたもの。
Knowledge is
Half-grown as yet, a child,and vainー
She cannot fight the fear of death,
What is she,cut from love and faith,
すべての知識が もしも空しいものでないならば、
より高き叡智の手よ、それを和らげ
行く手を導き、幼な子を伴うように
足並みをあわせて伴い行けよ。
なぜなら知識は地上の心
叡智は天上の霊であるから
For she is earthly of the mind,
But Wisdom heavenly of the soul.
叡智ー神の愛を知り、そのあがないの愛は十字架のキリストによってあらわされていることを知り、最終的に必ず悪の力そのものがほろぼされることを信じ、洞察できること、そうした叡智は人間の努力や学問によるのでなく、天よりの霊ー聖霊による。
私たちは、みなさまざまの弱さを持ち、重荷を抱え、世界は解決しがたい難問を抱えている。そして死というどうすることもできないものが刻々とちかづいている。
そうした中にあって、いかなる事態となろうとも、天上からの霊ー聖なる霊が注がれるとき、イエスが言われたように、この謎に満ちた世界にあって必要な「すべてを教え」ていただける、そして死のかなたの復活を希望をもって待ち望みつつ、祈りつつ日々を歩ませていただきたいと思う。
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(*)アルフレッド・テニソン (1809〜1892年)イギリスの代表的詩人の一人。「IN MEMORIAM」は、親友を突然に失ったことによる深い悲しみと神への信仰と思索を十数年を要して完成した詩集。
この詩集は岩波文庫版で二百五十頁、研究社版で二百頁近くにも及ぶ長編。この詩の冒頭の部分を次に引用しておく。
復活したキリストとは、不滅の愛、永遠の愛の存在であり、神の全能の力をそのまま与えられている存在であることからはじまっていて、信仰によって私たちは歩んでいくことが強く表現されている。これらの短い言葉によって、テニソンのキリストへの信仰の心が伝わってくる。
Strong Son of God,immortal Love,
Whom we, that have not seen thy face,
By faice,and faith alone,embrace,
Blieving where we cannot prove.
力強き神の子(キリスト)、そは不滅の愛の存在
私たちはその御顔を見たことはない
信じることにより、ただ信じることによって主にすがる
証明することはできぬゆえ、ただ信じることによって。
(証しは立たぬながらも、ひたすらに祈りつつー岩波文庫の訳)
この冒頭の部分は、讃美歌に採用されている。「神の子、朽ちぬ愛よ」(讃美歌275番)
2020年
春期四国聖書集会開催の御案内
一昨年まで44回にわたり開催されてきました四国集会が、この度、徳島キリスト聖書集会とキリスト教独立伝道会の共催により、名称も「春期四国聖書集会」と改めて開催することになりました。
■開催日 2020年5月9日(土)13時〜10日(日)16時
■会 場 ホテル サンシャイン徳島
〒770-0824 徳島市南出来島町2丁目9 088ー622ー2333
JR徳島駅から徒歩約10分以内 徳島空港から車で30分 駐車場80台(無料)
■申込方法
申込書(16頁)に記入し、控えを残した上で、郵送、またはFAX、Email等でお送りください。
■問合せ先 右記 吉村まで
■申込締切 4月9日(木)
締切を過ぎても、宿泊を各自がホテルを利用し、食事も会場内のレストランや近隣の飲食店、コンビニなどで等で済ませるなら参加できます。
■料金 全日程参加…7,000円(9日夕食 10日昼食込)
食事無:1日参加…1,500円 2日参加…3,000円
9日のみ(夕食込)…4,000円 10日のみ(昼食込)…3,000円
夕食:バイキング・2,400円 昼食:弁当・1,500円 この料金に税、サービス料10%加算
支払方法:郵便振替にて下記の口座へ送金してください。
郵便振替口座:01630ー5ー5590
加入者名:徳島聖書キリスト集会
■直近で参加可能となった場合
直接レストランにて食券を購入すれば対応可能です。ただし、人数多ければ難しいとの事です。
■宿泊
以前から「いのちの水」誌上にお知らせしましたが、今回の春期四国聖書集会は、宿舎の参加者がそれぞれ直接会場、あるいは別のビジネスホテル等に申込むことになっていますので、参加を希望される方は、先ず、宿舎の予約をされて置くことをお勧めします。
ビジネスホテル等の予約は、集会当日の少し前でもキャンセルが可能だからです。
◎特記事項
(その1) 地元の人たちへの伝道的目的から、
9日(土)の15時〜16時の北田康広コンサートだけ
参加する方は、無料とします。
(その2) 参加費は申込後にキャンセルした場合には、
返金せずに今回の集会へ献金とさせていただきますので御了承ください。その代わり、今回の集会の主たる内容の録音CDをお送りします。
申込書説明
(1)電話番号、メールアドレスについて
交流や伝道、また何らかの連絡のために、従来から徳島での無教会の全国集会や四国集会においてはTEL、E-mailアドレスなどを掲載してきました。
ただし、特別な理由のゆえに、不掲載を望む方には掲載しないことにします。
(2)宿泊について
日曜日の早朝祈祷のグループ分けに必要です。
(3)自己紹介について
自己紹介や心に残っている聖書、キリスト教関係の書物の引用など、3〜4行以内で書いてください。文はそのまま当日の資料に印刷しますので、丁寧に文字は濃い色で書いてください。