いのちの水 2020年 8月号 714号
主よ、朝ごとにあなたは、私の声を聞かれます。 (詩編5の4) |
目次
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ドイツ戦没学生の手紙より (その2)
タルト・ロイバー
神学士、医学士、ゲッチンゲン大学卒。1906年5月生まれ〜1944年1月ロシアに捕虜となり病死。38歳
(以下は、妻へあてた手紙)
スターリングラード要塞、1942年12月3日
これまでは知らなかった苦しい苦しい日々を過ごした。
ここでは、いろいろな困難を見、さまざまの苦しみを体験した。
周囲には暗い影があり、多くの者は沈黙しがちとなる。またある者は落胆してしまい、あるものは、またた別な状態になる。
しかし、心の地平線にはいくらかの明るさが見える。感情や思考の流れがどんなに大きく浮き沈みすることだろう。
そのような状況にあっても、自分の世界と周囲の世界に深い眼差しを送る。 それによって本当に正しいものと、そうでないものとが、分かたれていく。
現在、私が置かれている状況について言えば、我々は草原の低地の土の中に作った穴の中にうずくまっている。一時的な穴を掘って住みかにしているのだ。それ以上のすみかを作るための材木がない。火を起こすのも大変、水は遠くから運んでくるので、きわめて乏しい。変わりやすい冬の天候なので、雪、嵐、霜、急にやってくるみぞれ。
最近は一度も服を脱ぐこともできない。シラミがいる。 ネズミが夜中に顔の上を走る。砂が穴の中にさらさらと落ちる。あたりは夜中であっても戦闘の絶え間ないとどろきが聞こえる。
思わず、1914年から18年の第一次世界大戦のときの、陣地戦での塹壕生活を思い起こした。 角材、粘土の壁、ローソク、寄せ合っている兵士たちの頭。
沈黙、沈黙。
指揮官が、静けさの中で、ハーモニカを吹く。そのような中で、過ぎ去った美しい生活の思い出がきらめく。みんなただ一つの事を、つまり、生きることを、生き続けられることを願っている! 生きることへの意志,それがこのような状況に置かれた究極のものだ。
神と世界とに対する真剣な対話。外では破壊の恐ろしい戦闘のどよめきが続いている。胸はあふれるばかりいっぱいだ。…
全てが苦しんでいる。肉体も魂も。
心はどんなに度々戦争の死の恐怖に怯えたことだろう。憂いと悲しみがどんなにか度々私の心の戸口にあらわれたり、心の中に入ってきたりしたことだろう。…
しかし、私は忍耐と抵抗の力を持ち続けていることを繰り返し言わねばなならない。忍耐と静けさと確信とは、 何がどうあろうとも、一瞬間も私を去ることがなかった。…
大きな仮の塹壕に、今ピアノが据えられている。他の部隊がこれまでトラックに乗せて引っ張って歩いたものだ。
僕たちの指揮官は、音楽家である。彼が地下でピアノを弾いている。
この地下で聞く音楽ー塹壕の粘土の壁の間の音の響きは独特で、このような状況での音楽は今まで聞いたことがない!
バッハとヘンデルとの組曲、モーツァルトのイ長調のピアノ協奏曲と、ベートーベンのピアノソナタ 「パセティック (悲愴)」の中のいくつかの楽章。ショパンとシューマンとの数楽章。
指揮官は、何とたくみにピアノを弾くことだろう!
皆はこの音楽に全く心を奪われてしまった。この芸術的なわずかの時間だがこのことを決して忘れない!
そのとき、ある大尉が、戦闘の真っただ中から我々の塹壕に飛び込んできて自分の部隊の悲惨な体験について報告する。こちらの兵士が様々なことを答えて尋ねまた答え、そのことが波の谷と山のように浮いたり沈んだりする。
そのような状況の中でも、指揮官は再びピアノ弾き続けた。その間に壁は砲火と爆弾の雨にどよめき、砂が頭の上に落ちる。みんなは、しばしその状況に耳を傾けるが、やがてまた音楽が鳴り始める。
今は荒野が僕たちを遠く隔てているー しかし、私は、あなたたちのごく近くにいる。 太陽が広い草原に輝いている。まもなく沈むが、「太陽は、昔ながらの調べでひびく」
(訳者注。ゲーテの「フアウスト」の「天上の序曲の第一行」)
昨晩、ぼくは、自分を支えているこの力が、あなたと子供たちと(霊的に)ともにいるおかげだということを電光のように感じた。こうしてぼくは、ここにあなた方によって生きている…。(1942年12月18日)
…ぼくは、「光、いのち、愛」というヨハネ福音書にある言葉を思いだした。
それがあれば、ほかに何をいう必要があろう。
闇と、死と、憎しみがあたりを包んでいるただ中に、ぼくたち一人一人のうちに無限に大きく宿っている光と、命と愛へのあこがれを思うとき!(同年12月25日)
(「ドイツ戦没学生の手紙」94頁〜 新潮社一九五三年発行。)
この手紙は、戦争のさなかに書かれ、その後ロシアの捕虜となり病死するまでの1年余の間に書き綴られたものである。土に掘った穴や仮の塹壕の生活の中で妻宛に書かれた。そのような死の恐怖にさらされつつ、この筆者の心にあったのは、「自分の世界と周囲の世界に深い眼差し」を持ち続けることであり、「それによって本当に正しいものと、そうでないものとが、分かたれていく。」ということだった。
そのような中で、「忍耐と静けさと確信」を持ち続けることができたのがうかがえる。
筆者は、神学部を卒業後に、医学部をも卒業して医者でもあったので、従軍医師として戦争に加わった。
引用した最後の部分にあるように、家族への愛、ふかい心のつながりによって筆者は支えられていたのがうかがえる。そして、その根源には、福音書に記されてている、いのちの光、永遠の命、神からの愛という三つのことが心に深くとどまっていたのである。
そのことを自分の魂の深みにて実感し、神を仰ぎ見るときには、死の迫る危険のただなかにあっても、ふしぎな平安と喜びを感じている姿が浮かび上がってくる。
日夜みずからの命も危うい状況のなかで、指揮官がハーモニカを吹き、またわざわざ戦地にまでピアノを運んできて地下の一時的な塹壕で、バッハ、ベートーベンやモーツァルトなどが演奏されたという。
生きるか死ぬかという厳しい戦場に、重くて扱いにくいピアノを運んでいくとは、驚くべきこと。
そのようなものを運んでいくことを許可した上官の度量の広さにも驚かされる。
悲惨な戦闘の状況を報告するために飛び込んできたというような事態にあっても、しばらくしてなおも、ピアノが弾かれ続けた。
音楽の力はそのような闇の力が迫ってくるときにこそ、重要なのだ。単なる娯楽や時間つぶしでなく、死の危険がひしひしと迫るときに、彼らの魂に天からの響きを与え、はげまし、闇のなかに光をみて、力を得るためだったのである。
