いのちの水 2020年 4月号 710号
悲しみにあっても、常に喜び、貧しいようであっても、 多くの人を富ませ、何も持たないようであっても、 すべてのものを持っている。 (Uコリント6の10)
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目次
・ いかに力強く |
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・集会案内 |
主よ、我らの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることか! (詩編8の1、10)
How majestic is your name in all the earth!
御名とは、本質そのものであり、愛や真実、永遠、曇りなき正義、そして全能…等々の神の本質がいかに力強く(*)、全地に満ちていることか! と言われている。
(*)力強く と訳された原語は、アッディールで、これは、各種の翻訳では、thaumastos(驚くべき、ギリシャ語訳) wonderful (驚くべき)、 excellent(卓越した、優れた) glorious (壮麗な、見事な)等々、いろいろな言葉に訳されている。
今から数千年の昔、政治や社会的な状況が大きく異なる時代、そして科学技術の産物などほとんどのものがなかったときに、このように、神の本質は力強く、驚くべきかたちで全地に満ちているとはっきり実感できた人がいた。
そして、その聖書の詩編が作られた時代は、キリストより千年も昔のダビデの時代のもの、さらにモーセの祈りと記されている詩もあることから、もっと古い時代のものも収録されていることがうかがえる。
そうした長い歴史において、アッシリア、エジプト、新バビロニア帝国、ペルシア、アレキサンダーの帝国等々、多様な大国による侵略があり、決して安全な平和な時代でなく、絶えず戦乱もあり、病気やけがによるたくさんの死者も生じ、また飢饉、雨が降らないことなどによって生死をさまようこともあったであろう。
それは詩編や、ヨブ記、エレミヤ書、哀歌などにも含まれている多くの詩が、病気や敵による苦しみの叫び、悲しみ、あるいは襲いかかる大国との戦いによる荒廃の悲劇等々が生々しく記されていることからもうかがえる。
しかし、そうしたありとあらゆる苦難の歩みのただなかにあって、この詩の作者は、このように神の活けるはたらきがいかに驚くべきか、壮大であるか、力強いものであるかをはっきりと実感していたのである。
それは、人間的な思想、考察からでは生まれない。神からの直接の啓示によって全地にはたらいている神のわざを知らされていたのである。
現実の悲劇のただなかにあって、人間が、なおこうした神の大いなるわざを深く知ることができるーそれこそ神の業である。
私たちの周囲の大自然、空も雲も、星の光も、大海原の広がり、植物たちの新たな芽生え、さまざまのうるわしい花たち…それらすべては、人間の作ったものとは比較にならない壮大さ、繊細さ、そして純粋な美をたたえている。
そうしたものに心して目を向けるときには、神の本質がいかに壮大であり、永遠であるかを知らされる。
さらに、私たち人間の根本問題である心の弱さ、自分中心といった罪深さを赦し、平安とあらたな命を求めるならだれにでも与えられるというところに、神の愛の驚くべき本質を実感できるようにして下さっている。
神の御名ーその本質は、私たちの外の世界のどこまでも広く、また私たちの内なる世界の奥深くにまで働いておられる。
現代の混乱や苦しみのなかにおいても、求めよ、そうすれば与えられる、という約束のゆえに、闇に輝く星の光のごとく、そうであればこそ、いっそうその闇にうち勝つ神の御名の光と力が与えられる道が開かれている。
主イエスの言葉は、困難にある私たちを常に励ますものとなっている。
…あなた方は世では苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
私はすでに世に勝利している。(ヨハネ福音書1616の33)
人間は過去数十万年の歴史のなかで、大都会なるものが生じてきたのはごく最近のことである。
新型コロナウイルスの世界的拡大であらためて思い知らされたのは、大都会の脆弱性と危険性である。
大都会は、鉄道、道路、高層ビル、地下鉄、電車…そしてそれらの内部にはりめぐらされたさまざまの電気、ガス、水道などの設備…それらはみな科学技術によって形成されてきた。
