いのちの水 2020年 3月号 709号
私たちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、 さまざまの悪の霊を相手にするものである。 (新約聖書 エフェソ信徒への手紙 6の12より) |
目次
#休憩室 |
・お知らせ |
新型コロナウイルスという目に見えない極めて微少なものがいかに大きな力を持っているかを思い知らされている昨今である。
今日の科学技術の発達した時代にあっても世界中がかつてない混乱に陥っている。
そうした揺れ動く世界のただなかにあって、変ることなきものがある。
それは、神の光ー目には見えないが、魂にて実感することができる光である。
星の光は、その神の光を象徴している。暗夜のなかでいっそうその清さと永遠性を感じる。
かつて、歴史上で最初の殉教者となったステファノが、主によって真理を語ったとき、周囲の人たちの激しい憎しみをうけて、石を投げつけられ、死が近いときに天が開けて復活したキリストと神を見たと記されている。
そのことは、どんな闇にあっても、真実な心をもって求める者には、天が開け、光が与えられるということの預言ともなっている。
青く澄んだ大空、そこに浮かぶ白い雲…それらは、広大な天からの「私を仰ぎ、見よ」との神からの語りかけが込められている。。
第二次世界大戦における若きドイツ兵が、死を前にしての書き残した文がある。
マルティン・リントナー
化学科学生 ヴィーン大学
一九一七年十二月二六日生まれ
一九四二年十二月一日戦死
(24歳)
…私たちは、休憩を得て、激しい戦闘のさなかにあっても、さまざまの喜びを味わっている。
大地と命がどんなに平和に満ち、限りなく美しいか、音楽や想像を膨らませることがいかに感動的でありうるか、それはこの不思議な国でかずかずの戦闘の深遠と恐怖を通り抜けてきた者だけにわかるのだ。
神の愛とあたたかさは、戦闘のあとで最も強く感じられ、大きな感謝と喜びとが、人間の心のなかに広がる。
(1942.7.31)
兵士たちは変わってしまった。大きな不安に駆られているようだ。
深い淵にまっしぐらに飛び込む列車のように、すべてが破局に向って急いでいるようだ。
私の心にあるのは、とりわけ次のようなことだ。
勤務における誠実さ、あたたかさ、愛。それによって求めること、
とりわけ、祈り、心を集中して書くことー愛と力をもって。忍耐への祈り。
(1942.11.20)
(「ドイツ戦没学生の手紙」
83、85頁 高橋健二訳 新潮社
1953年)(*)
この最後の文を書いた学生は、これから十日後に戦死している。
はじめにあげた文は死の四カ月前であり、激しく困難な戦闘、であるにもかかわらず、そのただなかで神の愛とあたたかさを最も強くかんじ、大きな感謝、喜びが心に広がっていると書き留めている。
神の愛は、きびしい戦闘の生死のはざまにあってもなお、そこに平安や喜びをもたらすものであることの証言となっている。
新約聖書に、「常に喜べ、感謝せよ、祈れ」ととあるが、こうした証言によって、この御言葉を思い起こさせる。
(*)この手紙集以前に、やはりドイツで第一次世界大戦のあとで発行された「ドイツ戦没学生の手紙」がある。それと同様に、第二次世界大戦の後にも製作、発行されたものがここに引用した書である。
日本で戦後発行された戦没学生の手記や手紙を集めた「きけわだつみのこえ」の発行は、このドイツの第一次世界大戦後の発行された戦没学生の手紙集が機縁となっている。
誰しもこの世における幸いを求める。健康であり、よき仕事があって経済的にも安定し、家族も平和に過ごせる…等々。
それらが与えられるなら、本当に感謝すべきことであるのは言うまでもない。
しかし、この世においては、健康も、仕事(職業)も、また家族の平和もふとしたことから突然に失われる。
健康そのものであっても事故や災害、また、思いがけない発病で瞬時にして病気になり、重い障害を持つ身となることもある。
あるいは国によっては食事や医療もわずかしか受けられないとか、自分の家や国で過ごすことさえ困難となり、国外に危険を犯して逃げていかねばならない国々もある。
歴史上では、ただ自分の考えを言っただけで、逮捕されるような状況も数知れずあった。
日本においてもキリストを信じるというただそれだけで、捕らえられ、改宗しなければ恐ろしい拷問がなされ、家族にも多大な苦しみが及ぶようなこともあった。
それゆえに、だれしも求めるこうした幸いは、影のようなもの。あると思っていてもすぐになくなる。
本当の幸いとは、たとえ健康が失われ、貧しさや圧迫があってもなお感じ取ることのできるもの。
言い換えると、永遠的なもの。
それゆえに、そのような幸いは、からだの健康やお金、周囲の状況といった目に見えるものでなく、それらが失われ、損なわれてもなお存在するものと結びついたもの。
そのような永遠的なものとは、天地を創造された神以外にはない。
その神とは愛と真実を本質とし、かつ永遠である。
私たちの魂にはそうした本当の幸いの源である神をほのかに実感する能力が与えられている。
しかし、時が来るまでは、その力は閉じられている。神の国から響き来る音が存在しているのに気づいたとき、私たちの本当の出発となる。
それは、明瞭な語りかけであったり、言葉にならない響きのようなものであったり、光のようなものであったりする。
キリスト教、ユダヤ教、そしてイスラム教において共通して信仰の父とみなされているアブラハムも、人生のある時に、突然にしてそのような天からの響きを聞き取ったのだった。
それこそが、彼の生涯の決定的な時となった。
そして世界の人類にとっても絶大な意味を持つことになった。
歴史上でもっとも明瞭に、天来の声とその響きを聞き取った御方は、キリストだった。
闇をも貫く光として、いかなる不正や悪の力にもうち勝ち、神の本質たる愛と真実と正義を完全なかたちで持っていた。
それゆえに、キリストが現れて以降の二千年というもの、現在においてもキリストの力が現実に世界中で働いている。
私たちは、そうした天からの響きや光、言葉を聞き取ることこそ、だれにも与えられ得る幸いであり、いかなることによっても奪い取られない。
それこそ、祝福された状態であり、そのような祝福を与えられることこそが、この世における究極的な幸いだとわかる。
ヒルティはこのことについて、次ぎのような詩を書いている。
人生において最もよきものは、幸福ではない。
そうではなく、祝福である。
幸福はたちまち過ぎ去り、
我らとともに葬り去られる。
しかし、祝福は永遠の彼方から響き来る妙音。(*)
(*)ヒルティ著「幸福論」
第3部158頁。
Des Lebens Bestes ist nicht,Gl・ck,
Nein, Seligheit zu haben;
Das eine ist ein Eigenblick
Und wird mit uns begraben.
Das andere aber ist ein Ton
Aus weiten ewigkeiten.