バッハ、モーツァルト、ベートーベンなどの音楽の源流は、彼らが信じていた神にあり、神が特別にそうした音楽家に天来の響きを伝え、それを他者も共有できるように導いたのである。神は愛であり真実であり、正義の神であるとともに、こうした美の根源をも持つ神だからである。
それは、人間の言葉は、単に人間の感情や考え、あるいは事柄を伝えあう道具にとどまらず、神が直接に語りかけるときには、永遠の神の言葉を担うものとなりうる。その典型が預言者であり、その完全な存在がキリストであり、それを誰もが読める言葉にしたものが聖書である。
このように、聖書と音楽の起源が神にあるのは明らかであるが、他方、私たちの周囲のさまざまの自然の大空の青い空、雲の色合いやその姿、星々の輝き、そてて樹木や野草、さまざまの生物たち…等々もその根源はみな神にある。
このようなことに関して、世界的チェロの演奏者であるパブロ・カザルス(*)が次のように語っている。
(*)カザルス 1876〜1973年。20世紀最大のチェリスト。他方、世界平和を訴え続けた20世紀最大の音楽家のひとりとされる。「彼から何らかの影響をうけていないチェリストはいないし、彼の奏法は一種の革命をもたらした。カザルスの教えは威厳に満ちて揺るぐことなく、私たちチェリストを導く灯台のごとし…」(チェリストであるジュリアン・ウェッバーの評言。)バッハの『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を見いだし、世界に紹介した。音楽の創作活動とともに、戦争という社会的不正に対しても平和運動を大切なものとし、戦争を推進しようとする勢力に対する抵抗運動を続けた。
シュバイツァーが、「創造活動は、抵抗運動に勝りますよ」と言ったとき、カザルスは、「創造し、抵抗する、両方すればいいではありませんか」と答えたという。 そうした平和への働きのため、国連平和賞が授与された。
なお、1961年11月13日、ケネディ大統領に招かれ、ホワイトハウスで「鳥の歌」などを演奏したこともある。
…私はあらゆるところに、音楽に、海に、花に、葉に、愛ある行為に聖なる源を見る。こうしたすべてのものに、私は神の存在を見る。…そして私は音楽の奇跡のなかに神性を見る。
バッハやモーツァルトによって生み出された音は、無制限に善である何か、聖なる何かを想定せずには説明できない奇跡である。
…モーツァルトとベートーベンの音楽はすべての人に通じることばのようなものだ。
…ベートーベンの音楽は、いつの世にも人類が授かったもっとも輝かしい贈り物だ。
…(カザルスが少年時代にこよなく愛した辺鄙な田舎を再訪したとき、スペインのカタロニア地方の強い陽差しの力に彼は燃えるような感激でいっぱいになって気がつくと、ただ一つのことばをくりかえしつぶやいていた) 「ベートーベン!」
…バッハとベートーベンはいつでもどこでも私たちとともにある。人間がなにがしかの感性を持ち続けるかぎりは。
(「パブロ・カザルス 鳥の歌」(カザルスの語録集)より。筑摩書房刊)
カザルスの平和への強い願いとその活動は、こうしたバッハ、ベートーベン、モーツァルトなどの音楽の力によって支えられていたのであった。
彼は、語っている。
…冷戦が激しさを増し、核戦争の脅威が世界に広がったとき、私は自分が自由に使えるただ一つの武器、私の音楽をもって平和運動に乗り出した。「飼い葉桶」というキリスト降誕にもとづく自作のオラトリオを携えて、いろいろな国の首都を訪問することを始めた。
…第一次世界大戦の残虐な年月に、初めてこの世界の悲惨さを目の当たりにしたとき、私はまだスペインのバルセロナにいて、若かった。私は自問した。人間はこんなにもひどい苦しみを味わうために造られたのだろうか、と。
この疑念に私は苦しんだ。私にはたった一人の子供の命のほうが音楽全部よりも価値があった。それでも、私が世界の戦争という狂気のただなかで、精神の安定を保つことができたのは、音楽のおかげだ。
戦争中、ずっと音楽は私に、人間はこんなにも多くの罪を犯し、こんなにも多くの苦しみを味わわせるが、美を造り出すこともできるのだ、と確信させてくれた。
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カザルスは、、スペイン内乱が勃発した危険なときに、ベートーベンの第九の演奏会のリハーサルをしていたが、そこに中止命令が届いた。しかし最後の部分の「歓喜の歌」の部分を団員の同意を得て最後まで歌い終わった。そしていつの日か、平和が訪れたとき、ベートーベンの第九を演奏することを約束したのだった。
こうした戦争という状況にあってもなお、カザルスは音楽によって新たな力を得ようとした。
このことは、その第九を東アジアで初めて全曲演奏したというのが、徳島県の田舎、現在では鳴門市になっている板東俘虜収容所であったことを思いださせる。
戦争の捕虜であったドイツ兵士たちが、いかにしてあの長大な交響曲の全曲演奏ができたのか、自作楽器を用いたというがそのようなことのためには非常な苦労があったと思われる。
捕虜生活のさまざまの労苦のなかで、単なる娯楽でまぎらわすことなく、苦労して楽器を造って第九の全曲演奏をーと考える多くの兵士たちが存在したことーそれはここに引用したドイツ兵となった一人の人間が書き残したことに通じることー音楽の力の重要性が、多くのドイツ兵の魂に刻まれていたゆえであろう。
音楽は、このように多くの人に闇の中で苦しむとき、光と力を与えるものとなってきた。
しかし、音楽の力をそのままでは受けられない人たちも多数おられる。聴覚障がい者であり、またさまざまの社会的、政治的状況によって迫害され、祖国から逃れて難民となっている方々である。
そのような人たちにも届く音楽の存在は、すでにいまから数千年前に聖書の詩編に記されている。
…天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう(詩編19篇より)
大空の姿、雲や星々、太陽、風…等々はすべて神のわざを示し、その深い真理を次々とこの世界に告げしらせている。その声は、またその響きは、ふつうの耳には聞こえずとも、霊的な耳には聞こえる。
神の栄光をたたえ、真理を語る響きは、世界の果て、民族を越え、地域を越え、さらに病床にある孤独な人たち、耳の聞こえない人たち、また貧しく音楽を聞く機器やインターネットをも持つことなど到底できてない飢えと渇きに、また戦乱に苦しむ人たちにも、そうした神の国からの言葉と響きは伝わっていくようになされている。
神は全能で愛であるゆえに、このような道をもはるか昔にすでに示されていたのである。