私たちの生活ー衣食住のあらゆる分野において、科学技術の産物が用いられ、それなくば、生活ができない状況となっている。
また、結核、ハンセン病、ペスト、天然痘等々の病気においては、医学、薬学という科学技術によって相当克服されてきた。 私自身、危ないところで、科学技術たる医学薬学によって救われてきた経験がある。
他方、大地震のときも、大都会はビルの崩壊や、交通途絶、電気や水道の破壊による生活の危機、交通の非常な混雑など、さらに数百万の人々が被災したときにどのような事態が生じるか、それは田舎で民家が点在する状況とは根本的に異なっている。
そのような田舎であれば、ビルの崩壊もなく、交通途絶もなく、火災の広がりもない。
ウイルスが流行するといっても、民家が点在している程度の状況にあっては、周囲に広がる間に人々の間に、免疫がはたらいていくから、わずか昨年12月に中国武漢で発生以来、わずか4カ月ほどで、全世界の百数十万人に感染拡大し、死者は7万人以上に広がっていくということは生じない。
一般の病気だけでなく、人間の心の世界、精神に対しても、多様な有害な娯楽や遊び、誘惑の満ちた都会に住んいるときには、目に見えない悪の力の感染の危険性が大きくなる。
大自然は神が創造し、都会は闇の力(悪魔、サタン)が作ったという言葉があるが、人類の歴史において異常なほどに急激な都市化によって、いかに科学技術が発達しても、目に見える世界においても、見えない心にかかわる世界においても、全体として危険がいっそう増していくという状況になっている。
科学技術の進展が、有害な排気ガスやほこりを多く生み出し、健康を損ない、星空も見えなくなり、緑の山野、植物たちに接して心を休ませ、清められるという体験を失わせつつある。
民家の周囲に広がっていた山野とくに畑や野原は広大な工業地とビルの林立と化していったところも多い。
さらに、科学は、核兵器や原発、宇宙兵器なども生み出し、悪用されたり、大事故によっては広大な人々を危機に陥れる状況になっている。
自然は破壊され、危険な兵器や人工知能による産物は増大していきつつある。そして、人間精神の荒廃は、そうした状況と関連していく。
しかし、聖書の世界、神の言葉は、すでに数千年も昔から、そのような荒廃の極みの中、暗黒においてもなお、救いの道があることが示され、神の言葉として告げられている。
それはいずれも聖書巻頭の書の最初の部分にある。
闇と空しさ、混沌のただなかにあってもなお、全能なる神の言葉によって、永遠のひかりは生み出され、また水なき潤いのない荒野のただなかに、湧き出る泉が生じることが記されている。 (創世記1章、2章)
その神の光を受けることによって、閉じられていく自然のうるわしい世界、その力や美、清らかさといったものに、霊的に触れる道が開かれていく。
神との交わりが深くなるほどに、自然をも創造した神の本質に触れ、自然の世界に見られる力や美、清さの根源に触れることになる。
耳の聞こえない人であっても、その神の本質に触れることによって、神の国からのよき響きに接する道が開かれる。ベートーベンがもっとも深い内容の音楽を作るようになったのは彼が聴覚を失って以降であったということもそのことを示すものである。
神から聞き取り、それを楽譜に表すのであるゆえに、肉体の耳のはたらきが失われてもなお、深い音楽を創作することが可能となった。
ヘレン・ケラーは聴覚、視覚の双方が失われていたが、神を信じ、神の愛を受けることができたゆえに、霊的に美や音楽のよき味わいをうけていたのがその著書からうかがわれる。
ベートーベンに関して、著名なバイオリン奏者 キュッヒル(*)が次のように語っている。
…ベートーベンはなぜ、時代を超越した不滅の音楽を造り出すことができたのか。その理由は言葉で説明することはできない。
曲の発想は、常識を越えており、「神の意志」がベートーベンに働いたと言えるのではないか。…
ベートーベンは難聴に苦しみ、30代でほとんど聞こえなくなったとされる。
難聴は彼の人生において重大な問題だが、その作品には影響を与えていないと思う。
作曲家にとって最も重要なのは、自分の心の中にある「耳」だからだ。
演奏家も同じで、心で音楽を感じて奏でなければならない。
ベートーベンは、弦楽四重奏曲を耳が聞こえない状態で書いたが、それは私にとっては何の不思議もないことだ。
私はベートーベンの曲に飽きたことは一度もない。弾けば弾くほどその曲が好きになり、また弾きたいと思ってしまう。ベートーベンの音楽は、未来永劫、人々に愛されていくにちがいない。(毎日新聞2020年3月20日)