響き来るものがある、それはキリストより千年ほども昔の旧約聖書の詩集(詩篇)にすでに記されている。
この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩篇19の2〜4より)
そして、聖書に記されているように(*)、天地万物は、神のものであり、神が支えておられる。それゆえに、私たちの身近な自然のさまざまのものも、愛なる神のものであり、神がいまも支えておられる。
それゆえ、そうした自然もまた、天の国からの妙なる響きを私たちに伝えているのである。
一つ一つの雲の動きや冬枯れの木々のその枝も、風のそよぎ、あるいは夜空の星々の輝きもみな、そうた祝福への語りかけを、また神の力の絶大さを告げているとともに、人間の弱さを知らせ、そこからその弱さや汚れとまったく縁のない神の国へと誘うものである。
・見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。(申命記10の14)
・御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる。(ヘブル書1の3)
現在は世界中で新型コロナウイルスに悩まされている。フランス大統領が、これは戦争であると言ったほどである。
目には見えないウイルスという生物とも無生物とも定義しかねるようなものが、かくも世界中に甚大な影響を及ぼすということは、だれも想像したこともなかったし、そのようなことを予見する者もいなかったであろう。
世界の未来において、第三次世界大戦が起こるのではないかということは折々に言われたりしてきたが、ウイルスとの戦いがかくも大規模にしかも深刻な状況に、そしていわゆる先進国も開発途上国もまきこんでいくということはかつてない状況である。
今回のウイルスの力以外に、目に見えない強力な力で世界が恐れてきたことーそれは核分裂による膨大なエネルギーであり、それによって瞬時に何十万という人々の命が失われ、おびただしい建物が破壊、燃焼してしまう。
しかもその原爆によって生き延びた人も何十年と放射線という目に見えないものによる体内細胞の破壊によって病気の苦しみにさいなまれる。
他方、その核分裂のエネルギーは原子力発電として用いられてきたが、発電を続けることで、その内部に新たに非常に寿命の長い半減期を持つ放射性物質を生み出し、それが人類にとって十万年にも及んで有害放射性を出し続ける悪魔的な存在となっていく。
福島原発の大事故において、原子炉の燃料が溶け落ちたもの(デブリ)は、そのような強力な放射線を出し続けていて、取り扱いは困難を極めている。
チェルノブイリ原発事故での燃料デブリは、現在でも近くにいけば、ほとんど即死といわれるほどの強力な放射線を出し続けており、その処理の困難性からとりだすことを断念し、事故から34年を経た現在でも、手つかずのまま、巨大な石棺で覆われ、さらに新たにそれを覆う巨大なドーム状の装置が、日本からも EU、アメリカ、独、英、仏、伊などの国々の援助によって建設が開始され、2018年には完成した。
福島原発での燃料デブリを数十年をかけてとりだすと言われているが、そのデブリもやはり、近づけはまもなく死んでしまうほどであり、 そのような危険極まりないデブリをとりだすこと自体本当にできるのか、もしとりだしたとして、どこに運んでいくのか、その運搬途中に事故、災害、テロなどがあったらどうするのか、そんな危険物を受けいれる地域が日本にあるのか、またどこかに地下深く設置するといっても、日本全体が世界でも特筆すべきほどの、地震、火山、津波などの危険性をもっている。
フィンランドは、世界で最初に、こうした高レベルの放射線廃棄物を10万年にわたって地下処理する施設 オンカロが建設された。
しかし、そこでは、20億年ほども昔に生成した花こう岩の固い岩盤があり、10億年以上も地殻変動が確認されていないといった、いわば半永久的に安全だと予想される地域なのであり、日本はそれとまさに対照的な不安定な状況にある。
このように、放射線という目に見えないものとの戦いは、10年、20年,いや数百年や数千年でもない、10万年にもわたる人類にとって永遠ともいうべき困難な未来への問題をもっているにもかかわらず、日本はその現実に目をふさいで、この地震、火山列島に 50あまりの原発を作ってきたのだった。
運転中止となって廃炉となっても、いつまでかかるかだれも予想できない、目に見えない放射線との戦いが続いていく。
今回の新型コロナウイルスとの戦いは、そのうちに、専門の感染症学者の言うところでは、数カ月ではおさまらない、半年、一年、あるいは年を越えても外国からの新たな感染者の流入、あるいはウイルスの型が変異したものが流行する可能性も示唆されており、いつまで続くのかだれも予見できない状況にある。
同じ目に見えないものとの戦いであっても、原発の高レベル廃棄物の放射線との違いは、それは、原発をもっている国とか、爆発した地域の近くの国々など、ある程度限定されるのに対して、新型コロナウイルスの影響は、今日科学技術の産物である航空機や電車、大量の人間を載せる船、バスといったものによって 世界の各地に及ぶということである。
実際、原爆の多大の被害は、日本でも広島、長崎の爆心地に近い領域以外は、その影響を直接には受けていないし、原発の大事故でも、チェルノブイリのときは当時の季節の風雨によって2千`離れたところにまで影響はあったが、日本の福島原発での事故では、3月始めの北西からの季節風が太平洋に大部分の放射性物質を運んでいったので、福島のしかも原発の比較的近く、風向きによってかなりはなれた横浜までも影響があったがーその強い影響は地域限定されていた。
しかし、新型コロナウイルスの影響は、数カ月の短期間で日本中はもちろん世界中にだれも予測できなかった速さで広がっていった。
原発の大事故も、今回のウイルスのことも、いずれも専門家もだれも予想もしなかったことであった。
これらの出来事は、何を意味しているのか。
それは少なくとも、人間の力の根本的な弱さを指し示している。核兵器や、原子力発電の事故において膨大な悲劇を生み出すことになったのは、人間の自分や自国中心の考え、憎しみ、人間のカネや権力欲…等々がそのもとにある。
しかし、コロナウィルスの拡散は、そうした人間同士の敵意や戦争、自分中心ということが直接的には関係していない。
また、核兵器や原発は、その爆発の被害や原発事故の有り様など、瞬時にその破壊的状況が目に見えるかたちで現れる。
他方、ウイルスによる病気の広がりは、最初は風邪のようにまったくたいしたことでないように見える。しかもそのウイルスは極めて微少であって1ミリメートルほどの長さに、1万〜10万個あるいはそれ以上もおさまるほどである。
ウイルスによって私たちの体内細胞の一部が破壊されていくので肺の炎症となって現れるが、その様子は、原子力の破壊的状況とはまったく対照的で目で見えない状況となる。
原発事故、その廃棄物の問題は、今後何万年と続く問題である。
それに対して、今回のウイルスの問題は、どうか。
1918年に発生した世界的インフルエンザは、スペインがもとで広がったのではないにもかかわらず、スペイン風邪と呼ばれることがある。世界中での感染者数は5億人ほどにもなり、死亡者数は四千万〜一億人とも言われ、歴史上で最初のパンデミック(*)とされる。
(*)第一次世界大戦に加わったアメリカ軍から広がった。フランスや中国から広がったという説もある。 スペインでは国王がインフルエンザに感染したため、インフルエンザ大流行の情報を正確に公表した。そのため、1918のインフルエンザ大流行のニュースは、スペインが発信源となったことによる。
なお、パンデミックとは、すべての人々 というのが直接的な意味。ギリシャ語の「パン pan」は、「すべて」(パンアメリカー全てのアメリカ、パンナムという発音でなじみがある)、デミックは、デモス(demos)「民衆」の意。デモクラシーという語ーデモス+クラトス(力)ー民主主義という言葉になっている。