だからこそ、全盲であり聞こえない耳の人であっても、その魂を見えざる神に向けて求めていくときには、こうした美の根源たる神からの響きを聞くことができるように道が開かれている。 盲聾唖であったヘレン・ケラーの著作を見るとそうした霊的な耳と目がするどく磨かれていったのがうかがえる。
私たちは、それぞれの生きていく過程において、予想できない困難や苦しみ、また悲しみに遭遇することが多い。
戦争という極限的状況において、人が何を考え、何に力とはげましを与えられていたのか、そのような永遠の力を持つのは何なのか …それは私たちすべての人にとって重要なことになる。
そのような闇のただなか、絶望的状況に力をあたえ、平安を与えるものは、人間の最も奥深い部分に触れる力を持つものゆえ、平時のとき、とくべつに困難なことがないように見える人にも、求めることによって新たな前進の力と周囲の状況への深い洞察を与えるものとなる。
今日のような世界中が目に見えないウイルスというものの力によって混乱させられているとき、それらによってもいささかも揺るぐことなき、そのような微生物などの力とは比較にならない宇宙を創造した力の源である神に私たちはいっそう心ひかれる。
そうした私たちに、神は 「求めよ、そうすれば与えられる」という静かなる細き語りかけをつねになされているのである。
私たちはさまざまの戦いに直面する。
はるかな大昔の時代から、人間の生活を脅かしていたものはそれがどのような小さな集まりであれ降りかかってきたのが自然の力だった。台風などによる大風、大雨、河川の氾濫、地震、津波…等々。
さらにそうした自然の状況によって作物ができず食物もなくなり飢えと戦わねばならなかった。
現在でもこの自然との戦いは続いている。科学技術が著しく進展したにもかかわらず、予期しない大雨や台風、地震、山火事、森林火災、バッタなどによる食物被害 などなどは世界の様々なところで生じていて、日々それらと戦わねばならない人達は数知れない。
この自然との闘いは人間がたった一人二人であっても絶えず起こってくる戦いである。
それに対して二つめの戦いは、人間との戦いである。これも少数の人同士でも生じる。少数の部族そして、さらには国のようなもの形成されていくとそれらの部族同士や国同士によって武力による戦いが始まった。
それは今日に至るまでますますその武器は破壊力が増大し危機的な状況になっている。現在の世界を脅かしている最も大きなものは核兵器による戦争である。
このように自然との闘いと国家や民族同士の戦いも、はるかの昔から常に存在してきた。
しかしもう一つの戦いがある。この三つ目の戦いは、どのような自然の戦いもなく人間同士の戦い、戦争などもなくとも存在する戦いである。
それこそは内面の戦いであり、霊的な戦いである。この戦いは小さな子供から大人まで、これはどのような状況の人であっても存在する闘いである。
学者であっても無学な人であっても、また高い地位や権力のある人、健康、病弱などを問わず、あらゆる人、あらゆる地域あらゆる時代において存在する戦いである。
そしてこの三番目の戦いこそは最も困難な戦いである。
自然との戦いはかなりの部分、科学技術、医学や土木工学その他の技術の発達によってその戦いに勝利することができた。 また人間同士の戦いは小さな規模であれば話し合いによってまた時間が解決してくれたりする。国家民族という大きなレベルでの戦いも、そうした戦争にまきこまれない国々もあったし、平和的な話し合いによってなんとか解決していくということも多かった。
それに対して第三の戦いは、人間の内面の目に見えない戦いであるので科学技術が発達しようとも学問があるなしまたその他、健康と病気なども全く関わりなく存在する。しかも朝起きた時から夜休む時まで時には、 時には夜眠っているときにさえそのような戦いが生じる。
このような戦いに勝利するこそ、人間との戦いあるいは自然との戦いにおいても最も根源的な道である。自然の災害によって家が破壊され家族が亡くなったそのような悲劇に打ちのめされている時、保険金や政府からの援助も当然様々に役に立つであろう。
しかしそのような災害によって家族を失い、あるいは自分も大怪我をして障がいの苦しみとなったり…深い心の傷をおった時には 新たな家が建てられようとも心の深いところの傷は癒されることはない。
また、人間同士の 憎しみということは奥の深いもので自分が酷い目に遭わされた時には相手の人に対する憎しみは長く続いてしまうことが多い。 憎しみとは絶えず 自分に悪しきことをした相手を思い起こして打ち倒そうという闇の力に支配されることである。
そのような人間同士の憎しみやねたみ、差別等々の感情に勝利する道はあるのだろうか。それは人間的な努力ー気持ちの持ち方を変えようとするようなことでは到底できない。
あるいは、さまざまの快楽、欲望との戦いに負けて、してはならないことをしてしまうということもたくさんある。
そのような人間の心の中の戦いこそは最も根源的なところにある闘いであり、それに敗北することからあらゆる問題がしょうじてくる。
どのような平和主義を主張している人でも、その心の内には、反対者への敵意、また平和問題など考えようともしない人たちへの見下すような心、ねたみや動揺、いかにしても状況が変わらないことからくる無力感…等々、いろいろな思いが交錯し、内面の戦いはつねに止まることがないであろう。
こうした内なる戦いは、私たちが朝起きてから始まっている。
例えば朝起きて、まずテレビとか新聞を見るか、あるいはそれらを超えた真理の世界からの何らかの語りかけに耳を傾けようとするか、それも内なる闘いである。
また、新聞で様々な事故や災害を受けた方々の報道を見て、何気なしにそのような悲劇的な状況を見ているだけで、すぐにつぎの娯楽番組などにチャンネルを変えるだけならば、それは見ないほうがよいといえるだろう。
そのようなひどい苦しみにあった人達にとっては、自分たちのたいへんな苦しみや絶望感を、テレビなどの報道によって単なる物珍しさを満足させるために見られているいう気持ちにもなるかもしれない。
そのようなことはもし自分がそのような災害を受けた時全国の多くの人が自分達も本当に困った姿を単に一種の好奇心で見られているということはとても不快な気持ちにさせることもあるだろう。
キリストは 御国をきたらせたまえ と祈れといわれた。
御国がきますように、とは神様の愛と真実のご支配がなるようにということであり、そのような災害を受けた方々のところに神様の愛の御支配、その愛の力が及ぶようにと祈ることである。
そのような心になるためには単に興味半分で見ていようというような人間的な感情との戦いが生じる。
そのように考えると私たちの毎日は朝起きてから夜寝るまで、神の示された高い標準と比べて、それとは到底相容れない低い段階に止まろうとするような心と耐えざる戦いが生じることになる。