(*)オーストリアのバイオリン奏者。ライナー・キュッヒル20歳のときから、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを45年つとめた。なお、コンサートマスターとは、管弦楽団の首席第1バイオリン奏者。楽員全体の指導的立場にあり、時には指揮者の代わりもつとめる。
作曲家にとって最も重要なことは、「心の中の耳」だと言う。
これはキリスト者全体にとっても同様であり、キリスト者とは主からの語りかけを聞く心の耳が新たに与えられた人であるからである。
彼の曲の独創性は、「神の意志」が働いたと言われているが、どの分野でも特別にすぐれた作品や人間の生き方は、神のご意志が働いてそのようになったのである。
書物でも圧倒的に世界で永遠のベストセラーとなっている聖書は、まさに神のご意志が働いて書かれたものであるし、音楽についても、天の高みからの響きを映し、かつ人間の高きにいます神への憧憬や祈りを表すもっとも深い音楽といえるバッハも、天使的な自由さを豊かにたたえているモーツァルトなどもまた、神のご意志がそこに働いて作られたといえる。
人間として生まれ、今も全世界に圧倒的な影響を及ぼし続けているキリストご自身がその完全な模範であった。
…「真実をあなた方に言う。子(イエス)は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。
父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。(ヨハネ5の19)
イエスは、神のご意志が完全な形で働き、その意志に従って歩まれたのだった。
そして、そのキリストを信じる者も、同様にあるべきことが言われた。
…わたしに留まっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたと留まっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの内に留まっていなければ実を結ぶことができない。(ヨハネ15の4)
イエスの内にとどまる、とはイエスのご意志のままに生きるということであり、またその生きる力もそのイエスからいただいて生きるということである。
現在もそして今後も、さまざまの闇が、人間の罪から、そしてそれによる科学技術の悪用、また目にみえないウイルスなどによって生じるであろう。
しかし、そうしたいかなる状況にあっても、神のご意志は止むことなく働いておられ、そのことを信じる人たちに、どのような闇が取り囲もうとも、そこに神の愛と真実なご意志が働いて私たちを守り、導いてくださることを信じることができる。
それゆえに、私たちの祈りも、主イエスが示された「主の祈り」にあるように、「主のご意志が、天に行なわれるように、地でも行なわれますように…」との祈りへと導かれる。
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主の祈りにおける
みこころと意志
「主の祈り」は通常日本では、文語では、
「ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
口語では、
「御名が聖とされますように、
御国がきますように、
御心が天に行なわれるとおり、地でも行なわれますように」
となっていて、いずれも、「みこころ」、「御心」と訳されている。
しかし、原語(ギリシャ語)では、セレーマ(thelema) であり、意志を表す。これは、外国語訳でも、何十種類となくある英、独、仏、スペイン語等々みな例外なく、意志を表す言葉が用いられている。
英(will)独(Wille)仏( volont・)スペイン語( voluntad)中国語(旨意)
意志と心とはかなり異なる。美しい音楽を聞いたり、よい風景に接して、心動かされたというが、意志が動かされたとか言わない。
主が示された祈りは、神の確固たるご意志が成るようにとの祈りである。
イエスが十字架で処刑された時には当時の世の中の代表的な人々、祭司長、律法学者、長老たち、それから民衆みんながイエスを嘲った。
しかも弟子たちもみんな逃げてしまった。そのような徹底した状況の中で隣で十字架にかけられていた重罪人からも「神の子ならば自分を救え、十字架から降りて来い」と嘲られた。
聖書においては、「神の子」という言葉は、単に神が造られた子という意味ではなく、神と同じ本質を持っている、神と同じ本質を受け継いでいるという意味で用いられている。