今回の新型コロナウイルスも、そのスペイン風邪のウイルスが型を変異させて生じたものではないかとも言われている。
今回のウイルスもまた型を変異させて、来年も再来年も広がる可能性もあると言われるし、またさらに大きな別の型のウイルスが生じる可能性もある。
このように、ウイルスのことも、今後だれも予測できない問題として続いていくことが考えられている。
こうしたことは、いずれも目に見えない恐るべき力が人間の欲望や自分中心といった本性によって拡大した結果生じるのと、自然的な原因で生じるという対照的な面をもっているのに気づかされる。
いずれにしても、現代の私たちへの何がメッセージとしてあるのだろうか。
それは、人間の限界を知ることであり、そのさまざまの意味での弱さを知らねばならないということである。
このことは、聖書の最初の巻である創世記の最初の部分に、神が備えた楽園には、食べてよいうるわしい木々と決して食べてはならない木がある。それは、 「善悪を知る木」と訳されているが、これは道徳的善悪という狭い意味でなく、原語の意味するところは、あらゆることを(創造者たる愛と真実の神を無視して)知ろうとする木であり(「いのちの水」誌2020年2月号参照)、それを食べると必ず死ぬ、と言われていることを思い起こさせる。
そしておなじその聖書には、もう一つ「命の木」があると記されている。(創世記 2の17、3の24)
その命の木とは、聖書の最後にもう一度現れてこの世界の最終的な状況を記したなかにみられる。(黙示録22の1)
その黙示録には、この世界は霊的な新しい天と地となり、命の水の川が流れ、命の木があると記されている。
現代の私たちにも、このような世界にちかづく道が開かれている。
それは、聖書の言葉を永遠の真実を持たれている神から来た言葉だと信じ、キリストを神から使わされた存在であるとして受けいれることから、そのような命の木の実を食べ続ける、そして永遠の命を与えられることが記されている。
キリストは、「私は命であり、道であり、光である」と言われた。(ヨハネ8章など
ここに、私たちの最終的な希望がある。
ウイルスや危険な放射線を出す原発廃棄物に対しては目には見えないものとの戦いである。
しかし、それらは、目には見えずとも何らかの機器によって測定、または見ることのできる。
しかし、それらと異なり、いかなる器械、科学技術によっても見ることも測ることものできないものとの戦いー悪の力(悪霊)に対する戦いこそ、人間にとっての根本的な戦いである。
そのような戦いを聖書ではすでに二千年前からはっきりと記している。
…わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、暗闇の世界の支配者、悪の諸霊を相手にするものなのである。(エフェソ書6の12より)
血肉を相手にするのでないー人間や人間の集まりたる民族や国家でもない、人間が造り出したものでもない。 それは、目に見えない悪の力との戦いであるーそれに負けることこそ、あらゆるこの世の問題のもとにある。
その戦いに勝つための武具もキリスト者には与えられている。
それは、次のように記されている。
… 福音の真理であり、神の正義であり、平和の福音を告げための備えを常にしていることであり、真実と愛の神を信じる信仰であり、また、救われた喜びである。
そしてキリスト者の剣とは、聖霊であり、神の言葉である。
そして、それらをを受けるため、それらがはたらくための祈りである。
どのような時にも、(神の)霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けよ。(エフェソ書6の14〜20より)
言い換えれば、神の真実、それに応える私たちの信仰、希望、そして神からの愛を受けることこそが、この世のあらゆる戦いにうち勝つ道であるということになる。
目に見えないものに脅かされる人類、しかし、それらをも支配しているのが目には見えず、あらゆる科学技術や機器でもとらえることのできない、天地創造をされた神であり、その目に見えない力ーしかも非情なウイルスとか放射線の力でなく、愛と真実に満ちた力、それを私たちはただ信じることで受けいれる道が開かれている。
ユダというとキリストを裏切った者で、そのことに関して聖書ではどのように記されているのか、そして現在の私たちに対してどのような意味をもっているのかを考えてみたい。
ユダの最後については聖書では次のように記されている。
「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、金貨を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「罪のない人を売り渡して罪を犯した」と言ったとある。(マタイ福音書27の3〜4)
ユダは、「後悔した」と訳されている。 この原語(ギリシャ語)は、メタメロマイ(*)である。
このギリシャ語は旧約聖書のギリシア語訳にも使われているが、心を変えるとも訳される言葉。
ユダは、神に向って魂の方向転換をしたのでなく、単に自分がした行動が何にもならなかったと思って後悔したということにすぎなかった。
(*)ここで「後悔した」と訳された原語(ギリシャ語) メタメロマイ metamelomai は、神に向って立ち返るという重要な意味を持った言葉でなく、単に後悔するとか 心を変える といった意味で用いられることであるのは、次のような用例でわかる。
・御心を変える (詩篇109の4)
・嘆き悲しむ(後悔して嘆く 箴言5の11)
・後悔して追いかける(旧約聖書続編、知恵の書(ソロモンの知恵)19の2)
・熟慮なしに何事も行なうな。そうすればお前が行なったことを悔やまずに済む。(シラ書(集会書)32の19)
・他人にお前の財産を与えるな、さもないと、後悔して…(同33の20)
・『行きます。お父さん』と言ったが、心を変えて、行かなかった。 (マタイ21の29)
・あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。(Uコリント7の8)
・「主は誓われたが、心を変えなかった。 (ヘブル7の21)
聖書においては、ユダの最後の状態は、もう一つ使徒言行録に記されている。
…彼は不正によって得た報酬で、土地を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。(使徒言行録1の18)
ユダに関しての最後に関して、聖書に記されているのはこの二カ所だが、このように、無惨な死に方となり、ここに神の厳しい裁きがあったことが書かれている。
聖書を根拠とするならば、ユダも救われた、といった主張は、根拠のないものであって、人間の考えや願望、といったものにすぎないのがわかる。
私たちはそういう人間の研究や希望ー言い換えれば、人間の考えを拠り所とするのではなくて聖書のはっきりした記述に根拠を置かねばならない。そうしなければ、聖書のさまざまの記述が、人間のさまざまの考えによって批判や誤解、あるいは人間的感情によって大きく変えられていくということになり、ひいては聖書への信頼を失わせ、何が根本的な真理かが分からなくなってしまうーじっさいにそのような方がいるのを知っている。
いかに一時的に一部の人にとって説得的に見えても、しょせんそれは人間の考えなのでである。
すぐに移り変わり、世界に影響を与えるものとはならないのは歴史が示すところである。
異端といって聖書の真理から根本的にはずれたことを主張して一時的に多くの信徒を得ることもあるが、必ずそうしたものは時がくれば衰退していく。
なかには、ペテロもイエスを三度も否定して裏切ったのだから、ユダと変わらない。ユダも同じように救われるのだーといった主張もなされることがある。
しかし、ペテロは、イエスが捕らわれる直前まで、命を失うことがあろうともイエスに従うという決意を述べたほどだったが、イエスがむざむざと捕らえられていくのを目の当たりにして、側に居合わせた女中からあなたもイエスと共にいたーと言われて思わず繰り返し否定してしまった。