そのようにな戦いに勝利するのは、学問や経験、様々な外国を旅行するとかそのようなことでは到底できないことである。
キリストが言われたように神の力によってその悪の力を退けていただくということでなければできない。
イエスご自身そのようなあらゆる内なる戦いに対して「私はこの世の力に勝利している」と言われた。たしかに、キリストだけは、与えられる悪の力そしてすべてを滅ぼしていく死の力にさえも勝利され、復活されていまは神と同じ存在になられているのである。
私たちすべては、ただキリストを信じるだけで、私たちを間違った道へと強く引っ張る罪の力に勝利し、この命が終わるときには、キリストによって復活させていただき、永遠の命をくださるということが約束されている。
私たちは、学問や経験、またどんな罪を犯したかどうかにかかわらず、ただキリストが私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった、それを信じるだけで、内なる戦いに勝利する道へと導かれる。
このことこそ、大いなる良き知らせー福音なのである。
みことばと賛美の力 田嶋恵子 (宮城)
「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのですか。
私の助けは天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。」(詩編一二一の1〜3)
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っています。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」コリントU4-7
神様、今日もあなたのお恵みお赦しによって、集まることができ、互いに愛し合い、祈り合うことができますことを心から感謝いたします。
愛する主よ、私は罪を告白し、あなたの赦しを求めます。私の無力さや弱さを通してでも、あなたの愛と力がお一人お一人の兄弟姉妹に届きますように。主イエス様によって、アーメン。
最近は、思いがけない新型コロナに邪魔されて、日曜集会は集まれなくなってしまったり、子供の進路の計画や、子供の就職の入社式が度々延期されたりしていて、また家庭内でお互いの感染を防ぐため、焦りや不安、その中で、どうすればいいのか?どう守ってあげられるのか?何が必要か?ということで、日々、私の頭の中は、どこにいても、何をしていても、いっぱいになってしまっていました。まるで見えない障害物をどうよければいいのか、無意味にコースを走り回っているかのようで、日々の慣れた家事ですら、一つの事を終えるのに、いつも以上に時間がかかってしまっていました。
そのような状況の中でも、私にとって、徳島聖書キリスト集会の主日礼拝にスカイプで参加させていただけることで、神様のみ言葉を聴き、兄弟姉妹と共に受けさせていただけること、繋がれることが、とても心強く、落ち着いて静かな、神様の声を聞くことだけに集中できる貴重な時間でした。本当に主からの平安を頂ける立ちかえる場所があることを心から感謝いたします。
日々の状況は変わらず、それでも私の頭の中は、寝ていても、本を読んでいても、お風呂に入っていても、今まで神様がしてくださったことを、思い出せる限り思い出しながら、すると、こんなこともあんなこともあったと、感謝でいっぱいになりながらも、それを伝わるように話せる話はなかなか言葉にするのが得意でない私には、困難なことだと思いました。どうか、不十分な私にも主イエス様を信じていこうとするものです。力を下さい。と祈って、祈って、祈りました。証をしたことが無いので、これが証と言えるかわかりませんが、お話したいと思います。
いまから10年以上前なのですが、当時私は人間関係に悩まされていました。実は私がクリスチャンであることも関係していました。最も困難な時に、突然、全国集会が徳島であるので来ませんか?とお誘いくださった吉村先生からの電話が来たのは夕食の用意をしていた時でした。ちょうど家の出窓側から見える東の空が、その時は、夕暮れのオレンジ色の雲が広がっていました。その美しさと深い闇から探しだしていただいたという安堵感とが重なって、心から感謝したことは、今でもはっきりと心に深く残っています。本当に嬉しかったです。有難うございます。
先ほど読んだ詩編121編矢内原忠雄による「日々のかて」の解説には「心が世事にいたたまれなくなったときは、出て山に面するのがいい。(中略)神の美しさ、神の偉大さに見とれていれば聖霊はいつの間にか私の心を整えて私に平安と喜びを返し、正しい道をしめされます。自己はそのままにして出て神を仰ぎなさい。」と教えてくれます。
最近、感染予防のために、朝、窓を開けて空気の入れ替えをするのですが、朝の爽やかな風と鳥の鳴き声を聞くと慰められます、「嗚呼、心地良い。」と感じ、神様の創造された自然からちからを与えられますこと、感謝します。
また、少し前までは桜、今は道端のたんぽぽや水仙の花、青い空や、夜空の星々が私たちの心の荒れている状態から解放してくれるのを感じています。神様がこのような清い花を咲かせて求めなくても力を与えようとして下さっていること、本当に感謝します。
今思うと、時あるごとに、主にある大先輩の方々からまた信仰の姉妹から励ましの言葉や援助やお葉書をいただいて、頂いたものは、ふとした時に読み返しては、大体そういう時は先の見えない時なのですが、暗闇から主の光の方へ向きを変えるきっかけとなって、再び励ましを与えられ支えられています。大切に育てていただいてここまでこれたことに感謝します。また本当に神様に感謝いたします。神 様の愛の配慮があって支えられて神様から離れないで生きるように様々な方が関わって下さっていたことを改めてここで感謝いたします。
幼い頃からわたしの家は無教会のクリスチャンホームでした。市営住宅から引っ越をして、家の2階を集会所として、父は静岡聖書集会を始めました。日曜学校も始まりました。小学生でし。、はじめは近所の近藤ともみさんと2人で無教会紙芝居をしてもらったのを覚えています。そのうち、お友達を呼んできていいというので、段々と、子供たちが増えていきました。夏休みバイブルキャンプに連れていくというとまた人が増え、クリスマスは更に人が増えました。
日曜学校で聞いた今でも覚えている無教会紙芝居は、
心の中ででも、悪いことを思ったりしたら、直ぐに、見張りの恐い顔の兵士がやってきて、「今、悪いことを考えましたね!」と問われるもので、そういう自分の気持ちに、気が付いたら直ぐに「神さまごめんなさい。」と言って心から悪かったことを謝まるときには、神様は、いつでもちゃんと「ごめんなさい。」と謝る子をやさしく赦して愛してくれるという内容だったと思います。私は心の中その時のとっても心がドキドキしたことを、覚えています。