このことに関して、ヨハネの福音書の記述が参考となる。
ユダヤ人たちは、イエスの良い行いのことで石で打つ殺そうとするんではないのだ、神を冒涜したからだ、お前は人間なのに自分を神としてるからだと言って、イエスを攻撃した。
その時、イエスは言われた
…父から聖なるものとされて遣わされた私が、神の子であると言ったからとて、どうして神を冒涜しているというのか」(ヨハネ10の36)
このような記述からわかるように、自分は神の子だということと自分を神だということが同じだということを示している。
神の子という言葉を、人間だれでも神の子だというような通俗的な意味に受けとるときには、こうした個所の本当の意味がわからない。
マタイの福音書の27章の前のところでも、イエスをののしる者たちは、「神の子なら自分を救ってみよ、十字架から降りて来い」と言われた。
さらに、「お前は神に頼っている。神の御心ならば今すぐ救ってもらえ。私は神の子だと言っていたのだから」そのように神の子ということを繰り返している。
このような個所を見ても、神の子という言葉の意味するところが、人間がみな神の子だといった意味でないのは明らかである。
そしてマタイ福音書の27章 54節においても 百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」と言っている。
ローマ人は、唯一の神を知らなかったので、神話上のものなど、またローマ皇帝そのものを神として礼拝を強要していた。
そのような異邦人が初めてはっきりとイエスを普通の人間でない、神と同じ本質を持った御方であると啓示されたのだった。これは、この後、ローマ帝国全体にたちまち広がっていくことの預言ともなり、さらにローマ帝国を越えて、世界中にイエスこそは、人間の形をして来られたが、実質は神なのだという信仰が広がっていくことの預言ともなっている。
聖書のひと言は、数千年の未来に至る時間をも越えて預言していることがしばしばあるほどに、驚くべき洞察に満ちた書なのである。
イエスが十字架にかけられたとき、昼の12時に全地は暗くなり、それが3時まで続いた。全地が暗くなったーこれはその前の律法学者や祭司長、長老といった地位の高い人たちが、イエスを一番重い死刑に処すべき人間だとと皆が言っていたその状況を象徴的に表している。
イエスの最後の叫びーエリ、エリ、レマ、サバクタニとは 「わが神、わが神、なぜわたしを捨てたのか」という意味。全く神から捨てられたと思うような絶望的な状態、しかし、そのようなただ中で何が起こったのかーそれが重要である。
このイエスの最後の言葉、これはイエスの言葉であるが、この悲痛な叫びが、イエスの時代より、数百年を越えるはるかな昔に まったく同じようになされていたことに驚かされる。
イエスの叫びは、人間が、釘で手足を打ちつけられて死んでいくという想像を絶するような苦しみにあり、神に向ってなぜ私を捨てたのか! と絶望的な叫びを挙げるーそれはその時にほとばしり出た叫びであった。
そのような偶発的と見える叫びが、すでにダビデのものと記されている詩の中に記されている。
ダビデのものとすればイエスより千年も昔である。そうでなくとも、少なくともイエスより五百年以上も昔に記されている詩が、まったく同じ叫びを記しているというのは何を意味するであろうか。
それは単に、イエスが覚えていた詩編の言葉が出てきたなどというものではない。
この世に生きるときにその深いところでこのような恐ろしい現実に直面するという神のメッセージがある。真実な神がおられるということを固く信じていてもなお、自分は、その神に捨てられたのだ、としか思えないような、厳しい現実がこの世に存在することを告げている。
闇に満ちた世界にあって、光と命の神を信じる信仰が与えられたということは、大いなる恵みである。しかし、そのような恵みをもってしてもなお、恐ろしい困難な現実に直面するのがこの世なのだと…。
それは、旧約聖書の時代から神が特別な人において経験させ、詩編のなかに刻印し、それはその後もずっと多くの人々によって魂の深みで体験し、そしてキリストに至った。
この世において、人間が担わねばならないそのような深い闇と苦しみをキリストはその身にすべて担って、無数の人たちが経験してきたことをみずから苦しまれたのだった。
このイエスの最後の叫びー神様、神様、どうして私を捨ててしまわれたのか! という叫びは、キリスト以前から叫ばれ、それがキリストを通して、世界に広がり、体験されることにつながっていった。