しかし、ユダは、計画的に金でイエスをユダヤ人の指導者たちに売り渡したのであって、その差は歴然としている。
ペテロは、思わず イエスなど知らないと言ってしまったが、その直後に深い心の痛みを感じて遠くからイエスが見える所まで近づいていた。そこでイエスの深い眼差しにあって激しく泣いたと書いてある。
ユダについては、後悔した、とあるけれど、後悔するということ自体が、本来悔い改めという、神、キリストへの方向転換とは異なる言葉である。
しかも、ユダが後悔の気持ちを言った相手は、イエスを殺そうと計画した律法学者や祭司長、長老たちに対してであって、そのような悪意に満ちた人間たちに後悔したことを告げても何も意味はなかったのである。
聖書で旧約聖書の時代から一貫して救いのために不可欠なこととして重んじられているのは、神、あるいはキリストに向かって心を方向転換するということである。ユダは、サタンに取り憑かれたような祭司長たちや長老たちに向かって後悔したと書いてはあるが、神に向かって悔い改めの祈りを捧げたとは書かれていないという点が大きな違いである。
ユダの犯した罪ー意図的、計画的にイエスを敵対者に金で売り渡すという罪は赦されなかったと聖書は記しているのがわかる。
聖書では赦されない罪とは、なにか、そんなものがあるのか、については、聖書では「聖霊を汚す罪は赦されない」と、強い言葉で言われている。
…だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。(マタイ12の31)
聖霊を汚すとはどういうことなのか、それはただ神のみがご存知である。このようなことは、霊的なことですのでどこから先が、どのような言動が聖霊を汚すのか、人間の側から見て分からない。
そもそも死の直前にどのようなこと思ったかはこれ誰も分からない。そういうことで死が近づくまで非常にひどい言葉を言ったり人が死の直前にどんなことを思ったのか、ということも含めてて、ただ神様だけが聖霊を汚す罪なのかどうかは判別される。
ユダに対する厳しいさばきを見るならば、ユダは聖霊を汚す罪をおかしたのではないかという可能性を感じさせるる。
計画的に、イエスを欺き、金で売り渡したというユダ、ペテロのように 思わず言ってしまったというのではない。
さらに、イエスは、最後の夕食のときに、ユダの裏切ることを見抜いて
「ああ、人の子(イエス)を裏切る者! 生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われた。(*)
(マタイ26の24、マルコ14の21)
(*)ああ、と訳した原語は、ウーアイ で、間投詞で、英語ではalas! とか woe! と訳されることでもうかがえるように、この原語は、ああ、とか悲しいことだ といった悲哀の心をあらわす。日本語では 「不幸だ」と訳されたりするが、ニュアンスは異なる。
生まれないほうがよかったー悪事を重ね、そのために他の人を殺害、あるいは相手やその家族などを生涯の苦しみや悲しみに陥れて悔い改めもなく死んでいくなら、たしかに生まれてこなかったほうがよかったということが言えるだろう。
イエスが十字架で処刑されたとき、一人の人は、心から悔い改めてイエスの復活も信じて御国に行かれるときには、私のことを思いだしてください と願った人がいてその人はイエスにあなたは今日、パラダイスにいる と救いを約束された人がいた。
しかし、もう一人の重罪人は、最後までイエスをのろい、救い主なら自分を救ってみよと言い続けて死んでいった。このような人は、たしかに生まれないほうがよかったということになる。
人間は、このように生まれたときは同じように天使のようなものであっても、それ以後のさまざまの状況により、また根本的にその人が救いの道と滅びの道のいずれを選びとるのかということで このようにその最後には、天地のような開きが生じる。
ユダも十二弟子として招かれ、選ばれていた。しかしみずからサタンの誘惑に負けて、滅びへの道をとってしまったのだった。
ユダの運命は、私たちへの大いなる警告として感じられる。私たちもまた、いつそのような大いなる誘惑に引き込まれるか分からない。
たえず神に立ち返ることなしには、私たちは周囲にたちこめる悪の霊に引き込まれていくであろう。
聖書のこの個所に記されている祭司長や律法学者、長老たちはイエスを殺そうとした、もっとも完全に真理の道、愛と真実な道、さらにはいかに人間的に苦しめられようとも、正義に立ち続けたイエスを迫害して殺そうとしたという人たちの心は、滅びに向っていたーすでに死んでいたといえる。
しかし、このように真理に全く背を向けて踏みつけるということは、祭司長や律法学者だけのことなのかと言うと、霊的な観点から言うならば、次に引用するように、人を憎むことは、その人を殺すことだと言われている。
…あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人を殺す者である。
(Tヨハネ3の15)
現代の普通の生活をしている人にとって、誰かを殺すということは自分とは全く関係のない遠いできごとと感じるが、憎しみということなら、だれでもそのような感情になりうる。憎しみなど持ったことがないという人がいても、もしその人が、誰かから事実でないことを誹謗中傷されたり、悪意によって家族や家、故郷が破壊され、殺傷されたりすれば強い憎しみの感情が生じるであろう。
それゆえに、憎しみによって心の中で「人を殺す」ということは、だれにでも起こりうることである。
また、戦争になったらごく普通の人までみんな殺人をやってしまうという、異常事態になる。そうした極めて重い罪深さが戦争には不可避になっているゆえに、憲法9条ではいかなる戦争をもしないということをはっきりと書いている。
しかし、日本では、貴重な平和憲法があるけれども、だからといって心の中での殺人は止めることができない。平和憲法を守っていたら憎しみという心の中での殺人がなくなるかというと、決してそうではないということはすぐにわかる。
愛がないゆえに、人を憎み、殺すということになる。
だから憲法をいかに守ろうとも、憎しみがないようにはできない。
戦争をするな、とは人を殺すなということと同様で、律法である。律法によっては人間は救われない、いくら人を殺すな、憎しみを持つなと法律(聖書では律法)で決めても、人間の心は決して神の御前に正しいとなることはできない。 これは、後に再度述べるよヴち、新約聖書の福音の出発点となっている。
日本以外には、軍事力を持たないという憲法を持っているのは、ほかには中米のコスタリカなど、小さな国ではあるが、軍隊を持たない国々は存在する。
憲法9条をもっているからといって、日本がそういう憲法を持たない大多数の国々と比べ、あるいは、戦前のような時代の人々と比べて、愛や真実、あるいは清い心にちかづいているかといえば、そうではないことは、例えば、自分や身の回りの出来事、社会で起こっている数々の出来事、家庭内の暴力などが近年もさらに増大しつつあること、子供同士だけでなく、大人の世界でのいじめ、教員が別の教員を学校内で陰湿ないじめをする…等々さまざまの出来事をみてもわかる。
また、体が、健康だからといって心が本当に清くなるとか愛を持つようになるとかは、関係がない。
「健全な肉体には健全な精神が宿る」という言葉がある。以前はよく言われたが最近は、それが間違った意味で言われていたのが判明してあまり言われなくなった。
もともとは、「健康な体に健康な精神が宿るようにと神に祈らねばならない」(*)という意味であって、健康な身体に健康な精神が宿るということは全く言われていない。
(*)You ought to pray for a healthy mind in healthy body.(原文はラテン語、古代ローマ時代の詩人で弁護士であったユウェナリス の風刺詩にある言葉)
大きな犯罪や大量殺人たる戦争などを引き起こす人は、病気で日々苦しんでいたり、入院しているとか体が自由に動かせないような人たちではなく、概して健康な人たちである。