2019年の8月のいのちの水で「敵を愛し迫害する者のために祈れ」マタイ5の44
で言われていることが子供の頃の記憶と重なりました。 いのちの水の内容の一部読みます。
『誰かのために祈るときには、神におのずから心の目をむける。そして敵対する相手の心にその神の愛や清い霊を注いでください。彼(私が*)が支配されている悪の力を聖なる霊の力で追い出してください。と願う心となる。しかしそのような祈りは直ぐには聞かれず、相手の言動はいっこうに止まないことも多い。しかしそれでもなお祈りを続けていくときには祈らずに憎んでいたり、単に嫌っていたりしたときには与えられない清い風が吹いてくるのを自分自身の中に少しずつではあっても感じるようになる。そして時が来れば相手にも伝わることがあるし、神ご自身がその時を定めて変えて下さることを信じることができる。真理というものは、相手にも自分にも双方に良きことを生み出すからである。』とありました。(*私が は、自分自身のことが多いので付け加えて読みました。)
私の子供の頃あった事とは
小学校4年生くらいだったと思います。ある時まとめ役の子が「ちょっときて」と呼ぶので行くと、その後一人の子だけよびませんでした。仲間外れにしたのです。そのことに気が付いた時、私は気が弱く、声も出せずに、そのまま何もすることができませんでした。 日曜学校でいじめたり、悪口を言ったり、お友達を困らせたりすることはいけないことだと聞いていたのに、何もできなかった自分、とても心が重い気持ちで家に帰りました。その日の夜、家に電話が入って、その仲間外れにされたお友達のお母さんからでした。
私の母に相談の電話でした。その後、母に注意されて、翌日、私は直ぐにそのお友達の所に行って「昨日は、ごめんね」と言えました。お友達は直ぐに許してくれました。ほっとしました。 でも、その日はじめはそのお友達と一緒にいましたが、今度はお友達が「ちょっと来て」と呼ばれ連れていかれ今度は私が一人ぼっちになってしまいました。悔しくて、悲しくなって、でも、昨日のお友達はこんな気持ちだったのかなあとは思えずに、何でなのという気持ちだったと思います。その日は、みんなが居なくなった学校の校庭の滑り台を何度も何度も繰り返しやりながら、一人で日曜学校で教えてもらった讃美歌「いつくしみ深き」を何度も何度も歌って、滑っていました。 そのうちに、その日は、なんとなく神様が共にいて下さるから大丈夫という気持ちになったのか、はっきり覚えていませんが、気持ちが落ち着いて、家に帰って普通にしていたんだと思います。翌朝、どこかで、今日も一人だったらいやだなーとは思っていたと思いますが、いつも通り学校に行くとそのお友達が来てくれて「ケイ、ごめんね!」と謝ってくれて、その日は二人で一緒に帰って来たのを覚えています。本当に嬉しかったことだけはっきり覚えています。
それからは、仲間外れごっこも終わったように記憶しています。まとめ役の子も、家に遊びに来て母が私と一緒に漢字の勉強をしたのを覚えています。。
今思うと、その時、きっと神様がいつくしみ深きを聞いていて下さって悲しんでいる私を支え悪の霊を聖なる霊で追い出して悪に勝って下さったのだと思います。 このような小さな経験からですが、
「いつくしみ深き」は今でも、私の大好きな讃美歌となりました。
私の中で、矢内原忠雄の「日々のかて」で以前からずっと心の中にとどまっている文章を、読ませていただきます。
「初めての愛」
『どんな事があっても、イエスの愛を疑わず、イエスから離れようと考えたりしないで、イエスの愛の中にとどまることが生命の秘訣です。これに反し私たちをイエスの愛から引き離そうとする試みは、すべてサタンから出るのです。サタンは引き離す者です。
人と人の間の愛情を冷却させるものは、サタンの業です。私たちはイエスの愛の中に住むことによって、兄弟姉妹を愛することができます。
これに反し私たち自身がイエスの愛の中にとどまらない時は、人に対する愛もまた冷却するのです。
愛の冷却が人生の危機です。それを救うものは、イエスの愛にいること以外にありません。』
この世の事柄が、またこの世の絶えざる忙しさのために、注意して奪い去ってしまわれないように、しなくてはと思います。私たちがキリストはの愛を失い、信頼を失うなら悪魔にとってはどちらでもいい。ということを読んだことがあります。しっかりと主イエス様を仰ぎ見て、聖霊によるお交わりをこれからも宜しくお願い致します。
兄弟姉妹が、お互い主にあって愛し合い祈り合うこと、小さな者が一人でも滅びることはみこころではないことを覚えて、少しでも与えて頂いた主の真理を周りの人たちに生活の中で伝えられたらと、その願いをもって働けますように。
神様、どうか、今後とも、主がお一人お一人の信仰を最後まで守り導き祝福してくださいますように、お祈りいたします。
最後に私にとって悲しい時、嬉しい時、どんな時でも寄り添ってくれる讃美を紹介して終わりたいと思います。よく独立学園でうたわれるので知っている方もおられるかと思います。
今日は詩だけですが、読ませていただきたいと思います。
『感謝します。』という曲です。奥山正夫さん作詞です。
1.感謝します。
試みにあわせ、鍛えたもう主の導きを
感謝します。
苦しみの中に、育てたもう主の御心を
*繰り返し
しかし願う道が閉ざされたときは、
目の前が暗くなりました。
どんな時でもあなたとのお約束を
忘れない者としてください。
2.感謝します。
悲しみの時に、共に泣き給う主の愛を
感謝します。
こぼれる涙を、ぬぐい給う憐みを
*しかし願う道が閉ざされたときは、
目の前が暗くなりました。
どんな時でもあなたとのお約束を
忘れない者としてください。
3.感謝します。
試みに耐える、力をくださる御恵みを
感謝します。
すべてのことを最善となしたもう、
みこころを。
慈しみ深い神様の愛は、決して変わることがなく真実で私たちがその愛に相応しなくても、そのままで愛されていることを、感謝して、絶えず心に留めたいと思います。
米田 武子(徳島)
徳島聖書キリスト集会場は徳島市の南田宮にあります。私の住まいのある春日3丁目から車で10分ほどのところです。そのような近くにありながら気づかずに知らずでした。
2007年6月2日、夫と私はデザインルームと絵画教室をその春日三丁目に移転しました。
新しいところに転居したことだし、気分一新するために持病もあるから以前から一度大きな病院で精密検査してはと勧められているからと、夫はちょっと行ってくるよと日赤病院へ行きました。