しかし、その苦しみや悲しみ、そして痛みは、それで終わったのではなかった。
そのことは、次のような記述によって示されている。
壁が打ち破られたこと
このイエスが息を引き取った時、その絶望的な状況が極まったというその時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けて地震が起こり、岩が裂けて、墓が開いて眠りについていた多くの聖徒たちが生き返ったという。
これは、一見、信じがたいことと思える。
しかし、ここには絶望的な闇や苦悩、痛みは決してそれで終わることがない、その弱さの極みにあって神の力が確たるものとしてはたらくのだということが示されている。
神殿の垂れ幕が裂けた。これは現代の私たちには何の意味もないことに見える。しかし、これは、以後の信仰のあり方に関して極めて重要な真理を示すことになった。
旧約聖書の時代においては、大祭司が年に一度、神殿の垂れ幕を通って、その奥の至聖所に入って人々の罪の赦しを受ける儀式がなされるのであって、大祭司だけが入れるのだった。
しかし、イエスの死によって、罪の赦しを受け、新たな命を受けるという道が初めて万人に開かれたのであり、そのことを指し示す出来事であった。
「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分のからだを通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった。」(ヘブル書10の20)
キリストが救いへの道を開かれたと信じるだけで私たちは救われる。すなわち、永遠の命の道へと導かれ、そのことを他者にも証しして神と人を結ぶはたらきをすることができるということであり、後に「万人祭司」というルターが強調したことの本質がすでにここに示されている。
神殿の至聖所には、神の言葉が刻まれた石版が置かれていた。神の言葉は神のご意志そのものであり、創世記の冒頭やヨハネ福音書、ヘブル書などの最初にも記されているように、宇宙を創造する力を持っている。
そのような神の言葉を受けるには、ただ一人一人が直接に神とキリストを信じて求めていくことによって与えられる。
それまでは、祭司、大祭司といった人間やそれにつながる儀式がなければ 罪の赦しは与えられなかった。
言い換えると、大いなる壁が神と人のあいだにあったのである。
しかし、キリストの死によってその壁が打ち破られたということを示していて、命を与える神の言葉へと万人が導かれることになったことを、この神殿の幕が真っ二つに裂けたということが表している。
私たちの生活、生きていく過程においては、至るところに壁がある。人と人との心が通じない、そこから争い、憎しみや差別、怒り、悲しみ…等々、それらも私ども人間と人間の間に強固な壁があり、深い溝があるからである。それを越えられずにそのような不一致や争いが生じていく。
澄んだ大空、白い雲、山の渓流のせせらぎや大海原、また高い山々の美しく清い自然こそは、貧富や地位などに関わりなく、隔てなく私たちに与えられているはずのものである。
しかし、そこにも限界がある。目の見えない方々、また重い病気で病床に日々伏している人たち、また都会そのものがそのような自然を破壊した人工的なもので満ちた状況にある。
現代においては、このように、自然の美しさに接するためにはさまざまの壁があって隔てられている。
また音楽の美や心地よさ、力を与えられるというはたらきも聴覚障がい者には無縁のものと言える状況となるだけでなく、人間同士の会話さえ、高い壁があって困難となる。
このように、人と人、その集まりである家庭、学校、会社等々身近なところから、民族同士、国と国等々、すべていろいろな目には見えない壁が立ちはだかっている。
そうしたあらゆる種類の壁の根源はどこにあるだろうか。
それは、人間すべてが持っている自分中心という本質である。
言い換えれば、人間の弱さ、醜さとはまったく別の永遠の存在である神ーその真実や愛、清いものを中心としないからであり、それを聖書では罪と言っている。
自分中心の考えになるほどに、壁がおのずから生まれていく。
その壁を打ち破ったのが、キリストであり、その死によって歴史のなかで最大の出来事となった。
キリストを信じた人たちは、キリストと深く結ばれているほど、他者からのいわれなき迫害、憎しみをうけても憎むことをせずに、愛をもってした。それは最初の殉教者ステファノにおいてはっきりと見られるし、そのすがたは、後の二千年にわたって世界の各地で繰り返し示されてきた。