肉体が健康であってもその心や霊的なものまで健康であるという保証はない。
同様に、国の法律がいくらよいものであっても、そこに住む人々が本当に純粋な愛が生まれるかというとそうはならない。
現代日本の政治を動かしている首相をはじめ閣僚や地位の高い官僚たちが、明らかな嘘、ごまかしを平気で言うということが繰り返しみられるということを見ても、社会的なさまざまの出来事、そして、何より身近な自分自身の心の動きを見ても、いくらよい憲法をもっていても人間の心には及ばないーそれすぐにわかる。
パウロもそのことを一番重要なローマ信徒への手紙の出発点においていた。
3章の9節で私たちには次のように言われている。
…わたしたちには優れた点があるのか。全くない。ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、
神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。(ローマの信徒への手紙3の9〜12より)
優れた点があるのか、全くないとまで言ってる。このような言い方は一般では考えられない。
みんな良い点、良い点があると言うのが普通である。
しかし、聖書で記されている神という完全に清い真実な愛の御方を基準とするならば、すべての人は、そのようなあり方から遠く離れていると言われている。
ユダヤ人のように特別に唯一の神の存在を啓示されていた民族、そしてソクラテスやプラトン、アリストテレスなど、ほかの民族から抜きんでて論理的、科学的で現代に至るまで世界にその影響を及ぼしてきたギリシャ人に至るまで、その魂の奥深いところを見るならばすべて真実な道から遠く離れているという驚くべき洞察が言われている。
私は岩波書店から50年ほど前に刊行がはじまったアリストテレス全集を、大学卒業後まもなくの頃に読み始めて、彼の緻密さ、その思索の広大さや深さに初めて触れて驚嘆したのを思いだす。
ギリシャ人そのように古代からすぐれて理性的、論理的で優れているとされていても、そのような哲人を含め、実は正しい道から外れてるというようなとってもこれは驚くべきような表現である。
しかし、この使徒パウロの言葉は、彼が初めて啓示されたのではなく、旧約聖書(詩篇53篇)において、すでに神から啓示を受けて書かれてある。
ローマの信徒への手紙は、新約聖書のなかでも、福音書に次いで最も重要な啓示が含まれているが、その3章の中で、人間はみな深い罪のもとにあるーこれが出発点、前提となっている。
生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた人たち、どれほどそのような人たちに対して私たちは愛を持っているだろうか。 いくら隣人を愛せよ、平和を守れ、殺してはいけないと、いくら言われてもできない。
そのような教えや命令、法律などによっても、私たちは自分が正しい道からはずれているー言い換えると、罪の自覚しか生まれない。
このことは、新約聖書の別の書においても、驚くような記述で記されている。
…あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた。
…以前は欲望の赴くままに生活し、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者だった。
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、
その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、
――あなたがたの救われたのは恵みによる。(エフェソ書2の1〜5より)
人間はだれでも罪を犯していない者はない、それは死んだ状態である。そのような状態から救いだしてくださったのは、キリストの愛、神の愛のゆえである。
このように見てくれば、ユダに関してだけ、彼は滅んだのかどうかなどの議論することに大した意味はない。
人間はみな、神の憐れみがなかったなら、滅んでいる状態なのだから。
ユダもかつては十二弟子として呼び出され、選ばれていた。ユダだけでなく、人間はみな神から愛され、招かれ、呼ばれている存在なのである。
しかし、その人生の道の歩みのなかで、いくたびか特に明確に神が近づき、語りかけるときがある。
「神は(命の光を見せるということを)、ふたたび、みたび人に行い、
その魂を墓から引き返し、彼に命の光を見させされる。 (ヨブ記33の28〜30より)
にもかかわらず、そのような神からの語りかけを拒み、かえって悪の力の支配に身をまかせていくとき、私たちは、もしすでにキリストを信じていた者であっても、ユダのように闇の中に落ちていくということが暗示されている。
そのようなことは、真に恐るべきことであって、自分や周囲の人たちにも闇の世界を広げ、運命を狂わせ、悲しみや苦しみへとまきこんでいくからである。
主イエスが、みずからが捕らえられ、殺される前夜に、「目を覚ましていなさい、誘惑に陥らないために…」(マルコ 14の38など)と繰り返し弟子たちに命じたこと、そしてご自身も必死で祈り続けたことーそれは現代の私たちにもそのままあてはまることである。
ユダのような深い闇に落ちていくか、それとも光と永遠の祝福の中に導かれていくのか、その分かれ目は、本当に単純なことー私たちの罪を知り、日々神に立ち返ること、イエスの言われたように、まず神の国と神の義を求めていくこと、それらを含むキリストの十字架の赦しに立ち返ることにある。
日本のキリスト者は、一%程度というのが長く続いてきた目安であるから、百三十万人ほどだということになる。日本でいると、これは何も不思議なことはなく、学校や社会でもまた政治の世界においても、キリスト教人口が一%程度であることが、なにも問題ではない、ごく当たり前のように思われている。
しかし、一度、世界に目を向けるとどうであろうか。
日本の隣国である、韓国では人口の三十%ほどがキリスト教であり、外国への伝道活動も活発に行われている。
インドネシアは、世界一のイスラム教信徒を有する国であるが、それでもキリスト教人口は、十三%もある。
やはりイスラム教国として、その国のキリスト教などほとんど話題にもならないパキスタンにおいても、キリスト教人口は、280万人であり、二・五%ということだから、日本の二倍以上もあることになる。
また、インドについては、ヒンズー教やイスラム教ばかりで、キリスト者などいるのだろうかと思う人もいるかも知れない。しかし、インドのキリスト者の数は、人口の二・三%ほどになり、その数は約千九百万人ということになる。日本が百三十万人ほどしかいないことを考えると、キリスト者の数は日本の十倍をはるかに越える数である。
エジプトについても、日本人はキリスト教などごく少ないと考えがちであるが、実はエジプトには古い時代からキリスト教が伝わっている。それは新約聖書に
はやくも記されている。(使徒言行録八章)
エジプトでは、イスラム教国ではあってもキリスト者は人口の十%に達する。
また、ほかのアフリカ諸国ではキリスト教人口は、日本人がなんとなく思っているよりはるかに多い。
例えば、ナイジェリア 67%、ウガンダ80%、タンザニア47%、南アフリカ52%などである。人口の70%、(*)。
このように、アフリカはキリスト教の信仰を持つ人が、多くいることにたいていの日本人は驚くであろう。アフリカに関しては、クーデターなど政変とかエイズ患者の多さ、あるいは一部の国々の大統領の起こした事件や問題点など、サッカーの大会とかに関しては報道されても、アフリカのキリスト教といったことについては、まったくといってよいほど報道されていない。
(*)これらのデータは、インターネット辞書ウィキペディアなどによる。最後にあげたアフリカのデータは「世界60カ国価値観データブック」による。これは世界の数十か国の大学、研究機関のグループが参加して国民の意識を調査して90年から5年おきに行われている。各国18歳以上千人ほどのサンプルをもとにした数字。