そうして告げられたのは思いもよらてい膵臓癌の末期、それも余命3ヶ月。7月の初めでした。
主治医の先生は言いました「抗がん治療してほしいと希望されたらするけれど、それよりこれから来る痛みや苦しみを緩和して残された時間を大切にするためホスピスへ早く転院しなさい」
病室に帰ると夫は小さな声で言いました「冷静だっただろう」私は頷くだけでした私より11歳下の59歳でした。3ヶ月と言ったけどもうちょっとあるかもしれん」今は苦しくないようなのでのんきなことを言うけれど私は本当は一か月か内の別の先生から聞いていました。
子供もいない私たち、頭の中も胸の中も私はどうすればいいのか、やっと希望する病院に移って一週間で夫は三時のおやつに好きなコーヒーとゼリーを食べて午後5時過ぎ少し息苦しくなり10分程、苦しそうな姿を私に見せただけであっさりと逝ってしまいました。
二人でペンキを塗り看板を書いた教室で、一人仕事をし、子供達が近所の方に絵を教え 時を過ごしていました。
そのようなある日 徳島聖書キリスト集会への道が突然繋がったのです。
神様は私の所へ集会員のUNさんを使わされました。UNさんは教室から近くて歩いて3分ほどのところに家があります。子供の頃から絵が好きで私が越してきた時から気になっていて、時間ができたからと、習いに来てくれるようになりました。
「先生、このようなのがあるけど読むで…」と毎月の「いのちの水」誌と 「集会だより」を下さいました。 イエス様は優しい風がそっと吹くように近づかれました。春日町で引っ越してから9年目のことです。
その後、集会と私をさらに強く結びつける事態が起きたのです。
2018年のイースター特別集会の子供さんの部で人形劇を予定し、TTさんの脚本も出来上がって人形を作ることになっている会で、KKさんに骨折というアクシデントが起きました。
KKさんが、担当の方に「米田さんに頼んでみて」と言われ、私は「やります」と迷わず引き受けました。当日は私も人形の声を担当し、とても楽しい一日でした。
集会の皆さんは私がずっと以前からいるような気がすると言って優しく接して下さいます。
私もなんだか以前からこの集会の一員だったような気になっていました。
いつしか変化がありました。「お前を一人にはしない。いつも共にいる」その御言葉、それは私を力づけ、心を開き、豊かにしてくださいました。ルカによる福音書12章22節から34節マタイによる福音書6章25節から34節「思い悩むな」この御言葉は、人間が生きていく上で大切な御言葉でした。
一人でいる生活は寒々とした空間でした。夜眠るときも明日の朝はあるのだろうか、イエス様は言われました。「思い悩むな」と。
7章一節では人を裁くな、7章から7節から12節、求めよ、主を信じ、主に祈り求める者に天の父は良いものを下さるに違いないと。
神様は信仰の薄い者たちよとおっしゃられながら、日々悔い改めと赦しを請う私たちに対して、もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父せあなた方の過ちを赦してくださる。6章14節にあります。
詩篇第1篇1節2節
いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに歩まず、
罪ある者の道にどまらず、傲慢なものと共に座らず、
主の教えを昼も夜も口ずさむ人。…
私はそのように生きてゆきたいと思います。ありがとうございました。
那須佳子(大阪)
今年のイースター4月12日 復活の主の記念日 世の中は世界中が呻いていました。日本も日を追うごとにコロナの感染者は増え続け緊急事態宣言。今も尚、世界中が困難の中にあります。この様な時、神様のご意志として私たちキリストを信じる者はどのように受け止めるべきなのか問われ続けている毎日です。最近示されたみ言葉があります。
「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。・・・わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:22〜26)パウロの言葉です。今も生きて働く主イエスは私達の苦しみを知りうめきを持って執り成してくださっていると信じます。
さて、昨年までの三年間、毎年私にとって大切な人が天に召されました。長い間慈しみ育ててくれた母、信仰に導いてくれた田舎の恩師、また昨年は徳島にもゆかりのあった姉妹と続いて神様の御許に送りました。それぞれに主からの恵みと、切実な祈りと讃美がありました。
母は高齢になって失明、また高齢ゆえの難聴、見えない聞こえない苦しみの中でこの世を去りました。毎月祈りつつ、傍に寄り添うため帰省していましたが、いつも鬱の状態で悲哀を感じていました。しかし最期の時を過ごしたライトハウスの施設を訪ねた帰り、歩いていると突然聖霊の風が吹き渡り、『ああ母は決して惨めではないのだ。信じて祈ればどんな所にもイエス様が共にいてくれるのだ、そこが神の御国なのだ。暗く寂しい部屋で悲しみに打ちひしがれている者の所におられるのだ、イエス様がその道を通られたから・・・。』私は不思議な平安と喜びがあふれてきました。そして思わず口から出た讃美は「ここも神の御国なれば」でした。「ここも神の御国なれば あめつち御歌を歌いかわし 岩に樹々に 空に海にたえなる御業ぞ あらわれたる」一人讃美しつつ駅までの道を歩きました。周りの風景が違ったものに見えてきました。不思議な体験でした。
また次の年は恩師が召されました。中学生の時信仰に導いてくれた先生でした。大変厳しい先生でした。互いに交わす書簡の中で時々信仰の生ぬるさに叱責のハガキを頂くこともしばしばでした。自分の罪に鋭敏、他者にも歯に衣着せず、この世でも戦いの多い方でした。そうした戦いの中で孤立したとき、また自分の罪に苦しむ時、先生は、主イエスがイザヤ書53章にあるようにおよそ人間の知る限りの最もどん底の所に、惨めな所に降りてくださり十字架にかかって私たちを贖ってくださった、そこから来るしみじみとした平安を思い、事あるごとに「十字架のイエスをもっているか、大切な人を思うほどイエスをもっているか?」と問われ続けました。先生との出会いはまさに神様の導きでした。
今日の閉会式で選ばれている讃美歌529番「ああうれしわが身も」は奇しくもお別れの式で歌った先生の愛唱歌です。感謝しつつ讃美したいと思います。
昨年は高槻集会に晩年、数年通われた姉妹が93歳で天に召されました。その姉妹は故郷の徳島の集会の初期の時代から深い関わりを持っておられた方でした。晩年、高槻の息子さん家族と生活を共にされるようになり、お元気な間はしばらく高槻集会に参加されていました。病と共に足腰も弱くなられてからは月一度自宅を訪問させてもらい共に聖書を読み、讃美と祈り、近況報告の時を持っていました。