そして、そのキリストにこそ、完全な真実や清さ、美、愛があるゆえに、目の見えない方、耳の聞こえない人、また寝たきりや、かつてのハンセン病のような恐ろしい病気の苦しみにくわえて差別、隔離の生活を余儀なくされた人たち、そして重い罪を犯した人たちにも、そうした大きな壁を越えて、ただキリストを信じるだけで、罪赦され、神の言葉の世界へと導かれ、永遠の命が与えられるということがじっさいに生じていった。
現在の日本は、そして世界は、新型コロナウイルスという目に見えない極微のものによって苦しめられ、死に至る方々も多くおられる。
そのウイルスの蔓延は、人と人との交流によってますます拡大していった。その広がりを阻止するためには、ワクチンがない以上、人と人が出会わない、人間同士の間に、さらに国と国の間にも壁を作ることによってしか方法がないという状況である。
しかし、このような状況にあっても、壁がない交流の世界がある。
それは、インターネットではない。ネットはたしかにさまざまの人と距離、国を越えて交流できる。しかし、ネットでも、その機器なり知識が不可欠であり、それが大きな壁となっているし、国によっては自由な発信、交流もできないようにされるところもある。
さらに、機器があっても電気がなければ、たちまち充電できず、使えなくなってしまうし、固い物で打てばただちにこわれてしまう弱点を持っている。
そのような中で、いかなる機器も必要でなく、しかもあらゆる人々に壁がないのは、しかも、あらゆる人にとって最善の交流とは、神やキリストとの交流である。
人間にとって最大の壁とは、死である。死によってもはや見ることも語り合うこともできない。
しかし、その死という壁さえも、キリストはその死によって打ち破られた。
キリストの死のときに、地震があり、岩が裂け、死んでいた人々が生き返った、という驚くべきようなことも、ほんらい決して動かないような大地や岩が動き、裂けたということーそれは死というだれもどうすることもできないことが、根底から動かされ、死の強固な力が打ち破られたことを暗示している。
それゆえに、私たちもただ信じることによって死という最大の壁さえも越えていき、復活させていただけることになった。
そして死した人たちとも天の国において永遠の交流が与えられることを信じることができる。
今から、三千年以上の昔に、旧約聖書にあるヤコブが、荒れ野を旅しているときに、天に届く懸け橋が見えてそこに御使いが上がり降りしていたとある。(創世記28章)
これは、現代の私たちにおいて重要な意味を告げている。
イエスの死によって開かれた至聖所とは、天の国であり、御言葉そのものである永遠のキリストがおられるところである。御使いが上り降りしていたとは、私たちの祈りを御使いが天へと携え上り、その天の国からの神の言葉、その力を受けとることができるというメッセージが込められている。
キリストがその死によってさまざまの壁を打ち破って下さったゆえに、私たちが、死後でなく、地上にあるときであっても、すでにこうした天の国、キリストや神様との交流が与えられ、死後もなお、復活して、真実の愛といのちの世界へと導かれることが約束されている。
集会の開催要項の変更をお知らせします。
@春期四国聖書集会
今年5月9日(土)〜10日(日) 徳島市で開催予定の春期四国聖書集会は、新型コロナウイルスの感染拡大のために徳島市での開催は止めて、プログラムを短縮し、インターネットと印刷物で実施することになりました。
その代わりに、予定より多くの方々にキリスト者としての証言を一人10分という短い時間ですが、話していただくことになりました。
スカイプは利用したことがないという方々もおられると思いますが、今後のことを考えてインターネットを用いる集会のかたちも少しでもこの機会に体験しておくことは伝道という観点からも重要と思われますので、初めての方々も、パソコンまたは、スマホにスカイプをインストールして スカイプでの通話とか集会をじっさいに実験して参加されますようにと願っています。
スカイプのインストールがわからないというときは、費用はかかりますが、パソコンショップに出向いて設定してもらうか、スカイプしている方に電話で尋ねてインストールするとかの方法で試みていただければと思います。