こうしたアフリカにおけるキリスト教の広がりは、今から30年近く前からすでに予見されていた。
1982年に オックスフォード大学出版部から発行された、世界キリスト教百科事典(*)がある。 この事典の日本語版序文には、こうした内容を全体として把握したうえで、今後のキリスト教世界の展望として次のように記されている。
… 今世紀のはじめには、キリスト教徒の85%は、ヨーロッパにいたが、一九八〇年には、38・2%となった。その変わりに増加したのが、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど発展途上国)である。
この第三世界の国々のキリスト教徒の人口は、今世紀はじめは、全世界のキリスト教徒の15・6%にすぎなかったが、1980年には、44・3%と大きく増加している。
アフリカ人のキリスト教徒は、1980年には、14・2%となり、2000年には19・5%になることが予測されている。
またラテンアメリカでは、1900年には、11・1%であったキリスト教徒が、1980年には24・3%となり、2000年には、28・3%になると予想されている。
(*)これは、全世界223か国のキリスト教の実態・歴史を精密に記述した他に類のない百科事典とされていて、そこには各国のキリスト教の最初の歴史から現状を詳しく記述し、キリスト教とそれ以外のその国の宗教について1900年、1970年、1975年、1980年にわたって、その数の変遷など数量的にも克明に記されている。さらにキリスト教については、その国の教派を網羅して、その創設年とともに教会の数、成人信徒、教会員の数などに分けて詳しく記述されている。原題は、World Christian Encyclopedia Oxford University Press 1982 日本語版は、教文館発行で大型本で小さな活字で千頁を越える大冊である。
このように見てくればわかるが、世界的に見て、日本のキリスト者の人口が一%程度というのがいかに低いかがよくわかる。
さらに、唯一の神を信じる、ということになれば、それはさらに日本の特殊性が際立ってくる。
イスラム教も旧約聖書から分かれた宗教とも言えるから(旧約聖書をも教典に含めている)当然、唯一の神を信じる。だから、イスラム国である、インドネシアやパキスタン、イラン、エジプト等々も圧倒的多数が、唯一の神を信じることになる。
インドネシアでは、イスラム教とキリスト教をあわせると九十%であり、唯一の神を信じる人が九割ということになる。
また、エジプトでは九十%がイスラム教、残り十%がキリスト教であるから、国民のほぼ全部が唯一の神を信じていることになる。
現代において最大のキリスト教国、キリスト者の多い国はどこであろうか。それはアメリカである。人口三億人以上あるが、キリスト者は、その八割程度というから、約二億四千万人となる。
それに次いでキリスト教人口が多いのは、どこであろうか。たいていの人の予想では、キリスト教というとヨーロッパ、というイメージがあるから、ドイツやイギリスなどを思いだすかも知れない。
しかし、アメリカに次いで多いキリスト教大国は、ヨーロッパでもロシアなど旧ソ連圏の国々でもない。
それは、中国である。中国では、キリスト教人口は、次のように、一億人を越えていると報道されている。数十年前までは、中国が世界第二のキリスト教の大国になるとは、だれも想像できなかったであろう。
中国のキリスト教事情については、ほとんど日本のマスコミでも報道されない。中国のことどころか、日本におけるキリスト教の実態も大多数の人はほとんど知らない。日本人はキリスト教そのもの、聖書の真理、さらにキリスト者の活動に関することは、ごくわずかしか知らないほどであるから、中国のキリスト教のことについて知らないのも無理はない。
後に引用する、現代中国のキリスト教資料集のまえがきで、中国キリスト教現代資料編纂研究会の責任者である、竹内謙太郎氏も次のように書いている。
「…否定的であれ、肯定的であれ、特に中国の歴史状況への無理解と誤解は絶望的といってよいほどです。
私たちの教会においても、中国にキリスト教会が存在することを知らない人々が多いのに驚かされます。ましてや、諸教会の中国での活動の状況を熟知することはほとんどありません。」
このような、マスコミや知識人たちの知識、関心の空白地帯といえる現代中国のキリスト教について近年では初めて短いながらも報道したのは、朝日新聞であった。
…政府非公認の地下教会。病人を見舞って祈り、貧しい人には集めたお金を渡す。活動に魅力を感じた信者が80年代末から激増、地区住民約三千の三割に達した。
責任者は「共産党は口先だけで何もしない。不公正な社会に希望は見いだせない」。49年の建国時に400万人だったキリスト教徒は今、政府公認団体では、2100万人、地下教会を含めれば1億人以上とみられ、7500万人の共産党員をしのぐ。中国は屈指のキリスト教国である。(「朝日新聞」二〇〇九年九月三十日)
朝日新聞では、このように紹介して、中国におけるキリスト者の増大は、キリスト者の弱者に寄り添おうとする姿勢によるという書き方であるが、そうした社会的活動に惹かれるだけでは決してキリスト者とはならない。
十字架の福音や復活の真理が渇いた魂に水がしみこむように入っていくからこそキリスト信徒となっていく。
共産党支配のもと、人々は神などいない、宗教は阿片だといった考え方を子供のときから徹底して教え込まれて、魂の平安を与えられなかった。そこに、目には見えない愛の神が存在し、私たちの心の深いところの汚れたもの、罪を清め赦して下さるといったことは、聞いたことのない斬新な真理として感じ取られたのがうかがえる。
まさに干天の慈雨として受け取られていったのであろう。
また、中国のキリスト教については、次のように記されている。
「中国には古くからキリスト教が伝来しているが、長い間イデオロギーの締め付けを主な目的とした宗教活動の制限や監視がされている状態が継続していた。しかし、改革開放政策の進展による経済格差や情報通信の発達などにより共産主義イデオロギーの絶対性が崩壊し、それに代わる精神のバックボーンとしてのキリスト教への帰依が都市部を中心に急速に進展しはじめた。
そして、国策に擦り寄る姿勢の仏教(政府から弾圧を受けているチベット仏教を除く)の不人気とは対照的に爆発的な浸透を農村部の深部や辺境地まで広げつつ教勢を増している最中であると伝えられている。…
在米の中国人人権活動家や在日本の中国人ジャーナリストなどの知識人が把握している直近の状況では当局の監督下にある国家公認教会と非公認教会の合計が人口の10%を超える段階に達しており一億三千万人を超えているという情報が有力である。」(「ウィキペディア」による)
ヨーロッパの代表的な国である、イギリス、フランス、ドイツなどは人口は六千万〜八千万人余であり、キリスト教は七十%前後であるから、それらの国のキリスト教人口は、大体四五〇〇万〜五六〇〇万人ということになる。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど旧ソ連圏の国々のキリスト者人口をあわせると、約九千万人だという。(キリスト教ハンドブック
三省堂)
このように、中国のキリスト教人口が一億数千万人というのは、確かに、世界第二のキリスト教大国だということになる。
中国のキリスト教徒の数は、最初に中国にキリスト教が伝来した一八〇七年から、一九四九年の中華人民共和国の成立までの一五〇年ほどかかって、信徒の数は四〇〇万人となった。
しかし、それから六〇年たった現在、信徒の数は、一億三〇〇〇万を越えているという。六〇年間で三十数倍にも信徒が増大したということになる。
しかも、中華人民共和国成立後は、徹底した無神論思想こそが真理だとされたから、毛沢東の死の一九七六年のころまでは、キリスト教の信仰の広がりは相当困難があったと考えられる。