「祈りの友」に寄せられた文の中で「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中ではたらく』(Uコリント12:9)このみ言葉を静かに受け止め涙を流しつつ感謝している。この老いの急坂を守られますように。一日一生ハレルヤ、ハレルヤ!」と記され、
「私は本当に不熱心で愚かなクリスチャン、もう人のために何もできない。」と嘆きつつも「愛されて与えられた命、主に従って生きる、そういう残りの生涯としたい。」といつも語られていました。
92歳になられ施設に入られてからも訪問し交流を続けてきましたが「いよいよ余命も残り少ないと思っている。ただただ神様に委ねて祈っていきたい。これからの短い時に罪を赦してくださったイエス様の十字架をいかにしょっていくか、肉体のことはすべて取られ、残されているものは祈りだけ。これからのことは神様にお任せしたい。」と会うたびに言われていました。「主われを愛す」が大好きな讃美でしたのでよく一緒に歌いました。
「1,主われを愛す 主は強ければ われ弱くとも 恐れはあらじ
わが主イエス わが主イエス わが主イエス われを愛す
3,御国の門を 開きてわれを 招き給えり 勇みて昇らん」
伺ったときはこの讃美を共に歌い、祈りの後本当に主に在って満ち足りた喜びのご様子でした。不自由な生活の中でも不平不満を口にされることはありませんでした。
5月に召され、高槻で前夜式と葬儀式、徳島で納骨式が行われました。葬儀式は徳島聖書キリスト集会の吉村孝雄氏の司式により、徳島からも兄弟姉妹が参列して送ってくださいました。 実はこれは奇跡的なことでした。生前、無教会の式でしてほしいと私にも行くたびに依頼されていましたが、ご家族の状況から最後の頃は家族に迷惑かけたくない、息子に任せたいと半ば諦め言われていました。私自身もご家族と色々とお話しさせてもらっていましたがもう無理だろうと考えていました。でも結果的にはいよいよの時、ご家族から式を頼まれ姉妹を神様の御前で天に送ることができました。このことを通して、主が働かれたこと、姉妹の願いに応えて下さり祈りが聴かれたことを思いました。
私たちもこれから老年に向かいますます体の衰えを感じ、多くのものを取られていきます。孤独感に襲われることも出てくることと思います。それらを主の御旨と受け入れるということはとても難しいことです。何より霊魂がいつも目覚めていなければなりません。 最晩年の姉妹との交流を通し、いつも主に対し砕かれた魂を持ち、すべてを神様に委ねていく姿に励まされました。私たちはこの世の生が終わるまで様々な衣を着て生きていますが最後はすべてはぎ取られていく。最期の時、どのような状況の中にあっても魂の平安が自分の中に存在しているようにと祈り求め、そして最期まで主に委ね、「永遠の命」を信じ希望をもって歩んでいきたいと願います。
今回のコロナの厳しい現状の中にあって、世界中の人々が大きな不安、恐れを抱いています。しかし、私たちは神様の前に自分の罪深さをそれ以上に深刻な問題として感じているでしょうか、その罪のために人類の救いのために十字架についてくださったイエス様を見上げ、喜びを持って生活をしているのでしょうか。
第二テモテ3:1に「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。」そして4:7「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や義の栄冠を受けるばかりです。」とあります。また、「福音を恐れず証言せよ!」とも命じています。私たちもこのパウロの信仰の確信をこのような状態の時にこそ心の奥深くに持ち、いっそうみ言葉に立ち「御国が来ますように、御心が成りますように」と強く祈っていきたいと思います。この長い自粛の時、ふだん以上にみ言葉に聴く時が与えられていることは大きな恵みです。以上です。ありがとうございました。
土屋 聡(千葉)
1 わたしの信仰の証し
わたしは母百合子から信仰の種を蒔かれ、高校は独立学園に進み、鈴木弼美校長や桝本忠雄先生の信仰生活に触れて、キリスト教の信仰を持ちたいと思いました。が、信じることはなかなかできませんでした。信じられるようになったのは、ずっと後になってからです。そのようなわたしのキリスト教の信仰に関わって、「命について」、「キリストは生きておられる」、「信仰が与えられて」についての体験をお話しします
2 「命の本体について」
わたしは、人間の命には「肉体の命」と「霊の命」があると信じています。命について深く考えたのは、17歳の時に祖父の死を通してでした。母からの知らせを受けて、頭では祖父の死を受け止めなくてはと思いつつも、気持の上では元気だった祖父の姿が浮かび、死を受け止められない中で、生死を通して、人の命はどうなるのかを考えたのです。一瞬前まで命そのものだと思っていた肉体が、死とともにただの物体となってしまうからです。生死の前と後で肉体は組織も器官も整っていて全く変わらないのに、呼吸も心臓も止まり、生命活動を全く停止してしまいます。死の直前まで考えたり、感じたり、意識したりしていた自分―「命の本体」―は、どこへ行ってしまうのか、肉体と共に灰となって消えてしまうのだろうかということです。それはどうしても納得が出来ません。人間の肉体の中にある「意識」は、肉体からスーッと離れてしまう瞬間があり、それを死というのだろうと思いました。そして、「意識」こそが人間の「命の本体」で、肉体は死んでも「意識」は生きつづけると思いました。高校生のころに「意識」と捉えたものは、今は「霊」であり、人間には「肉体の命」と「霊の命」があると信じています。そして、「霊の命」の救いを伝えてくれるのがキリスト教だと信じています。
3 「キリストは生きておられる」
わたしは、今もキリストは生きておられると信じています。しかし、若いころに信じたいと思って聖書を読んだり話を聞いたりしても、遠くイスラエルの2000年も前の話で、わたしの問題として受け止めることは、なかなかできませんでした。