なお、従来、独立伝道会主催のいろいろな集会(冬季聖書集会、夏期集会、キャンプ、講演会等々)は、関東地域で開催されてきたので、関西地域においてもそうした集会をーとのことで、徳島聖書キリスト集会との合同で徳島市で開催する予定でした。そのため、集会の名称は「四国」を入れてありましたが、ネットでの開催なのでとくに四国が中心ということでなくなりました。どなたでも参加できます。
なお、スカイプでは、去年のバージョンアップにより、それまでは、同時に会話できる人数は、25人まででしたが、二倍の50人にまで増やされました。
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主題 「祈り、賛美、感謝ー神の導き」
(なおこの主題は、去年の9月に決められていたものです。「常に喜べ、いつも祈れ、感謝、賛美せよ」との御言葉があり、現在のような状況においてもこの主題の重要性は変わらないといえます。1テサロニケ5の16〜17、Uコリント13の11、フィリピ4の4、ヘブル13の15)
〇5月9日(土)
開会礼拝 吉村孝雄(徳島)、秀村弦一郎(福岡)
証し(その1) 高橋ルツ子(徳島) 、大塚寿雄・正子(北海道) 、永井信子(東京) 、小林典子(福岡)
証し(その2) 加藤久仁子(徳島)、 宮田咲子(大阪)、藤井文明(徳島)、 小舘知子(東京)
他に、賛美、演奏、祈り。
〇5月10日(日)
10時から主日礼拝
聖書講話 小舘美彦(東京)、西澤正文(静岡)
証し(その3) 田嶋恵子(宮城)、米田武子(徳島)、那須佳子(大阪)、土屋 聡・めぐみ(千葉)
各地からの感想 高崎信恵(埼玉県)、前澤鶴代(静岡県)、関 聡(長野県)浅井慎也(神奈川県)、菊池 誠(東京都)
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★今回の春期四国聖書集会には、パソコンがなくてもご自宅で参加できます。
参加申し込みをされた方には事前にプログラムを印刷してお送りいたしますので、 プログラムに合わせて聖書を読んだり、 賛美したり、 お祈りしたり、 講話や証の要旨を読んだりしてください。 全国で同じ時刻に同じ聖句を読み、 同じ讃美歌を歌い、祈っています。 声は聞こえなくとも、 一人の神様を仰ぐ兄弟姉妹が心を一つにすることができると信じています。
プログラムには、 詳細な時間と、 賛美の楽譜と、 講話や証の要旨と読むべき聖書箇所を記載します。 パソコンを使ってのスカイプ集会となりますが、 パソコンをお持ちでない方も是非ご参加ください。ご自宅で、 お一人でもリアルタイムで参加することができます。
見えない、 聞こえない、 触れられないからこそもしかしたら今まで以上に霊的なつながりが感じられるかもしれません。
★申込方法
別紙申込書に記入し、控えを残した上で、郵送、またはFAX、Email等でお送りください。
送付先:キリスト教独立伝道会事務局
小舘 知子
3.申込締切
4月15日(水)
4.参加費
1,000円
支払方法:左記の口座へ送金してください。
5.その他
@申込締切の後に参加が可能になった人は、申込書送付先(小舘)まで御連絡ください。
A聖書講話、証しの概要を印刷したものを事前に送付します。この印刷物だけの参加もできます
★問い合わせ先: 小舘知子
A北海道の瀬棚聖書集会
毎年夏に瀬棚で行なわれてきた3泊4日の瀬棚聖書集会も、新型コロナウイルスのために、従来のような開催ができなくなり、地元の人たちで簡略化して行なうことになったとの連絡がありました。
私は、2003年から続けて去年まで健康も支えられ、16年にわたって、聖書からのメッセージを語らせていただいてきましたが、瀬棚に行かないことになったのは今回初めてです。
そのため、瀬棚からの帰途、各地の集会での御言葉の奉仕も今年は休止となりました。今年の瀬棚での集会に関してその内容や、実施要項については、瀬棚集会代表の野中信成兄に問い合わせください。
野中信成
B4月12日(日)のイースター特別集会も今年は集会場では開催できず、主日礼拝などと同様に、インターネットなどを用いての開催となりました
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新型コロナウイルスの感染の広がりにより、徳島聖書キリスト集会の主日礼拝や夕拝、家庭集会など、すべて集まることは止めて、インターネット(スカイプ)、あるいはそれが難しい方々には、電話と、要約した印刷物によって継続しています。
スカイプで参加希望の方々は左記の吉村まで電話または、E-mailでご連絡下さい。