それゆえに、実質的にキリスト教が急激に広がり始めたのは、それ以降、一九八〇年頃からと考えられるから、なおさら、この現代中国のキリスト教の広がりの速さは驚異的だということになる。このような急激な増大は、長いキリスト教の歴史においてもほかではみられなかったほどであろう。
富坂キリスト教センター編によって出版された、現代中国のキリスト教資料集からもこうしたいちじるしい増大に触れられている。
…一九八〇年代以降、中国のキリスト教では、毎年六〇〇箇所前後の教会堂が再建、新築されており、今まで(一九九八年まで)の累計ですでに一万二千箇所を越えている。
これに加えて全国各地、主に農村地区に分布する二万五千の集会所がある。
中国キリスト教会は、一九八〇年から一九八七年までの七年間で、三〇〇万冊の聖書を発行しているが、さらに八〇年〜八八年までの累計では、二〇〇〇万冊に達して、中国キリスト教会は、今や、世界で聖書の年間印刷数が最も多い教会となった。
(富坂キリスト教センター編「原典 現代中国キリスト教資料集」新教出版社
二〇〇八年刊 六九六頁)
こうした中国のキリスト教の状況に実際に触れた人からの報告に触れてみたい。
これは、「いのちの水」誌 一九九九年十二月号に掲載した、中国のキリスト教事情についての小文であるが、ここにその一部を再度掲載しておきたい。
これは、その頃、河野正道氏(関西学院大学経済学部教授)から、筆者(吉村孝雄)に宛てた個人的な手紙に書かれていたことであるが、中国のキリスト教の実態については、現在でもきわめて情報が乏しいからである。
河野さんは、中国の大学への出張講義で出向いたおりに、中国の教会に実際に参加し、そこで見聞きしたこと、牧師から話しを聞いたりしたことを書き送って下さった。
…私がまず訪問したのは、遼寧省瀋陽市の朝鮮族の教会、西塔教会でした。そこの牧師さんは、以前、関西学院に講演のために来訪されたことがあったからです。その教会は説教も聖書も賛美歌もすべて朝鮮語であり、私には説教は「ハノニム(神様)」という言葉以外は全く分かりませんでした。しかし、賛美は力強く活き活きとしていました。
その教会の現在の会員数は千五百人であり、十五年前には五百人でした。かなりのスピードで成長しています。また、瀋陽市内の漢民族中心の教会の出席者数を合計すると十万人になるとのこと。瀋陽の人口は二百万ですから、人口の十%、これはかなりの数と言えるでしょう。なお、この教会の牧師さんは数名おられるようですが、私がお話をさせて頂いたのは女性の牧師さんで大変に流ちょうで正確な英語を話す方でした。
今年の春、関西学院を訪問された中国キリスト教協議会の韓文藻会長はその講演の中で、「中国にはたくさんの聖書があるから密輸しないように」、と言われました。確かに、中国で聖書はふんだんに売られており、その価格は、中国語の聖書が十二元(百八十円)、朝鮮語の聖書が二十元(三百円)でした。なお、聖書は、一般の書店には並べられておらず、教会の売店で売られています。しかしそれは、教会員だけに販売するのではなく、一般の外部の人にも販売しています。そのとき氏名や住所を尋ねるということはありません。だから誰でも気軽に買うことができるとのこと。
この十二元、二十元というのがどれほどの金額であるかというと、市内のバス代が二元、タクシーの初乗り料金が五元、ホテルのご飯一杯が○.五元です。一方、所得の方は、大学教授の給料を例にとれば、これは地域によって数倍の開きがあるのですが、私が訪問した吉林大学では、教授の給料は月に二千元+ボーナス(専門分野によって異なりボーナスがない分野もある)とのことですから、聖書はかなり安い値段で売られていると言えるでしょう。
次に訪問したのが、吉林省長春市の長春市キリスト教会です。ここは漢民族の教会であり、長春市では一番大きな教会です。なお、同じ名称で朝鮮族の教会も別にありました。この漢民族の長春市キリスト教会も急速に会員数が増えています。文化大革命前は百〜二百人でしたが、(文革中はゼロ、教会堂は印刷工場として接収されていた)文革後の新宗教政策の下で千人に増えて、現在では一万二千人となっております。最近の特徴としては、若い人が増えたこと、高学歴の人が増えたことです。九七年には四千人が同時に礼拝できる巨大な会堂を建設しました。
日曜日の礼拝は四千人ずつの三部礼拝です。訪問した翌週の日曜日まで長春に留まり、礼拝に出席した私の同僚から聞いた話によりますと、その日は聖餐式を行い、会堂に入りきれない人が外の階段まで溢れ、聖餐のパンを配り、盃を回収するまで一時間かかったとのこと。その間、四千人の賛美が続いていたそうです。その教会には牧師さんが五人おりました。…」
このように、文中で引用されている長春市の教会は、この五十年ほどで百倍ほどにもキリスト者が増えたということになること、四千人も同時に礼拝できる巨大な教会が建設され、四千人ずつ三回も礼拝しているなど、日本では考えられないキリスト教の広がりの力がそこに現れている。
また、ふとしたことから中国人キリスト者と親しい関係を持つようになったある女性が、インターネットに次のような記事を載せている。前述の河野さんが書いているのは実際に中国に行っての体験であるが、これは、日本にいる中国人のキリスト者との関わりから知り得たこととして書かれている。(これは、日本キリスト教団佐世保教会で、二〇〇八年の六月に話された内容である。)
…結局私は、もといた教会から彼らの教会に移り、たくさんの中国人キリスト者の友人を与えられることになりました。そしてそれと同時に、聖書に触れる機会も増え、迷いに迷っていた私の心にも、ある種の確信が与えられるようになりました。…
またあの当時、イエス・キリストや聖書について熱く語り、行動していた彼らの信仰は、今でも忘れられない、強い印象を私に残しています。祖国に帰れば教会で礼拝するどころか、迫害される危険性を孕んでいるにもかかわらず、いや、だからこそ、彼らの信仰は熱く、強いものとなっているように感じました。
彼らの情熱は、日本で生まれ育ち、自由な生活を満喫している私には、到底及びもつかないほどの力をもって、私に迫ってきました。幼い頃からマルクス主義や唯物論を学んでいる彼らが、その理論に失望し、なおも熱心に(キリスト教の)真理を追い求める姿には、強く心を揺さぶられました。
その教会は中国大陸にも分教会がありましたが、中国当局に認可されていない、地下教会というものでした。陳さんたちを通じて、私も地下教会に所属するキリスト者とも交流しましたが、彼らは逮捕や拘留されたこともあった、と話してくれました。その人の話では、地下教会の宗教活動は公にはできないので、個々の家庭に集まって礼拝を守っており、伝道もなかなかできないということでした。彼らとのインターネット上のメールのやりとりでも、一時は中国当局による検閲のため、用いる単語にも配慮するなど、気を遣うこともありました
…中国当局の宗教に対する姿勢についてご説明したいと思います。
1954年に公布された中華人民共和国憲法では、信教の自由を規定してはいました。しかしその後の文化大革命によって、大迫害を受けたのは先に述べた通りです。その後、1982年に憲法が改正された際に、改めて信教の自由について認められるようになりました。
しかし、これには中国共産党による「認可」が必要となります。まず現在、中国で公認されている宗教は道教、仏教、イスラム教、キリスト教・プロテスタント、キリスト教・カトリックの五つの宗教です。公認宗教は公開の礼拝所での礼拝を許されており、共産党の愛国主義的な指導を受け、国家宗教事務局という機構により管理されています。
そして、実際に教会堂の建設を行ったり、宗教活動を行ったりすることが可能なのは、政府に登録して認可を受けた教会のみで、それぞれの宗教の活動は、この国家宗教事務局が認定した場所と時間に、認定された聖職者によって執り行われなければならないそうです。
公認教会で作成された信徒名簿は政府に提出され、すべての信徒が把握されているとのことでした。また、未成年者への宗教教育は禁止されており、幼児洗礼も禁止であるそうです。中国の国民は幼稚園から大学まで、みっちりマルクス主義の唯物論を学ぶのだそうです。