わたしが信じられるようになったのは、罪を犯すと罰が与えられる体験を通してでした。罪を犯すと必ず罰が待っている因果関係に、はじめのうちは、「おや?何か変だ?」と感じ、半信半疑でした。が、それが度重なると神様に見られているように思われるようになり、恐ろしさも感じてきました。そして、神様に見られていると確信したのは、罰が起こりえない状況の時でした。わたしはまだ神様に見られていることに半信半疑の心があったので、罰が起こりえない状況の中で、また罪を犯したのです。すると、罰は起こりえないと確信できた状況は変わり、わたしの罪に対してまた罰が与えられたのです。その時は、震えるほど恐ろしくなりました。神様を疑う高慢な気持は打ち砕かれました。そして、神様は罪深いわたしに罰を与えることで、今も生きておられることを気付かせてくださったのです。わたしは、信仰を誇ることが出来ない罪人です。罪人のわたしに、信仰を与えて下さり、神様に感謝しています。
4 「信仰が与えられてどうなったか」
わたしは、神様を信じられるようになってから大きく変わったのは、心が平安となったことです。
信仰が与えられる前のわたしは、人の顔色や評価をとても気にしていました。怒らせないように気を遣い、また、誉められるとうれしくなり、批判されると気持がくじけと、人の評価でわたしの気持ちは上がったり下がったりして、とても不安定でした。
しかし、神様を信じられるようになってからは、以前ほど人を恐ろしく感じなくなって、心が安定したと思います。信者にも困難なことや大変なことは起こりますが、自分に今出来ることを行い、あとは「神様のお任せします」とお祈りすれば良いのです。信仰が与えられてから、心は平安になりました。
土屋めぐみ(千葉)
私はクリスチャンホームに育ったので、何事についてもお祈りする事や家族で聖書を読むことは空気のように当たり前な事でした。父母は熱心な祈りによって生き方の重要な事を決めていました。
その祈りのことで、こども心に強く残っていることを一つお話しします。
父の仕事は新聞販売店業でした1965年頃、従業員は年に3回しか休みがとれなかったので、父は日曜夕刊の配達を廃止するように、新聞社に数年間訴えていたのです。けれども新聞社は全くそれに応えようとしませんでした。そこで父は許可を取る前に実行したのです。父と賛同してくれた販売店は、新聞社と読者に事情を充分に説明した上で、夕刊が本社から店に届いているにも係わらず、配達をやめ従業員を休ませたのでした。父としては本社から店をつぶされるかも知れない、販売部数が減るかも知れないという命がけでした。父はこのことが神様のみこころに適った事だろうか、と迷い「自分が今行おうとしている事がみこころならばこの日曜日の夕方に雨が降り、明日の朝、新聞配達をする時には、晴れるようにして下さい」と祈ったのです。父の思いの中に士師記6:36に書いてあるギデオンの祈りそのものがありました。そして父の祈りの通りになったのです。2ヶ月後にも同じ事を祈りました。その時にもその通りになりました。雨の降った日曜の夕方、父が興奮してとても嬉しそうに「雨が降ったよ」と私に話しかけてくれたことを思い出します。(その後の父の文章には「神を試してはならない」と書いてありました)子ども心に祈りは聴かれるという事が自然に染みこんでいました。
成長するにつれて、単純な信仰で良いのだろうかと考えたこともありましたが、神様は時に応じて課題を下さいました。いろいろありますが、4人目の子どもを妊娠した時のことをお話しします。私は出産するまで体調を崩して寝込んでいました。用意してもらった食事もお祈りしながらでないと喉を通らないような状態でした。一日中昼も夜もウトウトしていましたが、その合間に私の思いに浮かんでいたのは聖書の中の「イエス様の衣の裾にふれれば治ると考えた長血を患っていた女性」の事や「食卓からおちるパン屑を待っている子犬」の情景でした。その人達のように、自分は一番後ろから、そーっとイエス様や弟子達に近づいていく者だという思いでした。それまでは自分は何でも出来ると思い上がっていたけれど、実は神様とイエス様の前に堂々と立てるような自分ではないと云うことを思い知らされました。けれども同時にこんな自分でも神様やイエス様にすがる事が出来るし、すがっていなくては自分はやっていけない、と思わされました。
子ども達が成人し職場で困難に遭い、数年間も苦しい時を過ごしていた時です。初めはただただ不安が一杯でしたが、時間が経つにつれて、その中にあっても神様は楽しみや喜びを下さいました。感謝でした。でも私はとうとう我慢が出来なくて、「神様いつまでですか?」とつい心の中でつぶやきました。するとしばらくして状況が良い方向に変わったのです。本当に不思議なことでした。
「この家庭を清めて下さい」と家庭を持った時に祈ったことも神様は時間をかけて徐々に叶えて下さっています。
神様からのいろいろな課題は、神様から離れる事がないようにする為だとはっきりと気づかされた時に気持ちがすっきりしたことを覚えています。また、神様からの課題を、家族のみんなで一緒に祈って生活したことで、神様に依って繋がっている家族なんだなぁという思いを持つことが出来ています。
コリント信徒への手紙二1の10〜11「神はこれほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。
これからも救って下さるに違いないと私たちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助して下さい」
このパウロの言葉を読んで、自分にはそれほどの大きな死の危険はなかったけれど、神様はこれからも良きに働いて下さると思っています。
〇主日礼拝は、6月21日から8月2日まで、それまでのインターネットでの集会から、徳島市の徳島聖書キリスト集会場にて開催されてきましたが、最近全国的な感染確認者増加の波にあって、徳島県でも次々と感染確認者が増大し、さらに盆休みとなって東京や京阪神からの帰省者などによってさらに県内の感染者が増大する可能性が大きくなることが予想されますので、8月30日までは、主日礼拝は、インターネットのスカイプだけで行なうことになりました。
以下の集会は、スカイプだけで行なう集会と、主催者の家庭で行なうものとありますので、ご注意ください。
なお、初めてスカイプで加わりたいと希望の方は、左記の吉村孝雄まで、メール、または、電話で連絡ください。
なお、@〜Cは スカイプだけの集会です。申込は、数度 勝茂、貝出久美子、林 晴美の方々に申込ください。
@主日礼拝 毎日曜午前10時30分(二)
A夕拝 第一、第三、第四火曜日。夜7時30分から。
B北島集会…(第 2、第4の月曜日午後一時より)
C海陽集会…、 第二火曜日午前十時より)、
★以下の二つは、綱野宅での集会と、鈴木宅での集会をしますが、スカイプも併用します。
・天宝堂集会…徳島市応神町の綱野宅にて。毎月第2金曜日午後8時〜。スカイプ申込は、貝出久美子まで。
・小羊集会…徳島市南島田町の鈴木ハリ治療院での集会。毎月第一月曜午後一時〜。 スカイプ申込は、林 晴美まで。