法律上での信教の自由とは、先に述べた公認宗教及び教会のみについての自由であり、それ以外の非公認宗教及び教会は「邪教」とされ、弾圧が正当化されています。この弾圧の対象となるものの中には、中国と国交を断絶している、バチカンに追従するカトリック組織も含まれています。弾圧というのは、公安当局に逮捕や拘留されたりするほか、「法輪功」のような政府に批判的な団体などには、投獄、拷問、処刑も行われたりしているようです。
しかし、先ほど述べたように、現在ではこの状況も地域によっては若干変わってきているそうです。
四年ほど前から、上海に住んでいる陳さんからの話です。上海の地下鉄の車中、大勢の他人の目がある中で、キリスト者たちが聖書を開いて話し合ったり、賛美歌を練習したりしている様子を見たことがある。
日本人向けのフリーペーパーで、日本語での家庭礼拝のメンバーを堂々と募集する広告がある。また彼女は、今通っている国家公認のプロテスタント教会の説教で、浙江省温州という人口約800万人の都市に、イエスを信じる人が80万人もいるという話も聞いたことがあるそうです。
それ以外にも、今まで書店では販売を許されず、教会内でしか手に入らなかった聖書も、上海ではキリスト教専門書店がオープンして、そこでも販売されているようでした。…
(中国語翻訳者 福田彩子さんのブログから、本人の許可を得て引用。)
河野さんの報告や直接に話しを聞いたときにも、中国のキリスト者たちの熱心が伝わってきた。そして日本における中国人キリスト者たちの真理を愛し求めていく熱心とその力は、このブログの著者の心にも強い影響を与えたという。
日本のような異国にあって、しかも周囲は豊かな生活をしている人たちが多いなかであっても、そこに押し流されず、かつ、祖国に帰ってもその信仰は苦難を伴う可能性が高い状況にあったからこそ、かれらの内に信仰の熱心、主に従って生きようとする心が強められていると考えられる。
キリスト教の真理は、ゆたかな恵まれた生活、危険のない生活においては十分に染み渡っていかない。初代のキリスト者たちのあの燃えるような熱情は、たえざる危険と困難がすぐ身近にあったことと結びついていた。今日のヨーロッパが制度的に恵まれ、生活の安全が保証されている社会になっている国々が多く、そうした安全かつ豊かな生活においては、燃えるような信仰の熱は減少していく。そして次第に物質的な満足への熱心へと傾いていく。
こうした世界の状況に接してあらためて知らされるのは、神の力である。すでに二千年前に主イエスが言われたように、「神の力は弱いところに現れる。」(Uコリント十二の九)
物質的な豊かさ、安全の保証、法律や制度の充実というものが整えられてくるとき、人間は切実な叫びを神に向かって捧げることが少なくなっていく。政治や施設に要求し、それらの目に見えるものを何でも手に入れる力を持つ金に頼ろうとする傾向が強まる。それとと共に、神に頼ることが少なくなっていく。
ダビデは今から三千年ほども昔の王であった。彼は子供のときから勇猛果敢、竪琴を弾く、詩作にも特別に恵まれている、武将として人々を率いて戦うすぐれた能力もあった。その才能ゆえに王に用いられるが、次第に王のねたみを受けて命までねらわれることになる。しかし、ダビデはそのような理不尽な王の追跡や迫害にもかかわらず一切武力をもって反撃しようとしなかった。そしてただ逃げるだけであった。そのような苦難は、詩篇の一部からも窺い知ることができる。
そのように弱さがあるときに、神の力が注がれ、その神への切実な叫び、祈りは詩篇の中にもくみ取ることができる。
しかし、彼を迫害して殺そうとした王が戦死し、ダビデが王となって国々を支配して豊かさと安定がもたらされたとき、ダビデに決定的な出来事が生じた。それは重い罪であり、死罪となるほどのものであったが、彼はその重さに気付かず、一年ほども経ってから預言者に指摘されて初めて気付くという状態であった。
みずからがどれほど神から離れてしまっているか、言いかえればいかに罪深いか、を知ることがなければ、その罪の赦しを乞うこともないゆえに、そこから神の祝福や力も与えられることも期待できない。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国において、キリスト者が増大してきたこと、それは、キリスト教信仰の力は、さまざまな意味の弱さのあるところに現れるということをこの世界の広範な領域でも示していることである。
旧約聖書においても、その信仰の力は、詩篇によくみられる。「主よ、憐れんで下さい!、助けて下さい!」と全身の力を込めて叫ばざるをえないような心、そこには自分の力に誇るところがまったくない。まさに主イエスが言われた「ああ、幸いだ、心の貧しい者たちは!」ということにあてはまる。
新約聖書においても、主イエスのところに、全身を投げ出し、心からの信頼をもって来たのは、精神的に「持たない人たち」すなわち、放蕩息子のように自分の罪を深くしらされ、立ち返ろうとした人たちであったし、また、健康や幸せな家庭、経済的安定等々を持たない、ハンセン病、全盲、ろうあ者、病人あるいは、そうした苦しむ人を身近に持っている人たちであった。
こうしてみるとき、神の力は、たった一人の病める心の人、孤独に苦しむ人という弱い人のところに与えられるし、世界的に貧しく、弱い人たちの国々にも現れるということが分る。
現代の混沌とした世界にあって、世界の無数の人々はこうした弱さに苦しんでいる。豊かな国々においては精神的な闇が立ち込めている。
この私たちの心に、また家庭や職場の至るところにある弱さのただなかに、そして世界のさまざまの地域の貧しく苦しむところに、神の力が来て欲しいと願うものである。そしてそのためにこそ、一人一人にさらなる神の力が注がれ、その力をもって、周囲の人たちに神とキリストを紹介していきたいと思う。
(ここに掲載した内容は、10年ほど前に書いたものですが、コロナウィルスの関係その他で、中国のことが毎日のように報道されていますが、中国のキリスト者のことは全くといってよいほど報道されることはありません。
それで、少しでも中国などのキリスト教の状況を知る参考にと再度ここに掲載します。多くの隠れたキリスト者が励まされるよう、その信仰が政府の圧迫にもかかわらず、伝えられ、苦しむ人々が魂の救いを得て、前途への希望、闇のなかの光を得ることができるようにと願っていきたいと思うからです。)
夕方と明け方の星
ー金星と木星、火星、土星
以前から、夕方には、強い光の宵の明星(金星)が、私たちを見つめるように輝いています。
それとともに、明け方には、南東の空に、やはり強い光で輝く木星が見えています。
明けの明星のようにすばらしい輝きです。(午前三時過ぎから見えていますので、早朝五時ころの夜明けまでに戸外にでて見ることをお勧めします)
そしてそのすぐそば(左側)には、火星と土星が並んで見えています。4月になると、火星は、土星の左側に見えるようになります。
星を見つめることによって、星もまた私たちを見つめて、語りかけてきます。。
〇新型コロナウイルスのために、日曜日の主日礼拝、家庭集会なども休会とし、スカイプを用いての礼拝としています。
スカイプで参加できない方々には、その日の聖書講話を録音したCDをお送りしています。
なお、パソコンやスマホでインターネットをしているが、今までスカイプを使ってなかった人もこの際に、スカイプを使えるようにしたらよいのではないかと思います。
仕方が分からない場合は、パソコンショップとかスマホを購入したお店に行って設定してもらうことができます。(費用はかかりますので、事前にその設定をしてもらえるかどうか、費用はいくらかを尋ねておいたらよいかと思います。)
〇新型コロナウイルスの広がりによって、5月9、10日に予定の春期四国聖書集会の開催をどうするか三月末までにきめたいと思っています。
〇訂正
先月号での春期四国聖書集会の申込書にあった郵便振替番号は左記の奥付が正しいものです。
郵便振替口座 〇一六三〇ー五ー五五九〇四